三経義疏については、読まずに「~のはずがない」「~に決まっている」などと発言する人がけっこういるのですが、このたび、仏教を含めた宗教関連の新聞の老舗かつ最大手である『中外日報』に依頼され、その「論」のコーナーに三経義疏研究の最新の研究状況を寄稿しました。
石井公成「三経義疏の研究状況」
(『中外日報』2021年4月21日号)
です(後に公開されたオンライン版は、こちら)。
三経義疏については、戦前に早稲田の津田左右吉が疑い、これに反発する形で東大の花山信勝が太子撰を立証する精密な『法華義疏』研究を刊行したものの、戦後に広島大学の小倉豊文が正倉院の写経記録から見て成立の遅さを推定し、議論となりました。また、津田の弟子である早大の福井康順が、『法華義疏』と『勝鬘経義疏』はともかく、『維摩経義疏』だけは他と形式が違っているうえ、太子より年下の唐の文人の文を引用しているため、成立は太子以後と論じ、論争を激化させました。
そうした状況にあって新聞でも報道され、学界に衝撃を与えたのは、藤枝晃がひきいて敦煌写本のうちの『勝鬘経』の注釈群を研究していた京大人文研の敦煌班が、『勝鬘経義疏』と7割程度一致する写本を発見したことです。世界的な書誌学者であった藤枝氏は、後に岩波の思想大系の『聖徳太子』において、『勝鬘経義疏』は中国北地の二流の簡略本であり、遣隋使がもたらしたその注釈を太子が講経の場で読み上げただけだと説いたため、大論争となりました。
日本史学界では、井上光貞などを除いては三経義疏を実際に読んでいた人は少なかったこともあって、藤枝説が主流となりましたが、仏教学界では反対説がほとんどでした。
様々な反論がなされ検討が加えられた結果、『法華義疏』が梁の三大法師の一人である光宅寺法雲の『法華義疏』を「本義」としていて6割程度が重なっているのと同様、『勝鬘経義疏』も『維摩経義疏』も三大法師である開善寺智蔵と荘厳寺僧旻の注釈を元としているらしいと推測されるようになってきました。
そこに乗り込んできたのが私です。私が、漢字文献情報処理研究会の仲間たちで開発したNGSMというシステムを用い(やり方は、こちら。論文については、このブログの作者の関連論文コーナーにリンクが貼ってあります)、三経義疏は用語と語法がきわめて似ていること、しかも、森博達さんが『日本書紀』について指摘したような和習が目立つことを論証しました(このブログでも、藤枝説は成り立たないことを紹介しました。こちらやこちら)。
その結果、日本史学界でも中国成立説は消えましたが、朝鮮成立論者もわずかに残ったうえ、三経義疏の内容研究はとまってしまいました。石井説に反論するにせよ補強するにせよ、新しい発見をするにはパソコン処理を用いて多くの例を示さねばならない時代になったものの、文系研究者はそうした作業は苦手だったからというのも一因でしょう。
そのような状態のまま10年ほどたちましたが、最近になって私が発見したのが、「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』の一致点の多さです。『日本書紀』によれば、推古12年の春に皇太子が「憲法十七条」を作り、推古14年に皇太子が推古天皇の請によって『勝鬘経』を講義したと記されています。
『勝鬘経義疏』がその講経の時の台本であったか、講義時のメモに基づいて後に編纂したものかは不明ですが、「憲法十七条」と関係があると見るのが自然でしょう。ともに真作であれば両者に共通点が多いのは当然のことですし、偽作であれば、どちらも同じ人(たち)が偽作したことになります。
「中外日報」の拙文は、これらの点について簡単に述べたにとどまります。詳細な検討や、重要であってそちらにはまだ書いていない発見などについては、10月か11月に刊行される『駒澤大学仏教学部論集』に最終講義代わりに掲載する予定です。
戦後の古代史学は、聖徳太子の事績と大化の改新を疑うことによって進展し、「聖徳太子いなかった説」まで出るに至ったのですが、太子が島大臣(馬子)とともに天下の政治を補弼し、三宝を興隆したとする『法王帝説』の記述はかなり信用できるということになり、古代史研究は「振り出しに戻る」ことになるかもしれません。実際、そうした方向の論文が出始めていますし(たとえば、こちら)。
なお、関連する「憲法十七条」については、本を出すことになりました。「憲法十七条」が収録されている『法王帝説』については、沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉『上宮聖徳法王帝説ー注釈と研究』(吉川弘文館、2005年)にすぐれた成果が見られますが、仏教学者が加わっていないため、仏教関連の語の注釈にはやや難があります。
ただ、佐藤信氏が「厩戸王とその生存時代においては、蘇我氏との関係が密接・良好であった」(148頁)と説いている箇所などは重要な点です。少なくとも、太子の晩年以外はそうであったことは確かですね。私は山背大兄と舒明天皇の皇位継承争いや乙巳の変などは、強大となった蘇我氏内部の分裂抗争と考えています。
むろん、『法王帝説』が仏教の師としては高句麗の慧慈のみをあげて太子の学問の深さを強調している箇所などは、誇張であって後代の要素が入っていますし(最初は百済の僧が指導したはずです)、太子が七寺を建てたなどという部分は、太子の没後に「太子の奉為(おんため)」に建てられた寺を含むのでしょうが。
いずれにせよ、太子研究にあっては、基礎資料を、典拠や語法に注意しつつ正確に読み解くことが第一の要件です。
【付記:2021年5月9日】
「中外日報」掲載の論文では、『勝鬘経義疏』が梁の三大法師の1人である開善寺智蔵の注釈との共通性に触れました。三経義疏が三大法師の諸説と一致することは確かですが、『勝鬘経義疏』については三大法師である僧旻の説との類似を最初にあげるべきでした。この点については、秋に出る論文で訂正しておきます。
石井公成「三経義疏の研究状況」
(『中外日報』2021年4月21日号)
です(後に公開されたオンライン版は、こちら)。
三経義疏については、戦前に早稲田の津田左右吉が疑い、これに反発する形で東大の花山信勝が太子撰を立証する精密な『法華義疏』研究を刊行したものの、戦後に広島大学の小倉豊文が正倉院の写経記録から見て成立の遅さを推定し、議論となりました。また、津田の弟子である早大の福井康順が、『法華義疏』と『勝鬘経義疏』はともかく、『維摩経義疏』だけは他と形式が違っているうえ、太子より年下の唐の文人の文を引用しているため、成立は太子以後と論じ、論争を激化させました。
そうした状況にあって新聞でも報道され、学界に衝撃を与えたのは、藤枝晃がひきいて敦煌写本のうちの『勝鬘経』の注釈群を研究していた京大人文研の敦煌班が、『勝鬘経義疏』と7割程度一致する写本を発見したことです。世界的な書誌学者であった藤枝氏は、後に岩波の思想大系の『聖徳太子』において、『勝鬘経義疏』は中国北地の二流の簡略本であり、遣隋使がもたらしたその注釈を太子が講経の場で読み上げただけだと説いたため、大論争となりました。
日本史学界では、井上光貞などを除いては三経義疏を実際に読んでいた人は少なかったこともあって、藤枝説が主流となりましたが、仏教学界では反対説がほとんどでした。
様々な反論がなされ検討が加えられた結果、『法華義疏』が梁の三大法師の一人である光宅寺法雲の『法華義疏』を「本義」としていて6割程度が重なっているのと同様、『勝鬘経義疏』も『維摩経義疏』も三大法師である開善寺智蔵と荘厳寺僧旻の注釈を元としているらしいと推測されるようになってきました。
そこに乗り込んできたのが私です。私が、漢字文献情報処理研究会の仲間たちで開発したNGSMというシステムを用い(やり方は、こちら。論文については、このブログの作者の関連論文コーナーにリンクが貼ってあります)、三経義疏は用語と語法がきわめて似ていること、しかも、森博達さんが『日本書紀』について指摘したような和習が目立つことを論証しました(このブログでも、藤枝説は成り立たないことを紹介しました。こちらやこちら)。
その結果、日本史学界でも中国成立説は消えましたが、朝鮮成立論者もわずかに残ったうえ、三経義疏の内容研究はとまってしまいました。石井説に反論するにせよ補強するにせよ、新しい発見をするにはパソコン処理を用いて多くの例を示さねばならない時代になったものの、文系研究者はそうした作業は苦手だったからというのも一因でしょう。
そのような状態のまま10年ほどたちましたが、最近になって私が発見したのが、「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』の一致点の多さです。『日本書紀』によれば、推古12年の春に皇太子が「憲法十七条」を作り、推古14年に皇太子が推古天皇の請によって『勝鬘経』を講義したと記されています。
『勝鬘経義疏』がその講経の時の台本であったか、講義時のメモに基づいて後に編纂したものかは不明ですが、「憲法十七条」と関係があると見るのが自然でしょう。ともに真作であれば両者に共通点が多いのは当然のことですし、偽作であれば、どちらも同じ人(たち)が偽作したことになります。
「中外日報」の拙文は、これらの点について簡単に述べたにとどまります。詳細な検討や、重要であってそちらにはまだ書いていない発見などについては、10月か11月に刊行される『駒澤大学仏教学部論集』に最終講義代わりに掲載する予定です。
戦後の古代史学は、聖徳太子の事績と大化の改新を疑うことによって進展し、「聖徳太子いなかった説」まで出るに至ったのですが、太子が島大臣(馬子)とともに天下の政治を補弼し、三宝を興隆したとする『法王帝説』の記述はかなり信用できるということになり、古代史研究は「振り出しに戻る」ことになるかもしれません。実際、そうした方向の論文が出始めていますし(たとえば、こちら)。
なお、関連する「憲法十七条」については、本を出すことになりました。「憲法十七条」が収録されている『法王帝説』については、沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉『上宮聖徳法王帝説ー注釈と研究』(吉川弘文館、2005年)にすぐれた成果が見られますが、仏教学者が加わっていないため、仏教関連の語の注釈にはやや難があります。
ただ、佐藤信氏が「厩戸王とその生存時代においては、蘇我氏との関係が密接・良好であった」(148頁)と説いている箇所などは重要な点です。少なくとも、太子の晩年以外はそうであったことは確かですね。私は山背大兄と舒明天皇の皇位継承争いや乙巳の変などは、強大となった蘇我氏内部の分裂抗争と考えています。
むろん、『法王帝説』が仏教の師としては高句麗の慧慈のみをあげて太子の学問の深さを強調している箇所などは、誇張であって後代の要素が入っていますし(最初は百済の僧が指導したはずです)、太子が七寺を建てたなどという部分は、太子の没後に「太子の奉為(おんため)」に建てられた寺を含むのでしょうが。
いずれにせよ、太子研究にあっては、基礎資料を、典拠や語法に注意しつつ正確に読み解くことが第一の要件です。
【付記:2021年5月9日】
「中外日報」掲載の論文では、『勝鬘経義疏』が梁の三大法師の1人である開善寺智蔵の注釈との共通性に触れました。三経義疏が三大法師の諸説と一致することは確かですが、『勝鬘経義疏』については三大法師である僧旻の説との類似を最初にあげるべきでした。この点については、秋に出る論文で訂正しておきます。