聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

隋代になっても中国南朝と朝鮮諸国の儀礼に基づいていた倭国:榎本淳一「比較儀礼論」

2012年01月31日 | 論文・研究書紹介
 推古朝については、分からないことが多く、特に問題になるのは『隋書』の記述との不一致です。この点について、新たに見いだした中国側の記述などを検討して確実に考察を進めたのが、以前もこのブログで論文を紹介したことのある榎本淳一氏の、

榎本淳一「比較儀礼論」
(荒野泰典・石井正敏・村井章介編『日本の対外関係2 律令国家と東アジア』、吉川弘文館、2011年)

です。

 『日本書紀』では、推古16年(607)に隋の使者がやって来た際の迎賓儀礼について詳しく記していますが、これについては、唐の『大唐開元礼』が基づいた隋代の『江都集礼』に基づくというのが有力な見解でした。しかし、榎本氏は、大業年間(605-616)に編纂された『江都集礼』を、開皇20年・推古8年(600)に初めて派遣された遣隋使が持ってこれたか、持ってきたとしても、すぐにそれによる迎賓儀礼を整えることができたかどうか疑問とします。

 そして、冠位十二階は中国より朝鮮諸国の制度に似ているほか、『隋書』に記された倭国の衣服なども、隋唐ではなく、それ以前の中国南朝のものに似ていることから見ても、推古朝の礼制のモデルは隋ではなかったと考えられると述べます。

 推古12年(604)9月に朝礼を改正し、宮門を出入りする際は、匍匐して超えるべきことが命じられており、これは倭国固有の礼とされることが多いのですが、改革にあたって自国の旧来の礼法を採用するとは考えにくいとし、大隅清陽氏の研究により、隋唐以前の中国でも匍匐礼を行った事例があることを指摘し、中国の礼制をとりいれたものと見ます。

 『隋書』との記述の違いについては、東南アジアの他の国が行っていた隋使の迎賓儀礼と似た面があることを指摘します。そして、唐使の高表仁と倭国の王と礼をめぐって衝突し、皇帝の命を伝えないまま帰国したとする『唐会要』の記述については、唐代には中国の兄弟官僚が高句麗に派遣された際、王を屈服させて礼拝させた兄と、次に出かけて匍匐して王に拝伏した弟の優劣を論じた『唐書』の記述により、外交使節にあっては儀礼上の上下関係より朝命を伝えることの方が重視されたと説いています。

 すなわち、高表仁は朝命を伝えられず、外交の才が無いとして非難されたのに対して、高麗王を拝礼した兄弟官僚の弟は兄に比べて劣っているとされたものの、非難されておらず、処罰された形跡も見られないというのが、その理由です。

 そこで、「日出る処の天子」などという無礼な国書を繰り返し送りつけた倭国が、隋使に対してそれと矛盾するような態度をとったとは考えがたいと説きます。また、『隋書』と『日本書紀』の記述を比較すると、『日本書紀』は迎えの人数などが具体的であるのに対し、『隋書』の記述がおおよその概数であって、『日本書紀』よりかなり多目になっているのは、『隋書』に見える報告がやや大げさになっていると判断します。

 従来は、『日本書紀』の記述が政治的にかたよっていることが強調されてきましたが、『隋書』の側の性格にも注意すべきであるとするです。日本古来の儀礼習俗に、中国南朝の儀礼、朝鮮諸国で変容された中国儀礼、そして隋唐朝の儀礼が積み重なって、古代日本の儀礼が整備されていったのだ、というのが氏の結論です。

 日本と中国の限られた資料だけを比較し、あれこれ想像を働かせて論じていた段階は終わったことを痛感しますね。

慧思託生説に関する大山説は誤り?:蔵中しのぶ「聖徳太子慧思託生説と『延暦僧録』「上宮太子菩薩伝」」

2012年01月21日 | 論文・研究書紹介
 中国江南で活躍した南嶽慧思は、倭国の王家に生まれて聖徳太子となったとする慧思託生説があります。その慧思の弟子である天台大師の系統を引く鑑真とともに来日した思託が著した『延暦僧録』巻第二の「上宮皇太子菩薩伝」が伝える話です。

 かの大山誠一氏の『<聖徳太子>の誕生』では、この話は鑑真が主人公であり、この話は彼のために作られたものであって、慧思も聖徳太子も鑑真のために利用されているとし、『延暦僧録』の鑑真伝を述作した思託と『唐大和上東征伝』を著した淡海三船が創作したと主張していました。

 これに異を唱えたのが、道慈がいた大安寺文化圏の文学を追究している蔵中しのぶ氏の論文、

蔵中しのぶ「聖徳太子慧思託生説と『延暦僧録』「上宮太子菩薩伝」」
(吉田一彦編『変貌する聖徳太子』、平凡社、2011年)

です。

 まず蔵中氏は、「上宮皇太子菩薩伝」を含めた『延暦僧録』が、唐で成立したとされる『大唐国衡州衡山道場釈思禅師七代記』の類型表現と似ていることに注目します。この『七代記』によれば、慧思は「倭国の王家に生まれ、百姓を哀(かなし)び矜(あわれ)び、三宝を棟梁し」たとされています。

 この「三宝を棟梁す」という言葉は、639年に百済の王后が弥勒寺西塔に舎利を納めた際に作らせた「金製舎利奉安記」でも百済王后に関して述べられており、『法苑珠林』には唐の太宗に関して「三宝を棟梁す」という表現が見られることを、蔵中氏は指摘します。

 つまり、「上宮皇太子菩薩伝」は、「東アジア世界に広く分布する《皇帝・皇族》にして《在家仏教徒》」(109頁)に関する記述という性格を持っているのです。

 また、蔵中氏の父君である蔵中進氏は、『大唐国衡州衡山道場釈思禅師七代記』が引用する開元6年(718)に杭州で書写された「碑下題」なる文献が、慧思について「倭州天皇は彼の聖化する所」と述べている点に着目していました。杭州は、遣唐使の経由地です。つまり、聖徳太子と特定はしないものの、慧思が倭国の王家に転生したという伝説が『日本書紀』以前に既に中国に存在していたのです。

 さらに、蔵中氏は、聖武天皇が天平3年(731)に謹厳な書体で書写し終えた『雑集』末尾の「諦思忍、慎口、止内悪、息外縁」という言葉に関する有富由紀子氏の研究を紹介します。これは、敦煌文書によれば、慧思の「思大和上坐禅銘」の句であって、『法華経』安楽行品に説かれる四法を指しているとする指摘です。

 また、蔵中氏は、光明皇后が天平九年(737)に細字『法華経』を法隆寺に寄進したのは、慧思託生説に基づくとする東野治之氏の研究に注意しています。

 そして、以上のことから、聖武天皇が慧思の「坐禅銘」を書写した天平3年の頃から、聖徳太子に特定していく方向で、慧思が倭国の王家に転生したという説が日本でも根付いていったと考えたいと述べています。つまり、鑑真来日以前に、既にそうした説が形成されつつあったと見るのです。

 というわけで、ここでも大山説は疑われています。

 なお、蔵中論文は、「三船伝」について「悪を息めんと為(し)」(122頁)と訓んでいますが、「息悪と為り」と訓むべきところです。「息悪」は「悪を息(や)」めるということで、僧侶を指す仏教用語です。三船は以前は僧侶でしたので。

台湾の儒教研究者の目から見た「憲法十七条」の二重性:金培懿「儒家経典の受容と大和魂の形成」

2012年01月11日 | 論文・研究書紹介
 ご無沙汰しました。帰省やら何やらであちこち出かけたり、締め切り過ぎの論文に追われたりしていたこともありますが、ここの記事はメモをかなり書きためてあるのに10日も更新していなかったのは、年末に紹介した吉田論文で道慈述作説を柱とする聖徳太子虚構説が自滅してしまったことが大きいですね。あれで一段落した気分になってしまい、ぼんやりと過ごしておりました。
(道慈と額安寺の関係については、12月24日の記事に【追記】として情報を加えておきました)

 ここで気をとりなおして紹介するのは、台湾師範大学国文学科副教授である金培懿氏の論文、

金培懿「儒家経典の受容と大和魂の形成--『憲法十七条』を通して--」
(『中国語中国文化』第8号、2011年3月)

です。金氏は、九州大学で学位を得た研究者で、儒学史、日本漢学、日中儒学の比較その他を研究されている方です。2010年度には日本大学文理学部訪問教授として日本に滞在されていたため、日大の中国語中国文化学科の雑誌に書かれています。

 この論文で目につくのは、「憲法十七条」を単に礼賛したり批判したりするのではなく、ほど良い距離を置いて冷静に眺めて特質を指摘している点でしょうか。「大和魂の形成」となっていますが、『源氏物語』その他の用例を踏まえたり、大和魂自慢を皮肉った夏目漱石の文章を引いたりしていることが示すように、単純な大和魂評価ではなく、大和魂というのは「漢才」という外来文化を選別する過程で獲得した一種の「日本人が日本人たる所以」の識見であった(69頁)と説いています。これは、中国では仏教の影響を受けて民族宗教としての道教が形成されたのと似ていますね。

 「憲法十七条」が中国のどのような古典を踏まえているかについては、膨大な研究の蓄積があり、意見は様々ですが、金氏は、先年亡くなった近代中国の大学者、銭鍾書(1910-1998)の議論に基づき、もとの典拠の利用の仕方を「語典」「意典」「勢典」に分けます。「語典」は言葉そのままの利用、「意典」は意義内容の利用、「勢典」は語句の形式の模倣を指します。そして、その立場で、第一条の出典についてこれまでの諸説を見直しており、新たに見いだした典拠も示されています。

 「無忤」については、儒学の研究者だけに、私が発見した仏教の典拠(江南成実学派の僧たちの徳目)には気づいておられませんが、『韓非子』に「忤」の用例があることを指摘し、また「憲法十七条」の「人皆有党」は『左伝』の「亡人無党」を逆にしたものであって、「意典」と見ています。そして、『韓非子』姦劫弑臣では上に「孤」として立つ君主と下で「党」を組む臣下との対立を述べている箇所その他に注目しているのは、妥当なものでしょう。

 金論文では、上記のような方法で典拠を明らかにしていっており、君主は絶対的なものとされていて仁などの道徳はまったく想定されておらず、臣下の忠だけが強調されているなど、中国古典との様々な違いが指摘されています。

 その中には、これまでの研究で指摘されていることも多いのですが、重要なのは、「憲法十七条」は多様な系統の中国古典の文句を活用して述べているものの、そうした言葉が中国古典の本来の意味と異なった意味で用いられている場合が多いことを、いくつも指摘していることです。つまり、「憲法十七条」は、中国古典に従っている面と従っていない面があるのです。

 金氏は、江戸時代以来、「憲法十七条」を中国の古典を踏まえた内容豊かな文章として評価する者と、水戸学の安積淡泊が「憲法十七条」は儒教の言葉を「剽窃」しつつ仏教を主にしたと批判しているように、儒教本来の立場でないとして非難する者がいるのは、「憲法十七条」のそうした二重性に基づくと指摘しています。

 大山誠一説では、「憲法十七条」は不比等が儒教、道慈が仏教の内容を書いたと述べるだけで、これまで多くの学者が指摘している『韓非子』など法家の思想には全く触れていませんが、そんな単純な図式では「憲法十七条」はとうてい理解できないことが、この金論文からもよく分かります。ただ、金氏が、「憲法十七条」から「豪族が権勢を恣にし、天皇の権力が衰退していたこと」が分かるとしているのは、日本の古い史観に引き摺られたものですね。

 金氏は、日本文学は日本特有のものと見ることもでき、また漢字を用いて中国文学を受容した点で中国文学の支派の一つと見ることもできるのであって、二重性を持つことは「憲法十七条」も同じであるとしつつ、こうした現象は、自分たちが中国の伝統文化の特質を知る上でも有効であり、中国以外の様々な文化を知ってこそ中国文化の特質を知ることが出来るのだ、と述べています。

 つまり、日本に留学して日本の中国文化受容のあり方を学んだ金氏は、逆に、そうした知識によって中国を相対化しつつ中国文化を見直そうとしているのです。この金論文は、何かを研究するに当たって、ほどよい距離を置いて、対象自体の論理とは異なる視点で眺めることの有効さを示していると言えるでしょう。「憲法十七条」の個々の語の解釈については、私は少々異論もありますが、新たに教えられたこともあり、また上記のような姿勢に基づく研究という意味で有益な論文でした。