聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

国立能楽堂で11月24日と30日に聖徳太子関連の絵解き説法と能と狂言

2022年09月30日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 国立能楽堂では、聖徳太子1400年遠忌ということで、11月24日に北陸の古刹、井波別院瑞泉寺で継承されてきた聖徳太子御絵伝の絵解き説法と新作能の「夢殿」、30日には狂言「太子手鉾」と能「弱法師」が演じられます。

 内容の簡単な解説と予約法については、24日分はこちら、30日分はこちら、です。

 私はこの上演の冊子に随筆を頼まれていますが、演目の解説は別の方の執筆です。面白いのは、これらの元となった中世の太子伝は、掛詞を、つまりは言葉遊びをかなり含んでいることですね。

【付記:2022年11月27日】
このエッセイは、11月3日刊行の冊子『国立能楽堂』に掲載されました(こちら)。

 


「憲法十七条」は僧旻が孝徳朝に書いたとする古い論文:前田晴人「憲法十七条と孝徳朝新政」

2022年09月26日 | 論文・研究書紹介

 盛んに議論されてきた「憲法十七条」については、現在では、文言の多少の潤色があるかもしれないが、基調は推古朝成立と考えてよい、とする説が主流になっています。ただ、その場合でも『日本書紀』が記すように厩戸皇子の親撰を認めるか、蘇我馬子との協議のうえでの作と見るか、実際には馬子主導と見るかといった点で、意見は分かれます。

 後代の作とする説も完全に消えたわけではありませんが、最近の研究成果によってその主張がなりたなくなっている例をとりあげておきましょう。「聖徳太子はいなかった説」が注目をあびて賛否両論が起きていた頃に刊行された本の冒頭の論文です。

前田晴人『飛鳥時代の政治と王権』「第一部 憲法十七条と飛鳥仏教 第一章 憲法十七条と孝徳朝新政」
(清文堂出版、2005年)

 前田氏は、「はじめに」の最初の部分で、「周知のごとく現在では真撰説が有力化している」と述べたうえで、「憲法十七条」に見える「国司」の語その他に着目して推古朝成立を疑った津田左右吉の問題提起については、今も完全には回答がなされていないとします。2005年の段階の発言ですよ。

 そこで、偽作説の立場で検討を始めるのですが、前田氏は津田左右吉が「憲法十七条」を疑いつつ、『日本書紀』の編者の作とせず、大化期以後天武・持統朝頃までの間に儒臣が作成したとしていることに注目します(大山氏は、津田は『日本書紀』編者作成説であったかのような、自説に都合の良い書き方をしていましたね。こちら)。

 そして、推古天皇は三宝興隆を命じたとされるものの、蘇我稻目に仏教を信仰させた欽明天皇と立場は同じだったのであって、天皇自身が仏教の把握・支援をおこなうのは、蘇我氏でなく天皇が仏教を主管すると宣言した孝徳朝からと見ます。推古自身の仏教信仰が篤ければ、自ら王立寺院を建立したはずとするのです。

 推古は全面的な仏教信仰ではなく、振興を命じる立場だったというのはありうる仮説ですが、孝徳朝以前でも、舒明天皇は、それまでの蘇我氏の寺や蘇我系の厩戸皇子の寺など問題にならないほどの巨大な寺を建てていますね。それから考えると、推古は欽明と舒明の中間くらいの立場だったと見ることも可能そうですが。

 さらに問題なのは、「憲法十七条」は君主絶対の立場に立っており、この主張は蘇我系である厩戸の「政治生命に致命傷」となると説く点です。前田氏は、こうした疑問を提示した後、「憲法十七条」の内容を概観していくのですが、これは、第十四条が「賢聖を得ずは、何を以て国を治めむ」と述べていることを見逃したものですね。

 「賢臣」なら分かりますが、「賢聖」ですよ。私の大昔の論文(こちら)で指摘したように、「憲法十七条」は聖人である臣下がいないと国を治められないと明言しているのです。「承詔必謹」を説いてはいるものの、その詔の方針を決めるのは、補佐する聖臣じゃないんですか? 

 津田の儒臣作成説の影響を受けた前田氏は、この「憲法十七条」の作者は、隋唐に留学し、儒学にも通じていて帰国後には『易経』の講義をしていた僧旻だと推測します。しかし、「憲法十七条」は儒教文献の言葉を盛んに用いるものの、『易経』の影響が強いわけではありませんし、そもそも儒教の基本的立場に従っていません。

 最後の点を明らかにした私の論文は最近のものですが(こちら)、前田氏のこの本が刊行される6年前には、「憲法十七条」は和習だらけだとする森博達『日本書紀の謎を解く』が刊行され、話題になっていました。

 森さんは、唐で長く学んだ道慈が作成したとする大山説批判も書いており、それは前田氏のこの本が出る前のことです。僧旻はその道慈よりさらに長く中国に滞在していたのですが、そうした人が、漢文の基本である「不」と「非」の区別もできていない変格漢文を書くんでしょうか。

 前田氏は、論文末尾で「私は古代法や仏教思想などの問題には全くの門外漢である。それゆえ、思わぬ失策を至るところで犯している恐れがある」ため、ご批判を希望すると述べています。これは謙虚な発言でしたが、この論文は、その後の新しい研究によって否定されるだけでなく、関連分野の最新の研究成果に注意していないため、刊行時には既に成り立たない古い説となってしまった一例です。


推古の即位は大后の資格でというより世代内継承:大平聡「女帝・皇后・近親婚」

2022年09月22日 | 論文・研究書紹介

 前回の記事では、天皇後継者争いに敗れて殺された穴穂部皇子に触れました。その穴穂部は、『日本書紀』によれば、敏達天皇没後、殯宮にいた推古を姧そうとしたと記されています。

 穴穂部皇子をテーマとした論文ではないですが、最初の女帝である推古天皇の即位したことに関する論文でその件に触れているのが、

大平聡『日本古代の王権と国家』「第三章 女帝・皇后・近親婚」
(青史出版、2020年)

です。

 大平氏は、6世紀半ばに世襲王権が確立し、以後、その王の血を引く世代内で候補者が王権を継承していったと考えた場合、女帝についても無理なく説明できるとします。つまり、中継ぎとして擁立されたとか、亡くなった王の大后という身分だったからこそ即位できたといった説を疑うのです。

 まず、卑弥呼以後も地方には女性が地域の首長となることがあったとする考古学の成果を認めたうえで、そうした例があることは事実だが地方の首長レベルと大王レベルとは区別すべきだとする佐藤長門氏に賛同します。

 ただ、男性優位であったことの説明として、当時の状況における軍事王として性格を指摘する佐藤氏には従いません。伝説とはいえ、神功皇后が朝鮮出兵をおこなったとされており、女性の軍事指揮はありえないという認識はなかったと思われるからです。ゆるやかな男子優先の傾向、という程度が大平氏の考える当時の状況です。

 さて、問題の推古については、敏達天皇の大后であったことが即位の理由とされることが多いものの、そうであれば、敏達天皇の没後すぐに即位して良いはずであるのに、実際には欽明天皇の子である用明天皇、崇峻天皇が即位していると説きます。そのため、大王の後継者は、その大王の子の世代の候補者がいなくなったら、その下の世代に移るという原則に従い、同じく欽明天皇の子で、能力もあって有力だった推古が大王となった、と見る方が自然だとするのです。

 このため大平氏は、穴穂部皇子は、用明天皇没後、その同母妹であった推古の即位を押さえ、自らの王位継承権の順位をあげるため、推古との婚姻関係を強引に結ぼうとしたのではないか、と推測します。穴穂部は推古と同じく欽明天皇の子ですが、用明天皇と推古が蘇我稻目の娘である堅塩媛の子であるのに対し、穴穂部皇子は稻目のもう1人の娘である小姉君の子でした。

 いずれにしても、推古と敏達天皇は異母兄妹婚であり、用明天皇と間人皇女も異母兄妹婚であって、穴穂部と推古が結婚していたら、これも異母妹婚となっていたわけですので、当時の近親結婚の多さから見て、婚姻自体はありえないことはなかったのでしょう。

 大平氏は、世襲王権が確率すると、その大王に有力氏族が自らの娘を妃として差し出すことはあっても、王族の女性が有力氏族に嫁ぐことはなく、王族内部で結婚するほかなくなったと述べます。そして、以後の争いから見て、王族内部のこうした近親結婚は、王位継承をめぐる争いを緩和する役割も果たしたのではないかと推測します。当時のきわめて多い近親結婚の背景には、複数の要因があった可能性はありますね。


被葬者は男女かという推測に関する怒りの反論:片山一道「藤ノ木古墳人骨再考」

2022年09月17日 | 論文・研究書紹介

 法隆寺について考えるうえで、無視できない要素の一つが、法隆寺の南西に位置する藤ノ木古墳です。近いところにあり、当時は法隆寺から良く見えたでしょうから、法隆寺を建立した人は、その被葬者を意識せざるを得なかったはずです。そればかりか、この古墳は、法隆寺(若草伽藍)建立の理由とも関わっていた可能性すらあります。

 発見された埋葬物の豊富さで世間を驚かした藤ノ木古墳の棺には、2人の骨が納められていました。被葬者については。崇峻天皇とする説を含めて諸説ありますが、1人は、敏達天皇亡き後に天皇たらんとし、物部守屋にかつがれていたものの蘇我馬子の軍勢によって殺された穴穂部皇子であって、もう1人は穴穂部皇子と親しかったため、皇子とともに殺された宅部皇子と見る説が有力です。

 穴穂部であったとしたら、欽明天皇と蘇我稻目の娘である小姉君の間に生まれた子です。用明天皇の皇后となった間人皇女、つまりは聖徳太子の母の兄弟であって、太子から見れば叔父ということになります。また、娘と結婚させてくれた叔母の推古天皇の異母弟でもあって、しかも不幸な亡くなり方をした親族ですので、追善しなければならない存在です。

 ところが、一つ古墳に母と息子、あるいは夫と妻を葬る例は見られるものの、男性二人を一つの棺に納めた例はないため、男女を合葬したのではないかとする説も根強く続いています。

 その推測に激しく反論したのが、

片山一道「藤ノ木古墳人骨再考ー南側被葬者は男性であるー」
(『橿原考古学研究所論集』第16、2013年)

です。片山氏は、京都大学理学部自然人類学研究室でその人骨を分析調査し、1993年に刊行された藤ノ木古墳の調査報告書に骨の検査報告を書いた研究者であり、自らのことを「骨屋」と称しています。

 その片山氏が2013年になってこの論文を書いたのは、報告書が出た後も被葬者は男女だとする推測が語られ、2009年には「「男と男」でなく「男と女」?」と題する記事が朝日新聞に掲載されたためです。

 片山氏は、北側の被葬者が男性であることについては異論は出ていないとしたうえで、南側被葬者の踵骨の形状と大きさから見て、99.9%の確率で男性のものであるとし、しかも南側被葬者の骨は北側被葬者の骨より大きいことを示します。この南側被葬者の身長は166.6 プラスマイナス 5.5cmと推定されています。当時としては、かなり大柄ですね。

そして、高松塚、マルコ山その他の近畿地方の古墳の男性の骨と女性の骨と比較し、南側被葬者が女性である可能性は10万分の1ほどの確率でしかないと論じます。そして、この2人は身体的特徴も年齢も似ており、近しい関係にあったと思われるため、何かの事件に遭遇して同じ棺に埋葬されたと考えられるとします。

 問題は、装身具と副葬品です。南側被葬者は手玉をともなっていましたが、手玉は人物埴輪などでは女性に限られるため、女性の可能性もあるとされたのです。しかし、片山氏は、生物学的な性と社会的な性は異なるうえ、実際の埋葬においては、男性被葬者が手玉をともなっている例があることを指摘します。

 片山氏は「追記」では、南側被葬者は女性である可能性もあるとする説を紹介する2009年の新聞記事が、この記事が人類学者と考古学者の深い議論がなされるきっかけとなることを期待するとしめくくっているのは、もっともらしいようだが、人類学者が考古学者の意見に耳を傾けないかのような不公平な書きぶりその他が目について憂鬱となったと述べ、「一般論で世間をミスリードする」ものでしかないと断定しています。

 人類学による骨の調査は、あくまでもその立場で精度を高めるほかなく、考古学は考古学の観点でその研究精度を高めるほかないのであって、話し合って問題が解決するわけではないためです。片山氏は、「社会の公器」である新聞がこうした記事を流すことは慎んでほしいと述べて終わっています。

 片山氏のこの要望は、「聖徳太子はいなかった説」を10数年にわたって大げさに報じてきたマスコミに対する私の思いと重なります。


染料と年代判定:中村力也・鶴真美・内藤栄「奈良・中宮寺所蔵 国宝・天寿國繍帳の染料調査」

2022年09月12日 | 論文・研究書紹介

 パリの極東学院での翻訳シンポジウムで発表するため、2機内泊・ホテル2泊という、ワールドカップの際の観戦弾丸ツァーのようなすさまじい出張をし、昨夜帰国したため、このサイトの更新を忘れてました。

 シベリア上空を横切る直行便が停止されているため、戦闘の舞台となっているクリミヤ半島が位置する黒海の南端を横切る南回りルートを、長い時間をかけて飛んだ次第です。パリに着いたら、国立能楽堂から11月の聖徳太子関連の演目のため、能楽堂の冊子にエッセイを書くよう依頼メールが来ていました。

 それはともかく、少し前に「天寿国繍帳」の図柄を検討した論文を紹介しましたが、まったく別の視点からの論文もつい最近、出ています。

中村力也・鶴真美・内藤栄「奈良・中宮寺所蔵 国宝・天寿国繍帳の染料調査」
(『鹿園雑集』34号、2022年3月)

です。中村氏は宮内庁正倉院事務所整理室長、鶴氏は同保存科学室員、内藤氏は奈良国立博物館学芸部特任研究員です。

 「天寿国繍帳」は、現在は飛鳥時代の原繍帳と鎌倉時代の再造品とがともにばらばらの断片となったもの、6の区画に分けたうえでひとつの枠の中に貼り合わせた形になっています。この論文は、タイトルが示すように、そうした「天寿国繍帳」の刺繍部分とその下地となった台裂について染料を調査したものであって、可視反射分光分析法によって調べたものです。

 繍帳の断片は退色していますが、この分析によって、どのような染料を使ったか、また制作当時はどのような色であったかを推定するわけです。

 その結果、飛鳥時代の部分のうち、赤色箇所から茜が、黄色くなった部分から藍が検出されました。重要なのは、飛鳥時代の部分の紫の羅(薄)の台裂から紫根で染めた箇所と茜で染めた部分が検出されたことです。これは重ね染めしたのではなく、茜で染めた羅と紫根で染めた羅が用いられていました。

 茜の根によって染めることは日本では古くからおこなわれてきました。かつての「天寿国繍帳」調査では、茜が検出されたことから、作成当時は茜によって紫に染めていたのであって、紫の根によって紫に染める技術が我が国に定着する前に作成されたと推定していた由。『万葉集』では紫を詠んだ歌が多いように、紫草の根によって紫に染めることが定着するのは、やや遅れるからです。実際、鎌倉時代の模造品では、紫の部分はすべて紫根を用いて染めていました。

 しかし、今回の調査によって茜染めと紫根染めがともに用いられていることが判明したため、現存する古代の染織物の調査を重ね、紫根染めが日本に入って来たのはいつかを明らかにする必要が出てきました。そのうえでないと、「天寿国繍帳」の成立年代を判断できなくなったためです。

 著者たちは、そうした作業をしたうえで再考したいと述べていますので、その成果を待つことにしましょう。


唐本御影を元に描かれた人物は秦河勝?:伊藤純「四天王寺本[秦川勝像]をめぐって」

2022年09月07日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 「唐本御影」、つまり、聖徳太子と二王子を描いたとされる有名な肖像画については、中国の作品だとか、髭の部分は後になって描き足したものだといった説を含め、諸説がありますが、13世紀後半頃にこの絵の模本として描かれたのが、薬師寺に伝わる聖徳太子像です。

 その薬師寺本を手本として描かれた肖像画が四天王寺に所蔵されています。ただ、四天王寺のこの絵については、実は良く分からない点がいくつもあるのです。この問題の絵について検討した最新の論文が、

伊藤純「四天王寺本[秦川勝像]をめぐって」
(『日本文化史研究』53号、2022年3月)

です。

 聖徳太子の画像に興味を持ってきた伊藤氏は、2020年4月に四天王寺宝物館で開催された名宝展で、「聖徳太子摂政像〔伝秦川勝像〕」に初めて対面して衝撃を受けたそうです。

 というのは、その絵の上部に説明が記されており、それによれば、この絵の文字の部分は「世尊寺行成(=藤原行成、972-1028)」だが、絵の作者は不明であって「秦川勝像」であり、奈良の井上平五郎が蔵していたものを、四天王寺中之院が模写し、安永七年(1778)6月に四天王寺に奉納した、とされていたたからです。

 つまり、唐本御影の太子とそっくりの像であるのに、秦川勝の像と記されていたのです。以下では、この像については「川勝像」と記し、また文献に「川勝」とある場合はそのまま記し、歴史上の人物として述べる場合は、通常の表記である「河勝」を用いることにします。模本でありながら髭がなく、1人だけで描かれています。

 また、佐藤氏は、秦河勝は『日本書紀』ではそれほど活躍しておらず、白膠木を刻んで四天王を作ったのは厩戸皇子、物部守屋を討ったのは迹見首赤梼とされているのに対し、時代がたつにつれて河勝の活躍が目立つ記述が増えるとします。

 つまり、917年の『聖徳太子伝暦』だと、川勝が太子に命じられて白膠木を取って四天王像を刻んだとし、また物部守屋の首を切ったとしています。さらに1122年の『上宮聖徳太子伝補闕記』だと、川勝が軍をひきいて太子を守ったとし、川勝が白膠木を切って四天王像を刻んだとし、守屋の頭を斬ると述べています。

 さらに、芸能の面でも、世阿弥の『風姿花伝』では、太子が河勝に命じて申楽(能)をおこなわせたとし、守屋との戦いでも河勝の「神通方便」によって守屋が「失せ」たとされています。つまり、時代が下るにつれて、河勝の活躍が強調されるようになっているのです。

 さて、薬師寺本を所蔵していたのは奈良の井上平五郎であって、この人物は、茶の湯の通人として有名な豪商、松屋家と親密な間柄でした。この松屋家は、能の金春家と親しくしていました。伝承では、能の元祖は秦河勝です。

 薬師寺本の作成の由来は不明ですが、以上のことを踏まえ、伊藤氏は次のように推測します。

 太子伝において河勝の地位が高まり、申楽でも始祖とされる河勝が尊重される中で、その河勝の肖像画を描くにあたって、河勝と一体視されていた聖徳太子の肖像画が手本とされ、薬師寺本が作成されたのであり、申楽の金春家と親密であった松屋家と関わりが深かった井上平五郎がその川勝像を入手し、それを手本に四天王寺で模本が作成されて聖徳太子摂政像として保存された。

 さあ、どうでしょう。この推測の是非はともかく、資料というのは、どのような経緯で伝えられてきたかも重要であることが良くわかりますね。


寺院の建設は山林破壊でもあった:松本真輔「自然景観の変化から説話の背景を探る」

2022年09月03日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 この前、番外編のような形で岩倉具視と法隆寺の貝葉の件をとりあげました。そこで、今回は番外編の続きで四天王寺と山林の樹木伐採の話です。論じているのは、

松本真輔「自然景観の変化から説話の背景を探るー中世聖徳太子伝『聖法輪蔵』別伝の四天王寺建立説話に見る樹木伐採と木材調達ー」
(早稲田大学国文学会『国文学研究』第196集、2022年4月)

です。松本さんの『聖徳太子伝と合戦譚』(勉誠出版、2007年)は、太子伝における物部合戦での太子の活躍ぶりの歴史的変化を探るものであって、勇ましく戦う太子や、争いを避けようとする太子など、様々な描かれ方をしていることに注目した、興味深い探求の試みでした。太子伝研究の名著ですね。

 松本さんは、数年前まで韓国の大学で教えていましたが、現在は長崎外国語大学の教員となっており、日本の古代史研究をするうえで必須である古代韓国の状況の研究にも通じているのが強みです。今回は環境問題を意識してか、太子の絵伝に見える山の樹木に着目しており、これまた面白い視点です。

 さて、この論文では、法隆寺宮大工の西岡棟梁が、日本には樹齢が長くて質の良いヒノキがなくなったたため、建設のためには台湾まで買いに行かなくてはならないと歎いたことから話を始めています。現在の日本の山は樹林で覆われていて綠になっていますが、明治大正時代の写真を見るとそうでないと言います。つまり、はげ山が多かったのであって、戦後になって植林した結果、それまでとは異なる樹木が過剰に育ったのです。

(松本さんは触れてませんが、花粉症はその弊害の一つですね)

 この論文によると、森林伐採は縄文時代から始まっており、弥生時代になると須恵器の焼成のために山林が荒廃する例が出てくる由。さらに飛鳥時代になると、大和あたりでは建築用材の欠乏が見られるようになったそうです。

 都の建設、寺院の建設、大人数の生活のための木材利用が進んだためでしょう。度重なる遷都がそれに拍車をかけたうえ、奈良時代には東大寺大仏殿建築のために大がかりな伐採がなされ、その後の再建がかなり困難になっています。

 こうした状況は、聖徳太子関連の記録にも反映しており、『日本書紀』で山背大兄に味方した境部摩理勢の子の毛津は、畝傍山に逃げ込んだものの、木立がまばらであって隠れることができなかったと記されています。現在の木うっそうと茂る姿とは異なっていたのですね。

 そこで山林の荒廃が進んだ例として松本さんがとりあげるのが、中世の太子伝の代表の一つである『聖法輪蔵』に組み込まれた別伝「四天王寺建立事」です。

 この前半部では、「彼ノ四天王寺ノ材木ヲハ、山城国ヨリ淀川ヲ下シテ、摂津国難波ノ浦ニ付テ、太子十六歳ノ十月ニ悉ク建立シ給ヘリ」としているだけですが、別伝では、そこは「昔深山ニテ大木枝ヲ並へて」いたため、太子が多くの人夫を派遣し、20数カ所の仮家を造ったところ、人夫たちが我先にと争って材木を切ったとしています。

 松本さんは、「昔~」とあるため、この部分が書かれた時は、大木が失われていたことを示すと説きます。

 そして、平安時代の絵巻などを見ると、そこに描かれた山は鬱蒼とした樹林に覆われていないものが多いそうです。むろん、描き方の問題もあるでしょうが、それにしても樹林の描き方が貧弱なものが目立つ由。実際、当時の文献には、焼き畑をすると寺の堂塔に近いので危険だといった記録や、山の材木を炭や薪のために切り尽くして荒れたといった記述が見られるのです。

 そのため、『聖徳太子内因曼荼羅』では、「太子自ラ斧ヲ取テ切倒シテ、天王寺ノ塔ノ心ノ柱ラ」などを数々取ったとしていたものが、近江蒲生郡の西明寺の1237年の文書では、近隣の住民が寺領の山林を伐採しているとし、「上宮王、殊に禁制の事」ありと説き、太子が禁じているため「霊木を伐採すべから」ずと関白に訴えるに至っています。

 絵巻から社会事情を読み取ることは、黒田日出男氏その他によって次々に研究が進められてきており、太子の絵伝についても何人もの研究者が取り組んでいますが、今回の松本さんの論文は、視点を変えると、意外なことが浮かびあがってくるという一例ですね。