聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

「蘇我蝦夷か入鹿が天皇」説を提唱し、後のトンデモ説に影響を与えた破天荒な作家、坂口安吾

2021年10月31日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説
 来月の14日に四天王寺で講演をする予定です。題名は、

  「聖徳太子はいなかった」説の誕生と終焉

 このところ、講演や講義はリモートばかりでしたが、久しぶりに通常の対面の形でおこないます。定員200名なのに、9月初めに予約が満杯になった由。講演では、大山説が誕生する前の様々なトンデモ説にも簡単に触れる予定です。

 イタリアンレストランで働いているうちに古代史に興味を持つようになり、1991年に『聖徳太子は蘇我入鹿だった』を出して話題を呼び、以後トンデモ本を書きまくっている関裕二とか、岡山大学の東洋史出身ながら、『聖徳太子の正体―英雄は海を渡ってやってきた』 (1993年)で太子は北方民族の首領だと説いた小林惠子とかですね(これについては、今年のエイプリルフールのおふざけ記事で対抗し、太子は英語を話すバイキングだったと書きました。こちら)。 

 こうしたトンデモ説の起源はどこかと考えてみたところ、敗戦後の騒がしい時代に大活躍した、破天荒作家、坂口安吾(1906-1955)の歴史物が大きな影響を与えているようです。

 東洋大で仏教を学んだ後、作家となった安吾は、常識嫌いで精神不安定だったうえに薬物中毒となり、いろいろ問題を起こしますが、作品は個性的で類を見ないものばかりであり、私は学生の頃から大好きでした。没後に夫人が書いた追憶本なども買いました。

 安吾の作品のうち、『明治開化 安吾捕物帖』(後に『勝海舟捕物帖』と改題)は、安吾お気に入りの人物だった勝夢酔の息子、勝海舟がいろいろな事件を推理する短編集です。普通の推理小説と違い、海舟のもっともらしい推理はことごとく外れるのですから、変わっています。

 そうした迷探偵ぶりを歴史に関して発揮したのが、『文芸春秋』に昭和26年(1951)3月から12月まで連載し、また30年2月号から再開してその取材旅行から帰った翌日に急逝するまで続いた「安吾日本地理」シリーズです。その中の、

 坂口安吾「飛鳥の幻」
(『坂口安吾選集』第二巻、創元社、1956年。現在は、『安吾の新日本地理』などの題名で文庫本が出てます)

は、「飛鳥の幻」となっているものの、吉野の話が長く続きます。安吾は、「神話と歴史の分水嶺は、仏教の渡来だろう」と書き、文字による記録の重要さを説いたのち、聖徳太子と馬子が協力して書いたとされる「天皇紀」、「国記」、各氏族の本記の考察に移り、これらが蘇我氏とともに亡びたという記述について、「一度疑ってみても悪くはなかろう」と述べます。

 そして、東洋大で学んでいた際、日本仏教史となると『上宮聖徳法王帝説』や関連文献を読まされたと回想し、『法王帝説』は字数は少ないが面白いと言います。というのは、『日本書紀』が長々しく書いている箇所を、『法王帝説』は事実だけを「気持がいいほど無感情、実にあっさり」と書いているためだそうです。

 その例として安吾があげるのが、蘇我入鹿が山背大兄一家を滅ぼし、後に入鹿とその父親である蝦夷が殺されて蘇我本宗家が亡びる事件です。この箇所について、『法王帝説』ではきわめて簡潔に書いているのに対し、『日本書紀』の記述は異様なほど長く、敵意に満ちているのです。

 そこで安吾は、『法王帝説』のこの部分に「□□□」などの欠字が目立つのは、問題となる箇所を後人が伏せ字にしたのではないか、と推測します。そして、「山背大兄王及び十五王子を殺すとともに、蝦夷か入鹿のどちらかがハッキリ天皇位につき、民衆もそれを認めていたのではないかね」と述べ、そうした事実を隠そうとした証拠が上記の伏せ字なのではないか、と説くのです。

 これは、大正期から戦時中にかけては検閲によって伏せ字にすることが多かったことから「推理」し、原本の写真版を見ずに活字本だけ見て想像したものですね。いつの時代も書き換えや削除は多いものの、もとの字数がわかるような形で伏せ字にするのは近代日本の検閲の工夫です。

 『法王帝説』の簡潔な記述と違い、『日本書紀』のこの部分は非常に詳しいのですが、安吾はそれについて、「なんとまァ狂躁にみちた言々句々を重ねているのでしょうね」と述べ、ヒステリー的であって「ハッキリ血なまぐさい病気が、発作が、出ているようだ」と評します。

 『日本書紀』全体の中で、ただ一箇所、調子が乱れていてざわめきたっているのがこの箇所であるのは、『日本書紀』成立の理由は天孫たる天皇の由来を説くためであるとし、蘇我天皇の存在を抹消しようとして、かくも感情的な記述をしたのだ、というのが安吾の推測です。「素人タンテイの心眼」なので怪しいと述べるのですが、『日本書紀』のこの箇所が大化の改新の詔と同様、怪しいことは確かですね。
 
 そこで、安吾は蘇我氏の祖先について考察し、「蘇我氏の生態も、なんとなく大陸的で、大国主的であるですよ」と述べ、「私は書紀の役目の一ツが蘇我天皇の否定であると見る」ため、『日本書紀』の蘇我氏に関する記述は「そのままでは全然信用しないのである」と断言します。

 「蘇我天皇」という言い方は、戦後になって天皇の子孫と称する人たちが次々に登場し、「熊沢天皇」などは、自分は現在の天皇まで続く北朝系に皇位を奪われた南朝系天皇の子孫であって皇位継承権があると主張し、騒ぎになったことを踏まえたものですね。

 安吾の推測は、戦後になってそれまでの神格化された天皇像が否定されて言論が自由になり、安吾自身が手元の資料も十分でない状態で、「素人タンテイ」してみたものですので、問題も多いのですが、入鹿の暗殺前後の記述が異様であるのは確かです。安吾の主張は示唆に富んでおり、考慮に値するものです。

 ただ、言論が自由といっても、戦時中の当局による検閲に変わり、敗戦直後は軍国主義的な発言を警戒するGHQの検閲がおこなわれており、安吾の「特攻隊に捧ぐ」は1947年に発禁となっています。

 この時期に『堕落論』などを発表して戦中・戦後の常識を真っ向から批判し、くだけた率直な文体、魅力あふれる文体で大胆な主張を展開した安吾の作品は、戦後、大人気となりました。「新日本地理」シリーズも良く読まれ、現在までいろいろな版が刊行されています。

 ただ、安吾の責任ではないのですが、聖徳太子の事績について戦前から疑い、著書が発禁となった津田左右吉の説が、戦後になって皇国史観を反省するようになった古代史学界で高く評価されるようになったのと同様、安吾のこうした推測は、話題作りを狙う素人の歴史ライターや、従来の歴史研究のパラダイムをひっくり返そうとした野心的な研究者たちに刺激を与えたのですね。

【付記】
「馬子=天皇」説などのトンデモ説の元祖、ということで記事を書き始め、確認が不充分なまま、「「蘇我馬子=天皇」説を提唱した~」という形の題名で早朝に公開してしまいましたので、題名を改めました。

若草伽藍金堂の本尊は焼失、再建時に釈迦三尊像の隣に置かれたのは:大橋一章「救世観音像の原所在とその後の安置場所」

2021年10月28日 | 論文・研究書紹介
 前回の記事では、焼失した法隆寺の場合、五重塔などに落雷しても、延焼する前に金堂の本尊を運びだすのは可能という内容の論文を紹介しました。それに対して、若草伽藍の金堂の本尊は焼けたのであって、再建法隆寺では若草伽藍の本尊とは異なる仏像が本尊とされたとするのが、

大橋一章「救世観音像の原所在とその後の安置場所」
(『早稲田大学大学院文学研究科紀要(日本文学演劇映像美術史日本語日本文化)』52号、2007年2月)

です。「大橋先生」と呼び慣れており、7月の聖徳太子展でもお会いして話したりしているため、落ち着かないのですが、大橋氏と呼んでおきます。

 天平宝字5年(761)の『法隆寺縁起并資財帳』、いわゆる『東院資財帳』では、夢殿の本尊のことを「上宮王等身の観世音菩薩木像」と記しています。ところが、平安時代の『法隆寺東院縁起』では、「太子在世に造る所の御影、救世観音像」と記されるに至っています。つまり、太子の肖像である救世観音像だというのです。

 この本尊は、クスノキの一木から丸彫りしたものです。クスノキの仏像は中国・朝鮮には一体も残っていませんが、大橋氏は、香木である白檀などで造られたインドの檀像の代用品として、中国南朝や朝鮮でクスノキの仏像が作成されるようになり、それが日本にもたらされて日本でも作成されるようになったと推定します。

 さて、東院は、蘇我入鹿の軍勢によって焼失させられた斑鳩宮の跡が荒れたままなのを見て、涙を流して嘆いた法隆寺大僧都の行信が、東宮(阿倍内親王)に奏聞し、その結果、東宮が太政大臣の藤原房前に命じて天平11年(739)にこの上宮王院(東院)を造らせ、そこに太子在世中二造られた「御影の救世観音菩薩像」を安置したとされています。

 しかし、その時点では阿倍内親王は立太子しておらず、行信は大僧都でなく律師であり、房前は既に天然痘の流行で死亡しているなど、史実との違いが目立ちます。

 ただ、行信が天平8年(736)2月22日の聖徳太子の忌日に法隆寺で盛大な『法華経』講会を開いて律師の道慈を講師に招き、また光明皇后などに働きかけて上宮王院を造営したことは事実であり、この時期は、行信の太子信仰顕彰の動きが目立ちます。

 問題は、救世観音像はどこからもたらされたかです。様式は古いため、この時期に作成されたのでないことは明らかです。再建された法隆寺にはどのような仏像が置かれていたのか。
 
 明治時代の写真では、正面の中の間には釈迦三尊像、東の間には薬師如来像、西の間には阿弥陀如来像、そのほか四隅に四天王像、背後には百済観音や玉虫厨子、橘夫人の念持仏の廚子など、飛鳥美術の展覧会のようであった由。

 ただ、西の間の阿弥陀如来像は12世紀末から13世紀初めにかけて活動した仏師の康勝の作であるため、置かれたのは鎌倉時代ということになります。その前は、どのような仏像が安置されていたのでしょう。

 丈六の仏像の場合、釈迦の身長とされる1丈6尺(4.8メートル強)の立像となりますし、座像の場合もその半分強の高さ、つまり2メートル40センチ程度以上の巨大な像となります。ここで注目されるのは、そのような丈六の座像の釈迦三尊像が安置された飛鳥寺の金堂と、若草伽藍の金堂はほぼ同じ大きさであることです。大橋氏は、そのため、若草伽藍の本尊も丈六の釈迦三尊像だったと推定します。

 再建された法隆寺の金堂もほぼ同じ大きさです。したがって、再建された金堂にも丈六仏が置けることになるものの、現在の金堂の中央に置かれている本尊は、太子等身の座像であって高さが85センチほどしかないため、空間が空きすぎています。

 そこで、大きな台座の上に置かれ、大きな天蓋がつるされたと見るのです。大橋氏は、若草伽藍の金堂の本尊は焼失し、斑鳩宮の一画に安置されていた釈迦三尊像が再建法隆寺の本尊とされ、法隆寺は太子信仰の寺になったと推定します。

 では、西の間にはどの仏がおかれていたか。大橋氏は、それが救世観音だったと見るのです。これは、阿弥陀如来像が安置されている西の間の台座の天板上に、直径64センチほどの漆の塗り残しが発見されたことと関わります。この塗り残しの大きさが、中宮寺の菩薩半跏思惟像の台座の直径とほぼ一致するため、この半跏思惟像が置かれていたという推測もなされました。

 しかし、大橋氏は、調査された西川杏太郎氏が、中宮寺像の台座は、榻の下に幅広い反花や下框があり、基壇に接する下框は直径105.7センチもあって、塗り残しの直径と合わないとし、一方、夢殿の救世観音像の台座下框の直径は74センチであって、塗り残しよりひと回り大きく、その上に載せるのに好適であると述べたことに注目します。

 そこで、再建法隆寺の金堂の西の間には救世観音像が置かれ、東院の夢殿ができた段階でそちらに運ばれたと推測するのです。同論文に添付された早大文学学術院の小林裕子助手作成のイメージ図だと、こんな感じですね。



 では、その救世観音像は、それまでどこに置かれていたのか。大橋氏は、太子の妃たちは別々の宮に住んでおり、太子の死後、それぞれが釈迦三尊像や天寿国繍帳を造ったが、この救世観音像は菟道貝鮹皇女が造ったのではないかと推測します。

 『日本書紀』では敏達天皇と推古天皇の間に生まれた菟道貝鮹皇女が東宮、つまり厩戸皇子と結婚したと記されています。太子の王(みこ)たちと女王(ひめみこ)たちの名、そしてその生母たちの名をあげている『上宮聖徳法王帝説』では3人の妃の名をあげるだけで、菟道貝鮹皇女は見えませんが、これは子を生んでいないため記されなかったのだと大橋氏は説くのですが、早くに亡くなっていたと見る説もあります。

 菟道貝鮹皇女建立説の部分は論証不足ですが、金堂の配置図を見ても、中央の釈迦三尊像が建物に比べて小さいことは確かですね。

雷による火災でも金堂の本尊を運びだせる:石原秀晃「法隆寺金堂釈迦像は火難を免れたか」

2021年10月25日 | 論文・研究書紹介
 現在の法隆寺については再建ということで確定しましたが、安置されている仏像については、盛んな論争があります。その一つは、金堂の中央に坐している釈迦三尊像は焼けた斑鳩伽藍でも本尊だったのか、という問題です。

 斑鳩伽藍は聖徳太子が建てた寺ですので、太子の延命ないし往生を願う銘文が刻まれた太子等身の仏像が本尊とされるのは不自然ですからね。

 そのうえ、『日本書紀』天智九年(670)の記事によれば、「夏四月癸卯朔壬申、夜半の後、法隆寺に災(ひつ)けり。一屋も餘す無し。大雨ふり雷震る」とあるほどの激しい火事だったようですので、金銅製の重い本尊を運び出せたかどうか疑問とされるのは当然でしょう。

 金堂が焼けた際に本尊も焼失したため新たに造ったか、それにしては釈迦三尊像は止利様式であって古いのはなぜか、そっくりに再現したのか、他の太子ゆかりの寺から再建法隆寺に運び込んだとしたらその寺はどれだったのか、三尊像本体と銘が入れられた光背は一体のものなのか別の時期の作成か、などについて様々な説が出されています。

 それらの説のうち、金堂は焼けたが本尊は運び出されて無事だったのであり、それが再建法隆寺でも本尊とされたとする最近の論文が、

石原秀晃「法隆寺金堂釈迦像は火難を免れたか」
(『東アジアの古代文化』135号、2008年)

です。

 石原氏によれば、明治期に近代的な太子研究を打ち立てた久米邦武は、「寺の本尊は軍旗の如し。僧は生命にかけて取り出すべき物とす」と述べており、石原氏は、久米は幕末に『葉隠』で知られる佐賀藩の武家の家に育ったため、「こともなげに……断じてい」ると評しています。問題にもしなかったのですね。

 一方、歌人であった美術史学者の会津八一は、「いくら多勢で騒いでも、咄嗟の間に運び出されるようなものではない」とし、それなのに釈迦像に傷がないのは法隆寺が火災に遭わなかった証拠だと論じていました。

 ところが、昭和14年(1939)の若草伽藍の調査の際、焼けた瓦片が発見されたため、『日本書紀』の記述通り全焼したと見るの説が主流となりました。問題は、本尊はどうだったかです。

 現在の説について、石原氏は三つに分けています。まず、火災を免れたとする「原像無事説」では、止利様式は650年くらいで消えるため、火災以後の作とは考えられないとします。町田甲一氏や大橋一章氏などの説です。

 次は、他のゆかりの寺から運び込んだとする他寺移入説です。候補としてあがったのは、斑鳩の法輪寺であって、この寺は以前は太子と一日違いで没した膳妃の実家だったと見られるとします。田村吉永氏・上原和氏・黒岩重吾氏などの説です。

 そして、第三の説は、聖徳太子は架空の存在であって、『日本書紀』が聖人としての<聖徳太子>を創り出した後になって像が作成され、もっともらしい縁起が作られたのだとする大山誠一氏の虚構説です。この場合、様式の古さを説明できませんが、「様式論を重視しない大山氏はそんなことは気にかけない」と石原氏は述べます。

 石原氏は、『日本書紀』の記述から見て、落雷が火災の原因と見られているとしつつ、中国の古典では、「災」は天がくだしたものだけを指し、人が原因で起きた「火」による火災とは区別されていると述べます。

 そして、『平家物語』や『太平記』で「一屋も残らなかった」といった表現で描かれている寺院の火災を検討し、三井寺、興福寺、清水寺などは、実際には平安時代に作られた仏像や寺宝が山ほどあると指摘します。残り無く焼けたというのは、あくまでも主要な建物だけを指すのです。

 氏はさらに落雷で樹木や動物が黒焦げになっている場合があるのは、電気が体内を流れるときに生ずるジュール熱によるものと説明します。黒焦げになった蛇の死体が高圧電線からだらりと垂れている場合でも、蛇が炎をあげて燃えたわけではないのです。

 家に雷が落ちて火事になるのは、落ちたところに燃えやすいものがあると着火し、はじめはくすぶっているだけですが、風などで酸素が供給されると炎をあげて一気に燃え始めるのです。

 寺院の火事は、塔に落雷した場合が多いのですが、この時も状況は同じです。雷が落ちて黒焦げになった箇所のそばに燃えやすいものがあると、燃え出すのです。ただ、大寺院はその周囲の建物も含めて多数が住んでいますので、消火活動がなされます。

 法隆寺にしても、建長4年(1252)には五重塔が被雷して3階あたりから火が出ましたが、鍾が鳴らされ、多くの人がかけつけて消しています。弘長年間(1261-64)にも五重塔に落雷したものの、寺工4人が消し止めました。

 大山氏は「落雷により、一瞬にして崩壊した感がある」とし、釈迦三尊像と光背は422キログラムもあるため、「持ち出すことなど不可能なはずである」とあちこちで断言しており、お得意の「はずである」理論を繰り出しています。

 しかし、石原氏は、「どうやら原爆と雷とを混同しておられるようだ」と評したのち、「ハルマゲドンも顔負けの空想は脇におくとして」ということで、人はどれほど重いものを運べるのか検討します。

 そして、これまで10回ほど引っ越しし、そのたびに250キログラムのアップライトピアノの運搬を専門業者にお願いしてきたが、担当者はいつも二人の男性で、これでマンションの階段の登りおりをした由。健康な男性なら100キロほどは持てるのだから、422キロの釈迦像なら4人でも可能、5~6人いれば簡単であって、しかも金堂は狭いので台座から10メートルも動かせば外に出られるとします。

 そして、5回も焼失した興福寺の東金堂では、本尊の薬師如来像はそのうち2回救出され、2勝3敗だが、坐像で像高が250~280センチもある丈六の金銅像であって、像高が86センチしかない法隆寺の釈迦像とは比較にならないと説きます。現在の薬師寺金堂の中尊は、享禄元年(1528)の兵火で金堂が焼けた際、救い出されていますが、像高254センチで重量は4.9トンです。道具は使ったでしょうが、日頃から火事になった際、どうするかは検討されていたでしょう。

 さらに重要なのは、法隆寺金堂の釈迦像の台座を調査した際、裏に「辛巳歳」と記されていたことが発見されたことです。これは621年であって太子が亡くなる前の年ですので、別の用途に使われていた木材を利用したことが知られています。最重要の仏像をさしおいて台座だけ運び出すことは考えられません。

 また、斉明5年(659)とか天智2年(663)に相当する干支が記された幡が残っています。幡とは、儀礼の際に寺の内外に飾る旗の類です。山部氏など、周辺の太子と関係深い豪族が亡き家族のために供養したものが残っているのです。こうしたものまで残っていることから見て、石原氏は、天智9年の火災では、火のまわりはゆっくりしていたと推定します。

 面白い考察でしたが、問題は、冒頭で述べたように、若草伽藍は上宮法皇の延命ないし往生を願う銘文を刻んだ釈迦三尊像を本尊としていたのか、という点です。そこで次回は、本尊は丈六仏であって焼失したと見る大橋一章氏の論文を紹介しましょう。

聖徳太子は悪人?偉人?(2):鈴木正章「歴代小学校教科書に於ける聖徳太子の記述について」

2021年10月22日 | 論文・研究書紹介
 前回の記事の続きです。

 国定教科書の時代に入ると、また少し変わってきます。明治36年(1903)の『小学校日本歴史』は人物を中心とした編集となっており、これが以後の歴史教科書の基本となります。

 その「第七章 聖徳太子」では、太子と二王子像を挿絵とし、用明天皇の子で、幼時より聡明であり、推古天皇のもとで摂政となり、新しい政治で国を栄えさせ、馬子と共に仏教を広め、「十七条憲法」を制定し、遣隋使を派遣して学問や技術を発展させ、亡くなると天下の民が嘆き悲しんだ、としています。

 明治42年(1909)の『尋常小学校日本歴史』となると、用明天皇の子という部分が消えて欽明天皇の孫となり、聡明で十人の話を聞き分けたとされ、朝鮮経由でなく中国の文物導入を直接導入することによって国がいよいよ栄えたといった部分が追加され、万民が嘆いたという部分は削除されます。

大正9年(1920)の『尋常小学国史』では、当時は隋の勢力が盛んだったが、「されど太子は」として、「日出づる処の……」の国書を送ったため、相手が怒ったが使いが来て外交が始まったとします。以前の記事(こちら)で紹介したように、この頃から外交における気概といった面が強調されるようになるのですね。

 この教科書で注意すべきは、四天王寺が消える一方で、法隆寺をとりあげて「わが国にて最も古き建物なり」と記していることであり、こうした文化財としての扱いが現行の教科書まで続くことになります。

 昭和9年(1934)の『尋常小学国史』は、前の教科書とほぼ同じ内容ですが、太子の死を惜しむ記事が復活します。

 戦時中である昭和15年(1940)となると、教科書から人名の題が消え、太子は第2章「大和国原」「第二 法隆寺」で扱われ、皇国色で塗りつぶされます。つまり、「十七条憲法」が初めて教科書で記述されるものの、「国民はみな天皇の臣民である。……民草を苦しめてはいけない」と「きびしくおさとしになっています」とし、また「大和」の大切さを説かれたとするのです。

 鈴木氏は触れていませんが、これは昭和12年(1937)に文部省が出した『国体の本義』(1937年)の主張に基づくものですね。国民道徳の規範とされたこの『国体の本義』を編纂したのは、文部省付置研究所であった国民精神文化研究所であり、その中心となって、日本の「和」は「大和」であって単なる平和主義でなく、武の発動を含むと説いたのが、国家主義哲学者の紀平正美(1874-1949)です。紀平のそうした思想については、論文を書いており、以前、このブログでも触れています(こちら)。

 「十七条憲法」は「神」について触れていませんが、それでは神国日本を強調する皇国史観としてはまずいため、この教科書では太子は神々も尊重してしたことを強調し、また、法隆寺については、その美しさについて「世界の国々も驚いてゐます。まことに、法隆寺は日本の誇りであります」と述べています。

 戦後になって占領期となると、軍国主義的な記述は削除されますが、紙幣の肖像では軍人たちが消えて聖徳太子は残ったのと同様、教科書でも聖徳太子はそのまま残ります。

 敗戦直後である昭和22年(1947)に出され、国定教科書としては最後になった『くにのあゆみ』では、それぞれの時代の文化に力を入れて記述しており、聖徳太子については事績を簡単に紹介し、「十七条憲法」を作って役人をさとされたとして第一条、第十二条、第五条、第十七条の順で内容を要約しています。第十七条は、大事な問題は皆で話し合えというものですので、太子を民主主義の点で評価していることになります。

 以後は、学習指導要領に基づいて作成されることになりますが、昭和22年(1947)から昭和29年(1954)までの指導要領では、日本史を体系的に扱う単元がなく、教科書でも扱われていない由。29年の大阪書籍版に至って、外国との関係という単元で推古朝に中国から文化が入ってきたことを説明し、仏教と学問が伝えられ、法隆寺が建立されたのもこの時期であり、法隆寺から太子の信仰心とすぐれた芸術を知ることができる、とされているのみです。

 この年は、指導要領が改訂された年です。新編の指導要領では六年生で歴史を教えるとされ、大化の改新の章では、太子の半身像が挿絵で入れられ、この時期に日本の政治を改めようとした中心は聖徳太子だとされ、それをついで中大兄皇子が活動したとされています。

 さらに昭和33年と昭和43年に指導要領が改訂され、歴史学習が充実してゆきます。太子に関する記述は増えてゆき、改訂を反映した昭和46年の教科書では、紙幣の肖像、わずか19歳で摂政となったことなどのほか、「聖は聖を知る」という逸話まで紹介されるに至りました。この記述は以後の教科書では外されますが。

 昭和52年(1977)の大改訂によって、小中高一貫化をめざし、小学校では時代を動かした人物を、生きた人物として描いて社会背景との関係を考えさせる方向へと変わりました。鈴木氏がこの論文を書いた当時、小学校の社会科教科書は6社から出されていましたが、どの版も太子を主題として取り上げてあります。

 鈴木氏は、そのように重視されていながら、なぜ太子がそこまで仏教を信じて興隆に努めたかという記述が少ないこと、また伝記・伝説などがどのような文献に基づいているのか典拠が示されていないことをあげ、こうしたことに注意してこそ歴史の学習態度が形成されると説いています。そして、仏教そのものの本旨を理解させる記述が必要だと述べ、この論文をしめくくっています。

 このように、教科書における聖徳太子の記述は、当時の社会状況と学問の性格によって大きく変わってきました。指導要領の改訂は10年ごとですが、次の改訂の際はどうなっているでしょう。

聖徳太子は悪人?偉人?(1):鈴木正章「歴代小学校教科書に於ける聖徳太子の記述について」

2021年10月19日 | 論文・研究書紹介
 現在、NHKの大河ドラマで取り上げられている渋沢栄一は、聖徳太子千三百年遠忌の寄付活動への協力を頼まれた際、私は水戸学を学んだが、太子は崇峻天皇を暗殺した蘇我馬子と政治をおこなうなどしているため嫌いだと断っています。

 「いや、実は皇室の権威確立に尽力した偉人でいらゃっしゃるのです」などと説得され、考えを改めて精力的に活動するようになったのですが、大正5年(1916)のことですよ。その時期ですら、このように太子に対する反発は根強かったのです。そうした状況がよく分かるのが、

鈴木正章「歴代小学校教科書に於ける聖徳太子の記述について」
(『四天王寺』515号、1984年)

です。鈴木氏は、この時、四天王寺国際仏教大学の助教授でした。

 明治5年(1872)に学制が発布された際、文部省が暗記用に編纂した『史略』では、天皇歴代史の形になっており、「第三四代推古天皇と申す、用明天皇の御母妹也、厩戸皇子として摂政せしむ冠位十二階を定む、小野妹子を隋国に遣はす」とある由。

 以後の文部省教科書も天皇歴代史の形をとりますが、明治12年(1879)に刊行され、この時期における代表的な教科書と評された伊地知貞馨『小学日本史略』では、「崇峻、(略)蘇我馬子之ヲ聞キ、厩戸皇子ト謀リ、穴穂部皇子ヲ殺シ、守屋ノ第ヲ囲ミ其族ヲ殲ス」「推古、……二十八年、皇太子、馬子ト議シテ、天皇紀国紀臣連伴造等ノ本紀ヲ撰ス」ときされており、穴穂部皇子の殺害や国家統治や国史編修を二人が「共謀」しておこなったとするような否定的な形で描かれています。

 明治14年(1881)になると、「殊ニ尊皇愛国ノ志気ヲ養成センコトヲ要ス」と説く「小学校教則綱領」が出ますが、それでも、というか、それでこそでしょうが、明治16年(1883)の椿時中編『小学国史紀事本末』では、前にこのブログでも紹介したように、蘇我氏の仏教尊信を説いた後、「皇子厩戸モ亦之ヲ信ジ、遂ニ馬子ニ党ス。……守屋既ニ亡テ後、二人憚(はばか)ル所ナク、崇奉益(ますます)甚シ」と説かれます。後に「憲法十七条」で党派の禁止を説くが、自分こそ徒党を組んでいるではないかという批判ですね。

 そして、馬子が崇峻天皇を暗殺した際は、厩戸は前からその企みを知っていたが止めることができず、泣いて「是レ帝カ過去ノ報ナリ」と言うのみであり、推古天皇が即位すると、太子となって政治をとり、馬子と国史を撰述し、「二人相継テ薨ス」と述べており、悪人仲間の扱いとなってます。悪人の悪行を記して戒めとするというのが中国の歴史書の定義ですから、ほかでもない最悪の悪人どもが史書を編纂したため、天罰で二人とも続いて死んだ、というような書き方ですね。

 文部省は明治19年(1886)に「検定条例」を出し、小学校の教科書原稿を募集し、「小学校歴史編纂旨意書」を公布しますが、その「編纂目次」には「聖徳太子」という項目はあがっていません。

 これを受けて翌明治20年(1887)に刊行された大槻文彦『校正日本小史』では、暦の使用、冠位制定、憲法の制定、遣隋使、仏法興隆など、太子の業績を簡単にまとめています。

 また、同年刊行の辻敬之・福地復一『小学校用歴史』は、歴代の天皇の事績とともに、有名な事象や人物を別枠に組んでおり、推古天皇とは別に「聖徳太子の伝」を設け、肖像を載せています。小野妹子については、所持していた『法華経』に脱字があったため完本を得ようとして派遣したとしており、寺院の伝承を用いています。明治20年代から太子に関する教科書の記述が変わることは、以前の記事で紹介しました(こちら)。

 山県悌三は、明治21年(1888)には『小学校用日本歴史』、明治26年(1893)には『帝国小史』を出しており、後者は文部省検定ずみのものです。同じ人物が書いていながら、内容は文部省の指示を反映してかなり違っており、後者では、幼い頃に太子が正直であった逸話が紹介される一方で、蘇我氏との関係や厩戸という名は書かれていない由。

 検定時代にもっとも普及したと言われる明治26年の金港堂編『小学校用日本歴史』では、第六章の「仏教・聖徳太子」の章では、事績を紹介し、太子は多芸であって、自作の仏像など、現在も残っているものがあり、大工や職人は太子を職業上の祖神としているとしめくくっており、国民に親しまれていたことを強調しています。

 明治31年(1898)の学海指針社編『新撰帝国史談』になると、太子の多様な活動が紹介され、「御年四十九にて、薨じ給ひしは、惜しみても、尚ほ餘ある御事なりき」と結ばれており、尊重の度合いが高まってきています。

 さらに明治33年(1900)の普及舎編『小学国史』では、事績を紹介する際、「大和の法隆寺、摂津の四天王寺」と記しています。それまでは、『日本書紀』や聖徳太子伝に基づき、太子建立の寺院としては四天王寺のみをあげる教科書が多く、法隆寺に触れる場合も四天王寺の次に記すのが通例であったものの、本書では法隆寺が中心となり、挿絵も法隆寺に変わっているそうです。

 おそらく、法隆寺の古さや文化財としての価値が認識されるようになり、明治30年(1897)に「古社寺保存法」が制定されたことなどが影響しているのでしょう。この後は、国定教科書の時代となっていきます。

 なお、冒頭で触れた渋沢は、多くの事業をおこなったことで有名です。造幣事業、国立銀行・商工会議所・証券取引所の創設、多数の会社の立ち上げ、教育事業や社会事業や国際交流の推進など、一人の人間がやったとは信じられないほど多様な活動をし、教訓書の執筆などもしています。

 新しい時代、過渡期の時代は、そうなりがちなのです。聖徳太子にしても改革の時代ですので、ブレーンがいれば、関連する様々なことをやっても不思議はありません。というより、仏教は当時にあっては、最新文化であり、外交・建築・美術・音楽・医学その他様々な分野に関わる存在ですので、仏教を導入して盛んにしようとすれば、いろいろな面の新規事業が一気に始まることになるのです。

 むろん、個々の事業を太子が自分で実際にやるわけでないのですが、後になると、尺八だろうと能だろうと、「聖徳太子がお始めになった」という伝説になるのです。これと似ているのが、うどん、暖簾その他いろいろなものをもたらした最初とされ、少年愛まで元祖だとされる弘法大師空海ですね。

 むろん、聖徳太子にしても空海にしても、伝承の多くは後代の神格化の風潮の中で生まれたものですが、「一人の人間がこれだけ多くのことをやれたはずがない」という人は、渋沢がやったことを考えてみてほしいですね。空海にしても、驚嘆すべき万能の人物であって、そのうえに誇張した伝説が積み重ねられ、次第に荒唐無稽な伝説が増えていっています。

 私は僧侶でも聖徳太子信奉者でもなく、聖徳太子については客観的な研究を進めようとしているだけであって、推古朝や明治期のような変革期には、一人の人間が多様なことをやっても不思議はないと考えているだけです。他の国を見ても、変革期はそうなってますしね。 

【付記:2021年10月20日】
教科書における法隆寺の記述が変化し始めたのは、再建非再建論争の影響もあるだろうと書きましたが、最初の変化時には論争はまだ激しくなっていないため、古社寺保存法などの影響と改めました。

蘇我氏などの邸内の仏堂の瓦が示す推古朝の寺の実態:清水昭博「蘇我氏の邸宅と瓦」

2021年10月16日 | 論文・研究書紹介
 推古朝の仏教の実態については諸説があります。『日本書紀』推古2年春2月丙寅朔条では、「皇太子及び大臣に詔し、三宝を興隆せしむ。是の時、諸の臣連等、各の君親の恩の為に、競いて仏舎を造る。即ち是れを寺と謂う」と記され、推古朝末期の32年条には、「是の時に当たりて寺卌六所・僧八百十六人・尼五百六十九人幷一千三百八十五人有り」と記されているものの、実際に寺がどの程度できていたのか、仏教の浸透度はどの程度のものだったか、疑問であるためです。

 この問題を考えるうえで有益な近年の論文が、

清水昭博「蘇我氏の邸宅と瓦ー畝傍の家と橿原遺跡の瓦ー」
(『手塚山大学考古学研究所研究報告』XX、2018年1月)

です。日本と韓国の瓦を追求してきた清水氏は、寺だけでなく、邸宅の瓦にも注目します。

 まず、蘇我本宗家の邸宅のうち、稲目の小墾田の家については、『日本書紀』欽明天皇13年(552)に、百済の聖明王が隣国との激しい争いのさなかに日本と韓国釈迦の金銅像が献上してきたため、欽明は受容に賛成する稲目に授けて試みに礼拝させたところ、稲目は小墾田の家に安置して礼拝に努め、向原(むくはら)の家を寺としたとされています。

 小墾田は飛鳥北方の地であり、向原は、現在の向原寺(こうげんじ)が有る豊浦あたりですね。清水氏は、「浄捨向原家為寺」という箇所を、「向原家を浄めて寺とし」と訳してますが、「浄捨」は執着せず清らかに寄付するということで「喜捨」の意であって、浄めの儀礼をやったかどうかは無関係です。向原寺は、桜井道場を経て豊浦寺になったことが知られています。

 次に馬子の家としては、敏達13年(584)に、馬子が最初の尼たち三人を世話して、家の東に仏殿を造っており、また百済から得られた弥勒の石像を安置し、石川宅を改造して仏殿としたとあります。この仏殿は後に石川精舎と呼ばれており、橿原市の石川町あたりにその後身と思われる石川廃寺がありますが、石川宅の位置は不明です。

 有名なのは、馬子が飛鳥川の傍らに池を造ったため、嶋大臣と呼ばれたという嶋の家であって、池の遺跡が発見されている現在の島庄遺跡ですね。

 次が豊浦大臣と呼ばれた蝦夷の豊浦の家です。叔父の蝦夷が病気となった際、山背大兄は見舞いに来て豊浦寺に入っていますので、蝦夷の邸宅はこの付近にあったことになり、豊浦の北側の古宮遺跡がその候補地です。

 次に、畝傍山の東麓にあった家は、皇極元年(642)に蝦夷大臣が百済の義慈王の子や蝦夷を招いていますので、豪壮なものだったでしょう。

 皇極3年になると、蝦夷と入鹿は、畝傍山の東に邸宅を構え、池を掘って城とし、常に50人の兵士に守らせたと記されます。また、甘樫の岡に邸宅を建て、大臣の家を上宮門、入鹿の家を谷宮門と呼び、子供たちを「王子」と呼んだとされますが、このあたりの記述は蝦夷・入鹿を逆臣扱いして書かれていますので、注意すべきところです。その蝦夷・入鹿は殺され、甘樫丘の邸は焼かれました。

 さて、清水氏は、寺を建てる場合、邸全体を「捨宅」したのではなく、邸宅の一部を改修したり、一画に仏堂などの建物を建てた場合が多いことに注目し、飛鳥寺が飛鳥真神原に建立されたのは、それまでの邸宅では、大伽藍を造営するだけの土地が確保できなかったためと推測します。

 問題は、馬子邸とされる島庄遺跡と蝦夷・入鹿邸とされる甘樫丘東麓遺跡から寺で用いられた瓦が出ていることです。島庄遺跡のうち、第一期は7世紀初めから前半にかけての時期ですが、一辺42メートルの方形の池の中や周辺から、7世紀前半の土器とともに瓦が出土しており、しかも飛鳥寺の瓦と同笵のものが見つかっているのです。

 また、甘樫丘東麓遺跡は、『日本書紀』の記事通りに焼け跡が発掘調査で発見されたことが知られていますが、ここからは、豊浦寺や古宮遺跡、葛城寺の遺跡(和田廃寺)の瓦と同笵のものが出ています。

 言うまでもなく、飛鳥寺と豊浦寺は蘇我氏本宗家が建てた僧寺と尼寺ですし、葛城寺は蘇我氏系の葛城臣の寺と見られています。

 大伽藍は、礎石の上に巨大な柱を据えて造営し、瓦葺きでしたが、この当時は宮殿でさえ掘立柱であって板葺きでした。斉明元年(655)に小墾田宮を瓦葺きにしようとしてうまくいかず、中止になっていることに注目する清水氏は、この当時の瓦はもっぱら仏教施設に用いられたとします。

 しかも、不思議なことに、7世紀後半に建立されたと推定されている葛城市の只塚廃寺の金堂跡からは、7世紀前半の飛鳥寺や豊浦寺と同笵の瓦が出ているのです。こうした例は、坂田寺、巨勢寺、中宮寺、平隆寺など、意外に多い由。

 このため、清水氏は、これらの瓦は本格寺院ではなく、邸宅内の仏堂で用いられていたものと見て、そうした例として斑鳩宮をあげます。山背大兄一族が住んでいて焼き討ちにされたこの遺跡からは、若草伽藍や中宮寺と同笵の瓦が出土しているためです。つまり、大きな邸宅の一画に瓦葺きの仏堂が造られていたと見るのです。

 そこで、清水氏は、橿原市の大久保町あたりの遺跡から、宇治の隼上り瓦窯で焼かれて豊浦寺(おそらく、金堂に次ぐ塔)で用いられたのと同笵の瓦が出ていることから見て、蝦夷の畝傍の家はこの大久保町あたりにあり、瓦葺きの仏堂があったと推定します。

 これまで紹介してきた内容は、きわめて興味深いものです。冒頭にあげた推古2年条では、諸臣が競って寺を造り始め、推古朝の終わりには46寺あった記されているものの、実際には最初期はこうした邸内ないし邸の近くの仏堂であったと考えられるからです。

 大伽藍を建立する場合、一つの建物は3~5年かかり、門や回廊などまですべて完成するには20年はかかります。しかし、邸内や家の近くに仏堂を造ってそこに小型の仏像を安置し、礼拝する数人の僧ないし尼を側の建物にかかえる程度であれば、推古朝の中頃にはかなりの数になっていたとしても不思議はありません。それらが推古朝以後になって、次第に本格的な寺院へと建て替えられていったと思われるのです。

 推古天皇の時期に建てられた大伽藍は、蘇我馬子の飛鳥寺→馬子の姪である推古天皇の旧宮を改めた豊浦寺→父方母方とも蘇我氏の血を引き、推古天皇の甥である厩戸御子の斑鳩寺(若草伽藍)、という順でした。これはまさに当時の権勢の順序どおりと見るほかありません。そして斑鳩寺の金堂が完成した時点で四天王寺の金堂建設も始まったようです。

 あとは、後に中宮寺となる宮の仏堂を寺とする工事が始まっていたかどうか、蘇我氏の仏教を推進して技術面で支えた渡来系の鞍作氏の寺(坂田寺)、蘇我氏の傍系氏族である葛城氏の寺とされる葛城寺(和田廃寺)と、聖徳太子との関連が伝承されるものの不明な点が多い橘寺がどこまで造営されていたか、といったあたりでしょう。

 つまり、蘇我氏、蘇我氏の血を引く皇族、蘇我氏の傍系氏族、蘇我氏と関係深い渡来系氏族が、優先的に瓦を供給されて仏堂を建て、しばらくしてから蘇我氏配下の技術者たちを派遣されて、都の周囲に都を防御するような形で伽藍造営を始めた程度であったと考えられるのです。斑鳩は、後には近隣の関係深い氏族に瓦を供給するようになっていきます。

 大山誠一氏の聖徳太子虚構説では、厩戸王は斑鳩に宮と寺を建てたものの、都から離れた場所に、当時46もあった寺の一つを建てたにすぎないと論じていましたが、とんでもない間違いです。

 46寺というのは推古朝末期の数字であって、その大半は仏堂か邸の建物の一部を改めて小型の仏像を置いた礼拝施設程度だったでしょう。推古朝の前半に大伽藍を建立するのは、国家的と言って良いほどの大事業でした。しかも斑鳩は、難波の港と飛鳥の都を結ぶ交通の要衝でしたし。

山背大兄一家が滅亡させられた理由に関する諸説(4):若井敏明「山背大兄王 上宮王家滅亡の黒幕はだれか」

2021年10月13日 | 論文・研究書紹介
 山背大兄連載の最後は、大胆な学風で知られる若井敏明氏の、

若井敏明「山背大兄王 上宮王家滅亡の黒幕はだれか」
(『『歴史読本』第59巻4号、2014年4月)

です。若井氏は、聖徳太子について「厩戸皇子による改革の一側面」という示唆に富む論文を書いており、紹介したいと思いつつそのままになっていましので、いずれ取り上げます。

 さて、上記の若井氏の記事の題名のうち、「上宮王家滅亡の黒幕はだれか」という部分は、若井氏自身のものか編集者がつけたものかわかりませんが、そこに重点が置かれた内容ではありません。意外な新説提示と言えるのは、山背大兄を滅ぼして権勢をふるった蘇我入鹿を打倒した「黒幕」は誰かを論じた部分です。

 若井氏は、山背大兄は蘇我氏の血を引くとはいえ、異母妹(聖徳太子の娘)を妃としているのに対し、田村皇子は蘇我馬子の娘である法提郎媛を妃の一人としているため、蘇我氏としては都合が良かったであろううえ、山背大兄が即位すれば、王宮は蘇我氏の本拠地である飛鳥を離れ、斑鳩に移る可能性が高いことも、即位をさまたげた原因だったろうと説きます。
 
 そして、田村皇子が即位して舒明天皇となると、隋との外交を進めていた聖徳太子とは異なる外交政策をとるようになったとします。それどころか、『旧唐書』によれば、舒明への代替わりに際して派遣した遣唐使の帰国に同行してきた唐使の高表仁が時の王子が礼を争い、以後、倭国は唐との国交を断ってしまうことになります(『新唐書』では「高仁表」が「王」と礼を争ったとしています)。

 『隋書』倭国伝が説く倭国の外交担当者は聖徳太子だったと見る若井氏は、太子は隋にへりくだっった態度をとり、隋にならった改革を行おうとしていたと述べ、中国に毅然とした態度をとったとして評価するなら、聖徳太子ではなく、唐と礼を争ったその「王子」を第一にあげてほしいものだと説いています。これは、若井氏ならではの卓見です。

 そこで若井氏は、聖徳太子の政策を受け継ぐ山背大兄は、舒明天皇の朝廷内では疎外されていた可能性が高いとします。舒明天皇が亡くなっても、山背大兄に継がせず、舒明の后であった宝皇女が即位して皇極天皇となりますが、舒明天皇の子には古人大兄もおり、その古人大兄の娘を宝皇女が生んだ葛城皇子(中大兄皇子)が后としていることから見て、古人大兄はかなりの年長と見られるのに即位しなかったのは、何らかの事情があったのだろうと若井氏は説きます。

 可能性としてありうるのは、複数の有力候補がいて一本化できなかったための皇后が即位したという事情であり、この場合は、有力な対立候補は山背大兄ということになります。

 となれば、上宮王家の存在は、蘇我氏が主導する皇極朝における不安定要素ということになりますので、それを除くため、蘇我入鹿が軍勢を差し向け、山背大兄を自害させてしまうに至ったのだろうと若井氏は説きます。

 問題はその後です。その蘇我氏も、皇帝を頂点とする唐のような君臣秩序をめざす勢力によって打倒されてしまいますが、入鹿斬殺で始まるクーデターは、堅固な城ともなりうる飛鳥寺を占拠して武力拠点としたことによって成功します。それには、事前の打ち合わせがなされていたはずであり、飛鳥寺の寺主であった僧旻法師が知らないはずがないとします。

 僧旻は、聖徳太子によって派遣され、隋・唐で強力な皇帝による政治を見て帰国し、塾で中臣鎌足や入鹿を指導していた人物です。その入鹿が聖徳太子の子である山背大兄一家を滅ぼしたことが、僧旻をクーデターとその後の政治改革の「黒幕」たらしめたのではないか、というのが若井氏が「ひそかに考えている」ことだそうです。

 最後の部分は、根拠の弱い推測ですが、考えてみるべきこともいくつか指摘されています。この連載の最初に書いたように、山背大兄はあまり注目されず、研究も少ない人物ですので、若井氏のこの記事のように、推古朝の後半・舒明朝・皇極朝初期を山背大兄を軸として検討してみるというのは、有意義な試みと思われます。

 あと重要なのは、山背大兄を応援して滅ぼされた境部摩理勢ですね。私は、この当時の状況を「皇室←→蘇我氏」の対立と見るのは間違っており、強大になった蘇我氏内部の対立抗争の時代であって、田村皇子支援派と山背大兄支持派の争いと考えています。 

山背大兄一家が滅亡させられた理由に関する諸説(3):森浩一「山背大兄王と一族の死 」 (『歴史読本』第58巻1号、2013年1月)

2021年10月11日 | 論文・研究書紹介
 今回は、考古学者の森浩一氏が「敗者の古代史」というタイトルで連載していたうち、山背大兄を扱った回の内容です。

森浩一「敗者の古代史(15) 山背大兄王と一族の死 」
(『歴史読本』第58巻1号、2013年1月)

 森氏は、まず山背大兄の名について、出生の土地が山背だったか、重要な所領(屯倉)が山背にあったかのどちらかであろうが、おそらく後者であったと考える由。山背には、太秦を本拠とする有名な秦氏と、紀(紀伊)郡の深草を中心とする秦氏がいたが、山背大兄は聖徳太子が紀伊の深草に置いた屯倉を継承したと見るのです。

 森氏は、寺以外の建物は板葺きであった時期にあって、斑鳩宮は瓦葺きと見られるとし、一族の住居として斑鳩を選んだというより、摂政としての職務をおこなうために副都としての役割を持つ宮を斑鳩に造営したのだろうと説きます。これは、もう少し先に公開する予定の某論文とは見方が違います。

 氏は、斑鳩は水運の地、馬と関係が深い地としたうえで、「憲法十七条」は飛鳥宮で発表されたのか、斑鳩宮で発表されたのかが気になると述べます。森氏は、遣隋使を派遣し、「堂々と対等外交をやりとげたのは聖徳太子だったとの思いを強めている」と述べますが、先の「摂政としての職務」という部分も含め、かなり古い見方をしてますね。この記事を書いた際は81歳でしょうか。当時の最新の研究成果は追えていないように見えます。

 山背大兄が人気がなく、天皇になれなかったことについては、斑鳩宮に大勢の女を集め、淫靡な生活を送っていたからではないかとします。『隋書』が倭国の王の「後宮に女六七百人」がいると記されているのは、推古天皇の飛鳥の都ではなく、斑鳩宮を指すと見るのだそうです。しかし、裴世清が608年にやって来た際は、山背大兄は10代くらいでしょうから考えられません。

 「後宮に女六七百人」というのは、当時の宮の大きさから見てありえない話であって、「後宮の佳麗、三千人」という「長恨歌」の有名な句と同様の誇大表現でしょう。東夷の島国ということで、多数を示す中国古典の決まり文句である「三千人」という表現はさすがに使えず、その五分の一程度に止めておいたか、宮に多数の者たちが出入りするという情報を後宮の女性たちの数としたかですね。

 森氏は、入鹿は政界の混乱に我慢出来ず、斑鳩宮を襲わせて山背大兄とその家族を滅亡させたと言うのですが、ほとんど古代史小説のような書き方です。森氏は、著名な考古学者ですが、そういう人でも、老齢になってから詳しく研究していない分野について思いつきで書くと、こんな結果になるということでしょう。

聖徳太子が信濃の善光寺如来と手紙や和歌のやりとり:吉原浩人「善光寺如来と聖徳太子の消息往返をめぐって」

2021年10月08日 | 聖徳太子信仰の歴史
 山背大兄に関する諸説を紹介中ですが、あと2回あるため、ここで一度、別系統の記事をはさんでおきます。

 山背大兄連載を始める前の記事では、聖徳太子が信濃の善光寺如来あてに送ったとされる中世の偽消息を、九州王朝の太子が善光寺如来あてに送った願文だと説いた九州王朝説論者のトンデモ説を、「珍説奇説コーナー」で取り上げました(こちら)。

 偽文書が山のように作られた中世にあって、聖徳太子関連の文書はその中でも数が多く、内容もすさまじいのです。このブログでは、「聖徳太子信仰の歴史」というコーナーも作ってはあるものの、これまで公開してきた記事は聖徳太子その人とその周辺に関する論文や研究書の紹介、あるいは近代以後のナショナリズムと聖徳太子の関係などが多く、太子信仰についてはほとんど扱っていませんが、理由は簡単です。

 太子信仰は古代から現代に至るため盛んであって検討すべきことが異様に多く、研究も盛んであって、とても追い切れないためです。とりわけ中世については、阿部泰郎さんその他の研究者がそのおどろおどろしい伝説を追いかけており、この領域に手を出すと(活字化されていない資料が多いですし)、30年くらい泥沼にはまって身動きがとれなくなってしまうので、控えているのです。

 ただ、上記の珍説を批判する記事を書いたことでもありますので、その補足として、聖徳太子と善光寺如来のやりとりについて詳細に論じていて有益な論文を紹介しておきます。

吉原浩人「善光寺如来と聖徳太子の消息往返をめぐって」
(『仏教文化研究』49号、2005年3月)

です。吉原さんは大学院での私の後輩であって、信濃ではなく甲斐の善光寺の出身であるため、善光寺信仰も研究しており、この論文と関連する論文を数本書いてます。
 
 さて、この吉原論文では、信濃の善光寺では、その本尊である如来は三国(天竺・百済・倭国)伝来の一光三尊阿弥陀如来であって、日本最初の渡来仏であるとする伝承を強調するため、崇仏・廃仏の争いや聖徳太子に関する伝承と結びつけられるのは必然とします。ただ、その二つの伝承が結合して、中央にも広く知られるようになったのは、平安後期のことと推測します。

 善光寺如来は、次第に「生身(しょうじん)」の如来とされるようになり、その信仰が一気に全国に広まりますが、吉原さんはそれも平安後期と見ます。勧進聖と呼ばれる者たちが、平安末期には「高野山-四天王寺-信濃善光寺」というルートで活動するようになり、その結果、空海=聖徳太子の生まれ代わり、という説や、善光寺如来と聖徳太子の結びつきを語る伝承が生まれるようになったのです。

 磯長の太子廟が信仰を集め出すのもこの時期です。そうした中で、善光寺如来が人間のように手紙を書き、太子と浄土信仰に関わるやりとりをする伝説が生まれたと、吉原氏は説きます。

 鎌倉初期には、法隆寺の顕真が、自分の祖先は聖徳太子の馬の世話係として奉仕した調子丸だとして様々な怪しい伝承を強調し、『聖徳太子伝私記』を著して法隆寺における自らの地位を確立します。その『聖徳太子伝私記』の4箇所の裏書に、建長7年(1255)に東大寺戒壇院で伝授されたという太子関連の秘伝が記されていました。

 そこでは、太子廟内の石に太子が自ら「我が身は救世観世音であり、(妃である)定恵契女は勢至菩薩、私を育ててくれた悲母は西方教主の弥陀尊であり、実はこの三尊は一体であって、三人の骨を納めた磯長廟は功徳のある地であり、ここに参詣すれば極楽に必ず往生できる」という内容の二十句の偈を自ら記したとして、その偈があげられています。磯長廟への参詣を勧めるための中世の宣伝文ですね。

 さらに、建治2年(1276)に西大寺叡尊の甥である惣持が元恵に伝授し、それを称名寺釼阿が伝領したとされる『上宮菩薩秘伝』では、善光寺如来と聖徳太子がやりとりした手紙が収録されており、そこでは、前の記事でとりあげた太子の手紙なるものが、記されています。
 
 それによれば、聖徳太子が四天王寺で父の用明天皇への報恩のために、七日間念仏した後、「名号称揚七日已 斯此為報広大恩 仰願本師弥陀尊 助我済度常護念」の偈を記した手紙を、「稲何(ママ)宿祢子(稲目宿祢の子=馬子?)」が使いとなり、甲斐の黒駒に乗って届けたとしており、阿弥陀如来は、一日の念仏ですら功徳は無量であり、七日もおこなったのは大功徳であるとして、「我待衆生心無間 汝能済度豈不護」で終わる偈で返事したとされます。

 両者の手紙について、吉原さんは、前者の末尾を「私の衆生済度を助け常にお護りください」と訳し、後者の最後を「私が衆生を待つ心に分け隔てはない。お前が心ゆくまで済度を行うがよい。私はそれを護らないことがあろうか」と訳しています。

 前者はそれで良いですが、後者の「心無間」は「心に隔てがない」ではなく、この場合の「無間」は苦しみが休みなく続く「無間地獄」という場合の無間であって、「心無間」というのは、常に心にかけ続けるという意味であり、多くの経典に用例があります。

 また、「汝能~」なのですから、「心ゆくまで済度を行うがよい」ではなく、「お前はきちんと衆生済度をおこなえている」という承認ですね。また、「護念」は 「加持」などと訳されるアディシュターナやその系統の語の漢訳であって、人を守るのが本義ですから、おまえの衆生済度の行為を護ろうではなく、衆生済度(極楽往生の手助け)をおこなうことができているお前を護ろう、です。

 吉原論文では、さらにこうした伝承が「秘説」として広まっていく状況を検討しており、太子信仰が強い親鸞の真宗だけでなく、浄土宗でも法然伝に加えられていくことを示しています。

 また、これまで見てきた太子と阿弥陀如来のやりとりは、漢文の偈によるものでしたが、寛正3年(1462)に書写された万徳寺本『聖徳太子伝』では、両者は和歌でやりとりをしたことになっており、その和歌が示されています。

 さらに、絵伝の類でも太子と善光寺如来の消息のやりとりが描かれるようになりますが、本田善光が池に捨てられていた阿弥陀如来像を発見して、その像を信濃にともなっていって安置する場面では、お供する貴人が描かれており、これは小野妹子だとする伝承もあるほど、善光寺如来の縁起と聖徳太子伝が重ねられていくのです。

 吉原氏は、こうした伝承は広まっていくものの、あくまでも「秘伝」としてであったことに注意したうえで、後になると、その内容が表に出されるようになり、浄土宗・真宗・時衆(時宗)などのかっこうの宣伝材料とされるようになったとし、この伝承に触れている多くの文献をあげています。太子伝承については、まさに山のような資料があるのです。

 これが中世から近世にかけての太子信仰の実態の一面であって、これ以外にも複数の系統の太子信仰があり、実に様々な太子伝が生まれていました。私が太子信仰の歴史の研究に手を出さない理由というか、とても手を出せない理由がおわかりいただけたことと思います。 

山背大兄一家が滅亡させられた理由(2):遠山美都男「男女二十三王、罪なくして害せらるー山背大兄滅亡事件」

2021年10月05日 | 論文・研究書紹介
 佐藤氏に続くのは、聖徳太子に関する著書も多い遠山美都男氏の論、

遠山美都男「男女二十三王、罪なくして害せらるー山背大兄滅亡事件」
(『歴史読本』第57巻第2号、2012年2月)

です。「調書で読み解く事件ファイル」という形で推理しており、事件調書Aは『日本書紀』、事件調書Bは『藤氏家伝』、調書Cは『上宮聖徳太子伝補闕記』です。

 遠山氏は、まず『日本書紀』をとりあげます。『日本書紀』では、蘇我蝦夷と入鹿が自分たちの墳墓をあらかじめ築いて「陵」と呼ばせ、上宮の乳部の民を工事に使役したため、山背大兄の異母妹であって妻でもあった上宮大娘姫王が怒り、「天に二つの大陽はなく、国に二つ人の王はないのに、どうして臣下の分斉で国政をほしいままにするのか」と言ったため、上宮王家と蝦夷・入鹿の間に怨みが生じ、やがて上宮王家が滅ぼされることになった、と述べており、これが遠因となったとします。

 次に『藤氏家伝』では、舒明天皇が亡くなってまもなくの頃、蘇我入鹿は諸王子と共謀して山背大兄を滅ぼすため、次のような趣旨のことを語ったとしています。「山背大兄はわが蘇我一族の者であり、その仁徳は天下に知れわたっている。亡くなった先帝が即位した際、重臣たちは我が父(蝦夷)と山背大兄の不仲を噂しており、また山背大兄を支持していた蘇我一族の境部摩理勢をわが父が討ったため、山背大兄の恨みは計り知れないだろう。先帝が亡くなり、現在は皇后(皇極天皇)が即位しないまま国政をおこなっているが、このままではいつ内乱が起きるか分からないため、肉親の情に目をつぶって国家の大計を優先したい」。

 これだと、山背大兄はかなり評価されていたことになりますね。また、『日本書紀』と『藤氏家伝』は両方ともに蝦夷はこのことを知らなかったとし、入鹿が無謀にも山背大兄を滅ぼしたと聞いて、蝦夷はその愚行に怒り、これで蘇我氏は終わりだと嘆いたとしています。

 ところが、遠山氏が次にとりあげる『補闕記』では、蝦夷・入鹿・茅淳王・軽王(後の孝徳天皇)・巨勢徳太古・大臣の大伴馬甘・中臣塩屋枚夫の6人が悪逆の限りの計画を立て、上宮太子の子孫、男女あわせて二十三王(みこ)を罪もないのに殺害したとして、その23人の名を列挙しています。

 遠山氏は、このうち760年に成立した『藤氏家伝』の記述は、鎌足の曽孫であって後に乱を起こすことになる藤原仲麻呂(恵美押勝)が、執筆当時の状況の中を反映させつつ強烈な自己主張を盛り込んで書いているとし、「皇后が即位せずに国政をとっているため、乱があるだろう」と述べた部分は、聖武天皇没後、自分自身は即位せずに娘の孝謙天皇を即位させて国政を動かしていた光明皇后をモデルにして描いており、その記述は史実としては信用できないとします。

 最後に、『補闕記』については、その筆者は『藤氏家伝』を読み、入鹿が共謀した「諸王子」という点に着目して、その中心は後に即位して孝徳天皇となる軽皇子に違いないと思い、その孝徳天皇の政権で大臣となった巨勢徳太と中臣塩屋枚夫を共謀者リストに加えたものと見ます。

 それ以前から噂として流れていた可能性もありますし、前の記事で触れた『法王帝説』は、入鹿の独断とし、15名の者たちを殺したとしていますので、そちらも考慮する必要があったでしょう。

 さて、遠山氏が『補闕記』の記述を信用しないのは、殺されたとして列挙されている23名のうち、筆頭にあげられている殖栗王・茨田王・卒麻呂王(当麻皇子)・菅手古王(酢香手姫皇女)など、斑鳩とは別の場所に住んでいたと思われる聖徳太子の兄弟姉妹まであげられているためです。逆に、太子の子でありながらここに名が出てこない者たちもいるため、遠山氏は、わかる限りの一族の名前をここに並べ、太子の子孫滅亡の悲劇を強調しようとしたものと説きます。

 これはその通りですね。斑鳩を襲った入鹿の軍勢が殺害したのは、山背大兄とその家族だけだったはずです。

 遠山氏は、これらの資料を踏まえたうえで、重臣たちの会議を経ずに入鹿が「独り」で行動したとされるのは、当時の天皇である皇極天皇の命を受けてのものだった可能性を指摘します。皇極天皇は即位当初から飛鳥川東岸に倭国にそれまでなかった都を建設しようとし、二度めの在位である斉明天皇の時に倭京として完成しますが、そうした都に近い宮が斑鳩に建設されていたことが問題だったと遠山氏は推測するのです。

 実際、山背大兄とのその家族を襲った入鹿の軍勢は、斑鳩宮を焼き討ちしています。また、蝦夷・入鹿が墳墓経営に上宮王家の乳部の民を動員したのは、国中の民を動員した際の一環だった以上、皇極天皇の同意が必要だったはずと遠山氏は説きます。

 皇極天皇は、倭京建設に絶大な貢献をする蘇我氏なればこそ、そうした特例を認めたのであって、上宮王家の民を動員された上宮大娘姫王が示した怒りは、「蘇我氏でなく、実は皇極自身に向けられていたことになろう」と推測し、事件前から女性同士の前哨戦が始まっていたとしています。

 これが正しいかどうかは分かりませんが、もし聖徳太子の長子である山背大兄が天皇となっていたら、その妻である上宮大娘姫王(聖徳太子と菩岐岐美郎女の間に生まれた舂米女王)は皇后に準じる位置についていたことになります。古代においては、後宮を含め、帝王の後継者に関わる女性同士の対立が有力者たちの権力争いと結びつくのは、中国でも日本でも良くあることですので、『日本書紀』が上宮王家が滅亡する遠因となったとするる上宮大娘姫王の怒りについては、一因として考慮する必要がありそうです。

山背大兄一家が滅亡させられた理由(1):佐藤長門「斑鳩宮家-山背大兄王の自害で消えた聖徳太子の血筋 」

2021年10月02日 | 論文・研究書紹介
 山背大兄は不運な人、また不人気な人です。天皇になれずに殺されたうえ、法隆寺でも四天王寺でも、山背大兄を供養する盛大な法会などはおこなわれてきませんでしたし、研究もきわめて少ないのです。

 CiNiiで検索したところ、題名に「山背大兄」を含むのは以下の4点のみでした。

佐藤長門「斑鳩宮家-山背大兄王の自害で消えた聖徳太子の血筋 」
(『歴史読本』 第56巻10号、2011年10月)

遠山美都男「男女二十三王、罪なくして害せらる - 山背大兄王滅亡事件」
(『歴史読本』第57巻2号、2012年2月 )

森浩一「山背大兄王と一族の死 」
(『歴史読本』第58巻1号、2013年1月)

若井敏明「山背大兄王 : 上宮王家滅亡の黒幕はだれか」
(『歴史読本』第59巻4号、2014年4月)

以上です。一目瞭然ですが、見事に『歴史読本』だけです。編集者が山背大兄好きなんでしょうか。

 『歴史読本』は学術雑誌ではなく、歴史ファン向けの一般誌ですが、専門でないライターが書くことの多いこの手の雑誌の中では珍しく、第一線の研究者が最新の内容を紹介していることが多いです。また、気楽なせいか、厳密な論証を要求される論文では書けないような推測を述べている研究者もおり、役に立つ場合が少なくありません。そこで今回は、上記の4本について、発表順に連載しましょう。

 まず、佐藤氏は、上宮王家という言い方が一般的だが、山背大兄が上宮王と呼ばれた例はないため、用明天皇→厩戸→山背大兄と続く王統を「斑鳩宮家」と呼ぶとします。

 そして、敏達天皇が亡くなると同じ欽明天皇の子である用明天皇が即位したものの、単なる兄弟継承と見てはならず、皇子宮を経営していた大兄のみが後継資格者とされ、その範囲で同世代の候補者が順次即位してゆき、それが尽きた段階で次の世代に移行することになっていた、と述べます。

 山背は大兄になっていたため、その資格があったわけですが、山背が天皇になれなかったことについては、対抗馬である田村皇子(舒明天皇)は蘇我馬子の娘である法提郎女と結婚して古人大兄が生まれていたのに対し、山背大兄は蘇我氏との婚姻関係がなかったことが働いていたのかもしれない、とします。

 ライバルだった舒明天皇が亡くなると、同世代の山背大兄に回ってくる可能性もあったわけですが、倭国政権は舒明の妃であった宝皇女を即位させて皇極天皇としてしまいます。これは、山背大兄への継承を遅らせるためであったとしても、山背大兄が生きている限り、その次の天皇候補は山背大兄です。

 そこで、蘇我入鹿が蝦夷から大臣位の象徴である紫冠を授けられると、山背大兄排除の動きが一挙に強まり、ついに入鹿の命によって巨勢徳太と土師娑婆らに斑鳩宮を襲撃させるに至るというのが、『日本書紀』の記述です。

 ただ、『日本書紀』では入鹿が悪者で主導したという扱いですが、『上宮聖徳法王帝説』では、首謀者として蘇我蝦夷・入鹿・軽(後の孝徳天皇)・巨勢徳太・大伴馬甘(長徳)・中臣塩屋枚夫という6名があげられていると佐藤氏は注意します。

 要するに、山背大兄が王権内で孤立していたのに対し、蘇我氏の血を引く古人大兄をかかえた蘇我氏と、皇極が即位して急に天皇候補に躍り出た軽皇子(孝徳天皇)、およびその側近などの思惑が一致した結果、山背大兄とその一家を滅亡させたものの、皇極以後の後継者を誰にするかが決まっていなかったため、その点をめぐる対立が蝦夷・入鹿を倒した乙巳の変となったのだ、というのが長門氏の結論です。

 無難な見方ですが、『法王帝説』が首謀者6名の名をあげているというのは勘違いです。『法王帝説』は、入鹿が「山背大兄と其の昆弟等、合わせて十五王子を悉く滅した」と述べるのみであって、6人を首謀者とするのは『上宮聖徳太子伝補闕記』ですね。