聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

『法華義疏』の画像データベースによると重要な訂正部分は別人の筆跡:飯島広子氏の博士論文

2021年02月18日 | 論文・研究書紹介
 先日の「三経義疏を N-gram分析してみれば共通性と和習と学風の古さは一目瞭然」記事(こちら)は、かなりのアクセスがありました。あるいは、三経義疏に対する関心というより、古典をコンピュータ処理するという点が興味深かったのかもしれません。そこで、今回はその続編として、画像データベースを用いて『法華義疏』の書風を分析した論文を取り上げます。

 『法華義疏』は、廃仏毀釈によって困窮していた法隆寺が(寺の僧が7名にまで減ったと、昔、法隆寺の方からうかがいました)、明治11年(1878)に多数の宝物を明治天皇に献納して褒賞のご下賜金、1万円を得、雨漏りがしていた金堂の修理などをおこなった際の宝物の中に含まれていたものです。

 宝物のほとんどは後になって国家に寄贈され、現在は上野の国立博物館のうちの法隆寺宝物館に収められていますが、明治天皇が身近に置いていた『法華義疏』や「唐本の御影」と呼ばれる例の肖像画はそのまま留め置かれたため、これらは現在、宮内庁が管理しています。

 その『法華義疏』については、真作説以外に、中国伝来説、朝鮮成立説、太子学団作成説、後代日本製作説など、実に様々な説が出されており、実際に筆をとって書いたのは誰かについても、真筆説、写経生説、側近説などいろいろな説がなされています。

 このうち、敦煌文献学者である藤枝晃氏や書道史家の魚住和晃氏らの中国伝来説については、私が多数の変格語法を指摘した結果、消えることになり(こちら)、三経義疏の共通性も明らかになってきましたが(こちら)、不明な点がまだ数多く残っており、実際に筆をとってこれを書いたのは誰かという問題もその一つです。

 この厄介な問題に対して果敢に取り組んだ労作が、

飯島広子「伝聖徳太子筆『法華義疏』の書風と解釈に関する研究」
(筑波大学博士 (芸術学) 学位論文・平成11年3月25日授与 (甲第2193号)
 [つくば大学の機関リポジトリで公開されています。こちら]

です。20年ちょっと前ですので、最近の論文とは言えませんが、刊行されておらず、ほとんど知られていないようであるため、紹介しておきます。

 『法華義疏』には達者な筆跡で知られるその筆者以外の人が訂正を書き込んでいることは、前から指摘されていました。飯島氏は、これまでの研究史を整理したうえで、重要な文字をスキャンして画像データベースを作成し、それを活用することによって別人筆跡説を確定しました。作業の素材となったのは、むろん写真複製本ですが、氏は、国立博物館での特別展示の際、原物を間近で見て疑問点を確認しています。

 検討された複数の字のうち、特に重要なのは『法華義疏』中でも大事な概念となっている「果」の字です。この字については、真ん中の縦の線を上から下まで一本線で書くのが普通ですが、書道史家であって『法華義疏』についても詳細な検討をおこなった西川寧氏は、『法華義疏』が「田」と「木(実際には「示」の上の横棒を除いた形)」とを分けて書いているのは隋の書風によるとしていました。

 西川氏は四巻のうち、巻一のみを扱いましたが、飯島氏は全体を調査し、特に巻一と巻四を詳細に検討しています。以下の図のうち、1-02-12-04 というのは、巻一の第二紙の12行目の上から4字目を示します。『法華義疏』は、横幅 42~44cmくらいの褐色の紙を素人くさいやり方で貼り継いで巻物仕立てにしてあり、本文の橫に訂正を書き込んだり、大幅に訂正する際は数行切り取って白色の紙を新たに切り継いで貼って訂正したりしており、草稿のように思われることは有名です。


 
 そうした切り継ぎのうち、紙全体を白い紙で入れ替えてある巻四第六紙では、11例見える「果」の字のうち、4-06-5-21の字が示すように、多くは巻一や巻四に見える例と同じ形であって、「田」と「木」が離れていますが、上の画像に見えているように、それ以外の右側の3例は、いずれも上から下まで一本線で貫かれています。書風も、曲線的で字配りのバランスが良い字を細身の筆でもって軽快にさっと書いている本文と違い、第六紙は穂先のつぶれた筆でごつごつと書かれており、書風の違いは歴然としています。

 こうした違いは、他の字でも同様です。「於」の字では、右側に二つの点を打つのが普通であって、巻一と巻四ではそうなっていますが、巻四第六紙では、三つの点を続けて書く形になっていて他と異なっています。

 しかも、飯島氏は、この巻四第六紙は、『法華経』を大乗諸経のうちに位置づける際、仏性を説く『涅槃経』を最高として仏性を説かない『法華経』をその下と見るのか、『法華経』を『涅槃経』とならぶ、あるいはそれ以上に尊い大乗経典とみなすか(この場合、「仏性」の語を用いていないだけで、実質的には「仏性」を説いているとみなす)という問題に関わる、きわめて大事な議論をしている箇所であることに注意をうながします。つまり、この第六紙を誰が書いたかは、『法華義疏』の作者・書写者問題、『法華義疏』の思想傾向に関わる重要問題なのです。

 南北朝後期の中国では、釈尊最後の説法とされ、「仏性」を説いている『涅槃経』を最高と見て、「仏性」の語が見えない『法華経』は『涅槃経』の下に位置づけられるのが普通でした。『法華義疏』の「本義」であって、南朝における『法華経』解釈の第一人者であった光宅寺法雲『法華経義記』もその立場であって、解釈する際、「仏性」には一度も触れていません。

 これに対して隋の天台智顗や三論宗の吉蔵は、『法華経』を重視しており、特に三論宗を集大成した吉蔵は、『法華経』は実質的には「仏性」を説いている奥深くて素晴らしい経典であることを力説し、『法華玄論』では「仏性」の語を何百回も用いてそのことを強調していました。太子の『法華義疏』は、「本義」と同様、「仏性」の語をまったく用いていないものの、『法華経』の優れた意義を強調するという特色を持っています。そうした特色を含む部分が、本文とは異なる筆跡で巻四第六紙に書かれているのです。

 ただ、この巻四第六紙を含め、白色の紙で補正した人物は、本文が利用していた『法華経』のテキストと同じ誤字・異体字のテキストを見ているようであり、紙質も同じ頃のものとされています。つまり、本文を書いた人と白色の紙を切り貼りして訂正した人は、きわめて近いグループに属していたのです。

 なお、『法華義疏』冒頭の「法華義疏 此是大委国上宮王私集非海彼本」という有名な部分は、もちろん本文を書いた人とも白紙による訂正をした人とも異なる別人の筆跡です。飯島氏は、巻一末尾の「法華義疏 巻一」という部分は、冒頭の字と同じ人の筆と説いています。

 このように、飯島氏は異筆問題を決着させたものの、学位論文を書物や学術論文として発表しておらず、さらに研究を進展させずに終わったのは惜しまれることでした。

 ただ、この学位論文自体にも惜しまれる点があります。それは、異筆問題を扱った中島攘治氏の「『法華義疏』筆者試考」(『國学院大学紀要』20巻、1982年3月)という44頁にも及ぶ長大な論文を参照していないことです。この中島論文では、別人の筆と思われる箇所を図で示して検討し、本文は書に巧みであって太子から評価されたと伝えられる膳臣清国(太子の最愛の后であった膳大嬢菩岐岐美郎女の兄弟ですね)の筆、つたない字による訂正部分は太子自身の筆と推定しています。

 私は、膳臣清国かどうかについての判断は保留するものの、太子が早書きで書いた誤字や訂正だらけの読みにくい草稿を、書の名手であるものの仏教にはあまり詳しくない儒教系の側近が急いで誤写だらけで書写して最低限の訂正をし、それに太子がまた急いで不十分な訂正を加えたのが現在の『法華義疏』と見ています。中島氏の論文と私見については、そのうち記事にして紹介しましょう。
この記事についてブログを書く
« 聖徳太子の母、間人皇女が義... | トップ | 【珍説奇説】新刊の木村勲『... »

論文・研究書紹介」カテゴリの最新記事