指導要領を改訂する際の「厩戸王」騒動は、聖徳太子という呼称を尊重せよと主張して強硬に反対した人たちも、国会の委員会で「厩戸王(聖徳太子)」などと表記するのは歴史への冒涜だと述べた議員も、「厩戸王」の語は『日本書紀』や『古事記』に見えるのでと答弁した文部科学大臣も、本名である「厩戸王」を前面に出すことに反対するのは近年の学問成果を無視するものだと論じる人も、その騒動を報じたマスコミも、いずれも「厩戸王」は小倉豊文が戦後になって仮に想定した呼称であって古代の文献には登場しないことを知らないまま議論するという恥ずかしい状況でした。この騒動について書いた記事が、「こちら」です。
文部科学大臣の答弁は、文部省の役人が指導要領改定に関わった研究者に聞いて書いたのでしょうが、その研究者は「厩戸王」を前面に押し出そうとしていたわけですから、『古事記』『日本書紀』に見えないということに気づいていなかった可能性があります(指導要領改訂に加わった学者のうち、古代史を担当したのは誰なのか、そのうち調べてみましょう)。
さて、大臣がこうした細かな点について答弁する際は、質問する側があらかじめ質問内容を通知しておくのが慣例です。つまり、「厩戸王」という語を前面に出すべきでないと主張した国会議員側は、「『古事記』や『日本書紀』に見えず、戦後になって想定された仮称をなぜ使うのか」という質問は提出しておらず、大臣の答弁を聞いて反論することもなかったわけです。日本や東洋の歴史・文化にかなり通じていた読書家もある程度いた昔の国会議員と違い、現在の国会議員は、令和天皇の即位式典で「願って已(や)みません」の「已」が読めず、「願っていません」と読み上げた安倍首相の例が示すように、日本の古典や歴史の素養はあまりない人が大多数でしょう。
となれば、質問した国会議員はあらかじめ学者に尋ねていたはずであるため、どの学者がその役割を果たしたのか、気になっていました。そうした学者は複数いたのでしょうが、自分が説明したと述べている文章に出会いました。保守系の雑誌である『正論』の「「教科書検定」を斬る」という特集の冒頭に掲載されていた、
高森明勅「聖徳太子は「架空の人物」か」
(『正論』令和2年4月号[通巻 583号]、2020年4月1日刊)
です。
皇室研究で知られる神道学者であって、新しい歴史教科書をつくる会の理事として活動している高森氏は、
と評しています。氏は、その少し後の部分では、
と述べています。不思議ですね。国会でこの事実を持ち出せば、その段階で文科省は「厩戸王」案を撤回し、この文章の冒頭で述べたような「醜態」はおさまったはずです。
高森氏は、改訂案が事実誤認に基づくあまりにも恥ずかしいものなので、武士の情けでこのことを国会議員に説明しなかったのでしょうか。考えられるのは、文科省の姿勢を批判して「学説状況や基本的な史料」を国会議員に説明した高森氏も、当時はそのことを知らず、後になって、つまり文科省の「厩戸王」取り下げを報じる『産経新聞』に載った私の談話や当ブログなどを見て、「厩戸王」の語は『古事記』や『日本書紀』に見えないことに気づいたということですね。つくる会は、指導要領改定騒ぎの際、「厩戸王」との並記をやめるよう要望する文書を文科相に送っていましたが、その文書では「厩戸王」は『古事記』『日本書紀』に見えず、戦後になって想定された仮称であることを指摘していたというニュースは聞いていません。
氏は、「『甲斐国志』(文化十一年=一八一四)あたりが早い用例だろうか」とさりげなく書いておられますが、『甲斐国志』の用例は私も知りませんでした。指導要領改定案に反対してその理由を述べた記事を2017年2月に太子ブログにアップし、史料にはまったく見えないと書いたところ、私の記事を読んで賛同してくださった方が指摘してくれたおかげでその存在を知り、上記のブログ記事の【付記】でその指摘を紹介したのです。けっして有名な事実ではありませんし、聖徳太子の名号について論じた論文で、このことに触れた例を見たことがありません。高森氏は、『甲斐国志』の用例を前から御存知だったのでしょうか。
高森氏は、それまで大山説批判を何度も書いていますが、「厩戸王」が本名だと論じた部分については、何も言っていませんでした。少なくとも、
高森「聖徳太子をめぐる論争を手がかりに歴史への眼差しについて考える-それは正しい史料批判か、それとも妄想か」
(『正論』平成16年12月号[通巻 390号]、2004年12月)
高森「「冤罪」事件としての聖徳太子虚構説-大山誠一氏『<聖徳太子>の誕生』への疑問」
(『季刊 邪馬台国』104号、2010年2月)
にはそうした批判は見えていません。むろん、『甲斐国志』の用例にも触れてません。
「厩戸王」というのは小倉が想定した仮称だということは、私が最初に指摘したはずであって、それが多少知られるようになったのは、2010年に私がこの「聖徳太子研究の最前線」ブログを始めてからでしょう。指導要領改訂騒ぎ当時は、「聖徳太子 研究」などで検索すれば、このブログが上位でヒットしていましたし、現在はほぼトップでヒットします。
しかし、冒頭の高森氏の文章では、直木孝次郞氏・東野治之氏・大平聡氏らの説を紹介して大山説を批判しているものの、研究者の中でも本や論文やこのブログで最も詳細に大山説を批判し続けていた私の名は、まったく出てきません。
私の本やブログを御存知なかったとしたら、それはかまいませんが、「厩戸王」の由来をいつ、どうやって知ったのか気になります。あるいは、このブログで知ったものの、私が国家主義推進のために聖徳太子を政治利用するのは反対だと書いたり、聖徳太子を熱烈に礼賛して津田左右吉を攻撃した困った超国家主義者たちについて特設コーナーで解説したり、太子礼賛派の一人である田中英道氏の太子虚構説批判本の粗雑さは、大山氏の虚構説本の粗雑さと良く似ているなどと書いたりしたのがまずかったのでしょうか。
そう言えば、田中氏は、現在は新しい歴史教科書をつくる会から離れているようですが、初期にはつくる会で熱心に活動していて会長を勤めた時期もあり、『聖徳太子虚構説を排す』と似たような書きぶりの『国民の芸術』というぶ厚い本を、つくる会から出版したりしてましたね。
歴史研究で重要なのは、何よりもまず史実の解明に努め、どのような立場の人が書いたものであれ、先行研究を尊重することだと思うのですが、いかがでしょう。私自身は、聖徳太子は馬子に次ぐ権力者として推古天皇を支えたと考えており、三経義疏も「憲法十七条」も百済や高麗から来た家庭教師たちの支援を得た太子の作と見てよいという立場ですが、私とは説が異なる津田左右吉や小倉豊文の研究を高く評価し、このブログに2人のコーナーを設けていることは、先の記事で述べた通りです(こちら)。
なお、聖徳太子の呼称について論じた諸研究者の論文で、私の「厩戸王」指摘に触れたおそらく最初の論文は、仁藤敦史氏のものだと思いますが、この論文は指導要領改訂騒ぎの翌年に刊行されています。この論文については、次回の記事で紹介しましょう。
【付記】
2月6日の零時1分頃に「皇室研究で知られる神道学者、高森明勅氏の聖徳太子説明に関する疑問」という題で公開しましたが、題名を変更し、一部補足を加えました。
【付記:2021年4月6日】
高森氏の名を誤記していたため、訂正しました。申し訳ありませんでした。
文部科学大臣の答弁は、文部省の役人が指導要領改定に関わった研究者に聞いて書いたのでしょうが、その研究者は「厩戸王」を前面に押し出そうとしていたわけですから、『古事記』『日本書紀』に見えないということに気づいていなかった可能性があります(指導要領改訂に加わった学者のうち、古代史を担当したのは誰なのか、そのうち調べてみましょう)。
さて、大臣がこうした細かな点について答弁する際は、質問する側があらかじめ質問内容を通知しておくのが慣例です。つまり、「厩戸王」という語を前面に出すべきでないと主張した国会議員側は、「『古事記』や『日本書紀』に見えず、戦後になって想定された仮称をなぜ使うのか」という質問は提出しておらず、大臣の答弁を聞いて反論することもなかったわけです。日本や東洋の歴史・文化にかなり通じていた読書家もある程度いた昔の国会議員と違い、現在の国会議員は、令和天皇の即位式典で「願って已(や)みません」の「已」が読めず、「願っていません」と読み上げた安倍首相の例が示すように、日本の古典や歴史の素養はあまりない人が大多数でしょう。
となれば、質問した国会議員はあらかじめ学者に尋ねていたはずであるため、どの学者がその役割を果たしたのか、気になっていました。そうした学者は複数いたのでしょうが、自分が説明したと述べている文章に出会いました。保守系の雑誌である『正論』の「「教科書検定」を斬る」という特集の冒頭に掲載されていた、
高森明勅「聖徳太子は「架空の人物」か」
(『正論』令和2年4月号[通巻 583号]、2020年4月1日刊)
です。
皇室研究で知られる神道学者であって、新しい歴史教科書をつくる会の理事として活動している高森氏は、
この時は指導要領の”改悪”を阻止すべく、私も国会議員の皆さんに学説状況や基本的な史料の紹介をする機会を与えられた。文科省は、学界で受け入れられていない大山氏の説に影響を受けて、振り回される醜態を演じた。(159-160頁)
と評しています。氏は、その少し後の部分では、
当初、文科省が採用しようとしていた「厩戸王」という語は、(学説上の想定にとどまり)古代の史料には一切登場しない。これまで、知られているところでは、江戸時代の『甲斐国志』(文化十一年=一八一四)あたりが早い用例だろうか。(162頁)
と述べています。不思議ですね。国会でこの事実を持ち出せば、その段階で文科省は「厩戸王」案を撤回し、この文章の冒頭で述べたような「醜態」はおさまったはずです。
高森氏は、改訂案が事実誤認に基づくあまりにも恥ずかしいものなので、武士の情けでこのことを国会議員に説明しなかったのでしょうか。考えられるのは、文科省の姿勢を批判して「学説状況や基本的な史料」を国会議員に説明した高森氏も、当時はそのことを知らず、後になって、つまり文科省の「厩戸王」取り下げを報じる『産経新聞』に載った私の談話や当ブログなどを見て、「厩戸王」の語は『古事記』や『日本書紀』に見えないことに気づいたということですね。つくる会は、指導要領改定騒ぎの際、「厩戸王」との並記をやめるよう要望する文書を文科相に送っていましたが、その文書では「厩戸王」は『古事記』『日本書紀』に見えず、戦後になって想定された仮称であることを指摘していたというニュースは聞いていません。
氏は、「『甲斐国志』(文化十一年=一八一四)あたりが早い用例だろうか」とさりげなく書いておられますが、『甲斐国志』の用例は私も知りませんでした。指導要領改定案に反対してその理由を述べた記事を2017年2月に太子ブログにアップし、史料にはまったく見えないと書いたところ、私の記事を読んで賛同してくださった方が指摘してくれたおかげでその存在を知り、上記のブログ記事の【付記】でその指摘を紹介したのです。けっして有名な事実ではありませんし、聖徳太子の名号について論じた論文で、このことに触れた例を見たことがありません。高森氏は、『甲斐国志』の用例を前から御存知だったのでしょうか。
高森氏は、それまで大山説批判を何度も書いていますが、「厩戸王」が本名だと論じた部分については、何も言っていませんでした。少なくとも、
高森「聖徳太子をめぐる論争を手がかりに歴史への眼差しについて考える-それは正しい史料批判か、それとも妄想か」
(『正論』平成16年12月号[通巻 390号]、2004年12月)
高森「「冤罪」事件としての聖徳太子虚構説-大山誠一氏『<聖徳太子>の誕生』への疑問」
(『季刊 邪馬台国』104号、2010年2月)
にはそうした批判は見えていません。むろん、『甲斐国志』の用例にも触れてません。
「厩戸王」というのは小倉が想定した仮称だということは、私が最初に指摘したはずであって、それが多少知られるようになったのは、2010年に私がこの「聖徳太子研究の最前線」ブログを始めてからでしょう。指導要領改訂騒ぎ当時は、「聖徳太子 研究」などで検索すれば、このブログが上位でヒットしていましたし、現在はほぼトップでヒットします。
しかし、冒頭の高森氏の文章では、直木孝次郞氏・東野治之氏・大平聡氏らの説を紹介して大山説を批判しているものの、研究者の中でも本や論文やこのブログで最も詳細に大山説を批判し続けていた私の名は、まったく出てきません。
私の本やブログを御存知なかったとしたら、それはかまいませんが、「厩戸王」の由来をいつ、どうやって知ったのか気になります。あるいは、このブログで知ったものの、私が国家主義推進のために聖徳太子を政治利用するのは反対だと書いたり、聖徳太子を熱烈に礼賛して津田左右吉を攻撃した困った超国家主義者たちについて特設コーナーで解説したり、太子礼賛派の一人である田中英道氏の太子虚構説批判本の粗雑さは、大山氏の虚構説本の粗雑さと良く似ているなどと書いたりしたのがまずかったのでしょうか。
そう言えば、田中氏は、現在は新しい歴史教科書をつくる会から離れているようですが、初期にはつくる会で熱心に活動していて会長を勤めた時期もあり、『聖徳太子虚構説を排す』と似たような書きぶりの『国民の芸術』というぶ厚い本を、つくる会から出版したりしてましたね。
歴史研究で重要なのは、何よりもまず史実の解明に努め、どのような立場の人が書いたものであれ、先行研究を尊重することだと思うのですが、いかがでしょう。私自身は、聖徳太子は馬子に次ぐ権力者として推古天皇を支えたと考えており、三経義疏も「憲法十七条」も百済や高麗から来た家庭教師たちの支援を得た太子の作と見てよいという立場ですが、私とは説が異なる津田左右吉や小倉豊文の研究を高く評価し、このブログに2人のコーナーを設けていることは、先の記事で述べた通りです(こちら)。
なお、聖徳太子の呼称について論じた諸研究者の論文で、私の「厩戸王」指摘に触れたおそらく最初の論文は、仁藤敦史氏のものだと思いますが、この論文は指導要領改訂騒ぎの翌年に刊行されています。この論文については、次回の記事で紹介しましょう。
【付記】
2月6日の零時1分頃に「皇室研究で知られる神道学者、高森明勅氏の聖徳太子説明に関する疑問」という題で公開しましたが、題名を変更し、一部補足を加えました。
【付記:2021年4月6日】
高森氏の名を誤記していたため、訂正しました。申し訳ありませんでした。