九州王朝説信者のうち、古田史学の会については、その代表と、会の論集の編集長だった人物のトンデモ説をとりあげました(こちらと、こちら)。
こうした人たちには関わりたくないのですが、久留米大学が九州王朝論の公開講座を何年もやっており、古田史学の会の代表や上記の記事で少しだけ触れた事務局長も講義するようです。捏造石器にとびついて町おこしをしようとした地方自治体を思い出させるような状況ですので、代表と編集長だけでなく、事務局長の論文もいかに学問的でないかを示しておきます。
というのは、氏は大阪府立大学の非常勤講師をしており、知らない人は大学の講師という肩書きだけで信用してしまうからです。氏は古代史研究の専門家ではなく、以前は大学の事務の側で重要な役職をされておられたようですが、そちらについては触れません。
今回取り上げるのは、
正木裕「盗まれた「聖徳」」
(古田史学の会編『古代に真実を求めて : 古田史学論集』第18集「特集 盗まれた「聖徳太子」伝承」、2015年3月)
です。「論集」と称しているこの出版物は、会の性格にふさわしく、題名・副題・特集名がはっきりしない形になっており、奥付はこんな形です。
国会図書館では、扱いに困ったのか、「古代に真実を求めて」を題名、「古田史学論集」を副題、「盗まれた「聖徳太子」伝承」を特集名とみなし、以下のような形で登録していますので、それに従うことにしました。
さて、正木氏については、このブログでは第二十五集掲載の氏の「二人の聖徳太子「多利思北孤と利歌彌多弗利」」に触れ、その粗雑さを批判しておきましたが、内容以前の問題が多く、そもそも注をきちんとつけられない点は、他のメンバーと同じです。
正木氏は、「二人の聖徳太子「多利思北孤と利歌彌多弗利」」の注22の末尾では、こう記しています(68頁)。
拙著では「白雉年間の難波副都建設と評制の創設について」(古田史学会報八二号。二〇〇七年一〇月)、「前期難波美也の造営準備について」(古田史学論集第二十一集『発見された倭京』明石書店二〇一八年三月)
最後の行で書名・出版社・刊行年月が読点やスペース無しで続けて書いてあるのは見逃しミスでしょうが、『古田史学会会報』となっているところと、古田史学会会報、となっていてカギ括弧も二重カギ括弧もついていないところがあります。同じ注の中でのこの不統一さは信じられません。
正木氏は査読がある学術誌に投稿したことがないであろうことは、こうした書き方からも分かります。これで投稿したら、査読委員はぱらっと眺め、「はい、論文以前。内容を読む必要無し。読んでも無駄」で終わりです。
実際、CiNiiで検索すると、古田史学の会の論集以外に論文は発表していないようです。文科省は、研究者の極度に専門的な学術講義ばかりにせず、実務経験者が担当する社会の実状に即した講義を増やすよう大学に指導していますので、正木氏が非常勤講師として教えているのは古代史学などではなく、そうした実務的な内容でしょう。
なお、正木氏は、この会の論集については、「古田史学論集第二十一集『発見された倭京』明石書店二〇一八年三月」と表記しており、『発見された倭京』が題名であるような書き方ですね。一方、古田史学の会代表の古賀達也氏は、この第18集に掲載している「「君が代」の「君」は誰か」の注(170頁)では、
(8) 坂井衡平著『善光寺史』上(東京美術 一九六九年)
(9) 正木裕「天武九年の「病したまふ天皇」」(『古田史学会会報』第九四号 二〇〇九年)
(10) 岡下英男「聖徳太子の伝記の中の九州年号」(『古代に真実を求めて』第十七集所収 二〇一四年)
とあるように、「『古代に真実を求めて』第十七集所収」と記していて『古代に真実を求めて』を題名としています。自分たちの会で編集して刊行しておりながら、会員内部、それも代表と事務局長とで書名表記がばらばらです。
しかも、古賀氏の注では、先の記事で触れた服部氏の場合と同様、不要な「所収」が付いていますが、『古田史学会会報』の方には「所収」がついておらず、不統一であるうえ、単行本に限って著者名に「~著」を付けるという妙な形になっています。
学術論文や本の注で「所収」としている例もたまに見かけますが、どこかの雑誌に発表された論文だが、後にその著者の本や講座ものの本などに収録されており、この論文ではそちらを参照したというような場合、「初出は『〇〇大学文学部紀要』第八巻、一九六二年三月。△△編『〇〇講座』第三巻、古代史出版社、一九九六年、所収)などといった場合に用いるのが普通であって、出典に片っ端から「所収」と付けるのは標準的な引用の仕方ではありません。
以前の記事で書いたことを、もう一度、引いておきます。
内容のひどさはどうしようもないでしょうが、せめて注の付け方くらい編集部の担当編集者が注意してやれば良いと思うのですが。担当編集者は古田史学の会に任せっぱなしできちんと見ていないのか、それともこの会に好意的であって、歴史知識も編集能力も同じようなレベルなのか。
さて、正木氏は法隆寺金堂の釈迦三尊像銘に見える「上宮法皇」は、隋の皇帝を「海西の菩薩天子」と称して使いを送った「海東の菩薩天子」たる九州王朝の「多利思北孤」だとします。そして、「菩薩天子」とは、「仏法に帰依し仏門に入った天子(皇帝)を意味」する(145頁)と説くのですが、これは僧尼が守るべき詳細な戒律(vinaya=教団規則)と、大乗仏教を奉ずる僧尼や在俗信者が受ける精神的・理想的な心構えである菩薩戒(bodhisattva-śīla)の区別がついていないことによる間違いですね。
「仏門に入る」とは、出家・剃髮して僧尼ないしその前段階の身分になることです。菩薩戒の場合は、在家の男女なら五戒、僧尼であれば戒律を受けた後に菩薩戒を受けるのが普通であって、在家の場合、受戒しても出家する必要はありません。正木氏は仏教の常識であるこの区別が分かっていないため、「隋王朝でも、皇帝が僧籍に入り受戒している」(146頁)と述べるのですが、「僧籍に入る」のは正式に出家して認められた僧尼であって、俗人の籍であれ僧尼の籍であれ、民の籍の管理の最高責任者は皇帝であり、中国の皇帝は出家した例がありません。
そして、隋の文帝と煬帝の仏教関連の事績を並べるのですが、次のようになっています(146頁)。
◆(開皇元年)高祖、普く天下に詔し、任(ほしいまま)に出家を聽す。(『隋書経籍志巻四』)
◆(開皇四年)……俗を離れむと欲する者有らば師に任せ度せ(『仏祖統紀』)
◆(開皇五年)法経法師を招き、大極殿に菩薩戒を受く。……(『弁正論巻三』)
……
◆(開皇十一年)……楊広に「総持」の法号を授く。楊広跪(ひざまず)き受く(『中国歴史故事網』)
出典については「『隋書経籍志巻四』」とか「『仏祖統紀』」とか「『弁正論巻三』」などとしてあり、書名の二重カギ括弧の中に「巻四」などの巻数まで入れる妙な表記をしています。普通は、『隋書』「経籍志」巻四、とか、『隋書』経籍志巻四とか、『弁正論』巻三、とかでしょう。しかも、『仏祖統紀』については、大部の書なのに巻が表示されていません。不統一ですね。
「開皇元年」の条では、許すという意味の「聴」がここだけ「聽」となっていて旧字なのは、どこからかコピーして貼り込んだためでしょう。それに、「経籍志巻四」って、おかしいですね。その時代の書物の情報をまとめた経籍志は、『隋書』では巻三十二志第二十七に収録されています。
そこで、右の引文について確かめてみたところ、経籍志は「経籍一、経籍二、経籍三、経籍四」と分かれていますが、問題の箇所は、仏教書その他のリストを記してある「経籍四」の部分にありました。正木氏は、何かで検索してこの部分がヒットしたため、「経籍四」を巻のことだと思い込んだうえ、『隋書経籍志巻四』というおかしな形で書いたのですね。大学生の皆さん、こういうことをやってはいけません。
漢文の訓みはむろん間違いだらけです。たとえば、「開皇四年」条のうち、文帝が僧侶の得度は霊蔵律師にまかせると述べた部分について、氏は「師に任せ度せ」と訓読してますが、原文は「有欲離俗者任師度之」なのですから、「俗を離れんと欲する者有らば、師の之を度するに任す」です。「之」が脱けてますし、「任せ度せ」は、古文としてもおかしいと思わないのか。
「開皇五年」条では、正木氏は「法経法師を招き、大極殿に菩薩戒を受く」と訓んでいますが、『弁正論』を確認したところ、原文では「開皇五年爰請大徳経法師。受菩薩戒。因放獄囚。」(大正52・509a)となってました。「大徳の経法師を請じ」となっていて僧侶の名が違い、「招く」でなく「請じ」となっており、大極殿でという部分がありません。
そこで検索したら、『仏祖統紀』巻三九に「五年詔法経法師。於大興殿授菩薩戒」(大正49・359c)とあるため、これが本来の典拠なのかと思ったら、「大極殿」でなく「大興殿」となってました。つまり、『弁正論巻三』ではありませんし、隋の都である大興城の宮のことを、正木氏は日本の常識に基づいて勝手に「大極殿」と書き換えていたのです。こんな資料はどこにもないため、これは資料改変に等しい行為です。
さらに、「開皇十一年」に煬帝が天台智顗から菩薩戒を受けたことについては、出典として『中国歴史故事網』をあげています。実際には、同じ『仏祖統紀』の巻六に見える記事です。『中国歴史故事網』と二重カギ括弧になっており、本の引用の形ですが、文字面を見ると中国か台湾のネットのサイトのようです。
国会図書館でも中国・台湾の大手書店でも本としては検索できず、検索してみたら、やはりネットのサイトでした(http://www.lishi54.com/)。「中国歴史故事網」という漢字づくめなので権威がありそうですが、これは中国語だからであって、実際には、聖徳太子について資料を列挙する際、『日本書紀』『上宮聖徳法王帝説』「れきしチャンネル」、と並べているようなものです。
学生はレポートなどではやたらとネット記事の切り貼りをやるため、大学の授業では、「ネット記事は原則として使うな。原典にあたれ。資料として利用する場合は、注でURLを示し、必要な場合は何年何月何日閲覧と表記しておくように」などと教えると思うのですが、ネット記事であることを明記してURLを示すことをしておらず、あたかも書物から引用したような表示の仕方です。卒論でこうしたことをやると、不正とみなされて落とされます。大学の講師先生がこれですか……。
このように、隋の皇帝に関する仏教記事を4例をあげていながら、すべて問題がありました。孫引きばかりの粗雑論文、ネット記事のコピペだらけの学生レポートなどでも、ところどころにおかしな点があってバレるという程度が普通であって、ここまで連続して間違えているのは見たことがありません。
コピペすらきちんと出来ず、漢文も読めず、さらに勝手に書き換えて新しい典拠を作り出すことまでやっているわけですが、これほど次から次へと間違いを重ねることができるというのは、これはもう正木先生の特殊な才能ですね。隋の頃の皇帝の菩薩戒受戒については、河上麻由子さんの「隋代仏教の系譜ー菩薩戒を中心として」(『東アジアと日本』2、2005年)のような好論文があるほか、他にも論文が出ており、CiNiiで検索できるんですけどね。
こんな調子ですから、大事な主張に関してもおかしなことを書いていることは言うまでもないでしょう。たとえば、多利思北孤は煬帝に対して「重ねて仏法を興した」と述べており、「煬帝と崇仏を「競う」からには、この時点で法号を得ていて不思議はないだろう」(147頁)と氏は説きます。
つまり、多利思北孤は煬帝にライバル心を抱き、「私は仏教を興隆しましたが、あなたも重ねて、つまり、私の奉仏事業に重ねる形で興隆しているのですね」と使者に言わせたと見るのです。となると、多利思北孤は煬帝より仏教熱心で先に興隆に尽力していたことになります。
隋では、文帝が北周の廃仏を改めて仏教復興に尽力しており、経巻の整備・写本については、文帝が十三万二千八十六巻、煬帝が九十万三千五百八十巻、古像の修理は文帝が百五十万八千九百四十体、煬帝が十万一千体、新像の制作は文帝が大小十万六千五百八十体、煬帝は三千八百五十体と言われています(『釈氏稽古録』巻二、大正49・811a)。むろん、寺の修理や新造も大変な数です。
正木氏は、九州王朝の王である多利思北孤は「煬帝と同じく(あるいは「より先に」)仏教を興した海東の菩薩天子」だと自称している(66頁)と説いています。凄いですね。それほど仏教熱心だったのに、北九州には6世紀末から7世紀半ばの間の大きな寺の遺跡が一つもなく、寺の瓦を焼いた瓦窯も一つも発見されていないのは、なぜなんでしょう?
九州は朝鮮半島・中国大陸に近く、先進的であって、仏教も渡来人を通じて大和より早い時期に伝わっていたと、私は考えています。しかし、6世紀末から7世紀初めの日本において、瓦葺きの壮大な寺を建立し、大きな仏像を造るというのはまさに国家事業であって、家の中に小さな金銅仏などを安置して拝むというのとは、規模がまったく違うのです。
この点については、最近の研究である井形進『九州仏像入門ー大宰府を中心にー』(海鳥社、2019年)が九州のその時期の状況を示している通りです。
それに、「重興仏法」は、「隋の皇帝であるあなたは、重ねて、つまり、私(多利思北孤)と並んで」ということでなく、きわめて盛んであった仏教を北周が廃仏政策によって破壊したため、隋が再び興隆したということです。隋を建国した文帝は、還暦の誕生日に全国30箇所に舍利塔を建立させた際、「朕帰依三宝、重興聖教」(『広弘明集』巻17,大正52・213b)と述べているのをはじめ、詔勅でしばしば仏教を「重興」したという趣旨の言葉を述べています。
だからこそ、「重興仏法」の「海西菩薩天子」は煬帝ではなく、父の文帝だとしたり、文帝を相手として隋への遣使を準備したが、煬帝に代わったので、文言をそのまま煬帝相手に用いたといった説があるのであって、論文もいくつも出ているのです。
CiNiiで「菩薩天子」とか「重興」とかで検索すれば、文帝説を説く礪波護「天寿国と重興仏法の菩薩天子と」(『大谷学報』83巻2号、2005年3月)がヒットしてPDFで読めるのに、なぜ先行研究を調べようとしないのか。正木氏のこの論文で名をあげて引用しているのは、古田史学系の人たちが書いたものだけです。それに、SATで検索すれば、唐の道宣の『続高僧伝』が文帝について「重興仏法」(大正50・667c)と述べてますね。
このように、正木氏は漢文が読めず、用例も先行論文もきちんと調べずに、「九州王朝はすごかった」という思い込みに基づいて自説に都合良い珍解釈をし、通説をくつがえす新発見をしたと誇るわけですが、漢文訓読に関する特にひどい間違いは、『海東高僧伝』の真興王の記事をあげたところです。正木氏は、「幼年即柞」という原文を「幼年にして柞(はは)に即(つ)きたれども」(147頁)と訓んでいます。
「柞」は木へんであることが示しているように、ナラやクヌギなどの木の総称であって「ははそ」とも言われるそうですが、正木氏は勝手に「そ」を外して「はは」とし(改変が得意ですね)、「幼年にしてははに即く」と訓んでいます。真興王は、幼い頃は母にべったりだったが後に仏教熱心になった、ということですか?
邪馬壹国と邪馬臺国、倭国と俀国は違うとして、1字にこだわる九州王朝説信者でありながら、最古の朝鮮光文会本でも、それを受け継いだ仏教文献の世界標準である大正大蔵経も、「即柞」でなく「即祚」としており、幼くして即位したと述べているだけであることを確かめてないんですね。正木氏は、いったい『海東高僧伝』のどんなテキストに依ったのか。私は「柞」としているテキストは知らないのですが。それとも、氏はここでもコピペミスか転写ミスをしたうえで強引な解釈をしたのか。
氏は漢文が読めないのですから、注釈や現代語訳があるものについては、それを参照することをお勧めします。『海東高僧伝』は、私の親しい研究仲間である小峯和明さんたちの訳注本が平凡社の東洋文庫シリーズで出てますよ。むろん、「即祚」としています。
間違いは何行かにひとつくらいのペースで出てきており、こうした調子で指摘しているといつになっても終わりませんので、最後に一つだけ。
正木氏は、『隋書』の後代の版本の誤記を認めず、倭国の王は姓は阿毎、名は多利思北孤とし、しかも、「太子を名づけて利歌彌多弗利と為す(太子名利歌彌多弗利)」とある部分を、「太子を名づけて利と為す。歌彌多弗の利なり」と訓んで、俀国の太子の名は「利」だとする古田武彦氏の珍解釈を受け継ぎます。
そのため、「斑鳩厩戸勝鬘」が善光寺如来に宛てた手紙は、死を前にした「利」のお願いの手紙であって、「多利思北孤と利が聖徳太子のモデルであったことを示す」(149頁)と断言するのです。しかし、この手紙は中世の偽文献であり、この件に関する古田史学の会のメンバーたちの解釈が間違いだらけであることは、以前、指摘しました(こちら)。
それに、日本語ではラ行と濁音は語頭に立たず、ラ行で始まるのは漢語など外来語だけであることは、橋本進吉が「古代音韻の変遷」(1938年)で指摘し、通説となっています。韓国語でも古代にはラ行で始まる語はなかったようで、そのためラ行で始まる漢語はナ行の音に変えて発音するのです(「労働」は「ノドン」であって、例の北朝鮮のミサイルの名「ノドン」は、朝鮮労働党の「労働」ですね)。
俀国の太子だという「利」さんの「利」は、和語の「り」でなく、漢字の「利」なのか。だとしても、日本の漢字音は、遣唐使の影響で長安などの北方音に基づく漢音を用いるようになる前は、古代中国の漢字音が韓国に入って多少変化した漢字音を受け継いていたのですが、九州王朝はどの国から漢字音を学んだんでしょう。「理恵」とか「里沙」などラ行で始まる短い名も使われるようになった現代日本語を使っていたのでしょうか。
そもそも、「太子を名づけて利と為す。歌彌多弗の利なり」って何ですか?第十八集末尾に付された古田氏の読み下しの注だと、「哥彌多弗」は博多の地名である上塔(カミタフ)だそうですが、『隋書』の宋代の版本に見える「利歌彌多弗利」は「和歌彌多弗利(わかみたふり)」の誤りであって、大王の子を指す言葉であることは、1951年の渡辺三男論文が指摘しており(こちら)、これが通説です。
そのうえ、「太子名〇〇〇」というのは、漢語の語法では「太子の個人名は〇〇〇だ」ということです。「太子を〇と名づく。〇〇なり」ではありません(SATで検索してみてください)。多利思北孤が派遣した使いは、「太子の名は利です。対馬の利さんや肥後の利さんではなく、博多の上塔の利です」と説明したんですか。冗談もほどほどにしてください。
久留米大学の関係者の方々、見てますか? 皆さんが公開講座の講師に招いているのは、こういうレベルの歴史ファンたちですよ。久留米大学の教員たちも九州王朝論講座に参加しているようですが、他分野を専門としていて古代史については素人の方たちのようですね。
九州という地の歴史的意義の見直しのため、地域活性化・観光促進のためなのかもしれませんが、こうしたことをしていると、本業である専門分野もこの程度なのか、久留米大学全体もそうした大学なのかと思われてしまうでしょう。
学説はいろいろあって良く、「重興仏法」の「菩薩天子」は隋の文帝か煬帝かというのは学問上の異説ですが、「重興」は九州王朝の多利思北孤の仏教興隆に「重ねて」ということだとするのは、漢文が読めず、研究史を知らない素人のトンデモ解釈であって学説以前のレベルです。九州王朝説が最古の旧石器発見ブームの時のように久留米大学周辺で盛り上がり、「タリシホコ饅頭」とか「上塔の利マップ」とか作って後で回収するような事態にならないよう祈るばかりです。
【追記】
早朝に公開しましたが、『隋書』経籍志の引用間違い・コピペの件など、あれこれ訂正・追加したので、「訂正版」として再公開しました。
なお、題名は「大学生が手本にしてはならない~」としてありましたが、あまりにもひどいことが明らかになったため、「絶対に手本にしてはいけない」と改めました。よくここまで間違えられるもんだ……。
【追記:2022年5月28日】
「所収」の語、大興殿、韓国語の漢字音などについて説明を少し補足し、他にも表現をいくつか改めました。
【追記:2022年5月29日】
仏法を重興した「菩薩天子」について、礪波論文を例にあげました。残っていた誤記などを訂正し、わかりにくい部分を直しました。
なお、久留米大学の九州王朝論講座の題目には「九州王朝論と筑後の観光資源」というものがありました。公開講座担当の方々には、ゴッドハンドと称された藤村氏の捏造を告発した考古学者、竹岡俊樹氏の『考古学崩壊ー前期旧石器捏造事件の深層』(勉誠出版、2014年)の「第9章 行政・マスコミ・町おこし」を読むことをお勧めします。この章では、各地の自治体が旧石器発掘ブームを歓迎して町おこしに利用しようとし、「原人まんじゅう」などが売り出された状況を批判的に報じた朝日新聞の河合信和氏の文章、また、藤村氏の行為は「事実の捏造」だったが、そうしたブームに便乗した学者や行政の発掘担当者による大げさな発表の仕方については「解釈の捏造」と呼びたい、と記した読売新聞の矢沢高太郎氏の文章などを引き、当時の状況を明らかにしています(260頁)。藤村氏は、次々に大発見をしていったわけですが、古田史学の会の人たちも、前期難波宮は九州王朝の副都ないし複都であって四天王寺も九州王朝の寺だったなど、解釈変更だけで次々に新発見と称する成果をあげておられるようですね。
念の為に書いておきますが、私は万世一系を説く皇国史観寄りの立場で九州王朝論者を批判しているわけではありません。学問のレベルに達していないことを問題にしているだけであって、ブログを見てくだされば分かるように、虚構説の大山誠一、法隆寺怨霊鎮魂説の梅原猛、太子ノイローゼ説の井沢元彦、史実と異なる太子礼賛ばかりの「新しい歴史教科書をつくる会」元会長や理事など、様々な系統の人々の聖徳太子論の粗雑さを批判しています。私は仏教研究者ということになっていますが、津田左右吉のひ孫弟子であって、皇国史観などには大反対であり、いかにして古代の、また近代の日本の国家主義が形成されていったかを批判的に研究している一人です。6月7日開催の近代仏教史研究会では、明治期の日蓮宗系の天皇絶対主義は、実は外国の影響を受けていたことについて発表することになっています。
【追記:2022年5月31日】
樹木の名である「ははそ」の「そ」をことわりなく外して「はは(母)」としている、ということが分かりやすくなるよう表現を改めました。古田史学会論集第十八集に収録されている正木氏の他の聖徳太子論を眺めてみたら、そちらでも似たようなことをやってますね。「ははそ」については、「ははそい(葉々添)」「はほそ(葉細)」などが語源だとされており、「母」とは関係なさそうですが。