聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

江戸時代に印刷された叡福寺の聖徳太子墓の宣伝チラシ:伊藤純「聖徳太子墓の新史料」

2024年07月25日 | 聖徳太子信仰の歴史

 聖徳太子の墓とされる磯長の叡福寺北古墳については、このブログでもたびたび取り上げてきました(こちらや、こちらほか。疑う立場は、こちらなど)。その是非はどうであれ、江戸時代には内部の様子を細かく描いた図が印刷されて配られていました。それを紹介したのが、こちらです。

伊藤純『歴史探訪のおもしろさ―近世の人々の歴史観―』「2 聖徳太子墓の新史料」
(和泉署員、2017年)

 伊藤氏については、以前も太子の肖像画その他に関する論文を何度か紹介したことがあります(たとえば、こちら)。

 今回の論文では、伊藤氏は、近年になって大阪歴史博物館の所蔵となった「河内国上ノ太子磯長山御廟開扉正面絵図・同窟中三廟秘図」(以下、「御廟図」と呼びます)について紹介しています。

 この図は1枚ものの刷り物であって、右半分に霊屋の正面が描かれていますが、現在あるような扉はなく、石敷の通路の左右に形の異なる二対の灯籠が置かれています。伊藤氏は、形から見て手前の大きな灯籠は石製、奧のものは金属製と推測します。

 通路には薦が敷かれており、突き当たりは石積みの塀で閉じられているようであって、塀の中央に四角い穴のようなのがあるのは、石室の内部を見るためののぞき穴らしく、その手前には机が置かれ、上に焼香用の香炉が二つ乗っています。ここまで入れて中をのぞくことができたんでしょうね。

 そして、石室への入り口は石積みになっていて中に入れないようでありながら、「御廟図」の左半分には、石室内部の様子がかなり詳細に描かれています。つまり、石室の手前右に大きな「皇太子御棺」、その左に「皇妃御棺」の左に〇の中に「井」と記されており、さらに左には井戸の印があります。

 奧には大きな御母后棺があって、その上に一対の黄金獅子が向き合うように置かれており、その左には「鏡」、さらにその左には小さな文字が書かれた石碑のようなものが描かれています。

 図の下には文字の説明があり、それぞれの棺の大きさが「長七尺二寸、横巾三尺」などと記されていますが、伊藤氏は、描かれているのは棺ではなく、それを載せる棺台であると述べ、どの棺台にも奧に四角い切り穴があるのは、水抜きの穴と推定します。

 鏡については説明には「御鏡一尺余」とあり、井戸については、「井水底敷白石澄如鏡 水味甘」などと書かれています。井戸の底には白い石が敷き詰めてあり、澄んでいて鏡のように反射するというのは、石室を明るくしないと分からないことのはずです。水の味が甘いというのは、実際に飲んでみたのか……。

 左端の石碑のようなものについては、「立石 弘法大師記文」とあって、「人皇六十一代 一條天皇御宇正暦五年……」に。聖徳太子に馬でお仕えしたとされる調子麿の末孫である法隆寺の康仁大徳が窟の中に入って拝見し、天皇に報告した、と説明されています。

 これによれば、「御廟図」は九九四年に康仁が観察した記録によって石室内部の情報を記したことになります。実際、叡福寺所蔵の『慶長五年旧記』と記載内容が重なる部分があります。

 しかし、1600年の『慶長五年旧記』では、康仁大徳が廟に入って拝見した際は、御母公の御棺には炭灰と御骨があったものの、御妃の棺には灰だけがあって骨が無かったのは、「化生ノ人」であるためだと記されており、こうした記述は「御廟図」にはないため、『慶長五年旧記』に基づいて略出したことが推測されるとします。

 確かに、正面の図では石室の入り口は石積の塀のようになっていて入れないわけですので、のぞき穴から見たとしても、強力なサーチライトなどがないと中は分からないはずだし、外からのぞいただけでは、棺台の大きさなどは記録できないはずです。中に入って記録したものが元でしょう。

 実は、石室内部を描いた絵図は、正徳6年(1716)の「法隆寺年会目次記」に引かれている「聖徳太子御廟窟絵記」があります。絵は似ていますが、こちらでは、井戸は手前ではなく、鏡と「大慈大悲……」と記された石の間に描かれているなどの違いがあります。宝暦5年(1755)に叡福寺東福院の僧の玄俊が書写した「太子御廟図」でも、井戸はその位置に描かれています。

 これによって、伊藤氏は、元の図から次々に転写されていったことが分かるとし、今回の「御廟図」は別系統のものと説きます。

 今回の絵図については、奧のくずれた結界石と手前の整然とした結界石の描き方から見て、新たに結界石が設置された享保19年(1734)以後に作成されたことが分かるとします。

 この前後の時期には、霊屋の整備が進み、叡福寺の金堂も享保17年(1732)に再建され、太子の霊場としての宣伝も盛んになっていっています。そこで伊藤氏は、金堂再建と墓域整備に合わせる形で太子墓を宣伝する「御廟図」が印刷されて配布されたものと見ます。

 この時期には、叡福寺だけでなく、法隆寺でもしばしば開帳がなされ、その内容を記した文章なども広まっていたようです。庶民の信仰の太子の寺、浄土往生の聖地として長らく人気を集めていた四天王寺に比べてあまり有名でなかった叡福寺や法隆寺は、そうした催しをすることによって知名度をあげていったのでしょう。 


斑鳩の地における聖徳太子信仰の拠点争い:高田良法「法隆寺聖霊院造立についての試論」

2024年07月05日 | 聖徳太子信仰の歴史

 前回、法隆寺東院伽藍の夢殿の本尊である救世観音像に関する論文を紹介しました。しかし、前にも触れたように、夢殿はもともとは法隆寺とは別組織でした。この問題について検討したのが、前々回紹介した高田氏の論文(こちら)の続篇である最新のこの論文です。

高田良法「法隆寺聖霊院造立についての試論」
(『奈良美術研究』第25号、2024年3月)

 法隆寺西院伽藍で聖徳太子を祀る聖霊院は、太子没後500年にあたる保安2年(1121)に法隆寺の経尋が建立したものでした。その少し前に、法隆寺の隣にあったものの別組織だった上宮王院(東院)を法隆寺の管轄下に入れたのも、この経尋なのです。

 高田氏は、天平宝字5年(761)成立の『東院資財帳』では東院の夢殿本尊について、「上宮王等身観世音菩薩木像壱躯<金薄押>」と記されていることに注意します。後に救世観世音菩薩と呼ばれるようになるこの菩薩像は、当初は金箔が貼られ、きらきら輝いていたのです。菩薩と言っても仏扱いですね。釈尊の次に仏となる弥勒は、菩薩の姿や仏の姿となった形で造像されますが、それと似た面があるのか。

 さて、太子の病気治癒を願い、実際には没後になって追善のために建立された金堂の釈迦三尊像の光背銘には「尺寸王身」とあることは有名です。つまり、法隆寺(西院伽藍)も上宮王院(東院)の夢殿も、坐像と立像の違いであって、ともに太子等身とされる像を本尊としていたことに高田氏は注意します。ここまで実は前置きであって、この論文の目的は西院伽藍の聖霊院造立に関して検討することです。

 さて、上宮王院については、奈良時代に行動力のある僧侶、行信が造立したことは有名です。『法隆寺東院縁起』では、蘇我入鹿の軍勢によって焼き討ちされた斑鳩宮の跡が荒れ果てているのを歎き、春宮坊、すなわち、皇太子であった阿部内親王(後の孝謙天皇)の担当部署、つまりは阿部内親王に奏上しました。

 すると、春宮坊が天平11年(739)に河内山贈太政大臣(藤原房前)に造らせ、八角円堂、つまり夢殿に「太子在世に造り給ふ所の御影救世観世音菩薩像を安置」した、とされています。

 この『東院縁起』については、阿部内親王が立太子した天平10年(758)より前の天平7年に(755)に春宮坊が「聖徳尊霊」と今上天皇の奉為に『法華経』を講読せしめたと記していたり、房前は天平9年(757)に亡くなっているなど、記述が合わず、信頼できないといった指摘がなされていました。

 しかし、大橋一章氏は、阿部内親王の母である光明皇后が熱心な聖徳太子信仰を有していたため、天平8年(756)2月22日の太子の忌日に、行信が法隆寺で行った『法華経』講会は、光明皇后を含め、その母であった県犬養橘三千代に連なる女性たちが経済的に支援したものであり、その時期に光明皇后の兄である房前が造立に関わったのであって、その死後は房前の息子の永手が事業を引き継いだため、上記のように記されたと説いており、高田氏もそれに賛同します。

 天平8年の講経にあたっては、行信が皇后宮の長官であった安宿倍真人らを率い、律師の道慈に『法華経』の講義をさせていますが、その講経を仕切ったとされる安宿倍真人は、光明皇后の若い頃から仕えていた股肱の臣であるため、高田氏は、これらの事業は実際には光明皇后が支援したものと見ます。

 講経の際に光明皇后とともに無漏女王も奉納していますが、無漏女王は橘三千代の娘であって房前の正室ですので、やがて立太子して天皇となる予定の阿倍内親王を表に立てての一門総出の事業だったわけですね。

 このように、太子の忌日に上宮王院の建設予定地において太子供養のための『法華経』講経がなされたのです。ただ、『東院縁起』によれば、この講会だけでなく、上宮王院そのものが一時期荒廃したと記されています。そのため、平安時代に入って貞観元年(859)に道詮によって上宮王院の堂舎が修理され、忌日法要が整備されたわけです。

 以後のあり方としては、南北朝頃の『法隆寺白拍子記』によれば、音楽の法要に続いて、『法華経』『涅槃経』『維摩経』『勝鬘経』の「妙文」が読誦され、報恩の儀礼がなされた由。

 高田氏は注記していませんが、『涅槃経』とあるのは、『法王帝説』に上宮王が『涅槃経』に通じていたと書かれていたことに関係するのでしょう。実際には、三経義疏作者は長大な『涅槃経』はきちんと読んでおらず、『法華経』や『勝鬘経』などの注釈に引かれている経文を読んだだけと思われます。

 ここから後が、この論文の中心なのですが、以後は簡単に。冒頭で述べたように、法隆寺の経尋が法隆寺の東室の南三坊を改めて聖霊院にします。聖霊院には太子の御影を安置するだけでなく、保安2年(1121)に山背大兄と殖栗王、卒末呂王の三人の像も移します。

 ただ、聖霊院が現在の姿になったのは、鎌倉時代になってからであり、鈴木嘉吉氏が指摘するように、弘安7年(1284)に建物を全面的に建て直してからのことです。そこには、太子が35歳の時に自ら描いたとする肖像画と称する画が安置され、太子の霊場として整備されてゆきます。

 江戸期に編纂された『庁中漫録』では、聖霊院について、太子が自ら三面の鏡を用いて、自らの摂政姿の像を造ったのであって、その時に用いた鏡と小刀が宝蔵に安置されていると述べたうえ、しかも太子像の体内に蓬莱山を造り、太子の胸のあたりに、インド原産の金を使って造った五寸ほどの救世観世音菩薩像を納め、『法華経』『維摩経』『勝鬘経』の三経も納めたと説くなど、伝説化が進んでいます。

 高田氏は、これらは聖霊院における太子信仰は、太子は救世観世音菩薩の化身であって三教によってこの世を濟度するというものであり、上宮王院との差別化をはかったものと推測します。

 このように、太子信仰は古代かから一貫しているものの、その内実と支持者は時代によって移り変わっているのであり、その点に注意しないといけないのです。


法隆寺聖霊会は元々は『法華経』講経が中心で梅原猛が騒いだ蘇莫者など登場しない:高田良法「法隆寺聖霊会成立について」

2024年06月25日 | 聖徳太子信仰の歴史

 梅原猛が、法隆寺は怨霊となった聖徳太子のための鎮魂の寺だとするトンデモ説を発表したのは、法隆寺の聖霊会で、異様な出で立ちで荒ぶるような蘇莫者の舞楽を見、「太子の怨霊だ!」とひらめいたことがきっかけでした(こちら)。ひらめき大先生ですね。

 しかし、法隆寺における聖徳太子の忌日法要である聖霊会は、もともとは『法華経』講経が中心であって、舞楽などはおこなっていませんでした。その聖霊会について論じた最近の論文が、

高田良法「法隆寺聖霊会成立について」
(『奈良美術研究』第23号、2022年3月)

です。

 名前から推察できますが、法隆寺の管長もつとめ、法隆寺の歴史研究で知られた高田良信師のご養子である由。『奈良美術研究』は、奈良をこよなく愛した会津八一が育てた早稲田大学の美術史の研究者たちで構成されている奈良文化研究所の雑誌です。

 私は八一が好きだったので、大学時代は、八一の弟子である書道史の加藤諄先生の授業に出て、八一の思い出を聞きました。私が駒澤大学仏教学部に在職していた時に社会人入学で入ってきて、私の授業に2年間、最前列で無遅刻無欠席で出席していた萩本欽一さんが退学した際は、独自の書風で知られた八一の「游於藝(芸に遊ぶ)」という字が記されたバッグに八一の図録を入れて贈ったりしたことでした。

 それはともかく、高田氏は、現在の法隆寺の聖霊会は、東院伽藍の夢殿前から行列が出発し、西院伽藍の大講堂前まで練り歩き、そこで法会を開催することになっているのは、元禄4年(1691)に始まると述べます。しかし、聖霊会は、元々は夢殿を中心とする上宮王院(東院)で太子の忌日法要として行われていたのであって、南都楽所が出仕して舞楽や雅楽を奏するのは後代になっての型式なのです。

 その上宮王院が成立したのは、『法隆寺東院縁起』によれば、天平7年(735)の12月20日に、春宮坊(皇太子を担当する役所、実質的には皇太子)が聖徳太子および現在の天皇のために『法華経』講読の施料を寄進し、翌年の2月22日、つまり太子の忌日に法師の行信が、皇后宮職の長官、安宿部真人らを率い、道慈律師を講師に迎え、多くの僧尼を聴衆として『法華経』講経をおこなったのが起源です。

 この記述については、阿倍内親王(後の孝謙天皇)が皇太子になる前であるのに春宮坊とあるのはおかしいなどの疑義が出されていましたが、反論も出されており、高田氏は、実質としては、光明皇后が娘の阿倍内親王を表に立て、若い頃からの自分の側近である安宿部真人に指示して取り仕切らせたものと見ます。

 開催された場所については、近藤有宜氏が、資材帳などの記述から見て、天平8年の講会の際の寄進は法隆寺に、翌年の寄進は上宮王院になされていることを指摘しているため、天平は8年は法隆寺で、翌年は造営された上宮王院でもよおされたと高田氏は推測します。

 実際、『東院縁起』によれば、天平19年(743)に摂津の住吉郡と加古郡の墾田が上宮王院に施入されており、『東院資材帳』にもこれに対応する記述があるため、これらは『法華経』講会のための資財として寄進されたことが分かります。

 ただ、この『法華経』講会はやがて廃絶したようで、『東院縁起』によれば、貞観元年(859)に道詮が朝廷に働きかけ、平群郡の水田七町が講会および堂舎の修理のために施入され、講会が復活しています。

 この講会が「聖霊会」と呼ばれるようになった初出は、『法隆寺別当記』によれば、興福寺の僧であって承保2年(1075)から完治8年(1094)に亡くなるまで法隆寺別当を務めた能算の時です。この能算は後冷泉天皇・白河天皇などに祈祷などで奉仕した人物で、その褒賞として法隆寺別当となったようです。

 この能算が聖霊会を2度おこなっており、寺僧たちの反発を買ったようです。次の二代の別当の時はおこなわれておらず、その次の興福寺僧の定真が別当になっていた時期の記述に、「聖霊会料ならびに舞装束六具」が朝廷から下されたとある由。つまり、行信の頃の『法華経』講会とは異なってきたのです。

 その少し後に、経尋が法隆寺とは別組織だった上宮王院を法隆寺の管轄下に置き、また法隆寺西院伽藍に聖霊堂を建立し、聖徳太子信仰・法要の主導権を握るのですが、これについては高田氏が別の論文で扱ってますので、別に紹介します。


鎌倉幕府の「御成敗式目」五十一箇条は「十七条憲法」の三倍ではない:佐藤雄基「五十一という神話 御成敗式目と十七条憲法」

2024年06月13日 | 聖徳太子信仰の歴史

 貞永元年(1232)に出された鎌倉幕府の「御成敗式目」五十一箇条という数は、聖徳太子の「憲法十七条」の17を3倍にしたものだ、というのは良く聞く話です。しかし、確実な証拠はありません。そこで、この説について検証してみたのが、

佐藤雄基「五十一という神話 御成敗式目と十七条憲法」
(『古文書研究』第95号、2023年6月)

です。

 佐藤氏は、戦前から既にそうした説がなされていたものの、「御成敗式目」成立当初にはそうしたことを述べた記録はないとし、これを言い出したのは16世紀の「御成敗式目」の注釈書、清原宣賢の『式目抄』だと指摘します。なお、佐藤氏は「十七条憲法」という言葉を使っていますので、以下、その言い方に従います。

 『式目抄』では、「十七条憲法」の十七条に天・地・ 人の三つをかけて三倍にしたのが五十一であって、これは清原家の口伝だと述べていました。しかし、佐藤氏は、『式目抄』は式目作成者の六名を六地蔵・六観音とし、式目に付された起請文に署名した13人を「十三仏」を表すとするなど、神仏に引きつけて数字を解釈する傾向が目立つとします。

 ただ、「御成敗式目」を「十七条憲法」と結びつけて解釈することは、16世紀には広がっていたそうです。そこで古い例を探すと、永仁4年(1296)に成立したとされる斎藤唯尚の注釈、『関東御式目』では、北條泰時は大賢人であるため、五十一という数字には由来があるに違いないが不明だと書いていました。

 戦後になって佐藤進一が1965年に二段階成立説を唱えると、3倍説には批判もなされるようになりました。佐藤氏は、これらの議論は、複数の条項をまとめたり削除したりすることによって五十一という数に合わせたという見方、つまり、五十一という数字に意味があるとする前提に立つものとします。

 そして、中世の武家の式目の場合、追加されていくことは珍しくないのであって、五十一という数を重視するのは十七の三倍説に縛られたものではないかと述べます。

 ただ、「五十一箇条」と呼ばれたのはなぜかと問題提起し、当時は「一、……の事」といった形の箇条書きの文書を、「〇箇条」と呼ぶのは一般的であったと指摘します。そして、「御成敗式目」は幕府の中で条目が追加されていったものの、世間に流れ、武家の「式目」として知られたのは五十一箇条のものであったことに注意します。

 そうした中で、治世者としての北條泰時の評価が高まった結果、五十一という数字には深い意味があるはずとされるようになったのであって、その動きは13世紀末には既に始まっていたと見ます。

 そして、式目注釈をなした是円が起草メンバーとなった1336年の『建武式目』は、聖徳太子の「十七條憲法」を意識して十七箇条から成っていました。また、元の「十七条憲法」についても、文永9年(1272)に法隆寺で「談義評定」を経て注釈が造られ、弘安8年(1285)には版木で印刷されるなど、注目を集めていました。

 つまり、「十七条憲法」評価と五十一条の「御成敗式目」評価の高まりは平行していたのです。その背景には、多数の条目の法があるのは世が乱れている証拠であり、十七条とか五十一条ですんだ時代は統治が素晴らしかったのだ、という認識が鎌倉後期の知識人にあったと、佐藤氏は述べます。

 「御成敗式目」の起草者の一人とされる玄恵は、「十七条憲法」の注釈の作成者とみなされていますが、その注釈には、五十一条はもとより、十七という数字に関する説明がないことに佐藤氏は注意します。玄恵の注釈に対する注釈、『聖徳太子御憲法玄恵註抄』になると、『式目抄』の説が組み込まれるようになるのです。

 以上のことから、「御成敗式目」制定時点では、「十七条憲法」の十七条を三倍にして五十一箇条にするという意識はなかったと、佐藤氏は結論づけます。まあ、そうでしょう。ですから、古典を研究する際は、その本文の研究だけでなく、研究史の研究が必要なのです。

 なお、玄恵は「憲法十七条」だけでなく、『太平記』の作者とされるほど、いろいろな文献の作者とされた大学者でした。玄恵については、中世文学会のシンポジウムに招かれた際、その特質と伝承について発表し、論文にもしてあります(こちら)。


逆臣の守屋が地蔵菩薩や熊野権現へと変化:伊藤純「聖徳太子と物部守屋」

2024年06月03日 | 聖徳太子信仰の歴史

  『日本書紀』の守屋合戦記事では、厩戸皇子が四天王に誓願したからこそ勝利したように描かれていますが、それ以外の部分では、名前も他の皇子たちの後に記され、少年の身であって軍勢の最後につき従っていたと書かれています。

 それが実状でしょう。ところが、後代の太子伝になると、厩戸皇子自身が先陣をきって勇ましく戦ったように描かれるようになります。中には太子自身が守屋を討ち取ったとする太子伝も登場しますが、そこで問題になるのは、仏教を広めた太子が「殺生」をするのはいかがなものか、という問題です。

 この問題を解決するため、守屋が仏教導入に反対したのは、仏教を広めるためにわざとやったのであって、守屋は『法華経』の言葉を唱えながら亡くなった、と説く太子伝も造られました。

 そうした筋を、煩悩の元である無明と、真理のあり方である「法性(ほっしょう)」の戦いとして展開した『無明法性合戦物語(合戦状)』なども中世には書かれています。

 これは、前にこのブログで書いたように(こちら)、四天王寺周辺には守屋側の人間であって四天王寺に属させられた者たちがかなりいたことも関係しているかもしれません。そうした人たちは、守屋を弁護したいでしょう。

 それとは作成グループが異なるかもしれませんが、とにかく守屋を弁護しようとした試みの一つを扱ったのが、

伊藤純「聖徳太子と物部守屋―逆臣守屋から地蔵菩薩守屋へ」
(『日本文化研究』第55号、2024年3月)

です。伊藤氏については、これまでも聖徳太子の有名な肖像画、「唐本御影」は、近世には秘蔵されていなかったことを明らかにした論文などを紹介したことがあります(こちら)。

 伊藤氏はまず、『日本書紀』では跡見首赤梼が樹に登って矢を射ていた守屋を射おとして守屋とその子などを「誅」したとあって、罪ある者を殺す「誅」の語を用いていることが示すように、守屋を逆臣として描いていることに注意します。

 ところが、平安初期の『上宮聖徳太子伝補闕記』になると、太子が誓って矢を放つと守屋の胸にあたり、守屋が樹から落ちたところを、「川勝」がその頭を斬った、となっています。

 ところが、『聖徳太子伝暦』になると、太子は「守屋は生まれ代わるたびに仏教を破壊する族であった」が述べたとしつつ、仏法を興す時もつき従っており、「影と響きの如し」とします。

 それが、嘉禄3年(1227)頃の四天王寺系『太子伝古今目録抄』となると、「権者は仮に悪人を示し、衆生を化す」とあって、守屋はわざと悪人の姿を示して仏法を興隆させたとされており、四天王の一体を毎日供養するのは、「守屋の菩提の為なり」と述べており、仏法流布の仲間扱いとなってます。

 以上は四天王寺系の文献でしたが、延応元年(1239)頃の法隆寺系の『古今目録抄』でも、「太子守屋共に大権菩薩。仏法を弘めんと為し、此の如く示現す」と説くにいたっているとします(「弘めんが為に」ですね)。

 なお、守屋のイメージがこのように変化したことは、先行研究、特に松本眞輔さんの『聖徳太子伝と合戦譚』(新典社、2007年)でまとめてろんじられています。

 さて、以後も太子と守屋のイメージは代わっていきますが、応安5年(1372)の『顕真得業口決抄』では、馬子が与えた太刀で川勝が守屋の首を切ったとし、「或る説に云う」として、「守屋は地蔵の化身」と述べ、仏教が無い世界に仏教を弘めるためにその身を現わしたとしています。

 この頃から、守屋と太子の合戦は法性と無明の仮の戦だとする文保本『聖徳太子伝記』の言説が広まっていきます。

 太子信仰は地方へも広まっていきますが、応永34年(1427)頃の『善光寺縁起』では、四天王寺の北東の柱を彫って守屋の首を納め、今に至るまで「守屋柱」と名づけていると説きます。これは四天王寺の話のはずでsが、善光寺本堂には現在も「守屋柱」と呼ばれる柱がある由。

 このように、守屋は菩薩扱いされることもあったものの、寛政10年(1798)の『摂津名所図会』では、四天王寺の太子堂の後ろい守屋祠があるが、三啓客が憎んで石をなげて壊すため、寺の僧が「熊野権現」と表記した由。祭ってるのは、守屋と弓削子連、中臣勝海という排仏トリオだそうで、現在でも中心伽藍の東の境内地に「守屋祠」があると伊藤氏は述べます。上記の善光寺の守屋柱やこの四天王寺の守屋祠などは、写真が示されているのが良い点です。

 なお、伊藤氏のこの論文では、注がなく、末尾に「参考文献」として先行研究をあげおり、松本さんの論文と本も記されていますが、これではどこまでが知られていることで、どこが伊藤氏の新しい指摘か分かりません。一般向けの本の書き方ですね。近世に関してはこれまでにない報告がいくつもなされているものの、論文としては感心できません。

 「おわりに」では、『広文庫』が引く篤胤の『出定笑語』によれば、赤穂の越の浦に大酒の杜と称する守屋の祠があるとしており、通常では秦河勝を祭神としている大避(大酒)神社に守屋が結びつけられていることが報告されています。こうした近世の状況を報告している点が、この論文の意義ですね。


講義録「近代の聖徳太子信仰と国家主義」刊行

2023年09月14日 | 聖徳太子信仰の歴史

 昨秋、真宗大谷派の九州教学研究所でおこなった講義が刊行されました。

石井公成「近代の聖徳太子信仰と国家主義」
(『衆會』第28号、2023年6月)

 10月19日と20日の2日にわたって講義した内容に手を入れたものですので、95頁もあります。奥付は6月30日刊行となっていますが、雑誌が届いたのは 本日です。

 この講義では、まず、日本における仏教と神、仏教と国家主義の関係について概説しました。そのうえで、「憲法十七条」が「神」にも儒教の「孝」にも触れておらず、仏教のみ重視していることへの非難に対する弁解として、聖徳太子は儒教・仏教・神道を等しく尊重するよう命じて『五憲法』を作ったとされたことを紹介しました。

 太子が編纂したという触れ込みで17世紀後半に登場した偽史、『大成経』のうちの「憲法本紀」という形で偽作され、『大成経』に先駆けて個別に出版されたのです。偽作者やその信奉者たちが、いかに太子作と称する『五憲法』を重視していたかが分かりますね。

 その後、『大成経』も前半の正部が出版されましたが、幕府によって偽作と判定されて禁書とされ、出版に関わった者たちは処罰されました。しかし、『大成経』、とりわけ『五憲法』の人気は根強く、写本で伝えられて広く読まれました。

 『葉隠』を口述した山本常朝の儒教の師であった石田一鼎なども、武士のあり方とからめて『五憲法』の注釈を書いているほどです。その他、実に様々な系統の人たちが『大成経』や『五憲法』を信奉したり、利用したりしていました。

 その『五憲法』が、神道による国造りをめざした明治初期に浄土宗などで大歓迎されたのです。政府は、何よりもまず「敬神愛国」などを教えるよう僧侶たちに命じたため、その参考書として『五憲法』の注釈などが用いられたのですね。

 以後、ナショナリズムが高まるにつれ、また仏教批判が起きるたびに、仏教界は聖徳太子を持ち出し、太子を偉大な国家主義の先駆、「承詔必謹」を説いた国体論者として位置づけるようになっていきます。

 真宗の研究所の公開講座での講義ですので、井上右近・金子大栄・暁烏敏など真宗の僧が、いかに聖徳太子を国家主義と結びつけて戦争をあおったかについて語ったうえ、そのような僧や研究者たちが、戦後、いかに豹変したかについても簡単に触れています。

 この方面を専門に研究している人たちがほとんどである学会の部会での発表ではないため、研究者にとっては常識であるような事柄の説明、また私の悪い癖である雑談が多く、まとまりがありませんが、これまで知られていないことの指摘もそこそこ多いはずです。

 ただ、昨年10月の講義であって、この時点では『大成経』についても『五憲法』についても理解が不十分であったため、その面では不適切な記述、説明付則の点が目立ちます。

 私は以後、『五憲法』と『大成経』にのめり込んで猛烈に調べるようになりました。8月19日にベルギーのゲント大学で開催されたEAJS(ヨーロッパ日本学協会)大会の近代聖徳太子パネルで『五憲法』の受容について発表したほか、8月27日に東洋大学で開催された『大成経』の研究集会では東アジアにおける『大成経』そのものの位置づけについて発表するに至りしたので、今後はそれらも活字にしていくことになるでしょう。

 とにかく痛感することは、日本では何かあると聖徳太子が引っ張り出されるということです。

 講義録は、researchmap の私のサイトに PDFを置きました(こちら)。長くて申し訳ありませんが、これをざっと通読すると、江戸から戦後までの聖徳太子信仰と国家主義の関係のおおよその流れが分かるはずです。


ゲント大学開催のEAJS大会での近代における聖徳太子パネル(2)

2023年08月25日 | 聖徳太子信仰の歴史

 2番目の発表は、近代の日蓮信仰に関する代表的な研究者の一人であるブレニナさん。その発表は、日蓮は聖徳太子のことを『法華経』を日本で広めた点で尊重しつつ、『法華義疏』の解釈を批判していたことに注意したうえで、近代における日蓮信奉者である田中智学・本多日生・姉崎正治の聖徳太子観を扱ったものです。

 日蓮宗から還俗し、在家の信仰団体を組織した田中智学については、法隆寺の美しさに感動して自ら創設した信仰団体の本部の建物を静岡に建設する際、法隆寺を真似た形にするほどだったと述べます。そして、智学は自らの国体説を強調するうちに、その国体説と聖徳太子を結びつけるようになり、世界の文化と日本の文化を調和させる存在として評価するようになったとします。

 日蓮宗の管長となった日生については、太子の1300年遠忌前後で太子に対する関心が高まる中で、「憲法十七条」を重視し、太子を日本文化の源流としての意義を強調するなどして儒者や国学者から批判されていた太子を弁護し、教化に活用したことを指摘しました。

 宗教学を確立した姉崎正治については、内外で聖徳太子について書き、1910-1920年頃には太子を「民本主義」の手本とし、1934年に東大を退職した後は、太子の「哲人政治家」の面を強調するようになったとします。

 そして、智学についても姉崎についても、明治天皇が亡くなると、明治天皇と聖徳太子を一体視して評価する傾向が強まることを指摘しました。

 最後の発表者は、日本の近代的仏教学形成に関する代表的な研究者であるクラウタウさん。膨大な資料を示し、明治憲法と「憲法十七条」の関係を論じました。というのは、明治憲法の注釈書には、「憲法十七条」について触れているものが意外に少ないためです。

 また、薗田宗恵『聖徳太子』、境野黄洋『聖徳太子伝』、久米邦武『上宮太子実録』など、太子の意義を説いた宗学者・仏教史家・史家の伝奇でも、「憲法十七条」は道徳的訓誡を述べたものと見ているとします。太子の「憲法十七条」を明治天皇の明治憲法と重ね合わせて見る傾向は、明治天皇の没後になって生じたことを強調するのです。

 クラウタウさんは、明治維新のイメージは後になって形成されたと説く宮澤誠一『明治維新の再創造』を取り上げ、明治天皇と重ね合わせる近代的な聖徳太子のイメージも、同様だとします。これはブレニナさんの研究と一致しますね。

 そして、「憲法十七条」が「教育勅語」に並ぶ存在とされたのは、国家主義的な御用哲学者であった井上哲次郎の『国民道徳論』による面が多いとし、その傾向は、ロシア革命や国内の社会主義の流行などによっていよいよ高まり、聖徳太子こそが我が国の国体を示したという認識が広まったとします。

 その太子のイメージが、戦後は「憲法十七条」の「和」を平和主義とみ、太子を民主主義の元祖と解釈するようになって変わるものの、「憲法十七条」を法律でなく道徳的訓誡と見る傾向は続いていると説きます。

 以上の3人の発表について、近代日本宗教史研究の代表的な存在である林さんは的確なコメントをし、3人に対しておおよそ以下のような質問をしました。

石井: (1)『五憲法』に着目すると、近世と近代は連続しているように見えるが、近世と近代で太子像の違いはないのか。(2)『五憲法』による太子像はいつまで続いたか。

ブレニナ: (1)太子を「政治家、社会福祉の祖」と位置づけるのは、近代の諸宗全体のことか、日蓮系の特徴か。(2)日蓮系の仏教者が調和的な太子像を説くと、折伏や「四箇格言」と矛盾しないか.。

クラウタウ:(1)聖徳太子を国体論の立場で位置づけるようになると、太子の思想の理解も変化したのか。(2)和の精神は包容的であるとしたら、社会主義者も和の精神に包容されうるのか。 

 これに対し、それぞれの回答がなされましたが、3人の発表と回答については、いずれ論文として刊行されるでしょう。ともかく、近代における聖徳太子像については、久米邦武などが客観的な歴史研究を始めたとか、ナショナリズムが高まった昭和期に神道側が仏教を攻撃すると、仏教側は聖徳太子を持ち出して弁解したといった程度の理解がなされている程度でしたので、今回のような詳細な検討がなされたことは意義あるでしょう。

 なお、EAJSでは、推古天皇が命じて聖徳太子が編纂し、太子自らもかなり執筆したとされる『先代旧事本紀大成経』に関するパネルが前日に開かれており、そのメンバーも我々のパネルを聞いてくれていました。そちらのパネルは以下の通り。

Phil_04 A forgotten chapter in the intellectual history of the Edo period: the place of Sendai kuji hongi taisei-kyō in literature and religion
Intellectual History and Philosophy
Convenor: W.J. Boot (Leiden University)

Lokaal 0.3: Fri 18th Aug, 14:00-15:30

The Image of the Tokugawa Shogun in Taisei-kyō
Yuasa Yoshiko (Tokyo Gaugei University) 湯浅佳子

Chōon and Taisei-kyō
W.J. Boot (Leiden University)

Taisei-kyō and Shugendō
W.J. Boot (Leiden University); Satoshi Sonehara (Tohoku University) 曽根原理

このお三方については、9月に刊行される『アジア遊学』に論文を書かれているそうなので、刊行されたら、その内容を簡単に紹介します。


早稲田での聖徳太子シンポジウム刊行:吉原浩人「磯長聖徳太子廟と「廟崛偈」をめぐる言説」

2023年04月12日 | 聖徳太子信仰の歴史

 早稲田での聖徳太子シンポジウムの最後の発表です。

吉原浩人「磯長聖徳太子廟と「廟崛偈」をめぐる言説」
(『多元文化』第12号、2023年2月)

 私の発表は太子そのもの、阿部さんの発表は平安初期の太子信仰であったのに対し、最後の発表の吉原さんのテーマは、太子信仰が異様に盛んになって偽作の文献や文物が大量に作成された鎌倉時代の太子伝説のうち、太子が生前に磯長に自分の墓を造らせ、その石室に記したとされる「廟崛偈」です。

 平安中頃から鎌倉時代にかけて、太子信仰が高まって伝記研究が進むと、現代の常識からすると荒唐無稽としか言いようがない解釈やら太子伝説やらが、秘事として次から次へと生まれます。それを伝述するための特殊な太子伝も作成されたうえ、当時流行していた太子絵伝の中には、そうした秘事口伝の内容を描いたものも登場します。

 つまり、秘事口伝を受けた者だけがその絵の本当の意味を解説できる、ということになるのです。聖徳太子が生身(しょうじん)、つまり生きている存在として信仰を集めた信濃善光寺の善光寺如来(像)と手紙のやりとりをしたという伝説もそうした秘事の一つでしたが、次第に知られるようになっていき、やりとりは一度だけではなかったということで、応答の回数が次第に増えていって五回もなされたとされ、和歌の応答があったという話まで生まれます。

 この手紙については、中世に流行した偽作の年号が使われているため、九州王朝説信者たちが「九州年号だ、本物だ」と大喜びし、病気になった九州王朝の太子が信濃の善光寺如来あてに送った手紙だという妄想を大真面目で書きたてていたため、善光寺信仰の専門家である吉原さんの論文をこのブログで紹介してあります(こちら)。

 吉原さんは、この種の伝説は近代以後は荒唐無稽だとして注目されなくなったが、そうした言説にこそ、太子信仰の本質があるとします。聖徳太子と善光寺如来(像)が手紙でやりとりするというのは、現代の常識では考えられないことですが、親鸞が「廟崛偈」を書写していたことが示すように、末法思想におののき、浄土往生を願っていた中世の人々は、そうした伝説を熱心に信じていたのです。

 そして、善光寺如来の信仰を広めていったのは勧進聖と呼ばれる念仏聖たちの集団であって、高野山→四天王寺→善光寺を結ぶことにより、空海に対する信仰、聖徳太子信仰、阿弥陀三尊への信仰が結びつき、空海が太子廟に参詣したととか、空海は聖徳太子の生まれ変わりだといった伝承が生まれるに至ったとします。

 さて、叡福寺の奧にある磯長廟は、現在は墓所周辺のみ宮内庁管理となっています。平安前期に撰述された『上宮聖徳太子伝補闕記』では、太子は生前に墓所を見てまわり、病なくして亡くなったと記すだけでしたが、平安中期に太子伝を集成した『聖徳太子伝暦』は、47才条では、太子は墓を造るよう命じて自ら墓所に入り、子孫が残らないようにするために数カ所を斬らせたとします。そして、48才条では墓内に二つの床を設けさせたと述べ、50才条では、太子と妃が沐浴後に新たな衣装を着て亡くなり、磯長に葬送すると墓を守る鳥が出現したと述べます。

 しかし、現在の磯長廟には三つの棺があり、母である間人皇后も葬られています。現在は墓の入り口に江戸時代の覆屋が置かれていて中に入れませんが、平安時代から出入りする僧侶たちがおり、その内部は、空海が記録したと記された「太子御廟図」に描かれています。それによれば、中央奧に「間人皇女」の棺、手前右側に「上宮」の棺、手前左側に「妃女」の棺が置かれ、間人皇后の棺の左には鏡、その左に「井」、さらに石室の西壁の前に四角い石碑のようなものが描かれて「日記文」とあります。

 この「日記文」が、太子自ら記したという「廟崛偈」です。この偈は、法興元世二年十二月十五日に太子が調子丸を使いとして善光寺如来に派遣した際に託された消息として伝えられています。

 この話については、法隆寺の顕真(1131-1192)の『古今目録抄』巻下の裏書文書「顕真得業口決抄」を初めとして、多くの文献が載せていますが、いずれも鎌倉から室町にかけての文献です。しかも、顕真は、その調子丸の子孫と称して太子と調子丸に関する伝説化を推し進めた人物として有名です。「廟崛偈」は、そうした怪しい人物の口伝と称して残されたものなのです。

 「廟崛偈」では、太子は阿弥陀如来の慈念を強調し、我が身は「救世観世音」、戒定恵の三学のうち定と智恵を備えた妃は「大勢至」、自分を育てた「大悲母」は「西方教主弥陀尊」だと述べ、もとは一体だとし、この「三骨一廟」に参詣すれば、地獄・餓鬼などに生まれず、必ず極楽に往生できると説いています。「新年の初詣では、御利益豊かな〇〇観音へ」といったコマーシャルのようなものですね。

 吉原さんは「救世観世音」という日本独自の称号について説明した後、「廟崛偈」と対になって記録されることが多い空海作とされる「御記文」について検討します。これは、空海が太子廟に参籠して書いたとされるもので、このことが示すように、この時期に弘法大師信仰と聖徳太子信仰と善光寺如来信仰が結びつくのですね。

 さて、「廟崛偈」を利用したのは空海の真言宗だけでなく、親鸞がこの偈を書写した自筆の断簡が残っていることが示すように、真宗でもこの偈は重視されました。真宗で親鸞と太子の関係を協調するのが、1325年の写本が伝わる『聖徳太子内因曼陀羅』です。これは、観音の応現である太子、前世の勝鬘夫人と南岳慧思、善光寺如来との書簡往復、太子の本地、法然・親鸞の伝記について説明した絵解きの台本です。

 このほか、太子廟や太子関連の未来記の偽作その他、「廟崛偈」をめぐる言説がいかに多様で盛んであったかが論じられ、太子廟が浄土信仰の聖地になったことが指摘されており、この問題に関する集大成ともいうべき内容になっています。


早稲田での聖徳太子シンポジウム刊行:阿部泰郎「聖徳太子と達磨の再誕邂逅伝承再考」

2023年04月09日 | 聖徳太子信仰の歴史

 聖徳太子シンポジウムでの2番目の発表です。

阿部泰郎「聖徳太子と達磨の再誕邂逅伝承再考」
(『多元文化』第12号、2023年2月)

 阿部さんは中世の宗教文献と関連する毎柄について幅広く研究してきました。その中心となるのが、聖徳太子信仰の研究であって、これについては、以前、このブログで一例を紹介したことがあります(こちら)。

 その阿部さんが、名古屋大学に創設された人類文化遺産テキスト学研究センターで精力的に推し進めてきたのは、中核となる宗教テキストをめぐって、関連する注釈・伝記その他、「間宗教テキスト」と阿部さんが称するテキストが繁茂し、儀礼がなされ、絵や像が造られ、それらの相互作用の総体がさらに次の段階を生む場となる宗教空間の生成と展開の運動を明らかにするための共同研究です。(その重要メンバーであった近本謙介氏が、先日、パリで急逝されたのは残念なことでした)。

 そうした宗教空間・宗教テキストの世界の柱の一つが聖徳太子伝であり、今回、阿部さんがとりあげた光定の『伝述一心戒文』もその一例です。光定は、最澄の弟子であって、最澄没後に朝廷にあれこれ働きかけ、天台宗の確立に努めた人物ですね。

 太子伝については、天台宗の開祖である天台智顗の師であった南岳慧思の生まれ変わりという伝説が有名であり、さらに、太子が前世で読んでいた『法華経』とされるものが、末尾に唐代の書写識語があったことが知られ、その矛盾を解消するため、南岳衡山で前世に読誦していた『法華経』を太子自身が青龍車で飛んで取りにいったという伝説が生まれます。

 この二つの話とからんでくるのが、太子が道で飢えて倒れている人を見かけ、憐れんで歌を詠みかけ、衣を与えたところ、その飢人は実は聖人だったという片岡山飢人説話です。宝亀2年(787)に東大寺妙一、あるいは大安寺敬明の作とされる『上宮厩戸豊聡耳皇太子伝』では、この飢人について「蓋し是れ達磨か(蓋是達磨歟:思うに、これは達磨ではないか)」と注記します。

 この注記に飛びついたのが、日本の天台宗でした。最澄は早くから聖徳太子を、南岳慧思の生まれ変わりであって『法華経』を尊重した人物として尊崇していました。つまり、日本天台宗の先駆とみなし、天台宗を広めるために助力してくれる存在とみなしていたのです。さらに、最澄は達摩に始まる禅宗の系譜も受け継いでいました。

 最澄は天台宗の伝法が正当なものであることを証明するため、『天台法華宗付法縁起』を著しました。残念ながら残っていませんが、橘寺の法空の『平氏伝雑勘文』によれば、この『付法縁起』は上記の『上宮厩戸豊聡耳皇太子伝』の全文を載せていた由。

 また、最澄撰と伝えられる『天台法華宗伝法偈』では、太子の南岳慧思後身説を説き、片岡の飢人は菩提達摩かとする伝承を載せたばかりでなく、達摩が慧思に日本に誕生するよう勧めたとも記してあり、二つの伝承が結びつけられるに至ります。

 さらに、光定の『伝述一心戒文』では、関連する多様な「文」を集め、自らの言を加えて示したうえ、嵯峨朝における漢詩文全盛の風潮にさおさし、最澄や光定の漢詩や詩序を「巧妙に布置し解釈を加え、より巨きな因果の環を創りあげた」と阿部さんは評します。つまり、宗教テキストを創出しつつ文学にも踏み込んだものとなったと評価するのです。

 その際、阿部さんが着目するのが、『上宮厩戸豊聡耳皇太子伝』では「蓋し是れ達磨か」としてた注を本文として「達摩也」と断定したことです。9世紀前半に密教が伝わり、新しい顕密体制が生まれていきますが、その時期に「太子を介した諸因縁の結ばれ」として多様な仏教をまとめあげ、最澄の仏教の正統性を強調したのが光定の『伝述一心戒文』だった、というのが結論です

【追記:2023年4月12日】
 聖徳太子信仰に関する阿部さんの研究については、このブログで以前紹介してありましたので、それを冒頭に加えておきました。


『日本書紀』聖徳太子創作説に執着し、考古学の成果を都合良く使って斑鳩寺の成立の遅さをアピール:吉田一彦「聖徳太子信仰と日本仏教」

2023年03月27日 | 聖徳太子信仰の歴史

 播磨は法隆寺の所領があり、聖徳太子関連の伝承やゆかりとされる文物が多く残る地です。これに関する雑誌の特集が、昨秋出ています。姫路市文化国際交流財団が編集し、神戸新聞総合出版センターが発売している季刊誌、

『Ban Cul』No.125( 2022年秋号、2022年9月)

です。1400年遠忌を記念した「特集 聖徳太子と播磨」となっており、写真やイラストが豊富であるため、この地の旅行ガイドとして有用です。記事は、

吉田一彦「聖徳太子信仰と日本仏教」
田村三千夫「聖徳太子と播磨」
宮本佳典「鶴林寺と聖徳太子信仰」
大谷康文「聖徳太子と斑鳩寺-太子信仰を中心として」
茂渡俊慶「「聖徳太子絵伝」から読み解く太子のご生涯」
田村三千夫「『聖徳太子勝鬘経講讃図』を読み解く」
埴岡真弓「たゆたう「聖徳の王」の面影」

と並んでおり、以下、「太子ゆかりの地を尋ねて」と題して鶴林寺・鶴林寺界わい・斑鳩寺・斑鳩寺界わい・増位山瑞巌寺・一乗寺、奥山寺の紹介がなされ、さらに、

宇那木隆司「創られた伝説 秦河勝と聖徳太子と播磨」
太子町企画政策課「聖徳太子没後千四百年を迎えて 「和のまち」太子町で多彩な催し」
伊藤太一「スケッチ探訪 刀田山鶴林寺」

と続いています。こうした特集はライターさんが書くことが多いのですが、この特集では地元の人材を活用しており、名古屋市立大学の吉田氏を除けば、田村氏は太子町歴史資料館館長、宮本氏は加古川市教育委員会文化財調査研究センター学芸員、大谷氏は斑鳩寺住職、茂渡氏は鶴林寺住職、埴岡氏は播磨学研究所運営委員兼研究員、宇那木氏は姫路市教育委員会文化財担当、となっています。

 播磨の地が早くから聖徳太子および法隆寺と関係が深かったことは事実でであるものの、この地には、四天王寺系のものを含め、後になって生まれた伝説もたくさんあります。上記の短い記事では、「太子が播磨でこれこれされた」などといった書き方は避け、「寺伝によれば」とか「伝承では」といった穏健な書き方をしているものがほとんどです。

 そうした中にあって、問題のある箇所が目立つのが、総論となっている吉田一彦氏の「聖徳太子信仰と日本仏教」です。大山誠一氏が主唱し、吉田氏が補強して進めてきた「<聖徳太子>は『日本書紀』の最終編纂時に藤原不比等・長屋王・道慈が律令制における天皇の模範とするため、ぱっとしない厩戸王をモデルとして創りあげた聖人像であって、太子関連記述は道慈が執筆した」説は、とっくに論破されており、この10年ほどは学界ではまったく相手にされていません。

 そのため、吉田氏は、研究の中心を後代の太子信仰、そして神仏融合思想の研究に移し、虚構説には触れなくなったものの(たとえば、こちら)、以後も自分に都合の悪い説については無視していることについては、このブログで紹介してきました(たとえば、こちら)。

 今回の吉田氏のこの概説は、まさにそうした路線を受け継ぐものであり、否定された不比等・長屋王・道慈創作説には触れないにもかかわらず、参考文献には以前の大山氏の本と自分の編著などを並べるだけです。

 本文でも、聖徳太子については、年々指摘されることが増えている生前の活動の可能性には触れず、『日本書紀』が聖人像を作り上げたという点を強調するだけでなく、厩戸皇子の仏教関連の活動をできるだけ過小評価しようとしています。たとえば、厩戸皇子が創建したことが確実な斑鳩寺の扱いがその一例です。

 吉田氏は、蘇我馬子が飛鳥寺を創建したと述べた後で、「その後、飛鳥寺に続いて、新堂廃寺(烏含寺)(大阪市富田林市)、豊浦寺(奈良県髙市郡明日香村)、北野廃寺(野寺)(京都市北区下白梅町)、斑鳩寺[若草伽藍](法隆寺)(奈良県生駒郡斑鳩町)、四天王寺(大阪市天王寺区)などの初期寺院が造立されていった」(10頁)と述べます。

 「飛鳥寺に続いて……などの初期寺院が造立されていった」というこの書き方だと、「聖徳太子は蘇我馬子とともに仏教を盛んにしたと習ったけど、斑鳩寺・四天王寺って、日本最初の本格的な寺院である馬子の飛鳥寺よりずっと後になって建てられたの? 最初期の寺院の中では、実は一番最後に建立された寺だったのか」などと考える人が出てきそうです。

 吉田氏は道慈執筆説で盛んに書いていた頃は、大山氏と同様、考古学や美術史の成果はまったく無視していたのですが、今回のように考慮するとなると、こうした利用の仕方をするんですね。

 寺院の建立時期、瓦の系統、地域の別を知るために便利な図というと、30年以上前のものですが、毛利光俊彦「仏教の開花」(町田章・鬼頭清明編『新版 古代の日本』第六巻「近畿Ⅱ」、角川書店、1991年)の図(91頁)があります。

 Ⅰ期は飛鳥寺の伽藍中枢が完成した600年(推古8)頃まで、Ⅱ期は中宮寺創建の630年(舒明2)頃まで、Ⅲ期は山田寺の造営が始まる641年(舒明13)頃まで。記号は、●が蘇我氏系、◼が上宮王家系、▲が秦氏系です。ただ、秦氏独特の瓦が焼かれるのはやや後になってからであって、秦氏の初期の瓦窯では蘇我氏系の瓦を焼いていました。

 この図を見ると、推古天皇の三宝興隆の詔を受け、蘇我氏の傍系氏族、蘇我氏と関係深い渡来氏族、蘇我系である上宮王家を中心として一斉に寺院建設が始まったことが分かりますね。

 これらの諸寺のうち、瓦から知られる創建年代が大幅に早くなって話題になったのが、吉田氏が飛鳥寺の次に並べた河内の新堂廃寺です。2005年に調査報告が出ています(PDFは、こちら)。

 最近では、その調査での瓦に関する技術分析の中心であった栗田薫氏が、「ドクターかおるの考古学ワールド」(季刊『大阪春秋』)という一般向けの連載でわかりやすく解説しています。中でも、(8)の「新堂廃寺塔跡の調査」(47巻3号、2019年)から(14)の「考古学の可能性ー新堂廃寺の創建年代をめぐってー」(49巻1号、2021年)までの記事は、最新の考察がなされていて有益です。

 これらによれば、富田林市の新堂廃寺は、当初は四天王寺にやや遅れる頃の創建と推測されたのですが、その後の調査によって、意外な事実が明らかになりました。

 新堂廃寺の塔の創建瓦は、飛鳥寺の創建時に用いられた花組系統・星組系統の瓦のうち星組系統であって、百済の瓦とそっくりであり、飛鳥寺の創建瓦と同様、技術的な水準が非常に高かったのです。しかも、垂木先瓦Ⅰ型に至っては、新堂廃寺で使われている瓦が飛鳥寺でも少数用いられていました。

 その垂木先瓦Ⅰ型は、新堂廃寺のすぐ北のオガンジ池瓦窯で焼かれたものであり、新堂廃寺の塔で用いられたほか、飛鳥寺の中門・回廊で補足として用いられていました。韓国の寺院の瓦の研究が進んだ結果、その蓮華文は、飛鳥寺の瓦の手本となった百済の王興寺のものより前、つまり、都が熊津にあった頃から扶余に移る6世紀前半から末にかけて流行したもので、星組の型が生まれる前段階のものだったことが判明しました。

 したがって、その瓦が葺かれた新堂廃寺の塔は、飛鳥寺の造営とほぼ同時期に建立されたことになりますので、学界に大きな驚きを与えたのです。

 新堂廃寺を建てた人物については、新堂廃寺と同じ瓦が使われている近くのお亀石古墳に葬られた人だろうと推測されています。ただ、百済の技術者を招いた蘇我氏と密接な関係にあったことは推測できるものの、どの氏族の誰かは不明です。

 また、最初は四天王寺式伽藍配置であった新堂廃寺は、やがて、東西に大きな建物が配置される百済の定林寺や王興寺のような配置になって発展していくのですが、塔に続く金堂・講堂・中門などがいつ頃完備したのかなどは、まだ明らかになっていません。

 次に、豊浦寺は三番目に置かれてますが、飛鳥寺より造営がかなり遅れるのは、推古天皇が推古11年(601)に小墾田宮に移り、それまで宮であった豊浦宮を、推古の叔父である馬子が改めて尼寺にしたためです。自分の家を寺に改める捨宅寺院は、信仰の深さを示すものですが、大がかりな宮廷儀礼をおこなうことができる最初の宮である小墾田宮の造営が終わるまでは、寺の造営を始めることはできず、瓦窯を整備するなどして準備するほかなかったのです。

 次に、吉田氏がその豊浦寺後に記した北野廃寺は、秦氏が勢力を持っていた山背の地、つまり、現在の京都市北区白梅町あたりにあったと推定されている寺です。

 その創建時の軒平瓦と推測される瓦は、北野廃寺のすぐ南西の北野廃寺瓦窯で焼かれています。飛鳥寺の花組系統のものであって、飛鳥寺に続く古さが知られます。もう一種は、左京区岩倉にある幡枝元稲荷窯で焼かれもののです。

 もう一つの種類は、これまた秦氏の支配地にあった宇治の隼上り窯で焼かれたものです。隼上り窯は、遠い飛鳥の地の豊浦寺に瓦を供給した窯です。また、秦氏の支配地にある平野楠葉瓦窯は、飛鳥寺で用いられ、豊浦寺造営の際に改良されて斑鳩寺(若草伽藍)の瓦を造るのに用いられた瓦当笵が持ち込まれ、それをすり減った状態で使い続けて四天王寺の瓦を作成したことで知られています。

 蘇我馬子の弟とされ、厩戸皇子と親しく、その子の山背大兄を応援していた境部摩理勢の寺と推測される奥山久米寺(こちら)にも瓦を供給しています。秦氏と上宮王家の関係の深さが分かりますね。

 さて、吉田氏は、飛鳥寺、新堂廃寺、豊浦寺、北野廃寺(野寺)、斑鳩寺(若草伽藍)、四天王寺という順序で並べていますが、問題は、北野廃寺の性格と創建年代です。

 『日本書紀』によれば、「憲法十七条」が作成される前年の推古11年(603)11月に、皇太子(厩戸皇子)が自分が持っている尊い仏像を礼拝する者はいないかと大夫たちに尋ねると、秦河勝が自分が祀りますと申し出て仏像をもらい、蜂岡寺を造ったと記されています。

 北野廃寺は、この蜂岡寺なのか。『日本書紀』によれば太子が亡くなった推古29年(621)の翌々年の推古31年(623)に、新羅の使が献上した仏像を葛野の秦寺に納め、舎利・金塔・潅頂幡などを四天王寺に納めたとされます(ただし、平安時代の岩崎本では太子が亡くなったのは、釈迦三尊像銘や『法王帝説』と同様に622年とし、新羅使の来朝は623年とします)。

 蜂岡寺は移転して現在の広隆寺となったと伝えられていますが、広隆寺からも飛鳥時代の瓦が出ていたりするため、蜂岡寺、葛野秦寺、広隆寺については、別名説・移転説・合併説などの諸説があり、論争が今でも続いています(たとえば、こちら)。

 また、新羅使が献上した仏教関連の品々は太子の逝去を承けてのものであるため、太子と関係が深い葛野秦寺と四天王寺に納めたと推測されていますが、それにしては斑鳩寺が出てこないのは不思議です(『日本書紀』は、主として四天王寺系の資料を用いており、法隆寺系の資料は利用していないようです)。

 いずれにしても、京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課編『飛鳥白鳳の甍~京都市の古代寺院~』(発行元も同じ、2010年)の「広隆寺」の項によれば、603年は寺院造立のきっかけとなった仏像拝領の年であり、623年にはある程度建設が進んでいた以上、「(北野廃寺)葛野蜂岡寺の創建は両者の間」(9頁)と考えられるとしています。

 ここでは、北野廃寺=蜂岡寺としていますが、創建年代については603年と623年の間としか言えないとするのです。また、北野廃寺からは大量の瓦が出土しているものの、平安京造成の際に大幅な工事がなされたたためか、講堂と思われる部分の瓦積み基壇が発見されただけであって、塔の跡も金堂の跡も発見されていません。つまり、創建が何時頃で、どのよう過程を経て伽藍が整備されていったのかは不明なのです。

 また、吉田氏は「北野廃寺(野寺)」と記しており、「野寺」を別名扱いしていますが、蜂岡寺は名が示すように丘陵にあったと思われるのに対し、北野廃寺の場合、その周辺の地名は平野や小松原などであって平坦な地であるため、蜂岡寺とは別の寺とする説もあります。

 いずれにせよ、渡来系であって技術力があった秦氏は、上述したように、蘇我氏と密接な関係を持ち、飛鳥寺創建時の瓦に似た瓦を北野廃寺側の瓦窯で焼き、自らの氏族の寺を建立すると同時に、山背の地に複数の瓦窯を設け、蘇我氏やその傍系氏族、そして関係深かった蘇我系の上宮王家の寺のために瓦を大量に供給したのです。

 推古朝の初期の寺院については、小さな仏堂程度のものも多く、あるいは塔だけ、金堂だけが建てられ、後になって伽藍が整備されていったものも多いことが知られています。

 その点、斑鳩寺は、飛鳥寺や豊浦寺の後に建立されたものの、天皇後継候補であった厩戸皇子が自らの宮と平行する位置に建てた本格的な寺院であって、舒明天皇の百済大宮と百済寺の模範となったうえ、飛鳥寺の金堂に匹敵する大きな金堂を持ち、日本最初の壁画を備えた寺でした。

 こうした事情を知らない人が上記の吉田氏の文章を読むと、聖徳太子関連の寺は、仏法興隆の最初期ではなく、初期寺院建立時期の最後になって造営されたのだ、という印象を受けるでしょう。しかも、この記述の後、聖徳太子は『日本書紀』が理想的な人物像として創りあげたという記述が続くのですから、なおさらです。

 大山氏は、厩戸王は斑鳩に宮と寺を建てたものの、都から遠く離れた斑鳩の地のことであって、推古朝末期には46もあったうちの寺の一つにすぎないといった言い方で、若草伽藍を矮小化していました。吉田氏の記述は、考古学の成果に注意するようになりながら、まさにそのやり方を踏襲しているように見えます。

 吉田氏は、これに続く部分では、「厩戸皇子を特別視し、聖人聖徳太子として信仰する<聖徳太子信仰>は、早くすでに『日本書紀』において開始されていると言ってよい」(11頁)と書き、「『日本書紀』によって創作、造型された理想的な人物の一人であった」として大山氏の『長屋王家木簡と金石文』(吉川弘文館、一九九八年)を参考文献として指示しています。

 当時は、大山氏も吉田氏も、実在したのは「厩戸王」にすぎないという論調でしたが、「厩戸王」はどこかに消えましたね。もちろん、「厩戸王」という呼称は小倉豊文が戦後に提唱したものだという私の指摘には触れません。

 また、「聖徳太子」という語は、捏造した『日本書紀』や大山・吉田氏が聖人化を強めたとする奈良時代の行信や光明皇后も使っておらず、奈良時代半ばすぎになって、歴代天皇の漢字諡号を定めた文人の淡海三船が創出したか広めたとする私の発見にも、もちろん触れません。

 それに『日本書紀』が厩戸皇子を神格化していることは、歴史学者は誰でも知っていたことです。大山説が注目されたのは、不比等・長屋王・道慈が理想的な聖人像を創りあげたと論じたからです。その根本部分を否定された後になって、大山氏の著書をあげ、最近の研究成果を示さないのはなぜなのか。

 また、『日本書紀』の厩戸皇子関連記述は、「東宮聖徳、厩戸皇子、豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、(豊聡耳)法主王、厩戸豊聡耳皇子、皇太子、上宮厩戸豊聡耳太子、厩戸豊聡耳皇子命、上宮太子、上宮皇太子、上宮豊聡耳皇子、皇太子豊聡耳尊、聖皇」と記されており、箇所によって呼び方が様ざまであることが示すように、いろいろな系統の記述を寄せ集めたものであり、文章には和習、それも初歩的な語法の誤りがあちこちで見られました。

 つまり、太子は『日本書紀』の編集以前から特別視され、いろいろな方面で神格化した伝承がなされ、和習を帯びた文章による記述が既になされていたのです。唐に16年いた道慈が一人で、場所によって異なる文体と異なる呼び方を使い分け、和習混じりで書いたのではないことは明らかです。

 一冊の本の中で、「私は東京は好きではありません」、「あたし、東京は好きじゃない」、「我、東京を好まず」、「ワタシ、東京、好きないです」とあったら、同じ人が書いたとは思えませんが、「東京」と「好」という漢字にしか注目しない人はどれも同じような内容に見えるでしょうし、「好き」なのか「好きでない」のかも区別できません。

 また、「我、東京を好まず」という文については、江戸が東京と名を変えたのは明治になってからだから、これは近代に書かれたのだろうなどと考える人もいるかもしれませんが、江戸の文人は、京都に対抗し、唐代の洛陽・長安の呼び方を真似て江戸を「東京(とうけい)」と称することもありました。この語は古いはずだ、新しいはずだという思い込みで判断することはできないのです。

 吉田氏は、『日本書紀』の記述を漢文の語法に注意して文章として読むことができず、単語だけ拾ってあれこれ想像する以前のやり方のままなのでしょうか。

 また、明日香と斑鳩を斜め一直線で結ぶ幅広い太子道の発掘や、『勝鬘経義疏』と「憲法十七条」の一致点など、太子関連の新しい研究成果については、まったく触れられませんね。

 聖徳太子に関する近年の歴史学の論文は、程度の違いはあるにしても、厩戸皇子の活動を認めるものばかりであって、大山流の太子虚構説については批判する必要すら認めず、まったく相手にしていないのが実状ですが(たとえば、こちらや、こちらや、こちら)。

 あと、「鑑真の影響を受けて、聖徳太子伝を作成するようになった」(12頁)という記述も不適切です。直前で鑑真の弟子の思託に触れているように、思託そして思託と親しかった淡海三船が慧思後身説を強調して太子顕彰を推し進めたのであって、鑑真自身が伝記を作成したわけではありません。他にも問題がありますが、やめておきます。

 『日本書紀』が聖徳太子を造型したと述べた部分の後では、伝説化が進んだ伝記が寺院で語られ、絵にも描かれ、像も造られるようになり、ライバル寺院間で相手の言い分を否定ないし吸収して伝記が拡張されていったことや、太子信仰と浄土信仰が結合したこと、「天皇の代理者」という太子の性格によって太子信仰が天皇制を支える要因になったことなどが説かれています。

 聖徳太子に関わる「参考文献」としては、上で触れたように、大山氏、吉田氏、そして若い頃、両氏にお世話になった榊原史子氏(こちら)のものばかりあげており、知らないでこれらを読む人は、ここで説かれている「いなかった」説は、この10年以上、学界では相手にされておらず、最近では吉田氏自身によってさえ主張されていないことが分からないことになります。 

 吉田氏は、後代の四天王寺の聖徳太子信仰などについては、文献調査に基づく有益な論文も書いているのですから、研究者としては、過去の誤りは明確に認め、聖徳太子に関する現在の研究状況を知らせるべきですね。今回の概説は、聖徳太子は仏教興隆の最初期には活動しておらず、伝説はすべて『日本書紀』が作り出したものだという印象を与えようとする意図的な書き方をしたものでした。誤解誘導型概説と呼ぶべきでしょうね。

 最後に毛利光氏の初期寺院表を少し訂正しておきます。Ⅲ期に「木之本廃寺(百済大寺)」とありますが、舒明天皇が造営した百済大寺は現在では吉備池廃寺と考えられています。『大安寺資材帳』では、舒明天皇がまだ田村皇子であった時、臨終に近い厩戸皇子を見舞ったところ、熊凝道場を授けられ、後に百済川近くに百済大寺を建てたとしていますが、吉備池廃寺からは斑鳩寺第Ⅱ期の瓦が出土しています。

 また、表に入っていませんが、熊凝道場の後身であって、後に移転して百済大寺となったとも言われる斑鳩南東の額田部町の額安寺(額田寺)では、斑鳩寺第Ⅰ期の手彫り忍冬文軒平瓦と同じものが出ています。ということは額安寺は斑鳩寺の創建よりやや後に、その瓦を供給されて建立されたことになります。

 太子の熊凝道場→百済大寺という流れは、後代の伝説扱いされてきたのですが、太子の斑鳩寺→熊凝道場(額安寺)→百済大寺(吉備池廃寺)という流れが瓦から跡づけられるのです。また、舒明天皇が百済宮と百済大寺を平行して建てたのは、斑鳩宮と斑鳩寺の形に基づくというのは、多くの研究者が認めていることです。

 吉田氏は、斑鳩寺の創建が遅いことを示そうとして考古学の成果を調べたようですが、『日本書紀』以前の厩戸皇子の活動に関わるこうしたことは、概説では触れないんですね。

【追記:2023年3月28日】
寺の説明を補足し、太子の呼称の違いを具体的に記したほか、文体の違いを示す際、和習と同様の性格を持つ外国人らしい例を加えるなど、多少補訂しました。


近代における聖徳太子再評価のきっかけ:東野治之「聖徳太子の人物像と千三百年遠忌」

2022年12月30日 | 聖徳太子信仰の歴史

 古代について研究するには、近代における研究史を知る必要があります。というのは、自分では客観的に研究しているつもりでも、実際には近代になって形づくられたイメージを前提にし、それに合う資料を探したり、それに合わせた文献解釈をしたりしがちだからです。

 聖徳太子の場合、現在のイメージが形成されたのは、千三百年遠忌がきっかけですが、その頃の状況を調査した最新の論考が、

東野治之「聖徳太子の人物像と千三百年遠忌」
(『日本学士院紀要』第77巻第一号、2022年11月)

です。まさに刊行されたばかりです(御恵送、有難うございます)。学士院も変わってきており、すぐPDFで読めるようJ-STAGEで公開していました(こちら)。

 東野氏はまず、今日における平均的な聖徳太子のイメージとして、

A 天皇中心の政治を目指した皇太子
B 遣唐使を派遣して、隋との国交を開き、大国中国に対等外交を主張した
C 仏教・儒教をはじめとする中国文化を積極的に摂取し、古代日本の文明化を促した
D 一時に十人の訴えを聞くなど、卓越した能力の持ち主で、仏教経典の講義や注釈を行った

という点をあげ、これは主に『日本書紀』に基づいて形成されたものであり、推古天皇の即位とともに皇太子となり、「万機を録摂し」たという『日本書紀』の記述によれば、推古朝の施策はすべて太子が領導したことになるが、現在の研究では、皇太子の制度や「摂政」の職はまだなかった、多くの事業は太子と馬子に命じて行われた、有力な皇子が天皇に代わって政治をおこなうのは、斉明朝の中大兄皇子(天智天皇)が最初、とされており、太子の事績、その元となった史料が疑われているとします。

 そこで登場したのが大山誠一氏の「いなかった」説ですが、東野氏は、史料を疑うのは良いものの、疑わしさが証明されないまま積み重ねられ、なし崩し的に「事実でない」とするのでは確実な論証とは言えないと批判します。

 そして、太子の実像については、法隆寺金堂釈迦三尊像銘が後代の追刻でないことを含め、『聖徳太子ーほんとうの姿をもとめて』(岩波ジュニア新書、2017年)に譲るとし、『日本書紀』のような太子像が形成された原因を探っていきます。

 その原因については、「極めて優秀な能力を持つ皇子が実在し、将来の即位への含みを残しつつ、天皇の職務の一部を代行したという事実が実在した」ためとします。

 太子関連の資料のうち、比較的信頼度が高い『上宮聖徳法王帝説』では、太子は「王命(ミコノミコト)」と呼ばれているが、資料によって「皇子命」「皇子尊」などと呼ばれるこのミコノミコトの最初は太子であり、それは後の皇太子につながるような特別な位置を意味したと考えられる、と説くのです。

 ただ、太子が関わったのは、十七條憲法の制作、仏教の興隆、仏典の講義・注釈などに限られ、外交に直接関与した形跡は見られないため、「太子の役割は推古天皇や馬子大臣の統治に対するアドヴァイザーに終始したのではなかったか」と見ます。

 外交不関与という点は、私の主張(こちら)や塚口義信氏の最近の論文(こちら)とは異なりますが、役割をそれなりに認める立場と言えるでしょう。

 その太子は、長らく仏教面で尊崇されてきましたが、江戸時代になって儒者から批判されたのは、馬子が崇峻天皇を暗殺したことについて抗議も批判もしていないという点でした。明治時代になって、久米邦武以前に近代的な伝記研究をおこなった薗田宗恵『聖徳太子』(仏教学会、1895年)が、その弁護に努め、太子の感化があったからこそ馬子は推古天皇の意に逆らわないようになったと論じたのは、太子への反感がいかに強かったかを示すものだと、東野氏は説きます。

 その後、久米邦武の『上宮太子実録』(井洌堂、1905年)が登場し、史料批判をおこない、比較的信用できるものと、後代の荒唐無稽な伝説を切り分ける研究方法が確立されてゆきます。

 そうした中で太子顕彰の役割を果たしたのが、大正2年(1913)設立の法隆寺会です。この会が発展したものが「聖徳太子位置千三百年遠忌奉讃会」であり、さらにそれが「聖徳太子奉讃会」となっていきますが、これについては増山太郎氏編著『聖徳太子奉讃会史』という有益な本が出ています(このブログでも紹介してあります。こちら)。

 ただ、奉讃会事業のトップとなるよう頼まれた渋沢栄一が、水戸学を学んだ自分は太子は大嫌いだとして断ったものの、太子の意義を知らされ、事業の協力に転じるドラマティックな記述が見られますが、東野氏は、様ざまな史料を検討し、そのままには受け取れないとします。

 たとえば、明治時代末に水戸藩主とも関係深い水戸市の善重寺が明治の末に太子殿を再建する際、渋沢家の執侍が寄付名簿に記名押印しているため、渋沢が奉讃会やその役員の性格を確かめようとして「一場の芝居を演じてみせたのであろう」と推測します。

 これはどうでしょうかね。地元の名士として、その値の寺の寄付事業の一端をになうのと、奉讃会の会長となるのでは立場がまったく違います。ただ、東野氏は高橋良雄の日記に、内務大臣官邸の晩餐会での講演に政財界の大物たちが参加していたことなど、これまで知られていなかった史料によって募金状況を明らかにしており、有益です。

 さて、渋沢が動いて事業が進み出し、太子は「美術を始め日本文化の各方面を指導して発展させた偉人」というイメージが広まっていきます。奉讃会に参加していた高島米峰、境野哲(黄洋)『聖徳太子伝』、黒板勝美『聖徳太子御伝』などが次々に刊行されていくのです。宣伝活動は全国に及び、NHKによるラジオの全国放送も行われた由。

 この時期の活動について、裕仁皇太子が大正天皇の摂政となったこととイメージが重ねられたという推測について、東野氏はありうることとします。その太子のイメージが広まったのは、高額紙幣への太子の肖像の採用であり、裕仁皇太子の妃の父が奉讃会の会長であった久邇宮邦彦王であったことも偶然はではかったかもしれない、と東野氏は説きます。

 昭和9年から法隆寺の大修理が行われますが、その際は、文部省内に法隆寺国宝保存事業部が設置され、事務次官が部長となるという特別な体制が取られたことに注意します。

 戦後になると、太子のイメージが修正されます。平和国家・文化国家の建設を指導した人物という形となり、戦時中の天皇の詔に従えという部分の強調に代わって、「和を以て貴しとなす」の面が重視されるようになったのです。

 なお、東野氏は日本学士院の会員ですが、法隆寺官庁の佐伯定胤が僧職としてはただ一人、戦前・戦後にかけて帝国学士院・日本学士院の会員であったことも、太子を顕彰し、太子研究を支援した奉讃会と法隆寺の関係を物語るとします(実際には、佐伯定胤は唯識説の権威であり、近代的な仏教学を学んだ学者も定胤の講義を聞いた人が少なくありません)。

 東野氏は、奉讃会風な太子の捉え方を批判的に検討し直すことによって太子像の研究を進め、太子と政治の関係などを明らかにする必要を説いてこの論文をしめくくっています。


「勝鬘経講讃図」で恵慈を指で指す山背大兄と見上げる小野妹子が示す三宝の意義:田林啓「聖德太子勝鬘経講讃図解釈試論」

2022年12月22日 | 聖徳太子信仰の歴史

 この数回は、聖德太子に関する最近の考古学の研究成果を紹介しましたので、今回は美術史の論文にしましょう。

田林啓「聖德太子勝鬘経講讃図解釈試論」
(『仏教芸術』6号、2021年3月)

です。

 田林氏は、西域の仏教美術を中心に研究している研究者であって、この『勝鬘経』講讃図論文の前に、氏が所属する白鶴美術館所蔵の講讃図について、図中の三宝の配置に注意した解説を書いています。

 聖德太子の伝記を仏伝のように編年の形で絵として描くことは、早くに始まっており、8世紀には既に四天王寺で絵伝が描かれていたと推測されています。

 以後、法隆寺でも太子の絵伝が作成され、あちこちに広まりますが、『勝鬘経』の講讃は、太子の事績の中でも重要な事柄ですので、絵伝の中で描かれるだけでなく、講讃の場面だけが独立して描かれた絵が広まるようになります。12世紀には法隆寺の夢殿にも『勝鬘経』講讃図とおぼしき図が掛けられていました。

  講讃図には聖徳太子一人のものもありますが、講説を聞いている人々も描くのが普通で、その人数は3人から6人まで様ざまです。一般的なのは、太子以外に、長子の山背大兄、高句麗僧の恵慈、百済の学者の覚哿、蘇我馬子、小野妹子の計6人が描かれているものです。

 この形式で現存する最古の絵は、法隆寺と播磨の斑鳩寺に残る作品であって13世紀の作とされています。この図では、画面中央に麈尾を手にして講説する太子が大きめに描かれ、その前の机には、『勝鬘経』、柄香炉、念珠筥が置かれています。

 人物の配置としては、以下のようになっています。時計の逆回りの順でいくと、赤い袍を着た童形の山背大兄、礼盤の上に座った慧慈、緑の袍を着た覚哿、黒い袍を着て跪拝している馬子、同じく黒い袍を着て顔をあげている妹子となっており、太子と恵慈以外は皆な笏を手にしています。

              舎利容器(仏)
        太子↘   
      山背大兄    ↘   机(法)
  慧慈(僧)    ↗      ↖
   覚哿     馬子  妹子

↘ や ↖ は視線の方向です。太子は右下の妹子を見、妹子は太子を見上げており、太子は妹子に向かって講説しているように見えます。

 田林氏は、山背大兄も妹子を見ており、左手を前に出して人差し指を伸ばし、恵慈を指していることに注意します。妹子も左手の人差し指を伸ばし、恵慈を指しているようです。

 その恵慈は、太子ではなく、机を、つまりは『勝鬘経』を見ており、その先には舎利容器があると田林氏は説きます。

 恵慈は僧であり、『勝鬘経』は経典ですので「法」、舎利は仏の遺骨であって「仏」そのものですので、僧・法・仏、つまり仏法僧から成る三宝が一直線に並んでいることになります。しかも、『勝鬘経』は、仏・法・僧が別々である別体三宝と、それらをすべて含んでいてより根本的で重要な一体三宝について説いた経典であり、『勝鬘経義疏』はこれについて詳しく論じています。

 つまり、この図は、まさに『勝鬘経』の内容と対応しており、しかも、「憲法十七条」は「篤く三宝を敬え。三宝は仏法僧なり」と言われていたことと関わりあうと田林氏は指摘します(三宝のうちの僧宝の「僧」は、僧伽=サンガであって、僧団全体を指しますが、個々の出家修行者はその一員であるため、漢訳仏教圏では僧団も僧侶も「僧」と呼びます)。

 この図は、三宝のうちの僧に導かれ、教えである法に親しみ、仏に帰依するというあり方を、異時同時法によって示し、僧である恵慈の視線は、法である経典に向けられており、その先に仏にほかならない仏舎利があることを示していると田林氏は説きます。

 そして大臣である馬子が跪拝しているのは、為政者としての太子の偉大さを表しているとします。これはあくまでも田林氏の解釈ですが、絵伝は順をおって絵解きをしていきますので、その一場面をとりあげた講讃図についても、その絵の中で見ていく順序があり、その順序に意味があることは確かです。

 なお、『勝鬘経』講讃図には、鎌倉時代初期に太子に関する伝説を増幅した法隆寺顕真の考案になる「聖皇曼荼羅」もあります。これは母后・太子・膳皇后の三骨一廟の信仰が背景になっており、太子の前身である勝鬘夫人、太子の転生とされる聖武天皇、空海、聖宝、さらに顕真の先祖であって太子に仕えたと顕真が主張する調子丸、その調子丸が面倒を見た甲斐の黒駒も描かれるなど、サービス過剰のものですので、このタイプの講讃図については、別に紹介します。


中世の聖徳太子のイメージは「未来記」を残した予言者:小峯和明『予言文学の語る中世』

2022年12月01日 | 聖徳太子信仰の歴史

 日本史上、聖徳太子ほど時代によってイメージが変わった人物はいません。そうしたイメージのうち、中世に広まった一例は「予言する聖者」であって、「未来記」を残したというものです。この点を検討したのが、

小峯和明『予言文学の語る中世-聖徳太子未来記と耶馬台詩-』
(吉川弘文館、2019年)

です。

 小峯さんは、学科は違いますが大学の先輩であって、かなり後になってから研究仲間となりました(コロナ前に会ったのは、小峯さんが立教大学退職後、時々教えに行っている北京の人民大学で開催された説話文学シンポジウムの時であって、二人で大学そばのモンゴル料理店で食事して御馳走になりました)。

 『今昔物語集』研究でスタートした小峯さんは、アジア諸国の文学を比較検討し、諸国の研究者を組織していくつものプロジェクトに取り組んでいる幅広い研究者であり、力を入れていた分野の一つが中世の「予言書」です。中世には「予言書」を含む数多くの偽作文献が作られていますが、聖徳太子の作とされることが多いのです。そのため、この本の構成は、

 Ⅰ <聖徳太子未来記>の生成
  一 <聖徳太子未来記>の世界
  二 中世の未来記と注釈
  三 中世日本紀をめぐって
  四 <聖徳太子未来記>と聖徳太子伝研究
  五 <聖徳太子未来記>とは何か
 Ⅱ 「耶馬台詩」をめぐる
  一 未来記の射程
  二 「耶馬台詩」注釈・拾補
  三 「耶馬台詩」とその物語を読む
  四 未来記の変貌と再生
  五 予言者・宝誌の変成
 Ⅲ <予言文学>の世界
  一 「御記文」という名の未来記
  二 <予言文学>の視界
  三 災害と<予言文学>
  四 占いと予言をめぐる断章
  五 <予言文学>の世界、世界の<予言文学>
 『耶馬台詩』注釈資料修正
 あとがき
 初出一覧
 索引

となっています。内容が豊かすぎて、聖徳太子関連の部分だけに限っても、とても紹介しきれませんので、とりあえず、Ⅰの一の「<聖徳太子未来記>の世界」だけ、紹介しておきます。

 まず、聖徳太子については早くから伝説化されていました。平安中期の『聖徳太子伝暦』がそれらを集成してさらに伝説化を進め、以後は『伝暦』の注釈の形で太子伝が次々に書かれます。そうした太子伝の中では太子の予言なるものが強調されており、その部分だけを単行したり、更に拡張した「未来記」の類が量産されるようになります。

 また一方では、『日本書紀』では推古28年(620)に太子が馬子とともに歴史書を編纂したと記されているため、その歴史書と称するものも平安時代から出現します。その代表が十世紀頃に成立した『先代旧事本紀』であって、この書は『日本書紀』と並んで尊崇され、よく読まれました。これも、「未来記」の性格を持つ偽書です。

 そうした「未来記」の中でも有名なのが、『四天王寺縁起』と呼ばれる「荒陵寺御手印縁起」です。寛弘4年(1007)に四天王寺の慈運が金堂内で発見したとされるものであって、「私の死後に、様々な身分で生まれ、仏法を興して人々を救済する者は、我が身の再来である」と説き、寺の保護などを命じたものです。

 良く知られているように、太子の直筆だというこの縁起の末尾には「皇太子仏子勝鬘」と署名が記されていました。つまり、『勝鬘経』を説いた勝鬘夫人の生まれ変わりであって、皇太子の身で『勝鬘経』を講義した聖徳太子の予言書が出現したということになりますので、大変な話題となりました。

 むろん、835年に落雷で五重塔が損壊し、960年の火事で伽藍の建物の多くが焼失するなどの事件が続き、経営が苦しくなっていた四天王寺の僧が、注目を集めて支援を得られるよう一芝居うったのです。

 この時期に、上記のイメージでとらえられ、この予言書を見て四天王寺を援助してくれそうな有力者と言えば、それは藤原道長であって、実際、道長は太子の後身とされます。それ以前にも、聖武天皇、空海、聖宝などが太子の後身とされていました。

 小峯さんはこの章では、『四天王寺縁起』については詳しく論じてませんが、榊原史子『四天王寺縁起の研究』によれば、四天王寺を支援して何度も訪れ、聖徳太子の後身とされていた聖武天皇の法名が「勝満」であるため、「仏子勝鬘」という署名は、その「勝満」と勝鬘夫人の「勝鬘」をかけてあるのだろうとのことです。

 この偽文書が有名になったため、聖徳太子が「勝鬘」と名のって善光寺如来とやりとりをしたという偽手紙も作成されるようになったのですね。 

 この手紙の場合もそうですが、次の偽書の登場の舞台は、磯長の聖徳太子廟だと小峯さんは説きます。天喜2年(1054)に、太子廟の近くで忠禅という僧が石塔を建てるために地を掘らせていると、長さ1尺5寸、幅7寸ほどの石の箱が出てきたため、開けてみると太子の「御記文」、すなわち寺塔を建てよと命じた予言書であったため、早速、四天王寺に知らせて検証された由。つまり、太子廟と四天王寺は仲間なのですね。

 この文書は、後に忠禅のでっちあげであることが判明し、忠禅は「誑惑聖」と呼ばれるようになりました。ただ、忠禅の偽作であることを強調したのは法隆寺であるため、この事件の背後には、連携していた四天王寺・太子廟側と、これに対抗する法隆寺側の争いがあった、というのが小峯さんの推測です。

 太子廟からはその後も未来記が出現しており、その一つである瑪瑙石碑文を実見した藤原定家は、「愚暗の雑人の筆」と断定したそうです。

 しかし、偽文書は特定の人々、あるいは世間一般の人が「そうあってほしい」と願っていること、あるいは「そうだったのか」と納得しやすいことを書いて作成するものですので、現代の様々な陰謀論と同じで、多くの人が飛びついて信じ込むのです。『四天王寺縁起』にしても、疑う人はいませんでした。

 ここまで来ると、太子の未来記は四天王寺や太子廟とは関係なく、いろいろなところから突然出現するようになります。自分たちにとって都合の良い主張を古びた形の文書として製作し、「太子の未来記が出ました」とか、「太子の未来記に〇〇と記されていたと聞いています」などとやれば良いのですから。

 そうである以上、所領争いをしている寺などで、自分の寺の領地や財産に関する聖徳太子の未来記が次から次へと出現するのは当然のことでしょう。時代とともに、さらに広範な未来記が登場するようになります。

 比叡山の口伝法門によると、最澄が比叡山に登る前に、太子が比叡山に堂を建立していたとされていますし、仏教側でも神祇思想が強まり、大日如来と天照大神の一体説などが出てくると、「聖徳太子は天照大神の再誕だ」という主張も登場します。

 太子の未来記は、太子伝のうちでも説かれ、単行書として世間に広まっていきました。何でもかんでも太子が予言していたとされるようになったのです。平等院建立も太子が予言しており、平安京遷都も太子が予言していたとされます。こうした太子伝が絵解きのテキストになります。

 そういえば、11月24日に国立能楽堂で瑞泉寺のご住職によって、600年ほど前に作られた瑞泉寺の太子絵伝(のレプリカ)の絵解きがなされましたが(こちらと、こちら)、そこでも太子の予言について触れられ、太子と善光寺如来の手紙のやりとりが説かれていました。

 太子の未来記は大量に流布しており、覚一本の『平家物語』でも、天皇が都落ちしていったことを歎いた箇所では、「聖徳太子の未来記にどう書かれていたか、見てみたい」と言われているほどです。そうした記述を読んだ人の中には、「では、自分が『平家物語』のその巻にそうした未来記を書き加えよう」と思う人が出てくるかもしれません。

 このように、「物語の現在が未来記によってささえられ、意味づけられる」のであって、「中世の歴史記述が未来記ぬきになりたちにくいことを示している」ことに小峯さんは注意します。

 そうした未来記は近世になっても登場しますが、江戸時代の特徴は、写本で伝えられるだけでなく、木版印刷によって出版までなされるようになったことでしょう。たとえば慶安元年(1648)刊行の『聖徳太子日本国未来記』では、魔王が三人の悪魔である一遍・日蓮・親鸞を派遣したと述べています。

 当然ながら、旧仏教側の作です。翌年に刊行された『聖徳太子日本国未来記破誤』は、その主張に反論しているため、新仏教側の作であることは明らかですが、小峯さんが注目するのは、年号が合わないとか、基づいている資料が偏っているなどといった合理的な批判に基づいて、聖徳太子の作ではありえない、とする指摘がなされるようになったことです。

 つまり、近代的な歴史研究に近いものが生まれ始めているのです。「未来記そのものがもはや役割を終えつつある」のであって、「それはそのまま中世という時代文化の終わりを予兆するものであった」と小峯さんは説きます。

 危機の状況において出現する未来記は、「乱世になるたびごとに呼び起こされ更新され、戦乱の終局とともに役割を終える」のです。

 むろん、これ以後も未来記、ないし未来記の性格を持つ偽作文書は作られ続けていますが、小峯さんは本書では、作成された時代状況を重視してか、あくまでも「未来記」とか「仮託」といった言い方をしており、偽文書・偽書・偽作などとは称していません。

 こうした態度は、漢訳経典のうちのかなりの部分を占める偽経についても同様であり、小峯さんは「擬経」と呼ぶことを提唱しています。私もそれに賛同し(こちら)、拙著の『東アジア仏教史』(岩波新書)では「偽経」に代えて「擬経」という表現を用いました。

 ただ、近世から現代にかけて出現した、あまりにも作為が目立つ卑俗な文献、特に害がある文献については、「偽作」「偽書」と呼ばざるをえませんが。


太子虚構説に全面賛成も全否定もしない苦衷の聖徳太子信仰史本:榊原史子『聖徳太子信仰とは何か』

2022年02月13日 | 聖徳太子信仰の歴史
 大山氏の聖徳太子虚構説については、この10年ほどははっきり賛成する学術論文は見たことがなく、学界では相手にされていない状況です。その虚構説に対する諸研究者の批判を簡単に紹介する一方で、虚構説を明確には支持しないものの「一般にも影響を与え……賛否両論が巻き起こった」(24-25頁)という過去形で取り上げ、否定説よりやや詳しく紹介している本が出ました。

榊原史子『聖徳太子信仰とは何か』
(勉誠出版、2021年)

です。12月28日刊行となってますので、まさに出たばかりです。

 この本は、冒頭に書いたように、大山説にはっきり賛成しているわけではなく、諸説様々であって「どの説を信じるかという話になってくる」と述べているのですが、虚構説を大山批判より詳しく説明する形になっていますので、そちら寄りかと思われるような書きぶりになっています。

 これは榊原氏の経歴と関わるように思われます。榊原氏は、聖徳太子信仰、特に四天王寺における太子信仰の研究者であって、このブログでも論文を紹介したことがあり(こちら)、そうした成果をまとめた研究書、『『四天王寺縁起』の研究―聖徳太子の縁起とその周辺』(勉誠出版、2013年)も出しています。

 榊原氏は、『ヒストリア』176号(2001年9月)に『四天王寺縁起』の論文を載せた後は、大山誠一編『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)に「『四天王寺縁起』の成立 」、大山氏が勤務していた中部大学が出した『アリーナ』5号(2008年3月)の聖徳太子特集に「『聖徳太子伝暦』小考」、大山氏の虚構説の盟友である吉田一彦氏編集の『変貌する聖徳太子』(平凡社、2011年。この本は、ブログで紹介しました。こちら)に「『四天王寺縁起』と「聖徳太子未来記」」を掲載しています。

 つまり、榊原氏がまだ若く、学術誌にあまり論文を掲載できなかった時期に、大山氏や吉田氏に評価されて論文を書かせてもらっており、恩があるのです。そのうえ、これらの本や雑誌に聖徳太子関連で書いている人たちのうちの半分くらいは、当時は太子虚構説に賛成、ないしそちら寄りの立場で書いていて盛り上がっていましたね。

 そうした経緯があるものですから無理もないのですが、この本では両論並記であるものの、大山説の紹介はかなり長い一方、批判派ないし批判となりうる説については簡単に述べており、森博達さんの『日本書紀の謎を解く』(1999年)にしても、「憲法十七条」は天武朝以後に制作されたものであり、「憲法十七条」を含むβ群は文章博士の山田御方によって記述されたとする説が、2行で簡単に書かれているだけです。

 大山氏は当初は森さんのこの本を読んで自説の援軍になると喜び、「聖徳太子関係史料の再点検」(『東アジアの古代文化』104号)では、「森氏の研究の緻密さに感嘆した」と書き、それまで太子関連記述は道慈の筆としていたことを改め、「御方が書いた推古紀に道慈が手を入れたものと考えている」と書くに至っています。

 ただ、森氏が「日本書紀の研究方法と今後の課題」(『東アジアの古代文化』106号。後に『日本書紀の真実』中央公論社、2011年に掲載)において、大山氏の道慈作文説を文体の違いに注意しない「妄説」「空想」「虚妄」として厳しく批判すると、大山氏は一転して森氏の説を粗雑なものとして批判するようになったのですが、そうしたことは、この榊原氏の本では触れられていませんし、『日本書紀の真実』も紹介されていません。

 大山説を批判した私の『聖徳太子-実像と伝説の間-』(春秋社、1996年)は、割と長めに紹介されています(有難うございます)。

 榊原氏は、冒頭に書いたように、四天王寺を中心とした太子信仰の展開の研究者であって、聖徳太子そのもの研究者ではなく、またそれまでの経緯もあるため、上記のような書き方はやむをえないと言えばやむをえないでしょう。ともかく、榊原氏自身が、虚構論や批判説についてどう考えているか明確でない書き方になっており、苦衷がうかがわれます。

 ただ、律令制度を充実させていくためには、「中国的な聖天子像」の人物が必要であり、『日本書紀』において厩戸皇子が「そういった聖天子とされ、彼に関する記述がなされたことは間違いないであろう」(32頁)という総括は間違いです。

 儒教の根本の徳目は、「仁」であり「孝」です。ですから、『日本書紀』が尊重する仁徳天皇などは、「仁」であり「孝」であったと明記されています。これに反して、このブログで何度も書いているように(こちら)、厩戸皇子は「仁」とも「孝」とも言われていないどころか、崇峻天皇を暗殺した蘇我馬子とともに政治をし、ともに国史を編纂したと記されています。

 このため、江戸時代になって儒者たちから極悪人として批判されたのです。そのうえ、私の最近の典拠の発見が示すように、「憲法十七条」は「礼」を重んじていながら、礼と並ぶ必須の「楽」に触れず、「孝」にも触れません。こんな儒教はありませんね(こちら)。

 ただ、そうした問題が目立つのは、「第一章 聖徳太子信仰の成立」であって、以下、次のような章が続きます。*は目次に基づく私の説明です。

 第二章 聖徳太子信仰の霊場  *法隆寺と四天王寺
 第三章 法隆寺と四天王寺の対抗意識 *次々に作られる太子伝と関連文献
 第四章 霊場の増加  *太子が創建したとされる寺院、関係する神社仏閣
 第五章 太子への思い *初期から鎌倉時代頃までの僧俗の太子信仰
 第六章 平安時代の文学作品における聖徳太子 *『三宝絵』『源氏物語』
 第七章 聖徳太子信仰の美術  *絵伝と太子像
 第八章 太子講        *太子講の由来と実状
 第九章 文化の創始者聖徳太子 *建築・華道・製紙・お香・伎楽
 おわりに   *現代までつながる太子信仰の諸相、文化への影響

と並んでいます。聖徳太子が建てたとか、太子のために建てたと言われる寺が多いのは有名ですが、聖徳太子を祭神とする神社や、聖徳太子が創建したと伝える神社の存在など、興味深い情報が紹介されており、私自身も知らないことや忘れていたことがかなり記されていました。太子信仰の流れをつかむための入門書としては有益な本となっています。

 聖徳太子信仰が日本文化に与えた影響はこのように絶大ですが、学校で「聖徳太子」という名を教えないと、こうした歴史が失われることになるのです。歴史上の人物としての聖徳太子についてどう考え、どう評価するかは、また別な問題です。 

神道の祖とされた聖徳太子:吉田兼倶の偽作『唯一神道名法要集』と江戸期の偽作『聖徳太子五憲法』

2021年11月21日 | 聖徳太子信仰の歴史
 四天王寺講演では、聖徳太子のイメージの変遷の激しさに触れましたが、意外なのは、「憲法十七条」は「神」という語すら出てこないため、江戸時代には国学者などから非難されたのに、一方では「神道の祖」とする動きが中世以来あったことでしょう。

 中世は本覚思想が進展して様々な場面で用いられた時代、そして、偽文書が山のように作られた時代でした。その中でも、本覚思想を応用して偽作の神道文献を作りまくり、吉田神道(宗源神道、唯一神道)を確立して後代に影響を与えたことで知られるのが、吉田兼倶(1435-1511)です。

 朝廷の祭祀に関わる卜部氏であった兼倶は、自邸が放火されたうえ、代々奉仕してきた京都の吉田神社が応仁の乱で焼かれたため衝撃を受け、新たな神道の構築をはかります。日野富子の支援を得て吉田山に新たに斎場所を設けて、ここで祀る太元神こそ全国の神々の「宗源」だと称し、文書や系図を盛んに偽作して神道界のトップに立つに至ったのです。

 先祖である卜部兼延の作と称して書いた『唯一神道名法要集』(1486年)では、推古天皇の時、上宮太子が「我が日本が種を生じ、中国は枝葉を現わし、天竺は花実を開いたため、天竺の仏教も中国の儒教も、我が国の「神道の分化」であって、花は落ちて根に帰るため、仏法は根本である日本に戻ってきて盛んになった」と密かに奏上した、と述べています。

 「根葉花実論」、あるいは「枝葉花実論」と呼ばれるこの主張は、卜部氏出身の天台宗僧侶であって伊勢神道を重んじた慈遍(15世紀)が『旧事本紀玄義』で既に述べていたことでしたが、兼倶は聖徳太子が述べたことにしたのです。仏や菩薩が辺地である日本を教化しようとして、その地の人々に合わせるために神として現れたとする本地垂迹思想は早くからありましたが、中世になるとそれが逆転したのです。

 この地の人々の機根に合っているのは仏菩薩よりもむしろ日本の神だという主張が強まり、神の地位が高まっていきました。さらに、蒙古襲来の際、神風が吹いたとされ、日本の神々の権威が高まった結果、日本の神が根源であって、その化身がインドに現れたのが釈尊や諸菩薩だとする逆本地垂迹思想が広まっていくのですね。

 こうした思想を説く人、とりわけ神道家にとって困ったのは、仏教を盛んにして尊崇されてきた聖徳太子が、「憲法十七条」では神についてまったく説いていないことでした。そこで、『唯一神道妙法要集』のような言説が出てきたのであって、これが江戸時代になるとさらに進みます。聖徳太子は「神」の語が見られない通常の「憲法十七条」だけでなく、神道重視を説いたタイプの「憲法十七条」も制定していたとする話がでっちあげられたのです。

 それが偽書と判定されて天和元年(1681)に関係者が処罰され、版木が焼かれた『先代旧事本紀大成経』です(こちら)。

 『大成経』のうち巻三十三「帝皇本紀 下之上」、つまり推古天皇の巻では、推古六年冬十月に越の国から一頭の大きな白い鹿が献上されたところ、左右の角が合わせて17に分かれており、それぞれの角の付け根から「琴」とか「月」とかの字が合計17読み取れたとします。

 そこで、皇太子は、これは推古天皇の「仁化」が四海に及んでいるため、天がこうした瑞祥を示したのだとしつつも、まだ及ばない点があるため「仁徳」をおこなうべきだと奏上したため、天皇はそれに従います。

 さらに、『日本書紀』の記述と同様、推古12年に皇太子が「憲法十七条」を自ら初めて作ったとするのですが、五篇あったとします。つまり、「通蒙憲法」「政家憲法」「神職憲法」「儒士憲法」「釈氏憲法」が創られたとされるのです。

 写本が広まるうちに、内容を知りたいという読者の声が寄せられたせいか、それらの「憲法」が巻七十の「憲法本紀」において述べられるのです。近世・近代の偽作もそうですが、偽作というものは、こういう文献が存在していてほしいと願う人たちの要望に応える形で次々に作成されていきますからね。

 五憲法の筆頭の「通蒙憲法」は、『日本書紀』に掲載される「憲法十七条」と共通する部分が多いのですが、順序も内容も変えてあり、第二条の「篤く三宝を敬え」は末尾の第十七条に置かれて「篤く三法を敬え」とされ、「三法とは儒・仏・神なり」と断言されています。中国の儒・仏・道の三教一致説影響もあって江戸時代に盛んになった三教一致説を、神道を含む形に変えたものですね。

 この「憲法本紀」の五憲法を単行したのが『聖徳太子五憲法』であって、様々な版やら注釈が刊行されています。これこそ、都から離れた斑鳩の地で「世間虚仮」とつぶやいた聖徳太子を敬慕しつつ荒唐無稽な伝説を批判した小倉豊文が、真実の太子の姿を歪めるものとして最も嫌ったものでした。

 しかし、禁書となっても長く読まれており、神道が復活した明治初期などは大人気となり、通常の「憲法十七条」よりたくさん出版されていました。現代でも信者がいることは、「「お客様は神様です」の三波春夫が偽作版「憲法十七条」の礼賛本を書いた」という記事で述べ、『大成経』成立の背景についても簡単に紹介しておきました(こちら)。

 その「神職憲法」の第一条は、「神道は三才の本にして、万法の根なり。宗源、天地を成し……」という言葉で始まっています。「根」という言葉が示すように、「根葉花実論」に基づいていること、吉田神道(宗源神道)が根本とした「宗源」の語を用いていることから見て、兼倶の主張を受け継いでいることが分かります。

 不思議なのは、この『大成経』を尊重した僧侶たちが多く、禅宗の僧が目立つことです。黄檗宗の潮音道海(1618-1695)などは、すっかりほれこんで木版での刊行事業の中心となっており、処罰されています。

 その潮音は聖徳太子を尊崇し、寛文10年(1670)に仏教の立場で注釈した『聖徳太子十七条憲法註』を刊行していました。潮音は神道についても調べており、上宮太子が根葉花実論を説いたとする兼倶の『唯一神道名法要集』を読んで関心を持っていたのです。そのため、その後で『五憲法』を見せられると、これこそが太子の真の意図だったのだと感激し、刊行に尽力したのですね。

 要するに、儒学者たちからの仏教批判、それも聖徳太子批判がなされていた時期にあって、自分が望むような儒教や神道などの諸教和合の内容を太子が述べてくれていた文献であったため、偽作かどうか疑おうともしなかったのす。

 冷静に読めば、推古朝にはありえない言葉が出てくることが分かるはずですが、まさに「目がくらんで飛びついた」としか言いようがありません。そのうえ、『大成経』の偽作者ないし偽作者と関係が深かったとされる長野采女は、カリスマ性があったようで、潮音は采女を尊信するようになっており、采女から神道潅頂を受けるに至っています。

 この点は、各種の大蔵経を比較して高麗大蔵経の正確さを指摘した浄土宗の学僧、忍澂(1645-1711)も同じであって、采女から神道の伝授を受けています。また、個性的な思想家として知られる安藤昌益(1703-1762)は、『大成経』を全面的に尊重してはいなかったらしいものの、その『自然新真営道』では、自説の補強となる箇所に着目して引用していることが指摘されています。自説に有利な内容が書かれていると、どうしても真偽の判定が甘くなるのです。怖いですね。

【付記:2021年11月25日】
『大成経』に関する記述を一部削除しました。