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大山誠一「序論 『日本書紀』の解明に向けて」「記紀の編纂と<聖徳太子>」(1)

2011年06月25日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』(平凡社、2011年)の冒頭をかざる序論の最初の2頁では、百済から来た僧侶や寺工たちが飛鳥寺の建立を始めた意義を強調し、仏教は「中国から朝鮮へは、思想としての伝来であったと言ってよい」が、日本の場合は「技術移転の問題だった」と述べています。

 私は、拙論「仏教受容期の国家と仏教--朝鮮・日本の場合--」(高崎直道・木村清孝編『東アジア社会と仏教文化』、春秋社、1996年)において、仏教公伝を原子力発電の技術供与にたとえたこともありますので、大山氏の言いたいことは分かりますが、上の発言はやや極端すぎますね。百済でも、遺跡から見る限りでは最も壮麗な建設物は王宮でなく寺院であり、現存の法隆寺より古い山田寺の回廊の調査報告が示すように、日本に技術者を送った百済が中国江南の新しい技術を熱心に取り入れていたことが知られています。

 つまり、日本やチベットほどではないにせよ、朝鮮においても仏教導入は種種の技術導入と結びついていたのです。特に、日本と同様に文化後進国であった新羅では、技術移植は切実な問題でした。古代を考える場合、現在の国境にとらわれるべきではありません。中国と言っても、仏教と儒教を取り入れた北方の遊牧民国家などは、日本や新羅と似た面を有しています。つまり、

中国1:漢族国家(たち)
中国2:非漢族国家(漢語化)・非漢族国家(漢語化せず)・交州(越南)
周辺1:高句麗・百済
周辺2:新羅・日本

といったような分類(たとえばですよ)の方が適切な場合もあるのです。

 さて、大山氏の序論では、本書に収録された諸氏の論文の趣旨と意義を説明していますが、気になる点がいくつかあります。たとえば、井上論文は、森博達『日本書紀の謎を解く』に対してつっかかるような口調で論難していますが、序論は、その井上論文の趣旨を説明するにあたり、次のように述べています。

「今回の井上氏の論考は、『書紀』の謎と解いたと自称する森説のほとんど全論点を否定したものとなっており、結果として森氏の理解が皮相にして粗雑だったということにならざるを得ないものである。しかし、そうであればこそ、われわれは、安易に「謎は解けた」などと言うことはなく、”『書紀』の謎”の大きさと深さを確かめながら、一歩一歩前進せねばならないのである」(12頁)

 しかし、大山説を「妄想」として厳しく批判した森博達「日本書紀の研究方法と今後の課題」(『東アジアの古代文化』106号[2001年]。後に、梅原・黒岩・上田他『聖徳太子の実像と幻像』大和書房[2002年]に収録)を目にするまでは、大山氏は森説を高く評価し、推古紀などは山田史御方が書いたβ群であるとする森説に基づいたうえで、「憲法の撰述者に関しては、私は御方が書いた推古紀に道慈が手を入れたものと考えている」と述べていました(『東アジアと古代文化』106号。後に『聖徳太子の実像と幻像』344頁)。

 すなわち、これによれば、大山氏自身、森説が「皮相にして粗雑」であることに気づかず、「安易」に森説を採用していたことになりますが、大山氏にそういう自覚はあるのでしょうか。また、「謎は解けた」などと安易に言ってはいけないそうですが、大山氏自身は、<聖徳太子>が実在しないことは自分の説で決定ずみなので、以後は「新たな課題」に取り組みたいなどと書いたりしてこなかったでしょうか。

(*井上論文では、森説のうち上代日本語の音価推定については「未曽有の業績」(109頁)として賞賛し、区分論を発展させた功績も認める一方、誰が執筆したかその他の点については誤りだらけとして激烈にこきおろしています。しかし、大山氏の序論では、井上氏が評価している点をきちんと紹介しておらず、フェアでない書き方になっています。井上氏の主張については、井上論文を個別に取り上げる際、検討します)
 
 また、『日本書紀』の聖徳太子関連記事は倭習だらけだから唐に長年留学した道慈の筆のはずがないとする森博達さんの主張は、α群中国人作者説などに対する井上氏の批判とは無関係であって、今も大山説を根底から突き崩す強力な批判であり続けています。大山・吉田説では、唐に16年留学した道慈は儒仏道関する卓絶した学識を有していて文章に巧みだったことを再三強調していますが、そうした秀才が『日本書紀』の守屋合戦や片岡山飢人説話や太子没後の慧慈に関する記事のような倭習だらけの拙い漢文を書くか、ということです。

 儒仏道に通じていて文章に巧みな僧といえば、空海が第一でしょう。空海の入唐期間は短かったものの、その華麗な文章と『日本書紀』の太子関連記事を読み比べてみれば、空海より文才はかなり劣るにしても入唐経験の長い道慈が、ああした倭習だらけの文章を書くはずがないことが分かるはずです。

 あと、細かな点について言えば、瀬間論文の趣旨を説明したところで、百済の弥勒寺址から出土した舎利法安記について、「梁の法雲や隋の智、吉蔵らの影響を指摘し」(17頁)とあるのは問題です。瀬間さんは、法雲の影響は指摘しているものの、智と吉蔵については、江南仏教を受け継いだ百済の「舎利法安記」と共通する言い回しが見られ、吉蔵とその師の著作、智の師の著作などが参照された可能性があることを示唆しているだけです。智の影響があるとまでは明言していません。ここら辺は微妙なところであって、639年段階の百済で天台の影響が強かったとなると、これは朝鮮仏教史そのものの問題、その朝鮮仏教を移植して始まった日本仏教そのものの問題となり、三経義疏の著者についての議論に関わります。

 なお、私が強調してきた三経義疏における変則語法と江南・百済仏教の影響という点については、瀬間論文も曾根論文も重視しているところですが、瀬間論文が検討している新発見の百済の金石文の文句と三経義疏の類似について、大山氏の序論では「すでに石井公成氏の先駆的な研究もあり、『書紀』や<聖徳太子>関連の文献が、百済仏教の大きな影響をうけて成立したことが明確になってきたと言えそうである」(18頁)と書かれています。私の主張を大山氏に認めてもらったのは初めてですね。

 3年前の『アリーナ 2008』の大山論文では、三経義疏については、藤枝晃が「中国北朝の成立と考証し……中国製であることを鮮やかに証明した」(152頁)と断じていたうえ、三経義疏は「輸入品」であって行信が太子作だと宣伝した僞作にすぎない以上、そんな三経義疏については詳しく論ずるまでもないといった扱いでした。

 ところが今回は、瀬間論文や曾根論文によって「謎のかたまりのような『三経義疏』にも具体的な手がかりが得られつつあるのかもしれない」(18~19頁)と書かれており、三経義疏は「謎だらけ」ということになっています。いやあ、この変化は大きいですね。

 今後は、これまで鉄案としてきた藤枝先生の三経義疏中国撰述説から、百済撰述説に移るのでしょうか。もう一歩進んで、百済・高句麗からの渡来僧たちの作成といった方向に移ったなら、それはまさに、大山氏の師であった井上光貞先生の説となりますね。井上先生は、太子の主宰のもとでと付け加えていましたが。

 ともかく、井上先生は、三経義疏を光宅寺法雲や敦煌出土の『勝鬘経』注釈など中国の注釈と比較しながら綿密に読んでおり、御物本の複製も手元に置いて見たうえで論文を書いていましたので、私はその研究を高く評価しています。
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