聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

飛鳥寺の刹柱を立てる儀礼で馬子や従者が百済服を着た背景:矢野建一「飛鳥寺の仏舎利埋納前段儀礼と方相氏」

2024年07月30日 | 論文・研究書紹介

 日本最初の本格寺院である飛鳥寺では、建立にあたって、まず五重塔の心柱となる太さ1.6メートルもの巨大な柱を立てる儀礼を盛大におこないました。その記録は後代の潤色・作文も多い『元興寺縁起』に見えないものの、別系統の『元興寺縁起』に記されており、その佚文が『太子伝玉林抄』と『上宮太子拾遺記』に収録されています。

 その佚文では、儀礼にあたって蘇我馬子と従者百余人が「弁髪」して百済服を着たと記されています。これについて、儀式で邪気ばらいをする方相氏の役割を検討する際に触れているのが、

矢野建一『日本古代の宗教と社会』「第二章 飛鳥寺の仏舎利埋納前段儀礼と方相氏」
(塙書房、2018年)

です。

 その佚文によれば、推古天皇元年正月十五日、柱に収める仏舎利を運ぶため、馬子の邸宅から飛鳥寺へと向かう送列は、四台の大きくて飾られた車を中心とし、音楽を奏しながら進んでいった由。

 第一の駱車は、三段の座を設け白象の像を載せていました。第二の駱車は、巨大な幡と太鼓と銅鐘、第三の駱車は大きな鳳の像と二面の翼鼓、第四の駱車は引導する「方相」を載せてありました。これ以外にも多くの幡が並び、「嶋大臣」と「二郎子」と「従者百余人」が続きました。

 「嶋大臣」は馬子、「二郎子」は寺司、つまり寺の事務責任者となった次男の善徳ですね。佚文では、「嶋大臣」と「二郎子」と「従者百余人」は「皆瓣髪着百済服、観者皆悦」とあります。皆な髪を「瓣」じて百済服を着ており、多くの集まった人たちは皆な喜んだとあります。

 喜んだというのは、百済服を喜んだというのではなく、その前の部分全体に対するものであって、巨大な山車が練り歩くねぶた祭の行列が人気となっているのと同じでしょう。

 矢野氏はまず白象を載せた駱車の検討から始めます。中国の法池寺址から出土した白大理石の舎利容器には、舎利の分与から埋納に至る四つの場面が描かれており、インド風ではないところから見て、矢野氏は、隋の文帝が各地に舍利塔を建立させた際の様子を下敷きにしたと推測します。

 その四つ図には、豪華な輿に舎利を載せるところと思われるものがあり、仏陀の遺体を輿に載せ、荼毘に付すために送り出す場面のようであり、別の図では舎利を送る行列の先頭に白象が描かれていました。ですから、飛鳥寺の行列で白象の像を載せた駱車が先導するのは、これになぞらえたものと見られます。

 しかも、その舎利容器に描かれた送列には、鳥の羽のようなものを冠をかぶった人物がが描かれており、こうした冠は高句麗の官人の冠であることが知られています。

 古代朝鮮諸国のうち、高句麗などは隋の舎利塔建立に参加していたのですね。百済も隋に朝貢していましたので、飛鳥寺の行列で白象を載せた車が先導したのは朝鮮諸国経由と矢野氏は見ます。また図から見て、舎利埋納の儀式は、中国の貴人を葬る葬礼に基づいておこなわれたと推測します。

 問題は、第四の車に乗せられていた方相氏です。方相氏は、中国で儺の儀式、つまり宮中などの邪鬼を払うために、熊の皮をかぶり、四つの黄金の目を描いた大きな仮面を付け、黒と朱の派手な衣装を着、盾を持って矛をとり、大声をあげて回る役です。

 『大唐開元礼』では、三品以上の貴人の葬礼には、霊車のあとに音楽隊があって「方相車」が続くとしており、朝鮮経由でこれを受け入れた日本では、『養老令』の注釈が「親王一品」の葬礼には「方相轜車」が出て熊皮で黄金四目の方相氏がつくとされています。

 ただ、「遊部」が従うとされており、これは中国にはないものですし、この当時の中国の儀礼では、人間が方相氏の姿となることはなくなっており、その像が用いられていたため、日本は百済などを通じて中国の古い儀式を受け継いでいたことが分かります。

 さて、問題は馬子らの「瓣髪」です。弁髪というと、北方の女真族である清朝が中国人に強制した長い鞭のような髪を思いがちですが、朝鮮でも日本でもそうした髪型の記録はありません。「瓣」とは「分ける」ことですので、髪を分けていたことを意味すると見るべきだと矢野氏は説きます。

 そして、百済服については、この段階では冠位十二階のような衣服制度が存在しないため、百済から方相氏も含めた舎利埋葬の儀礼を導入した際、百済服もその一環として導入したものと見ます。

 蘇我氏については、百済出身とする説がありますが、矢野氏はその件には触れません。とにかく、蘇我氏が百済系の渡来氏族を多数配下に置いていたことは事実であり、飛鳥寺の建立に当たって百済の技術を大量に導入したしたことは疑いありません。

 蘇我氏がこうした姿勢だとすると、百済と対立していた新羅との外交をどうするか、また高句麗に何度も侵攻する軍勢を送っていた隋とどう外交関係を結ぶかは、深刻な政治問題になって対立をもたらした可能性が大きいですね。


江戸時代に印刷された叡福寺の聖徳太子墓の宣伝チラシ:伊藤純「聖徳太子墓の新史料」

2024年07月25日 | 聖徳太子信仰の歴史

 聖徳太子の墓とされる磯長の叡福寺北古墳については、このブログでもたびたび取り上げてきました(こちらや、こちらほか。疑う立場は、こちらなど)。その是非はどうであれ、江戸時代には内部の様子を細かく描いた図が印刷されて配られていました。それを紹介したのが、こちらです。

伊藤純『歴史探訪のおもしろさ―近世の人々の歴史観―』「2 聖徳太子墓の新史料」
(和泉署員、2017年)

 伊藤氏については、以前も太子の肖像画その他に関する論文を何度か紹介したことがあります(たとえば、こちら)。

 今回の論文では、伊藤氏は、近年になって大阪歴史博物館の所蔵となった「河内国上ノ太子磯長山御廟開扉正面絵図・同窟中三廟秘図」(以下、「御廟図」と呼びます)について紹介しています。

 この図は1枚ものの刷り物であって、右半分に霊屋の正面が描かれていますが、現在あるような扉はなく、石敷の通路の左右に形の異なる二対の灯籠が置かれています。伊藤氏は、形から見て手前の大きな灯籠は石製、奧のものは金属製と推測します。

 通路には薦が敷かれており、突き当たりは石積みの塀で閉じられているようであって、塀の中央に四角い穴のようなのがあるのは、石室の内部を見るためののぞき穴らしく、その手前には机が置かれ、上に焼香用の香炉が二つ乗っています。ここまで入れて中をのぞくことができたんでしょうね。

 そして、石室への入り口は石積みになっていて中に入れないようでありながら、「御廟図」の左半分には、石室内部の様子がかなり詳細に描かれています。つまり、石室の手前右に大きな「皇太子御棺」、その左に「皇妃御棺」の左に〇の中に「井」と記されており、さらに左には井戸の印があります。

 奧には大きな御母后棺があって、その上に一対の黄金獅子が向き合うように置かれており、その左には「鏡」、さらにその左には小さな文字が書かれた石碑のようなものが描かれています。

 図の下には文字の説明があり、それぞれの棺の大きさが「長七尺二寸、横巾三尺」などと記されていますが、伊藤氏は、描かれているのは棺ではなく、それを載せる棺台であると述べ、どの棺台にも奧に四角い切り穴があるのは、水抜きの穴と推定します。

 鏡については説明には「御鏡一尺余」とあり、井戸については、「井水底敷白石澄如鏡 水味甘」などと書かれています。井戸の底には白い石が敷き詰めてあり、澄んでいて鏡のように反射するというのは、石室を明るくしないと分からないことのはずです。水の味が甘いというのは、実際に飲んでみたのか……。

 左端の石碑のようなものについては、「立石 弘法大師記文」とあって、「人皇六十一代 一條天皇御宇正暦五年……」に。聖徳太子に馬でお仕えしたとされる調子麿の末孫である法隆寺の康仁大徳が窟の中に入って拝見し、天皇に報告した、と説明されています。

 これによれば、「御廟図」は九九四年に康仁が観察した記録によって石室内部の情報を記したことになります。実際、叡福寺所蔵の『慶長五年旧記』と記載内容が重なる部分があります。

 しかし、1600年の『慶長五年旧記』では、康仁大徳が廟に入って拝見した際は、御母公の御棺には炭灰と御骨があったものの、御妃の棺には灰だけがあって骨が無かったのは、「化生ノ人」であるためだと記されており、こうした記述は「御廟図」にはないため、『慶長五年旧記』に基づいて略出したことが推測されるとします。

 確かに、正面の図では石室の入り口は石積の塀のようになっていて入れないわけですので、のぞき穴から見たとしても、強力なサーチライトなどがないと中は分からないはずだし、外からのぞいただけでは、棺台の大きさなどは記録できないはずです。中に入って記録したものが元でしょう。

 実は、石室内部を描いた絵図は、正徳6年(1716)の「法隆寺年会目次記」に引かれている「聖徳太子御廟窟絵記」があります。絵は似ていますが、こちらでは、井戸は手前ではなく、鏡と「大慈大悲……」と記された石の間に描かれているなどの違いがあります。宝暦5年(1755)に叡福寺東福院の僧の玄俊が書写した「太子御廟図」でも、井戸はその位置に描かれています。

 これによって、伊藤氏は、元の図から次々に転写されていったことが分かるとし、今回の「御廟図」は別系統のものと説きます。

 今回の絵図については、奧のくずれた結界石と手前の整然とした結界石の描き方から見て、新たに結界石が設置された享保19年(1734)以後に作成されたことが分かるとします。

 この前後の時期には、霊屋の整備が進み、叡福寺の金堂も享保17年(1732)に再建され、太子の霊場としての宣伝も盛んになっていっています。そこで伊藤氏は、金堂再建と墓域整備に合わせる形で太子墓を宣伝する「御廟図」が印刷されて配布されたものと見ます。

 この時期には、叡福寺だけでなく、法隆寺でもしばしば開帳がなされ、その内容を記した文章なども広まっていたようです。庶民の信仰の太子の寺、浄土往生の聖地として長らく人気を集めていた四天王寺に比べてあまり有名でなかった叡福寺や法隆寺は、そうした催しをすることによって知名度をあげていったのでしょう。 


蘇我氏本宗家の滅亡は蘇我氏内部の抗争が一因、そもそも「本宗」という概念があったのか:鈴木正信「蘇我氏とヤマト政権」

2024年07月20日 | 論文・研究書紹介

 江戸時代から明治の初め頃までは、聖徳太子は儒教や国学の学者たちから崇峻天皇の暗殺を黙認し、異国の仏教を導入したとして非難されていました。それに対する弁解が、いや太子は蘇我氏の横暴を押さえるために「承詔必謹」を説く「憲法十七条」を作成し、蘇我氏を代表とする豪族たちを戒めたのだ、といった主張でした。

 父方母方とも蘇我氏の血を引いている最初の天皇候補であって、蘇我氏系の推古天皇の皇女を妃とし、また蘇我馬子の娘をも妃としていた聖徳太子にとって、蘇我氏は大事な後ろ盾なのですから、「憲法十七条」によってその権勢を押さえようとするはずはありません。

 蘇我本宗家が亡びたのは、強大になりすぎた蘇我氏の内部対立も一因だと、このブログでは書いてきましたが、それと同意見の論文が出てます。

鈴木正信『日本古代の国造と地域支配』「第六章 蘇我氏とヤマト政権」
(八木書店出版部、2023年)

です。

 この論文の前半では、鈴木氏は蘇我氏の出自と台頭に関する従来の研究を紹介し、蘇我稻目が18名の皇子・皇女の外祖父となったことに注意し、『上宮聖徳法王帝説』が欽明天皇から推古天皇までは「他人を雑ふることなく、天下を治しき」と述べ、「天寿国繍帳銘」も欽明と稻目で始まる系譜をあげていることから見て、皇位継承に血縁原理が導入された時期であり、「天皇家の側も新興の蘇我氏との連携により、権力基盤の安定・強化をはかる狙いがあった」とする最近の説に賛成します。

 そして、物部氏との競争関係に触れるのですが、「渋川廃寺(大阪府八尾市渋川町)が発掘され、物部氏も仏教を受容していたことが明らかになってきた」と述べているのは、古い情報に基づく間違った解説ですね(こちら)。

 蘇我氏と物部氏の対立を仏教受容をめぐる争いとするのは、寺院側の強引な主張ですが、だからと言ってこれを全面的に否定し、仏教受容の問題は関係無いとするのも行きすぎです。

 鈴木氏は独自な説として、『日本書紀』は物部・三輪・中臣の三氏を廃仏派としているものの、三輪氏は実際には蘇我氏に近い立場をとっていたと考えられるとし、この点から見て、従来の崇仏派・廃仏派という対立図式は再考の余地があるとします。

 そして、物部氏が打倒されるとすぐに壮大な瓦葺きの伽藍を建立し始めているため、物部氏が仏教受容に反対していたことは事実ととらえ、物部氏は急速に台頭してきた蘇我氏を危惧していたという点を重視します。

 なお、崇峻天皇がこれまで違って大連を置かず、馬子大臣が合議制の頂点に立ったことに注意し、推古朝の実態は、『法王帝説』が述べているように、推古・厩戸・馬子の三人が権力の中心を構成していたと見るのが妥当とします。これは最近の主流の立場ですね。

 冠位十二階については、厩戸と馬子は与える側であり、群臣を代表する蘇我氏が王権を代行しうる立場を獲得したと言えるが、非群臣層からも高位につく者が現れたため、群臣層の政治的地位が相対的に低下したとも言え、群臣層の間に不満がたまり、蘇我氏が孤立する契機になったと見ます。

 そうした不満が高まった要因は、群臣はそれまで氏から代表を一人出していたのに、推古朝の外交儀礼には馬子に加え、子の蝦夷も参加していたうえ、蘇我倉氏や境部氏を初めとする多くの氏を蘇我氏一族から独立させて合議の構成員として送り込んだことです。

 馬子が生きているうちはそれが機能していましたが、馬子が没して蝦夷の時代になると、蘇我系一族の中で独自の動きが見られるようになり、蘇我氏に擁立された舒明天皇も、やがて蘇我氏の影響からの脱却を志向するようになったと見られると説きます。

 『日本書紀』では、蘇我本宗家が滅ぼされたのは、専横をきわめ皇位をうかがおうとしたためとしていますが、この時期は高句麗でも泉盖蘇文が栄留王を暗殺して権力を握ったほか、百済・新羅でも混乱が見られたため、倭国の外交方針をめぐって争いが生じていたと見ます。

 そうした状況で起きた乙巳の変は、古人大兄を押す蘇我氏本宗家と、軽皇子。中大兄皇子を支持するも者たちの間の皇位継承争いであり、それは同時に、稻目・馬子・蝦夷・入鹿と父子直系で権力を握っていた蘇我氏本宗家と、それに不満を持つ蘇我倉氏など同族の争いでもあったと説きます。これは私も賛成で、このブログでも境部臣をその代表とときました。

 このため、鈴木氏は、蘇我氏本宗家滅亡の要因は蘇我氏の発展過程の中に潜在していたとし、乙巳の変以後も蘇我倉氏などは大臣になっていると指摘したうえで、そもそも当時「本宗家」というのは後世の我々がそう呼んでいるにすぎないとします。確かに、どれだけ「本宗」という概念があったかは疑問ですね。

 鈴木氏は、屯倉制や国造制に蘇我氏が取り組んできたことを重視し、ヤマト政権が発展するにあたっては、蘇我氏が果たした役割が大きいと指摘してしめくくっていますが、天皇家の継承のあり方についても、蘇我本宗家の父子継承が影響を及ぼした可能性はありますね。


伝説的な太子伝の記述を疑わない羊頭狗肉の素人太子論:橋本晋吉「聖徳太子の御聖業―神仏融合と”和”の精神」

2024年07月15日 | その他

 聖徳太子については、いろいろな分野での検討が進んだ結果、現在では、推古朝を聖徳太子の時代と見るような一時期の太子観は改められ、また太子の事績をすべて疑うような極端な説もむろん否定され、『法王帝説』が説いているように推古天皇・厩戸皇子・蘇我馬子の三頭体制であったとする見方が主流となっています。政務は分担したでしょうし、厩戸皇子が若い時期は、その義父であって推古の叔父であった馬子大臣の主張が基本だったでしょうが。

 ただ、学界以外では、指導要領案が聖徳太子ではなく「厩戸王」という名を標準としようとした騒動(こちら)に対する反発として、聖徳太子の役割と意義を強調する動きが目立つようになってきました。

 その中には、『日本書紀』の記述や伝説化が進んだ後代の太子伝の記述を鵜呑みにし、自分が考える理想的な聖徳太子を論じるような言説が目立ちます。その最近の一例が、

橋本晋吉「聖徳太子の御聖業―神仏融合と”和”の精神」
(『在野史論』第18号、2023年12月)

です。

 橋本氏は、歴史研究会の有志で運営しているという、この『在野史論』という雑誌に古代史の論考を多数執筆しているほか、この研究会が「在野史家の研究発表の場」として昨年刊行した『古代史の新研究』にも寄稿されています。

 この書物はホームサイトによれば、「(在野史家の)みなさまのロマンと熱意のあふれる玉稿が盛りだくさんです」とのことですが、古代史のロマンと熱情となると、珍説奇説コーナーでとりあげた梅原猛のように、空想先行の方向に行きそうで、ちょっとアブナイですね。

 研究の質は、むろん、その人が大学や研究所に属しているかどうかは関係ありません。実際、私の長年の友人であって最も畏敬する存在である彌永信美さんなどは、東洋学の出版物を出しているフランスの研究所で編集の仕事をしばらくしたことがあるだけで、大学や研究所に属さないどころか、フランス留学者を中心とした集まりである日仏東洋学会以外には、誘いを受けけてもどの学会にも入らずにきました。

 ですから、在野の研究者ということになりますが、該博な知識と鋭い批判精神によって後世に残る研究をしており、多くの研究者たちから尊敬されています。

 また逆に、有名大学の教員であっても、学力が無いのに有力教授の親戚という立場で潜り込んだり、あるいは若い頃は優秀であっても、職を得てからはまったく駄目になった人もいます。学位論文を書いた頃まではまともだったものの、本郷の某大学に就職してからは研究をしなくなり、授業では自分のかつての研究内容や思い出話などばかりし、定年でやめたのが在職中の一番の功績だと言われた某先生が思い出されます。

 ですから、在野の研究者とかプロの研究者といっても様々なのですが、在野の研究者と称する歴史マニアが書く聖徳太子論には、このブログの「珍説奇説コーナー」が示すように、九州王朝説論者を含め(こちらなど)、内容も文章も拙劣なもの、論文以前のレベルのものが多いのは事実ですね。

 橋本氏のこの論文は、題名が興味深く、33頁もある大作なので取り寄せたところ、かなりお粗末なものでした。ただ、「通説をひっくり返してやる!」といった野心に基づくトンデモ説ではなく、また、やや戦前風な太子観が見られるものの、日本の伝統・国体の優秀さを強調するような国家主義的な立場とも異なっています。

 ですから、歴史マニアが資料を並べて聖徳太子に関する自分のイメージを述べたエッセイの一種ということで、珍説奇説コーナーや「史実を無視した日本の伝統・国体(国柄)礼賛者による聖徳太子論」コーナーではなく、「その他」のコーナーに置いておくことにしました。

 この記事のタイトルに「羊頭狗肉」と記したのは、氏の論考の副題は「神仏融合と”和”の精神」となっているものの、本文では「神仏融合」の話が出てこないためです。これはひどい。なお、論文の題名にある「御聖業」といった言い方は、戦前・戦中の国家主義的な聖徳太子論に良く見られたものですね。

 橋本氏は、初めの部分で、「聖徳太子は……将来、皇位を継ぐ『皇太子』となり、同時に『摂政』に就任して、内外の政治に当たった」と書いています。歴史学の論文としては、この時点で落第です。

 律令制の皇太子に当たるような補助役についたと考えられる、といった書き方なら良いですが。また、『日本書紀』では「摂政」の語は動詞として用いられており、「摂政」という位があったわけではないことは常識中の常識です。

 要するに、『日本書紀』の記述を史実そのままと見、後世の伝説化が進んだ太子伝の記述については、伝説とみなしながら、そのように描かれる優れた人物であった、という方向で論を進めるのです。これでは歴史学の論文にはなりません。最初から太子礼賛の結論が見えているわけですし。

 当然ながら、資料の羅列となり、良く考えて書いていないため、前後がつながらない文章を書きがちです。たとえば、太子が2歳の時、東方を向いて「南無仏」と唱えたという伝説を紹介する際、「東向きに対し、『南無仏』と唱えて」などとおかしなことを書いています。

 こうした妙な書き方が内容にまで反映している例も少なくありません。たとえば、伝説化が進んだ『聖徳太子伝暦』では、父である大兄皇子(用明天皇)が、母に抱かれていた3歳の太子に向かって、桃の花と松の葉とどちらが好きかと尋ねると、桃の花は一時のものであるのに対し、松は百年の常緑樹であるため松葉の方が好きですと答えたと記していますが、橋本氏はこれについてこう述べます。

事実の認識として考えた時、太子の一生は”桃の花”の如き、香しく栄え、深く散ったのである。そこには、桃華の花やかさを実践したとみるのが自然であろう。

「事実の認識として考え」るとは、どういうことなんでしょう。「如き」は「如く」でないとおかしいですし、「深く散った」とは、地中深くに至るほど突き刺さったということなんでしょうか。それに、潔く散るというのは、平安以後の桜の花のイメージですので、桃の花とは合いません。

  副題に「”和”の精神」とあるため、詳しい説明があるはずながら、「十七条憲法」については、「概して仏教思想がその根底にあると考えられる」とし、「官人への訓誡を超え、人間の倫理として”和”の重要性を説いているのも仏教の精神そのものだからである」と断言してますが、「憲法十七条」は群臣や官人たち相手に書かれたものであり、「民」は対象になっていません。

 また「人間の倫理として”和”の重要性を説いているのも仏教の精神そのものだから」と述べていますが、どの経典がそう述べているんでしょう? 「和合」は僧団の特質とされたものですし、仏教では「六和敬」を説き、「和顔愛語」を重視することはあるものの、釈尊が一般の人に対して「和」を説いた経典を示さず(そんな経典があるのか?)に、「仏教は……」というのは、仏教に関する橋本氏の単なるイメージです。

 太子が仏教精神に基づいて「和」を尊重していたと主張するなら、三経義疏からそうした箇所を示すべきでしょう。しかし、氏が三経義疏について触れた箇所では、「現世利益」の『法華経』、「女性を対象」とした『勝鬘経』、「在家教義」の『維摩経』と書いています。

 『法華経』には観音による衆生救護を説く普門品など、現世利益の面もありますが、『法華経』全体を現世利益の経と呼ぶことはできませんし、『法華義疏』は『法華経』をそんな経典とは見ていません。

 また、『勝鬘経』は女性の勝鬘夫人が説法していますが、女性相手に語ったものではなく、『維摩経』は在家の居士である維摩詰が主人公であるものの、在家の教義を説いているわけではないうえ、維摩詰自身は別の世界の仏が仮に維摩詰として現れたものとするのが伝統的な注釈です。

 つまり、三経義疏を読んでいないどころか、三経義疏に関する学術的な論文もきちんと読んでいない証拠であって、仏教については無知なのに、「和」は仏教の精神だと説くのですね。

 こんな調子で見ていくと、一生懸命調べて資料を羅列した大学1年生の不出来なレポートを直すような作業になるため、ここらでやめておきます。とにかく、聖徳太子を無暗に持ち上げる人には、こうしたタイプが多いのは困ったことです。


遣隋使が文帝に倭王は天を兄、日を弟とすると語った背景としての天孫降臨神話の原型:舟久保大輔「天孫降臨神話の成立」

2024年07月10日 | 論文・研究書紹介

 「天皇」という言葉に関する論文の続きです(前回の馬梓豪氏の論文紹介は、こちら)。「天皇」という称号については、「天」という語が中国の漢語なのか、日本の概念を「天」という漢字で表記したのかが問題になります。この問題を考えるうえで重要なのが、遣隋使、ないしそれに準ずる使節が隋の文帝に対して、「倭王は天を以て兄とし、日を以て弟と為す」と述べたという『隋書』の記述です。

 この問題について独自の試案を示した最新の作が、

舟久保大輔『古代王権の神話と思想』「第一章 天孫降臨神話の成立」
(雄山閣、2024年)

です。舟久保氏は、駒澤大学大学・大学院で歴史学を学び、修士課程の時、単位互換制度を利用して明治大学の吉村武彦教授のゼミに2年間通った由。せっかく駒澤で学んだのですから、大学院の仏教学の講義などにも出てほしかったところです。

 私の講義には駒澤や他大学の国文学の院生はたまに来ていましたが、舟久保氏をはじめ、日本史の人は来たことがなかったのは残念。日本古代史は仏教を抜きにして理解できません。私の講義でなくても良いから、仏教文献を精密に読む訓練をしてくれる授業に出てほしかったですね。

 それはともかく、この2月に出たばかりのこの本では、この第一章が扱った天孫降臨神話を重要なテーマーとしており、有益です。舟久保氏は、天孫降臨に関するこれまでの研究史を概説し、5世紀成立説や推古朝成立説もあるほか、天武天皇頃の成立と見る説も有るが、最近では、欽明天皇の代から世襲王権が確立し、この頃に『古事記』や『日本書紀』の天孫降臨神話の元になるものが形成されたとする説が多いと述べます。

 諸説がある理由として、舟久保氏は、天孫降臨神話の定義がはっきりしないためとします。そして、『古事記』『日本書紀』の記述における同異について紹介し、『日本書紀』に様々な説が見られるのは多くの氏族が関与したためであり、共通部分があるのは、王権と諸氏族の間にある種のコンセンサスが得られたからこそ成立した神話だとする榎村寛之氏の説に賛同します。

 そこで舟久保氏は、共通部分が古くて根源的なものとする説に基づき、(1)王権の起源として天という世界が設定されている、(2)天の支配者である最高神と皇孫・天皇が系譜上(血統上)繋がっている、(3)皇孫が最高神の命を受けて地上世界の統治者として降臨する、という三点をあげ、この成立をもって天孫降臨神話の成立と見ます。

 そして、『隋書』東夷伝倭国条の開皇20年(600)に見える「倭王姓阿毎、字多利思比弧、号阿輩雞弥」のうち、姓と字(名)を分けたのは中国側の誤解として、「アメタリシヒコ」については「天上で満ち足りておられる方」説を退け、天から下られた方とする説に賛成します。

 というのは、『日本書紀』推古8年条に、新羅と任那が調を送った際の上表文に、「天上に神有り、地に天皇有り」とあり、『日本書紀』特有の潤色があるとはいえ、天と地が分けられ、天皇は地にいるとされているからです。そもそも倭王が天にいるという記述は記紀には見えません。

 そして、欽明天皇以後、特殊な近親結婚によって欽明の血を引く天皇が五代続くこと、病気となった欽明天皇が皇太子の敏達を呼んで後事を託していることから見て、「原則としては父子直系を目指していたと思われる」と説きます。これは、前に紹介した馬氏の説と異なっていますし、推古天皇の時から大王が後継者指名に関わるようになったとする最近の研究とも異なっていますね。

 ともかく、舟久保氏は、日本でいう「天子」は、徳のある人に天が命を下して天下を統治させるという中国の天命思想に基づくものでなく、日本の神話的世界観に基づくことを強調します。ただ、まったくの日本の独創とするのではなく、高句麗の神話に近いことに注意します。好太王碑文では高句麗の始祖の鄒牟王を「天帝の子」と呼んでいるのが一例です。

 ここからが舟久保氏の創見になるところですが、舟久保氏は高句麗の長寿王(伝:在位413-491)の時代の高句麗の名族の墓誌、「牟頭婁墓誌」では、その始祖の「鄒牟聖王」を「河伯之孫日月之子」と呼んでいることに注目します。

 『隋書』によれば、遣隋使は倭王は「以天為兄、以日為弟」と述べ、文帝に義理がなさすぎるとして叱られていました。高句麗の碑文では、始祖を「日月の子」とするのは異なっていますが、日(太陽)との血縁関係によって始祖の系譜を語ろうとしている点は共通します。

 さらに、『日本書紀』顕宗天皇3年2月条では、使者が任那に赴こうとした際、「月神」がある人に取り憑いて「我祖高皇産尊」が天地を想像したとしてお告げを述べています。これによれば、天孫降臨の際の司令神であるタカミムスヒは月神の祖先ということになり、倭王と月神はタカミムスヒを祖先神とする兄弟ということになります(原文48頁では、「月神タカミムスヒ」となっていて、「月神は」の「は」が抜けてます)。

 また、『日本書紀』顕宗天皇3年4月条には、日神もタカミムスヒを祖とする記事が見えますので、倭王・月神・日神は兄弟ということになります。これは高句麗の神話と琴なりますが、深久保氏は、それは倭国がタカミムスヒという最高神を祖先神として建てたことによると見ます。

 舟久保氏は、大化元年(645)の進調にあたって高句麗王に出した詔では「高麗の神の子」と述べており、高麗王が天帝の子であることを認めているものの、『続日本紀』宝亀3年1月己卯条では高句麗王が天孫であることを否定していることに注意します。つまり、日本の建国神話は高句麗の神話をモデルにして形成されたにもかかわらず、律令制が確立するとそれを否定するようになったのだとするのです。

 このように、倭王に関する遣隋使の妙な応答について試案が示されました。私自身は、遣隋使が倭王が「以天為兄、以日我弟」としているというのは、倭王は「天の日(太陽)を兄弟としている」といった和語の文が、「以天日為兄弟(天日を以て兄弟と為す)」などと漢訳され、後にそれを分解して「天を兄、日を弟」と改めた結果ではないかと考えています。

 英語の brother は、これだけでは兄だか弟だかわかりませんが、遣隋使の場合もそうした語り方をした可能性はあるでしょう。 いずれにしても、欽明天皇から始まる世襲王権が重要であり、それを支えたのが蘇我氏であったことが重要ですね。


斑鳩の地における聖徳太子信仰の拠点争い:高田良法「法隆寺聖霊院造立についての試論」

2024年07月05日 | 聖徳太子信仰の歴史

 前回、法隆寺東院伽藍の夢殿の本尊である救世観音像に関する論文を紹介しました。しかし、前にも触れたように、夢殿はもともとは法隆寺とは別組織でした。この問題について検討したのが、前々回紹介した高田氏の論文(こちら)の続篇である最新のこの論文です。

高田良法「法隆寺聖霊院造立についての試論」
(『奈良美術研究』第25号、2024年3月)

 法隆寺西院伽藍で聖徳太子を祀る聖霊院は、太子没後500年にあたる保安2年(1121)に法隆寺の経尋が建立したものでした。その少し前に、法隆寺の隣にあったものの別組織だった上宮王院(東院)を法隆寺の管轄下に入れたのも、この経尋なのです。

 高田氏は、天平宝字5年(761)成立の『東院資財帳』では東院の夢殿本尊について、「上宮王等身観世音菩薩木像壱躯<金薄押>」と記されていることに注意します。後に救世観世音菩薩と呼ばれるようになるこの菩薩像は、当初は金箔が貼られ、きらきら輝いていたのです。菩薩と言っても仏扱いですね。釈尊の次に仏となる弥勒は、菩薩の姿や仏の姿となった形で造像されますが、それと似た面があるのか。

 さて、太子の病気治癒を願い、実際には没後になって追善のために建立された金堂の釈迦三尊像の光背銘には「尺寸王身」とあることは有名です。つまり、法隆寺(西院伽藍)も上宮王院(東院)の夢殿も、坐像と立像の違いであって、ともに太子等身とされる像を本尊としていたことに高田氏は注意します。ここまで実は前置きであって、この論文の目的は西院伽藍の聖霊院造立に関して検討することです。

 さて、上宮王院については、奈良時代に行動力のある僧侶、行信が造立したことは有名です。『法隆寺東院縁起』では、蘇我入鹿の軍勢によって焼き討ちされた斑鳩宮の跡が荒れ果てているのを歎き、春宮坊、すなわち、皇太子であった阿部内親王(後の孝謙天皇)の担当部署、つまりは阿部内親王に奏上しました。

 すると、春宮坊が天平11年(739)に河内山贈太政大臣(藤原房前)に造らせ、八角円堂、つまり夢殿に「太子在世に造り給ふ所の御影救世観世音菩薩像を安置」した、とされています。

 この『東院縁起』については、阿部内親王が立太子した天平10年(758)より前の天平7年に(755)に春宮坊が「聖徳尊霊」と今上天皇の奉為に『法華経』を講読せしめたと記していたり、房前は天平9年(757)に亡くなっているなど、記述が合わず、信頼できないといった指摘がなされていました。

 しかし、大橋一章氏は、阿部内親王の母である光明皇后が熱心な聖徳太子信仰を有していたため、天平8年(756)2月22日の太子の忌日に、行信が法隆寺で行った『法華経』講会は、光明皇后を含め、その母であった県犬養橘三千代に連なる女性たちが経済的に支援したものであり、その時期に光明皇后の兄である房前が造立に関わったのであって、その死後は房前の息子の永手が事業を引き継いだため、上記のように記されたと説いており、高田氏もそれに賛同します。

 天平8年の講経にあたっては、行信が皇后宮の長官であった安宿倍真人らを率い、律師の道慈に『法華経』の講義をさせていますが、その講経を仕切ったとされる安宿倍真人は、光明皇后の若い頃から仕えていた股肱の臣であるため、高田氏は、これらの事業は実際には光明皇后が支援したものと見ます。

 講経の際に光明皇后とともに無漏女王も奉納していますが、無漏女王は橘三千代の娘であって房前の正室ですので、やがて立太子して天皇となる予定の阿倍内親王を表に立てての一門総出の事業だったわけですね。

 このように、太子の忌日に上宮王院の建設予定地において太子供養のための『法華経』講経がなされたのです。ただ、『東院縁起』によれば、この講会だけでなく、上宮王院そのものが一時期荒廃したと記されています。そのため、平安時代に入って貞観元年(859)に道詮によって上宮王院の堂舎が修理され、忌日法要が整備されたわけです。

 以後のあり方としては、南北朝頃の『法隆寺白拍子記』によれば、音楽の法要に続いて、『法華経』『涅槃経』『維摩経』『勝鬘経』の「妙文」が読誦され、報恩の儀礼がなされた由。

 高田氏は注記していませんが、『涅槃経』とあるのは、『法王帝説』に上宮王が『涅槃経』に通じていたと書かれていたことに関係するのでしょう。実際には、三経義疏作者は長大な『涅槃経』はきちんと読んでおらず、『法華経』や『勝鬘経』などの注釈に引かれている経文を読んだだけと思われます。

 ここから後が、この論文の中心なのですが、以後は簡単に。冒頭で述べたように、法隆寺の経尋が法隆寺の東室の南三坊を改めて聖霊院にします。聖霊院には太子の御影を安置するだけでなく、保安2年(1121)に山背大兄と殖栗王、卒末呂王の三人の像も移します。

 ただ、聖霊院が現在の姿になったのは、鎌倉時代になってからであり、鈴木嘉吉氏が指摘するように、弘安7年(1284)に建物を全面的に建て直してからのことです。そこには、太子が35歳の時に自ら描いたとする肖像画と称する画が安置され、太子の霊場として整備されてゆきます。

 江戸期に編纂された『庁中漫録』では、聖霊院について、太子が自ら三面の鏡を用いて、自らの摂政姿の像を造ったのであって、その時に用いた鏡と小刀が宝蔵に安置されていると述べたうえ、しかも太子像の体内に蓬莱山を造り、太子の胸のあたりに、インド原産の金を使って造った五寸ほどの救世観世音菩薩像を納め、『法華経』『維摩経』『勝鬘経』の三経も納めたと説くなど、伝説化が進んでいます。

 高田氏は、これらは聖霊院における太子信仰は、太子は救世観世音菩薩の化身であって三教によってこの世を濟度するというものであり、上宮王院との差別化をはかったものと推測します。

 このように、太子信仰は古代かから一貫しているものの、その内実と支持者は時代によって移り変わっているのであり、その点に注意しないといけないのです。