聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

新川登亀男「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の成り立ち」は出発点となる先行研究を見落とし【重要追加版】

2015年04月15日 | 論文・研究書紹介
 先日、拙論「『日本書紀』における仏教漢文の表現と変格語法(上)」という論文が刊行されました。これについては、近いうちに紹介します。

 この抜刷を関連する分野の諸先生にお送りしたところ、何人かの先生からは、お返事に添えて最近の著書や論文をご恵贈頂きました。

 そちらもいずれ紹介させてもらいますが、驚いたのは、新川登亀男さんから頂いた2015年3月に刊行されたばかりの論文、「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の成り立ち」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第194集)の抜刷です(新川さん、有り難うございます)。

 冒頭の「論文要旨」によれば、光背銘のうちの「深懐愁毒」「当造釈像尺寸王身」の表現に相当する表現、それも捨身、死別、仏像作成など、光背銘と状況が似ている状況で登場する表現の先例を『賢愚経』と『大方便仏報恩経』に見いだし、その経文を検討することによって光背銘を作った人々の悲歎のあり方を推測し、さらに仏像起源譚という面から銘文の作者を釈迦三尊像を造った止利仏師と推定した、とあります。

 新川さんらしい博捜情報を盛り込んだ論文であるため、いろいろ勉強になりました。ただ、問題になるのは、論文の出発点となる「深懐愁毒」という句について、「これまで適切な解釈がなされたことはない」(283頁)と断言してから議論を始めていることです。むろん、自分が今回初めて出典を指摘したという前提で論じています。

 困りましたね。この「深懐愁毒」の句が『大方便仏報恩経』に基づいており、背景も光背銘と似ていることは、このブログでは、2010年10月31日 にアップした「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘に関する新発見!」と題する記事(こちら)で報告しました。これって、このブログの1番人気の記事となってます。アップ以後、書き換えてません。

 ネット記事は論文では原則として資料としないのが学界の慣例ですが、私は翌年の9月に開催された聖徳太子に関するシンポジウムでは、これに触れたうえ、「天寿国繍帳」もこの経典に基づいていることを指摘した発表をやりました。

 それが活字化された「聖徳太子研究の問題点」という論文は、2012年4月に刊行された『藝林』第61巻1号に掲載されています。私の手許の送付リストによれば、新川さんにも抜刷を送ってあります。

 新川さんは、この論文を書くに当たって、タイトルに「法隆寺釈迦三尊」と入っている論文を精査されたと思いますが、私の論文は「聖徳太子研究の問題点」という一般的な題名だったので、見落としたのでしょう。読んでなかったか、読んでも印象に残らなかったかですね。

 なお、私のこの論文が刊行される前にも、拙論「三経義疏の共通表現と変則語法(上)」(『駒澤大学仏教学部論集』第41号、2010年10月。実際の刊行は2011年1月)が出て抜刷を諸先生にお届けした際、挨拶状の中で、発見したばかりの『大方便仏報恩経』のことについて触れておきました。

 この抜刷と挨拶状も、配布リストによれば、新川さんに送ってあります。その挨拶状を捨てず、抜き刷りにはさんでおられる方は、ご確認ください。

 今回の新川さんの論文は、末尾に「2014年1月7日受付,2014年5月26日審査終了」と記されているように、今から1年ちょっと前に書かれ、審査もあったわけです。

 ネットで、「釈迦三尊像光背銘 大方便仏報恩経」で検索すれば、私の上の記事がヒットしますので、以後の私の論文を読めばそれに触れている可能性がありますが、査読ではこうした面までのチェックは難しいものです。
 
 特に聖徳太子の場合、関連の論文が多すぎて、すべて把握するのはとうてい不可能です。私などもとても追い切れていませんし、読んだとしても、すべて覚えるのは不可能です。

 実は、私の「聖徳太子研究の問題点」論文では、多くの問題点を指摘したうえで、聖徳太子については論文が多すぎて研究情報の共有が不十分であるため、改善しなければならないことを強調し、私の聖徳太子ブログは、そのための手段の一つだと書いてあるのですが、まさに心配した通りの事態になってしまいました。

 まあ要するに、私が「一般向けの聖徳太子の本を書く」と宣言しており、出版社も決まっているにもかかわらず、いろんな分野に浮気して遊んでいるのが悪いんでしょう(その浮気のメチャメチャぶりについては、こちら)。

 反省しました。急いで書きます。原稿では聖徳太子36才のところまで書いてあるので、何とかなるでしょう。

 とはいうものの、今年もいろいろな時代と分野の論文をたくさんかかえており、国内・海外での講演や発表もけっこう多いので、かなり厳しい状況です。夏休みに頑張るしかないですね。

【重要追記:2015年4月30日】
 新川登亀男さんからの手紙が本日、到着しました。論文では321頁で石井論文に触れているため、見落としではない、自分自身で出典にたどり着き、別な考えに基づいて論述しているため、ああした書き方になった、とのことでした。

 その321頁とは、結論にあたる「おわりに」の冒頭のところです。そこでは、

ただ、「深懐愁毒」については、『大方便佛報恩經』とのかかわりにおいて、近年、石井公成「問題提起 聖徳太子研究の諸問題」(『藝林』61の1、2012年)で取り上げられている。しかし、それは、いみじくも「問題提起」にとどまるものであり、論点も含めて、本論とは性格を異にするものである。

とあります。そうでしょうか? 本当に読んだのでしょうか? 性格が異なるのでしょうか?

 新川論文の283頁では、「深懐愁毒」の語について、「これまで適切な解釈がなされたことはない」と断言し、『涅槃経』の「莫生愁毒」や『後漢書』の「四方愁毒」などをあげて「愁毒」の訓みが考察された例がある程度として、注で家永三郎・築島裕校注「上宮聖徳法皇定説」(日本思想大系2『聖徳太子』)に触れているだけです。

 なぜここで、石井が既にこれこれと述べており、おおよその方向は正しいので様々な資料によって補足したいとか、石井の指摘は論証不足なので検討し直す、などと論じなかったのでしょう?

 この新川論文を読んだ人は、途中までで終わりにしたら、「深懐愁毒」の出典を最初に指摘したのはこの新川論文だと思うでしょう。最後まで読んだとしても、この語については、石井公成というが『大方便仏報恩経』がらみで何か問題提起をしたらしい、ということしか分かりません。

 その石井なる人物が、簡単な書き方だったとはいえ、上で紹介したような内容を論文に書いているとは思わないでしょう。細かな論述部分はともかく、基本的な構図は新川論文とかなり重なりますよ。「見落とし」という表現でなく、「意図的な無視」と書いた方が良かったんでしょうかね。

 自分自身で調査して発見した部分がどれほど多くても、内容が重なる先行論文があったことに後で気づいたなら、それをきちんと記述するのが学問の約束事だと私は大学院で習いました。実際には、気づかずに見落としたり、論文をほぼ書き上げてから気づき、あわててちょっと触れるだけで逃げる場合も多いわけですが。