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中世の聖徳太子のイメージは「未来記」を残した予言者:小峯和明『予言文学の語る中世』

2022年12月01日 | 聖徳太子信仰の歴史

 日本史上、聖徳太子ほど時代によってイメージが変わった人物はいません。そうしたイメージのうち、中世に広まった一例は「予言する聖者」であって、「未来記」を残したというものです。この点を検討したのが、

小峯和明『予言文学の語る中世-聖徳太子未来記と耶馬台詩-』
(吉川弘文館、2019年)

です。

 小峯さんは、学科は違いますが大学の先輩であって、かなり後になってから研究仲間となりました(コロナ前に会ったのは、小峯さんが立教大学退職後、時々教えに行っている北京の人民大学で開催された説話文学シンポジウムの時であって、二人で大学そばのモンゴル料理店で食事して御馳走になりました)。

 『今昔物語集』研究でスタートした小峯さんは、アジア諸国の文学を比較検討し、諸国の研究者を組織していくつものプロジェクトに取り組んでいる幅広い研究者であり、力を入れていた分野の一つが中世の「予言書」です。中世には「予言書」を含む数多くの偽作文献が作られていますが、聖徳太子の作とされることが多いのです。そのため、この本の構成は、

 Ⅰ <聖徳太子未来記>の生成
  一 <聖徳太子未来記>の世界
  二 中世の未来記と注釈
  三 中世日本紀をめぐって
  四 <聖徳太子未来記>と聖徳太子伝研究
  五 <聖徳太子未来記>とは何か
 Ⅱ 「耶馬台詩」をめぐる
  一 未来記の射程
  二 「耶馬台詩」注釈・拾補
  三 「耶馬台詩」とその物語を読む
  四 未来記の変貌と再生
  五 予言者・宝誌の変成
 Ⅲ <予言文学>の世界
  一 「御記文」という名の未来記
  二 <予言文学>の視界
  三 災害と<予言文学>
  四 占いと予言をめぐる断章
  五 <予言文学>の世界、世界の<予言文学>
 『耶馬台詩』注釈資料修正
 あとがき
 初出一覧
 索引

となっています。内容が豊かすぎて、聖徳太子関連の部分だけに限っても、とても紹介しきれませんので、とりあえず、Ⅰの一の「<聖徳太子未来記>の世界」だけ、紹介しておきます。

 まず、聖徳太子については早くから伝説化されていました。平安中期の『聖徳太子伝暦』がそれらを集成してさらに伝説化を進め、以後は『伝暦』の注釈の形で太子伝が次々に書かれます。そうした太子伝の中では太子の予言なるものが強調されており、その部分だけを単行したり、更に拡張した「未来記」の類が量産されるようになります。

 また一方では、『日本書紀』では推古28年(620)に太子が馬子とともに歴史書を編纂したと記されているため、その歴史書と称するものも平安時代から出現します。その代表が十世紀頃に成立した『先代旧事本紀』であって、この書は『日本書紀』と並んで尊崇され、よく読まれました。これも、「未来記」の性格を持つ偽書です。

 そうした「未来記」の中でも有名なのが、『四天王寺縁起』と呼ばれる「荒陵寺御手印縁起」です。寛弘4年(1007)に四天王寺の慈運が金堂内で発見したとされるものであって、「私の死後に、様々な身分で生まれ、仏法を興して人々を救済する者は、我が身の再来である」と説き、寺の保護などを命じたものです。

 良く知られているように、太子の直筆だというこの縁起の末尾には「皇太子仏子勝鬘」と署名が記されていました。つまり、『勝鬘経』を説いた勝鬘夫人の生まれ変わりであって、皇太子の身で『勝鬘経』を講義した聖徳太子の予言書が出現したということになりますので、大変な話題となりました。

 むろん、835年に落雷で五重塔が損壊し、960年の火事で伽藍の建物の多くが焼失するなどの事件が続き、経営が苦しくなっていた四天王寺の僧が、注目を集めて支援を得られるよう一芝居うったのです。

 この時期に、上記のイメージでとらえられ、この予言書を見て四天王寺を援助してくれそうな有力者と言えば、それは藤原道長であって、実際、道長は太子の後身とされます。それ以前にも、聖武天皇、空海、聖宝などが太子の後身とされていました。

 小峯さんはこの章では、『四天王寺縁起』については詳しく論じてませんが、榊原史子『四天王寺縁起の研究』によれば、四天王寺を支援して何度も訪れ、聖徳太子の後身とされていた聖武天皇の法名が「勝満」であるため、「仏子勝鬘」という署名は、その「勝満」と勝鬘夫人の「勝鬘」をかけてあるのだろうとのことです。

 この偽文書が有名になったため、聖徳太子が「勝鬘」と名のって善光寺如来とやりとりをしたという偽手紙も作成されるようになったのですね。 

 この手紙の場合もそうですが、次の偽書の登場の舞台は、磯長の聖徳太子廟だと小峯さんは説きます。天喜2年(1054)に、太子廟の近くで忠禅という僧が石塔を建てるために地を掘らせていると、長さ1尺5寸、幅7寸ほどの石の箱が出てきたため、開けてみると太子の「御記文」、すなわち寺塔を建てよと命じた予言書であったため、早速、四天王寺に知らせて検証された由。つまり、太子廟と四天王寺は仲間なのですね。

 この文書は、後に忠禅のでっちあげであることが判明し、忠禅は「誑惑聖」と呼ばれるようになりました。ただ、忠禅の偽作であることを強調したのは法隆寺であるため、この事件の背後には、連携していた四天王寺・太子廟側と、これに対抗する法隆寺側の争いがあった、というのが小峯さんの推測です。

 太子廟からはその後も未来記が出現しており、その一つである瑪瑙石碑文を実見した藤原定家は、「愚暗の雑人の筆」と断定したそうです。

 しかし、偽文書は特定の人々、あるいは世間一般の人が「そうあってほしい」と願っていること、あるいは「そうだったのか」と納得しやすいことを書いて作成するものですので、現代の様々な陰謀論と同じで、多くの人が飛びついて信じ込むのです。『四天王寺縁起』にしても、疑う人はいませんでした。

 ここまで来ると、太子の未来記は四天王寺や太子廟とは関係なく、いろいろなところから突然出現するようになります。自分たちにとって都合の良い主張を古びた形の文書として製作し、「太子の未来記が出ました」とか、「太子の未来記に〇〇と記されていたと聞いています」などとやれば良いのですから。

 そうである以上、所領争いをしている寺などで、自分の寺の領地や財産に関する聖徳太子の未来記が次から次へと出現するのは当然のことでしょう。時代とともに、さらに広範な未来記が登場するようになります。

 比叡山の口伝法門によると、最澄が比叡山に登る前に、太子が比叡山に堂を建立していたとされていますし、仏教側でも神祇思想が強まり、大日如来と天照大神の一体説などが出てくると、「聖徳太子は天照大神の再誕だ」という主張も登場します。

 太子の未来記は、太子伝のうちでも説かれ、単行書として世間に広まっていきました。何でもかんでも太子が予言していたとされるようになったのです。平等院建立も太子が予言しており、平安京遷都も太子が予言していたとされます。こうした太子伝が絵解きのテキストになります。

 そういえば、11月24日に国立能楽堂で瑞泉寺のご住職によって、600年ほど前に作られた瑞泉寺の太子絵伝(のレプリカ)の絵解きがなされましたが(こちらと、こちら)、そこでも太子の予言について触れられ、太子と善光寺如来の手紙のやりとりが説かれていました。

 太子の未来記は大量に流布しており、覚一本の『平家物語』でも、天皇が都落ちしていったことを歎いた箇所では、「聖徳太子の未来記にどう書かれていたか、見てみたい」と言われているほどです。そうした記述を読んだ人の中には、「では、自分が『平家物語』のその巻にそうした未来記を書き加えよう」と思う人が出てくるかもしれません。

 このように、「物語の現在が未来記によってささえられ、意味づけられる」のであって、「中世の歴史記述が未来記ぬきになりたちにくいことを示している」ことに小峯さんは注意します。

 そうした未来記は近世になっても登場しますが、江戸時代の特徴は、写本で伝えられるだけでなく、木版印刷によって出版までなされるようになったことでしょう。たとえば慶安元年(1648)刊行の『聖徳太子日本国未来記』では、魔王が三人の悪魔である一遍・日蓮・親鸞を派遣したと述べています。

 当然ながら、旧仏教側の作です。翌年に刊行された『聖徳太子日本国未来記破誤』は、その主張に反論しているため、新仏教側の作であることは明らかですが、小峯さんが注目するのは、年号が合わないとか、基づいている資料が偏っているなどといった合理的な批判に基づいて、聖徳太子の作ではありえない、とする指摘がなされるようになったことです。

 つまり、近代的な歴史研究に近いものが生まれ始めているのです。「未来記そのものがもはや役割を終えつつある」のであって、「それはそのまま中世という時代文化の終わりを予兆するものであった」と小峯さんは説きます。

 危機の状況において出現する未来記は、「乱世になるたびごとに呼び起こされ更新され、戦乱の終局とともに役割を終える」のです。

 むろん、これ以後も未来記、ないし未来記の性格を持つ偽作文書は作られ続けていますが、小峯さんは本書では、作成された時代状況を重視してか、あくまでも「未来記」とか「仮託」といった言い方をしており、偽文書・偽書・偽作などとは称していません。

 こうした態度は、漢訳経典のうちのかなりの部分を占める偽経についても同様であり、小峯さんは「擬経」と呼ぶことを提唱しています。私もそれに賛同し(こちら)、拙著の『東アジア仏教史』(岩波新書)では「偽経」に代えて「擬経」という表現を用いました。

 ただ、近世から現代にかけて出現した、あまりにも作為が目立つ卑俗な文献、特に害がある文献については、「偽作」「偽書」と呼ばざるをえませんが。

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