聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

明治末から昭和の法隆寺の教学を支えた佐伯定胤に関する西村実則「法隆寺・佐伯定胤と渡辺海旭」

2016年01月18日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子に関する拙著(こちら)については、一般読者向けの短くて読みやすい本を心がけたため、盛り込めないこともたくさんありました。明治以後における法隆寺の教学研究面もその一つです。

 私が大学院で平川彰先生の『成唯識論』の講義を受けた際、テキストは法隆寺の佐伯定胤(じょういん)が編纂した『新導成唯識論』でした。かつては、誰もがこのテキストで学んだのです。佐伯定胤がいた頃は、法隆寺は法相・唯識の学問の拠点であって、諸大学の研究者も定胤の講義を聞いた者がたくさんおりました。

 その佐伯定胤に関する論文が出ています。

西村実則「法隆寺・佐伯定胤と渡辺海旭-仏典の伝統的研究と原典研究-」
(『大正大学研究紀要』100号、2015年3月)

です。真面目なアビダルマ研究者である西村さんがこうした論文を書いてくれたのは、有り難いことでした。

 佐伯定胤(1867-1952)は、法隆寺村に生まれ、法隆寺の千早定朝について得度し、性相学(法相・唯識学)の権威であった真言宗の佐伯旭雅から性相学を学びます。24才で「法相宗綱要」を著しており、明治36年(1904)に法隆寺住職に就任。

 以後、法隆寺の維持に努めるかたわら、性相学の研究と教育に尽力し、東大や京大での講義もしています。これは、奈良時代から「法隆学問寺」と呼ばれていた伝統を守ろうとするためでもあったでしょう。

 ただ、江戸時代末期には、性相学の研究拠点の一つは長谷寺であって、この学系が泉涌寺に継承され、その代表が佐伯旭雅でした(姓も同じですが、定胤の親戚ではありません)。定胤が学んだ際、旭雅は五十七歳、定胤は十八歳です。
 
 定胤はその後も研究と講義を続け、興福寺に移り、最後は法隆寺に戻ったのです。定胤が教えていた法隆寺勧学院では、様々な学派の寺や東西の諸大学から研究者が学びに来ており、山内の塔中寺院がそれぞれの宗派の寮にあてられたそうです。いわば、ここが性相学の大学院となっていたのです。特に、大正大学からはいつも10名程度の聴講者があった由。

 問題は、性相学は五姓各別を説く唯識派の学問であるのに、法隆寺は仏性説に立つ三経義疏を著したとされる聖徳太子の寺であったことです。そこで、定胤は法相宗という看板を下ろし、「聖徳宗」と改名し、三経義疏などの研究に力を入れます。これは、唯識仲間であった清水寺や興福寺にはショックだったようです。

 定胤は明治期に僧侶の妻帯が許された後も独身であって、質素な生活を守っていたそうです。

 学問は唐代の注釈を重んずる伝統的なものでしたが、大正15年(1926)に島地大等に招かれ東大で唯識三類境について講義した際は、自分は梵語による研究はしていないため、その方面はそちらの先生に尋ねるよう勧め、「そのかわり、漢文の仏典についてのご質問は、どんなものでもあってもお受けします」と述べたそうです。

 島地大等もそうですが、当時は、テキストなど全く見ないで何時間でも、それも何回でも講義できる大学者がいたのです。

 明治末期から戦後まで、法隆寺に対する評価があがったのは、建築の古さ、その美術工芸品の素晴らしさに加え、定胤の存在が大きかったことは、認識しておくべきでしょう。

吉村武彦『蘇我氏の古代』と倉本一宏『蘇我氏-古代豪族の興亡-』(訂正版)

2016年01月09日 | 論文・研究書紹介
 蘇我氏に関する新書が2冊続けて出ました。

  吉村武彦『蘇我氏の古代』(岩波新書、2015年12月18日)
  倉本一宏『蘇我氏-古代豪族の興亡』(中公新書、2015年12月20日)

です。

 両書とも、蘇我氏の起源と展開を追い、厩戸皇子の頃は天皇家と蘇我氏の対立などはなく、蘇我氏は蝦夷・入鹿の死とともに滅びたわけではないと論じており、有益です。

 特に倉本氏の本は、蘇我氏は同族を別の氏族として独立させて群臣会議に参加させ、多数を占めたこと、大化改新後にも蘇我氏が重要な位置を占め続けており、改新側も蘇我氏と血縁関係を結ぼうとしていたこと、蘇我氏は以後も妃を出し続けたことなどについて、熱っぽく語っており、読み物としても面白い本になってます。

 蘇我氏については、権勢を振るった大豪族であった割には研究が少なく、遠山美都男『蘇我氏四代の冤罪を晴らす』のような見直しの試みもなされていますが、 様々な分野の研究者たちによる徹底した調査が必要でしょう。それだけに、岩波新書と中公新書という手にしやすい形態で蘇我氏に関するこうした本が続けて出たのは、歓迎すべきことです。

 ただ、吉村氏の本は、氏(うじ)という存在についての解明、蘇我稲目の活動の意義などについては詳しいものの、蘇我氏の専横といった従来の見方に対する見直しはあまりなされておらず、意外なほど『日本書紀』の記述や従来の解釈がかなりそのまま採用されています。

 たとえば、吉村氏の本では、「君」の絶対性を説く「憲法十七条」は蘇我氏の存在と相容れないとしていますが、そうであれば「憲法十七条」が作成されることはないはずです。天皇後継者である太子が、最大の支援者であった蘇我馬子と対立するようなことを書くことは、考えられません。これまでの「憲法十七条」の解釈は変える必要があるのです。 

 厩戸皇子については、両書とも蘇我系の有力な天皇候補と見て、推古天皇のもとで馬子とともに政治にあたったとしており、虚構説は問題にされておらず、批判すらなされていません。

 私のこのブログや諸論文や今度出る本で虚構説批判をやったのは、現在、インターネットで聖徳太子についてを検索すると、虚構説を初めとする怪しい説が多数ヒットすることが示すように、世間にトンデモ説がかなり広まっており、弊害が目立つためです。研究者は、そうした非学問的な説は相手にする必要はないという意見もありますが、現在のネットの状況は見のがしてはおれないレベルです。

 さて、今回の両書は、蘇我氏に関する本であるため、厩戸皇子については、新しい発見や資料の従来の読みの訂正などはされていません。吉村氏の場合は、2002年に同じ岩波新書で『聖徳太子』を刊行していますので、そちらに譲ったということもあるのでしょう。太子に関する以後の研究の進展が盛り込まれるかと期待していたところ、そうなってはいませんでした。

 ですから、その点では両書は、太子に関連する最新研究を考慮していて新発見や新解釈が多い私の『聖徳太子-実像と伝説の間-』(こちら)とは、互いに補完し合う関係ということになります。

 なお、吉村氏が「厩戸皇子」という一般的な呼称を使っているのに対し、倉本氏は「厩戸王子」という呼称を用いていますが、これは問題でしょう。

 虚構説が説く「厩戸王」を避け、また「皇子」は律令制に基づく用語であるため避けたのでしょうが、『日本書紀』では、「王子」という語は新羅や百済の王の子について用いるのが通例であって、入鹿が子のことを「王子」と呼ばせたなどという例しかありません。「王子」という語を使うのであれば、何らかの説明をつける必要があるでしょう。