聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

藤枝晃先生のもう一つの勇み足

2010年07月31日 | 三経義疏
 『勝鬘経義疏』と内容が7割ほども一致する敦煌文書の発見が衝撃的であったためか、現在も藤枝晃先生による『勝鬘経義疏』中国撰述説を支持する人が多いようですが、中国撰述説は藤枝先生の勇み足というべきものであり、変則漢文の多さから見て中国撰述ではありないことは、拙論このブログで書いた通りです。また、この問題をさらに詳しく論じた拙論「三経義疏の共通表現と変則語法(上)」も12月頃に刊行される予定です。

 藤枝先生については、勇み足とでも言うべきものがもう一つあり、最近訂正されつつありますので、紹介しておきます。それは、李盛鐸旧蔵書問題を含めた敦煌文書の贋作問題です。

 敦煌文書は、スタイン、ペリオその他の探検家たちによって多くが海外に持ち出されてしまい、政府が慌てて残りを北京に送るよう指示したものの、その途中で、また敦煌文書が北京に着いてからも、中国人官吏によってかなりの量が抜き取られたことが知られています。後者の代表例が、駐日公使も務めた高官であって古文書の収集家として名高かった李盛鐸(1859-1937)です。

 「敦煌秘笈」と称される李盛鐸コレクションのうち、李盛鐸の所蔵印が押されて世に流れたものは、間違いないものとされて市場で高値がついていたのですが、藤枝先生は、偽造と思われる写本に李盛鐸の所蔵印が押してある例が多いことに着目されました。そして調査を始めたところ、所蔵印は何種類もあって偽造印ばかりであり、その印が押してある写本は逆に素性が怪しいことをつきとめました。まさに、藤枝先生ならではの仕事です。これがきっかけとなり、内外のコレクションから偽写本が発見され、大騒ぎとなりました。

 ただ、藤枝先生は、古物商などの手を経て日本に入ってきた敦煌写本と称するものについては、9割以上が贋物だと断定し(時には、98%くらいが偽物だと発言された由)、李盛鐸自身も偽造品作りに関わっていたらしいとされました。これに対して、池田温先生などは、疑わしい写本がかなりあることを明確に認めつつも、「敦煌学の権威呉其博士は曾て真を偽に誤る害は大きく偽を真に誤る害は小さいと述べられたが、まことに同感」(池田『中国古代写本識語集成』大蔵出版、1990年、27頁)と述べ、慎重な態度を保たれました。

 つまり、偽物を本物と間違える弊害よりも、本物を偽物とみなす弊害の方がずっと大きいというのです。確かに、偽物が本物扱いされる場合は、大事に保存されるでしょうから、そのうち研究が進んで偽物と判明することもありうるものの、本物が偽物と判定されてしまうと、保存が雑になって傷みが進んだり、処分されてしまったりする危険性があります。また、北京大の栄新江さんなども、李盛鐸がもともと持っていた写本は真本の可能性が高いと論じました。

 そうした意見を踏まえて敦煌文書の再調査が内外で進められた結果、一時期は偽造品の多さが話題になった三井文庫所蔵の敦煌文書も、実際には3割程度が本物であり、しかも、きわめて貴重な写本を含んでいることが明らかになっています。

 また、行方不明であった李盛鐸の「敦煌秘笈」については、京都大学の羽田亨博士が戦前に白黒写真で撮らせていた写真資料がこの李盛鐸旧蔵本であることも明らかになりました。さらに、個人蔵書としては世界最大の敦煌文書コレクションである「敦煌秘笈」は、いろいろな経緯を経て武田薬品社長の五代武田長兵衛氏の所蔵に帰して戦災を免れ、現在は大阪の武田薬品工場に隣接する武田科学振興財団の杏雨書屋に収蔵されていることも、ついに公表されるに至りました。
 
 それらの文書については、その目録と豪華なカラー図録集(全9冊。非買品)の刊行が昨年から始まっています。敦煌仏教文献の研究者の一人である私も、目録と図録をご恵贈頂いて学恩を得ていますが、現在、2冊刊行されている図録を眺め、また先日、杏雨書屋で開催された「敦煌秘笈」の展覧会で眺めた限りでは、贋作も含まれているものの、真本が多く、中には素晴らしい文献もかなり有るように思われました。李盛鐸の旧蔵本については、いろいろな方面からの研究が急激に進みつつあります。

 つまり、藤枝先生は、敦煌文書研究を一気に発展させた偉大な書誌学者であったものの、断言しすぎる傾向、とりわけ偽物と思われたものについては切って捨てるような発言をする傾向が多分にあったのです。聖徳太子撰とされてきた『勝鬘経義疏』を、中国北地で出来た凡庸な節略本と評したのは、そうした傾向の現われの一つと考えるべきです。『勝鬘経義疏』は中国撰述ではありません。

 『勝鬘経義疏』は、「本義」と称される種本以後に出現した諸注釈書の解釈を加えているから、情報不足の日本で出来たはずがないと藤枝先生は論じられたのですが、同じように「本義」と称する種本に基づく『法華義疏』の場合、「本義」の光宅寺法雲の『法華義記』以外に引かれている注釈のほとんどが『法華義記』より古い時代のものであることは、田村晃祐先生が明らかにしています。つまり、「本義」ともう一冊、古い時期の種本があれば可能なのです。三経義疏は、中国南北の地の多くの注釈の説を取捨して作られた吉蔵の注釈と違い、きわめて限られた材料だけで出来ているのが実際のところです。

 田村先生の『法華義疏』研究は、秋か冬には書物の形で刊行されることと思います。内容と形式に関する詳細な研究ですので、出版が待ち遠しいですね。田村先生は、太子真作説です。

 なお、杏雨書屋の主任研究員として、現在、「敦煌秘笈」の図録作成を担当しているのは、藤枝先生が率いた敦煌写本研究班において敦煌写本と『勝鬘経義疏』の類似に最初に気づき、研究を進められた古泉圓順先生なのですから、歴史の巡り合わせの不思議さが痛感されます。


津田左右吉を批判した旧式の英語学者:松田福松

2010年07月29日 | 津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち
 超国家主義の親鸞讃仰・聖徳太子礼讃者たちの集まりである原理日本社が、本格的に津田左右吉攻撃を始めたのは、昭和14年(1939)3月刊行の『原理日本』第15巻第3号が最初です。この号には、松田福松の「津田左右吉氏の東洋抹殺論批判(上)」が掲載され、4月刊行の次号に同「津田左右吉氏の東洋抹殺論批判(下)」が掲載されました。松田は3月号では、この批判論文に続けて「谷崎源氏の反戦的亡国意識」という批判論文も書いてます。

 この松田福松という人物は、旧式な英語学者であって、リンカーンやホイットマンに傾倒していた人物です。早くから蓑田胸喜と意気投合して原理日本社の創設メンバーとなり、昭和十年代に入ってからは、大学のあり方をめぐって激しい批判活動を繰り広げていました。

 リンカーンやホイットマンを敬愛する英語学者がなぜ英米批判の超国家主義者になったかは、福間良明「英語学の日本主義--松田福松の戦前と戦後--」(竹内洋・佐藤卓己編『日本主義敵教養の時代--大学批判の古層--』、柏書房、2006年)が概説しています。すなわち、有色人種に対する差別に憤っていた松田は、リンカーンとホイットマンが奴隷制度に反対であった点を評価する一方、現在のアメリカは「白人優越の幻想」に基づいて、東洋を侵略するようになってしまったとし、リンカーンらの精神は東洋保護に乗り出した皇国日本に保持されている、と考えるようになったのです。松田は、上記の福間論文によれば、『米英研究』(原理日本社、1942年)で次のように述べています。

 皇威の光被して草木をも靡かすところ、リンカン、ホイツトマンの精魂もまた耀やき天翔りつゝ御前に事[つか]へまつり無窮の皇運を扶翼しまつるであらう。

 つまり、どこであれ天皇の威光が輝くところであれば、リンカーンやホイットマンの魂もまたそこで輝くのであり、二人の魂はアメリカの地から遠く天皇のお側にまで天翔ってお仕えし、無窮なる天皇の偉大な活動をお助けするだろう、というのです。

 こうした人物が、インドと中国と日本は、それぞれの文化に基づく国であったのだから共通した「東洋文化」などというものは無く、現代日本は西洋文化の側だ、と説く津田の『支那思想と日本』(岩波新書、1938年)を読めば、東洋文化を体現してアジア諸国を救おうとする皇国日本の活動を否定する危険思想だ、と受け止めるのは当然でしょう。

 ただ、興味深いのは、この時点では、松田は津田の「憲法十七条」偽作論や三経義疏作成否定論を知らなかったらしいことです。松田は、最初の論文において、日本は初めは中国文化を学ぶばかりで取捨を加えることもできず、拝跪するばかりであったとする津田説に触れ、「聖徳太子の十七条憲法及び三経義疏をとつて考へ見よ」(34頁)と反発していますが、聖徳太子に関する議論は、それで終わっています。しかし、津田の「憲法十七条」偽作論や三経義疏作成否定論は、昭和5年(1930)に岩波書店から刊行された『日本上代史研究』で明確に述べられていました。松田がそれを読んでいたら、もっと激しい反論がなされたでしょう。

 蓑田の筆によるこの号の編集後記でも、松田論文については、津田の「合理主義的唯物論的思想法の根本的欠陥」を指摘していると述べて津田説を批判し、「支那印度の勝れた精神的伝統『東亜一体感』は日本人の内心にのみ生きてをる」ことを強調するのみです。蓑田や松田が津田の著作を読むようになったのは、津田が10月に東大法学部に新設された東洋政治思想史講座に講師として招かれ、また11月に小野清一郎の津田批判が『中央公論』に掲載されてからのようです。


津田左右吉説の歪曲(2)

2010年07月27日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 大山氏が複数の著作で津田左右吉『日本古典の研究 下』の「憲法十七条」偽作説を紹介しておりながら、同書のうち、「多くの詔勅が書紀の編者によつて作られてゐることから類推すると、これもまた同様に見られないでもないやうであるが、あまりに特殊のものであることを思ふと、上記の如く解するのが妥当であらう」(128-129頁)とある部分、つまり、「憲法十七条」が『日本書紀』編者の作であることを否定した重要な箇所に触れないことは、前稿で指摘した通りです。

 その理由は分かりませんが、大山氏の著作では、津田説の出典の示し方に気になる点があるため、指摘しておきます。

 まず、太子虚構説が初めてまとまって示された、大山誠一「「聖徳太子」研究の再検討(上)」(『弘前大学国史研究』100号、1996年3月)では、「天皇」の語が道教由来であるとする津田説について、「津田左右吉氏の研究により(12)」(10頁)と記され、末尾の注記では、次のように出典が示されています。

(11) 東野治之「天皇号の成立年代について」(『続日本紀研究』一四四・一四五合併号、一九六九年。のち『正倉院文書と木簡の研究』に収録)。
(12)  津田左右吉「天皇考」。
(13) 上田正昭「和風諡號と神代史」(『赤松俊秀教授退官記念 国史論集』、一九七二年。のち『古代の道教と朝鮮文化』に収録)。福永光司「天皇と紫宮と真人」(『思想』一九七七年七月号、のち『道教思想史研究』に収録)。両氏の天皇関係論文は他にも多いが、ここでは代表的なもののみをあげた。

 一見して明らかなように、前後の注記は詳しいのに、(12)の津田の「天皇考」については、掲載された雑誌や書籍の名も刊行年も記されていません。おそらく、(13)で記されている論考から孫引きし、出典を入れ忘れたのでしょう。

 大山氏のこの論文を少し改めて収録した、大山『長屋王家木簡と金石文』(吉川弘文館、1998年)になると、この部分の注は、

(11) 東野治之「天皇号の成立年代について」(『続日本紀研究』一四四・一四五合併号、一九六九年。のち『正倉院文書と木簡の研究』[塙書房、一九七七年]に収録)。
(12) 津田左右吉「天皇考」(『津田左右吉全集』第三巻)。

となっています。東野氏の本については、出版社名と刊行年が加えられ、さらに詳しくなっているのに対し、津田の論文は全集の巻数が示されているだけです。同書の注では、和辻哲郎についても、

(59) 和辻哲郎「聖徳太子の憲法における人倫的理想」(『日本倫理思想史』上、『和辻哲郎全集』第十二巻)。

となっているため、全集の場合は出版社も刊行年も入れないのでしょう。ただ、和辻の場合は、初出の『日本倫理思想史』上が示されているのに対し、津田「天皇考」については、ここでも初出が示されていません。しかし、全集を見れば、初出は示されています。

 肝心の「憲法十七条」に関する津田説の出典についても、分からない点があります。「「聖徳太子」研究の再検討(上)」論文では、この注の前後は、

(221) 藤枝晃「勝鬘経義疏」(『原典日本仏教の思想 1』岩波書店、一九九一年)。
(23) 荒木敏男『日本古代の皇太子』(吉川弘文館、一九八五年)。
(24) 津田左右吉「応神天皇から後の記紀の記載」(『日本古典の研究』下)。
(25) 青木和夫氏は、「天平文化論」(『岩波講座 日本通史』第四巻、古代3、一九九四年)で、蘇我大臣家における、渡来系の人々の編纂作業を想定されている。

となっています。ここでも、津田の著作は出版社も刊行年も記されていません。このうち、(221)とあるのは、単純ミスであって、『長屋王家木簡と金石文』では、

(22)  藤枝晃「勝鬘経義疏」(『日本思想大系2 聖徳太子集』岩波書店、一九七五年)。
(23) 荒木敏男『日本古代の皇太子』(吉川弘文館、一九八五年)。
(24) 津田左右吉「応神天皇から後の記紀の記載」(『日本古典の研究』下)。
(25) 青木和夫氏は、「天平文化論」(『岩波講座 日本通史』第四巻、古代3、一九九四年)で、蘇我大臣家における、渡来系の人々の編纂作業を想定されている。

とあるように訂正され、書名や刊行年も1991年に復刊された際のものから、1975年の初出時のタイトル・刊行年に訂正されています。荒木敏夫を「敏男」としている誤記は、そのままですが、これは単純な見落としでしょう。

 しかし、

(24) 津田左右吉「応神天皇から後の記紀の記載」(『日本古典の研究』下)。

もそのままであるのはなぜなのか。単行書の扱いなら、出版社名と刊行年が必要でしょうし((26)の青木氏の場合も出版社は明記されていませんが、『岩波講座……』となっているため、分かるようになっています)、全集版に基づいたのであれば全集の巻数を示すのがこの本の例であるらしいのに、なぜそうなっていないのか。

 大山氏の同論文には、

(32) 久米邦武「聖徳太子実録」一九○五年、(『久米邦武歴史著作集』第一巻所収)。

という妙な例も見えます。『長屋王家木簡と金石文』では、

(32)  久米邦武「聖徳太子実録」(『久米邦武歴史著作集』第一巻、一九○五年)。

と訂正されていますが、久米の『聖徳太子実録』は、丙午出版社から1919年に刊行されたものであり、1905年に初めて刊行された際は、『上宮太子実録』という名でした。前者を収録した『久米邦武歴史著作集』第1巻は、吉川弘文館から1988年に刊行されたものです。吉川弘文館版を実際に見ていれば、こうした表記にはならなかったのではないかと思われます。

 このように、大山氏の出典の記載には不備が目立ち、「天皇考」その他、孫引きですませて原文を見ていないのではないかと疑われる場合もあります。『日本書紀』の編者が「憲法十七条」を作った可能性を否定した津田『日本古典の研究 下』の主張について、大山氏が触れないのは、上記のような傾向と関係があるのでしょうか。

 可能な状況はいくつか考えられます。

1. 全集版で読んだが、『日本書紀』編者の「憲法十七条」作成を否定した箇所は印象に残らなかったためメモせず、初出などについてもメモしていなかった。最初の論文はメモに基づいて書き、以後はそれを踏襲している。

2. 津田の「憲法十七条」偽作説については、他の研究者の論文に基づいて記したが、その論文では、津田が『日本書紀』編者の作成を否定した箇所に触れていなかった。出典の記載はその論文に従った。以後はそれを踏襲している。

3.全集版で読み、論旨を理解したが、触れないことにし、出典も詳しく記さなかった。

4.全集版で読んだが、「多くの詔勅が書紀の編者によつて作られてゐることから類推すると、これもまた同様に見られないでもないやうであるが、あまりに特殊のものであることを思ふと、上記の如く解するのが妥当であらう」という文章を理解できなかった。出典もきちんと記さなかった。
 (a) 「上記の如く」とは、3行前の「律令の制定や国史の編纂などを企てつゝあった時代に政府の何人かが儒臣に命じ、名を太子にかりて、かゝる訓誡を作らしめ、官僚をして帰向するところを知らしめようとしたのであろう」という部分のことだと正しく理解したものの、『養老律令』や『日本書紀』の編纂時期を指すと誤解した。→文脈を無視した解釈になる。
 (b) 「上記の如く」とは、この文章の「多くの詔勅が書紀の編者によつて作られてゐる」という部分を指すものと誤解した。→文脈を無視した解釈になる。

 あるいは別な状況かもしれませんが、いずれにしても、大山氏は、津田の「憲法十七条」偽作説を紹介する際、『日本古典の研究』下に基づくとしておりながら、「太子が聖者として尊崇せられ、またシナの文物を採用して冠位の制などを作り国政の上にも新施設をせられたことが伝へられてゐたため」という部分と、『日本書紀』編者の作成を否定した箇所とに触れず、津田自身が『日本書紀』編者作成説を述べたかのように説いて自説の裏付けとするのみであるうえ、他の研究者の論文や研究書の出典を示すのと同じ形で出典を示すことをしておらず、それも最初期の論文からつい最近の著書に至るまでそうであるのが実状です。

【2010年7月28日 追記】

津田は論文を刊行した後も、訂正を加え続けていたことで有名であり、論考によっては、雑誌掲載時、単行本収録時、全集掲載版で大きく違っている場合もあります。ですから、同じ題名、似た題名の論考であっても、厳密な検討をする場合は、どの版についての議論なのかを示す必要があり、他の著者以上に出典表記に気をつけないといけません。

 なお、最新の『天孫降臨の夢』(日本放送出版協会、2009年)の末尾に付された「参考文献」では、編集者の要望で形式を統一したのか、

津田左右吉『日本古典の研究 下』岩波書店、一九五○年(のち『津田左右吉全集 第二巻』岩波書店、一九八六年の所収)

と記されています。これによれば、「『日本古典の研究』下」ではなく、単行本の『日本古典の研究 下』に基づいていることになりますが、そうであれば、最初の論文や『長屋王家木簡と金石文』では単行本扱いとして、出版社や刊行年を入れるべきでした。

 もう一つ妙なのは、最近刊行された『アリーナ』第5号(2008年3月所載の大山「<聖徳太子>誕生の時代背景」の記述です。ここでは、

 津田は、中国の古典を多く引く憲法十七条が、奈良時代にできた『書紀』や『続日本紀』(以下、『続記』と記す)の文章と似ていると指摘したが、そのことは最近の国語学の研究からも証明されており、その結果、聖徳太子の時代のものではなく、『書紀』編纂の最終段階(完成は七二○年)で編者が創作したものとされた。(151頁)

と述べられていますが、津田の説はどこまでなのか不明であり、出典も示されていません。また、「最近の国語学の研究」というのが具体的に誰のどの論文を指すのかも不明です。「創作したものとされた」とありますが、誰によって「された」んでしょう。津田がそう言ったのか、国語学者の誰かがそう言ったのか、別の分野の研究者によってそう判断されたのか。国語学で言えるのは、「用法から見て、この時期以後だろう」などという程度であって、「『書紀』編纂の最終段階(完成は七二○年)で編者が創作したもの」といった踏み込んだことまでは言えないはずですし、そのような指摘をした国語学者の論文は見たことがありません。

【2010年8月22日 追記】

大山誠一編『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)所載の吉田一彦「近代歴史学と聖徳太子研究」では、津田の「憲法十七条」偽作説を紹介する際、「憲法十七条は太子の作ではなく、律令の制定や国史の編纂をおこなっていた時代(七世紀末から八世紀初め)に作成されたものであろうとしたのである」(28頁)と述べています。つまり、大山氏は、研究仲間である吉田さんのこの研究史概説を読んだ後になっても、津田は『日本書紀』編纂に携わった奈良時代初期の為政者らが作成したと述べているのだ、と主張し続けているのです。


【追記:2011年7月23日】  上に記したように、大山『天孫降臨の夢』の参考文献欄によれば、大山氏が用いたのは単行本の津田左右吉『日本古典の研究 下』岩波書店(1950年)だそうですが、津田はその版であれば136頁のところで、「憲法は多分天武朝ころの製作であらうが」と明言しています。他の箇所では、天武・持統朝と受け取れるような書き方もしていますが、いずれにしても、『日本書紀』の完成近くになって編者が創作したものとされたなどとは、津田はまったく述べていません。  もう一つ気になるのは、「最近の国語学の研究」とは、森博達さんの『日本書紀の謎を解く』のことを名を示さずにあげたものではないか、ということです。森さんが大山説を妄想だとして強く批判したため、大山氏は以後は森説には触れなくなりましたが、それ以前の『東アジアの古代文化』104号の大山論文では、漢語・漢文の誤用・奇用から見た森さんの憲法偽作説を紹介して、「研究の緻密さに感嘆した」と述べていました。国語学では、瀬間正之さんが推古朝遺文を後代のものとしていますが、瀬間さんは「憲法十七条」については触れていません。

津田左右吉説の歪曲

2010年07月26日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
[以下の議論については、2010年7月22日の夜に公開し、翌23日に訂正版を新たに公開したのですが、以後も、末尾に【7月24日 追記】【7月25日 追記】などと補足することが重なったため、今回は、それらの追記を本文に組み入れ、新たな内容も加えて全面的に書き直した版を公開するものです]

 大山氏は、最新の『天孫降臨の夢』(NHKブックス、日本放送出版協会、2009年)では、「憲法十七条」に関する津田左右吉の偽作説を紹介し、そのしめくくりとして、次のように述べています。

 つまりは、『日本書紀』編纂に携わった奈良時代初期の為政者らによって作られたというものであるが、この津田の理解は、今日では通説となっている。(24頁)

 しかし、津田はそんなことは言っていません。言っていない以上、そうした「津田の理解」が今日の通説となっているなどということは、あり得ません。なぜ、こうしたデタラメなことが言われるのか。

 大山氏は、「聖徳太子架空人物説」を広く世に問う出発点となった大山『長屋王家木簡と金石文』第三部第一章「<聖徳太子>研究の再検討」(吉川弘文館、1998年。初出は『弘前大学国史研究』100号・101号、1996年3月・10月)においても、似たような議論をしていました。氏は、「憲法十七条」について述べるに当たり、津田左右吉の『日本古典の研究』下巻に基づき、津田の偽作説の概要を三点に分けて説明しています。その第一は、第十二条に「国司国造」とあるものの、「国司」の語は大化以前ではありえないためであり、第二は、憲法は君・臣・民という中央集権的な三階級で説かれており、氏族社会であった推古朝にはふさわしくないためです。そして、その第三について、大山氏は次のように述べています。

 第三に、中国の古典から多くの語を引用しているが、これらは奈良時代の『続日本紀』(以下、『続記』と記す)や『書紀』の文章と似ている。したがって、「律令の制定や国史の編纂などを企てつゝあった時代に政府の何人かが儒臣に命じ、名を太子にかりて、かゝる訓誡を作らしめ、官僚をして帰向するところを知らしめようとしたのであろう」というものである。私は、この津田氏の指摘はまったく妥当と思う。国司の語は大宝令以後と思われるが、それは編者の文飾としても、推古朝段階で国造と並んで百姓を統治する地方官はあり得ず、そのような地方官を前提とした訓戒は考えられない。結論として、津田説の通り、憲法十七条は、国史すなわち『書紀』の編者自身によって作られたものといってよいであろう。(218頁)

 以上です。津田の『日本古典の研究』下巻は、戦前の諸著作を編集し直したものであって、この箇所の初出は、発禁になった『日本上代史研究』(岩波書店、1930年)の第一篇です。思想制限が厳しかった戦前と違い、自由に発言できる戦後に刊行された『日本古典の研究』でも、「律令の制定、國史の編纂」を「律令の制定や國史の編纂」、「又た」を「また」、「かゞ」を「かが」、「支那」を「シナ」に改めるといった訂正をしてあるにすぎず、『日本上代史研究』とほぼ同文であって、主張が変わっていないことに驚かされます。

 裁判以後、また戦後における思想的な変化が無かったわけではないことは、家永三郎『津田左右吉の思想的研究』(岩波書店、1972年)が指摘している通りですが、それはともかく、『日本古典の研究』を引用するのであれば、もう少し前のところから引いてほしかったところです。「国司」という語は大化の改新以後でないとあり得ないと指摘した津田は、「憲法十七条」の「国司国造」という不自然な表現は、天武紀十二年の詔勅と持統紀元年十月条にも見えることを指摘し、「當時さういふいひ方が慣例となつてゐたらしく見える」としたうえで、以下のように述べていました(新漢字に直します)。

 然らば、この憲法の製作の時期と作者とは、どう考へられるかといふに、其の文字にシナの古典の成語が多く用ゐられてゐて、其の点に於いて続紀に見える詔勅や書紀の文章と類似してゐることを思ふと、かういふことが文筆を掌るものの間に一般の風習となつてゐた時代であることが推測せられ、また内容から考へて、其の作者は儒家の系統に属するものであつたらうと思はれる。……聖徳太子の作とはせられてゐるが、仏家から出たものではあるまい。思ふに、太子が聖者として尊崇せられ、またシナの文物を採用して冠位の制などを作り国政の上にも新施設をせられたことが伝へられてゐたため、律令の制定や国史の編纂などを企てつゝあつた時代の政府の何人かゞ儒臣に命じ、名を太子にかりてかゝる訓誡を作らしめ、官僚をして帰向するところを知らしめようとしたのであらう。(187-188頁)

 すなわち、法隆寺金堂釈迦三尊銘などを信頼できる資料と見ていた津田は、聖徳太子が活躍し、尊崇されていたこと、少なくともそうした伝承が『日本書紀』編纂以前からあったことを史実として認めたうえで、「憲法十七条」については、用語や内容などの面から後代の作と推定していたのです。しかし、大山氏は、「太子が聖者として尊崇せられ……国政の上にも新施設をせられたことなどが伝へられていた」などの部分を省いて引用しています。

 ただ、大山氏の上記の箇所は、「憲法十七条」の偽作説を述べるのが主であって、津田の聖徳太子観そのものを論じたものでないため、ここでのテーマと直接関わらない点を省いたことは、許されるでしょう。問題は、「津田説の通り」と述べたうえで、「憲法十七条は、国史すなわち『書紀』の編者自身によって作られたものといってよいであろう」としている点です。これは、津田の主張とは全く異なります。

 「国司国造」という問題の表現は天武紀十二年の詔勅と持統紀元年条にも見えており、当時の慣用表現であるらしいと津田が述べていたこと、また「律令の制定や国史の編纂などを企てつゝあつた時代」という言葉から見て、津田は、『古事記』や『日本書紀』の前身となる「帝紀」の撰録や律令の作成などを命じた天武朝、遅くても持統朝あたりまでの作と考えていたと見るのが自然でしょう。

 そもそも、不明な点の多い持統三年の『飛鳥浄御原令』はともかく、『大宝律令』にしても文武四年(701)に完成して翌年施行されています。大山氏は、「国史すなわち『書紀』」と述べているため、津田の言葉を、『養老律令』や『日本書紀』を編纂しつつあった時期、と解釈するのでしょうが、『養老律令』は、唐の律令を模倣した既存の律令を日本の実状に合うよう改修する試みです。また、遅れていた『古事記』も、712年には完成して天皇に献上されています。

 津田は、「律令の制定や国史の編纂」と言っているのであって、「律令の改修や新たな国史の編纂」などとは言ってません。また、「企てつゝあった」という表現からは、「これまで無かったものを作り上げようとしていた」という響きが感じられます。津田の言葉は、やはり、最初の律令や最初の国史の編纂が計画されていた頃、あるいはそれらの編纂を始めたばかりの時期、を意味すると見るのが自然でしょう。

 実際、津田は、上の文章のすぐ後で、「多くの詔勅が書紀の編者によつて作られてゐることから類推すると、これもまた同様に見られないでもないやうであるが、あまりに特殊のものであることを思ふと、上記の如く解するのが妥当であらう」(128-129頁)と述べています。つまり、『日本書紀』に見える天皇の詔勅の多くは『日本書紀』の編者が作ったものであり、「憲法十七条」もそうした例のように見えないこともないが、「憲法十七条」はあまりにも特殊なものであるため、上に述べたように、「律令の制定や国史の編纂などを企てつゝあつた時代の政府の何人かゞ儒臣に命じ」て作らせたと考えるのが妥当だろう、というのです。

 『日本書紀』の編者の作ではないだろうというのが、津田の判断ですので、「企てつゝあつた時代」は『日本書紀』の編纂作業以前ということになります。それにもかかわらず、大山氏は、「津田説の通り、憲法十七条は、『書紀』編者自身によって作られたものといってよいであろう」と主張するのです。しかも、大山氏は、どの著作でも、この「多くの詔勅が……」の部分について触れることがありません。

 これは、許される省略の範囲を超えています。聖徳太子は、権力者の不比等と長屋王、そして僧侶の道慈が創造した架空の人物だとする自説、そして、「憲法十七条」は儒教主義の不比等と儒教にも通じていた道慈が作ったという自説の後ろ盾とするため、津田左右吉という権威を利用しようとした歪曲というほかありません。あるいは、逆に、「儒臣」が作ったと考えられると津田が述べていたため、老荘思想にも関心があった不比等のことを儒教主義であったと説くようになったのかもしれません。
 
 もし、意図的な歪曲ではないというのであれば、大山氏は「自説に不利な資料を目にしても、自説を支持する内容が示されているように読んでしまう傾向がある人物」ということになります。いずれにせよ、大山氏の聖徳太子架空人物説は、その成立当初から基本文献の誤った解釈に基づいていたのです。津田の『日本古典の研究』のような最重要の文献、それも現代日本語で書かれた文献についてすらこうである以上、漢文や古文で書かれた様々な資料に関してはさらに危ないであろうことは、容易に想像できるでしょう。

 ここで、大山氏の他の著作では、この問題についてどう述べているか、見てみましょう。まず、『長屋王家木簡と金石文』の聖徳太子論議を一般読者向けにした『<聖徳太子>の誕生』(吉川弘文館、1999年)では、「ここは、むしろ、『日本書紀』の編者自身の手になった文章と考えるのが妥当なのではないか、津田氏はそう主張されたのである」(75頁)となっています。津田説をねじ曲げ、『日本書紀』の編者自身が書いたとしているものの、「と考えるのが妥当なのではないか、津田氏はそう主張された」とあって、津田は推測の形で述べたとしています。

 ところが、『聖徳太子と日本人』(角川ソフィア文庫、2005年。2001年に風媒社から刊行された『聖徳太子と日本人』に一部加筆)では、「津田左右吉が……憲法の文章は奈良時代にできた『日本書紀』や『続日本紀』の文章と似ているから、『日本書紀』の編者が聖徳太子の名を借りて、官僚たちに訓戒を与えたものであると結論した」(20頁)と述べており、「結論した」という強調した言い方になっています。

 そして、最初に紹介した最新の『天孫降臨の夢』では、「つまりは、『日本書紀』編纂に携わった奈良時代初期の為政者らによって作られたというものであるが、この津田の理解は、今日では通説となっている」(24頁)と断言されていました。「奈良時代初期の為政者らによって作られた」というのが津田の文章の意味だとするに至ったわけです。しかも、そのような津田の主張は、「今日では通説となっている」と明言されています。「憲法十七条」を後代の作と見る津田説を支持して太子作を疑う研究者が多い、といった書き方ならあり得るでしょうが、奈良時代初期の為政者が自ら作ったと津田が考えていたとするような見方が主流になっているとは言えません。

 大山氏は津田説を評価し、その方向を受け継いで批判的な研究を進めているようでありながら、実際にはそうではないことは、この件が示す通りです。私は聖徳太子関連の津田説については反対の場合が多いものの、津田が創設した研究室で大学院時代を過ごした者としては、津田説を自説に都合良いように歪曲して利用するようなやり方を放置しておくことはできません。津田説に対する学問的な批判なら評価しますが、津田説に賛成だと明言していたとしても、歪曲しているのであれば、そうした議論は学問とは呼べないからです。

 意図的であれ無意識であれ、自分たちの立場にとって都合良く歪めたものを津田説だとして宣伝している点では、程度は違うものの、津田説は凶悪無比の大逆思想だ、マルクス主義の唯物史観だなどと大げさに言い立てて攻撃した蓑田胸喜たちと同類であるように見えます(実際には、津田は天皇家に対する敬愛の情が強かったうえ、唯物史観には反対でした)。

 ほかにも、大山氏の聖徳太子架空人物説が、戦前における国家主義の聖徳太子礼讃者たちの主張と似ている点があります。

 たとえば、津田は「憲法十七条」は中国の文献を模倣しただけで各条の具体的な実施を考えていない「抽象的」で「空疎」な文章と見ていたのに対し、小野清一郎によれば、中国思想と仏教に通じていた天才的な哲人政治家である聖徳太子が「日本精神」に基づき、ローマ法などより高次で日本的な内容の「憲法十七条」を格調高い文章で作り上げたことになり、大山説では、日本独自の天皇制を作り出した陰謀の天才、藤原不比等と、中国思想・仏教・唐代の皇帝のあり方に通じていて「優れた文章力を持っていた」道慈が、未開な時代の凡庸な厩戸王を聖徳太子という聖人にでっちあげ、その聖人の作と称する「憲法十七条」を捏造して日本風な王権の根拠を示そうとしたとされるのです。

 小野と大山氏とでは、飛鳥時代の日本の文化度や聖徳太子に対する評価は正反対であるものの、発想そのものが似ていることは明らかでしょう。大山氏の聖徳太子否定説は、国家主義者たちの聖徳太子礼讃を裏返したような性格を持っているのです。「憲法十七条」は日本精神に基づくとする小野と、天孫降臨神話を作った不比等が捏造させたとする大山氏は、それなら「憲法十七条」が神話によって天皇を権威づけていないのはなぜか、という理由をうまく説明できないでいる点も、共通している面の一つです。

 なお、発禁になった『日本上代史研究』について言えば、私が持っている初版は、「所蔵印あり。傍線少々あり」という古本をネット上で格安で購入したものですが、届いた本を見た時は、内表紙に「教学局図書」という5センチ四方の大きな朱印が押してあったので驚きました。その左下に押された青スタンプ内は、2行目に数字が赤印で、4行目に数字が黒ペンの手書きで入れられ、

「教学局図書
和 2692
 思想課
共 1 冊」

となっています。しかも、本文のうち「憲法十七条」に関する箇所は、最初の頁が折ってあり、偽作説関連の所には薄い赤線が引かれていました。この赤線は、教学局(文部省の外局。後に省内の内局に編成換え)が戦後に解体された際に流出したものを誰かが入手し、赤線を引いたのかもしれませんが、国家主義的な思想指導の中心となり、強大な力をふるった教学局の思想課の所員が、内容をチェックしながら読んだことは確かです。教学局が購入したのは、小野清一郎や蓑田胸喜たちが津田を攻撃する前なのか後なのか、気になるところです。「和」は「和書」ということでしょうが、その番号が 2692 とあるところから見ると、あまり早い時期の購入ではなさそうですが。

 文部省が昭和十年頃から盛んに出すようになった国家主義路線の聖徳太子関連の小冊子については、別に書きます。

法隆寺の荘厳: 百橋明穂『古代壁画の世界--高松塚・キトラ・法隆寺金堂--』

2010年07月25日 | 論文・研究書紹介
 若草伽藍(斑鳩寺)の壁画の破片を調査した百橋明穂氏の本が出ました。

百橋明穂『古代壁画の世界--高松塚・キトラ・法隆寺金堂--』
(吉川弘文館、歴史ライブラリー297、2010年6月、1700円)

です。本書の構成は、以下の通り。

 美術史と考古学--プロローグ
 古墳壁画の世界
   高松塚古墳の壁画
   キトラ古墳の壁画
   高松塚・キトラの相違と特徴
 寺院を荘厳した絵画
   法隆寺金堂壁画
   発掘された寺院壁画--上淀廃寺の衝撃
   彩られる寺院の内部--堂内壁画荘厳の系譜
 古代の絵画を描いた人々
   古代の画師とその実像
   作画活動の実態
 東アジアの壁画文化--エピローグ

 「法隆寺金堂壁画」の項では、2004年11月に、法隆寺南門を出たところの築地塀の外、つまり、以前はため池であった場所から発見された壁画の破片についても、簡単に触れられています。火災にあった痕跡を残すこれらの壁画破片が発見された時は、かなりのニュースになったことを思い出します。これによって、現在の法隆寺ばかりでなく、その前身である若草伽藍(斑鳩寺)でも金堂内が壁画によって荘厳されていたことが確認されたからです。つまり、厩戸皇子が建てさせた原法隆寺は、最新の技術・美術が盛り込まれた先端の寺だったのです。

 ただ、百橋氏は、破片から見て、若草伽藍の壁画は、現金堂の壁画のような本格的な浄土図や仏・菩薩を精密に描き分けたものではなく、玉虫厨子板絵のような図柄を配した程度のものではないかとしています。また、氏は、法隆寺再建問題については諸説があり、「建築史に関する疑問は未だ解決したわけではない」(92頁)としたうえで、「現在の金堂をいずれの時期の建立になると考えても、壁画に関しては七世紀末、八世紀初めと推定して間違いない。……西暦でいえば七○○年頃とするのが妥当と思われる」(92~93頁)としています。そして、壁画の技術や素材は高度であるものの様式はやや古く、これは金堂の建築様式が古様であるのと同様であることに注意しています。

 本書の副題は「高松塚・キトラ・法隆寺金堂」となっていますが、特に印象深いのは、百橋氏が最初から関わっていた鳥取県西部の上淀廃寺の壁画に関する報告です。七世紀末から八世紀初めに鳥取西部に建てられたこの古代寺院跡からは、小さな神将・天部、菩薩などの画の破片が見つかっているものの、本尊となる仏像の破片は見いだされていません。中でも、金堂基壇外側の東側から西側にかけて様子が異なっているため、この面では仏像は壁の前に安置されていたのであって壁には描かれず、壁画には頭光と蓮台などの付属物だけが描かれて荘厳をなしていたものと推測されています。このことは、天寿国繍帳について考えるうえでも参考になるでしょう。

 後半の「古代の絵画を描いた人々」では、高句麗系の画師である黄文[きぶみ]本実その他の画師の系譜やあり方の変化が詳細に示されており、きわめて有益です。終章となる「東アジアの壁画文化」の章では、高句麗壁画を中心にして東アジアの壁画の流れが簡単に紹介されています。法隆寺金堂の壁画については、「東アジアの絵画制作の古典的記念碑である」ことが強調され、また、「唐からの先進的な画題や様式を摂取し、さらにそれに習熟できた画師達として高句麗からの帰化系の画師、なかでも黄文の存在」が強調されています。

 百橋氏のこうした論述は、聖徳太子や聖徳太子信仰について考えていく際、きわめて重要なものです。700年頃に最新の技術を用いて「東アジアの絵画制作の古典的記念碑」と評価されるほど高度な壁画が制作されたとなると、国家の主導、ないし、それに近いほどの支援があったことが考えられます。700年であれば天皇は文武ですが、まだ17歳にすぎず、譲位した持統が後見役として実権を握っていた頃です。また、芸術的な傑作である金堂壁画の写真と最近の研究に基づく解説を眺めていると、稚拙と言いたいほど素朴な絵柄である「天寿国繍帳」との違いが気になります。とにかく、いろいろなことを考えさせられる本です。

【追記】
 この原稿は、既に書いてあったのですが、昨日(7月24日)、明治大学で開催された内陸アジア出土古文献研究会の7月例会に参加したところ、まさにその百橋先生が後から来られ、私の斜め向かいの席に坐られたため、驚きながらご挨拶させて頂きました。こういう偶然は、たまにありますね

「教育勅語」や「国体の本義」に引き寄せた「憲法十七条」解釈:小野清一郎(2)

2010年07月19日 | 津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち
 小野清一郎(1891-1986)は、『中央公論』昭和14年11月号での津田左右吉批判に続き、昭和15年2月に刊行された小野清一郎・花山信勝共編の論文集『日本仏教の歴史と理念』(明治書院)所載の論文においても、津田批判を行っています。本書は、前年の7月に行われた島地大等の十三回忌法要の一環としてまとめられた弟子たちの論文集です。真宗の僧であって東京帝大で仏教を講じた島地大等は、近代日本の仏教学を代表する優れた仏教学者の一人であって、聖徳太子の思想を理解するには三経義疏、特に『勝鬘経義疏』に依るべきことであることを強調していました。花山信勝に三経義疏の研究を勧めたのも島地です。

 その島地に捧げられたこの記念論文集には、錚々たる研究者たちによる論文が並んでいます。ただ、時期が時期だけに、学術的な議論の間に国家主義的な主張というか、時局に関する演説めいたものがなされる例がしばしば見られます。そうした演説派論文の代表は、イギリス留学組の東大助教授であって、戦時中は国家主義を鼓吹し、戦後はアメリカ礼讃に変わった宮本正尊の「明治以後の日本仏教に就いて」でしょうか。

 小野の「憲法十七條の宗教的基礎」は、宮本論文ほど露骨ではありませんが、東大助教授であって津田の三経義疏説を批判した花山信勝の論文、「日本仏教の源流としての三経義疏」、そして京城大学教授の白井成允の「聖徳太子の御教の一端」という、題名を見ただけで内容が分かるような論文に続いて置かれていることから推測されるように、「憲法十七条」礼讃、聖徳太子礼讃です。「発達した後世の神道思想が古代において存在したと考へることは歴史的錯誤にすぎない」(220頁)といった批判的な見解が示されている箇所もあるものの、「教育勅語」に引きつけた時局的な解釈が目立ち、「憲法十七条」そのものの歴史的研究とは言えないものです。

 たとえば、「憲法十七条」冒頭の「和」については、直接の出典である『論語』や影響を与えた仏教の「和合」などとの違いを強調し、「わが日本国家を一の民族共同体として把握し、其の共同体的な和の精神をもつて其の事理を明かにし、その事理に従つて国家の経綸を行ふべしといふ意味のものである」(71頁)と断言します。そして、「教育勅語」に「億兆心ヲ一ニシテ」とあるように、「億兆一心の和こそは国体の精華を発揮する所以である」(72-3頁)といった方向で論じていくのです。しかし、「憲法十七条」そのものついて言えば、「和」は臣下たちに対して要請されているのであって、民衆は関係ありません。「民」は、監督保護されるべき存在として位置づけられているにとどまります。これは、儒教としては当然の考え方です。

 しかし、小野は、「憲法十七条」は海外思想を盛んに取り入れてあるものの、その柱となっているのは優秀なる日本民族のあり方なのだとします。つまり、「憲法十七条」の「和」は、海外思想の影響というよりは、それらを材料とした「日本精神そのものの自爾の発展である」とし、「憲法十七条」は聖徳太子なればこそ作り得た高次な国法なのであって、近代日本の「教育勅語」を先取りしているとされるのです。そして、そこには「思ひあがれる民主主義を容[い]るる余地なきと同時に、又独裁政治を容るる余地もない」と断言しています。そのような「民族的共同体としての大和の世界が確保されるべき」であり、「憲法十七条の宗教的・国家的精神はかくて永遠に実現されてゆくのである」(83頁)というのが、同論文の結論です。「思ひあがれる民主主義」というのは、天皇が統治する神国日本に、個人が何よりも尊いと説くような欧米流の民主主義を取り入れようとするのは不遜である、というのでしょう。むろん、庶民が成り上がって権力をふるうヒトラー流の「独裁政治」も、日本ではとうてい受け入れられないとしています。

 このように、当時の日本の政治状況を「憲法十七条」のうちに読み込む人は、社会が軍国主義化すれば、そうした風潮を「憲法十七条」に読み込んでいくことになります。文部省では、国家主義的な学者たちを集め、「教育勅語」を更に国家主義的にした「国体の本義」を編纂させ、昭和13年に全国の学校に配布しますが、小野は、早くからその作成に関わった学者たちと交流しており、「国体の本義」が配布される前からその主張の影響を受けていました。「憲法十七条」の「和」は、西洋で説かれるような「武力闘争を排斥する」単なる「平和」や民主主義ではなく、もっと高次のものだと主張するようになった(小野「和の倫理」、東京大学仏教青年会『仏教文化』11巻34号、1937年)のも、その一例です。

 しかし、武力を用いない単なる「平和」より高次なものとなると、平和のための武力発動も含まれることになります。小野は、「国体の本義」作成にも関わった紀平正美のように、荒々しい「武」の発動も含むのが「和」を超えた「大和」だ、などと強調することはありませんでしたが、「憲法十七条」の「和」について「軟弱なる教育主義でもないことが明かである」と述べています(「憲法十七条における国家と倫理」、『改造』20巻8号、昭和13年)。単にやさしく教えるだけではないと言うのです。

 そして、かつては「憲法十七条」の「和」を「教育勅語」の「億兆心ヲ一ニシテ」という箇所によって解釈していた小野は、「国体の本義」以後しばらくすると、「和」とは、天皇に一心に従う臣民たちの「絶対なる随順の和」なのだと断言するまでに至っています(「憲法十七条における和の精神について」、小野『日本法理の自覚的展開』、1942年)。つまり、国民が「和」して、一体となって努力して立派な仕事をなしとげるという方向の解釈が変わり、親鸞崇拝の国家主義者たちの間で阿弥陀仏などに対して用いられていた「随順」の語を天皇への姿勢に用いることにより、国民が一体となって天皇に全身全霊で従うのが真の「和」である「随順の和」だという、ほとんど宗教的な「和」を説くようになったのです。これは、「憲法十七条」そのものとは、全くかけ離れた解釈です。

 このように、「憲法十七条」は日本の民族精神に基づくものであって、「教育勅語」と内容が一致するとし、さらに「国体の本義」の主張と重ね合わせて理解するようになっていった以上、その「憲法十七条」が聖徳太子の作であることを疑ったり、中国の思想を切り貼りして作ったものだとするような主張がなされれば、強く反発せずにおれないのは当然でしょう。小野にとっては、そうした説は、「教育勅語」や「国体の本義」を、つまりは、政府や文部省が示した日本のあり方を否定するに等しいことになるのです。

 小野は、穏やかな性格でしたが、上記の「憲法十七條の宗教的基礎」では、「憲法十七条が後代の偽作なることを主張する学者があるが、これは憲法十七条の精神的内容に対する理解なきところから生ずる盲目的臆断である」(79頁)と述べ、津田説を感情的な調子で論難しています。小野たちがあちこちで行なっていたこうした批判が、東大法学部に津田を招いて講義させていることに反発していた蓑田やその仲間の注意を引きつけ、津田攻撃の際に利用されたのです。


『日本書紀』の聖徳太子は本当に儒教の聖人か?

2010年07月18日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 聖徳太子は、『日本書紀』の最終編纂段階において、中国の聖天子に匹敵するような理想的天皇像を示すために、儒仏道三教の聖人として創造されたのだ、そんな人物はいなかったのだ、というのが大山氏の「聖徳太子架空人物説」ですが、疑わしい点の一つが太子=儒教聖人説です。 『日本書紀』では、厩戸皇子が「聖」であることが異様なまでに強調されていることは事実です。ただし、項目ごとに儒仏道の三教が完全に区別されて説かれているわけではありません。たとえば、片岡山飢人説話においては、世間の人々は、衣だけ残して墓から姿を消したその飢人を、太子が「真人」あると見抜いていたことに驚き、「『聖は聖を知る』というのは、本当のことだった」と言い合った、と記されています。 「真人」で尸解となれば、仙人の系統ということになりますが、凍え飢えている者に衣食を与えるのは、儒教の聖王の仕事です。実際、「聖は聖を知る」云々の部分は、中国の類書(百科事典的文例集)の「聖」の項目を利用して書かれています。手当たり次第というと言葉が悪いものの、『日本書紀』は、これまで考えられてきた以上に類書を利用し、様々な思想系統の文章を切り貼りして書かれているのです。 大山氏が儒教的な箇所の代表とするのは「憲法十七条」ですが、この「憲法十七条」は儒教・仏教・法家・老荘などの思想が混じっていることで有名です。私自身は、「憲法十七条」は『呂氏春秋』のように雑家と言われる諸系統の思想が混合した書物も利用している可能性があると書いたことがあります。つまり、『日本書紀』の聖徳太子関連記述は、一つの項目においてすら、儒教の聖人というイメージで押し通されていないのです。 それどころか、本当に儒教の聖人として描くつもりであったなら、中国人であれば書くはずがないことが『日本書紀』には描かれています。すなわち、厩戸皇子が崇峻天皇を弑逆した蘇我馬子とともに政治を行なったことです。これは、聖人どころではなく、儒教の教えに背く反道徳的な行為です。だからこそ、江戸時代の儒者たちは厩戸皇子を悪逆な人物として非難したわけです。しかし、儒教の立場からそうした批判がなされるであろうことは、当然、予想できたはずです。だったら、なぜ、そのような設定にしたのか。 大山誠一「『日本書紀』の構想」(大山誠一編『聖徳太子の真実』、2003年)では、聖徳太子を架空の人物とするだけでなく、当時は実際には蘇我馬子が「大王」であったのに、『日本書紀』はそれを隠して用明・崇峻・推古が天皇であったように記したのだ、とされています。つまり、天皇としての用明・崇峻・推古はいなかったのであって、『日本書紀』は捏造に捏造を重ねているというのです。それほど自由勝手に捏造することができたのなら、なぜ、厩戸皇子を非の打ち所のない聖人とする設定にしなかったのでしょう。 厩戸皇子は少年の身でありながら横暴に振る舞う馬子を戒めた、といった記述くらいあっても良さそうに思われますが、そうした記述はまったくありません。理想の天皇像を示すために創造されたという皇太子が、天皇を暗殺させた大臣と常に一体となって活動しているというのは、大変な問題ではないでしょうか。厩戸皇子が活躍していた間は、逆臣の馬子は退けられ、厩戸皇子が死んだら馬子や蝦夷が我が物顔にのさばり始めた、といった設定にすることもできたでしょう。そうなっていないのは、どういう理由によるものなのか。 中でも、「皇太子と嶋大臣(馬子)、共に議[はか]りて、天皇記及び国記」その他を編纂したなどというのは、二人の仲の良さを示しているような書き方です。史書というのは、『春秋』が示すように乱臣賊子に筆誅を加えて道義を明らかにするためのものだと教えられてきた中国人が、儒教的な聖人だという皇太子が主君を弑逆した大臣と相談して一緒に国史を編纂した、と書いてあるのを見たら、驚いてひっくり返るのではないでしょうか。 しかも、「皇太子嶋大臣共議之、」とあるうち、「之」は「議[はか]りて」の「て」に当たるものであって、朝鮮・日本でよく用いられ、『日本書紀』でも多く見られる中止・終止の用法であり、倭習の一つです。この文章の前では国史編纂のことは触れられていませんので、「之」を「これ」という代名詞と見て「之を議して」と訓むことはできません。 つまり、『日本書紀』については、いろいろ潤色したり机上で都合よく創作したりした部分が多いのは確かであるものの、『日本書紀』の立場にとって困る事柄がかなり記録されていること、それも倭習だらけの文体で書かれていることも事実なのです。これについてどう考えるのか。中国の儒教に通じ、漢文に熟達している人物が完璧に捏造しておれば、こうした問題はなかったでしょう。

【2022年4月9日:付記】
 他のところでも書いておいたのですが、儒教が尊ぶ徳目は、「仁」や「孝」です。そのため、『日本書紀』で神格化されている天皇の代表である仁徳天皇は、「仁孝」であったと強調されていますが、『日本書紀』は厩戸皇子を神格化して描いておりながら、父に対して「孝」であってとか、「仁」の心を持っていたなどとは、まったく書いていません。
 また、儒教は上下の道徳規範である「礼」と、礼による緊張・対立を上下の異なる音のハーモニー(和音)でなごませる「楽」を教育の柱としているものの、「憲法十七条」は「礼楽」を強調した中国古典の表現を用いながら、「礼」だけを説いて「楽」の部分を省いていますし(最近発見したこの件については、こちら)、「孝」についても説いていません。寝食を忘れるほど音楽好きであって「楽」を重視していた孔子が「憲法十七条」を読んだら、「こんなのは儒教ではない!」と怒るでしょう。

「憲法十七条」を重んじて津田左右吉を批判した法学者: 小野清一郎(1)

2010年07月17日 | 津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち
 今回は、蓑田のような偏った性格の狂信的な超国家主義者ではなく、彼らの目を津田に向けさせるきっかけの一つを作った性格温厚な国家主義の法学者、ということになります。ただし、もちろんのことながら、親鸞を信仰する熱烈な聖徳太子礼讃者です。

 明治24年に盛岡に生まれた小野清一郎は、盛岡中学校在学時に、明治の傑僧と言われた真宗の学僧、島地黙雷の講義に接して感銘を受けました。一高・東京帝大法律学科に進んでからは、その黙雷の養子であって東大で日本仏教史を講じていた島地大等の小石川の家で、大等から親しく教えを受けたそうです。また、欧米留学の経験もある近角常観は、明治になって注目を集めるようになった『歎異抄』に基づき、近代的な親鸞解釈と浄土信仰を説いていましたが、東大近くにあったその近角の求道会館にも通い、日曜ごとに法話を聞いています。さらに、インド学・仏教学の第一人者であった高楠順次郎が発案した英文の仏教伝道雑誌、『ヤング・イースト』の第一期編集委員になったことも、小野の思想に影響を与えました。

 小野は、大正8年に東京帝大法科大学の助教授となり、欧米留学後には教授に昇進し、刑法研究の中心人物として活躍すると同時に、昭和8年には高楠順次郎の後を継いで東大の印度哲学科で教えた木村泰賢や聖徳太子信奉者の仏教学者、白井成允らと東京大学仏教青年会を組織し、活発な活動を始めました。熱烈な聖徳太子礼讃者であった印哲の花山信勝とも親交を深めており、数年後には共編で日本仏教の本を出すに至っています。

 この頃から、日本は中国や欧米諸国との対立が激しくなり、昭和12年には「支那事変」と称された日中間の戦争も始まりました。小野はその少し前から国家主義的な立場を強めていましたが、その拠り所となったのは「憲法十七条」であったこと、戦後になって新たな主張をするようになった際の根拠も「憲法十七条」であったことは、以下に示す法律学以外の著作のリストが物語っている通りです。

昭和8年  「仏教と平和と戦争」
昭和9年  「憲法十七条の国法性について」
昭和10年 「聖徳皇太子十七条憲法の国法性」
        「十七条憲法に現れたる国家及び法律観」
昭和12年 「和の倫理」
昭和13年 「憲法十七条における国家と倫理」
昭和14年 「和の倫理」
昭和15年 「憲法十七条の宗教的基礎」(小野・花山共編 『日本仏教の歴史と理念』)
       「東洋の存在」
       「憲法十七条の法理的思想内実」
昭和17年 「憲法十七条の政治理想」
       「憲法十七条における和の精神について」
昭和18年 「憲法十七条に見る日本肇国の精神」
昭和19年 「戦争と道義と法」
昭和20年 「道義建設への確信」
昭和21年 「夫れ事は独り断ずべからず」
昭和23年 「法の倫理--憲法の世界観」
昭和26年 「新憲法と聖徳太子」  

 これほど「憲法十七条」を尊重していた小野をいらだたせたのが、津田左右吉でした。津田は昭和初期には学者の間でしか知られておらず、日本古典に関する学説もさほど影響力を持っていませんでしたが、東洋諸国の文化を受け入れて発展させた日本が東洋の盟主となり、東洋の文化・道徳を体現して西洋列強と戦い、東洋諸国を救うのだといった当時の思潮に背を向け、昭和12年に岩波新書中の一冊として『支那思想と日本』を刊行しました。インド・中国・日本はもともと文化が違うのだから、「東洋文化」などというものは無い、と主張したものです。同書では、日本は中国の儒教を模倣したものの、深いところでは受け入れていないことを強調しています。

 さらに津田は、昭和14年3月号の『中央公論』に「日本に於ける支那学の使命」を発表して、日本と中国とは文化が違うこと、日本は中国のことなどまったく分かっていないことを強調したほか、同年には、東大法学部に東洋政治思想史講座を開設した南原繁の要請により、その初代担当者となって講義を行ないました。その時、法学部の助手として津田の世話をしたのが丸山真男です。

 津田説が広まることに危機感を覚えた小野は、『中央公論』11月号に「東洋は存在しないか」を寄せ、津田説は東洋を文化的に否認するものだとして批判しました。敬意を払ったうえでのまともな批判ですが、途中にはやや激した部分も見えます。特に、「憲法十七条」は、津田が言うような中国思想の単なる受容・模倣でなく、「わが民族的な精神を基本としつつ」中国の思想を背景とする国家統治の思想を取り入れたものであり、この伝統が建武中興や明治維新にまでつながるのだと反論した箇所などは、力が入っています。これを受けて、親鸞讃仰の聖徳太子礼讃者たちを中心とする超国家主義団体の運動家であった蓑田胸喜は、『原理日本』12月号に「津田左右吉氏の神代史上代史抹殺論批判」を載せ、激しい言葉を連ねて津田攻撃を行いました。そして、翌年、津田を不敬罪で告発するに至ったのです。

 西洋の近代的学問を何よりも尊重していた津田は、儒教の日本への影響度や中国・朝鮮の文化・学問を軽く見る傾向があり、小野の批判には当たっている面もあります。ただ、戦後、公職追放となった小野の「憲法十七条」解釈は、「教育勅語」の影響を受けており、文部省が国家主義の学者たちに作らせて昭和13年に配布した「国体の本義」が出るとそれに引きずられ、戦後はまた民主主義の影響を受けた解釈に変わっていったのに対し、津田の場合は、時局の変動によって「憲法十七条」解釈が変わることはありませんでした。以下は次回に。

倭習は道慈述作説否定の根拠にならないか?

2010年07月15日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 森博達さんや私は、『日本書紀』の聖徳太子関連記述には倭習が多いため、唐で16年も学んだ道慈の述作ではありえないとしているのですが、大山氏からの反論はありません。「倭習はそうした判断をする場合の有力な根拠にはならない」と考える人もいるようですので、大山氏もそう思っておられるのでしょうか。根拠にならない理由は、日本に長くいる外国人であっても、日本語を完全に話したり書いたりできない人が多いのだから、唐で長く勉強したとしても、母国語でない以上、間違いがあって当然だ、ということのようです。

 この問題について考えるうえで面白い本を、森博達さんが教えてくれましたので、取り寄せてみました。

志翹『《入唐求法巡礼行記》詞{サンズイ+匚}研究』
(中国社会科学出版社、北京、2000年)

です。本書は、唐代の口語・俗語を専門とする中国人研究者が、円仁の『入唐求法巡礼行記』四巻に見える用例について研究するとともに、頻出する漢文らしからぬ表現、つまり倭習について論じたものです。

 円仁は入唐当初は会話が十分にできず、あるいは方言の問題もあったのかもしれませんが、中国僧としばしば筆談しています。そうした状況が日記の文章にも反映しており、志翹氏によれば、『巡礼行記』の巻一と巻二には誤った表現が目立つそうです。しかし、氏は、円仁の漢語のレベルは次第に向上していったとしており、「~箇」という量詞の誤用については、「就逐漸減少、以至消失了」(80頁)と述べています。つまり、徐々に少なくなっていき、ついには無くなるに至った、というのです。

 これは重要な指摘です。「一冊の本」「二足の靴」「三頭の馬」、”a sheet of paper””two pairs of glasses”などというように、品物の数を表す表現というのは、外国人にとって厄介なものですが、円仁は留学生活が長くなるにつれて、その類の間違いが減っていき、代表的な量詞である「箇」については誤用がついに無くなった、というのですから、円仁の精進ぶりがうかがわれます。

 むろん、日本語における「は」と「が」の使い分けのように、非常に微妙であって、日本に10年、20年いて日本語ですらすら論文が書ける外国人でも時々間違える例もありますが、『日本書紀』の聖徳太子関連記述に見える倭習の多くは、そんな高級なレベルの間違いではありません。和風な言い回しをそのまま漢字にしたため否定詞の位置が違っている、といったごく初歩的なものです。

 美文の漢文で書こうとして間違った場合もあるでしょうが、『日本書紀』が材料とした資料が「もともとそうした表記法で書かれていた」、あるいは、『日本書紀』編纂者の一部も、前から馴染んでいた「そうした表記法で書いた」、と言うべき場合が多いのかもしれません。『日本書紀』が利用した百済系の資料にそうした変則な語法が多く見られることは、森さんの『日本書紀の謎を解く』(中公新書、1999年)が指摘している通りです。

 円仁は在唐12年であり、『巡礼行記』は、基本的な性格としては、自分の心覚えのために書いた日記です。一方、道慈は在唐16年であって、実際には大がかりな法要としての性格が強いのでしょうが、唐の宮中に百人の僧が招かれて『仁王経』の講釈を行なった際、その一人に選ばれたこともあるうえ、『日本書紀』は国家の正史です。しかも、大山説によれば、そのうちの聖徳太子関連記述は、中国の聖天子に匹敵しうる理想的な天皇像を示すために創作されたとされています。

 そのような重要な文を道慈が書くとなれば、明らかに和風な文体で書くはずがありません。道慈の漢語能力が円仁と同程度であれば、もちろんきちんとした漢文で書いたでしょうし、あるいは円仁より多少劣っていたとしても、中国の文献を切り貼りするなどして、美文の漢文に仕立てたはずです。それでも倭習は残ることでしょうが、「二箇の本」とか「三つの馬」といったレベルの初歩的なミスをするはずがありません。
 
 大山氏の最新の著書、『天孫降臨の夢』(日本放送出版、2009年)では、道慈は不比等・長屋王とともに「『日本書紀』の方向性を示し得るリーダー」の一人だったとしています(57頁)。しかし、そうした主張は成り立たないことは、このブログで前に書いた通りです。そんな初歩的なミスをたくさん見逃していたとなれば、「こうした方向で書け」と指示だけしておいて、担当者たちが書いてきた倭習だらけの文章を読んで直すこともなかった、ということになるからです。そのような道慈を、国家の正史の「リーダー」と呼べるでしょうか。
 
 そもそも、大山氏は、『聖徳太子と日本人』(角川ソフィア文庫版、2005年)では、道慈の役割を強調して、「聖徳太子関係の記事のほとんどが彼によって記されたことだろう」と述べ、「ということは、不比等や長屋王の意向を受けつつも、実質的に聖徳太子を創造したのは道慈だったということになる」(117頁)と説いていました。もし道慈の位置づけに関する考えが変わったのであれば、次の論文では、きちんと説明してもらいたいところです。
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不比等が「憲法十七条」を捏造させたとする大山説への疑問

2010年07月13日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 大山誠一氏と氏が主催する『日本書紀』の研究グループは、論文集である大山誠一編『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)を刊行しました。続いて、大山氏が所属する中部大学の国際人間学研究所が編集・販売している雑誌、『アリーナ』の第5号(2008年8月、人間★社、2100円)でも、背表紙に「天翔る皇子、聖徳太子」と大きく銘打って、聖徳太子非実在論を中心とする関連論文を集めた特集を組みました。ただ、この特集に執筆している人たちの中には、大山説に賛成でない人や、その研究グループに入っていない人たちも多少含まれています。

 それにしても、「天翔る皇子、聖徳太子」という特集タイトルは、少女マンガの題名を思わせるロマンチックなものですね。特集の見出しのページには、特集の趣旨を説明する大山氏の短文が載せられていますが、大山氏は、『源氏物語』では光源氏の病を治療した高名な僧都が光源氏に「聖徳太子が百済から得た金剛子の珠数」を贈っていることに触れ、「太子の珠数は再生を象徴する。聖徳太子は、海の彼方から時空を超えて飛翔し人々を救う。天翔る皇子だ」としめくくっています。

 このうち、「時空を超えて」という表現は、聖徳太子慧思後身説が中国に与えた影響や、上宮王作とされる『勝鬘経義疏』が中国にもたらされ、中国僧である明空が注釈を著し、その注釈を円仁が日本に持ち帰ったことなどを精査した王勇さん(現在は、浙江商工大学日本文化研究所長)の著書、『聖徳太子 時空超越』(大修館書店、1994年)に基づくものでしょう。大山氏は、王勇さんのこの書物の名を挙げて引用することはありませんが、他の著作でも似た言い方を用いており、書名とほとんど等しい「時空を超越する」という表現を使った箇所もあります。

 「天翔る皇子」の方は、聖徳太子に関して多くの著作を発表している梅原猛氏が、市川猿之介のために書いた歌舞伎作品、「ヤマトタケル…天翔る心」に基づくものでしょう。実際、この作品では、皇子であるヤマトタケルは空を飛びますし、伝承としての聖徳太子は黒駒に乗って空を飛んだとされています。しかし、この特集に収録されている諸論文には、「天翔る皇子」というタイトルにふさわしい内容のものはありません。しいて言えば、早島有毅「一幅本三国菩薩・高僧・先徳・太子連坐像の成立と聖徳太子信仰」が近いかもしれませんが、同論文は「海の彼方から時空を超えて飛翔」する太子、といった華々しいイメージとはまったく無縁です。特集の巻頭に置かれた大山氏の論文「<聖徳太子>誕生の時代背景」にしても、不比等が天孫降臨神話を作ったとする議論が主であって、「天翔る皇子」などにはまったく触れていません。何のためのタイトルだったのでしょう?

 その大山氏と『日本書紀』研究のグループでは、次の論文集2冊を、先に『聖徳太子の真実』を刊行した平凡社から出すそうです。どんな題名になるのか、また大山氏が大山説の根底をなす道慈述作説への批判などにどう答えるのか、あるいはこれまで同様に無視し続けるのかが注目されます(大山説批判を含む私のこの数年の関連論文はすべて大山氏にお送りしており、このブログのこともお伝えしてあります)。刊行されたら、ここで紹介して個々の論文についてコメントしましょう。おそらく、大山氏は、この『アリーナ』の論文のように、聖徳太子については従来の自説を簡単にまとめるだけで、不比等が天孫降臨神話を作ったという点を中心にして書かれるものと予想しています。

 その場合、問題になるのは、不比等が『日本書紀』の最終編纂段階になってそうした神話を作ったとするなら、不比等の意向による捏造だという「憲法十七条」が天孫降臨に触れないどころか、「神」という言葉を用いて天皇の権威づけをしていないのはなぜか、という点です。そもそも、「憲法十七条」に限らず、聖徳太子の活動が描かれる推古紀では、神祇関係の記述がきわめて少ないことは、多くの研究者によって指摘されてきたところです。不比等と長屋王と道慈が、理想的な天皇像を示すために聖徳太子を創造し、不比等が「憲法十七条」を作らせたというのであれば、神話によって天皇を権威づける条を入れることなど、簡単だったでしょう。なぜ、そうしなかったのか。

 実際、推古紀では八年春二月条に、軍を派遣されて難詰された新羅が、「天上に神有[ま]します。地に天皇有します。是の二の神を除きてては、何[いづこ]にか亦た畏[かしこ]きこと有らむや」と上表して以後の忠誠を誓ったという、後代の造作くさい記事があります。この文句を少し変えて「憲法十七条」に入れれば、天皇を「神」として権威づけることができたはずです。ところが、「憲法十七条」ではそうしたことはしておらず、「天皇」の語も用いていません。

 なお、推古十五年春二月条は、推古紀が仏教関連記事ばかりである印象を薄めるための『日本書紀』編纂者の作為とも言われていますが、神祇を祭ることを怠ってはならないとして推古天皇が神祇を拝するよう命じ、皇太子と大臣とが百寮を率いて神祇を祭り拝した、とする記述が見られます。しかし、この箇所でも、「神祇」とあるのみであって、高天原も天照大神も天孫降臨も出てきません。なぜなのでしょう。

 聖徳太子を理想的な天皇像を示すものとしたいなら、推古天皇の命令とせず、聖徳太子自身に天孫神話を語らせ、「だから、仏教とともに、あるいは仏教以上に神祇を崇敬すべきです」と提案し実践した、などとすれば良かったのではないでしょうか。大山説によれば、推古を天皇としているのも捏造であって、実際には馬子が大王だったというのですから、どんな状況でもセリフでも自由に捏造できたはずです。そうしておけば、聖徳太子が江戸時代の儒学者や国学者たちに「仏教偏重で、神祇軽視だ!」と非難されることはなかったことでしょう。

 また、大山説では、聖徳太子関連記述や仏教関連記述の多くは道慈の筆とされて来た以上、天孫降臨神話などの作成にも道慈が関わっていたのかどうかについて、明確な見解を示してほしいところです。大山氏は、かつては道慈が神話にも関与したとしていましたが、最近の著作では、そうした点は曖昧になってきたように思われます。道慈が関わっていたとするなら、道慈は帰国してわずか1年ほどの短い期間に、太子関連記述や仏教関連記述を執筆しただけでなく神話作成まで担当したことになり、超人的な活躍をしたことになります。もし、道慈は関わっていなかったのであれば、いったい誰が神話関連の個々の文章を書いたのか、それとも老齢であって『日本書紀』完成のすぐ後に亡くなる不比等が自分でかなり書いたり、細かいところまで指示したのかが問題になります。いずれにせよ、『日本書紀』の項目ごとに文体分析をすれば、筆者の癖などはかなり見えてきますので、近いうちにNGSMというコンピュータ処理法によって比較分析をやってみる予定です。
 
 「憲法十七条」については、前半は儒教の『孝経』の枠組みを利用していること、そして仏教の威力によって群臣たちを押さえようとしていたことについては、拙論「伝聖徳太子「憲法十七条」の「和」の源流」(『天台學研究』10輯、2007年12月)で触れておきました。同雑誌のこの号は、韓国で行われた「和」に関する国際シンポジウムの報告集であって、入手しにくいため、このブログにPDFを置いておきます。


仏教と道教の定義: 小林正美「東晋・南朝における「仏教」・「道教」の称呼の成立と貴族社会」

2010年07月11日 | 論文・研究書紹介
 前回の記事では、公伝時における仏教の受け止め方に関する論考を紹介しましたが、関連する最新の論文として、以下のものがあります。

小林正美「東晋・南朝における「仏教」・「道教」の称呼の成立と貴族社会」
(財団法人東方学会・中国社会科学院歴史研究所編『第2回日中学者中国古代史論壇論文集 魏晋南北朝期における貴族性の形成と三教・文学--歴史学・思想史・文学の連携による--』、2010年5月)

 すなわち、道教研究を中心として南北朝から隋あたりの儒仏道三教について独自の立場から精力的な研究を進めている小林先生の論文です。入手しやすいものではありませんが、いずれ国会図書館その他のコピー・サービスで利用できるようになるでしょう。
 
 同論文では、インドから伝わったものを Buddhismと呼ぶことにしたうえで、初期には北朝ではBuddhismについて「仏道」とか「仏法」といった言葉を用いており、空を飛び、奇跡を起こす「神」としての「仏」の「道術」「道法」としてとらえていたとします。この時期のBuddhismは、「仏」や沙門の呪力という面が注目され、信奉されていたことになります。

 これに対して、東晋になると、「周孔の教」に対比する形で「仏教」の語が使われるようになり、「仏」の「教え」というとらえ方、つまり、知識人的な受け止め方がなされるようなったとされます。聖人としての「仏」の「教法」としての「仏教」です。このため、古代の聖人の教えに基づく儒教の五経のように、聖人である仏の教えを記した教典が重視されるようになり、そうした仏典を読んで理解できる者こそが「仏教」の信奉者ということになります。この頃、登場した言葉である「釈教」も同じであって、聖人である釈尊の教えということです。

 このような変化は、道教についても生じており、かつては「五斗米道」や「黄老道」などと呼ばれていたものが、南朝も宋代頃になると、「仏の教え」に対比される形で「道教(道の教え)」と呼ばれるようになったとします。つまり、その当時、道教の教主とされていた「老子」の別名である「道」の教えとして、「道教」という言葉が登場したとするのです。「老釈二教」といった言葉が見えるようになったのも、この当時の特徴です。

 そして、小林先生が重視する宋代の改革派の天師道にあっては、知識人信者たちが仏教にならって自分たちの教えを「道教」と呼ぶことが広まったとされ、儒教・仏教・道教を「三教」と呼ぶのは、宋に続く「梁代に始まるようである」とされます。北朝では、北周の武帝の時にこの影響で「三教」の語が用いられるようになったものの、北朝ではまだ呪力の面が強い「仏法」としての理解が続いていた、というのが同論文の説です。

 実際には、同論文では資料をあげて詳しく論証していますので、関心のある方はどうぞ。中国におけるこうした受容のあり方は、日本の仏教受容を考えるうえでも重要です。日本は、儒教の定着の弱さや呪力への期待という面では、北方遊牧民族が為政者となった北朝諸国家に近い面がある一方、南朝の貴族仏教を手本とした百済の仏教を受け入れてましたので、南北双方の要素が変形された形で見られるように思います。

【追記:2011年9月13日】
同論文は、2011年9月に刊行・市販されました。中国社会科学院歴史研究所・財団法人東方研究会編『第二回日中学者中国古代史論壇論文集 魏晋南北朝における貴族制の形成と三教・文学』(汲古書院)です。

仏教伝来時の委託祭祀: 三橋正『日本古代神祇制度の形成と展開』

2010年07月09日 | 論文・研究書紹介

 『日本書紀』における聖徳太子の描き方は、仏教公伝以来の仏教関連記事と関係深いだけに、そうした仏教関連記事の真偽や描き方の特徴をどう見るかが問題になります。この点について考えるうえで、きわめて重要な問題提起をしているのが、

三橋正『日本古代神祇制度の形成と展開』(法蔵館、2010年2月)

です。前著の『平安時代の信仰と宗教儀礼』(続群書類従刊行会、2000年)によって、神道宗教学会賞や中村元賞を得た三橋さんは、私が高く評価する研究者の一人ですが、今回の本は、前著と同様、基本資料を精読するなかから、日本人の宗教意識のあり方や、様々な系統の宗教儀礼が使い分けられて並立している状況を浮かびあがらせるに至っており、結論先行型、理論先行型の研究とは異なります。

 三橋さんは、古墳を築造していた王朝と律令を制定した王朝は、祭祀関連の文物から見て大きな断絶がなかった以上、仏教は、古墳時代の信仰形態の中で受け入れられ、その中で変化し、また周辺を変化させていったとします。その一例が、「委託祭祀」です。


 崇神天皇の代には、疫病などをおさえるため、祭らねばならない神々が見いだされ、それぞれの神にふさわしい奉仕者が設定されたことが伝えられています。個々の記述すべてを史実とすることはできないものの、そうしたパターンが見られるのは事実であり、天照大神もその図式の中で描かれていることが注目されます。

 仏教についても、欽明天皇が初めて仏教を受け入れるに際して、まず蘇我稲目に仏像を託して試みに拝ませることにしたとされているのは、まさにそうした委託祭祀と一致するのです。外国の神であったためにそうした特殊な措置をしたわけではありません。

 聖徳太子についても、推古11年に、太子が「自分が持っている尊い仏像を、誰か拝む者はいないか」と大夫に尋ねたところ、秦河勝が進み出て「自分が拝みましょう」と申し出て蜂岡寺を作ったという記述がありますが、これも、しかるべき奉仕者を見いだして祭祀を託す、というパターンだとされます。

 三橋さんは、さらに日本の信仰における「柱」の意義とからめて議論を展開しており、日本古来の風習と思われる宗教意識や神観念が、実際には歴史の中でどのように形成されてきたか、を明らかにしています。つまり、最初は従来の神観念の中で受け入れられた仏教に対する理解が進み、仏教が王権を支えるものとなっていくにつれ、そうした仏教の影響を受けつつ仏教からの独自性を主張する神祇の思想が形成され始め、しかも「習合と隔離(分離)」という図式ではとらえられない仏教と神祇との複雑な影響・相反作用が進んでいったことが示され、天皇そのものの神格化をめざした天武朝が画期的な役割を果たしたことが説かれています。現代にも見られる日本の宗教の重層性について関心を持つ人には、ぜひお勧めの一冊です。

 本書全体の論旨はお伝えできないため、聖徳太子に関わる部分だけ着目させてもらうと、先の太子と河勝の記事は、崇神天皇や欽明天皇と同じパターンで、つまり日本風な委託祭祀の一例として描かれているという点が重要です。入唐した経験を持つ人物が、太子を中国の熱心な仏教信者の帝王になぞらえ、中国の文献を切り貼りしてゼロから書いたのであれば、あのような書き方にはならなかったでしょう。実際、推古11年のその記事には、私が先の論文で指摘したように、倭習がいくつも見られるため、唐に16年も留学した道慈が書いたものとは考えられません。


『勝鬘経義疏』が中国北地成立なら地論宗の作:論文集 『地論思想の形成と変容』刊行

2010年07月06日 | 論文・研究書紹介
 藤枝晃先生がひきいる敦煌写本研究班は、『勝鬘経義疏』と内容が七割ほども一致する写本(奈93、玉24)を1968年に敦煌文書中から発見した際、これこそ『勝鬘経義疏』が「本義」と呼んでいる種本だとして、仮に『勝鬘経義疏本義』と名付けました。ここではこれを「敦煌本」と呼ぶことにしますが、研究が進むにつれ、この「敦煌本」が『勝鬘経義疏』の直接の種本になったのではなく、さらに元本があって、それが一方では「敦煌本」に流れ、一方では『勝鬘経義疏』に流れた結果、両者が似るようになったのだ、いや、中間にさらにもう一部、別な注釈が入っているはずだ、などと推測されるようになりました。

 そうした諸本の影響関係について、書誌学者の藤枝先生と、班員であった仏教学究者の古泉圓順先生とでは、説が微妙に違っていますが、古い形態を残す「敦煌本」は、中国北西の辺境である敦煌の地から発見された以上、隋より前の中国北地の注釈だと見る点は一致していました。つまり、『勝鬘経義疏』は北地の系統であって、『法華義疏』が中国南朝の梁を代表する学僧の一人である光宅寺法雲の『法華義記』を「本義」としているのと異なるということです。このことは、三経義疏は実はばらばらの注釈を寄せ集めたものだ、とする主張の根拠となりました。

 いずれにせよ、六世紀後半以前の中国北地の作という見方が正しいのであれば、その頃、北地で栄えていたのは地論宗ということになります。ただ、『勝鬘経義疏』には「梁」という言葉も見えていました。そこで、古泉先生は、敦煌本は、梁の仏教の影響を受けた地論宗の作と考えるに至ったようです。問題は、この時期の地論宗の文献はほんの僅かしか残っておらず、その実態が分からなかったことです。そこで、古泉先生は1980年初頭あたりから、敦煌写本中の地論宗文献を探しだし、その内容や成立時期を検討するようになりました。

 これをきっかけとして、若手の研究者たちが敦煌写本中の地論宗文献に取り組むようになりました。1990年代になると、華厳宗の研究者であってその源流を追っていた私や、天台宗への地論宗の影響を追求していた青木隆さんなども、敦煌写本に取り組むようになり、地論宗文献をいくつか発見するに至っています。特に青木さんは、地論宗文書の年代判定法を確立し、大きな功績をあげました。

 一方、藤枝先生が活躍した京都大学人文科学研究所では、荒牧典俊先生が藤枝先生らの敦煌写本研究の伝統を受け継ぎ、同研究所に新たな研究班を組織して地論宗写本の研究を進められました。その成果報告書である荒牧典俊編『北朝隋唐 中国仏教思想史』(法蔵館、2000年)には、青木さんと私も、関東から参加しています。つまり、敦煌写本研究によって地論宗研究、中国北地仏教研究が盛んになったのは、『勝鬘経義疏』の中国撰述説論争がきっかけだったのです。

 敦煌文献によって『維摩経義疏』も中国成立と説いたり、『維摩経義疏』には北地仏教の影響があるとする若手研究者も現れました。これに対して、その当時、敦煌文書中の『法華経』『維摩経』『勝鬘経』の注釈を精査していた平井宥慶先生は、こうした注釈の流れから見て、日本で三経義疏が書かれても不思議ではない、とされています。ともかく、諸説乱立状態であって、まったく決着がついていないのが仏教学の実状です。

 以後、地論宗研究は下火になっていたところ、国家支援を受けて中国仏教研究の大プロジェクトを立ち上げていた韓国の金剛大学校仏教文化研究所が、昨年の夏に地論宗研究の国際シンポジウムを開催し、その成果報告論文集の日本語版が、このほど刊行されました。困難な状況の中で計画を進めた金天鶴所長と、日本語版の厄介な編集事務を担当してくださった研究所のプロジェクト担当教授である山口弘江さんのご苦労のおかげです。

金剛大学校仏教文化研究所編『地論宗形成の形成と変容』(国書刊行会、2010年6月、16000円)

です。敦煌出土の地論宗写本の文献集も、この秋あたりに同研究所から刊行される予定となっており、青木さんや私も協力中です。この論文集と文献資料集が揃うと、地論宗研究は画期的に進むことになるでしょう。文献集には、『勝鬘経』の注釈書も含まれる予定ですので、『勝鬘経義疏』研究にとっても有益です。

 論文集は、三経義疏との関連を含め、研究の経緯・現状と今後の課題を説いた私の「地論宗研究の現状と課題」(昨年のシンポジウムでの基調講演)で始まり、この分野で最も業績をあげた青木隆さんの「敦煌写本にみる地論教学の形成」が続き、以下、日本・韓国・中国・アメリカ・フランス・ハンガリーの研究者が、様々な観点からの論文を寄稿しています。総計17本もの論文が並ぶ地論宗の論文集というのは、これが世界初です。欧米の研究者の論文3本は英文ですが、韓国・中国の研究者の論文はすべて日本語訳されています。

 『勝鬘経義疏』について論文で触れる人、特に藤枝先生の中国撰述説に賛同する人は、ざっと目を通し、江南の学風との違いをわきまえておくべきでしょう。私は『勝鬘経義疏』は江南の系統であって日本成立と考えてますが。


聖徳太子関連の英文研究書3冊

2010年07月05日 | 論文・研究書紹介
 中世日本の神道・密教や、江戸末以後の近代仏教に関しては、欧米の研究者たちがものすごい勢いで取り組んでおり、彼らの研究を無視してはやっていけない状況になっています。古代仏教についてはそこまで行っていませんが、題名に聖徳太子が出てくる英文の研究書が、この数年のうちに3冊出てますので、ご紹介しておきます。

 まず、

Kenneth Doo Young Lee. _The Prince and the Monk: Shotoku Worship in Shinran's Buddhism_, State University of New York Press, Albany, 2007.

  アメリカにおける東アジア仏教研究の拠点の一つであるニューヨーク州立大の出版局からの刊行。著者は1966年生まれ。こちらは、聖徳太子と言っても、親鸞における聖徳太子信仰を扱ったものです。固有名詞の訓み間違いが多いですね。第2章では、"Legendary Shotoku" と "Historical Shotoku" に分けて概説していますが、後者では、津田左右吉説の紹介で始め、続いて大山誠一説を長々と紹介して、それですませています。うーん、影響が大きいなあ。

 不思議なことに、その章の注でも、巻末の Bibliography でも、大山説の典拠については、

Oyama Seiichi. _Nihon shoki no koso_. Tokyo: Heibonsha, 2003.
-----. _"Shotoku Taishi" no tango_. Tokyo: Yoshikawa kobunkan,1999.

となっています。「誕生」が "tango" となっているのはタイプミスだとしても、「Nihon shoki no koso(日本書紀の構想)」が本の扱いになっているのは間違ってますね。これは、大山誠一編『聖徳太子の真実』のうち、大山氏が書いた個別論文ですから、上の書き方はまずいです。同書全体を見ておらず、その論文のコピーだけを入手し、編者と論文の著者が同じなので、本と勘違いしたのか、などと疑われます。いずれにせよ、文献学としては感心できないやり方であり、内容も特に新しいことはないため、コメントはこれでおしまい。

 次に、

Drothy C. Wong ed.. Horyuji Reconsidered 法隆寺の再検討, Cambridge Scholars Publishing, Newcastle, 2008.

 こちらは、序を含めると10人の研究者による論文集です。序、プロローグ、第一部「建築と美術」、第二部「宗教」、エピローグ、著者紹介、索引、という構成です。

 Drothy C. Wong 氏の「法隆寺壁画の再評価」などは、編者の論文だけあって労作であり、Nancy Shatzman Steinhardt 氏の「中国を通じて法隆寺を見る」なども、知らないことが多く、勉強させてもらいました。そうした建築史や美術史の方に比べ、歴史研究の方は、引いている論文も古いものが多く、新味に欠けるという印象です。

 最後は、上記の論文集にも寄稿していた Como氏の作です。

Michael I. Como. _Shotoku: Ethinicity, Ritual, and Violence in the Japanese Buddhist Tradition_, Oxford Universtiy Press, New York, 2008.

 「日本の仏教的伝統における民族性、儀礼、暴力」という副題が示す通り、現代風な視点による試論です。第7章が「Doji, Saicho, and the Post-_Nihon Shoki_ Shotoku Cult」となっていることが示すように、道慈の役割を重視してますが、これが大山誠一説を受けた議論であることは言うまでもありません。実際、後半の章では、かなり大山説を使って書いてます。しかし、索引によれば、Oyama Seiichi は、4-5、6、7頁で言及されることになっているだけです。これは、感心できませんね。大山説を最近の通説と見て、一々大山説とことわらなかったのかもしれませんが、それはそれでまた問題です。

 ただ、Como氏は、なかなかの才人であり、ところどころで興味深い指摘が見られます。『日本書紀』において、”Yamato rulers” が”Sage King”、つまり「聖王」と賞賛される場合は、朝鮮諸国、ないし、そこから来た人物によってそうした発言がなされていることを一覧表にして指摘した箇所(90頁)などは、その一つです。これはまさに副題にあるような民族中心主義の現れですが、国内で為政者を礼讃する場合は別な伝統的なやり方があったことを推測させるものでもありますね。いずれにせよ、『日本書紀』は、国内と中国だけでなく、朝鮮諸国やそこから渡来した氏族などを強く意識して書かれていることに注意すべきであることは確かです。


垂迹としての聖徳太子:吉田一彦氏の最新論文

2010年07月03日 | 論文・研究書紹介

 学部の論集用に、「三経義疏の共通表現と変則語法(上)」という原稿を提出しました。変則語法については、今回は『勝鬘経義疏』中の主なものだけを扱いましたが、中国人ならあり得ない表現の連続です。あまりにも奇妙な箇所だけ中国人の研究者に見てもらったところ、「これは漢文とは言えないです」とのことでした。そうした用例は複数ある場合も多いため、すべて誤写ということで説明することはできません。

 さて、その『勝鬘経義疏』と関わる論考を送っていただいたので、紹介します。大山氏と並んで聖徳太子非実在説を推し進めてきた吉田一彦さんの「垂迹としての聖徳太子--早島有毅「聖徳太子信仰と三国仏教史観」によせて--」(『同朋大学仏教文化研究所紀要』29号、2010年3月)です。題名が示すように、早島有毅氏の最近の研究に対するコメントという形で、真宗の聖徳太子観について述べたものです。

 真宗の寺院では、聖徳太子の画と、インド・中国・日本の高僧たち七人を描いた画を本堂にかかげるのが一般的ですが、インド・中国・日本という三国の枠組みは、朝鮮を外し、また中国を相対化して自国の意義を強く意識する平安期およびそれ以後のナショナリズム的な意識と強く結びついていることが、前田雅之さんなどによって明らかにされています。したがって、聖徳太子信仰がそうした三国意識と結びつくのはいつ頃からか、が問題になります。しかも、そのような枠組みの中で描かれる太子は、垂髪の姿で描かれており、吉田さんは、これについては、救世観音として描かれたとする早島氏の主張に賛成します。

 そこで、吉田さんは、太子が救世観音の「垂迹」とされるようになった時期を問題にします。本地垂迹という考え方は、日本独自のもののように思われがちですが、「垂迹」というのは中国仏教の概念であり、日本では最初に「垂迹」の語が用いられ、後に「本地」の語も用いられるようになったことは、吉田さんが先に論文「垂迹思想の受容と展開--本地垂迹思想の成立過程--」(速水侑編『日本社会における仏と神』、吉川弘文館、2006年)で検討されたところです。  

 ただ、「垂迹」という概念について、「教学のレベルでは、日本に八世紀前期には伝えられており、智光など学僧の書物に用いられていた」(21頁)とするのは、どうでしょう。「垂迹」の語は、『法華義疏』の「本義」である梁の光宅寺法雲の『法華義記』などに既に見えていて本迹論議がなされており、『法華義疏』自体は用いていないものの、『勝鬘経義疏』と『維摩経義疏』には見えています。三経義疏の位置づけが問題になりますが、残存文献が少ない新羅でも七世紀には論じられていますし、三論宗文献でもしばしば論究されるため、「日本に八世紀前期」というのは遅すぎるでしょう。

 吉田さんは、藤井由紀子「『救世観音』の成立について」(佐伯有清先生古稀記念会編『日本古代の祭祀と仏教』)によれば、救世観音というのは日本以外には存在せず、太子を救世観音だとした最初の文献は『聖徳太子伝暦』だとして論を進めていますが、唐の道宣の『広弘明集』が収録する梁の簡文帝の「唱導文」中に、「礼救世観音」(大正52巻、205c)とありますし、簡文帝の父である武帝は内外で「救世菩薩」と呼ばれていました。日本に仏教を伝えた百済は、この梁代仏教を模範としていましたので、太子を救世観音とする信仰については、梁の仏教と百済の仏教の影響を考えた方が良いように思います。

 以下の部分では、吉田さんは四天王寺と法隆寺が聖徳太子信仰をリードしようとして競い合い、相互に影響を与え合ったものの、四天王寺がむしろ先行していたことを指摘しています。そして、垂髪の問題については、飛鳥時代の様式とされる菩薩像には垂髪が表現されることは少なく、しばしば蕨手状に造形されていることに注目し、それらの像の頭部から垂れているのは宝冠をとめる冠帯であって髪ではないものの、親鸞系門流ではそれらを混同し、冠帯状の垂髪を描いたのではないかと推測されています。そして、太子を取り巻いて描かれる人物については、思想的な観点から考える必要があるとしてしめくくっていますが、確かに、どの人物がどのように描かれているかは、太子信仰の変化と系統を考えるうえで重要でしょう。 やはり、美術作品を無視しては、思想研究も不十分となりますね。