聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

龍谷ミュージアムで「真宗と聖徳太子」展:4月1日から展示と様々な催し

2023年03月30日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 聖徳太子信仰が篤かった親鸞聖人の誕生850年、立教800周年を記念し、真宗本願寺派の大学である龍谷大学の龍谷ミュージアムで4月1日から展示と様々な催しが開催されます。

 企画の中心を務めているのは、昨年、早稲田で開催されたシンポジウム「聖徳太子一四〇〇年遠忌記念 聖徳太子の実像と伝承」(こちら)でも話していた阿部泰郎さんです。

 このシンポジウムでの石井公成、阿部泰郎、吉原浩人の3人の発表が掲載された早大文化構想学部多元文化論系の雑誌『多元文化』第12号が、先日刊行されましたので、来週から紹介していきます。

 聖徳太子絵伝の絵解き実演や講演会その他、様々な催しがおこなわれる予定です。その一部は以下の通り。事前申し込みが必要なものもあるので、ミュージアムのHPで確認してください(こちら)。

 私は、4月30日に行われる「聖徳太子絵解きフォーラム」で講演する予定です。このフォーラムでは、四天王寺、瑞泉寺、三河すーぱー絵解き座が絵解きを実演し、私は絵解きの歴史などについて話す予定ですが、実演づくしの催しなので、私自身、浪曲・講談調をまじえて話そうかと考えているところです。何せ私は、『<ものまね>の歴史ー仏教・笑い・芸能ー』(吉川弘文館、2017年)という、アジア諸国のものまね芸の歴史に関する世界初の本を書いたくらいの芸能好きなので。

 詳細はまだミュージアムのHPにはあがっていませんが、4月になったら公開されるでしょう。


『日本書紀』聖徳太子創作説に執着し、考古学の成果を都合良く使って斑鳩寺の成立の遅さをアピール:吉田一彦「聖徳太子信仰と日本仏教」

2023年03月27日 | 聖徳太子信仰の歴史

 播磨は法隆寺の所領があり、聖徳太子関連の伝承やゆかりとされる文物が多く残る地です。これに関する雑誌の特集が、昨秋出ています。姫路市文化国際交流財団が編集し、神戸新聞総合出版センターが発売している季刊誌、

『Ban Cul』No.125( 2022年秋号、2022年9月)

です。1400年遠忌を記念した「特集 聖徳太子と播磨」となっており、写真やイラストが豊富であるため、この地の旅行ガイドとして有用です。記事は、

吉田一彦「聖徳太子信仰と日本仏教」
田村三千夫「聖徳太子と播磨」
宮本佳典「鶴林寺と聖徳太子信仰」
大谷康文「聖徳太子と斑鳩寺-太子信仰を中心として」
茂渡俊慶「「聖徳太子絵伝」から読み解く太子のご生涯」
田村三千夫「『聖徳太子勝鬘経講讃図』を読み解く」
埴岡真弓「たゆたう「聖徳の王」の面影」

と並んでおり、以下、「太子ゆかりの地を尋ねて」と題して鶴林寺・鶴林寺界わい・斑鳩寺・斑鳩寺界わい・増位山瑞巌寺・一乗寺、奥山寺の紹介がなされ、さらに、

宇那木隆司「創られた伝説 秦河勝と聖徳太子と播磨」
太子町企画政策課「聖徳太子没後千四百年を迎えて 「和のまち」太子町で多彩な催し」
伊藤太一「スケッチ探訪 刀田山鶴林寺」

と続いています。こうした特集はライターさんが書くことが多いのですが、この特集では地元の人材を活用しており、名古屋市立大学の吉田氏を除けば、田村氏は太子町歴史資料館館長、宮本氏は加古川市教育委員会文化財調査研究センター学芸員、大谷氏は斑鳩寺住職、茂渡氏は鶴林寺住職、埴岡氏は播磨学研究所運営委員兼研究員、宇那木氏は姫路市教育委員会文化財担当、となっています。

 播磨の地が早くから聖徳太子および法隆寺と関係が深かったことは事実でであるものの、この地には、四天王寺系のものを含め、後になって生まれた伝説もたくさんあります。上記の短い記事では、「太子が播磨でこれこれされた」などといった書き方は避け、「寺伝によれば」とか「伝承では」といった穏健な書き方をしているものがほとんどです。

 そうした中にあって、問題のある箇所が目立つのが、総論となっている吉田一彦氏の「聖徳太子信仰と日本仏教」です。大山誠一氏が主唱し、吉田氏が補強して進めてきた「<聖徳太子>は『日本書紀』の最終編纂時に藤原不比等・長屋王・道慈が律令制における天皇の模範とするため、ぱっとしない厩戸王をモデルとして創りあげた聖人像であって、太子関連記述は道慈が執筆した」説は、とっくに論破されており、この10年ほどは学界ではまったく相手にされていません。

 そのため、吉田氏は、研究の中心を後代の太子信仰、そして神仏融合思想の研究に移し、虚構説には触れなくなったものの(たとえば、こちら)、以後も自分に都合の悪い説については無視していることについては、このブログで紹介してきました(たとえば、こちら)。

 今回の吉田氏のこの概説は、まさにそうした路線を受け継ぐものであり、否定された不比等・長屋王・道慈創作説には触れないにもかかわらず、参考文献には以前の大山氏の本と自分の編著などを並べるだけです。

 本文でも、聖徳太子については、年々指摘されることが増えている生前の活動の可能性には触れず、『日本書紀』が聖人像を作り上げたという点を強調するだけでなく、厩戸皇子の仏教関連の活動をできるだけ過小評価しようとしています。たとえば、厩戸皇子が創建したことが確実な斑鳩寺の扱いがその一例です。

 吉田氏は、蘇我馬子が飛鳥寺を創建したと述べた後で、「その後、飛鳥寺に続いて、新堂廃寺(烏含寺)(大阪市富田林市)、豊浦寺(奈良県髙市郡明日香村)、北野廃寺(野寺)(京都市北区下白梅町)、斑鳩寺[若草伽藍](法隆寺)(奈良県生駒郡斑鳩町)、四天王寺(大阪市天王寺区)などの初期寺院が造立されていった」(10頁)と述べます。

 「飛鳥寺に続いて……などの初期寺院が造立されていった」というこの書き方だと、「聖徳太子は蘇我馬子とともに仏教を盛んにしたと習ったけど、斑鳩寺・四天王寺って、日本最初の本格的な寺院である馬子の飛鳥寺よりずっと後になって建てられたの? 最初期の寺院の中では、実は一番最後に建立された寺だったのか」などと考える人が出てきそうです。

 吉田氏は道慈執筆説で盛んに書いていた頃は、大山氏と同様、考古学や美術史の成果はまったく無視していたのですが、今回のように考慮するとなると、こうした利用の仕方をするんですね。

 寺院の建立時期、瓦の系統、地域の別を知るために便利な図というと、30年以上前のものですが、毛利光俊彦「仏教の開花」(町田章・鬼頭清明編『新版 古代の日本』第六巻「近畿Ⅱ」、角川書店、1991年)の図(91頁)があります。

 Ⅰ期は飛鳥寺の伽藍中枢が完成した600年(推古8)頃まで、Ⅱ期は中宮寺創建の630年(舒明2)頃まで、Ⅲ期は山田寺の造営が始まる641年(舒明13)頃まで。記号は、●が蘇我氏系、◼が上宮王家系、▲が秦氏系です。ただ、秦氏独特の瓦が焼かれるのはやや後になってからであって、秦氏の初期の瓦窯では蘇我氏系の瓦を焼いていました。

 この図を見ると、推古天皇の三宝興隆の詔を受け、蘇我氏の傍系氏族、蘇我氏と関係深い渡来氏族、蘇我系である上宮王家を中心として一斉に寺院建設が始まったことが分かりますね。

 これらの諸寺のうち、瓦から知られる創建年代が大幅に早くなって話題になったのが、吉田氏が飛鳥寺の次に並べた河内の新堂廃寺です。2005年に調査報告が出ています(PDFは、こちら)。

 最近では、その調査での瓦に関する技術分析の中心であった栗田薫氏が、「ドクターかおるの考古学ワールド」(季刊『大阪春秋』)という一般向けの連載でわかりやすく解説しています。中でも、(8)の「新堂廃寺塔跡の調査」(47巻3号、2019年)から(14)の「考古学の可能性ー新堂廃寺の創建年代をめぐってー」(49巻1号、2021年)までの記事は、最新の考察がなされていて有益です。

 これらによれば、富田林市の新堂廃寺は、当初は四天王寺にやや遅れる頃の創建と推測されたのですが、その後の調査によって、意外な事実が明らかになりました。

 新堂廃寺の塔の創建瓦は、飛鳥寺の創建時に用いられた花組系統・星組系統の瓦のうち星組系統であって、百済の瓦とそっくりであり、飛鳥寺の創建瓦と同様、技術的な水準が非常に高かったのです。しかも、垂木先瓦Ⅰ型に至っては、新堂廃寺で使われている瓦が飛鳥寺でも少数用いられていました。

 その垂木先瓦Ⅰ型は、新堂廃寺のすぐ北のオガンジ池瓦窯で焼かれたものであり、新堂廃寺の塔で用いられたほか、飛鳥寺の中門・回廊で補足として用いられていました。韓国の寺院の瓦の研究が進んだ結果、その蓮華文は、飛鳥寺の瓦の手本となった百済の王興寺のものより前、つまり、都が熊津にあった頃から扶余に移る6世紀前半から末にかけて流行したもので、星組の型が生まれる前段階のものだったことが判明しました。

 したがって、その瓦が葺かれた新堂廃寺の塔は、飛鳥寺の造営とほぼ同時期に建立されたことになりますので、学界に大きな驚きを与えたのです。

 新堂廃寺を建てた人物については、新堂廃寺と同じ瓦が使われている近くのお亀石古墳に葬られた人だろうと推測されています。ただ、百済の技術者を招いた蘇我氏と密接な関係にあったことは推測できるものの、どの氏族の誰かは不明です。

 また、最初は四天王寺式伽藍配置であった新堂廃寺は、やがて、東西に大きな建物が配置される百済の定林寺や王興寺のような配置になって発展していくのですが、塔に続く金堂・講堂・中門などがいつ頃完備したのかなどは、まだ明らかになっていません。

 次に、豊浦寺は三番目に置かれてますが、飛鳥寺より造営がかなり遅れるのは、推古天皇が推古11年(601)に小墾田宮に移り、それまで宮であった豊浦宮を、推古の叔父である馬子が改めて尼寺にしたためです。自分の家を寺に改める捨宅寺院は、信仰の深さを示すものですが、大がかりな宮廷儀礼をおこなうことができる最初の宮である小墾田宮の造営が終わるまでは、寺の造営を始めることはできず、瓦窯を整備するなどして準備するほかなかったのです。

 次に、吉田氏がその豊浦寺後に記した北野廃寺は、秦氏が勢力を持っていた山背の地、つまり、現在の京都市北区白梅町あたりにあったと推定されている寺です。

 その創建時の軒平瓦と推測される瓦は、北野廃寺のすぐ南西の北野廃寺瓦窯で焼かれています。飛鳥寺の花組系統のものであって、飛鳥寺に続く古さが知られます。もう一種は、左京区岩倉にある幡枝元稲荷窯で焼かれもののです。

 もう一つの種類は、これまた秦氏の支配地にあった宇治の隼上り窯で焼かれたものです。隼上り窯は、遠い飛鳥の地の豊浦寺に瓦を供給した窯です。また、秦氏の支配地にある平野楠葉瓦窯は、飛鳥寺で用いられ、豊浦寺造営の際に改良されて斑鳩寺(若草伽藍)の瓦を造るのに用いられた瓦当笵が持ち込まれ、それをすり減った状態で使い続けて四天王寺の瓦を作成したことで知られています。

 蘇我馬子の弟とされ、厩戸皇子と親しく、その子の山背大兄を応援していた境部摩理勢の寺と推測される奥山久米寺(こちら)にも瓦を供給しています。秦氏と上宮王家の関係の深さが分かりますね。

 さて、吉田氏は、飛鳥寺、新堂廃寺、豊浦寺、北野廃寺(野寺)、斑鳩寺(若草伽藍)、四天王寺という順序で並べていますが、問題は、北野廃寺の性格と創建年代です。

 『日本書紀』によれば、「憲法十七条」が作成される前年の推古11年(603)11月に、皇太子(厩戸皇子)が自分が持っている尊い仏像を礼拝する者はいないかと大夫たちに尋ねると、秦河勝が自分が祀りますと申し出て仏像をもらい、蜂岡寺を造ったと記されています。

 北野廃寺は、この蜂岡寺なのか。『日本書紀』によれば太子が亡くなった推古29年(621)の翌々年の推古31年(623)に、新羅の使が献上した仏像を葛野の秦寺に納め、舎利・金塔・潅頂幡などを四天王寺に納めたとされます(ただし、平安時代の岩崎本では太子が亡くなったのは、釈迦三尊像銘や『法王帝説』と同様に622年とし、新羅使の来朝は623年とします)。

 蜂岡寺は移転して現在の広隆寺となったと伝えられていますが、広隆寺からも飛鳥時代の瓦が出ていたりするため、蜂岡寺、葛野秦寺、広隆寺については、別名説・移転説・合併説などの諸説があり、論争が今でも続いています(たとえば、こちら)。

 また、新羅使が献上した仏教関連の品々は太子の逝去を承けてのものであるため、太子と関係が深い葛野秦寺と四天王寺に納めたと推測されていますが、それにしては斑鳩寺が出てこないのは不思議です(『日本書紀』は、主として四天王寺系の資料を用いており、法隆寺系の資料は利用していないようです)。

 いずれにしても、京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課編『飛鳥白鳳の甍~京都市の古代寺院~』(発行元も同じ、2010年)の「広隆寺」の項によれば、603年は寺院造立のきっかけとなった仏像拝領の年であり、623年にはある程度建設が進んでいた以上、「(北野廃寺)葛野蜂岡寺の創建は両者の間」(9頁)と考えられるとしています。

 ここでは、北野廃寺=蜂岡寺としていますが、創建年代については603年と623年の間としか言えないとするのです。また、北野廃寺からは大量の瓦が出土しているものの、平安京造成の際に大幅な工事がなされたたためか、講堂と思われる部分の瓦積み基壇が発見されただけであって、塔の跡も金堂の跡も発見されていません。つまり、創建が何時頃で、どのよう過程を経て伽藍が整備されていったのかは不明なのです。

 また、吉田氏は「北野廃寺(野寺)」と記しており、「野寺」を別名扱いしていますが、蜂岡寺は名が示すように丘陵にあったと思われるのに対し、北野廃寺の場合、その周辺の地名は平野や小松原などであって平坦な地であるため、蜂岡寺とは別の寺とする説もあります。

 いずれにせよ、渡来系であって技術力があった秦氏は、上述したように、蘇我氏と密接な関係を持ち、飛鳥寺創建時の瓦に似た瓦を北野廃寺側の瓦窯で焼き、自らの氏族の寺を建立すると同時に、山背の地に複数の瓦窯を設け、蘇我氏やその傍系氏族、そして関係深かった蘇我系の上宮王家の寺のために瓦を大量に供給したのです。

 推古朝の初期の寺院については、小さな仏堂程度のものも多く、あるいは塔だけ、金堂だけが建てられ、後になって伽藍が整備されていったものも多いことが知られています。

 その点、斑鳩寺は、飛鳥寺や豊浦寺の後に建立されたものの、天皇後継候補であった厩戸皇子が自らの宮と平行する位置に建てた本格的な寺院であって、舒明天皇の百済大宮と百済寺の模範となったうえ、飛鳥寺の金堂に匹敵する大きな金堂を持ち、日本最初の壁画を備えた寺でした。

 こうした事情を知らない人が上記の吉田氏の文章を読むと、聖徳太子関連の寺は、仏法興隆の最初期ではなく、初期寺院建立時期の最後になって造営されたのだ、という印象を受けるでしょう。しかも、この記述の後、聖徳太子は『日本書紀』が理想的な人物像として創りあげたという記述が続くのですから、なおさらです。

 大山氏は、厩戸王は斑鳩に宮と寺を建てたものの、都から遠く離れた斑鳩の地のことであって、推古朝末期には46もあったうちの寺の一つにすぎないといった言い方で、若草伽藍を矮小化していました。吉田氏の記述は、考古学の成果に注意するようになりながら、まさにそのやり方を踏襲しているように見えます。

 吉田氏は、これに続く部分では、「厩戸皇子を特別視し、聖人聖徳太子として信仰する<聖徳太子信仰>は、早くすでに『日本書紀』において開始されていると言ってよい」(11頁)と書き、「『日本書紀』によって創作、造型された理想的な人物の一人であった」として大山氏の『長屋王家木簡と金石文』(吉川弘文館、一九九八年)を参考文献として指示しています。

 当時は、大山氏も吉田氏も、実在したのは「厩戸王」にすぎないという論調でしたが、「厩戸王」はどこかに消えましたね。もちろん、「厩戸王」という呼称は小倉豊文が戦後に提唱したものだという私の指摘には触れません。

 また、「聖徳太子」という語は、捏造した『日本書紀』や大山・吉田氏が聖人化を強めたとする奈良時代の行信や光明皇后も使っておらず、奈良時代半ばすぎになって、歴代天皇の漢字諡号を定めた文人の淡海三船が創出したか広めたとする私の発見にも、もちろん触れません。

 それに『日本書紀』が厩戸皇子を神格化していることは、歴史学者は誰でも知っていたことです。大山説が注目されたのは、不比等・長屋王・道慈が理想的な聖人像を創りあげたと論じたからです。その根本部分を否定された後になって、大山氏の著書をあげ、最近の研究成果を示さないのはなぜなのか。

 また、『日本書紀』の厩戸皇子関連記述は、「東宮聖徳、厩戸皇子、豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、(豊聡耳)法主王、厩戸豊聡耳皇子、皇太子、上宮厩戸豊聡耳太子、厩戸豊聡耳皇子命、上宮太子、上宮皇太子、上宮豊聡耳皇子、皇太子豊聡耳尊、聖皇」と記されており、箇所によって呼び方が様ざまであることが示すように、いろいろな系統の記述を寄せ集めたものであり、文章には和習、それも初歩的な語法の誤りがあちこちで見られました。

 つまり、太子は『日本書紀』の編集以前から特別視され、いろいろな方面で神格化した伝承がなされ、和習を帯びた文章による記述が既になされていたのです。唐に16年いた道慈が一人で、場所によって異なる文体と異なる呼び方を使い分け、和習混じりで書いたのではないことは明らかです。

 一冊の本の中で、「私は東京は好きではありません」、「あたし、東京は好きじゃない」、「我、東京を好まず」、「ワタシ、東京、好きないです」とあったら、同じ人が書いたとは思えませんが、「東京」と「好」という漢字にしか注目しない人はどれも同じような内容に見えるでしょうし、「好き」なのか「好きでない」のかも区別できません。

 また、「我、東京を好まず」という文については、江戸が東京と名を変えたのは明治になってからだから、これは近代に書かれたのだろうなどと考える人もいるかもしれませんが、江戸の文人は、京都に対抗し、唐代の洛陽・長安の呼び方を真似て江戸を「東京(とうけい)」と称することもありました。この語は古いはずだ、新しいはずだという思い込みで判断することはできないのです。

 吉田氏は、『日本書紀』の記述を漢文の語法に注意して文章として読むことができず、単語だけ拾ってあれこれ想像する以前のやり方のままなのでしょうか。

 また、明日香と斑鳩を斜め一直線で結ぶ幅広い太子道の発掘や、『勝鬘経義疏』と「憲法十七条」の一致点など、太子関連の新しい研究成果については、まったく触れられませんね。

 聖徳太子に関する近年の歴史学の論文は、程度の違いはあるにしても、厩戸皇子の活動を認めるものばかりであって、大山流の太子虚構説については批判する必要すら認めず、まったく相手にしていないのが実状ですが(たとえば、こちらや、こちらや、こちら)。

 あと、「鑑真の影響を受けて、聖徳太子伝を作成するようになった」(12頁)という記述も不適切です。直前で鑑真の弟子の思託に触れているように、思託そして思託と親しかった淡海三船が慧思後身説を強調して太子顕彰を推し進めたのであって、鑑真自身が伝記を作成したわけではありません。他にも問題がありますが、やめておきます。

 『日本書紀』が聖徳太子を造型したと述べた部分の後では、伝説化が進んだ伝記が寺院で語られ、絵にも描かれ、像も造られるようになり、ライバル寺院間で相手の言い分を否定ないし吸収して伝記が拡張されていったことや、太子信仰と浄土信仰が結合したこと、「天皇の代理者」という太子の性格によって太子信仰が天皇制を支える要因になったことなどが説かれています。

 聖徳太子に関わる「参考文献」としては、上で触れたように、大山氏、吉田氏、そして若い頃、両氏にお世話になった榊原史子氏(こちら)のものばかりあげており、知らないでこれらを読む人は、ここで説かれている「いなかった」説は、この10年以上、学界では相手にされておらず、最近では吉田氏自身によってさえ主張されていないことが分からないことになります。 

 吉田氏は、後代の四天王寺の聖徳太子信仰などについては、文献調査に基づく有益な論文も書いているのですから、研究者としては、過去の誤りは明確に認め、聖徳太子に関する現在の研究状況を知らせるべきですね。今回の概説は、聖徳太子は仏教興隆の最初期には活動しておらず、伝説はすべて『日本書紀』が作り出したものだという印象を与えようとする意図的な書き方をしたものでした。誤解誘導型概説と呼ぶべきでしょうね。

 最後に毛利光氏の初期寺院表を少し訂正しておきます。Ⅲ期に「木之本廃寺(百済大寺)」とありますが、舒明天皇が造営した百済大寺は現在では吉備池廃寺と考えられています。『大安寺資材帳』では、舒明天皇がまだ田村皇子であった時、臨終に近い厩戸皇子を見舞ったところ、熊凝道場を授けられ、後に百済川近くに百済大寺を建てたとしていますが、吉備池廃寺からは斑鳩寺第Ⅱ期の瓦が出土しています。

 また、表に入っていませんが、熊凝道場の後身であって、後に移転して百済大寺となったとも言われる斑鳩南東の額田部町の額安寺(額田寺)では、斑鳩寺第Ⅰ期の手彫り忍冬文軒平瓦と同じものが出ています。ということは額安寺は斑鳩寺の創建よりやや後に、その瓦を供給されて建立されたことになります。

 太子の熊凝道場→百済大寺という流れは、後代の伝説扱いされてきたのですが、太子の斑鳩寺→熊凝道場(額安寺)→百済大寺(吉備池廃寺)という流れが瓦から跡づけられるのです。また、舒明天皇が百済宮と百済大寺を平行して建てたのは、斑鳩宮と斑鳩寺の形に基づくというのは、多くの研究者が認めていることです。

 吉田氏は、斑鳩寺の創建が遅いことを示そうとして考古学の成果を調べたようですが、『日本書紀』以前の厩戸皇子の活動に関わるこうしたことは、概説では触れないんですね。

【追記:2023年3月28日】
寺の説明を補足し、太子の呼称の違いを具体的に記したほか、文体の違いを示す際、和習と同様の性格を持つ外国人らしい例を加えるなど、多少補訂しました。


『新修 斑鳩町史 上巻』(10):古代編「斑鳩の寺院と仏教文化」(続)

2023年03月25日 | 論文・研究書紹介

 前回、紹介した東野治之氏の担当部分、

「古代篇 第一章第六節 斑鳩の寺院と仏教文化」

の続きです。

 東野氏は、薬師寺より10年ほど遅れ、和同4年(711)に法隆寺の復興がなしとげられたとし、この年は聖徳太子没後90周年あたることに注意します。天皇の忌日が国忌に指定されて法要がいとなまれれるのは持統天皇による天武天皇の国忌制定が最初であり、おそらく養老令の儀制令に規定されていたと見ます。

 そうした動きと平行する形で聖徳太子の忌日も意識されたことについては、「壬午年二月」に飽波評の女子が幡を法隆寺に施入していることに注意します。この「壬午年」は、おそらく六八二年であって、太子が壬午年2月22日に亡くなってから60年となっていて月も同じであるのは、太子の忌日の法要と関連すると見るのです。

 東野氏は、天平8年(736)年2月22日に数々の品が施入されたことが示すように、『法隆寺伽藍并流記資材帳』に記される施入記録には年忌を意識したものが見られることに注意します。

 さて、そうして再興された法隆寺について、新旧の要素が見られることが知られています。金堂などは、唐の様式を承けた薬師寺などと違って南北朝の様式である一方、金堂や塔の壁画は最新の唐の様式で描かれており、中門の仁王像も唐風であるなどです。

 そこで、東野氏は、薬師像については、釈迦三尊像に似せた様式で作成した「一種の疑古作」であって、この「疑古」という点は西院伽藍全体の基本理念であったと説きます。飛鳥時代の遺物も集められました。つまり、太子を記念する寺として、太子在世時の状況を再現すると同時に、新時代にふさわしい要素が盛り込まれたのであって、極めて特殊な宗教空間となったとするのです。

 中宮寺については、天皇の后が中宮と称されるのは後になってからであるため、斑鳩宮・岡本宮・飽波葦垣宮の中間に位置していたための名と見るのが当たっている可能性があるとし、創建は7世紀前半とする推定を承認します。

 法起寺については、諸説ありますが、聖徳太子の遺言により、山背大兄が岡本宮を寺とし、経済基盤として大倭國と近江国の水田が寄進されたが、造営は遅れ、舒明天皇時に金堂、天武天皇時に塔が建てられ、完成したのは慶雲3年(706)という流れとします。

 法輪寺については、太子が建立を発願し、山背大兄がその子の由義王らに造営させたという伝承がありますが、平安中期の『御井寺勘録寺家資財雑物等事』によれば、高橋朝臣が寺の事務を取り仕切ったとされているため、膳氏が改姓した高橋氏の氏寺と見てよいとし、尼寺であったろうとします。

 寺院に関する古代の誓願については、私も昔に論文をいくつか書いてますが、多くは「天皇の奉為(おんため)」「聖徳太子の奉為」といった形であって、それが後になると、天皇の発願、太子の誓願などと書き換えられていく傾向があるのですね。

 太子と関わる由緒を持つ斑鳩のこれらの寺院については、法起寺、法輪寺、中宮寺が別々に建立されたにもかかわらず、7世紀末には再建された法隆寺西院伽藍で用いられた瓦と同じ系統の瓦で葺かれたことは見逃せないとします。これらの寺々でも、古い様式が採用されたのです。

 東野氏は、この斑鳩の地が、藤原京や平城京に入る外国使節の経過地であったことに注意し、「外国向けに設定された聖地でもあったといえよう」と述べてしめくくっています。


『新修 斑鳩町史 上巻』(9):古代編「斑鳩の寺院と仏教文化」

2023年03月21日 | 論文・研究書紹介

 ここからは、東野治之氏の担当分です。

「古代編 第六節 斑鳩の寺院と仏教文化」

 斑鳩は飛鳥とならんで日本で仏教文化が初めて開花した土地ですが、東野氏は、飛鳥の諸寺院はほとんど姿を留めていないのに対し、斑鳩は法隆寺、法起寺、法輪寺、中宮寺など、伽藍堂塔や古い仏像などの文物を残す寺が少なくないことに注意します。この時期については、「飛鳥文化」と呼ばれるものの、当時の雰囲気を残しているのは斑鳩なのです。

 その中心となる法隆寺については、金堂の薬師如来像の光背銘に、用明天皇が病気になった際、「大王天皇与太子」を呼び、自分のご病気が治るよう薬師像を造ってお仕えすると誓願なさったが、崩御されて造れなかったため、「小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王」が、ご命令に従って丁卯の年(607)になしとげた、と刻まれており、早くから疑われてきました。

 東野氏は、最近の研究ではこの薬師像は、聖徳太子の没後に建立された釈迦三尊像より形式が新しいうえ、こうした造像銘はおおよそ定まった形があるのに、この銘文は、日付がないことを始めとして異質であり、誓願の第三者の視点に立って、薬師像と寺の由来を述べた縁起文にほかならないと述べます。

 ただ、銘文が後代の成立であっても、内容までまったく否定されるものではないとします。瓦から見て、創建時の法隆寺、つまり若草伽藍の瓦は7世紀初めのものであることは明らかであり、用明天皇の発願であったのか、当初の本尊が薬師像であったかはともかく、創建年代はその頃と見て良いとします。

 607年という年は、太子が宮を造って推古天皇9年(601)に斑鳩に移ってしばらく後のことであって不自然ではなく、宮と平行して寺を建てることは、舒明天皇の百済宮と百済大寺のモデルであって、その百済大寺の伽藍配置が再建法隆寺で採用されるという関係になっていることについて、東野氏は偶然ではないとします。

 法隆寺の火災について、『日本書紀』は天智天皇9年(670)夏四月に「法隆寺に災す。一屋も余す無し」とあり、その前年の「是の冬」でも「斑鳩寺に災あり」とあるため論争となってきましたが、これについては東野氏が戸籍の面から既に解決しており、天智9年でしかありえないことを論証ずみです。

 法隆寺の再建については、早くから別寺平行説が説かれていたうえ、五重塔の心柱の伐採年代が594年、金堂の天井板は650年から669年頃の伐採といった報告がなされたため、以後も論争が続いていますが、東野氏は木材の伐採と寺の建立は別の問題とします。

 現在の法隆寺は谷を埋めるなどの大がかりな整地事業をしたうえで建立されており、しかも、西に20度ほど振れていた若草伽藍と違い、西院伽藍は西に8度ほど触れているだけであるため、早くから造営が始まっていたとは考えられないとします。

 また、太子の病気平癒のための釈迦三尊像を安置するための建物が、火災の前に建設され始めていて、それが現在の金堂であって、若草伽藍の別院のようなものだとする説については、それにしては規模が大きすぎるとします。

 そして、「再建」という表現は、同じ場所に同じ規模で立て直される場合に用いるべきであり、寺地も本尊も伽藍配置も変更されている以上、性格が変わっていると見るべきだとします。つまり、用明天皇のために聖徳太子が建てた寺から、聖徳太子のための寺へと変化したとするのです。古い木材が使われたのも、太子が関わった仏法興隆の時代を追憶するためと見ます。

 ただ、上宮王家が全滅したように言われるのは後代の伝説であり、入鹿に攻められて亡くなったとされる人物が、時代が下るにつれて増えていっていることに注意します。また、法隆寺の食封が停止されたことが問題にされますが、東野氏は特別な状況と見ません。

 これは当時の朝廷の寺院対策の一環にすぎず、天武朝に1度、持統朝に2度、天皇が法隆寺に施入していることからも、官からの相当な支援があったと推測できると述べます。なお、東野氏は、「浄御原宮御宇天皇」、つまり、天武天皇が寄進した「繍帳 二張」は、古い作品をもとに、あらたに制作された「天寿国繍帳」と推測しています。

 確かに、国際的に見てもすぐれている金堂の壁画などを考えると、斑鳩地方の氏族たちの力だけで再建されたとは考えにくい面がありますね。


『新修 斑鳩町史 上巻』(8):古代編「斑鳩宮と上宮王家」

2023年03月17日 | 論文・研究書紹介

 鷺森幸久氏担当分の最後の部分です。

「古代編 第五節 斑鳩宮と上宮王家」

 まず、記録に残る聖徳太子の名の多さの検討から始め、次に婚姻関係について説明します。推古天皇については、敏達の皇后という権威のもとに天皇家の最上位におり、敏達との間に生まれた皇女のうち、菟道貝鮹皇女を甥の聖徳太子に、後に孫娘の位奈部橘王をめあわせます。一方、小墾田皇女を敏達と広姫の間に生まれた彦人大兄皇子にめあわせ、田眼皇女は彦人大兄の子である田村皇子にめあわせます。

 つまり、当時の天皇家を構成する上宮王家と忍坂王家の双方と婚姻関係を結び、二つの王家のバランスを取りつつ影響力を発揮したと見るのです。皇位継承候補としては聖徳太子を選んだものの、太子は即位することなく死去したとします。

 その聖徳太子が移り住んで宮を建て、拠点としたのが斑鳩です。太子は膳氏の菩岐々美郎女を妻としますが、太子の移住以前に膳氏がこの地と関わりを持っていたかどうかは不明とします。

 雄略朝に膳臣斑鳩という人物がいたものの、地名との関わりが不明だからです。また、『聖徳太子伝私記』では、菩岐岐美郎女のことを高橋妃と呼んでおり、幼い頃、葦垣宮の東の富河辺にある高橋で遊んでいて太子に見初められたとしていますが、これも信頼度は不明です。

 ともかく、大和川をはさんで南側の広瀬が忍坂王家によって、北側の斑鳩が上宮王家によって開発されたのであり、この辺りは奈良盆地における最後の開発地であったとします。

 また、これまで注意されていないものの、斑鳩と立田山を越えて河内に入った大和川と石川の合流点地域は、蘇我氏の拠点の一つでした。用明天皇は蘇我氏の母を持つ最初の天皇であるため、その子の聖徳太子が蘇我氏と連携のもとに斑鳩の開発を行ったのは自然と説きます。

 斑鳩の宮のうち、『法華経』を講じたとされる岡本宮については、聖徳太子との関わりは濃厚だが蘇我馬子の娘である刀自古郎女との関連はうかがえないとします。一方、葦垣宮については、高橋妃の伝承があるうえ、鎌倉時代の史料にこの付近の地名として「カシワデ」「カシハテ」「膳手」があり、この地域と膳氏のつながりがうかがえるとします。

 ついで、聖徳太子に近侍した人物を検討し、秦河勝に代表される秦氏は太子と関係深かったと述べます。蘇我入鹿の軍勢が斑鳩宮を襲った際、三輪文屋は、深草屯倉に逃れてそこから馬で東国に向かって挙兵するよう勧めていますが、深草は葛野と並んで山背における秦氏の本拠地であって、ここでも秦氏との関係がうかがわれるとします。後の史料になりますが、秦氏は斑鳩周辺にも居住していたようです。

 なお、蘇我氏は百済系の仏教を導入したのに対し、聖徳太子はそれに対抗して秦河勝などと秦氏と結びつき、新羅仏教に近づいたとする説がありますが、鷺森氏はこうした二分論は実態と離れていると評します。

 上宮王家の活動基盤として重要なのは、「上宮の乳部」と呼ばれ、壬生部・生部・入部などとも表記される部民であって、訓はいずれも「みぶべ」です。

 聖徳太子の時代に「皇太子」制はなかったとするのが通説ですが、鷺森氏は、壬生部は皇太子の地位に付属する新しい部民であり、皇太子は推古のもとで生まれた制度であって、女帝であったことと深く関連すると説きます。あるいは、「皇太子」という言葉は律令制のものであっても、それに当たる役職が設けられたと見ているのか。

 『日本書紀』では、蘇我氏が「上宮の乳部」を動員したことが対立の原因としていますが、鷺森氏は、乳部は山背大兄が継承していたことは事実であるものの、皇太子の地位に付属するものであり、山背大兄は皇太子ではなかっため、山背大兄が領有する正当な根拠はないと論じます。

 推古の後に男性の舒明天皇が即位したため、皇太子不在となり、その期間に山背大兄の領有が継続したものと見るのです。『日本書紀』では、「上宮の乳部」を蘇我氏が横暴にも使役したという書きぶりですが、これは蘇我氏の専横を強調するものであって、信頼しがたいとし、一方では上宮王家の領有も正当なものではないとするのです。これは新しい見方ですね。

 最後に、斑鳩地域の偏向地割の問題が取り上げられています。若草伽藍、法隆寺東院下層遺跡(斑鳩宮)、中宮寺跡、法起寺下層機構などが西に20度ほど傾いているだけでなく、現存する道・水路・畦などでも20度ほど西に振れている場所がいくつも存在するのです。

 このため、こうした地割がどの程度計画性を持っていたのか、聖徳太子は独自の方格地割に基づく都市計画を持っていたのにが論争になってきたのですが、鷺森氏は、斑鳩宮が焼失した頃、この周辺に都市的景観が見られるようになっていたと考えるのは難しいとします。

 そして、史料から言えるのは、奈良時代初期には法隆寺周辺は耕地・丘陵・池などからなる法隆寺の所領となっていたことだけだとします。西院伽藍など現在の法隆寺の建物などは、8~10度程度西に振れた方位になっていますが、この頃には大規模な開発が行われ、区画の整理と法隆寺の造営が進められてていたものと見るのです。

 以上、聖徳太子の活動を認める部分と、控え目に見積もる部分の両方がある論述でした。ただ、太子関連の土地や周辺氏族などのことを明らかにするという作業は重要ですね。


『新修 斑鳩町史 上巻』(7):古代編「斑鳩とその周辺の氏族・斑鳩とその周辺の部民」

2023年03月13日 | 論文・研究書紹介

 続きです。今回は、『新修 斑鳩町史 上巻』古代編第一章のうち、鷺森浩幸氏担当の

「第三節 斑鳩とその周辺の氏族」
「第四節 斑鳩とその周辺の部民」

です。

 最初の第三節は、蘇我氏で始まります。ただ、蘇我氏は大化の改新クーデターで没落したのではなく、その後、石川氏と改姓し、奈良朝に至っても有力貴族であり続けたという点が中心です。蘇我氏の起源に関する諸説は説明されず、欽明朝から推古朝にかけての活動については、紀氏のところで述べられるという不思議な形になっています。

 斑鳩西北の平群氏については、葛城氏や和珥氏のように大王家と婚姻関係を結んだ形跡がなく、また同族や部曲も少ないため、早い時期から中枢で活躍したとする伝承は疑わしいとします。

 平群氏の同族の馬御樴(みくい)連は『新撰姓氏録』の「馬工(たくみ)連」にあたると思われ、「みくい」は恐らく馬柵ないし馬をつなぐ杭のことと思われ、平群氏が馬の飼育をしていた根拠となるとします。ただ、平群氏は馬の飼育をおこなっていたものの、大王家の馬の管理をしたのは「馬飼」であって平群氏ではないと説きます。

 紀氏については、紀州を本拠とする集団の一部が平群に移住して紀臣となったとされるとし、6世紀後半から紀氏の豪族としての地位向上が画期的に上がったとされると述べます。その紀氏が挑戦半島への出兵に関わったのは、紀ノ川河口部は、瀬戸内海の海上交通の東南端であったためであるとし、また山地を背景とした紀氏の造船能力にも注目します。

 他の豪族との関係については、紀氏は大伴氏氏と密接に結びついており、6世紀中葉には蘇我氏とも密接な関係があったうえ、大伴氏が没落していくと蘇我氏との関係を深め、蘇我氏の力の源泉の一つとなったと説きます。

 神祇関連を担当した中臣氏については、河内に集中して分布しており、河内の豪族と婚姻関係にあったとし、河内を本拠とする物部氏と親密な関係にあったとします。そして、中臣〇〇という複姓を持つ氏族が多く、斑鳩に居住していた中臣熊凝氏については、熊凝という地名が熊凝道場を起源とする額田寺(額安寺)と関わることに注意します。

 ここで、鷺森氏が指摘するのは、中臣熊凝氏は『新撰姓氏録』によると、他の中臣習宜氏、中臣葛野氏とともに、物部(石上)氏の祖である饒速日命の後裔とされている点です。

 中臣習宜氏は、菅原(奈良市菅原町周辺)を本拠とし、中臣葛野氏は、山背の葛野に居住したと推定されます。すると、中臣熊凝氏と中臣習宜氏は、富雄川流域に住んでいたことになり、物部氏と関わるのは自然ということになるのです。

 また、中臣方岳(かたおか)氏は、片岡に居住した氏族と推測します。この地域には、雨と風をつかさどる広瀬神・竜田神が祀られていますが、中臣氏の同族である中臣志斐氏と中臣片岡氏のうち、中臣片岡氏は、風雨につながる片岡神社に関わるとともに、広瀬神・竜田神の奉斎にも関わったと推測します。

 次に大原氏は、法隆寺蔵(原文の「像」は誤植)「観音菩薩造像記」は、甲午の年に鵤大寺(法隆寺)の徳聡法師・片岡王寺の令弁法師・飛鳥寺の弁聡法師が父母への報恩のために仏像を造ったことを記しており、この三人は「大原博士」の一族であって、甲午の年は694年、「大原博士」は大原史氏のことと考えられています。

 奈良時代に法相宗の重要文献である『瑜伽論』を天平4年(732)に大原史氏の女性が書写したことが記録に残っており、法隆寺近辺で活動していたことが推測されています。こうした人々が、斑鳩の仏教を支えていたのですね。

 その他、聖徳太子が亡くなった飽波を氏とする飽波氏がおり、これと近い関係にあると思われるのが渡来系の東漢氏を構成する飽波村主です。

 「第四節 斑鳩とその周辺部民」が最初にとりあげるのは、山部です。「屋部」とか「夜麻」などの表記も同じものを指します。法隆寺所蔵の幡銘には山部を名乗る人名が見えていることが知られてます。山部の性格については諸説ありますが、それは山林の利用法が様ざまであるためとします。

 斑鳩の山部連が聖徳太子と強い関係を持っていたことは事実だとしたうえで、それは山部連が早くからこの地にいたためとします。

 鷺森氏が力を入れて記しているのが、名代・子代の刑部(おさかべ)です。聖徳太子に近い時代で重要なのは、敏達天皇の長子である押(忍)部彦人大兄皇子であって、有力な皇位継承候補であったようです。ただ、用明天皇が亡くなると、物部守屋に擁立されたらしいものの、死去したのか、姿が消えてしまいます。

 この押部彦人大兄皇子の子が田村皇子(舒明天皇)であって、忍坂王家と称されるこの系統は、上宮王家と違って蘇我氏と関係が薄く、この忍坂王家を支えたのが刑部でした。

 大化2年(646)に中大兄皇子が孝徳天皇に「皇祖大兄御名入部」を献上しますが、この入部は皇子のための名代・子代の意味を持ち、中大兄皇子が継承してきた部民であって刑部を指すという説が有力と述べます。この地域は、彦人大兄以来、その子孫たちにとって重要な拠点だったのです。

 忍坂以外では、斑鳩の南の広瀬もその一つでした。鷺森氏は、この点が斑鳩周辺に刑部が分布する理由と見ます。となると、斑鳩を拠点とする上宮王家の山背大兄と、その南の地も拠点としていた忍坂王家の田村皇子が、天皇後継という面以外でもライバルとなるのは無理からぬことですね。

 鷺森氏は、いろいろな部民について概説していますが、詳しく論じているのは丹比(たじひ)部です。『新撰姓氏録』によれば、斑鳩周辺にも丹比氏がおり、平群郡司としてある程度勢力を持ったことが推察されています。丹比氏は反正天皇の丹比宮と関わるもので、丹比宮は宣化天皇へ継承され、その皇后が橘の語を含む橘仲皇女でした。

 この橘にゆかりののある王族の系譜として、橘豊日尊、つまり用明天皇の系譜があります。用明の子が聖徳太子であって、その聖徳太子の妃が、『法王帝説』では「以奈部橘王」と帰され、『天寿国繍帳』では「多至波奈大郎女」と帰される女性です。このため、丹比宮とそれに付随するものが用明天皇→聖徳太子に領有された時期があったと考えられると、鷺森氏は説きます。

 また、設立の時代は太子以後になりますが、中の太子と呼ばれる野中寺は河内の丹比にあり、聖徳太子と関わりのある土地であったことは事実だろうとします。


『新修 斑鳩町史 上巻』(6):古代編第一章「斑鳩と記紀の伝承・斑鳩の歴史地理的環境」

2023年03月09日 | 論文・研究書紹介

 あまり連載が続きすぎてもと思い、少し間をあけましたが、ここで 

 斑鳩町史編さん委員会編『新修 斑鳩町史 上巻』(斑鳩町、2022年)

に戻ります。今回は、

鷺森浩幸「古代編 第一章 ヤマト王権と斑鳩」

の最初の部分です。

 まず、「第一節 斑鳩と記紀の伝承」では、斑鳩町域の東を流れる富雄川の中流地域が「登美(鳥見・止美などとも)」であって、神武天皇の東征伝承で重要な地であることに注意します。葦原中国に降臨した瓊瓊杵尊の子孫である神日本磐余彦尊は、日向を出発して瀬戸内海を経て大和に入り、神武天皇となったとされます。

 『日本書紀』では、神日本磐余彦尊が長髄彦との戦いで苦戦した際、金色の鵄(とび)が飛んで来て弓のはずに泊まり光輝いたため、敵軍は目がくらんだため、この地を鵄邑と呼ぶようになったと述べます。これが「登美」の由来ですね。

 この戦いに登場する饒速日命が物部氏の祖先とされるのですが、『古事記』と『日本書紀』の記述が異なっているうえ、表現が曖昧でよく分からないところがあるのですが、鷺森氏は、『日本書紀』の方が物部氏の祖としての饒速日命の地位を高く描いていることに注意し、この東征伝承が大王に軍事面で仕えた大伴氏や物部氏の存在と関わることは間違いないとします。

 このあたりの事情については、『先代旧事本紀』が詳しいのですが、平安時代に物部氏の関係者によってまとめられたものですので、馬子らの序とされるものも含め、事実でないことも含まれています。

 『新撰姓氏録』では「とみ」とつく氏が四氏あり、各地様ざまですが、もともとは登美地域に居住していたと推測します。ここで注目されるのは、守屋合戦で奮戦して戦死した迹見(とみ)首赤梼(いちい)であって、これも「とみ」氏です。

 長髄彦も『古事記』では「登美の那賀須泥毘古」と称されており、「登美」が本拠とされています。地域として問題はあるのですが、いずれにしても饒速日命や長髄彦の物語は、富雄川流域を舞台とするのが理解しやすいとします。

 次に、法隆寺のある平群の地については、日本武尊が都を偲んで歌ったとされる歌に「平群の山」とあることについて検討します。鷺森氏は、平群の山の歌は、本来は歌垣の場で歌われたものと見て、斑鳩町域の北に広がる矢田丘陵のこととします。つまり、奈良盆地の東方の「倭」の山と、西方の平群の山が対比されて歌われ、これ国(奈良盆地)の象徴とみなされていたとするのです。

 次に「第二節 斑鳩の歴史地理的環境」では、鷺森氏は、「氏」や国造制や屯倉について説明したのち、河内と大和の竜田を結ぶ山越えの道である竜田道などの道の説明に入ります。この竜田道は、重要な複数の道とつながっており、まさに交通の要衝です。

 推古16年に裴世清が来た際は、難波津から大和川を利用して大和に入り、海石榴市で船から上がり、小墾田宮に向かっています。18年の新羅・任那の使節も同じ経路ですが、大和川沿いの「阿斗」(現在の田原本町付近)で船から上がったと推測します。

 そして、こうした水運が主であり、それを補強する形で道路の整備が行われたと考えられるとし、大和川沿いの道から竜田道・太子道とたどるのは自然とします。

 次にその重要な大和川について見てゆきます。大和川は何よりも「王家の川」であったとし、磯城・長谷・磐余の宮をあげます。そして、大和川と佐保川が合流するあたりがヤマト王権の馬を養成した額田の牧であったとし、その仕事にあたってのが大和馬飼であったと見ます。斑鳩はこのすぐ隣ですね。

 当然、馬に関する技術もこのあたりで展開していくことになりますが、『日本書紀』では仁賢6年に高句麗が工匠の須流枳などが渡来したとし、その子孫が倭国山辺郡額田邑の熟皮(かわおし)高麗だとします。皮革加工職人ですね。

 このように、斑鳩の地は、早くから大王と結びついており、また馬と関係深かったのです。聖徳太子については馬に関連する伝承が多いのは、こうした状況を考慮して考えるべきですね。


従来より踏み込んで聖徳太子の活動を説く最新の概説:河内春人「厩戸王子の到達点」

2023年03月05日 | 論文・研究書紹介

 集英社が創業95周年事業として『アジア人物史』全12巻の刊行を始めており、そのうちの2~7世紀を扱う第二巻『世界宗教圏の誕生と割拠する東アジア』が2023年2月末日に刊行されました。

 「巻頭言」を書いているのは、シリーズ全体の編者でもある李成市さんであって、かつての早稲田の助手仲間(李成市さんは東洋史、私は東洋哲学専攻)。「第1章 大乗仏教の成立 ナーガールジュナ」の執筆は、私の助手時代に東大の印度哲学科の助手をしていて学会関連の仕事も少し一緒にやった、これまた助手仲間の斎藤明さん。

 他にも知っている人が多少いますが、このブログに関わる内容を書いている章としては、河上麻由子「第6章 隋の文帝ー時代に選ばれた皇帝」、田中俊明「第8章 朝鮮半島の六世紀ー百済の中興と新羅の台頭」、仁藤敦史「古代天皇制の成立」などがあり、そのものズバリの章が、

河内春人「第9章 倭国の文明化と六~七世紀の東アジアー厩戸王子の到達点」

です。

 河内氏については、氏の『日本古代君主号の研究』をこのブログで以前、紹介したことがあります(こちら)。この章の構成は、以下の通り。

 はじめに
 厩戸王子
  一 生い立ち
  二 中国文明の受容 中国文明の流入/南朝文化圏と北朝文化圏
  三 倭国の文明化 仏教伝来/推古朝前夜
  四 推古朝という時代 厩戸の血脈/推古朝の政治と学術/
             推古朝の政策と中国文明
  五 厩戸王子の到達点 厩戸王子の死/推古朝の遺産
 推古大王
 蘇我稲目/蘇我馬子
 止利仏師とその一族
 その他の人物 東アジアの亡命者/府官たち/五経博士/日羅/
                     崇峻大王/小野妹子/秦河勝/観勒/慧慈

 この章の特長は、聖徳太子を「厩戸王子」と呼び、その事績をかなり認めていることです。まず、『日本書紀』の厩戸王子関連の記述は奈良時代における編者の創作でなく、「かなり早い時から成立していた伝承を書紀が組み込んだもの」としています。

 そして、「法大王」などと呼ばれることもあるが、この場合の「大王」は制度上の呼称ではなく、「天寿国繍帳」に見える「尾治大王」の語が示すように、王族をその身近な人が敬意をもって呼ぶものであるとし、厩戸王子が「大王」と呼ばれる有力な存在だったことは間違いないと述べます。

 生い立ちについては、父の用明天皇が「大兄皇子」と呼ばれていることに注意します。後の部分では、息子の山背大兄も「大兄」と呼ばれているのに対し、厩戸王子がそう呼ばれていないのは、「大兄にとどまらない政治的位置づけであることを周囲に印象づけた」と推測します。

 若い頃の学問については、仏教と儒学を学んだとする『日本書紀』と、仏教重視で「儒教との関わりついて言及しない」『法王帝説』との記述の違いに注意します。ただ、誰々に習ったといった記述はないものの、『帝説』では「三玄五経の旨を知り」とあるのですから、『易』『老子』『荘子』の三玄の学である哲学的な玄学と、儒教の五経に通じていたとされたことになります。むろん、後代の伝承ですが。

 そして、中国の南朝文化圏と北朝文化圏について概説し、百済と日本は南朝重視であったとし、新羅の台頭と制度整備が倭国に与えた刺激について注意します。その際、新羅の服制にあたる冠位十二階については、「厩戸王子が推古大王や蘇我馬子とともに実施した」と述べており、聖徳太子の役割を認めるようになりつつある史学界の中でも、かなり踏み込んだ書き方になっています。

 河内氏は、王子の生育は母方の宮でなされたため、渡来支族を活用し、仏教を推進した蘇我系である厩戸王子は、幼い頃から朝鮮半島から伝わった文化に強い共感を持っていたことが推察できるとします。ただ、蘇我馬子の娘との間に生まれた山背大兄を、膳氏出身の妃の間に生まれた舂米女王と結婚させるなどしており、「その子女はいわゆる上宮王家という一大勢力を形成した」と述べます。

 この点については、近親結婚という点に着目した拙論で強調したところです(こちら)。

 仏教との関連では、高句麗から派遣された慧慈が「厩戸の政策ブレーンとして活動していたことが透けて見える」と述べます。これは、編者の李成市さんの論文を考慮したものですね。

 ただ、河内氏は僧侶団を組み込んだ政治的グループを形成し、「斑鳩にその拠点を置いた」とするのですが、慧慈や慧聰などは飛鳥寺にいたのですから、そこまで言えるかどうか。中国では皇帝や王族や貴族の邸宅には、家僧と呼ばれる僧侶が住み、儀礼をしたり仏教教育を行っていたため、斑鳩にはそうした僧侶がいたでしょうが、代表的な僧は飛鳥にいたのですから、斑鳩での実態は不明と言わざるを得ないでしょう。

 この他にも、古代史や東アジア国際交流史を専門とする河内氏の記述は、全般に妥当と思われる部分が多いものの、仏教や中国の学問についてはやや問題のある記述が目立ちます。

 たとえば、「憲法十七条」で明確に仏教に触れているのは第二条のみと述べたり、「無忤」というのは『成実論』が出典と述べたりしたところがその例です。参考文献で私の聖徳太子本をあげていることが示すように、私の主張を考慮してくれているのですが、私が書いたのは、「無忤」は『成実論』や『涅槃経』を尊重する学派の僧尼が尊重した徳目だということであって、『成実論』が出典ではありません。このブログをもう少しきちんと読んでいただきたいですね。

 河内氏はさらに踏み込み、厩戸王子の死について複数の系統の文献が異なる立場で語っているのは、古代にあっては珍しいことに、厩戸が特別な個人とみなされていたためであり、夏目漱石が近代的な個人の確立に悩んだように、厩戸は「前近代的な個の発見で苦悩したといえようか」と述べます。

 これは、太子を苦悩する人間と捉えた小倉豊文などの系統の見方を進めたもので、賛成できる見解ですが、納得させるためには論証が必要でしょう。

 このように、河内氏の記述は、学術論文ではなく、一般向けの歴史叢書のうちの章という性格によるものではあるといえ、聖徳太子の事績を疑うのが近代的な研究としてきた戦後の動向を改め、それなりの役割を認めようとする最近の学界動向を象徴するもの、あるいはそうした傾向の中でさらに一歩踏み込んだものとなっています。

 以下、当時の主要な人物についても個別に簡単な紹介がなされています。そのうちの推古大王については、「仏教推進はあくまでも馬子と厩戸が主軸であり、推古はそれに同調するものの仏教を積極的に信仰していたかどうかは定かでない」と述べます。

 つまり、晩年になって僧侶の祖父殴打事件による仏教統制なども考慮してのことでしょうが、河内氏は、推古は様々な勢力のバランスをとることに留意した人物と見るのですね。つまり、大王家(敏達系と用明・上宮王系)、蘇我氏、それ以外の仏教熱心でない氏族などのバランスに注意した人物ということですね。

 バランス重視という点はその通りと思いますが、積極的な仏教信仰を疑う点はどうでしょうか。厩戸が仏教信仰の強い母方の蘇我氏の庇護のもとで育ったのであれば、蘇我稻目の娘の子である推古も同様でしょう。仏教が広まって乱脈な僧尼などが目立つようになった時期にとりしまろうとしたことは事実でも、若い頃から仏教に距離を置いていたとは限らないのではないでしょうか。

 個人的に熱心に信仰していればこそ、不純な者たちを罰しようとしたのであって、厳しい態度を見せた後、観勒の提案に従うという形で僧尼の管理制度をもうけたと見ることも可能なように思われますので、ここら辺はいろいろな解釈が可能なところです。

 いずれにしても、河内氏のこの章の記述は、聖徳太子の業績を疑うことこそが客観的な学問だとするかつての史学界の傾向が改まり、ある程度の活動を認めるようになった最近の史学界の傾向を、さらに大胆に進めたものといった感じがします。


「十七条憲法」は「群臣>百姓>民」であって有力家父長層の訴訟に対応:神崎勝「百姓制の成立ー十七条憲法と允恭定姓伝承ー」

2023年03月01日 | 論文・研究書紹介

 前回は、歴史的変遷を考慮しないトンデモ妄想の珍説でしたので、今回は、時代による用語の意味の変化に注意した着実な論考を取り上げます。

神崎勝「百姓制の成立ー十七条憲法と允恭定姓伝承ー」
(『妙見山遺跡調査会紀要』28[講座・古代王権の興亡 第2回]、2018年10月)

です。この紀要を所蔵している図書館は稀であるため、いろいろあった結果、駒大図書館のレファレンスカウンターのご配慮と、上記の調査会のご好意により、冊子を郵便振替用紙同封で直接送っていただくことになったうえ、この論文の元となった2本の論文のコピーも同封してお送りいただきました。有難うございます。

 その元論文とは、

神崎勝「十七条憲法の構造とその歴史的意義」
(『立命館文学』第550号、1997年6月)
同「百姓制の成立とその展開-七世紀における新興首長層の編成-」
(同・第559号、1999年3月)

であって、どちらも詳細で有益です。こちらは入手しやすいでしょう。

 さて、「憲法十七条」については、宮廷に仕える官人たちに対する道徳的訓誡であって法律ではない、いといった説も有力でした。「百姓制の成立ー十七条憲法と允恭定姓伝承ー」はそうした見解に反論し、当時の具体的な問題に対する対処が説かれていることを強調します。

 「憲法十七条」を読んでいて不審な点は、第四条が「百姓礼あれば、国家自ら治まる」と説いていることでしたが、これでその謎が解けました。

 そもそも中国の儒教は道徳教育を根本とする徳治主義です。ですから、「礼は庶人に及ばず、刑は君子(大夫)に至(上)らず」という言葉が示すように、民は無学であって動物に近いため、礼楽教育によって教化することはできず、刑罰でもって律するほかないとするのが原則です。民は尊重されますが、あくまでも、上位層が憐れんで養い育ててやるべき対象なのです。

 しかし、「憲法十七条」では「百姓」には礼が必要であることを強調します。このため、儒教を知らないで「憲法十七条」を持ち上げる一部の人が、「憲法十七条は、国民全体を道徳によって高めようとしており、画期的だ」などと論じるのですが、これは無理な議論です。

 「百姓」には、もろもろの官僚という意味と、民衆全体という意味がありますので、「憲法十七条」は前者の意味で使っているとする説もありました。ただ、『日本書紀』では「百姓」を国民全般の意で用いている箇所も多いため、「憲法十七条」のこの部分をめぐっては議論があったのですが、神崎氏は、その論争史を踏まえたうえで「百姓」の意味の変化を検討します。

 まず、『日本書紀』には「百姓」の語は100あまりも登場しており、「オホミタカラ」「タミ」と訓まれるのが普通だが、それだと意味が通りにくい箇所もあり、敏達天皇から斉明天皇にかけての時期、特に詔勅などの場合は、官人(臣連国造伴造)の配下に新たに任用された下級官人を指すと論じます。

 つまり、朝廷領と、それに属する部民を現地において掌握していた階層だとするのです。ただ、天智天皇以後、律令制が導入され、戸籍にによる人民の個別支配が進むようになると、「百姓」は一般良民を指すようになったとするのです。

 そして、「憲法十七条」では、「百姓之訟」をきわめて重視していることを指摘します。上(国司・国造)と下(百姓)が争うため、「民」が困るとしているのは、この争いが「民」の使役や貢納に関することであることが分かるとします。

 つまり、朝廷の役人として「民」を使役したり貢納させたりする役目である「上」(国司・国造)の者が私的にもそれをやって問題を起こしているのであって、第十二条が「何ぞ敢えて公と与(とも)に、百姓に賦斂せむ」と説いているのは、公私二重の「賦斂」が問題になっていたことを示すとするのです。

 第十二条以下はその副文であり、第十六条が「民を使ふには時を以てす」と述べているのも、この問題に関わると神崎氏は説きます。「憲法十七条」当時、この件がいかに問題となっていたかが分かりますね。神崎氏は、「憲法十七条」を単なる道徳的訓誡と見ることに反対するのですが、確かにこれは生々しい政治対応です。

 そう言えば、以前、このブログで紹介した宮地(鈴木)明子さんの論文は、『日本書紀』では「憲法十七条」の時から「公私」を問題にするようになったことを指摘したものでした(こちら)。

 そこで問題となるのが、『日本書紀』における「百姓」の語の用例です。勝崎氏は、いろいろな階層の人をならべ称する場合について3つに大別します。

 最初のAグループは、雄略紀から推古紀に見えるもので「臣連国造伴造」を基本としており、この下に「百姓」が付加される例は、百済の日羅が答えた文に見えるもので、本来Bタイプに属するものとします。

 次のBグループは、「臣連国造伴造ー百姓」が基本で「百姓ー民」と続くものであり、「憲法十七条」が初見であって孝徳紀に続くものであり、ここでの「百姓」は「官職と氏姓を賜って下級官人となった有力家父長たち」を指すとします。

 Cグループは、天武・持統紀では臣連伴造国造などの下位は「以下、庶人」「百寮并天下黎民」「及び百姓」「百姓男女」などとなっており、さらに『続日本紀』となると、「天下公民」「天下百姓」などと呼ばれるようになるものです。

 つまり、戸籍作成が進んだ結果、氏姓が授けられたのは官人だけでなく、一般民にまで及んだだため、下級官人だけを「百姓」と呼ぶのは実態に合わなくなったとするのです。ちなみに、神崎氏は、氏姓を授ける天皇と、奴婢などは氏姓がないことにも触れています。

 そこで問題になるのは、允恭紀が、帝皇の末だと称したり、天下ってきたと称したりする者たちがいて氏姓が乱れ、「百姓」が確定していなかったため、允恭天皇が、味橿丘に釜を据えて盟神探湯を行わせたという記述です。

 これも諸説ある記事ですが、通説ではこの伝承は、推古朝における百八十部の編成にともない、その由来譚として構想されたとされています。神崎氏は、「百姓」の語は「十七条憲法」で確立し、こうした用い方は推古~皇極・斉明朝に限られるため、允恭天皇の定姓伝承は、允恭朝に何らかの形であった氏姓関連のトラブル対応に関する伝承を、推古朝頃になされた史書編纂の過程で「百姓」を定めた事件として記録したものと推測するのです。

 允恭紀の記述については更に検討していく必要があるでしょうが、以上の神崎氏の検討のおかげで、「憲法十七条」は単なる道徳的訓誡ではなく、推古朝当時の社会的問題に対処するための具体的な方策であったことがはっきりしましたね。