聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

新しい歴史教科書をつくる会理事の高森明勅氏が国会議員におこなった聖徳太子レクチャーに関する疑問

2021年02月06日 | 太子礼讃派による虚構説批判の問題点
 指導要領を改訂する際の「厩戸王」騒動は、聖徳太子という呼称を尊重せよと主張して強硬に反対した人たちも、国会の委員会で「厩戸王(聖徳太子)」などと表記するのは歴史への冒涜だと述べた議員も、「厩戸王」の語は『日本書紀』や『古事記』に見えるのでと答弁した文部科学大臣も、本名である「厩戸王」を前面に出すことに反対するのは近年の学問成果を無視するものだと論じる人も、その騒動を報じたマスコミも、いずれも「厩戸王」は小倉豊文が戦後になって仮に想定した呼称であって古代の文献には登場しないことを知らないまま議論するという恥ずかしい状況でした。この騒動について書いた記事が、「こちら」です。

 文部科学大臣の答弁は、文部省の役人が指導要領改定に関わった研究者に聞いて書いたのでしょうが、その研究者は「厩戸王」を前面に押し出そうとしていたわけですから、『古事記』『日本書紀』に見えないということに気づいていなかった可能性があります(指導要領改訂に加わった学者のうち、古代史を担当したのは誰なのか、そのうち調べてみましょう)。

 さて、大臣がこうした細かな点について答弁する際は、質問する側があらかじめ質問内容を通知しておくのが慣例です。つまり、「厩戸王」という語を前面に出すべきでないと主張した国会議員側は、「『古事記』や『日本書紀』に見えず、戦後になって想定された仮称をなぜ使うのか」という質問は提出しておらず、大臣の答弁を聞いて反論することもなかったわけです。日本や東洋の歴史・文化にかなり通じていた読書家もある程度いた昔の国会議員と違い、現在の国会議員は、令和天皇の即位式典で「願って已(や)みません」の「已」が読めず、「願っていません」と読み上げた安倍首相の例が示すように、日本の古典や歴史の素養はあまりない人が大多数でしょう。

 となれば、質問した国会議員はあらかじめ学者に尋ねていたはずであるため、どの学者がその役割を果たしたのか、気になっていました。そうした学者は複数いたのでしょうが、自分が説明したと述べている文章に出会いました。保守系の雑誌である『正論』の「「教科書検定」を斬る」という特集の冒頭に掲載されていた、

 高森明勅「聖徳太子は「架空の人物」か」
(『正論』令和2年4月号[通巻 583号]、2020年4月1日刊)

です。

 皇室研究で知られる神道学者であって、新しい歴史教科書をつくる会の理事として活動している高森氏は、

この時は指導要領の”改悪”を阻止すべく、私も国会議員の皆さんに学説状況や基本的な史料の紹介をする機会を与えられた。文科省は、学界で受け入れられていない大山氏の説に影響を受けて、振り回される醜態を演じた。(159-160頁)

と評しています。氏は、その少し後の部分では、

当初、文科省が採用しようとしていた「厩戸王」という語は、(学説上の想定にとどまり)古代の史料には一切登場しない。これまで、知られているところでは、江戸時代の『甲斐国志』(文化十一年=一八一四)あたりが早い用例だろうか。(162頁)

と述べています。不思議ですね。国会でこの事実を持ち出せば、その段階で文科省は「厩戸王」案を撤回し、この文章の冒頭で述べたような「醜態」はおさまったはずです。

 高森氏は、改訂案が事実誤認に基づくあまりにも恥ずかしいものなので、武士の情けでこのことを国会議員に説明しなかったのでしょうか。考えられるのは、文科省の姿勢を批判して「学説状況や基本的な史料」を国会議員に説明した高森氏も、当時はそのことを知らず、後になって、つまり文科省の「厩戸王」取り下げを報じる『産経新聞』に載った私の談話や当ブログなどを見て、「厩戸王」の語は『古事記』や『日本書紀』に見えないことに気づいたということですね。つくる会は、指導要領改定騒ぎの際、「厩戸王」との並記をやめるよう要望する文書を文科相に送っていましたが、その文書では「厩戸王」は『古事記』『日本書紀』に見えず、戦後になって想定された仮称であることを指摘していたというニュースは聞いていません。

 氏は、「『甲斐国志』(文化十一年=一八一四)あたりが早い用例だろうか」とさりげなく書いておられますが、『甲斐国志』の用例は私も知りませんでした。指導要領改定案に反対してその理由を述べた記事を2017年2月に太子ブログにアップし、史料にはまったく見えないと書いたところ、私の記事を読んで賛同してくださった方が指摘してくれたおかげでその存在を知り、上記のブログ記事の【付記】でその指摘を紹介したのです。けっして有名な事実ではありませんし、聖徳太子の名号について論じた論文で、このことに触れた例を見たことがありません。高森氏は、『甲斐国志』の用例を前から御存知だったのでしょうか。

 高森氏は、それまで大山説批判を何度も書いていますが、「厩戸王」が本名だと論じた部分については、何も言っていませんでした。少なくとも、

高森「聖徳太子をめぐる論争を手がかりに歴史への眼差しについて考える-それは正しい史料批判か、それとも妄想か」
(『正論』平成16年12月号[通巻 390号]、2004年12月)
高森「「冤罪」事件としての聖徳太子虚構説-大山誠一氏『<聖徳太子>の誕生』への疑問」
(『季刊 邪馬台国』104号、2010年2月)

にはそうした批判は見えていません。むろん、『甲斐国志』の用例にも触れてません。

 「厩戸王」というのは小倉が想定した仮称だということは、私が最初に指摘したはずであって、それが多少知られるようになったのは、2010年に私がこの「聖徳太子研究の最前線」ブログを始めてからでしょう。指導要領改訂騒ぎ当時は、「聖徳太子 研究」などで検索すれば、このブログが上位でヒットしていましたし、現在はほぼトップでヒットします。

 しかし、冒頭の高森氏の文章では、直木孝次郞氏・東野治之氏・大平聡氏らの説を紹介して大山説を批判しているものの、研究者の中でも本や論文やこのブログで最も詳細に大山説を批判し続けていた私の名は、まったく出てきません。

 私の本やブログを御存知なかったとしたら、それはかまいませんが、「厩戸王」の由来をいつ、どうやって知ったのか気になります。あるいは、このブログで知ったものの、私が国家主義推進のために聖徳太子を政治利用するのは反対だと書いたり、聖徳太子を熱烈に礼賛して津田左右吉を攻撃した困った超国家主義者たちについて特設コーナーで解説したり、太子礼賛派の一人である田中英道氏の太子虚構説批判本の粗雑さは、大山氏の虚構説本の粗雑さと良く似ているなどと書いたりしたのがまずかったのでしょうか。

 そう言えば、田中氏は、現在は新しい歴史教科書をつくる会から離れているようですが、初期にはつくる会で熱心に活動していて会長を勤めた時期もあり、『聖徳太子虚構説を排す』と似たような書きぶりの『国民の芸術』というぶ厚い本を、つくる会から出版したりしてましたね。

 歴史研究で重要なのは、何よりもまず史実の解明に努め、どのような立場の人が書いたものであれ、先行研究を尊重することだと思うのですが、いかがでしょう。私自身は、聖徳太子は馬子に次ぐ権力者として推古天皇を支えたと考えており、三経義疏も「憲法十七条」も百済や高麗から来た家庭教師たちの支援を得た太子の作と見てよいという立場ですが、私とは説が異なる津田左右吉や小倉豊文の研究を高く評価し、このブログに2人のコーナーを設けていることは、先の記事で述べた通りです(こちら)。

 なお、聖徳太子の呼称について論じた諸研究者の論文で、私の「厩戸王」指摘に触れたおそらく最初の論文は、仁藤敦史氏のものだと思いますが、この論文は指導要領改訂騒ぎの翌年に刊行されています。この論文については、次回の記事で紹介しましょう。

【付記】
2月6日の零時1分頃に「皇室研究で知られる神道学者、高森明勅氏の聖徳太子説明に関する疑問」という題で公開しましたが、題名を変更し、一部補足を加えました。
【付記:2021年4月6日】
高森氏の名を誤記していたため、訂正しました。申し訳ありませんでした。

田中英道『聖徳太子虚構説を排す』の問題点(5):高麗尺説は非再建の根拠にならない

2011年02月08日 | 太子礼讃派による虚構説批判の問題点
 戦前における関野貞(1868-1935)の法隆寺非再建説を高く評価する田中氏は、法隆寺の様式の古さを説く関野が、法隆寺は高麗尺(現在の曲尺の1.176倍)、薬師寺東塔は唐尺(現在の曲尺の0.98倍)に基づくと判定したことについて、「この相違は説得力を持ち、非再建説をある意味で決定的なものにした」(29頁)と述べています。

 田中氏は、関野説には反論もなされ、再建時に古い尺度を用いたにすぎないとする説や、高麗尺が廃止されたのは和銅6年(713)であって再建時期にはまだ高麗尺が使われていたとする説も紹介しています。ただ、「これに反対する論は文献に関するもので」という言葉が示すように、田中氏は関野説の方を実地調査に基づく確実なものとして高く評価しており、これを自説の有力な根拠としているようです。
 
 しかし、建築史家の竹島卓一は、高麗尺は和銅6年(713)に廃止されるまで用いられていたうえ、大宝律令以前、とりわけ大化以前はどのような尺度が用いられていたか不明である以上、法隆寺が高麗尺に基づいていたとしても非再建説の決め手にはならないとする法制史家の三浦周行の説が発表されて以来、関野の高麗尺説の当初の目的であった「法隆寺の非再建説を立証しようとする意図」は「全く力を失ってしまった」(竹島『建築技法から見た法隆寺金堂の諸問題』、中央公論美術出版、1975年、160頁)と述べています。竹島は、東京帝大工学部建築学科で関野に習った弟子であって、戦後、法隆寺国宝保存工事事務所長として精密な調査と修理を手がけた学者です。そうした人物が、上記のように明言しているのです。

 同じく法隆寺の修理に関わった建築史の浅野清の場合は、唐尺より高麗尺の方が有利としていましたが、高麗尺で完数が得られたとしても「ただちにその絶対年代を大化以前に決しうるか否かは問題である」(浅野『昭和修理を通して見た法隆寺建築の研究』(中央公論美術出版、1983年、102頁)ことを認めていました。

 また、関野の高麗尺説については、三浦論文のように文献に基づく歴史的研究の立場から批判がなされただけでなく、実地調査に基づく建築学史の立場からも批判がなされています。たとえば、法隆寺の修理にも関わった東洋建築史の大家、村田治郎は、尺度は時代による多少の変動を考慮すべきだとしたうええで、浅野とは反対に、高麗尺ではなく小尺(唐尺)でも説明は可能であり、どちらかと言えば小尺説の方が勝っている場合もあるとしていました(村田「法隆寺の尺度問題」、『仏教芸術』4号、1946年10月)。

 解体調査の際の精密な測定に基づく検討では、高麗尺の方が説明しやすい場合と唐尺の方が説明しやすい場合があるのです。そこで、竹島は関野の弟子であるにもかかわらず、「村田博士の考え方を著者は否定するものではない」(161頁)としてその意義を認めます。そのうえで、唐尺と高麗尺は10対12という対比になっている以上、高麗尺でおおよそ割り切れる対象については唐尺でも割り切れる場合があるのは当然であり、「短い尺度を使った方が、端数が小さくなり勝ちである」ことに注意しています。

 竹島は、関野が平均値をとって高麗尺とした正倉院のものさしは、実際には大小様々な長さになっていたことを明らかにし、関野の高麗尺説は非再建説の論証とはなりえないとしつつも、関野が提唱した「尺度論的研究方法」そのものは、今日でも「古建築の研究上」重要な手段であると高く評価していました。そこで、試行錯誤した結果、関野が想定していたよりやや長めの高麗尺の4分の3に当たる0.75尺が基準となっていた、とする解釈を提示しています。

 高麗尺の0.75尺は、唐尺の9寸に当たります。高麗尺の0.75尺あるいは唐尺の9寸というのは、他にも様々な見解の研究者たちが注目する数字であって、これを基本単位とすると説明できる場合が大幅に増えますが、それでも合わない部分は残ります。つまり、実地調査の側からも関野の高麗尺説は不十分であり、高麗尺にしてもその変形説にしても説明できる部分とできない部分があることが明らかになっているのです。

 法隆寺の場合、金堂・五重塔・中門はそれぞれ微妙に基本単位が違っていたり、同じ建物でも初層と上層では異なる点があるなど、不明な点が多く、研究者泣かせとなっています。このため、法隆寺造営の基準となる尺度ないし基本単位については、以後も様々な説が出されて諸説乱立状態が続いており、定説はまだ確立されていません。

 たとえば、中国を代表する建築史学者の一人で、来日して日本の古寺を調査した傅熹年氏は、「日本飛鳥、奈良時期建築中所反映出的中国南北朝、隋唐建築特点」(『文物』1992年第10期)では、「這0.75高麗尺即中国建筑中的“材高”(この0.75高麗尺とは、中国建築の「材高」にほかならない)」(31頁、原文は簡体字)と述べ、法隆寺は「尺」ではなく、中国古建築の単位である「材」を基本として造営されたとしています。

 また、計量史の分野では、小泉袈裟勝『ものさし』(法政大学出版局、1977年)などは、そもそも高麗尺なる大きさはある時期、田地の計測に用いられたものの、制度として規定され、また実際に発見される古代のものさしは隋唐の大小尺に基づくもののみであり、「高麗尺らしきものさしも、それが用いられたということをあきらかに証明する痕跡も見つかっていない」(74頁)と断言しています。

 法隆寺の尺度に関する建築学史の最近の研究としては、

溝口明則「法隆寺金堂の柱間寸法計画と垂木計画--古代建築の柱間寸法計画と垂木割計画(2)」(『日本建築学会計画系論文集』603号、2006年5月)
同   「法隆寺五重塔の垂木割計画について--古代建築の柱間寸法計画と垂木割計画(3)--」(『日本建築学会計画系論文集』608号、2006年10月)

があります(CiNiiでPDFが見られます)。

 溝口氏は、小尺の「10尺を11枝」に分割する計画を見出し、後者の論文の結論として、「法隆寺の各遺構はいずれも小尺を用い、柱間に限らず丸桁間にも認められたように『総間完数制』の技法が認められる」(141頁)とし、これは山田寺金堂も法起寺三重塔も同様であるとしています。つまり、2006年にもなって、いまだにこうした新説が提示されているというのが、学界の実状です。

 関野はすぐれた建築史学者であって、当時にあっては画期的な研究を行なっており、中には現在でもかなり通用する部分もあるものの、その非再建説は、あくまでも若草伽藍の発掘や法隆寺の解体修理に際して厳密な測定がなされる以前の説、律令制における尺度の研究、建築史や計量史に関する日本・中国・韓国の研究などが進む以前の説なのです。発表当時は説得力を持っていたその高麗尺説にしても、非再建説の決め手にはなりえなくなったことは、関野の弟子である竹島が明言していた通りです。

 田中氏が自らの法隆寺非再建論を説くに当たって、戦前の関根の高麗尺説を高く評価し、「非再建説をある意味で決定的なものにした」と述べるのみで、以後の研究の進展に触れないのは、知らないでのことなのでしょうか、それとも知ったうえでのことなのでしょうか。

田中英道『聖徳太子虚構説を排す』の問題点(4):出典の誤記の系譜

2011年01月07日 | 太子礼讃派による虚構説批判の問題点
 田中氏が、法隆寺非再建説を主張するにあたって、自説の最も重要な拠り所である関野貞論文の初出誌に当たっておらず、出典の名を誤記し、内容を自説に都合よく改めていたことは、以前の記事で紹介した通りです。

 田中氏は、大正九年の現・法隆寺の調査では火災の痕跡がなく、「再建論者の根拠を失わせるものであった」と述べたのち、次のように書いています。

「関野氏はこの調査をもとに、法隆寺二寺説を打ち出した。これは昭和二年のことで、氏はすでに法隆寺の南東にある普門院の、その南にある塔の心楚が露出している若草伽藍跡に着目した。そしてこの若草伽藍が聖徳太子のために発願された『釈迦三尊』像を本尊として建立されたもので、これが六四三年の蘇我入鹿の乱で焼失し、本尊のみが法隆寺金堂に移し替えられた。現在の法隆寺である西院伽藍は、用明天皇のためにつくられた『薬師如来』像を本尊として推古天皇の時代に創建されたもの、という(『アルス大建築講座』)。」(31頁)

 そして、後の箇所ではこの関野説を「示唆的」と評価して非再建説を述べています。田中氏は、上記の箇所の少し前の部分で、

「この論争史を書いた藤井恵介氏は、この関野氏の判定した古建築の建立年代が現在の定説とほとんど一致し、その正確さに驚嘆せざるをえない、とさえ語っている(『法隆寺・建築』保育社)」(28-29頁)

と述べ、建築史の研究者である藤井恵介氏の評言を引いて関野説が優れていることを強調していますが、そこで名を挙げている藤井氏の本のうち、焼失関連の部分は実際にはこうなっています。

「関野貞も旧説を大幅に補強するものとして法隆寺二寺説を考えるようになった。これは昭和二年に刊行された『アルス大建築講座』に書かれたもので、塔頭普門院の南、巨大な塔の心楚が地表に露出していた若草伽藍に着目した。つまり、現在の西院伽藍は用明天皇のために発願された薬師如来を本尊として推古時代に創建されたもの、若草伽藍は聖徳太子のために発願された釈迦三尊を本尊として建立されたが、天智九年の火災で焼失し、そのまま放置されたとする」(22頁)。

 一読すれば明らかなように、田中氏による関野説の説明は、火災の年が違うことを除けば、藤井氏のこの論争史紹介と表現がかなり一致しています。前の記事では、田中氏は藤井恵介「法隆寺は再建か非再建か--法隆寺再建非再建論争の展開--」(大橋一章編『寧楽美術の争点』、グラフ社、1984年)中の関野説の紹介に基づいて書いたのだろうと推測しましたが、その3年後に同じ藤井氏によって書かれたこの文章では、前論文とほぼ同文ながら、「塔心楚」を「塔の心楚」、「現西院伽藍」を「現在の西院伽藍」とするなど、前論文の語句を固くない言い方に改めており、そちらの方が田中氏の文章と一致しています。

 したがって、田中氏が基づいたのは、藤井氏の1984年の論文でなく、それを少し改めた1987年刊行の著書の方であったことが明らかになりました。田中氏は、この書物の名を前の所で記しているため、これに基づいて関野説を紹介すること自体は、問題ありません。

 重要なのは、田中氏は藤井氏のこの著書を横に置きながら、あるいはこれを読んだ際のメモに基づいて原稿を書いておりながら、670年のことである「天智九年の火災で焼失」と藤井氏が明記している箇所を、643年に入鹿軍が山背大兄王を攻撃して斑鳩宮を焼いた際に若草伽藍も焼失した、という形に改めていることです。

 つまり、田中氏は、関野説から示唆を受けたという形で、聖徳太子が父用明天皇のために建立した西院伽藍の本尊はその際に破壊されたため、太子没後に建立された若草伽藍が670年に焼けた際に救出された釈迦三尊像を西院伽藍の本尊としたのであり、西院伽藍は太子の創建当時のままであって再建されていないのだ、とする自説を述べるのですが、藤井氏の関野説紹介だけでなく、関野の原論文も「天智天皇九年に焼失せし法隆寺は此伽藍にして其後再興されず」(86頁)と明記しています。入鹿軍による斑鳩宮襲撃の際に若草伽藍も焼けた、などとは述べていません。そうなると、その斑鳩宮襲撃の際に西院伽藍の本尊が破壊されたため、後に若草伽藍から持ち出した釈迦三尊像で置き換えた、とする田中説は成り立ちにくくなります。

 なお、気になるのは、田中氏や藤井氏以外の法隆寺関連論文でも、『アルス建築大講座』とすべきところを『アルス大建築講座』と誤記しているものを見かけることでした。そこで、その誤記がどこまでさかのぼれるか調べたところ、面白いことが分かりました。

 以下、再建非再建論争史を扱った論文を中心にして、どのように表記しているか、新しい順に並べてみます。<>の中が原文の引用で、*の部分は私のコメントです。

島田敏男「法隆寺再建・非再建論争と若草伽藍」(『法隆寺若草伽藍跡発掘調査報告(奈良文化財研究所学報第76冊)』、2007年3月):
<関野 貞 1927 『アルス大建築講座』(足立康 1941 『法隆寺再建非再建論争史』所収、龍吟社)>
 *これは正直な書き方ですね。これで問題ありません。

田中英道『聖徳太子虚構説を排す』(PHP研究所、2004年):
<関野氏はこの調査をもとに、法隆寺二寺説を打ち出した。これは昭和二年のことで、……という(『アルス大建築講座』)。>

岡本東三「法隆寺論争」(明治大学考古学博物館『市民の考古学Ⅰ 論争と考古学』、名著出版、1994年):
<関野貞「日本建築史」(『アルス大建築講座』、昭和二年ごろ。のち『日本の建築と芸術』上巻所収、昭和一五年六月)>
 *市民向けの講演であるため、ワンマン男爵であったらしい北畠治房が、現在は国宝になっている釈迦三尊像の頭をステッキでぽーんと叩き、「よく聞け、これが飛鳥の音色だ」と叫んだというひどい話や、初期の再建非再建論争が水掛論で終わったことについて、「火事の話には”水掛け”はつきもの」という野次馬的評論もなされたとか、面白い逸話満載の論争史紹介です。刊行年については、「二年ごろ」とあって分からなかったことが示されており、岡本氏の個性が感じられます。

町田甲一『増訂新版 法隆寺』「第7章 再建非再建論争」(時事通信社、1987年):
<「日本建築史《法隆寺堂塔》」アルス大建築講座七九号、昭和二年>
 *上代美術史の大家であった町田氏の法隆寺論集大成。後述します。

藤井恵介『日本の古寺美術2 法隆寺Ⅱ[建築]』「法隆寺の創建」(保育社、1987年):
<関野貞も……これは昭和二年い刊行された『アルス大建築講座』に書かれたもので、塔頭普門院の南、……天智九年の火災で焼失し、そのまま放置されたとする>
 *上で触れました。

藤井恵介「法隆寺は再建か非再建か--法隆寺再建非再建論争の展開--」(大橋一章編『寧楽美術の争点』、グラフ社、1984年):
<関野貞も……これは昭和二年に刊行された『アルス大建築講座』に書かれたもので、……天智九年の火災で焼失したとする>
 *上の藤井論争史紹介部分の元になったもので、ほぼ同じ文章。論争史紹介としては、良くまとまっています。

町田甲一『法隆寺』「第四章 再建非再建論争」(角川書店、1972年):
<関野貞『アルス大建築講座』所収「日本建築史」昭和二年>
 *後述します。

町田甲一「法隆寺再建非再建論争の経緯」(『東京教育大学教育学部紀要』15巻別冊、1969年3月):
<昭和2年発行『アルス大建築講座』所収「日本建築史」>
 *上と同じ内容ながら、形が違うのは、横書き論文であるためか。

足立康編『法隆寺再建非再建論争史』(龍吟社、1941年):
<博士は昭和二年発行のアルス大建築講座中に於てこれを公表され>
<法隆寺主要堂塔の建立年代  昭和二年 アルス大建築講座
 編者云ふ。本稿は関野博士がアルス大建築講座へ執筆されたる……第三項「主要堂塔の建立年代」の全文である。尚標題には便宜上法隆寺を冠した。>
 *論争を紹介し、重要な論文については原文を掲載したもの。関野説については、前年に刊行された下の論文集のうち「日本建築史」から法隆寺の主要堂塔に関する部分を抜粋。

関野博士記念事業会(編纂代表 伊藤忠太)編『日本の建築と芸術』上巻(岩波書店、1940年)凡例:
<「日本建築史」は、著者がアルス大建築講座と工業大辞書とに執筆された論稿を編輯して、一貫せる日本建築史を組織したものである。……昭和十五年五月  編纂委員識>
 *後述します。

以上です。

 なんと、正しく表記しているものは、一つもありませんでした。しかも、関野貞没後まもなく、伊東忠太を初めとする仲間や門弟の研究者たちによって編集され、岩波書店から出版された関野の論文集『日本の建築と芸術』上巻(1940年)の「凡例」が、既に「アルス大建築講座」と誤記していたうえ、講座の第何巻かや刊行年月を記していなかったのです。

 これが誤記の出発点のようですが、ヒドイですね。この本しか見ていないと、孫引きでなく問題の論文のうちの法隆寺の部分をきちんと読んだ人でも、初出資料の名や刊行年代をきちんと書けないことになります。

 田中氏の誤記もそのせいであって、関野の「日本建築史」論文全体、ないし足立編集の再建論争本でその法隆寺関連の部分だけを読んだうえで、著書で関野説を紹介する際、諸説を要領よくまとめた藤井氏の1987年の文章に頼って書いた可能性があります。

 田中氏が「六四三年の蘇我入鹿の乱で焼失し」(31頁)と述べている部分は、関野の原論文が「……銅造釋迦像を本尊とせし者にして山背大兄が入鹿の亂に男女廿餘人と縊死せられし斑鳩寺の塔は即ち此若草塔であらう」(86頁)と書いているのに基づいているのでしょう。関野論文は文語調ですので、「山背大兄が入鹿の乱に」としていても不思議はありませんが、田中氏の著書では「六四三年の蘇我入鹿の乱」と書かれているため、「蘇我入鹿の乱」という歴史用語があるかのような不適切な表現になっています。

 ただ、田中氏が関野論文の表現を用いているとなると、藤井氏の著書だけ読んで書いた際、再建非再建に関する諸説が並んで紹介されているため、つい勘違いして関野説を自説に都合良く記してしまった、というのではなく、関野の原論文を『日本の建築と芸術』か足立の再建論争史本で読んでおりながら、内容を自説に都合良く改めて書いている、ということになります。あるいは、「蘇我入鹿の乱」という表現も他の論争史紹介論文に基づいていたのか。今のところ、その表現を用いた論争紹介論文は目にしていませんが。

 なお、上記の一覧のうち、関野説の出典表記が最も詳しいのは、町田氏の増補版(1987年)の、
<「日本建築史《法隆寺堂塔》」アルス大建築講座七九号、昭和二年>
です。

 町田氏は、増補版を出すに当たって、「講座と記すだけではまずい」と思ったのか、メモなどを確認し直したようですね。ただ、「アルス大建築講座」という誤記はそのままですし、「七九号」という表記では、「第七号・第九号」なのか「第七十九号」なのか曖昧であるうえ、そもそも、「七九号」というのは誤りで、「七十九頁以下」となるはずです。《法隆寺堂塔》の部分の出典を詳細に記すなら、

『アルス建築大講座』第十巻(アルス、昭和二年六月)七十九頁~八十六頁。

となります。『聖徳太子虚構説を排す』「あとがき」では、「できるかぎり出典をあげたが、いちいち註をつける性格の本ではないので、遺漏がないともかぎらない」(205頁)とある通りであって、一般向けである同書の場合は、上のように詳しく書く必要はありませんが、この講座は昭和二年には複数の巻が出ていますので、第何巻であるかは表記してほしいところです。しかし、これまで巻数を表記した論争史紹介論文は一つもありませんでした。

 このような事態になったのは、一時期は隆盛を誇っていたアルス社が、こうした講座物を、入会者に対して刊行順に配布するという形で販売しており、大学図書館などでは申し込むところが少なかったことが原因と思われます。この『建築大講座』自体は特に希少なものではなく、セットや個別の巻が今でもあちこちの古書店で売られていますが、Webcat で調べたところ、大学図書館で所蔵しているのは「九大理系」だけであって、合本になっているそうです。

 国会図書館はさすがに所蔵していますが、帝国図書館時代に、各巻に連載されていた同一著者の論文を切り貼りして著者ごとにまとめて合本にしてあり、どの部分がどの巻に載っていて何年何月に刊行されたか、分からなくなっています(以前はマイクロフィルムで見れましたが、現在は館内でのみ電子資料として端末で閲覧可能)。これでは、研究者たちも所載の巻や刊行年代を確認しがたかったことでしょう。九大の合本はどのような形態なのか知りません。

 以上、「自説の根幹に関わる重要な文献については、必ず初出誌に当たって確かめる」という学問の基本ルールを守らないと、出典名の誤記が受け継がれ、孫引きが分かったり、原文の趣旨を改変していることが明らかになる場合もある、という恐い話でした……。

【追記 2011年2月12日】
村田治郎『法隆寺の研究史』(昭和24年)では、「アルス大建築講座」となっており、(86頁)、「合本してしまった今日では全く不明で、ただ昭和二年ころだつたとしか言えないのは残念である」とありました。岡本東三氏の記述の元はこれでしたね。ただ、増補原稿に基づいて没後に刊行された『村田治郎著作集二 法隆寺の研究史』(中央公論美術出版、昭和62年)では、正しく『アルス建築大講座』となってました(73頁)。

田中英道『聖徳太子虚構説を排す』の問題点(3):厩戸皇子の誕生描写は仏伝による

2010年12月28日 | 太子礼讃派による虚構説批判の問題点
 前々回、田中英道『聖徳太子虚構説を排す』が戦前の景教影響説を受け継ぎ、厩戸皇子の誕生時の記述は「馬小屋で生まれた」イエスの話と類似すると主張していることを批判しました(ここです)。

 その時の記事について、聖書ではイエスが馬小屋で生まれたとは明記しておらず、牛やロバがいる家畜小屋で生まれたとする伝承も成立が遅いのに、日本では馬小屋誕生が常識となった経緯を書いた京都産業大学の平塚徹氏のページ「イエスは馬小屋で生まれたか?」に着目した国家鮟鱇さんが、自らのブログでとりあげ、景教影響説を批判するなら、イエスは馬小屋で生まれていないことを根拠とすべきではないか、とコメントされました。

 私はもともと唐代仏教が専門なので、唐代の景教については、前から中国・日本の研究書や論文を集めて調べていたものの、そうした視点からの検討は頭になかったため、感謝していろいろな調査を始めたところです(現存する僅かな景教の漢文文献では、「末艶(マリア)」は「涼風(聖霊)」によって妊娠して「移鼠(イエス)」を生んだとあるのみで、生まれた場所に関する記述はありません)。
 
 国家鮟鱇さんはまた、后が宮中の役所を視察して回っていた際に「厩戸に当りて」産んだというのと「馬小屋で生まれた」というのは大変な違いだとした私の主張について、それはそうだが、馬という点が共通している以上、反論としては十分ではないだろう、としています。

 これは確かにもっともな指摘であって、説得力が弱いのは、私の説明不足によるものです。実は、あの文章は、厩戸皇子の誕生場面は仏伝に基づくらしいと気づきながら、ネタの出し惜しみをして書いたため、ああした中途半端な言い方にとどまっていたのです。あの文章の力点は「~に当りて」にありました。

 その仏伝を紹介する前に、『日本書紀』の該当箇所を見ておきましょう。仏伝と比較しやすくするため、古訓のように和語風に訓み下すのではなく、漢語そのままの通常の漢文訓読風にしておきます。

 皇后、懐姙開胎の日に、禁中を巡行して、諸司を監察す。馬官に至りて、乃ち厩の戸に当りて、労せずして忽(たちま)ち産む。生れて能(よ)く言ふ。

 要素としては、(1)皇后が、(2)臨月の際、(3)宮中の役所を、(4)あちこち見て回り、(5)馬の役所に至り、(6)厩の戸に、(7)「当りて」=まさにそこで(立って、ぶつかって、よりかかって)、(8)「不労(苦しまない、疲れない)」の状態で産み/生まれ、(9)生まれるとすぐ話した、ということになります。

 「厩」という語は、当時にあっては最先端の技術・知識を思わせるイメージがあったことは、前に書いた通りですが、上の要素のうち私が特に注目するのは、「~に当りて」という言い回しです。「厩」という語にだけ着目してキリスト誕生を思い浮かべるのでは、『日本書紀』の記述を当時風な漢文で書かれた「文章」として読んでいるのではなく、目についた単語を現代語に置き換えているだけにすぎません。

 さて、数ある仏伝のうち、よく読まれた隋・闍那崛多訳『仏本行集経』の「樹下誕生品」を訓読で示せば、次の通りです。釈迦を「菩薩」と呼んでいるのは、仏となる前のあり方を示す伝統仏教の用法です。

 (浄飯王の夫人である)聖母摩耶、菩薩を懐孕し、まさに十月に満たんとす。……(摩耶夫人は、出産で亡くなる危険もあるとする父(大臣)の要望で実家に帰り、父が造らせたルンビニーの華麗な園林におもむき)処々観看し、此の林より復た彼の樹に向かう。かくの如く次第し、周匝[経めぐり]して行く。然るにその園中に、別に一樹有り、波羅叉と名づく。……彼の(素晴らしい波羅叉)樹の下に至る。……(胎内の菩薩が、摩耶夫人に普通の出産のような「身体遍痛」や「大苦悩」を与えないよう念じると)是の時、摩耶、地に立ち、手をもって波羅叉樹の枝を執[と]りおわりて、即ち(右脇からするすると)菩薩を生む。……如来、仏道を成ずるを得おわりてより「無乏無疲、不労不倦」にして、よく一切の煩悩諸根を抜く。……菩薩、生まれおわりて、人の扶持すること無く、即ち四方に行くこと、面ごとに各の七歩。……口に自ら言を出だす。(大正蔵3巻、685b~687b)

 以上です。「王の夫人が」、「臨月の身で」、あちこちの樹を「見て回り」、ある樹の下に<至り>、(邸内でなく)その樹<のところで>立って枝に手をかけたところ、「苦しむことなく子を生んだ」が、如来は悟ってからは<不労>であり、「生まれるとすぐ話した」、という流れです。

 『日本書紀』では、間人皇后が宮中の役所を監察して回ったという無理な設定にしてますが、何で出産直前の妊婦が役所を巡察する必要があるのか。これはやはり、仏の誕生時に臨月の摩耶夫人が園林の素晴らしい樹から樹へと巡り歩いて眺めたというのを、太子の命名伝承にあったのであろう「厩」がらみの話にするため、仏誕生の場面を利用して描いたためと思われます。

 『日本書紀』の「厩戸に当りて」は、『日本書紀』編纂者が「その樹のところで、立ってその枝に手をかけたまま」の「樹」を、「厩戸」で置き換えたか、僧侶などが既にそのような釈迦の誕生になぞらえた命名伝承を造っており、それを『日本書紀』編纂者が潤色したものと考えます。いかがでしょう?

 なお、『日本書紀』の太子関連記述は、中国の類書(文例による百科事典)から、「聖」や「帝」に関する表現を切り貼りして用いているらしいことは、このブログに置いてある拙論「聖徳太子伝承中のいわゆる「道教的」要素」で論じておきました。厩戸皇子の誕生場面があまり仏教風でなく、むしろ中国の聖人の印象が強いのはそのためもあるでしょう。

 いずれにせよ、聖書に見えるキリスト誕生の場面とこの仏伝と、どちらが『日本書紀』の厩戸皇子誕生の場面に近いかは、明らかではないでしょうか。ただ、これはその箇所を書くにあたって潤色に用いた材料に関する話であって、厩戸皇子の誕生場所や名の由来が実際にはどうであったかは、また別に考えなければならない問題です。

田中英道『聖徳太子虚構説を排す』の問題点(続):田中説の拠り所である「関野貞説」なるものは虚構だった?

2010年12月20日 | 太子礼讃派による虚構説批判の問題点
【19日早朝にアップしましたが、夜になって読み直したところ、田中氏が自説の拠り所としている関野貞氏の説なるものが関野氏の原論文の内容と異なることに気づき、掲示をやめました。その部分と関連する部分の記述を訂正したものを再アップします。このところ、再アップ続きで申し訳ありません】

 前回の記事では、同書の全般的な傾向について紹介しましたので、今回は仏像関連の主張を見ていきます。

 田中氏は、関野貞や秋山義一などによる戦前の二寺併立説を評価し、現在の法隆寺西院伽藍は聖徳太子が父の用明天皇のために建立したものであり、聖徳太子が重病となった際に発願された釈迦三尊像は、太子亡き後に建立された若草伽藍の本尊となったと説きます。つまり、二つの寺が同時に存在していたのであって、天智9年(670)の火災で焼失したのは若草伽藍であり、現在の法隆寺は、五重塔の心柱が年輪年代法によれば594年の伐採であることが示すように、聖徳太子が創建した当時のままだとするのです。

 氏は、法隆寺金堂の薬師如来像は、形だけ見れば釈迦如来像と言ってよいとし、止利仏師の様式にならって作られた擬古の像であると説きます。擬古作とみなす点は、最近の通説と同じですね。

 そして氏は、西院伽藍の本来の本尊である「原・『薬師如来』像」は止利様式の丈六の釈迦像だったが、若草伽藍焼失の後、その金堂から救出された釈迦三尊像が新たに西院伽藍の金堂の本尊とされた際、その新らしい本尊の横に安置するため脇侍の大きさの仏像が必要となり、丈六の釈迦像を真似て小さくした擬古像が作られ、また釈迦三尊像と重ならないよう薬師如来とされたのであって、銘文もその時に書かれたのだと推測しています。

 しかし、田中氏が自説の拠り所とする年輪年代法調査を行った研究者たちは、建立は若草伽藍が先であって、西院伽藍の金堂は670年の火災の年の少し前に着工された可能性があるとし、心柱だけが異様に古くて新旧の部材を用いている五重塔は、その金堂の建立後に建てられたとしていました。

 光谷拓実氏、つまり、この年輪年代法の調査をおこなった当人が、法隆寺建立事情については、今回の年輪年代法の調査によって「ようやくその謎解きに一歩近づいたことになろう」(光谷「古代史の謎を解く年輪年代法」、『歴史読本』2009年8月号)と述べているのに、田中氏はこれで決定だとするのです。また、瓦研究の成果も、西院伽藍は若草伽藍より後の建立であることを示すというのが通説であることは、前回書いた通りです。

 つまり、田中氏の主張は前提からして成り立たないのですが、それはともかく、若草伽藍から釈迦三尊像を持ってきて西院伽藍の金堂の本尊としたのであれば、それまで本尊とされていた丈六の釈迦像はどこに行ったのでしょう? 

 田中氏は、火災から救出された釈迦三尊像が金堂の本尊とされた際、「原・『薬師如来』像もつくり直された」と述べ、その「原・『薬師如来』像」については、「六四三年の蘇我入鹿の斑鳩寺攻撃の際に破壊同然の目に遭っていたからかもしれない」としています。そして、すぐれた建築史家であった関野貞氏が、若草伽藍はこの年「焼失した」としていたのは「示唆的である」と述べています。(54頁。56頁にも同趣旨のまとめ有り)

 しかし、田中氏は『日本書紀』に従い、若草伽藍は天智9年(670)の火災で焼けたとします。田中氏は、斑鳩宮襲撃と記さず、「蘇我入鹿の斑鳩寺攻撃」と書いていますが、そうなると、蘇我入鹿が派遣した軍勢は、643年に「斑鳩寺」を襲っておりながら、斑鳩宮を焼いただけで、その斑鳩宮と方位も同じであって宮とセットになっていたことが確実な若草伽藍とその釈迦三尊像には全く手をつけず、一方、方位が大きく異なる西院伽藍については本尊だけに損傷を与えた、それも蘇我系の用明天皇のために造られた本尊だけに破壊同然のひどい損傷を与えたことになります。あまりにも不自然ではないでしょうか。

 田中氏は、薬師如来像銘については、擬古像を造った際、「薬師如来とするために、無理して父、用明天皇の病気のことを推古天皇と聖徳太子が平癒を祈願したものだ、という物語を作りだし」て書いたと述べ(55頁)、ほかにもこの銘文には「いろいろな矛盾がある」(54頁)としていますが、この書き方だと、用明天皇は、推古天皇と聖徳太子の父であるみたいですね。

 また、上の記述によれば、病気平癒を祈願したのは推古天皇と聖徳太子ということになりますが、薬師如来像銘が後代の作だとされているのは、重病の人のために周囲が誓願する初期の通例と違い、用明天皇自身が「病気が治るよう寺と薬師像を造ってお仕えしたい」と述べた、と記されていることも一因となっています(古い時代の中国・日本仏教の誓願の特徴について論じた論文は、私が前に書いたものだけでしょうから、いつか紹介します)。

 実際の銘文は、すぐ亡くなってしまった用明天皇のその願いを果たすために「小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王」、すなわち推古天皇と聖徳太子が遺命を奉じて推古十五年に作った、と述べています。つまり、擬古像を造った際に「推古天皇と聖徳太子が平癒を祈願した」という物語も作って光背に刻み込んだとする田中氏の説明は、銘文の内容と異なるのです。前回の記事では、田中氏による釈迦三尊像銘の内容説明が不適切であることを指摘しましたが、今回は、薬師如来像銘の内容把握が不適切ということになりました。

 しかも、田中氏は、54頁では、670年の火災から救出した若草伽藍の釈迦三尊像を西院伽藍金堂の本尊とした際に、丈六の釈迦像を真似た擬古的な小さい像が作られ、「光背の銘文もまた書き込まれたのである」としておりながら、56頁では、擬古的につくり直された際、「原・『薬師如来』像の光背に書かれていた銘文も新たに書き込まれたのである」と述べています。銘文は擬古像を造った時に新たに作文されたのでしょうか。それとも、「原・『薬師如来』像」に既に刻まれていたのでしょうか。

 既に刻まれていたとしたら、聖徳太子は丈六の釈迦像を造っておきながら、「薬師如来像を造って……」という銘文を光背に刻み込ませた、という妙なことになります。

 あるいは、「原・『薬師如来』像」の光背銘には、「用明天皇は、自分の病気が治るよう寺と釈迦像を造ろうと願い……その遺命を承けて推古天皇と聖徳太子が……」と書かれていたのを、後に擬古像を作った際、「釈迦像を」の部分だけ「薬師像を」と改めたということなのでしょうか。しかし、この銘文は「無理して……つくり出した」ものであり、他にも「いろいろな矛盾がある」ことは、田中氏自身が指摘している通りです。

 田中氏は最新の著作、『「やまとごころ」とは何か』(ミネルヴァ書房、2010年)では、自著の『聖徳太子虚構説を排す』は「法隆寺問題だけでなく歴史家の様々なもっともらしい聖徳太子懐疑説を論破したものだが、これに対する反論はまだ提出されないでいる」(97-8頁)と書いています。しかし、前回と今回検討してきたような内容なのですから、学術論文で取り上げて反論する研究者が出てこないのは、仕方ないことではないでしょうか。

 ちなみに、自説に反論がないとする点は、大山誠一氏が自らの聖徳太子虚構説について「学問的反論は皆無である」としばしば誇っているのと似ていますね。

 大山氏との共通点はほかにもあります。それは、大山氏が天皇号に関する津田左右吉の説や聖徳太子に関する久米邦武の著作を紹介する際、孫引きですませていて出典表示が不適切であり、また「憲法十七条」についても津田の説をきちんと読まず、自説に都合良く解釈して自説の根拠としていたのと同じことを、田中氏も関野説についてやっていることです。

 田中氏によれば、関野貞氏は、若草伽藍は「六四三年の蘇我入鹿の乱で焼失し、本尊のみが法隆寺金堂に移し替えられた」と述べたとし、これは「昭和二年」に『アルス大建築講座』に発表された説だとしています(31頁)。そして、若草伽藍がその時に焼失したと関野氏が述べたことを「示唆的である」として高く評価しています。田中氏は、他の箇所でも、関野の学識を賞賛しています。確かに関野貞(1868-1935)は日本建築史の分野を確立した、きわめて優れた学者でしたが、昭和10年代に行われた斑鳩宮と斑鳩寺の発掘調査の成果や、戦後急激に進展した建築様式や瓦の様式の研究成果を知らずに、限られた材料に基づいて模索していた時代の人物であることも考慮すべきでしょう。

 そもそも、「蘇我入鹿の乱」などという歴史用語はありません。また、この昭和2年に発表された関野説については、論争史の代表的な概説であって誰もが読む論文、藤井恵介「法隆寺は再建か非再建か--法隆寺再建非再建論争の展開--」(大橋一章編『寧楽美術の争点』、グラフ社、1984年)では、関野説は「若草伽藍は聖徳太子のために発願された釈迦三尊像を本尊として建立されたが、天智九年の火災で焼失したとする」(22頁)と明記されており、出典は昭和2年刊行の『アルス大建築講座』としています。

 つまり、田中氏の紹介と違い、関野説では、643年に入鹿が派遣した軍勢が斑鳩宮を襲うとともに若草伽藍も焼いたとはしていなかったのです。田中氏が関野説を正しく伝えていたなら、斑鳩宮の焼き討ちの際、西院伽藍の本尊も破壊されたのだろうという田中氏の推測は成り立ちにくくなります。

 また、上記の藤井氏の紹介では、関野説の出典は田中氏の本と同様、『アルス大建築講座』となっていますが、これは間違いであり、実際にはその講座の名は、『アルス建築大講座』です。焼失に関する記述は、関野が担当した「日本建築史」のうち、85頁から86頁にかけて書かれています。

 つまり、田中氏は、『聖徳太子虚構説を排す』の中でもとりわけ重要な主張、すなわち、法隆寺は再建でなく創建当時のままだという主張をするため、一番の拠り所としている関野説を紹介するにあたって、その論文自体を読まずに出典名の誤りを含んだ論争史紹介論文の説明の孫引きですませ、しかも自説に都合よく改めた形で紹介したのです。

 これは悲しいですね。田中氏に言われるまでもなく、法隆寺は現存する世界最古の大型木造建築であり、芸術的な傑作であって、日本と世界中の人々にとってこのうえなく貴重な文化遺産です。田中氏のようなフェアでないやり方によって法隆寺の古さを強調しようとするのは、法隆寺に対する冒涜です。

【追記 2010年12月23日】
 『アルス建築大講座』を『アルス大建築講座』と誤記するのは、上に記した藤井恵介「法隆寺は再建か非再建か--法隆寺再建非再建論争の展開--」(大橋一章編『寧楽美術の争点』、グラフ社、1984年)が最初ではありませんでした。
町田甲一『法隆寺』(角川書店、1972年)が「関野貞『アルス大建築講座』所収「日本建築史」昭和二年」(119頁)と記しており、それ以前に同氏の論文、「法隆寺再建非再建論争の経緯」(『東京教育大学教育学部紀要』15巻別冊、1969年3月)が「昭和2年発行『アルス大建築講座』所収「日本建築史」」(4頁)と書いてました。以後、孫引きで間違いが受け継がれていったわけです。町田氏以前はどうなっているか、調べてみます。
 町田氏の『法隆寺』は後に時事通信社から増補版が出ており、田中氏は問題の箇所(54頁)でその増補版に触れているため、氏の言う関野貞説なるものは藤井論文でなく町田氏のその本に基づいて記したのかもしれません。いずれにせよ、自説にとっても最も重要な関野の論文に直接当たらず、論争史紹介の文章から書名の誤りも含めて孫引きし、しかも関野説の内容を自説に都合良く改めたことに変わりはありません。

【追記2 2011年1月13日】
上の記事中で、日本仏教の誓願の特徴に関する拙論に触れましたが、そのうち、上代日本に関する拙論のPDFをブログに置きました。ここです

田中英道『聖徳太子虚構説を排す』の問題点

2010年12月16日 | 太子礼讃派による虚構説批判の問題点
 出版はだいぶ前になりますが、現在も一般読者にある程度の影響を与えているようなので、聖徳太子虚構説を批判している本について検討しておきましょう。

田中英道『聖徳太子虚構説を排す』
(PHP研究所、2004年)

です。

 聖徳太子の存在を全面的に否定する大山誠一氏の著作が、結論先行で想像と断定が多いのと同様、聖徳太子礼讃・伝承説尊重の立場に立って大山氏の太子虚構説を厳しく批判するこの本も、結論先行で想像と断定的な物言いが目立ちます。また、西洋美術史学者である田中氏は、キリスト教美術に馴染んでいるためもあってか、「天寿国」は「キリスト教の天国とさえ思われる」(98頁)とか、キリスト教の一派である景教(ネストリウス派)の「景教」とは「光明の教え」の意味であって光明皇后の名はそれに由来する(95頁)と述べるなど、学界では認められていない突飛な主張をしている箇所も少なくありません。

 まず、同書は、通説に反対し、現在の法隆寺は再建でないとする主張から始まります。田中氏は、法隆寺西院伽藍は聖徳太子が用明天皇のために建立したものであり、若草伽藍は聖徳太子のために発願された釈迦三尊像を本尊として建立された、とする戦前の別寺説に賛成します。670年の火災で焼けたのは、若草伽藍の方であって、より古い法隆寺は創建当時のままだとするのです。そう主張する最大の根拠は、五重塔心柱の伐採年代は594年だとする年輪年代法の調査結果です。

 年輪年代法による最新の調査については、前回の記事で紹介した通りです。この調査をした研究者たちは慎重であって、心柱の伐採年代によって再建非再建問題が完全に解決したとは主張していないうえ、西院伽藍については、670年の火災前後に伐採された木材を使った金堂 → 心柱だけ異様に古く、後は新旧寄せ集めの部材を使った五重塔 → 690年頃伐採の部材を使った中門、という建立順序を想定しており、聖徳太子当時の建立という説は成り立ちません。また、最初期の寺である飛鳥寺や豊浦寺の瓦を受け継いでいて古いのは、若草伽藍の金堂の瓦であって、西院伽藍の瓦はそれよりずっと新しいことが判明しています。田中氏は両伽藍の瓦にも触れているものの、最近の研究成果を正しく紹介していません。

 三経義疏については、藤枝説で決着がついたと断定する大山氏と違い、漢文の誤りなどについて、「私たちはそうした文献的な研究成果を待つだけである」(148頁)と述べているのは、妥当な姿勢です。ただ、三経義疏真撰説については、花山信勝などの先行研究に基づいて論じており、新たな証拠は示されていません。

 天寿国繍帳については、先行研究に基づいて真作であることを強調していますが、「世間虚仮、唯仏是真」における「世間」という語は、「『法』とか『諸行』といった仏教的な言葉と異なる、日本人の社会のあり方への独特な見方を感じさせる」(68頁)だというのは、無理な議論です。
 
 確かに、「世間」という語は現在では日常語として定着していますが、7世紀当時にあっては耳慣れないモダンな用語であって、今で言えば「DNA」に当たるような語感があったはずです。中国では「世間」の語は仏教以外の場面でも使われていますが、用例はきわめて稀です。梵語の manuşya-loka の漢訳語である「世間」を僧侶以外の人々が頻繁に用いるようになるのは隋唐以後であって、その場合でも仏教を意識した場面に限られます。

 日本においては、「世間」どころか、それを和語にした「世の中」という語でさえ、『万葉集』ではモダンな印象を与える表現として用いられていることは、講演で触れたことがあります(石井公成「恋歌と仏教--『万葉集』『古今集』『伊勢物語』--」、武蔵野大学編『心 日曜講演集』25集、2006年4月)。

 また、田中氏は、聖徳太子伝説について述べる際、「馬小屋で生まれた」(97頁)としてキリストとの類似を指摘し、戦前に唱えられた景教影響説を再評価するのですが、これも「厩」という語の現在のイメージにとらわれ、文脈と当時の語感に注意していない読み方です。

 『日本書紀』推古元年の「(宮中の役所を視察して回っていた皇后が)馬官に至り、厩戸に当たりて」安らかに産んだという記述は、現代に置き換えれば、「皇室の御用自動車の車庫兼整備工場[英国から派遣された技術スタッフやその二世・三世が仕切っており、英語で話している]を視察した際、その入り口まで来たところで安産した(そのせいもあってか、太子は成人すると車好きとなり、スポーツカーを高速で飛ばすようになった)」などといった感じでしょうか。『日本書紀』は、伝承に基づいて潤色しているのでしょうが、そもそも后が宮中の役所を視察していて「厩戸に当たりて」安産したというのと、「馬小屋の中で生まれた」とでは大変な違いです。

 「百済入朝して、龍編(中国古典)を馬厩に啓[ひら]」いたとする『懐風藻』の序や、百済王が阿直伎を派遣して良馬二頭を献上し、阿直伎は「軽の坂上の厩」でその馬を飼うとともに、儒教の書物に通じていたため「太子菟道稚郎子」の「師」となって教えたとする『日本書紀』応神天皇15年条の記事に着目した新川登亀男さんは、「厩」で馬を飼う者が「太子」を教育する「師」でもあり、「厩」は当時は「教育発信と受容の場でもあった」ことに注意しています(『聖徳太子の歴史学』19-20頁)。「厩」と聞いてすぐ、キリストが生まれた馬小屋を思い浮かべるのではなく、『日本書紀』や天寿国繍帳銘などの資料は、それが書かれた当時の常識と語感に基づいて読まねばなりません。
 
 光明皇后というか、光明子の「光明」にしても、『続日本紀』を読み、また光明皇后・聖武天皇、そしてその娘の孝謙天皇の強烈な『金光明最勝王経』信仰を考えつつその『金光明最勝王経』を読めば、「光明」の由来は明らかです。同経のどの箇所が重要かは、先日、東大寺で行なった講演で述べましたが、別に書きます。

 田中氏は、谷沢永一『聖徳太子はいなかった』を猛烈に攻撃しています。そのように激しく非難するに至る経緯はどうであれ、谷沢氏のこの本は、大山説ときわめて限られた文献だけに基づいて書きとばした間違いだらけの駄作です。近代の書誌学が専門で古代は弱い谷沢氏は、三経義疏を真撰として高く評価していた時期も、三経義疏は「世界で最古の学問書の一つである」と主張するなど、出鱈目を書いていました。三経義疏は、太子の真撰だとしても7世紀初めなのであって、古代のギリシャやインドや中国などの書物に比べれば遙かに後代のものなのですから(インドでは口承が基本であって書物の形になるのは遅いですが)、「世界で最古の学問書の一つ」などというのは、ひいきの引き倒しです。

 ところが、田中氏は、谷沢氏が聖徳太子礼讃の立場から「聖徳太子はいなかった」説に節操なく転じたとして非難する一方で、その谷沢氏が聖徳太子を礼讃していた時期の文章、すなわち、「聖徳太子は……布教はしなかったし、させもしなかった。独り書斎にあって法華経、維摩経、勝鬘経などを読み、研究をした。……仏教を『信じる宗教』ではなく『人生の知恵』だと受け取った証拠である」という文章を引用したうえで、「私もこの聖徳太子への考え方に賛成である」(120頁)と述べているのですから、まったく理解できません。

 これは、大正教養主義などに見られる書斎派の知識人のあり方ではないでしょうか。谷沢氏にしても田中氏にしても、三経義疏そのものや釈迦三尊像銘などを、現代語訳などでなく、原文できちんと読んでもらいたいものです。そういえば、田中氏が釈迦三尊銘の趣旨について説明した箇所も、「太子の病気回復と安寧を祈って太子等身大の釈迦像をつくろうとした」(49頁)とあるのみです。延命が無理なら「浄土に往登し、早く妙果に昇」られるよう願った部分に言及しておらず、かたよった説明になっています。

 こうした例は他にいくつもあります。田中氏は、『日本書紀』などの太子関連の記述をそのまま信じて太子の偉大さや法隆寺の芸術的意義を強調し、当時の日本文化の素晴らしさを説こうとしておりながら、実際には、キリスト教に引きつけて解釈したり、氏が好ましく思う近現代のあり方を太子のうちに読み込むなど、歴史を無視した主張を重ねているのです。
 
 大山氏の常識外れの美術史理解をたしなめたところなどは妥当であるものの、批判の多くは、大昔の古くなった諸説を含む従来の研究成果と、田中氏が想定する聖徳太子像に基づくものであって、新たに客観的な証拠を示して大山説を論破したと言える箇所は、ほとんど無いように思われます。

 田中氏のこの本は、漢文資料の読解と仏教理解の面が十分でなく、結論先行であって歴史の実状や最近の研究成果を無視した想像や断定が多いといった点では、最初に述べたように、大山氏の著作に良く似ているという印象を受けます。大山氏との類似と言えば、津田左右吉の著作をきちんと読まずに津田に論究する点も同じですね。

 大山氏は、津田左右吉説のうち自説に都合の良い箇所だけを孫引きで使い、津田は「憲法十七条」は奈良時代初期に『日本書紀』の編纂者が作成したと述べたなどと事実に反する主張をしていました。大山氏は他にも、津田は「早稲田大学教授を追われ」た(『聖徳太子と日本人』)などと誤ったことを書いており、古代史の批判的研究の先駆者である津田の伝記も読んでいないことが知られます。

 一方、田中氏は、太子について「明治以降、実証主義とマルクス主義が移入されてから、この人物が天皇に近い権力者の一人であるというので、さらに疑う史家が多くなった。典型は津田左右吉氏である。……彼の否定論……」(156-7頁)と述べ、津田はマルクス主義に近い実証学者であって聖徳太子不在論を述べていたかのように書いています。

 しかし、津田は、皇室を敬愛し日本文化の独自性を強調する明治人らしいナショナリストであってマルクス主義に反対しており、聖徳太子の存在を認めていました。「憲法十七条」や三経義疏などを後代の作と見たことは事実ですが、薬師如来像銘や釈迦三尊像銘などの金石文を史実とみなしていましたので、聖徳太子不在論を唱えたわけではありません。

 ナショナリストでありながら『日本書紀』に見える神話や超人的な聖徳太子像を疑う津田の姿勢は、聖徳太子を尊崇すればこそ後代の伝説を荒唐無稽な神話化として否定した久米邦武の姿勢に、多少似た面があります。その津田を攻撃して著書の発禁にまでもっていった超国家主義的な聖徳太子礼讃者たちについては、このブログの以前の記事で紹介した通りです。

【追記 12月14日にアップしましたが、年輪年代法関連の記述を詳しくするなどの訂正をしましたので、新たに再アップします】