聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

聖徳太子墓は岩屋山式石室: 陵墓調査室「聖徳太子 磯長墓の墳丘・結界石および御霊屋内調査報告」

2011年05月31日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子の墓所とされる磯長墓は、大阪府南河内郡太子町太子にあり、バスや車が行き来する道路沿いに位置しているため、その道を少し歩くと、「太子土地開発」とか「太子運送」といった会社の看板が目につきます。「太子学習教室」という塾もありました。太子廟の地としては似つかわしくないようでもあり、またいずれも太子伝承からすればぴったりでもあるようなのが、面白いところです。さすがに、「太子乗馬学校」とかは無かったですが……(片岡山付近に、「片岡山着付け教室」とかあるだろうか)。

 磯長廟が本当に聖徳太子の墓かどうかに関する諸説は、既に紹介しました。では、磯長廟を管理している宮内庁の見解はどうなのか。その宮内庁の書陵部陵墓課陵墓調査室が最近行った調査の報告が出ていますので、紹介します。

陵墓調査室「聖徳太子 磯長墓の墳丘・結界石および御霊屋打調査報告」
(『書陵部紀要』第60号、2009年3月)

 冒頭には、こうあります。

 「径52~54m、高さ約7mの円墳と見なされることが多いが、近年、二段築成で下段を多角形、上段を径35mの円形と見る見解や八角墳の可能性も指摘されている。明治時代初期まで横穴式石室が南に開口していたことが知られている。現在は石室は閉塞され、唐破風の屋根を持つ御霊屋が入口部を覆っている」

 宮内庁の部署としていろいろな制約を受けながらも、可能な範囲で「近来」の諸説に答えようとした、ということでしょうか。浄土経典を刻した結界石や御霊屋内の石灯籠などに関する調査報告が詳しいものの、それらは江戸時代のものなので、ここでは省かせてもらいます。

 従来は等高線1m間隔の地形図がありましたが、平成17年以降の調査では、「スケール 1/100、等高線間隔25cmとして原図を作成した」由。それによれば、各段とも西側の残存状態が良く、3段築成の円墳となっていて、中でも第三段の等高線は「極めて精美な円形」となっていたそうで、詳しい図が付されています。

 三つの棺をおさめた石室そのものは閉鎖されており、今回も内部の調査は行っていません。ただし、玄室前の羨門部については実測しており、明治12年に宮内省がこの墓を修理した際の「聖徳太子磯長墓実検記」や、それに基づく研究との照合がなされています。その結果、「実検記」の精度の高さが再確認されたとのこと。

 ここで注目されるのは、

(1)壁面は丁寧に磨かれた花崗岩の切石
(2)石室入り口に向かって側壁がゆるやかに開いている
(3)天井石の先端部斷面が、屋根状に加工されている
(4)東壁は、天井石を支える側壁が1段でなく2段で築かれている

という特徴があり、これらはいずれも「岩屋山式石室、中でも指標となった岩屋山古墳や同一規格とされるムネサカ第1号墳の石室と一致する」という点です。「推測の域を出るものではないが、あと1~2石分南に延びると、推定される全長は16mを超えてくると考えられ、岩屋山古墳の石室全長とされる16.8mに近い規模になる可能性のあることに注意しておきたい」と記されています。

 墳丘は、岡の斜面を切り開いて造成しているため完全な円形ではなく、南北が約43m、東西が約53m、高さ約11mであって最高所は北側に寄っており、南北は非対称。3段築成の円墳であって、墳丘の南半部の裾は精美な円形を呈していた可能性があり、玄室奧壁はほぼ墳丘頂部の直下に位置すると推定されるとされます。そして、石室の特徴は、岩屋山式石室の特徴と一致する、というのが結論です。

 岩屋山式石室の一つであることは、白石太一郎氏の着実な論文、「岩屋山式の横穴式石室について」(『ヒストリア』第49号、1967年12月)などにより知られていましたが、今回の調査で再確認されたことになります。となると、7世紀第Ⅱ四半紀頃が中心であって第Ⅰ四半紀にさかのぼる可能性もあるとされる一連の岩屋山式石室、とりわけ、このタイプの基準とされ、皇極(斉明)天皇・孝徳天皇の母である吉備姫王(-643)の墓所とも言われる岩屋山古墳との先後関係が問題になりますね。

法隆寺釈迦三尊像銘と野中寺弥勒像銘: 鈴木勉「上代金石文の刻銘技法に関する二三の問題」

2011年05月28日 | 論文・研究書紹介
 釈迦三尊像銘については関心を抱いている人が多いため、前回の続きです。

鈴木勉「上代金石文の刻銘技法に関する二三の問題」
(『風土と文化』第5号、2004年3月)

 中国の金文・石文には、筆画に明らかに肥痩や曲直が見られます。ただ、それより前の時代に亀甲や獣骨に彫られた文字は線彫り、と見るのが通説でしたが、鈴木氏はそれを否定します。精密調査をしたところ、筆画の溝底部は単純なV字型でなく、文字の輪郭をまず彫って、その後で輪郭の中をさらう「浚い彫り」の技法が用いられていることが確認できたためです。

 つまり、中国では早い時期から表現力のある彫り方がなされていたのですが、氏は、辺境ではもっと素朴な彫り方が採用されることがあり、中央でも、売地劵、金銅仏の造像銘、一部の印章などでは、三次元性・四次元性を捨てた刻銘が見られることに注意します。

 さて、日本では、前回の記事で紹介した第一期、すなわち、初期の仏像銘や墓誌などは、文様を刻むのと同じ線彫り(毛彫り)の技法で彫られています。このため、縦画と横画で太さを変えるようなこともありません。

 第二期には、筆文字に近い表現をめざすようになります。たとえば、船王後墓誌では、横画に最初にたがねを入れる際、左上約30度から45度くらいの角度で入れ、ついで横方向にたがねの進路を変えるといったことをしているのです。ただ、それでも全体は直線的であって、抑揚もありません。

 第三期になると、毛彫りでありながら、筆文字に近い形態で彫れるようになったうえ、たがねならではの鋭ささえ表現し、筆の動きを見事に表現するに至ります。

 ところが、その日本に刻銘の技法を伝えた朝鮮では、毛彫りの技術は発展しなかった、と氏は説きます。つまり、金銅仏への毛彫り刻銘技法は早い時期に中国から伝えられたものの、初期の段階の技法がそのまま長く用いられ、後になって、新たに伝わった技術、つまり、金石文で用いられていた浅い「浚い彫り」に移行したと推定するのです。

 これに対して、日本では毛彫り刻銘の技術が継承され、極度に発展したところで急に消えたと見ます。例外は、毛彫り法によっていない「長谷寺法華説相図銘」(686、698、710年説有り)と、僧道薬墓誌(714年)です。

 まず、「長谷寺法華説相図版銘」は、中国由来の浚い彫り技法によって初唐の書風を表現しているため、「朝鮮半島を経由している可能性を含めて中国系の工人と僧が関わったことは容易に想像がつく」ものの、我が国では継承されなかったとします。

 もう一つの僧道薬墓誌は、「たがねの打ち込み」による刻銘であり、やわらかい銀板とはいえ、「横画を3回のたがねの打ち込みで表現してしまう」もので、他に例がない由。

 氏は、山代真作墓誌の復元研究にあたって、五條市立五條文化博物館と共同研究し、数十回の試作を経て、現代の鋭角的な毛彫りたがねと違い、飛鳥・奈良時代の刻銘のような柔らかな線を出せる「飛鳥様毛彫りたがね」を復元制作しています。

 では、問題の釈迦三尊像光背銘と薬師仏光背銘はどうか。氏は、1997年8月に調査する機会を得たものの、法隆寺側の突発的な事情で至近距離からの観察ができなくなったため、床からミュージアムスコープ(単眼望遠鏡)によって観察したそうです。

 それによれば、釈迦像光背の場合は、縦横約33センチの領域に、14字14行の字が彫られており、銘文の外側の天地左右10センチくらいを境にして、表面の状態が異なっており、外側は荒い鋳肌のままであるのに対し、刻銘の領域は平滑に仕上げられており、しかも光背の他の部分とは段差があるように見えたそうで、同行の彫金師、松林正徳氏にも確認してもらった由。

 銘文の面周辺に段差があるように見える理由は、(1)拓本採りを繰り返したことによる黒光り、(2)刻銘の前か後で研磨した結果、(3)鋳造工程の必然でそうなった、という三種の可能性が考えられるとします。そして、鋳造上の理由に基づくものであって、実際に銘文周囲に凹凸があるなら、「ろう製原型を使った埋け込み型」が考えられると述べます。

 というのは、氏は、興福寺銅灯台銘(816年)、西光寺鐘銘(839年)、栄山寺鐘銘(917年)など、上代の陽鋳銘のいくつかが、蜜ろうを使って文字の原型を作る「埋け込み」型の技法で作られたことを指摘したことがあるためです(鈴木「栄山寺鐘銘「ろう製文字型陽鋳銘」とその撰・筆者について」、『橿原考古学研究所紀要 考古学論攷』22冊、1998年)。この方式だと、ろう製原型に粘土をかぶせて作った文字部分だけの鋳型を焼成した後、本体の鋳型に「埋け込む」ため、多少の凹凸が生まれることになります。

 氏はさらに、「ろう製原型を使った埋け込み型」で鋳造した場合、鋳造後に仕上げ加工として浚い彫りをすれば、たがねの切れ味の鋭さが現れる可能性もあるとしています。

 ただ、氏の釈迦三尊像光背銘調査は、遠くからの観察にとどまっていた以上、そうした複数の可能性が考えられるとしておくほかないだろう、というのがこの論文の結論です。

 なお、同論文では、野中寺弥勒菩薩半跏増銘の問題の箇所についても、論じています。年代を決めるうえできわめて重要な要素であり、「天皇」の語の登場時期にも関わる「丙寅年四月八日大■癸卯開」という部分のうち、■の字については、「旧」と読む説と「朔」と読む説とがあって論争が続いており、「旧」説の方が有力なようですが、鈴木氏は、「朔」を正しいとします。

 その理由は、この銘文では「日」「口」「目」「百」など四角く囲む形の字には「はね」を持つものは無いのに対し、この字だけ、わざわざたがねを入れ直して字の右下に「はね」が付いた「月」の形になっているためです。これは、「月」であることを意図的に示そうとしたものだ、と氏は説きます。結論としては、藪田嘉一郎、堀井純二氏などの説と同じですが、美術史や日本史の研究者ではなく、刻銘技術そのものの研究者の見解ということで、紹介しておきます。

釈迦三尊像・薬師像の刻銘の疑問: 鈴木勉「上代金石文の毛彫り刻銘技法から見る我が国の『流れ』の文化」

2011年05月24日 | 論文・研究書紹介
 法隆寺金堂の釈迦三尊像とその銘文については、論文が山のようにあり、諸説様々です。ただ、間近で観察した東野治之氏が「ほんとうの聖徳太子」(『ものがたり 日本列島に生きた人たち〈3〉文書と記録 上』、岩波書店、2000年)などにおいて、光背裏には銘文を入れるための平滑な面があらかじめ準備されており、そこに鍍金が残っていることから見て、造像と刻銘は同時、と論じて以来、この銘文は信頼できるとする研究者が増えました。

 これに対して異論を唱え、筆文字の筆致を再現した釈迦三尊像銘の巧みな「流れ」の表現は、この銘がたがねによる毛彫りで刻されたとしたら、小治田安万侶墓誌(七二九)や山代真作墓誌(七二八)、行基骨蔵器銘(七四九)など、「神技に近いほどの技のさえを見せ」、技術が頂点に達した時期の作に近いと主張しているのが、

鈴木勉「上代金石文の毛彫り刻銘技法から見る我が国の『流れ』の文化
--法隆寺金堂釈迦三尊・薬師座像両光背銘の刻銘時期をめぐって--」
(『書論』第35号、2006年10月)

です。

 刻銘の技法の研究者である鈴木氏は、この問題について、「江田船山古墳出土大刀銀象嵌銘「三寸」と古墳時代中期の鉄の加工技術<付説:法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の「尺寸」と「ろう製原型鋳造法」について>」(『橿原考古学研究所紀要』第24冊、2003年)や「上代金石文の刻銘技法に関する二三の問題」(『風土と文化』第5号、2004年)その他数本の論文で論じています。

 毛彫り刻銘は線彫りとも呼ばれ、一度の加工で一本の文字線を形成するのに対し、さらい彫り刻銘は、一本の文字線の輪郭を細く線彫りしたうえで、その内側をさらい取るものです。このため、毛彫りでは「流れ」を、つまり、字の勢い・動きを表現できるものの、元の文字の形に似せるのは限界があります。さらい彫りはその反対で、元の文字の形は忠実に再現できる一方、筆文字の勢いや動きを表現するのは困難となるそうです。そこで、氏は次の三期に分類します。

第一期(導入期):文字線の肥痩を意識しない「二次元性文字の時代」

第二期(進化期):筆文字に似せて彫るよう努力した「三次元性文字の時代」

第三期(完成期):線彫り刻銘技法の「三、四次元性文字の時代」

 そして、第一期は、6世紀後半から7世紀半ばとし、法隆寺甲寅年(594)釈迦像光背銘、同辛亥年(591)観音菩薩立像銘、野中寺弥勒菩薩半跏増銘をあげます。直線的で素朴な字ですね。

 第二期は、7世紀後半から8世紀初めであって、小野毛人墓誌、船王後墓誌、長谷寺観音菩薩立像銘などを例とします。「たがねの方向を強引に変えて、墨だまりを表現しようと」した字です。

 第三期は、8世紀初めから8世紀後半であり、興福寺禅院鐘銘、山代真作墓誌(728年)、小治田安万侶墓誌(729年)、石川年足墓誌などがあげられます。この時期に至ると、筆文字にも負けないほどのすぐれた表現がなされ、以後、これほど高度な刻銘は見られなくなるとされます。

 鈴木氏は、こうした変遷から見て、薬師像銘は、第二期であって、船王後墓誌に近いとします。そして、釈迦像銘は、早くても第二期から第三期にかかる頃とし、最も近いのは小治田安万侶墓誌(729年)だと主張します。

 ただ、氏は最初の論文の時から毛彫り以外の可能性も示唆しています。というより、東野氏は2000年から釈迦像銘は「ろう型鋳造」の技法で作られた可能性の指摘を始めているが、自分は1997年に橿原考古学研究所と共同調査した際、事情で不十分な観察しか出来なかったが、「ろう型原型を使った埋け込み型」の技法で作られたのではないかと考え、同行した所員と法隆寺に説明し、再調査のお願いをしたという点を強調するのです。

 そして、鍍金は何度もやり直しができるうえ、「鍍金の痕跡」を見たのは東野氏一人だけであって写真が示されていない以上、客観的な証明にはならないと主張しています。

 この問題については、双方に言い分があるでしょうが、いずれにせよ、鈴木氏は、釈迦像銘の精密調査の実施と検証のための復元実験の必要性を、複数の論文で再三訴えていますので、そうした調査がなされるまでは、この議論は続くことでしょう。

「日出処」を国書で用いた梁代の先例: 趙燦鵬「南朝梁元帝《職貢図》題記佚文的新発現」

2011年05月21日 | 論文・研究書紹介
 「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」という煬帝あて国書は、長年、議論の的となってきましたが、『大智度論』などの仏典では、「日出処」は東、「日没処」は西を指す言葉として用いられていることは、東野治之氏が早くに指摘されたところです。

 つまり、この語は仏教の表現だったのです。ただ、この語を倭国より先に国書で用いていた国があったことが、明らかになりました。中国史上最も仏教熱心な皇帝であった梁の武帝に対して、西域の小国の王が送った国書の中に「日出処」の表現が見えることが中国の最近の論文で指摘されていると、東洋史の石見清裕さんから教えもらいました。

 趙燦鵬「南朝梁元帝《職貢図》題記佚文的新発現」
(『文史』2011年第1輯、中華書局、北京、2011年2月)

です。

 『梁職貢図』は、梁の武帝の子であって、後に侯景の乱を鎮めて即位する元帝が、荊州刺史をしていた際に作成したものです。梁に朝貢する諸国の使節を調査し、また荊州に来ない使節については都の建康に人を派遣して調べさせることにより、外国使節の風貌を絵に描き、またその国に関する情報を記述したものであって、貴重な資料となっています。

 現在は、唐の模本と南唐の模本(ともに台湾の故宮博物院)、北宋の模本(北京の中国国家博物館)という3本の模本が伝えられていますが、いずれも完本ではなく、使者の絵や国名だけでなく、その国の「歴史地理風俗的題記」が記してある北宋の模本にしても、絵は12国、題記は13国にすぎず、それも欠落があり、倭国の題記も途中で切れてます。

 ところが、清代の学者・画家であった張庚(1685-1760)が写したものは18国の題記を含んでおり、それが清末民国初の葛氏の『愛日吟廬書画続録』(『続修四庫全書』子部・芸術類、1088册)中に掲載されていて、現行諸本の欠落部分や文字の誤りをある程度補うことができることを、趙燦鵬氏は発見したのです。

 このブログにとって気になるのは、西域の胡蜜檀国の条です。北宋の模本では、「……来朝。其表曰、揚州天子、出処大国聖主……」となっている箇所が、今回発見されたテキストでは、「来朝貢。其表曰、揚州天子、日出処大国聖主……」となっていました。

 つまり、「来朝す」でなく「来りて朝貢す」、「出処」でなく「日出処」となっており、その上表文では、梁の武帝に対して、「揚州の天子、日出づる処の大国の聖主」と呼びかけていたのです。しかも、この「表」ではそれに続けて、胡蜜檀国王が「遙かに長跪合掌し、作礼すること千万なり」と述べており、おそらく仏教信者である国王が武帝に対して遠方から仏教風に何度も礼拝を重ね、非常に敬っていることが示されていました。

 梁代には東南アジア・南アジア・西域の諸国との交渉が増えており、それらの諸国が武帝あてに送った国書では、武帝を菩薩扱いして敬い、仏教用語を盛んに用いて武帝や梁を礼賛していたことは、河上麻由子さんの一連の論文で指摘されている通りですが、胡蜜檀国王のこの国書は、まさにそうした一つだったのです。梁こそが天下の中央であって、その天下の東端の国から日が上るのでなく、江南の梁は「日出づる処の大国」とされ、仏教信仰で有名な「天子」である武帝は「聖主」と呼ばれているのです。

 このことは、倭国の「日出づる処の天子」国書を考えるうえでも重要ですね。倭国の仏教の手本は百済であり、百済仏教の手本は梁代の仏教ですし。また、三経義疏はそれぞれ梁の三大法師の注釈に基づいていることの意味を、もう一度考えるべきでしょう。

 他にも、この論文では、『職貢図』における高句麗の題記は、『翰苑』が引用する高句麗条の記述とかなり一致しており、『翰苑』は『職貢図』を要略して引いていること、『職貢図』は『梁書』の諸夷伝の原史料となっていたらしい、といった重要な事柄がいくつも指摘されています。

 なお、北宋模写本に描かれている倭国の使者の姿がおかしく、実物を見ていないらしいことは、日本では早くから指摘されていました。実際、今回発見された倭国の題記の後半部分では、末尾は「斉の建元中(479-482)に、表を奉じて貢献す」とあるのみですので、梁の普通元年(520)に遣使してきたと記されている胡蜜檀国などとは状況が違います。

乳母に抱かれた太子、風景の中の太子: 太田昌子「法隆寺旧絵殿本聖徳太子絵伝の二つのメディア」

2011年05月17日 | 論文・研究書紹介
 今回は、美術作品はどのような場において、どのように機能していたかに注目してこられた太田昌子先生の聖徳太子絵伝論文、

太田昌子「法隆寺旧絵殿本聖徳太子絵伝の二つのメディア--「絵」と「銘文」が絡み合ってどのように働きかけてくるか--」
(『文学』10巻5号、岩波書店、2009年10月)

です。某研究会でご一緒させて頂いてますが、以下、「太田氏」という形で失礼します。

 南無仏太子像と言えば、普通は上半身が裸で坊主頭の幼児が合掌して立っている姿が思い浮かびます。ところが、太田氏が注目した法隆寺旧絵殿の「聖徳太子絵伝」の南無太子像は、そうした定型とは異なっています。

 延久元年(一○六九)に制作された、縦2メートル、横15メートルに及ぶ綾本着色のこの壁画では、太子は坐っている女性に抱えられた状態で合掌しているのです(石井注:絵では、祖母が孫を膝の上に乗せて抱えているような姿で描かれてます)。女性が乳母であることは、天明模本では短冊に「太子被{女爾}母抱、向東合掌、唱南無仏」とあることから明らかです。

 この変わった南無仏太子の図は、巨大な壁画では早い時期の事績をまとめた最初の部分にあり、入胎画面の左隣、誕生場面の右側、産養の上という位置で中央やや右に描かれています。こうした配置については、時間の流れを無視して事柄を自由に配置しているように見えますが、背景に描かれている景観を分析した太田氏は、この壁画のそれぞれの場面は、それらの事績が実際に起こったとされる場所にまとめて描かれていると指摘します。

 飛鳥や斑鳩の地に馴染みがある人であれば、どこが初瀬川か、どこが二上山なのか、どこが太子の葬られた磯長なのか、「指さすように確認できるように描かれている」のであって、そうした背景に関連する事柄が描かれているというのです。この論文では、歴史地図上に記した絵殿本の視座図とともに、斑鳩からの視座図斑鳩上空3千メーターの位置から見た画面のCG鳥瞰図を載せられています。

 また、そのような地形が壁画に描かれた絵殿自体、まさにその重要箇所の一つである斑鳩の法隆寺東院伽藍の北側に位置しており、「入れ子」になっていたことが重要とされます。つまり、現在のように、東京国立博物館の法隆寺宝物館ギャラリーに置かれたいたのでは、この絵は参拝者への本来の「働きかけ」の力を発揮できないのです。

 さて、飛鳥や斑鳩といった「場所の論理」に加え、廐での誕生、黒駒の献上その他、馬に関連する場面がまとめられている「馬のテーマ」のような内容上のまとまりもあるとされます。そして、その「馬のテーマ」のうちの黒駒献上の場面は「献上・奉拝のテーマ」ともなっており、百済の阿佐太子による太子奉拝の場面と接続する、といったように、「テーマの論理」も働いているとされます。そうした区画が、「霞分け」「山分け」など七つの形で区切られ、様々な場面の切り分けと関係づけが巧みになされているというのが、太田氏の見解です。

 南無仏の場面に戻れば、乳母に抱えられて合掌し、「南無仏」と言う程度であれば、さほど不思議はありません。太田氏は、『上宮太子補闕記』では、南無仏と称したのは「三歳之後」とし、奇跡を強調する『聖徳太子伝暦』では、「生後僅期有二月矣」となっていることに指摘します。そして、『三宝絵』は『伝暦』より後の成立でありながら、太子は生まれた翌年の「二月十五日の朝より心づから(=自から)掌を合わせて東に向きて南無仏と云ひておがみ給ふ」という素朴な書き方になっており、この壁画の絵はむしろ『三宝絵』に近いことに注意します。

 ただ、氏は、神秘化の過程を検討するのではなく、テキストとイメージの「共振効果」の方に注目します。それぞれの場面に添えられた短冊に書かれた銘文が、いわば言葉を発し、イメージを指し示すことよって場面の分節において重要な役割を果たしている点に着目するのです。これ以外にも新撰な視点が次々に提示であるため、あとは実際に読んでいただくしかありません。

 そこで、この論文の結論部分だけ紹介しておくと、そこでは、百済の阿佐太子の合掌礼拝姿の横に「敬礼救世大慈観音菩薩」云々と記してあり、また、同様に日羅の合掌跪拝姿の傍らに「救世観世音菩薩」云々と書いてあることが注意されています。

 この二人の奉拝の絵はとりわけ大きく描かれているのですが、しかも左右の側に描かれたこの2枚の絵は、絵殿を訪れた参拝者を「ちょうど左右から挟むように身体ごと囲みこむことになる」のです。そして、そうした参拝者の背後には、太子が生きた「その斑鳩の地が広がっていたわけである」というのが、本論文の締めくくりの言葉です。

 こうした視点は、文献を読む場合も必要でしょう。太田氏が読み解いたこの絵は、あくまでも平安期の人びとが作り出した太子の伝記世界ですが、どの時期の文献でも彫刻・絵画でも、現代人の常識に基づいて眺め解釈するのではなく、制作当時の人々の視点、そしてそれを享受した人々の視点で見るよう努めるということが、まず第一の作業としていかに重要であるかを痛感させられる論考でした。

戦中・戦後の聖徳太子観変化に関わる近代仏教史研究会(6月4日)での二つの発表

2011年05月14日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 日本近代仏教史研究会の研究大会が6月4日に開催されます。このうち、「シンポジウム」でのクラウタウさんの発表と「個人発表」の部の石井発表は、近代日本のナショナリズムと聖徳太子の関係に関わります。

日本近代仏教史研究会 第19回研究大会
於 淑徳大学 埼玉みずほ台キャンパス 1号館206教室

【個人発表】
9:30 徳永前啓(立正大学大学院)
   「近代日蓮教団の動向--松森霊雲の行動を中心に--」
10:00 ベルナット・マルティ・オロバル(バレンシア大学)
   「清沢満之の宗教哲学における霊魂滅否論について」
10:30 森新之介(日本学術振興会)
   「鎌倉新仏教史観の形成過程」
11:00 坂輪宣政(立正大学日蓮教学研究所)
   「東京の寺院の敷地移動--明治維新前後を中心に--」
11:30 石井公成(駒澤大学)
   「「人間聖徳太子」の誕生--戦中から戦後にかけての聖徳太子観の変遷--」
(昼休み)
13:30 山本彩乃(仏教大学大学院)
   「近代仏教メディアの誕生とそのメディア学的意義」
14:00 栗田英彦(東北大学大学院)
    「真宗僧侶と岡田式静坐法」
14:30 寺戸尚隆(龍谷大学)
   「戦時教学としての「日本仏教」と林銑十郎内閣」

【シンポジウム:十五年戦争と近代仏教】
15:10~
  八木英哉(浄土宗総合研究所)
  「『時局伝道教化資料』に見る浄土宗の戦時布教方針
    --特に天皇=阿弥陀仏の表現について--」
  オリオン・クラウタウ(日本学術振興会)
   「十五年戦争期の日本仏教論--アカデミズムを中心に--」
  白川哲夫(甲南大学)
   「もうひとつの靖国--戦死者追弔の近現代史--」
 司会:大谷栄一(佛教大学) コメンテータ:武田道生(淑徳大学)

 クラウタウさんの発表は、以前、このブログの「「聖徳太子→鎌倉仏教」という図式:オリオン・クラウタウ「一五年戦争期における日本仏教論とその構造」」という記事で紹介し、かなり関心を呼んだ論文を踏まえたものですね。「アカデミズムを中心に」という副題が示すように、宮本正尊・花山信勝など東大印度哲学科の仏教学者たちを中心にして検討する予定とのことでした。森新之介さんの「鎌倉新仏教史観の形成過程」という発表も、この問題に関係しそうです。

 私の発表は、15年戦争時に国家主義的な聖徳太子像が声高に説かれた一方、重苦しい状況下で太子の「世間虚仮」の語や「共に是れ凡夫なるのみ」の語に着目して「凡夫を自覚した太子」といった面を重視するようになった人や、敗戦後にころっと変わって「民主憲法の元祖」などと言い出した人などを中心として、戦中から戦後にかけての太子観の変遷を追う、というものです。こちらは、仏教学・仏教史学以外の分野の学者、民間の超国家主義運動家、文学者その他も扱う予定です。

 会員以外も参加可能ですが(大会参加費1000円、懇親会費5000円)、当日は学生食堂が使えないため、昼食希望者や懇親会参加希望者は、事前の申し込みが必要だそうです。
大会事務局: dosho[アットマーク]ccb.shukutoku.ac.jp

独自史料が無い『新唐書』の日本記事: 河内春人「『新唐書』日本伝の成立」

2011年05月10日 | 論文・研究書紹介
 倭国について「世々中国と通ず」と述べておきながら、前王朝である隋と倭国の交渉に関しては何も伝えない『旧唐書』倭国伝・日本国伝と違い、隋の開皇年間(581~604)の末に在位していた「用明、亦た目多利思比孤と曰」う王が「始めて中国に通」じたと記す『新唐書』日本伝についても見ておきましょう。

 日本伝を含む列伝部分は宋の嘉祐3年(1058)に完成し、全体はその2年後に完成した『新唐書』は、『旧唐書』とは異なる内容を持つために、盛んに利用されてきましたが、評判は昔から悪く、今回紹介する、

河内春人「『新唐書』日本伝の成立」
(『東方学報』86巻2号、2004年9月)

の冒頭では、「『新唐書』は原史料を意によって改め、もしくは省略することで知られている。そして、それゆえに原文の改変の際に誤読が発生し、原史料とは異なる内容を持つことがあり、その利用には慎重を要する。『新唐書』日本伝の史料的性質についてはすでに保科富士男氏による研究があり、『新唐書』日本伝の内容においてほとんどの記載が先行史料と対応しており、なおかつ誤読等によってその史料的価値は低いことが指摘されている」と評されています。

 では、その『新唐書』日本伝を含め、正史の外国伝はどのような史料に基づき、どのような手順で書かれるのか。

 河内氏は、唐代では、朝貢してきた外交使節に対して外交省庁である鴻臚寺が「土地・風俗・衣服・貢献・道里遠近ならびに其の主の名字」など情報聞き取りを行なうことは、『唐令』「公式令」に定められており、その情報は皇帝に奏上され、史料として史館に送られるのが正式であったと述べます。

 そして、『日本書紀』が引く「伊吉博徳書」に見える高宗と日本の遣唐使とのやりとりは、『大唐開元礼』「受蕃国使表及幣」が規定するように、皇帝の引見の際に舎人が勅を受けて皇帝の面前で外国使節に国主の安否その他を問う儀礼であることは石見清裕さんの指摘があり、これは鴻臚寺の詳細な勘問とは別なものであることに注意します。

 河内氏は、唐代の鴻臚寺による勘問の仕方は、1072年に入宋した成尋の『参天台五台山記』に見える詳細な勘問記録が示すように、基本的には宋代にも受け継がれており、中国側の史料としては、983年に入宋した奝然[ちょうねん]が筆談で勘問に答えたものも似た内容であると述べます。

 そのようにして作成された資料は、修史の役所に保存されますが、1006年に修史の官となった宋の楊億は、かつて日本僧の奝然がその国の「職員令」「年代記」をもたらしたという記録があり、自分は史局で「禁書」中にあった『日本年代記』一巻と「奝然表啓」を閲覧できたため、詳しく記すことができたと述べています。「表啓」は鴻臚寺が外国使節とのやりとりを通じて作成したものを、外国使節が皇帝に謁見する際に奏上するのが通例のようですが、奝然の場合、「国書」については記されていません。

 河内氏は、『日本年代紀』は奝然が勘問に備えて日本で準備して持参したものと推測します。国書となると朝貢かどうかが問題になるため、中国の冊封体制に組み込まれたくない日本の朝廷は、奝然が個人として入宋するのに便乗する形にし、国書は持たせなかった可能性が高いと見るのです。

 『新唐書』日本伝が載せる天皇の系譜は、『新唐書』より後にできた『宋史』所引の『王年代紀』と類似しているのですが、これがおそらく奝然の『日本年代紀』であって、日本と中国の年号の対応を明記し、仏教に関する日中交流記事を中心としたものだったようです。

 ただ、『宋史』所引の『王年代紀』が神名を列挙して「二十三世」とするのを、『新唐書』日本伝は神名を節略したうえで「三十二世」と誤り記しているのを初めとして、天皇名も間違いがきわめて多くなっています。また、『王年代紀』では天皇の系譜を一貫して「次に誰々」という形で示しているの対し、『新唐書』では孝徳から聖武までの系譜を「子の誰々立つ」という形で記しているため、日本側の史実と合わない記述が目立ちます。

 『王年代紀』では、日本僧の渡航など仏教記事が多いのに対し、『新唐書』ではそれらを削除して遣唐使関連の記事に差し替えたと見られると、河内氏は説きます。その際、利用したのは、河内氏が「日本情報の史料系統」として掲げている以下の図に見える書物です。このうち、現存する本は、河内論文では下線になっていますが、ここでは『 』に入れて示しておきます。


         起居注・実録
            |
        ┌------┐
        |     (?)
       唐書      |-----┐
        |     『通典』   会要
   ┌----|      |     |  続会要
   |    |      |     |---┘
   |  『旧唐書』    |   『唐会要』
   |    |      |-----┤
『太平御覧』  |   『太平寰宇記』  |
        |      |     |
        └------------┘
           |
         『新唐書』

 すなわち、『新唐書』日本伝は、日本製の『王年代紀』を利用する一方で、『旧唐書』を中心としつつ『唐会要』や『太平寰宇記』などを用いて補ったものであるとします。つまり、保科氏が言う「ほとんど」をさらに進め、『新唐書』日本伝の記事は「すべて」既知の書物によるものであって、『新唐書』独自の情報に見えるのは省略・誤読などの結果にすぎないというのです。

 日本伝が立項される最初は、『旧唐書』や『新唐書』に先行する8世紀半ばすぎの柳芳『唐書』130巻(後に増補を経て146巻)であって、『旧唐書』倭国伝・日本伝は、その柳芳『唐書』の字句を少し変更して引き写した可能性があるとします。9世紀初めに編纂された『会要』も倭国条と日本条を別々に立てており、それが『会要』『続会要』の文言をそのまま引くと言われる『唐会要』に受け継がれますが、この場合、倭国と日本国は連続する主体とはみなされません。

 しかし、9世紀初頭成立の『通典』やその系統である北宋の『太平寰宇記』では、『後漢書』や『三国志』の伝統を継いで倭国条を立てるのみであって、日本伝を別に立てることはしません。倭国条の中で、倭国の別名としての日本に触れるだけです。つまり、9世紀やそれ以後になっても、中国では倭国から日本国への国号変更という事態は受容されにくかったことになります。

 国号変更をめぐって中国側にこうした混乱が生じたのは、国号の自主的な変更は中華的世界秩序から離脱して自らを中華と位置づけるものであり、唐への敵対行為とみなされる恐れがあるため、日本を名乗る大宝年間の遣唐使が、この件について「意図的にはぐらかした」ことによるものであって、それが『旧唐書』日本伝における三つ説の並記となったものと、河内氏は推測します。

 確かに、『旧唐書』日本伝では、また『唐会要』日本伝でも、(1)日本国は倭国の別種であり、日辺にあるので日本と名乗った、(2)倭国が自ら「倭」という卑名を嫌って日本と改めた、(3)もと小国であった日本が倭国の地を併合した(『新唐書』は逆に、小国の日本が倭に併合され、倭はその国号を奪って日本と称するようになった、という不自然な記述)、という三説を並記したうえ、その国から入唐する者の多くは「自ら大を矜[ほこ]り、実を以て対えず。故に中国は焉[これ]を疑う」とまで書いており、三説のうちどれが正しいのかも示されていません。

 河内氏が「意図的にはぐらかした」と言われるのは、遣唐使が「最近になって勝手に国号を変えたのでなく、我が国は日の出る所に近いので昔から日本と称しており、大国だったのです」などと主張し、あれこれ矛盾することを言い立てた、といったような状況を想定しているのでしょうか。

 「"日向"から東征して大和に建国した神日本磐余彦尊(神武天皇)の頃から、日本が正式名称だったのですから、今後は日本と呼んでいただきたい」などと言えば、『三国志』などと年代が合わなくなりますし、「邪な勢力との戦いに勝って即位した天武天皇が、倭という呼称はやめて、本来の国号であった日本を正式名称としたのです」などと言ったのであれば、中国の常識としては新王朝とみなす可能性がありますが、三説から受ける感じとは異なります。遣唐使たちは、一体どのような矛盾する主張を並べ立てたのか。あるいは、三説には、新羅からの情報なども含んでいるのか。

 いずれにせよ、中国では、8世紀半ばすぎの柳芳『唐書』や8世紀末から9世紀初めの成立である『会要』が倭国と日本国を別扱いしている一方、8世紀後半にほぼ完成し、9世紀初めに献上された『通典』(やその系統である北宋の『太平寰宇記』)などは、『後漢書』や『三国志』以来の伝統をついで倭伝だけを立て、日本は倭国の別名と記すのみだったのであって、そのような異なる日本観の併存という状況は、『旧唐書』や『唐会要』に見られるように、五代の時代になっても続いていたのです。

 宋代の地図、「古今華夷区域総要図」などでも、倭と日本を大海中の別々の島として記しています(*石井注:地図ではこれらの島の形は示されておらず、半島の南端までを占める新羅の南の海中に「倭奴」の島があり、さらに南の海中に「毛人」の島があり、その「倭奴」の西南、「毛人」の西北の海中に、つまり「倭奴」よりもずっと中国江南に近い位置の海中に「日本」が置かれています)。

 また、『会要』と『続会要』を承けた『唐会要』では、8世紀前半の記事が日本伝であるのに対して、8世紀後半から9世紀の記事が倭国条に含まれるという不自然な形になっています。それが、北宋の『新唐書』になって、日本僧が10世紀末にもたらした『日本書紀』風な『王年代記』を用いることにより倭国伝の内容を日本伝のうちに吸収し、日本伝だけが立てられるようになったのだ、と河内氏は説きますす。

 ただ、その『新唐書』日本伝は、上で説明したような内容ですので、日本に関する中国側の史料を比較検討する際は、『新唐書』ではなく、それより「先行する諸史料に依拠しなければならない」というのが、河内氏の結論です。

 ということで、「目多利思比孤」とも呼ばれる「用明」という王が隋の開皇の末に始めて中国と通じた、などと記す『新唐書』日本伝については、倭国と隋の交渉について考える際はまったく考慮する必要がない、ということになりました。

 なお、『新唐書』が援用していた楽史『太平寰宇記』は、陳寿『三国志』の典拠と推定されている魚豢『魏略』・王沈『魏書』などを引用していますが、

満田剛「『太平寰宇記』所引王沈『魏書』について--附論:『太平寰宇記』所引『魏志』『魏略』魏収『魏書』--」
(『創価大学人文論集』22号、2010年3月)

は、結論で次のように述べています。

 『太平寰宇記』所引『魏志』・『魏略』・魏収『魏書』について分析した結果、『太平寰宇記』に引用された文章は原文のままであることが極めて少なく、必要な部分だけを引用するために意図的に「加工」されているものや、書籍の注も本文に組み込んでしまっている場合や全く異なる書籍の文章である場合も存在する。ただ、これは楽史によるものか、それとも楽史が参照した類書などの書籍の時点ですでに発生していたことなのかははっきりとしない。(193頁)

 まあ、中国でも日本でもこうしたやり方で作成された文献は多く、それが写本・版本として伝わっていく過程でさらに誤写・改変・注の紛れ込みなどが重なっていくのですから、恐いですね。

【付記:2021年11月23日】
当時は表記されなかったため、奝然の「奝」を {大/周} という合字表記で示していましたが、現在は表記できるので、正しい文字に訂正しました。

『隋書』はどこまで信頼できるか: 榎本淳一「『隋書』倭国伝の史料的性格について」

2011年05月07日 | 論文・研究書紹介
 前回は推古紀を初めとする『日本書紀』の記事を見直す試みの紹介でしたので、今回はその推古朝時の倭国の外交を伝える『隋書』に関する論文をとりあげます。

 榎本淳一『唐王朝と古代日本』所載の「北京大学図書館李氏旧蔵『唐会要』の倭国・日本国条について」論文で、『唐会要』倭国・日本国条が版本によっていかに異なっていて誤字も多いかを検討し、通行本は欠落もあるうえ『旧唐書』その他によって補修した形跡があって信頼しがたいことを明らかにした榎本氏が、『隋書』の倭国関連記事を検討したのが、

榎本淳一「『隋書』倭国伝の史料的性格について」
(『アリーナ 2008』、2008年3月)

です。

 氏は、唐の貞観10年(636)に完成した『隋書』は史書としての評価が高いことを認めつつも、「まず、『隋書』はあくまでも唐朝の立場で書かれた史書である」ことに注意すべきだという所から始めます。煬帝の功績を認めず、ひたすら悪逆非道の君主として描いているのがその典型です。

 次に氏が注意するのは、隋末の混乱で宮廷の史料が散佚し、特に「大業年間については編纂史料に不足・不備が生じたらしく、『隋書』の大業年間の記事には遺漏や過誤が存すると思われる」ことです。

 開皇年間(581-600)については、皇帝の言動の記録であって正史の基本史料となる「起居注」のうち、開皇年間の記録である『開皇起居注』が唐代には存在していたことが知られていますが、唐代に隋時の書物一覧を編纂した『隋書』「経籍志」に録されていないことなどから見て、大業年間(605-618)における皇帝の言動を記した『大業起居注』は、唐初には既に失われていたようで、利用できなかったものと推測します。

 隋から唐初にかけて活躍した杜宝の『大業雑記』序が、「貞観修史(=貞観3年に史館を創設して始まった各種の修史事業)は、未だ実録を尽くさ」ないため、この書物を著して欠漏を補ったと述べており、また、『資治通鑑』では大業年間の考異において様々な文献が引用され、『隋書』と対校されているのは、「『隋書』の大業年間の記事が万全かつ信頼できるものと思われていなかったことを示している」というのが、氏の判断です。

 『北史』倭国伝、『太平御覧』倭条、『文献通考』倭条については、『隋書』を直接・間接になぞったものであるため、字句の校訂には利用できるものの、オリジナルな史料としての価値はないとします。

 次に『太平寰宇記』倭国条については、基本的には『通典』倭条の引き写しであり、その『通典』倭条は、末尾の風俗を除いては『隋書』倭国伝を取捨選択したものと見ます。要約に際して、「日出処天子」国書で有名な大業年間の遣隋使記事を、誤って開皇二十年に繋げ、この年に提出されたように記してしまったものと推測するのです。そして、『通典』のうち、衣服などに関する倭国の風俗の記事は、『旧唐書』倭国条の編纂材料となった「国史」や「実録」などに拠ったものと見ます。

 「国史」や「実録」とは、池田温『東アジアの文化交流』「中国の史書と『続日本紀』」や福井重雅「『旧唐書』--その祖本の研究序説--」(早稲田大学文学部東洋史研究室編『中国正史の基礎的研究』)などで説明されているように、天子も自由に見れなかった起居注に替わり、天子に奏上されて閲覧に供されるようになったのが皇帝ごとの「実録」であり、それらの「実録」に基づいて紀伝体で編纂されたのが「国史」であって、唐代には『国史』とか『唐書』と呼ばれる書物が数種類作られたものの、現在はすべて失われています。隋代には実録の編纂はされていないと榎本氏は説きます。

 『隋書』倭国伝では、「日出処天子」国書は大業3年(607)とされていますが、同じ『隋書』の煬帝紀と『冊府元亀』外臣・朝貢三では、大業4年に倭国が使者を派遣したと記しており、『資治通鑑』はそれに基づいて「日出処天子」国書の記事を大業4年のところに置いたと見られるというのが、榎本氏の推測です。なお、『冊府元亀』は多くの実録類を使用していることが知られています。

 以上のことから分かるように、倭国遣使については、二系統の異なる史料が『隋書』煬帝紀と倭国伝に見えていて年代の相違が生じているのは、やはり隋朝の宮廷史料喪失が原因だろうとします。

 その『隋書』倭国伝は、

  A 倭国の位置と前代までの交渉記事
  B 開皇20年の遣隋使と文帝の交渉記事
  C 倭国の国制・社会・風俗・物産記事
  D 大業3年の遣隋使と煬帝の交渉記事
  E 斐世清の倭国派遣記事

という五類の記事で出来ていますが、それぞれ性格が異なっており、依拠した史料が異なっていたと見られるとして、氏は次のように説きます。

 Aは、『後漢書』以下の列代史中の倭人や倭国の記事を要約したもの。
 
 Bは、『開皇起居注』に依拠したと見て良い。

 Cは、倭国使から聞き取った内容に基づいているだろうが、開皇時と大業時の情報が混在している可能性があり、開皇年間の情報は隋代の「国史」である未完の王劭『隋書』に拠ったものだろう。大業年間の情報は、王劭『隋書』が大業のその年代まで書いてあれば、『大業起居注』に基づいていたであろう王劭『隋書』を利用し、出来ていなければ鴻臚寺の記録などを利用しただろう。

 Dも、『大業起居注』は利用できなかっただろうから、王劭『隋書』がその年代まで書いてあればそれを利用しただろうし、出来ていなければ、鴻臚寺ないし他の公的な書類・記録によっただろう。

 Eは、斐世清の報告に基づくだろうが、王劭『隋書』に既に組み込まれていてそれを利用したか、保存されていた報告書などによったかは不明である。斐世清の生存年代からすれば、貞観年間の修史の段階で直接取材した可能性もある。王劭『隋書』に倭国伝が立てられており、大業5年くらいまでの記録が残っていた場合は、現存の『隋書』はそれをほとんど転載した可能性もあり、その場合はDの材料は『大業起居注』が有力となる。

 以上のことから、A・B・Dは「比較的客観性が高い」が、C・Eの部分は報告する倭国側も聞き取る隋の側も当事者の「主観・個性が反映しやすい」ものであり、とりわけEについては「慎重な史料批判が必要と思われる」というのが、氏の結論です。

 本紀と列伝で外国交渉関連の年代が違うことは、他の正史でも見られることですので、一概には言えませんが、隋末の戦乱で宮廷史料の欠落が生じたのは事実でしょう。

 また、氏が「客観性が高い」というのは、倭国の状況を客観的に伝えているというよりは、自国の立場を強調する倭国の言動を、中国側がそれぞれ時代の王朝の立場で記録・編集したものが、以後、あまり改変されないで伝えられている、といった表現にした方が適切かもしれませんね。

 なお、通行の『隋書』や『北史』では「倭国」ではなく、「俀国」となっていることは有名ですが、武英殿版『北史』では「俀」と「倭」を混用しており『隋書』や『北史』が「俀王」「俀国」と記している箇所を、『通典』では「倭王」「倭国」に作るなど、複数文献で同様の例が見られることが知られています。

 倭国関連以外でも、文公の子である「俀(後の宣公)」について『史記』が記した箇所について、六朝期の注釈である『史記集解』は「俀」を「倭」に作るテキストがあることに触れているほか、唐代の『史記索隠』では、「倭」は「俀」とも書き、音は同じと明記しているため、この両字はそれらの時期には同字として通用していたと見てよいことは、坂元義種「『隋書』倭国伝を徹底して検証する」(『歴史読本』1996年12月号)他が指摘している通りです。

 ついでですので、次回は『新唐書』日本伝に関する論文を紹介しましょう。
【付記:2022年5月11日】
この記事を書いた頃は、Unicode表示ができない環境の人もいたため、「俀」の字については {イ妥} という合成表記で示していましたが、「俀」に改めました。

天文学から見た『日本書紀』推古紀等の性格:谷川清隆・相馬充・渡辺瑞穂子氏の2論文

2011年05月03日 | 論文・研究書紹介
 『日本書紀』には天文現象に関する記述がたくさんありますが、それらが事実に基づくものかどうかを、何年何月何日の日食はこれこれの地域でしか見えなかったはずだ、といった天文学の立場から検討したのが、

A:谷川清隆・相馬充「七世紀の日本天文学」(『国立天文台報』11巻、2008年10月)

B:谷川清隆・渡辺瑞穂子「七世紀の日本書紀の巻分類の事例Ⅰ」(同、13巻、2010年10月)

です。いずれも国立天文台サイトで公開されています。

 まず、A論文では、推古朝より前は除外したうえで、森博達さんの『日本書紀』区分論がα群とする諸巻には、天文現象を実際に観測したと思われる記事はなく、逆にβ群の天文記事は実際に観測されたものと推測されると述べます。

 そして、β群に属する推古朝では途中から天文観測が始まっており、同じくβ群の舒明朝にも観測記事が見えること、それに続くα群である皇極・孝徳・斉明・天智紀については、約30年間にわたって観測された記録がなく、β群とされる天武紀にまた観測記事があり、森さんがα・β群とは異なる独自さがあるとして別扱いする巻30の持統紀では、日食の観測ではなく予測記事ばかりになっているのは、国際関係など何らかの事情によると推測します。つまり、α群とβ群の区分は森説通りだが、推古朝とそれ以後に限っていえば、その違いは「述作者」の違いだけの問題ではなく、何らかの事実を反映していると見るのです。

 末尾には、口頭発表の際の「質問と回答」が「補遺」として載せられていますが、このやりとりが非常に面白く、いろいろ考えさせられます。きちんとした議論が研究を進展させる好例ですね。

 B論文では、考察をさらに進め、『日本書紀』β群の記事は中国や百済などの天文記録を切り貼りしたのではないか、とする疑問を否定します。中国や百済などでは観測できないはずの天文現象が報告されていること、また、古い表現を使っていて唐代の典型的な表現と違っていることが、その理由です。『日本書紀』には中国の星座の名が出てこないというのも、理由の一つとされています。

 そして、天文観測は皇帝とその代理の役人のみがなしうる事業であり、それに基づいて作成された暦も、皇帝が国内と冊封体制に組み込まれた諸国に配布するものであったことに注意します。このため、推古朝の途中で天文観測が始まるのは、煬帝へ対等を示す国書を送ったことと並行する動きであったと推測します。

 そのうえで、α・β群の区分の有効さを認めたうえで、『日本書紀』の新たな区分を提案しています。β群とされる22・23・28・29巻を「天群」、α群の24・25・26・27巻を「地群」、そして、巻30の持統紀を「泰群」と分類するのです。これは、森説がα群に近いが特異な性格を持つとして別扱いしていた巻30を、「地群」と「天群」の特徴を併せ持つ独立した群と認定したものです。

 遣隋使・遣唐使、「朝貢」の語、屋久島との交流、「百済僧誰それ」といった外国僧の呼び方など、国際関係に関する事象だけでなく、従来問題にされていた「内裏」「皇祖母」「不知所如」その他の語について、巻ごとの表を示したうえで簡単な考察をしており、興味深い報告がいくつか含まれています。天文学に関する記述を検討するうちに、その他の記述の違いも、天文の観測に関する分類と連動していることが分かり、関心が広がっていったということでしょうか。

 そうした意外な傾向を発見するには、私が現在、三経義疏分析に用いている NGSMによる比較処理が有効なため、私もそのうち『日本書紀』を細かく区分して試してみる予定です。
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