聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

三経義疏に関する最新の研究状況を「中外日報」紙に寄稿

2021年04月30日 | 三経義疏
 三経義疏については、読まずに「~のはずがない」「~に決まっている」などと発言する人がけっこういるのですが、このたび、仏教を含めた宗教関連の新聞の老舗かつ最大手である『中外日報』に依頼され、その「論」のコーナーに三経義疏研究の最新の研究状況を寄稿しました。

石井公成「三経義疏の研究状況」
(『中外日報』2021年4月21日号)

です(後に公開されたオンライン版は、こちら)。

 三経義疏については、戦前に早稲田の津田左右吉が疑い、これに反発する形で東大の花山信勝が太子撰を立証する精密な『法華義疏』研究を刊行したものの、戦後に広島大学の小倉豊文が正倉院の写経記録から見て成立の遅さを推定し、議論となりました。また、津田の弟子である早大の福井康順が、『法華義疏』と『勝鬘経義疏』はともかく、『維摩経義疏』だけは他と形式が違っているうえ、太子より年下の唐の文人の文を引用しているため、成立は太子以後と論じ、論争を激化させました。

 そうした状況にあって新聞でも報道され、学界に衝撃を与えたのは、藤枝晃がひきいて敦煌写本のうちの『勝鬘経』の注釈群を研究していた京大人文研の敦煌班が、『勝鬘経義疏』と7割程度一致する写本を発見したことです。世界的な書誌学者であった藤枝氏は、後に岩波の思想大系の『聖徳太子』において、『勝鬘経義疏』は中国北地の二流の簡略本であり、遣隋使がもたらしたその注釈を太子が講経の場で読み上げただけだと説いたため、大論争となりました。

 日本史学界では、井上光貞などを除いては三経義疏を実際に読んでいた人は少なかったこともあって、藤枝説が主流となりましたが、仏教学界では反対説がほとんどでした。

 様々な反論がなされ検討が加えられた結果、『法華義疏』が梁の三大法師の一人である光宅寺法雲の『法華義疏』を「本義」としていて6割程度が重なっているのと同様、『勝鬘経義疏』も『維摩経義疏』も三大法師である開善寺智蔵と荘厳寺僧旻の注釈を元としているらしいと推測されるようになってきました。

 そこに乗り込んできたのが私です。私が、漢字文献情報処理研究会の仲間たちで開発したNGSMというシステムを用い(やり方は、こちら。論文については、このブログの作者の関連論文コーナーにリンクが貼ってあります)、三経義疏は用語と語法がきわめて似ていること、しかも、森博達さんが『日本書紀』について指摘したような和習が目立つことを論証しました(このブログでも、藤枝説は成り立たないことを紹介しました。こちらこちら)。

 その結果、日本史学界でも中国成立説は消えましたが、朝鮮成立論者もわずかに残ったうえ、三経義疏の内容研究はとまってしまいました。石井説に反論するにせよ補強するにせよ、新しい発見をするにはパソコン処理を用いて多くの例を示さねばならない時代になったものの、文系研究者はそうした作業は苦手だったからというのも一因でしょう。

 そのような状態のまま10年ほどたちましたが、最近になって私が発見したのが、「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』の一致点の多さです。『日本書紀』によれば、推古12年の春に皇太子が「憲法十七条」を作り、推古14年に皇太子が推古天皇の請によって『勝鬘経』を講義したと記されています。

 『勝鬘経義疏』がその講経の時の台本であったか、講義時のメモに基づいて後に編纂したものかは不明ですが、「憲法十七条」と関係があると見るのが自然でしょう。ともに真作であれば両者に共通点が多いのは当然のことですし、偽作であれば、どちらも同じ人(たち)が偽作したことになります。

 「中外日報」の拙文は、これらの点について簡単に述べたにとどまります。詳細な検討や、重要であってそちらにはまだ書いていない発見などについては、10月か11月に刊行される『駒澤大学仏教学部論集』に最終講義代わりに掲載する予定です。

 戦後の古代史学は、聖徳太子の事績と大化の改新を疑うことによって進展し、「聖徳太子いなかった説」まで出るに至ったのですが、太子が島大臣(馬子)とともに天下の政治を補弼し、三宝を興隆したとする『法王帝説』の記述はかなり信用できるということになり、古代史研究は「振り出しに戻る」ことになるかもしれません。実際、そうした方向の論文が出始めていますし(たとえば、こちら)。

 なお、関連する「憲法十七条」については、本を出すことになりました。「憲法十七条」が収録されている『法王帝説』については、沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉『上宮聖徳法王帝説ー注釈と研究』(吉川弘文館、2005年)にすぐれた成果が見られますが、仏教学者が加わっていないため、仏教関連の語の注釈にはやや難があります。

 ただ、佐藤信氏が「厩戸王とその生存時代においては、蘇我氏との関係が密接・良好であった」(148頁)と説いている箇所などは重要な点です。少なくとも、太子の晩年以外はそうであったことは確かですね。私は山背大兄と舒明天皇の皇位継承争いや乙巳の変などは、強大となった蘇我氏内部の分裂抗争と考えています。

 むろん、『法王帝説』が仏教の師としては高句麗の慧慈のみをあげて太子の学問の深さを強調している箇所などは、誇張であって後代の要素が入っていますし(最初は百済の僧が指導したはずです)、太子が七寺を建てたなどという部分は、太子の没後に「太子の奉為(おんため)」に建てられた寺を含むのでしょうが。 

 いずれにせよ、太子研究にあっては、基礎資料を、典拠や語法に注意しつつ正確に読み解くことが第一の要件です。

【付記:2021年5月9日】
「中外日報」掲載の論文では、『勝鬘経義疏』が梁の三大法師の1人である開善寺智蔵の注釈との共通性に触れました。三経義疏が三大法師の諸説と一致することは確かですが、『勝鬘経義疏』については三大法師である僧旻の説との類似を最初にあげるべきでした。この点については、秋に出る論文で訂正しておきます。

丸山真男の「十七条憲法」論:『丸山真男講義録第四冊(日本政治思想史 1964)』

2021年04月27日 | 論文・研究書紹介
 先の記事で、大山誠一氏が津田左右吉は「憲法十七条」を奈良朝成立と説いたと述べているのは事実に反すると書きましたので(こちら)、学界一般ではどう見ているか紹介しようとしていたら、古いながら面白い議論を思い出しました。

丸山真男「一 十七条憲法における統治の倫理」
(『丸山真男講義録第四冊(日本政治思想史 1964)』「第四章 王法と仏法」、
東京大学出版会、1998年)

です。

 丸山が昭和39(1964)年度に東京大学法学部でおこなった「東洋政治思想史」の講義のためのノートをテキスト化したものです。丸山は、前年度には「第三章 普遍者の自覚」において「第一節 聖徳太子の十七条憲法」として講義しており、この時期には日本政治思想史に聖徳太子をどう位置づけようか模索していたことが知られます。

 そもそも、この「東洋政治思想史」という科目は、国家主義が高まっていた昭和14(1939)年、文部省が国体教育のための講座を置くよう諸大学に命じたとことろ、リベラル派であった東大法学部長の南原繁が、国家主義の根底となる古代神話を後代の作とし、聖徳太子の事績についても大胆に疑っていた早稲田大学の津田左右吉をあえて招請し、「東洋政治思想史」として開講したものでした。

 しかも、その時、法学部の助手として津田の世話をしたのが、丸山でした。津田のこの時期の講義が終わると、このブログでもコーナーを作って取り上げている聖徳太子崇拝の超国家主義者たちに指導されていた学生が、津田を詰難する質問を始めたため、丸山が「南原学部長が紹介されたように、他校に出講されたことがない津田先生にわざわざ来ていただいて講義していただいているのに無礼ではないか」と発言して質疑を打ち切り、津田を控え室に案内すると、学生たちが乗り込んできます。

 丸山は制止しますが、津田は「講義に関する質問なら受ける」と言い、午後四時ころから過激な論難に答えていきましたが、夜の九時半あたりまで続いたため、丸山がこんな連中を相手にしても仕方ないと津田を外に連れ出したのです(こちら)。津田は、こんな風潮が強まるようだと日本は滅びると憂慮していました。

 このように、丸山は津田を学者として尊敬していたのですが、自分自身が戦後になって「東洋政治思想史」を担当した際は、「憲法十七条」を「聖徳太子という卓越した思想家の手になる……独立した作品」(148頁)と評価して講義したのです。

 この講義では、「憲法十七条」について大化の改新以後の作という説に触れた後、「今日では圧倒的多数の専門家は、たとえ部分的に後世の加筆があったにせよ、その基底に流れる觀念は聖徳太子の他の著作とも照応しているので、これを完全に偽作とする説は、今日の専門家の間には存しない」(同)と断言しています。

 そして、諸説として、

1) 漢文のスタイルから後世の作とする狩谷掖斎の説
2) だいたい推古朝の作としつつも、太子作という点を疑う久米邦武などの説
3) 「主として用語や内容の検討からして、大化改新以後、ほぼ天武朝の頃の作と推定する説(津田左右吉)」(149頁)

をあげ、津田説について詳説していますが、大山氏のように「奈良朝の作」などとは言っておらず、「ほぼ天武朝の頃の作と推定」と述べています。これが通常の理解です。大山氏は津田をきちんと読まず、自説に都合良く歪めて利用し続けているのです。

 さて、丸山は講義では、十七条憲法は、世界宗教である仏教を「統治倫理の側面において明確に提示した最初の傑作であった」(154頁)と評価します。

 そして、十七条全体が「さまざまな執着の形は、凡夫の煩悩という共通の根からの発現形態だ」という仏教的な立ち場で貫かれ、党派の争いもその立ち場から説かれているとして、『維摩経義疏』の対応する部分を引いています。そしのうえで、十七条憲法は君主の絶対性を説くものの、地上の権威を普遍的な真理の下に置こうとしていると述べ、こうした十七条憲法の思想は「当時の政治的現実からは遊離した理念であった」(163頁)と評します。

 聖徳太子は、「内政面においては必ずしも強力な位置にはなく、冠位十二階の制定、隋帝国との外交に成果をあげてはいたが、日増しに強大になる蘇我馬子の勢力の前に手をこまねいていた」(同)とし、晩年には政治から離れていったと見るのです。

 丸山は最後に、『聖徳太子伝暦』などが太子を「超人間的な聖者」としようとしたことは、仏教を普遍的な真理と見て「世間は虚仮」と認識した「太子の思想史的意義をかえって低めるもの」(164頁)であり、江戸時代の儒者や国学者の激烈な太子批判の方に、意外にも太子の「正しい位置づけが見いだされる」としめくくっています。

 つまり、普遍なるものを自覚し、新しい方向を打ち出したものの、馬子に圧迫されて表舞台から退いていった人間と見るのです。これは、「皇室 vs. 横暴な豪族馬子」という戦前の図式を戦後風に改めた「普遍的・人間的で挫折した聖徳太子 vs. 民族的・呪術的な権力者馬子」という左派の仏教史学者の図式に似てますね。

 なお、明治人らしい皇室好きのナショナリストであった津田左右吉が、なぜ神話や聖徳太子の事績を疑ったかについては、いずれ書きましょう。

聖徳太子を礼賛して中村元を籠絡する梅原猛

2021年04月22日 | その他
 直観に基づいて法隆寺は聖徳太子の怨霊封じの寺だと論じた梅原猛(1925-2019)の説のひどさは、このブログの「珍説奇説」コーナーで3回にわたって詳しく論じた通りです。

 ただ、梅原の直観はたまに当たっている場合もあり、専門家にはなかなか思い浮かばない優れた見方を提示していることもあることは、私もどこかの論文か講演で触れました。また、怨霊説に比べてあまり知られていませんが、梅原は聖徳太子自身については実在説であって、絶讃していました。それが良く出ているのが、中村元(1912-1999)との対談です。

中村元・梅原猛「<対談> 聖徳太子と日本仏教」
(『東洋学術研究』109号[24巻2号 ]、1985年。PDFは、こちら

 東大は明治期以来、国史学の黒板勝美・坂本太郎、宗教学の姉崎正治(こちら)、印度哲学の高楠順次郎・花山信勝、法学部の小野清一郎(こちら)、国文出身の三井甲之その他、聖徳太子礼賛者ばかりであって、高楠順次郎の孫弟子である中村元もその一人でした。そのため、中村は梅原の怨霊説を怒っていたのです。

 ところが、二人の対談では、「人たらし」と称されたほどまわりを梅原びいきにしてしまう梅原がまず先に話しだし、聖徳太子を絶讃し始めます。その結果、むしろ戦後の懐疑的な聖徳太子研究を考慮して慎重な態度をとっていた中村は喜んでしまい、次第に梅原の長広舌の太子礼賛にひきこまれ、最後には「大変いろいろ教えていただいて、楽しかったです」などと感謝して終わっています。

 梅原よりかなり年上であって、インド哲学や仏教の大学者とされる中村にしてこうですから、出版社の編集者たちをたぶらかして信奉者にしてしまい、次々に本を出させて世間にファンを増やすことなど簡単だったわけです。文章は品がないですが、大げさな語り口によって読者を引き込むのはお手のものなので。

 対談では梅原は、自分の怨霊本は、あくまでも「聖徳太子が死後百年後どのように祭られたかをかいたのでございます」という弁明で始めます。そして、太子自身について研究し始めたら、実に偉大であったと述べ、『日本書紀』の太子関連記述については、多少の潤色はあるものの、主立った部分は「そのまま太子の実績と認められるのではないか」と言います。

 これが虚構説の大山誠一氏との違いですが、もう一つ大きな違いは、大山氏は仏教をきちんと学んでおらず、三経義疏については読まずにあれこれ言い続けているのに対し、様々な分野の仏教書を読んでいた梅原は、三経義疏もむろん読んでおり、『勝鬘経義疏』については敦煌出土の良く似た注釈と比べてみる作業もしている点です。そのうえで、敦煌本とは違う面があるとし、著者は太子だとする花山説に賛成しているのです。

 むろん、専門の仏教学者ではないため、厳密には読めておらず、ところどころで誤ったことを述べたり、自分流の山川草木成仏説やアイヌ宗教論などにひきつけた強引な解釈を述べ立てていますが、ともかく仏教をある程度知っており、三経義疏を読んだうえで、「憲法十七条」との共通点に触れ、「憲法十七条」が真作なら三経義疏も太子作となると説いているのです。

 「憲法十七条」は中国思想の言葉を用いつつも、中国とは異なる意味で使う場合が多いですが、「民」については、哀れんでやる対象であって、「礼」を教えようとはしていません。

 梅原は、現代の天才が古代の天才を語るといった調子で太子礼賛を続け、対談の最後近くになると、「やっているうちに、もうだんだんと聖徳太子崇拝になってまいりましたね」と語り、お札から太子が消えるのは淋しいと言い出します。太子をほめてもらってすっかり上機嫌になった中村は、梅原に賛同し、「梅原古代学を大いに発展なさってください」と言い出す始末です。

 太子礼賛の立ち場は同じであっても、国史学の坂本太郎は謙虚であって、名著である吉川弘文館人物叢書の『聖徳太子』では、凡人の歴史家である自分が、はたして偉大な太子を正しく描けているかどうかと、反省し続けています。そして、梅原の『隠された十字架』が出た際は、おだやかな調子ながら、資料に基づいていないことをきっぱりと批判していました。

【付記:2021年5月6日】
「憲法十七条」と礼に関して述べた部分は、説明不十分だったので削除しました。別に新しい記事を書いて公開します。

それでも実在したのは厩戸王だ?:宗教と化した大山誠一氏の最近の論説

2021年04月16日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 宗教裁判で地動説を捨てるよう命じられた後、ガリレオが「それでも地球は回っている」とつぶやいたという話は有名です。現在では、この話は後になってからの弟子の創作らしいとされていますが、ガリレオの主張は科学的観察に基づく正しい説であったため、この話は長く共感を呼んできました。

 一方、科学的成果を認めず、何と言われようと誤った信念を保持し続けた人たちもいます。たとえば、江戸から明治初期にかけては、西洋の近代天文学を受け入れず、仏教的な世界観に基づいて独自の観察をし、我々が住むこの世界の回りを大陽や月が回っているのだと主張し続けた僧たちがいました。

 それによく似ているのが、「厩戸王」は戦後になって仮に想定された名であって古代の文献には見えないこと、都の飛鳥と斑鳩を斜め一直線で結ぶ太子道は幅20メートルもある広壮なものであった事実が発掘でわかったこと、現在の法隆寺の前身である斑鳩寺は彩色壁画で飾られた最先端の大寺であったこと、その他の新しい研究成果を認めず、「いや、実在したのはぱっとしない厩戸王であって、聖徳太子はいなかった」と主張し続けているのが、

大山誠一「聖徳太子は実在しなかった」
(『現代の理論』2021年冬号、2021年1月)

です。

 この論述によれば、「『書紀』編纂の目的は、神話により皇室を永久不変の神の子孫とすること、さらに、不都合となった蘇我王権の存在を邪悪な蘇我氏に作りかえ、これを不比等の父中臣鎌足が討ち果たすというストーリーを作り、以後の藤原氏の権力を正当化しようとしたことであった」そうです。

 そのため、斑鳩に宮と寺を立てた程度で国政に関わるような立場になかった厩戸王をモデルにし、藤原不比等が理想的な聖徳太子を造型させたということらしいですが、では、その聖徳太子が自ら作成したとされる「憲法十七条」が、「天皇」という言葉を用いず、仏教尊重を説くばかりで「神」にまったく触れないのはなぜなんでしょう? 

 私が不比等なら、「憲法十七条」では、天皇は天照大神の子孫であって日本統治を命じられている絶対的存在であり、忠誠を尽くすべきことを冒頭で強調させますね。また、「蘇我王権の存在を邪悪な蘇我氏に作りかえ」とありますが、『日本書紀』では太子の義父である蘇我馬子は賞賛されていますよ。そんな事実は隠し、「太子は若かったにもかかわらず、豪族馬子の横暴をおしとどめ」などとすれば良かったんじゃないですか?

 それに、不比等が儒教、長屋王が道教、道慈が仏教面を担当し、実際の執筆は唐で長らく学んだ道慈が任され、三教に通じた聖人としての厩戸皇子の記述を書いたという説は、どこに行ったんでしょう? 『日本書紀』の太子関連の記述は和習だらけなので唐に16年いた道慈が書くはずがないと批判され、道教好きでなく熱烈な仏教信者であったと指摘された長屋王は、今回の文章ではまったく特筆されないんですが、二人は『日本書紀』の最終改作メンバーから外されたんでしょうか。

 「天寿国繍帳」は、文武朝(697年即位)で使われた儀鳳暦を用いていることが「最近……証明された」ので偽作だそうです。しかし、その論文は20年も前に発表された金沢英之氏のものであって、証明されたとは言えないとする反論が出ていますし、私も少し前にそれを補強しました(こちら)。大山氏のまわりでは、聖徳太子虚構説を発表した当時のまま時間がとまっているのか、以後の新しい研究、とりわけ自説に都合が悪い研究は見事に無視されてますね。

 大山氏は、百済弥勒寺から出土した639年の「金製舎利奉安記」の文章と『維摩経義疏』の類似が注目されるようになった結果、三経義疏は「百済製あるいは白村江以後の亡命百済人の関与を指摘する見方が有力となっている」と説くのですが、そうした見方の論文が次々に発表されて定説になりつつあるといった事実は全くありません。そのような見方が有力なのは、大山氏の周辺の数人だけではないでしょうか。あるいは、論文を書かないそうした仲間内の人たちのことを「学界」と呼ぶのか。

 白村江以後なら、645年に帰朝した玄奘の新訳経典が大論争を引き起こし、新しい訳語が急激に広まりつつあった時期ですので、そのような唐代仏教が盛んな頃になって、150年以上前になる6世紀初め頃の梁の三大法師の注釈を種本とする古くさい注釈を書くのは、解釈面でも用語面でも困難です。上記のようなことが言えるのは、大山氏が虚構説発表当時も今も三経義疏を読んでいないためですね。

 大山氏の師であった井上光貞先生は、日本史学者でありながら仏教学にかなり通じていて仏教学者からも評価されており、三経義疏については中国の注釈と比較しながら綿密に読んでいました。その井上先生は、三経義疏は高句麗や百済の僧など太子周辺の学団の作という説であって、白村江以後などという珍説は述べていません(学団の作にしては、三経義疏には「私の考えは少し違う」「私が思うに……」といった記述が多いことなどは、こちら)。

 なお、津田左右吉が「憲法十七条」を疑ったことは事実ですが、大山氏は、津田は「奈良時代のものであると指摘した」などと述べており、相変わらず自説に都合が良いように事実と異なる紹介のし方をしていますね。津田は曖昧な表現をとっていますが、おおむね天武朝あたりを想定しており、奈良時代の成立などと書いたことはありません(こちら)。

 ということで、聖徳太子虚構説は新しい仮説であった段階を過ぎ、どんな事実をつきつけられても変わらない宗教的な信念となった、というのが現状のようです。「それでも、実在したのは厩戸王だ!」か……。

欧米への聖徳太子宣伝の最初は姉崎正治か:『法華義疏』の字を切り貼りして作った「憲法十七条」

2021年04月14日 | 聖徳太子信仰の歴史
 19世紀半ばにヨーロッパで近代的な仏教研究が始まると、当然ながら、仏教が現存しており、西欧列強の植民地研究の対象となっていた国、つまり、スリランカ(当時はセイロン)などに伝えられるパーリ語の仏教の研究が盛んとなりました。

 その結果、神々に頼らず、法を説いた釈尊のみを尊崇するパーリ仏教は、きわめて合理的な宗教であるとして高く評価され、一方、様々な仏や菩薩その他の尊格をあがめる中国・韓国・日本などの仏教は、その国の民間信仰や迷信と融合した偶像崇拝の堕落仏教とされました。

 そうした中で、1893年にシカゴで万国宗教会議が開催されると、日本は、宗派の公式代表ではなかったものの、諸宗からなる代表団を送り、日本の大乗仏教がいかに正統的ですぐれたものであるかを宣伝しました。その少し後で渡米した鈴木大拙なども、当初は禅の意義を説くことはしておらず、英文の書物によってもっぱら大乗仏教の擁護に努めていたのです。

 そのような状況を背景とし、早い時期にアメリカで聖徳太子の意義を強調したのが、日本における近代的な宗教学の確立者である姉崎正治(1873-1949)でした。古賀元章「姉崎正治の日蓮信仰と聖徳太子信仰」(『Comparatio』22、2018年)が、その件について紹介しています。

 姉崎は、1913-1915年にハーバード大学で「日本人の宗教的・道徳的発達(Religious and Moral Developement of the Japanese)」を講義しており、そのうちの項目の一つが、"The Prince-regent Shotoku, his Ideals and its Establishment"(聖徳太子、彼の理想と達成)でした。姉崎は後に英文で History of Japanese Religion: With Special Reference to the Social and Moral Life of the Nation (1930年)を著しますが、その一部となったものです。

 姉崎の太子崇拝は大変なものであって、昭和10年正月の宮中御講書始のご進講者に選ばれた際は、『法華義疏』の複写の字を切り貼りして「憲法十七条」を仕立てる作業に取り組んだほどです。ただ、「憲法十七条」は儒教や法家の語彙も多く、仏典の注釈である『法華義疏』にある字では足りないため、『法華義疏』の字を分解して組み合わせ、それらしい字にするといった苦労をしています。こんな感じです。

  

 実際には、それでも無理であって、すべての条文を『法華義疏』の字で構成するには至りませんでしたが、姉崎はさらに、古い写本が残っていない『勝鬘経義疏』と『維摩経義疏』の要文を抜き出し、上記の方式によって『法華義疏』の字体に置き換えています。

 そうしたテキストを作って姉崎がご進講したのは、「憲法十七条」と三経義疏の関係の概説、そして「憲法十七条」の外国語訳、すなわち、英訳・仏訳・独訳の紹介でした。これは後に「御筆集成の三経義疏抄と十七條憲法の條章及外国語訳文に就て」として発表され、戦時中に刊行された『聖徳太子全集』第一巻(龍吟社、1942年)に収録されています。

斬新な説とトンデモ説の境目:松尾光「聖徳太子は山背大兄王の虚像か」

2021年04月09日 | 論文・研究書紹介
 定説は新しい説によって批判されて変わっていくものですが、新しければ正しいという保証はありません。また、間違った説であっても、刺激を与えて学問を発展させる場合もあります。

 その間違いの程度、含まれる問題の程度は様ざまであり、そもそも前提がまったく誤っているもの、きわめて着実な考察でありながらほんの一部が正しくないため不自然な結論に至っているもの、おおよそは正しいと思われるものの、証拠不十分であってそこまでは言えないだろうと思われるものなど、いろいろです。

 そうした中で、トンデモ説に近いのは、そのような問題点があることを自覚せず、「ついに真実を発見した!」と思い込んで断定を重ねるような場合ですね。聖徳太子研究には、そうした例が多いのですが、かなり推定に頼っていながらトンデモ説にはなっていない例をご紹介しましょう。
 
松尾光「聖徳太子は山背大兄王の虚像か」(松尾『古代の王朝と人物』、笠間書院、1997年)

です。

 松尾氏は、聖徳太子伝説が伝えるような偉大な人物が実際にいたことを疑います。氏は、三経義疏は中国成立などとは言わず、和習があることを認めたうえで、「朝鮮半島からの舶載書と考えれば、そうしたことはありうる。これがいまいちばん説得力のある理解だ、と私は思う」(99頁)と述べます。

 「これがいまいちばん説得力のある理解だ」いう言い方は、「現在残されている資料、現在の研究状況から判断する限り」という限定をつけていることを示しており、私の三経義疏論文が出る前である1997年頃としては、妥当な見方です。

 松尾氏はさらに、厩戸皇子は「太子」と呼ばれていたかもしれないが、長子を意味する「太子」と「皇太子」は違うとし、また『日本書紀』では冠位十二階は太子の制定と書いていないなど、太子の事績とされるものを次々に疑った後、では超人的な聖徳太子像を作ったのは誰かという問題に移ります。

 そこで松尾氏があげるのは、太子の息子である山背大兄王であって、「山背大兄王が自画像を一世代前に投影して作り上げたのが聖徳太子像ではないか」(106頁)と述べます。天智天皇(中大兄皇子)にも動機はあるとし、天武天皇や持統天皇なども捏造に関わった可能性があるとするものの、最も可能性があるのは山背大兄王の捏造だと考えるとするのです。

 ただ、「それはまだ粗い試案である」(111頁)と述べ、「私の試案の当否はともあれ、聖徳太子聖者伝説をそのまま信じることから一度身をひきはなして、どうしてこういう伝説が作られたのか、それを虚心に検討する必要性を認識してもらいたいものである」(同)と述べてしめくくっています。

 以上のように、論証のない推測にすぎませんが、重要なのは、書いている当人もそのことを自覚していることです。「邪馬台国は、どこどこにあった! 私はついに発見した!」などとなると、トンデモ説となるのですが、松尾氏はあくまでも仮説として述べているところが違います。

 また、聖徳太子を神格化した人物の1人が山背大兄であった可能性があるという点は、考慮すべき事柄です。太子に代わって斑鳩寺と四天王寺を管理するようになった山背大兄が、天皇になろうとしてしきりに運動していた時期に、自分の父親がいかに聖人のような存在であったかを強調し、また斑鳩寺や四天王寺の僧がおこなう太子礼賛を支援し、伝記をふくらませた程度であれば、充分考えられるからです。この場合、「自画像」というのは、そうありたい自分の姿ということになりますね。

 なお、三経義疏は朝鮮成立というのは妥当な判断のようでありながら、実際には朝鮮半島と日本の仏教交流の盛んさを考えていない推測です。7世紀には多くの百済や高句麗の僧侶が来日しており、また日本からの留学僧も多かったのですから、朝鮮の仏教文献であるなら噂がすぐ広まったはずです。

 古代にあっては紙は貴重であり、平安時代になって日本でも良い紙が作られるようになると、遣唐使たちは20枚ほどの紙を中国の役人へお土産として渡したりしているほどです。まして、『法華義疏』は隋の良い紙に書かれています。語法や学風がそっくりな『勝鬘経義疏』の写本も、後に印刷された木版本を見ると、『法華義疏』そっくりの書体で書かれていたことが推測されます。

 6世紀初め前後に百済や高句麗でそうした紙を使い、複数の経典に対して何巻もの注釈を書くような僧であれば、ある程度は名を知られているでしょう。そうした僧侶の注釈が聖徳太子の作とされたのなら、話題にならないはずがありません。実際、龍樹菩薩造とされる『釈摩訶衍論』は、奈良時代に日本に将来された際、偽作だとして批判されており、後になると、来日した新羅僧によって、これは新羅の月忠という僧が作ったとする話が伝えられています。

倭国は隋に音楽を貢納し鼓吹を下賜されていた?:渡辺信一郎「隋の楽制改革と倭国」

2021年04月05日 | 論文・研究書紹介
 遣隋使・遣唐使というと、文化・文物の導入という面が大きいものの、日本が中国に伝えたものも多少存在します。その一例が、音楽です。この点をとりあげたのが、

渡辺信一郎『中国古代の楽制と国家-日本雅楽の源流-』「第三部第一章 隋の楽制改革と倭国」(文理閣、2013年)

です。

 まず、南北を統一した隋は、音楽・芸能を、(1)雅楽、(2)燕楽、(3)鼓吹楽、(4)散楽、という四つの部門に編成し直して改革を試みました。このうち、雅楽は、皇帝が行う国家儀礼に用いるもので、日本には入ってきていません。今日、日本で雅楽と呼んでいるのは、宮廷での宴会の音楽である燕楽と楽しくて芸能面が強い散楽を日本風に改変したものです。

 『隋書』巻15の音楽志下では、開皇年間(581-600)の初めに燕楽に「七部楽」を定めたと述べ、(1)国伎、(2)清商伎、(3)高麗伎、(4)天竺伎、(5)安国伎、(6)亀茲伎、(7)文康伎の7部に分け、燕楽に相当する雑楽として疏勒伎・扶南伎・康国伎・百済伎・突厥伎・新羅伎・倭国伎等があったとしています。

 純粋な中国の音楽は清商伎だけであって、多くはシルクロード系、あとは周辺国のものやそれが中国の音楽と融合したものですね。

 ところで、『隋書』東夷伝の倭国条では、「その王は朝会には儀仗を供え、国楽を演奏させた」と述べていますので、隋の時代の倭国の朝廷では自国の音楽が演奏されていたことが分かります。

 問題は、『隋書』の倭国伝では、大業3年(607)に王が隋に朝貢使をつかわしたため、翌年、隋が斐世清を遣使すると、倭王は小徳の「阿輩台をつかわし、数百人を従え、儀仗を設け、鼓・角を演奏して迎えた」とあることです。

 『日本書紀』の推古16年(608)8月3日条では、「飾り騎七十五匹を遣り、唐の客を海石榴市の術(ちまた)に迎」え、額田部連比羅夫が応対したとなっており、音楽には触れていませんが、二つの記事は良く対応しており、隋風な角笛を用いた鼓吹楽による迎賓儀礼がなされていたことが推測されます。

 しかし、鼓吹楽はいつ倭国に入ったのか。鼓吹楽は、王侯・臣下に対して、身分に応じて数の異なる楽人たちが下賜されるものですし、異民族の王などにも与えられるものです。その鼓吹楽が倭国に存在するということは、開皇年間に倭国が隋の文帝に派遣した際、倭国伎と称される音楽(楽人)を貢納して鼓吹楽を下賜されたものと見るほかないと渡辺氏は説くのです。

 相手国がどのような外交関係を望もうと、隋の側は朝貢とみなして扱うのが原則です。『日本書紀』に最初の遣隋使に関する記事がないのは、『日本書紀』編纂時の日本の立場と異なっていてまずい状況だったためである可能性に触れ、論文をしめくくっています。

 こうしたちょっとした記述から、外交のあり方が見えてくるというのは、面白いですね。渡辺説については、いろいろな意見があるでしょうが、新しい視点を提供したことは事実です。

聖徳太子は英語を話すバイキングだった!(4月1日限定:特別記事)

2021年04月01日 | その他
 えー、毎度馬鹿馬鹿しいお話でご機嫌をうかがいます。夜がふけて日付が変わり、4月1日となったとたん、どこで打つのか寺の鐘が「ボ~~ン」と陰にこもってものすごく響いたため、驚いて立ち上がろうとしたところ、椅子がぶつかってマンションの壁が少し壊れ、そこから古い巻物が出てまいりました。こうしたことは、前にもあったような気がいたします(こちらと、こちら)。

 その巻物を広げてみるってぇと、和紙に墨で書かれているのに、すべて横書きの英語であって、冒頭には The world is false, Buddha alone is true! と大書されておりました。驚いたのなんのって。これは、「天寿国繍帳銘」に見える聖徳太子の有名な言葉、「世間虚仮、唯仏是真」の英訳じゃございませんか。

 いや、六世紀末か七世紀初頭としか思われない紙質の古さを考慮すると、この英文の方が元であって、「世間虚仮、唯仏是真」というのは、後になって道慈あたりが漢訳した可能性が高うございますな。道慈は博識で万能だったそうですから、英語くらい出来たでしょう。しかも、この言葉の下に、Short Kutai と記してあるのは、この巻物を書いた人物の名前らしゅうございます。
 
 仏教信者であって「世間はいつわりだ」とつぶやくとなりゃあ、Kutaiは「苦諦(くたい)」に違いありませんな。苦諦・集諦(じったい)・滅諦・道諦という仏教の四諦(したい)説の最初、つまり、生き物の生存はすべて苦だという教えを姓としていたのでございましょう。

 実際、インドにはクターイ(Kutāi)という地名がありますし、Shortという名も、人生の短さを表しているようじゃございませんか。この時、梅原猛先生の霊があたくしにおりてきたらしく、直感がひらめきました。この「ショート・クタイ」という名に後で漢字を当てて「聖徳太子」と表記するようになったんだ!と。 

 これで合点がゆきました。聖徳太子については、ユーラシアの北方遊牧民族の首領が日本に来て聖徳太子となったというトンデモ説がありましたが、それどころじゃございません。英語を話す勇者がヨーロッパからインド、スリランカ、東南アジアを渡ってくる途中で仏教徒となり、日向から東征して大和地方を支配し、後に聖徳太子と呼ばれるようになったのでございますな。ヨーロッパから海路でとなれば、バイキングに違いありません。

 英語を話すヨーロッパ人なのに「苦諦」という姓はおかしいだの、漢字の呉音である「くたい」とインドのクターイという地名と何の関係があるんだだの、バイキングがイギリスに進出したのは9世紀あたりからなので聖徳太子より後だの、Short Kutai だと「太子」の「し」はどうなるんだだの、そもそも上記の文は現代英語であって古英語は文字の形もスペルも違うだろうだの、何でもかんでも道慈がやったことにするな!だのと、文句をつける方々がおられるかもしれませんが、そんなのは、梅原先生も言われていたように、部分的ないちゃもんにすぎず、「根本的な反論」にはなりませんな(こちら)。

 みな様も御存知のように、先年、文科省が提示した社会科指導要領の改定案では、聖徳太子というのは死後の呼称だから本名である厩戸王を先に出し、「厩戸王(聖徳太子)」の形で教えることにするとしていたため大騒ぎとなり、結局取り消されたわけでございます(こちらと、こちら)。しかし、次回の改訂では、某山川出版社や某東京書籍や某清水書院や某帝国書院などの高校教科書も、すべて「Short Kutai(聖徳太子)」という表記となるに違いありません。

とお話ししてまいりますうちに、空気に触れたせいか、巻物の字が変色して薄くなってまいりました。この字が読めるのは、おそらく本日、つまり4月1日限りでございましょう。お後がよろしいようで……。