聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

三経義疏中国撰述説は終わり(続)

2010年05月31日 | 三経義疏
 昨日書いたように、藤枝先生の三経義疏中国撰述説は成り立ちません。ただ、藤枝先生、および藤枝先生が主催した敦煌写本研究班の功績はきわめて大きなものです。

 その第一は、それまで一本釣りの「宝探し」のようなやり方でなされてきた敦煌写本研究を改め、『勝鬘経』の注釈断片すべてを精査し比較することにより、写本の紙質・様式・書体・注釈形式などの歴史的変化を明らかにし、写本やその断片の年代判定を行なう方法を確立したこと。第二は、それらの諸写本と現存する諸注釈を比較することにより、注釈というものがどれほど先行する注釈に依存しつつ書かれていくかを明らかにしたこと。第三は、鳩摩羅什の時代と天台宗・三論宗・地論宗などの大物が活動した隋代の中間の期間を埋める諸文献を敦煌文書の中に見いだし、思想の展開を追うことを可能にしたこと。そして、第四は、『勝鬘経義疏』と七~八割、内容が一致する注釈を発見して校訂テキストを作成し、『勝鬘経義疏』と比較したことです。これらはまさに、中国の仏教注釈の研究にとっても、三経義疏研究にとっても、画期的な業績でした。

  それまで、三経義疏研究者のほとんどは熱心な太子礼讃者であったため、三経義疏中の解釈が現存する中国の他の注釈と違う箇所については、「これは、太子様ならでは深遠なご解釈であって……」という方向に持っていきがちでした。ところが、藤枝先生が敦煌のE本と称される写本の発見・研究によって、そうした箇所のうちのかなりの部分が既に敦煌の写本にも見えていることが知られたのです。

  ただ、そこで藤枝先生はやりすぎました。反骨的で断言癖があった(と断言しても間違いないのではないかと思われないこともなくもない)藤枝先生は、太子礼讃派の研究に反発するあまり、また敦煌写本の意義を強調するあまり、上宮王撰とされる『勝鬘経義疏』など「できのよくない」節略本であって、「本義」と呼ばれた種本の特徴を抹殺して「凡庸な注釈書に成り下った」ものだ、といった表現をしがちだったのです。礼讃ではない客観的な研究をしようとして、実態以上に低い評価をしてしまったと言えるでしょう。

  藤枝先生は『勝鬘経義疏』の思想的特色や漢文の語法などについてはあまり注意せず、漢文がおかしなところを目にしても、遣隋使が持ち帰った本が日本で書写され、木版として刊行されていく過程で生じたものと見て、深く追求することはありませんでした。「この文献はこうした性格のものだ」と思いこんでしまうと、そうでない箇所は見えなくなり、たとえ目に入っても気にならなくなるのです。恐いですね。

  『勝鬘経義疏』の倭習が、日本での書写の段階で生じたものでないことは、三経義疏すべてに、あるいは『法華義疏』か『維摩経義疏』のどちらかに『勝鬘経義疏』と同じ倭習の表現があることによって証明されます。三経義疏が中国撰述であり、それを書写する段階で三部ともすべて同じ箇所で同じように日本風な誤写をする、ということは考えられません。しかも、三経義疏の倭習は、森博達『日本書紀の謎』が列挙している『日本書紀』β群の倭習と共通するものが多いのです。ただし、似た性格の倭習が見えるとはいえ、『勝鬘経義疏』は倭習満載の「憲法十七条」とは文体が異なります。ということは、どういうことを意味するのか……。

三経義疏中国撰述説は終わり

2010年05月30日 | 三経義疏

 藤枝晃先生は、1975年に刊行された『聖徳太子集』(日本思想大系2、岩波書店)中の『勝鬘経義疏』の解説で、敦煌文書中の写本との類似を強調し、『勝鬘経義疏』は、手本となった中国の注釈書の「できのよくない」節略本、「凡庸な注釈書」であって、遣隋使が持ち帰ったものだと主張されました。このため、仏教学の方面では大論争が巻き起こり、現在も決着がついていません。藤枝先生は、以後も講義録である『敦煌学とその周辺』(ブレーンセンター、1999年)などで、同じ主張を展開されたせいか、日本史学の方面では、藤枝説を支持する研究者が多いようです。

 藤枝先生は敦煌写本研究の権威であって、私も敦煌出土の地論宗写本を研究した際には先生の研究を利用させていただき、大変感謝していますが、三経義疏が中国製だというのは誤りです。というのは、いわゆる倭習(和習)が多く、中国人なら書くはずがない表現がたくさん有るからです。

 この点については、早くから花山信勝先生が主張されていましたが、花山先生は強烈な聖徳太子礼讃者であったうえ、倭習としてあげた例が少なく、論証が十分でなかったため、倭習説の部分については仏教学界内部でもそれほど評価されていません。そこで、私は、近藤泰弘氏や師茂樹氏など漢字文献情報処理研究会の仲間と一緒に開発したNGSMというコンピュータ処理の方法を使って分析したところ、三経義疏は同じ語法、それも三経義疏にしか見られない語法を多く用いている非常に似通った注釈群であり、倭習がきわめて多いことが明らかになりました。(三経義疏の共通性については、花山信勝・金治勇などの研究者がすぐれた研究をしていますが、表現が共通していることを指摘することが主でした。ある表現が他の文献にはまったく出てこないことが言えるようになったのは、筆者も最初期から関わってきた大蔵経電子化のおかげです)

  これについては、2008年の日本印度学仏教学会の学術大会で発表しました。大会では、A4で10数枚にわたる用例の資料を配付したのですが、同年12月に刊行された拙論「三経義疏の語法」では、紙数の関係でごく一部を紹介するにとどまりました。以後も、用例は増え続けているため、二回に分けて所属先の論集と紀要に発表する予定です。ここでは、その代表的な例をご紹介します。

  まず、三経義疏の冒頭部分のうち、「経」というのは不変なものだと説明した箇所を見てください。

『勝鬘経義疏』
「経者、訓法訓常。聖人之教、雖復時移易俗、不能改其是非。故云常。」

『法華義疏』
「経義者、訓法訓常。聖人之教、雖復時移改俗、前主後賢不能改其是非。故称常。」

『維摩経義疏』
「経者、訓法訓常。聖人之教、雖復時移易俗、先聖後賢不能改其是非。故称常。」

 一見して分かるように、非常に似ていますね。このうち、「雖復時移易俗(また時移り俗を易[か]へると雖も)」という表現と、「不能改其是非(其の是非を改むるあたはず)」という表現は、現存する中国・朝鮮の文献には見えず、三経義疏に出るだけです。似たような言い方はもちろん中国古典にあり、中国仏教文献も用いているのですが、上記の表現が三経義疏だけとなった理由は、簡単です。 「時代が移り、風俗が変わっても」と言いたいなら、「時移俗易(時移り、俗易はる)」とすべきですし、「(王たちがそれぞれの)時代の風俗をかえても」という文にしたいなら、「移風易俗(風を移し、俗を易へる)」などとすべきなのに、この二つを合わせて「時代が移り、風俗を変えても」という文にしてしまっているからです。

 実際、中国の代表的な『維摩経』注釈であって『維摩経義疏』もしばしば引用している『注維摩』では、「時移俗易」となっていますし、天台大師の『摩訶止観』その他、中国の複数の文献では、「移風易俗」となっています。つまり、そうした二つの言い方を中途半端に合わせてしまったため、三経義疏独自の表現となってしまったということです。中国の知識人は、このようなバランスの悪い文章は書きません。 三経義疏は、梁代の成実師たちが書いた種本と数少ない参考文献を要約しつつ自分の解釈を加えていったものであり、その際、漢文としてはおかしい表現が混じってしまっているのです。

  三経義疏では、こうした例はいくらでもあります。藤枝先生は、敦煌写本研究を一つの学問分野として確立された大学者でしたが、写本や版本に関する書誌学の専門家であって仏教学者ではなく、また漢文の語法の研究者でもありませんでしたので、こうした点を見逃してきたのです。三経義疏中国撰述説は終わりです。ただ、これは、三経義疏は中国人が書いたものではない、ということを示すだけであって、それ以上でもそれ以下でもありません。三経義疏は朝鮮成立なのか、朝鮮渡来僧が日本で書いたのか、聖徳太子がそれに少しだけ自分の意見を加えたのか、聖徳太子が自分で書いたのか、別な日本人(たち)が書いたのか、といった問題は、また別な話です。

 なお、付け加えておきますが、三経義疏はかなり特殊な注釈です。七割方は種本の要約であり、中国第一流の注釈に比べれば、素朴で素人くさいものですが、儒教的な立場から独自な解釈がされている箇所が少々あり、単なる要約ではありません。また、種本を抄出しつつ注釈を書いていくのは、中国も同様であり、三論宗の確立者である吉蔵の注釈にも、半分くらいは種本そのままという著作が見られます。


秘事口伝としての『上宮聖徳法王帝説』と『上宮記』

2010年05月28日 | 論文・研究書紹介

 24日に紹介した、武田佐知子編『太子信仰と天神信仰--信仰と表現の位相--』(思文閣、2010年5月)所収の諸論文のうち、古い時代に関わるのは、下鶴隆「聖徳太子伝の史料的性格--宗教的テキストの生成・流伝形態--」です。  

 下鶴論文では、「雑記帳的」と評される『法王帝説』の内容は、それぞれの項目が秘事・口伝として伝承されてきたことを指摘します。つまり、「個々の所伝が、諸太子伝から抄写注文を媒介に切り出され、時には系統の組み替えをともないながら、流伝して」いったというのです。その際は、当然ながら、誤写、簡略化、改編などがともなうことになります。そのような口伝を自分なりに構成し直したのが『法王帝説』であり、顕真の『聖徳太子伝私記』なのだ、と下鶴氏は説きます。

 そして氏は、『上宮記』も秘事口伝として伝承されてきたことを指摘したうえで、上宮王の伝記だから『上宮記』とされたのではないと主張します。つまり、逸文から知られるように、『上宮記』は神代や継体天皇の系譜に関する記述を含むものであり、聖徳太子一族の詳細な系譜を説いているのは「上宮記下巻注」であって「後人」の手による「注」の部分であるため、『上宮記』三巻は『古事記』や『日本書紀』などのような史書であったと考えるべきであり、上宮王の「御作」「御筆」とされたからこそ『上宮記』と呼ばれた可能性が高いというのです。その尊い上宮王真撰本に貴重な情報を記す後人の注が加えられたという理由により、『上宮記』の本文を抄出した部分も、また注の部分も尊重されてそれぞれ秘事・口伝として流通し、新たな情報が書き加えられていった、というわけです。

  そうなると、そうした史書が上宮王撰とされて「上宮記」と呼ばれるようになったのはいつ頃からか、三巻となったのはいつ頃からか、秘伝とされるようになったのはいつ頃からなのか、といった問題が出てきますね。


「天寿国繍帳」の制作時期

2010年05月27日 | 論文・研究書紹介
 24日は百済の舎利銘文に見える「我百済王后」の語に触れ、昨日は「天寿国繍帳」に触れたので、関連する最新の論文を紹介しておきます。

近藤有宜「天寿国繍帳の制作時期について--繍帳銘文による検討--」
(『美術史研究』第47冊、2009年12月)

 近藤氏は、古い要素が含まれると言われる銘文の前半部分に、欽明天皇が蘇我稲目の娘である堅塩媛を「大后」とした、とある点に注目します。『続日本紀』によれば、天平元年に藤原光明子を皇后とするに当たって官人たちを内裏に集め、皇后として光明子がいかにふさわしいか、また「臣下の女性の立后はこれが初例ではなく、仁徳天皇も葛城襲津彦の娘である磐之媛を皇后としていたのだ」ということを強調する聖武天皇の敕を舎人親王が宣するのですが、こうした苦しい釈明をしなければならないのは、臣下の女性の立后が異例であったためにほかなりません。

 そうでありながら、繍帳の銘文が蘇我稲目の娘を「大后」と称しているのは、『日本書紀』推古二十年二月に「皇太夫人堅塩媛」を改葬して欽明天皇陵である桧隈大陵に合葬した際の大がかりな儀礼が示すように、その堅塩媛と欽明天皇の間に生まれた蘇我系の天皇、すなわち推古天皇を支えた蘇我馬子が全盛を誇っていた時期なればこそだ、というのが近藤氏の推測です。つまり、欽明紀によれば「妃」の一人でしかなかった堅塩媛は、蘇我全盛の時期になって皇后位を追贈されたのだというのです。

 蘇我本宗家が打倒された後は、『日本書紀』が「皇后」と記している石姫と欽明天皇との間に生まれた敏達天皇の系統の皇子たちが次々に天皇となっている以上、堅塩媛を「大后」と称する「天寿国繍帳」の銘文は、それ以前に書かれたことになります。馬子が、推古三十二年に、蘇我氏の本拠地であったからという理由により葛城郡の賜与を推古天皇に求めたのは、まさにその葛城氏の正当な後裔であることを主張するためであったと、近藤氏は説いています。蘇我本宗家が倒されてから、また堅塩媛の位置が変えられ、石姫が「皇后」とされるようになったのだろうというのが、近藤氏の推測です。

 近藤氏は、「天寿国繍帳」を光明皇后の命による作とする大山誠一氏説と、古い要素を残す原本の繍帳を改めて天武朝から持統朝頃にかけて成立したとする東野治之氏の説を批判していますが、金沢英之、瀬間正之、野見山由佳、吉田一彦らの諸氏による後代成立説についても、今後検討していく予定である由。きちんとした論争がなされて研究が進むことを期待したいものです。

 なお、『日本書紀』の早い時期における「皇后」などの呼称は、その当時の実際の呼び方ではないことは言うまでもありません。私自身は、「天寿国繍帳」の成立時期については、判断保留中です。

【付記:2021年2月18日】
現在では、銘文にある通り、推古朝後期と見て良いと考えています。

「天寿国繍帳」多至波奈大女郎=架空人物説の創唱者

2010年05月26日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 山尾幸久先生は、『聖徳太子の実像と幻像』所載の論考では、大山誠一氏の説を意義有る問題提起として高く評価しつつ、個々の主張についてはかなり厳しく批判されています。とりわけ、「天寿国繍帳」は光明皇后の「情念の所産」であって多至波奈大女郎は架空の人物だという説については、「驚天動地である」として疑問を列挙されました。むろん、大山氏の新説と見ての対応です。
 
 実際、大山氏は、複数の著書や論文で光明皇后「情念の所産」説を述べており、聖徳太子の薨日を二月五日とする『日本書紀』に反して、二月二十二日説が定着したのも、天平八年のこの日に光明皇后が道慈らを招いて大がかりな『法華経』講読法会を行ない、後の聖徳太子御忌(聖霊会)の先駆をなしたためとしていますが、先行学説があるとは書いていません。

 しかし、藪田嘉一郎氏の論文、「聖徳太子薨日信仰の形成」では、「天寿国繍帳」を作らせたのは光明皇后であると断言しています。そして、大山氏と同様に、法隆寺金堂の釈迦三尊像銘も聖武朝の成立とし、銘文に述べられているのは「太子の王后の心情によそえた光明皇后のそれであると思われる」と明言し、多至波奈(橘)大女郎には光明皇后の母である「橘犬養宿禰三千代の連想もあった」と推測しています。この他にも、大山説と共通する点がいくつか見えています。

 大山氏は、薨日を二十二日にしたのは長屋王を謀略で滅ぼした二十月十二日を考慮した光明皇后の作為とするのに対し、藪田氏は二月二十二日を「真の薨日」とするなど、いくつかの点で違いがあり、大山氏は藪田氏の論文は読んでいないようです。ただ、藪田論文は、目につきにくい雑誌にわかりにくい題名で掲載されていたわけではなく、「聖徳太子薨日信仰の形成」というそのものずばりの題名で、この分野の中心学術誌であった『聖徳太子研究』誌の第6号(昭和46年11月)に掲載されています。

 太子の薨日について議論するのであれば、当然読んでおくべきでした。また、偶然、考えが一致しただけであって、藪田論文に後になって気づいたとしても、自分の主張中の重要な論点について似た説を述べている先行論文があれば、必ず触れるべきでしょう。

信じがたい伝承の再評価

2010年05月25日 | 論文・研究書紹介

 武田佐知子編『太子信仰と天神信仰--信仰と表現の位相--』(思文閣、2010年5月、352頁、6500円)がこのほど刊行され、執筆者の一人である松本真輔さんが送ってくれました。有り難うございます。

 松本さんの論文「拡散する聖徳太子伝承--近江に広がる聖徳太子寺院建立伝承と守屋合戦譚の展開--」は、『日本書紀』や『上宮聖徳法皇帝説』などでは近江との関係はなく、10世紀頃成立の『聖徳太子伝暦』でも、鞍作鳥に対して太子が「近江坂田郡水田二十町」を与えたといった程度の記述しかないにもかかわらず、後になると、太子が近江で四天王寺の瓦を作らせたとか、近江に来て寺院を建立したとか、はては守屋との合戦に敗れて近江まで逃げのび、土地の民が掘ってくれた穴に隠れた、といったとんでもない話まで出てくるほど伝承が広がっていく過程を検証したものです。

 もちろん、ありえない伝承ばかりなのですが、聖徳太子を研究するに当たって考えなければならないことは、伝承というのは、ある人物が亡くなってから発生して広がるとは限らないということです。古代エジプトの王を考えてみるまでもなく、権力の頂点に立つ者や、その座に登ろうとする者、あるいはその周辺の者たちは、神格化を試みるのが常でした。というより、「神格化される以前の、一人の人間としての誰々」といったとらえ方自体、近代的なものであることに注意すべきでしょう。治世者階級の上層で生まれ、斑鳩宮を建て、最新の壁画で飾られた斑鳩寺を建てるような人物であれば、生きているうちから様々な奇跡譚が語られても不思議ではありません。中国の仏教文献を見ても、熱心な仏教信者には、生前から霊験譚がつきものです。

 私は仏教史学会の聖徳太子シンポジウムでは、梁の昭明太子に対して、光宅寺法雲が「殿下は生まれながらの知恵と優れた見識を持っておられ、議論では論じ方が素晴らしいため、天の神々も讃歎して天の華を雨ふらすほどでございます」と賞賛する手紙を送っていたことに触れました。実際、昭明太子はなかなかの秀才でしたが、そうした貴人に対しては、上のような表現をするのが礼儀であり、また古代には実際にそうしたとらえ方をする場合も多かったのです。

 今回の松本さんの論文で紹介されている諸伝承は、むろん史実ではありませんが、『日本書紀』や古い時期の太子伝承のいくつかについては、上記のような視点から検討し直さなければならないと考えています。あと、漢文のレトリックという問題もありますね。

2010年6月12日追記: 太子伝と近江国との関係については、松本さんの論文を要約して上記のように書きましたが、『日本書紀』の推古十四年五月条では、推古天皇が鞍作鳥の功績を賞した箇所に「給近江国坂田郡水田二十町焉。鳥以此田、為作金剛寺。是今謂南淵坂田尼寺。」という記述が有りますので、同論文が「太子の伝記を伝える古代文献、例えば『日本書紀』や『上宮聖徳法皇帝説』には、太子と近江の関係は出てこない」(134頁)と述べるのは正しくありません。また、太子伝ではないものの、「法起寺塔露盤銘」にも太子が「大倭国田十二町、近江国田三十町」の施入を遺言したとありますので、簡単な記述とはいえ関係を説く伝承は早い時期からあったことになります。

2010年6月15日追記: 太子伝以外では、「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」末尾に記された寺領のうち、園地に「近江国栗太郡物部郷四段」、庄倉に「近江国栗太郡物部郷一処」とあり、物部氏の旧領地が含まれていることが着目されます。


百済の発掘資料と『維摩経義疏』との表現の一致

2010年05月24日 | 論文・研究書紹介
 『上代文学』104号(2010年4月)所載の瀬間正之「新出百済仏教関係資料の再照明」が報告している最近の発掘資料のうち、2009年の弥勒寺西塔の解体工事に際して発見された「金製舎利奉安記」は、非常に興味深いものです。

 この奉安記では、己亥年(639)正月廿九日に舎利を奉安した功徳によって「大王陛下」が長寿を保ち、「上弘正法、下化蒼生」されるよう願っていますが、「上弘……、下化蒼生」という表現は、現存する文献では三経義疏中の『維摩経義疏』に見えるだけであることは、瀬間さんにお伝えした通りです。これは、瀬間さんも書いておられるように、梁の光宅寺法雲の『法華義記』に基づくものですね。江南の成実師→百済→三経義疏、という流れだと思います。

 瀬間さんはまた、この願文に見える「我百済王后」という表現は、湯岡温湯碑文の「我法王大王」、天寿国繍帳銘の「我大王」など、いわゆる「推古朝遺文」の用例と共通することを指摘されています。「推古朝遺文」については、扱いに注意しなければならない文献群であることは確かですが、いつ書かれたによせ、朝鮮半島からの渡来系氏族や渡来僧、とりわけ百済系の人々の関与を考慮しなければならないことは確実であり、それは三経義疏についても同様です。

 三経義疏については、きちんと読まないで、あるいは、読むにしても漢文の原文ではなく、花山信勝先生の思い入れの強い訓読文(かなり問題有り)をざっと眺めただけであれこれ議論する人が多いのは、困ったものです。