聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

「君民一体の和」という戦時中の図式:松岡秀明「日本仏教と国民精神」

2011年02月26日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 先日、紹介したクラウタウさんの論文「一五年戦争期における日本仏教論とその構造」が引用していた論文です。クラウタウさんと同じく、戦時中の仏教研究者の主張を検討したのが、こちらです。

松岡秀明「日本仏教と国民精神--初期堀一郎の文化史学批判序説--」
(『東京大学宗教学年報』XXVII、2010年3月)

 この松岡論文が扱っている堀一郎(1910-1974)は、東大印哲出身ながら、諸国語の文献を厳密に研究するタイプの仏教研究者とはならず、東西にわたる幅広い知識に基づいて民俗学や宗教学の観点から日本の庶民信仰の見直しを試みた研究者、また、エリアーデの紹介者として知られています。

 ところが、その堀一郎は、戦時中は文部省が思想対策のために設置した国民精神文化研究所の助手として、国家主義的な立場で古代日本仏教の研究をしていました。松岡氏は、1940年に刊行された堀の『日本仏教史論』と『上代日本文化と仏教』を分析しています。

 民俗学を開拓した柳田国男を義父とし、その影響を受けつつも、堀は、上記の本においては、庶民こそ「国民精神の中枢」であり、「われわれはこの庶民性の内に真の国民の動力を、また全体の地盤性を見出さんとする」という姿勢で研究を進めていました。つまり、エリート文化だけを評価する従来の研究に飽きたらず、民衆の役割を重視しつつも、貴族をも含めた国民全体の精神の不変さ、素晴らしさを強調する研究を行ったのです。こうした姿勢が、戦時中の国家総動員、国民精神作興の動きと平行するものであったことは言うまでもありません。

 そうした研究の中で、堀は、天皇の「愛民」と国民の「忠貞」を強調し、日本はこの両者によって構成された「『和』の理想国家」であると主張します。つまり、「日本精神を和とする」ことに松岡氏は注目するのです。

 堀は日本を「君民一体の和の国家」と定義するのですが、松岡氏は、そうした考え方には、精神文化研究所の指導的な立場にいた国家主義的哲学研究者、紀平正美(1874-1949)の影響があることを指摘します。日本精神は「和」にほかならないことを強調したのは、まさに紀平だったからです。これは、神道系の国体論者とは異なる立場です。

 ヘーゲル哲学と華厳教学と聖徳太子を結び付けた紀平については、私も「大東亜共栄圏の合理化と華厳哲学(一)--紀平正美の役割を中心として--」(『仏教学』」42号、2000年12月)という論文を書き、紀平は、「大和」は単なる和でなく「武の発動」を含むのだと強調していたことを指摘したことがあります。聖徳太子の中心思想は「和」であり、日本はその「和」を伝統とする国なのだという図式が常識になったのは、この紀平の頃からでしょう。

 松岡氏は、堀の『日本仏教史論』に紀平が序を寄せ、堀への期待を述べていることを紹介しています。この松岡論文と、先のクラウタウさんの論文を合わせると、戦時中の国民総動員を背景とした国家主義的な庶民重視の動向が、戦後は民主主義的な民衆重視へと移っていったことが分かりますね。

 なお、この松岡氏の論文については、「憲法十七条」そのものの思想と後代の解釈の変遷にも注意していれば、紀平や堀の主張を日本思想史全体の中に位置づけることが可能になったでしょう。「憲法十七条」が説いている「和」は、群臣やその下の臣たちの争いを防ぐためのものであり、「民」は儒教の常識通り「保護されるべき存在」という位置づけであって、「和」には関係していません。つまり、「君民一体の和」というのは、近代日本の国家主義的な社会状況の中で登場してきた図式なのです。

太子の薨去日は慧慈の沒日に合わせたか: 北康宏「聖徳太子--基本資料の再検討から」(3)

2011年02月22日 | 論文・研究書紹介
 前々回と前回の続きです。今回は北氏の論文のうち、『日本書紀』の太子関連記述と太子の事跡に関する北氏の主張を紹介します。

 まず、『日本書紀』では、法隆寺系の史料が使われていないことが知られていますが、北氏はそれは知っていたうえでの意図的な無視と見ます。つまり、「一種の太子伝を日本書紀は採用したのだろう」とする坂本太郎の説を認めたうえで、どのような太子伝を用いたかを検討していくのです。

 その際、氏が重視するのが、慧慈の役割です。『日本書紀』が法隆寺側の二月二十二日薨去説を採らずに二月五日を薨去日としたのは、本来は慧慈の沒日だったためではないかと氏は説きます。つまり、厩戸皇子が「聖」であったことを強調したい『日本書紀』は、国際的な「聖」なる仏教者としてのイメージを打ち出すために、太子を「聖」と認めた慧慈の沒日である二月五日に太子が没したとする太子伝を敢えて用いたとするのです。

 こうした太子伝は、法隆寺系の太子信仰や四天王寺の絵伝系の太子伝とは「異質なものである」(227頁)であり、それを『日本書紀』が利用したのだと氏は説きます。しかし、そうだとすると、その太子伝は、一体どこで作成されたのでしょう。法隆寺、四天王寺、『日本書紀』編纂者たち以外が、国際性を強調した太子伝を作成するというのは、不自然ではないでしょうか。あるいは、四天王寺あたりに別系統の太子伝があったと考えるのか。

 なお、慧慈の沒日条は「太子だけが聖だったのでなく慧慈も聖だったのだ」という結論になっていますが、同じ形式の片岡山飢人条に見える「聖は聖を知る」という表現は、中国の類書(文例百科事典)を用いたものであることは、拙論で指摘した通りです。

 また、『日本書紀』が二月五日を太子の薨去日としたことについては、玄奘三蔵の沒日が「更なる隠喩として利用された可能性もあるだろう」(226頁)と述べられていますが、玄奘沒日説は大山誠一氏の説ですので、そのことを明記しておいてほしかったですね。この論文の末尾の参考文献には、

大山誠一『聖徳太子の誕生』(吉川弘文館、一九九九年)

と大山氏の著書があげられているものの、正しくは『<聖徳太子>の誕生』です。

 次に、「六 聖徳太子の事跡--法王としての政治--」の部分では、推古朝時に「皇」の語が用いられていたかどうか分からないという理由で「厩戸皇子」に代えて「厩戸王子」などと表記する最近の傾向を批判します。「○○皇子」や「皇子○○」は確かに天武朝以降に用いられていますが、「○○王子」といった呼称が国内で称号として用いられた痕跡がないためです。これはその通りですね。

 そして、釈迦三尊像の「法皇」の語は、『日本書紀』の「法大王」や天皇代行に関する記述と対応するとします。馬子とともに「天皇記・国記」を編纂したとある記述も事実と認めます。推古天皇二十年に、蘇我稲目の娘である堅塩媛を皇太夫人として欽明陵に改葬し、天皇以下が誄を奉り、また推古二十七年に欽明陵を整備して各氏族に命じて域外に大きな柱を建てさせたのは、天皇家と蘇我氏の結びつきの最初である欽明天皇に始まる代々の天皇と現体制の確認であって忠誠を誓わせるものであり、太子・馬子の「天皇記・国記」編纂はそうした一連の動きなのだと、氏は説きます。これは以前紹介した北氏の冠位十二階論文と内容が一部重なる議論であり、説得力のある主張です。

 以上のように、個々の説については、賛成できる点と賛成しがたい点があるものの、先入観にとらわれずに基本史料をしっかり読み直すことから始めるという研究姿勢には共感しています(私自身は、これまで知られていなかった出典の解明に基づく読み直しを心がけてます)。様々な問題が独自の立場から論じられており、最近の研究動向を知るうえでの必読文献と言ってよいでしょう。
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釈迦三尊像銘と天寿国繍帳銘は誰のためか: 北康宏「聖徳太子--基本資料の再検討から」(2)

2011年02月20日 | 論文・研究書紹介
 前回の続きです。まず、釈迦三尊像銘について、北氏は、聖徳太子のための願文ではなく、「王后」と呼ばれている「膳菩岐岐美郎女による自分自身のための造像発願を語るもの」だとします。

 銘文では、太子が倒れた時でなく、王后が病むに至って発願がなされていること、また、亡くなった日付が明示されているのは膳妃だけであることなどを重視するのです。そこで、北氏は、釈迦三尊像は膳妃の発願を受け、その王子や諸臣によって造像されたのであって、膳氏の氏寺に置かれていたものが、法隆寺の再建時に金堂に迎えられたと推測します。

 次に天寿国繍帳については、最大の難問である暦の表記は「誤り」とみなします。推古朝当時の通行暦とされている元嘉暦では「二十一日甲戌」とあるべきところが、「二十一日癸酉」となっているのは、後に持統・文武朝時代に用いられるようになった儀鳳暦によっているためであるため後代の作だ、とする主張は認めません。

 『日本書紀』は、推古朝を含む比較的新しい時代の編年には元嘉暦を用い、創作記事が多い仁徳天皇以前の古い時代の干支は『日本書紀』編纂当時の現行歴である儀鳳暦を用いているものの、その儀鳳暦も複雑な定朔法を用いずに平朔法によっている以上、天寿国繍帳だけがわざわざ儀鳳暦の定朔法を用いるのは不自然だというのがその理由です。「干支の誤りはそのまま誤りとして文字通り受け取るべきだろう」と氏は主張しています。
 
 天寿国繍帳の内容に関しては、太子中心でなく橘妃中心となっているのは、まさに橘妃が自分を娶った太子のことと自分の出自の高貴さをアピールしているためだとします。天寿国繍帳は殯宮で用いられた帷帳であり、大化の薄葬令が禁じているような華美な帷帳そのものだとするのです。ただ、天寿国繍帳のように製作に時間がかかるものだと、殯の期間がかなり長くないと駄目ということになりますね。

 繍帳では、太子と母王が「期するが如く従遊す」と述べていますが、「期する如く」というなら、太子とともに病床について太子と一日違いで亡くなった膳妃こそがふさわしいにもかかわらず、天寿国繍帳はその膳妃については一言も触れていません。母王の沒日を、膳妃の沒日である「二月二十一日癸酉」と酷似している「辛巳十二月二十一日癸酉」とし、太子と母王が「期するが如く従遊」したと述べ、橘大女郎が祖母である推古天皇に懇願して繍帳を作ってもらったことを明記しているのは、中小氏族の娘にすぎない膳妃への強烈な対抗意識によるものだとします。

 こうした検討により、北氏は、釈迦三尊光背銘と天寿国繍帳銘は推古朝の成立であって、妃たちに重点を置いて書かれており、そこには「神格化される以前の太子の姿が現れている」と論じます。釈迦三尊像銘では、太子については「法皇」と称しているのだから、「尺寸王身」は太子と等身という意味ではなく、法王たる釈迦と等身、すなわち丈六の大きさの仏像と考える方が妥当ではないか、とする説も示しています。

 釈迦三尊像銘と天寿国繍帳銘は太子だけを尊崇して書いたものではない、というのはもっともな指摘であり、程度は違うにせよ、私も同じ立場です。

 ただ、「神格化以前の太子の姿」という点については、どうでしょうか。釈迦三尊像銘でも天寿国繍帳銘でも、太子については経典が釈迦や他の仏に関して用いている表現を使っており、太子を釈尊やその前世の菩薩時代のあり方と重ね合わせる形で描いていることは、昨秋、このブログで書いた通りです(こちらこちらです。そこに書いた以外にもそうした箇所があります)。どちらの銘も、天上の亡き母に説法するために釈尊が天に趣いて姿を消してしまったことを歎き、釈尊を思慕する優填王が釈尊そっくりの像を造らせたとする説話を考慮して書かれている以上、「尺寸王身」はこの場合はやはり太子と等身と見るべきでしょう。

 

薬師如来像銘は舒明天皇の宣命に基づくか: 北康宏「聖徳太子--基本資料の再検討から」(1)

2011年02月18日 | 論文・研究書紹介
 前回紹介した小野妹子論文が載る、

石上英一・鎌田元一・栄原永遠男監修『古代の人物(1) 日出づる国の誕生
(清文堂出版、2009年、4,725円)

は、ルビが多く付された一般向けの書物でありながら、中身は学術的であって、興味深い項目がいくつもあります。中でも力作なのが、近年、聖徳太子関連の論文を次々発表している北康宏氏の聖徳太子論、

北康宏「聖徳太子--基本資料の再検討から」

です。基礎資料そのものをじっくり読み直すことからやり直すべきだとする氏の姿勢には私も賛同しています。

 この論文は、釈迦三尊像光背銘、天寿国繍帳銘、薬師如来像光背銘、『日本書紀』の太子関連記事、聖徳太子の事跡(法王としての政治)、を扱っており、どれも独自の主張がなされていますが、最も刺激的な説は法隆寺金堂の薬師如来像光背銘に関するものですので、まずそれから紹介しましょう。

 北氏は、この銘の内容が史実でなく、また推古朝の作でないことを認めるものの、天武朝の造作とする説には疑問を呈します。「天皇号や薬師信仰が見られるのは天武朝からであるため、そうした語を用いている薬師如来像銘は天武朝期の偽作」とする説が有力ですが、氏は、そうした議論は残存資料が少ない場合は循環論法になってしまう、と述べます。薬師如来像銘が唯一の残存例である場合もありうるからです。しかも、この銘文自体は、自分は推古朝に書かれたとは述べていないことに氏は注意をうながします。

 氏は、むしろこの銘文が「宣命体の特徴を濃厚に有する和文体」であることに注目すべきだとします。つまり、「大王天皇」は、「ダイオウテンノウ」ではなく、「オオキミノスメラミコト」なのであって、推古天皇をそのように呼びうるのは、推古を継いだ舒明天皇が口頭で語る場合に絞られるとするのです。氏は、この銘文は、法隆寺の創建に関して権威ある根拠を示さねばならない以上、法隆寺僧たちのまったくの偽造であればその役割を果たせないため、天皇の宣命の言葉を利用して刻みこんだものと説きます。
 
 「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」では、不自然なまでに聖徳太子・推古天皇との関係が強調されているのは、おそらくは大安寺の前身である百済大寺の縁起、つまりはその造営の詔を継いでいるのであって、舒明天皇は山背大兄を押さえて即位した関係上、天皇発願による初めての大寺建立の詔を発するに当たっては、仏教流布における聖徳太子と推古天皇の功績に配慮しておく必要があったのだろう、というのが氏の推測です。

 なお、薬師如来像自体については、奈良時代には金堂の中尊とされるほど重視されていたこと、白鳳様式の作品と比較すればやはりまだ硬質であることなどから、相応の由来を有するものであったろうとし、斑鳩宮ないし若草伽藍の小堂などに安置されていたのだろうと氏は推測します。釈迦三尊像より技術的に優れているのは、ずっと後の時代になって造像されたためではなく、膳氏が造営した釈迦三尊像と違い、上宮王家自身によって造像されたためだとするのです。

 さて、どうでしょうか。推測による部分が多いため、すべてを無条件で承認することはできないものの、薬師像銘は宣命体を思わせるものがあるという指摘は重要ですね。確かに、和風漢文で書かれた他の仏像たちの銘とは違いますので、この点は考慮する必要があります。

 なお、天平時代頃は薬師如来像が金堂の中尊だったことを示す早い資料はありません。この説は、『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平19年)の仏像の項では、冒頭が薬師像、次が釈迦三尊像銘となっているのは薬師像が中尊であったことを示す、と滝精一が大正時代に主張して以来、広まったようです。しかし、滝の主張には小野玄妙がすぐに反論し、この順序は願主の身分の高下によったのみだと論じたことが示すように、薬師像中尊説は確定したものとは言い難いように思われます。

小野妹子はどこに住んでいたか: 吉野秋二「小野妹子--推古朝の外交と対氏族政策」

2011年02月15日 | 論文・研究書紹介
 推古朝の外交については、不明なことことばかりですが、分かる部分から解明していこうという姿勢で、まず小野妹子の母体である小野氏について考察したのが、

吉野秋二「小野妹子--推古朝の外交と対氏族政策」
(石上英一・鎌田元一・栄原永遠男監修『古代の人物① 日出づる国の誕生』
清文堂出版、2009年)

です。

 『新撰姓氏録』では、小野氏は大春日朝臣と同祖であって、天武十三年に同族氏族と共に朝臣姓を与えられたとされています。その春日臣は、岸俊男の研究によれば、ワニ氏本宗が欽明朝から春日氏と称し始め、そこから大宅・粟田・小野などの氏が分岐したのであって、春日氏および分れた氏族は、奈良盆地東北部を拠点として山背・近江・東国・北陸に勢力を伸ばしていったとされています。

 しかし、吉野氏は、『新撰姓氏録』が小野氏の名は近江国滋賀郡小野村に妹子が居住したことによると述べていること、また『続日本後紀』によれば、小野氏が近江国滋賀郡にある小野神社の春秋の祭祀に参加する際は、畿外への出国でありながら官符発給を待たない、とされていたことに注目します。さらに、妹子の息子である毛人の墓誌銘が江戸時代に山城国愛宕郡小野郡あたりから発見されており、近辺には小野神社、小野氷室、小野瓦屋などが存在していたことから、この地に小野氏が広く居住していたことは確実とします。

 つまり、早くから大和を本拠としていてその氏神も畿内に属していた他の有力氏族とそうでない小野氏は異なっていた、とするのです。近江に展開した小野氏が栄えるようになると、その小野野氏が関連氏族の本宗とみなされるようになったのだ、というのが吉田氏の推測です。

 吉野氏は、六世紀以後、「諸豪族が朝鮮半島に有する外交ルートに依存せざるを得なかった」大王家は、推古朝になって種々の改革を行ない、妹子を冠位十二階の「大礼」として遣隋使に任じ、後に最高の「大徳」としたことが示すように、畿内や周辺の「中小豪族層の直接的編成を志向したと思われる」と説きます。小野妹子を抜擢し、また小野氏が九世紀中頃まで外交使節を輩出し続けているのは、そうした表れだとするのです。

 その小野氏では、始祖扱いされている遣隋使の小野妹子と、遣唐副使に任じられながら結局は渡航を拒否して配流された小野篁が最も有名であるのは、なかなか面白いですね。

渡来氏族を活用した上宮王家の所領開発: 鎌田宣之「古代信濃と上宮王家」

2011年02月11日 | 論文・研究書紹介
 山背大兄が入鹿の派遣した軍勢に攻められた際、三輪文屋が「深草の屯倉に行き、さらに馬で東国に向かい、乳部を本拠として軍勢を起こせば必ず勝てるでしょう」と勧めたことは良く知られています。

 そうした東国の所領については、これまで甲斐・駿河・伊豆のあたりにあったとされてきましたが、上宮王家にとって重要な財政基盤であった乳部(壬生部)が、信濃の善光寺平にも存在した可能性を探ったのが、

鎌田宣之「古代信濃と上宮王家」
(『信濃』62卷11号、2010年11月)

です。

 上宮王家領として確実なのは、播磨国揖保郡佐西の地、すなわち、厩戸皇子が『法華経』を講じたことを喜んだ推古天皇が布施したとされる百町の土地です。鎌田氏は、『日本霊異記』と『播磨国風土記』の記述から、厩戸皇子領の「水田之司」となった大部屋栖野古が、本貫地であった紀伊国名草郡の開発に当たった渡来系技術者集団を呼び寄せ、その播磨の水田を急激に拡大させたと推測します。そして、厩戸皇子没後も、山背大兄の舎人とされる人物たちが畿内の先進地から渡来系の集団を播磨国揖保郡に投入し、開発を進めたらしいことを示します。

 さらに氏は、『日本三代実録』の記述や七世紀末から八世紀前半の木簡によって信濃に壬生氏や尾張部が存在していたことに注意します。その尾張部が、皇子女の資養の料としての尾張部であったとすれば、推古天皇の第五子であった尾張王、後には舂米女王の第七子である尾張王のためのものであり、上宮王家の家長である山背大兄が管理していた可能性があるとするためです。

 善光寺平については、広範囲にわたって条里的遺構が分布しており、善光寺の前身となった白鳳期の寺院が基準となっていたと想定されていますが、氏は、他に基準となった可能性があるものとして、北限の美和神社、南限の風間神社、「中道」の東端にあたる墨坂神社をあげます。そして、最後まで山背大兄王に仕えたとされる舎人たちのうち、三輪文屋君が美和(三輪)神社、伊勢阿部堅経が伊勢津彦を祀る風間神社、大和の菟田地方で墨坂神を祀った菟田氏である菟田諸石が墨坂神社、という対応が考えられるとし、善光寺平の開発には山背王大兄の舎人たちが関与していたと見ています。

 善光寺如来については、推古天皇10年に信濃に移ったたとする伝承があり、善光寺の建立は上宮王家滅亡の前年である皇極天皇元年(642)とされているほか、善光寺領の開発に安曇連が関わっていたのは、上宮王家滅亡直後に播磨の法隆寺領に隣接する地に難波から安曇連が集団で移住したことと関連があると推測するのです。

 以上、推測による面が多いものの、上宮王家が蘇我氏と同様に、渡来氏族の技術力を活用しつつ所領の開発を進めていったことは疑いありません。田地開発と寺院の建立が平行するのはアジア諸国の通例ですので、上宮王家と東国の関係を示す木簡などがさらに出土することを楽しみにしたいところです。

田中英道『聖徳太子虚構説を排す』の問題点(5):高麗尺説は非再建の根拠にならない

2011年02月08日 | 太子礼讃派による虚構説批判の問題点
 戦前における関野貞(1868-1935)の法隆寺非再建説を高く評価する田中氏は、法隆寺の様式の古さを説く関野が、法隆寺は高麗尺(現在の曲尺の1.176倍)、薬師寺東塔は唐尺(現在の曲尺の0.98倍)に基づくと判定したことについて、「この相違は説得力を持ち、非再建説をある意味で決定的なものにした」(29頁)と述べています。

 田中氏は、関野説には反論もなされ、再建時に古い尺度を用いたにすぎないとする説や、高麗尺が廃止されたのは和銅6年(713)であって再建時期にはまだ高麗尺が使われていたとする説も紹介しています。ただ、「これに反対する論は文献に関するもので」という言葉が示すように、田中氏は関野説の方を実地調査に基づく確実なものとして高く評価しており、これを自説の有力な根拠としているようです。
 
 しかし、建築史家の竹島卓一は、高麗尺は和銅6年(713)に廃止されるまで用いられていたうえ、大宝律令以前、とりわけ大化以前はどのような尺度が用いられていたか不明である以上、法隆寺が高麗尺に基づいていたとしても非再建説の決め手にはならないとする法制史家の三浦周行の説が発表されて以来、関野の高麗尺説の当初の目的であった「法隆寺の非再建説を立証しようとする意図」は「全く力を失ってしまった」(竹島『建築技法から見た法隆寺金堂の諸問題』、中央公論美術出版、1975年、160頁)と述べています。竹島は、東京帝大工学部建築学科で関野に習った弟子であって、戦後、法隆寺国宝保存工事事務所長として精密な調査と修理を手がけた学者です。そうした人物が、上記のように明言しているのです。

 同じく法隆寺の修理に関わった建築史の浅野清の場合は、唐尺より高麗尺の方が有利としていましたが、高麗尺で完数が得られたとしても「ただちにその絶対年代を大化以前に決しうるか否かは問題である」(浅野『昭和修理を通して見た法隆寺建築の研究』(中央公論美術出版、1983年、102頁)ことを認めていました。

 また、関野の高麗尺説については、三浦論文のように文献に基づく歴史的研究の立場から批判がなされただけでなく、実地調査に基づく建築学史の立場からも批判がなされています。たとえば、法隆寺の修理にも関わった東洋建築史の大家、村田治郎は、尺度は時代による多少の変動を考慮すべきだとしたうええで、浅野とは反対に、高麗尺ではなく小尺(唐尺)でも説明は可能であり、どちらかと言えば小尺説の方が勝っている場合もあるとしていました(村田「法隆寺の尺度問題」、『仏教芸術』4号、1946年10月)。

 解体調査の際の精密な測定に基づく検討では、高麗尺の方が説明しやすい場合と唐尺の方が説明しやすい場合があるのです。そこで、竹島は関野の弟子であるにもかかわらず、「村田博士の考え方を著者は否定するものではない」(161頁)としてその意義を認めます。そのうえで、唐尺と高麗尺は10対12という対比になっている以上、高麗尺でおおよそ割り切れる対象については唐尺でも割り切れる場合があるのは当然であり、「短い尺度を使った方が、端数が小さくなり勝ちである」ことに注意しています。

 竹島は、関野が平均値をとって高麗尺とした正倉院のものさしは、実際には大小様々な長さになっていたことを明らかにし、関野の高麗尺説は非再建説の論証とはなりえないとしつつも、関野が提唱した「尺度論的研究方法」そのものは、今日でも「古建築の研究上」重要な手段であると高く評価していました。そこで、試行錯誤した結果、関野が想定していたよりやや長めの高麗尺の4分の3に当たる0.75尺が基準となっていた、とする解釈を提示しています。

 高麗尺の0.75尺は、唐尺の9寸に当たります。高麗尺の0.75尺あるいは唐尺の9寸というのは、他にも様々な見解の研究者たちが注目する数字であって、これを基本単位とすると説明できる場合が大幅に増えますが、それでも合わない部分は残ります。つまり、実地調査の側からも関野の高麗尺説は不十分であり、高麗尺にしてもその変形説にしても説明できる部分とできない部分があることが明らかになっているのです。

 法隆寺の場合、金堂・五重塔・中門はそれぞれ微妙に基本単位が違っていたり、同じ建物でも初層と上層では異なる点があるなど、不明な点が多く、研究者泣かせとなっています。このため、法隆寺造営の基準となる尺度ないし基本単位については、以後も様々な説が出されて諸説乱立状態が続いており、定説はまだ確立されていません。

 たとえば、中国を代表する建築史学者の一人で、来日して日本の古寺を調査した傅熹年氏は、「日本飛鳥、奈良時期建築中所反映出的中国南北朝、隋唐建築特点」(『文物』1992年第10期)では、「這0.75高麗尺即中国建筑中的“材高”(この0.75高麗尺とは、中国建築の「材高」にほかならない)」(31頁、原文は簡体字)と述べ、法隆寺は「尺」ではなく、中国古建築の単位である「材」を基本として造営されたとしています。

 また、計量史の分野では、小泉袈裟勝『ものさし』(法政大学出版局、1977年)などは、そもそも高麗尺なる大きさはある時期、田地の計測に用いられたものの、制度として規定され、また実際に発見される古代のものさしは隋唐の大小尺に基づくもののみであり、「高麗尺らしきものさしも、それが用いられたということをあきらかに証明する痕跡も見つかっていない」(74頁)と断言しています。

 法隆寺の尺度に関する建築学史の最近の研究としては、

溝口明則「法隆寺金堂の柱間寸法計画と垂木計画--古代建築の柱間寸法計画と垂木割計画(2)」(『日本建築学会計画系論文集』603号、2006年5月)
同   「法隆寺五重塔の垂木割計画について--古代建築の柱間寸法計画と垂木割計画(3)--」(『日本建築学会計画系論文集』608号、2006年10月)

があります(CiNiiでPDFが見られます)。

 溝口氏は、小尺の「10尺を11枝」に分割する計画を見出し、後者の論文の結論として、「法隆寺の各遺構はいずれも小尺を用い、柱間に限らず丸桁間にも認められたように『総間完数制』の技法が認められる」(141頁)とし、これは山田寺金堂も法起寺三重塔も同様であるとしています。つまり、2006年にもなって、いまだにこうした新説が提示されているというのが、学界の実状です。

 関野はすぐれた建築史学者であって、当時にあっては画期的な研究を行なっており、中には現在でもかなり通用する部分もあるものの、その非再建説は、あくまでも若草伽藍の発掘や法隆寺の解体修理に際して厳密な測定がなされる以前の説、律令制における尺度の研究、建築史や計量史に関する日本・中国・韓国の研究などが進む以前の説なのです。発表当時は説得力を持っていたその高麗尺説にしても、非再建説の決め手にはなりえなくなったことは、関野の弟子である竹島が明言していた通りです。

 田中氏が自らの法隆寺非再建論を説くに当たって、戦前の関根の高麗尺説を高く評価し、「非再建説をある意味で決定的なものにした」と述べるのみで、以後の研究の進展に触れないのは、知らないでのことなのでしょうか、それとも知ったうえでのことなのでしょうか。

隋とは対等外交だったのか:廣瀬憲雄「『東天皇』外交文書と書状」

2011年02月04日 | 論文・研究書紹介
 前回の記事で触れた天皇号の問題に関わる重要問題が、隋との外交文書です。倭国の外交文書や外交儀礼に関する研究は、この15年ほどで急激に進展しましたが、こうした方面の研究者たちのうち、中国による一元的な外交秩序を押し通せたのは特定の時期に限るとして、東部ユーラシア諸国における多様な国際秩序の併存という状況に注意しつつ精力的に論文を発表しているのが、廣瀬憲雄氏です。

 その廣瀬氏の数多い論文の中から、今回は推古16年9月辛巳条の「東天皇敬白西皇帝」で始まる文書について検討した論文を取り上げておきます。

廣瀬憲雄「『東天皇』外交文書と書状--倭国と隋の名分関係--」
(『日本歴史』724号、2008年9月)

です。

 倭国は、大業三年(607)に、対等関係を示す「致書文書」の形式を用い、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」で始まる外交文書を隋に送ったところ、これを「無礼」として退けた煬帝が、翌年、裴世清を倭国に派遣して「皇帝、倭皇に問う(「倭王」とあったのを『日本書紀』が潤色か)」で始まる「慰労詔書」を届けさせ、倭国を臣下として扱ったことが知られています。

 『日本書紀』では、その裴世清が帰国する際、隋に対して「東天皇敬白西皇帝」で始まり、「謹白不具」で終わる文書を送ったとしています。この文書については、恭順の意を示したとか、対等の姿勢を保ちつつ敬意を表する形にした、などとする諸説があるほか、『日本書紀』編纂時の造作だとする説もあります。

 また、この文書は通常の外交文書の形式ではなく、書状の形式によっていることが指摘されていますが、廣瀬氏は、東アジアでは書状形式の外交文書も多く使用されていることに注意し、様々な面から検討を加え、この文書は結局は対等姿勢を示していることを明らかにします。

 そして、それ以前の「日出処天子」で始まる外交文書は隋の怒りを招いた失敗作であって『日本書紀』には収録されていないこと、その失敗の後、依然として「東天皇」外交文書のような形で対等関係を求めたならば隋が受け入れるはずがなく、逆に隋側は裴世清の派遣によって倭王は隋の皇帝の徳化に浴したと認識していたことなどから見て、「東天皇」外交文書は『日本書紀』の創作とするのが自然であるとしています。

 つまり、「東天皇」外交文書に描かれているのは、中国側の慰労詔書と日本側の書状形式による外交文書をやりとりすることによって君臣関係の明示を避けるという、八世紀の日本が理想としていた外交関係のあり方であったとするのです。廣瀬氏は、上記のように考えた場合、中国王朝に対する対等意識が、推古朝以後、どのように展開したかを明らかにする必要があるとしています。

 相手となる国によって、また国内向けと国外向けで立場を使い分ける二重外交は、小中華意識を持つような中国周辺国家には良く見られたものですし、上下関係をできるだけ明示しないで交流しようとする試みも、アジア諸国間において様々な形で見られたものです。中国の諸王朝自身、その当時の国力や状況によっては使い分けをしたり、二重外交の黙認をしたりしています。問題は、それぞれの国や時代の具体的なあり方の違いを解明することでしょうか。

 廣瀬氏は、「倭国・日本史と東部ユーラシア--6~13世紀における政治的連関再考--」(『歴史学研究』872号、2010年10月)において、隋は倭国を中国の規制が強い周辺国家のさらに外側に位置する「絶域」国家の一つとみなしていたことなどに注意しています。これはいろいろな意味で重要な要素でしょう。