先日、紹介したクラウタウさんの論文「一五年戦争期における日本仏教論とその構造」が引用していた論文です。クラウタウさんと同じく、戦時中の仏教研究者の主張を検討したのが、こちらです。
松岡秀明「日本仏教と国民精神--初期堀一郎の文化史学批判序説--」
(『東京大学宗教学年報』XXVII、2010年3月)
この松岡論文が扱っている堀一郎(1910-1974)は、東大印哲出身ながら、諸国語の文献を厳密に研究するタイプの仏教研究者とはならず、東西にわたる幅広い知識に基づいて民俗学や宗教学の観点から日本の庶民信仰の見直しを試みた研究者、また、エリアーデの紹介者として知られています。
ところが、その堀一郎は、戦時中は文部省が思想対策のために設置した国民精神文化研究所の助手として、国家主義的な立場で古代日本仏教の研究をしていました。松岡氏は、1940年に刊行された堀の『日本仏教史論』と『上代日本文化と仏教』を分析しています。
民俗学を開拓した柳田国男を義父とし、その影響を受けつつも、堀は、上記の本においては、庶民こそ「国民精神の中枢」であり、「われわれはこの庶民性の内に真の国民の動力を、また全体の地盤性を見出さんとする」という姿勢で研究を進めていました。つまり、エリート文化だけを評価する従来の研究に飽きたらず、民衆の役割を重視しつつも、貴族をも含めた国民全体の精神の不変さ、素晴らしさを強調する研究を行ったのです。こうした姿勢が、戦時中の国家総動員、国民精神作興の動きと平行するものであったことは言うまでもありません。
そうした研究の中で、堀は、天皇の「愛民」と国民の「忠貞」を強調し、日本はこの両者によって構成された「『和』の理想国家」であると主張します。つまり、「日本精神を和とする」ことに松岡氏は注目するのです。
堀は日本を「君民一体の和の国家」と定義するのですが、松岡氏は、そうした考え方には、精神文化研究所の指導的な立場にいた国家主義的哲学研究者、紀平正美(1874-1949)の影響があることを指摘します。日本精神は「和」にほかならないことを強調したのは、まさに紀平だったからです。これは、神道系の国体論者とは異なる立場です。
ヘーゲル哲学と華厳教学と聖徳太子を結び付けた紀平については、私も「大東亜共栄圏の合理化と華厳哲学(一)--紀平正美の役割を中心として--」(『仏教学』」42号、2000年12月)という論文を書き、紀平は、「大和」は単なる和でなく「武の発動」を含むのだと強調していたことを指摘したことがあります。聖徳太子の中心思想は「和」であり、日本はその「和」を伝統とする国なのだという図式が常識になったのは、この紀平の頃からでしょう。
松岡氏は、堀の『日本仏教史論』に紀平が序を寄せ、堀への期待を述べていることを紹介しています。この松岡論文と、先のクラウタウさんの論文を合わせると、戦時中の国民総動員を背景とした国家主義的な庶民重視の動向が、戦後は民主主義的な民衆重視へと移っていったことが分かりますね。
なお、この松岡氏の論文については、「憲法十七条」そのものの思想と後代の解釈の変遷にも注意していれば、紀平や堀の主張を日本思想史全体の中に位置づけることが可能になったでしょう。「憲法十七条」が説いている「和」は、群臣やその下の臣たちの争いを防ぐためのものであり、「民」は儒教の常識通り「保護されるべき存在」という位置づけであって、「和」には関係していません。つまり、「君民一体の和」というのは、近代日本の国家主義的な社会状況の中で登場してきた図式なのです。
松岡秀明「日本仏教と国民精神--初期堀一郎の文化史学批判序説--」
(『東京大学宗教学年報』XXVII、2010年3月)
この松岡論文が扱っている堀一郎(1910-1974)は、東大印哲出身ながら、諸国語の文献を厳密に研究するタイプの仏教研究者とはならず、東西にわたる幅広い知識に基づいて民俗学や宗教学の観点から日本の庶民信仰の見直しを試みた研究者、また、エリアーデの紹介者として知られています。
ところが、その堀一郎は、戦時中は文部省が思想対策のために設置した国民精神文化研究所の助手として、国家主義的な立場で古代日本仏教の研究をしていました。松岡氏は、1940年に刊行された堀の『日本仏教史論』と『上代日本文化と仏教』を分析しています。
民俗学を開拓した柳田国男を義父とし、その影響を受けつつも、堀は、上記の本においては、庶民こそ「国民精神の中枢」であり、「われわれはこの庶民性の内に真の国民の動力を、また全体の地盤性を見出さんとする」という姿勢で研究を進めていました。つまり、エリート文化だけを評価する従来の研究に飽きたらず、民衆の役割を重視しつつも、貴族をも含めた国民全体の精神の不変さ、素晴らしさを強調する研究を行ったのです。こうした姿勢が、戦時中の国家総動員、国民精神作興の動きと平行するものであったことは言うまでもありません。
そうした研究の中で、堀は、天皇の「愛民」と国民の「忠貞」を強調し、日本はこの両者によって構成された「『和』の理想国家」であると主張します。つまり、「日本精神を和とする」ことに松岡氏は注目するのです。
堀は日本を「君民一体の和の国家」と定義するのですが、松岡氏は、そうした考え方には、精神文化研究所の指導的な立場にいた国家主義的哲学研究者、紀平正美(1874-1949)の影響があることを指摘します。日本精神は「和」にほかならないことを強調したのは、まさに紀平だったからです。これは、神道系の国体論者とは異なる立場です。
ヘーゲル哲学と華厳教学と聖徳太子を結び付けた紀平については、私も「大東亜共栄圏の合理化と華厳哲学(一)--紀平正美の役割を中心として--」(『仏教学』」42号、2000年12月)という論文を書き、紀平は、「大和」は単なる和でなく「武の発動」を含むのだと強調していたことを指摘したことがあります。聖徳太子の中心思想は「和」であり、日本はその「和」を伝統とする国なのだという図式が常識になったのは、この紀平の頃からでしょう。
松岡氏は、堀の『日本仏教史論』に紀平が序を寄せ、堀への期待を述べていることを紹介しています。この松岡論文と、先のクラウタウさんの論文を合わせると、戦時中の国民総動員を背景とした国家主義的な庶民重視の動向が、戦後は民主主義的な民衆重視へと移っていったことが分かりますね。
なお、この松岡氏の論文については、「憲法十七条」そのものの思想と後代の解釈の変遷にも注意していれば、紀平や堀の主張を日本思想史全体の中に位置づけることが可能になったでしょう。「憲法十七条」が説いている「和」は、群臣やその下の臣たちの争いを防ぐためのものであり、「民」は儒教の常識通り「保護されるべき存在」という位置づけであって、「和」には関係していません。つまり、「君民一体の和」というのは、近代日本の国家主義的な社会状況の中で登場してきた図式なのです。