聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

【珍説奇説】大学生が絶対にレポートの手本にしてはいけない九州王朝説信者のトンデモ聖徳太子論【訂正版】

2022年05月27日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説
 九州王朝説信者のうち、古田史学の会については、その代表と、会の論集の編集長だった人物のトンデモ説をとりあげました(こちらと、こちら)。

 こうした人たちには関わりたくないのですが、久留米大学が九州王朝論の公開講座を何年もやっており、古田史学の会の代表や上記の記事で少しだけ触れた事務局長も講義するようです。捏造石器にとびついて町おこしをしようとした地方自治体を思い出させるような状況ですので、代表と編集長だけでなく、事務局長の論文もいかに学問的でないかを示しておきます。

 というのは、氏は大阪府立大学の非常勤講師をしており、知らない人は大学の講師という肩書きだけで信用してしまうからです。氏は古代史研究の専門家ではなく、以前は別な方面で重要な役職をされておられたようですが、そちらについては触れません。

 今回取り上げるのは、

正木裕「盗まれた「聖徳」」
(古田史学の会編『古代に真実を求めて : 古田史学論集』第18集「特集 盗まれた「聖徳太子」伝承」、2015年3月)

です。「論集」と称しているこの出版物は、会の性格にふさわしく、題名・副題・特集名がはっきりしない形になっており、奥付はこんな形です。



国会図書館では、扱いに困ったのか、「古代に真実を求めて」を題名、「古田史学論集」を副題、「盗まれた「聖徳太子」伝承」を特集名とみなし、以下のような形で登録していますので、それに従うことにしました。



 さて、正木氏については、このブログでは第二十五集掲載の氏の「二人の聖徳太子「多利思北孤と利歌彌多弗利」」に触れ、その粗雑さを批判しておきましたが、内容以前の問題が多く、そもそも注をきちんとつけられない点は、他のメンバーと同じです。

 正木氏は、「二人の聖徳太子「多利思北孤と利歌彌多弗利」」の注22の末尾では、こう記しています(68頁)。

 また、「難波宮は九州王朝の宮城」との説は、古賀達也氏が二〇〇七年に研究会で発表し、『古田史学会会報』八五号に「前期難波宮は九州王朝の副都」(二〇〇八年四月)を投稿して以来……考古学的論点では「前期難波宮の考古学(1)(2)(3)」(古田史学会会報一〇二号・一〇三号・一〇八号・二〇一一年~二〇一二年がある。
 拙著では「白雉年間の難波副都建設と評制の創設について」(古田史学会報八二号。二〇〇七年一〇月)、「前期難波美也の造営準備について」(古田史学論集第二十一集『発見された倭京』明石書店二〇一八年三月)

 最後の行で書名・出版社・刊行年月が読点やスペース無しで続けて書いてあるのは見逃しミスでしょうが、『古田史学会会報』となっているところと、古田史学会会報、となっていてカギ括弧も二重カギ括弧もついていないところがあります。同じ注の中でのこの不統一さは信じられません。

 正木氏は査読がある学術誌に投稿したことがないであろうことは、こうした書き方からも分かります。これで投稿したら、査読委員はぱらっと眺め、「はい、論文以前。内容を読む必要無し。読んでも無駄」で終わりです。

 実際、CiNiiで検索すると、古田史学の会の論集以外に論文は発表していないようです。文科省は、研究者の極度に専門的な学術講義ばかりにせず、実務経験者が担当する社会の実状に即した講義を増やすよう大学に指導していますので、正木氏が非常勤講師として教えているのは古代史学などではなく、そうした実務的な内容でしょう。

 なお、正木氏は、この会の論集については、「古田史学論集第二十一集『発見された倭京』明石書店二〇一八年三月」と表記しており、『発見された倭京』が題名であるような書き方ですね。一方、古田史学の会代表の古賀達也氏は、この第18集に掲載している「「君が代」の「君」は誰か」の注(170頁)では、

 (8) 坂井衡平著『善光寺史』上(東京美術 一九六九年)
 (9) 正木裕「天武九年の「病したまふ天皇」」(『古田史学会会報』第九四号 二〇〇九年)
 (10) 岡下英男「聖徳太子の伝記の中の九州年号」(『古代に真実を求めて』第十七集所収 二〇一四年)

とあるように、「『古代に真実を求めて』第十七集所収」と記していて『古代に真実を求めて』を題名としています。自分たちの会で編集して刊行しておりながら、会員内部、それも代表と事務局長とで書名表記がばらばらです。

 しかも、古賀氏の注では、先の記事で触れた服部氏の場合と同様、不要な「所収」が付いていますが、『古田史学会会報』の方には「所収」がついておらず、不統一であるうえ、単行本に限って著者名に「~著」を付けるという妙な形になっています。

 学術論文や本の注で「所収」としている例もたまに見かけますが、どこかの雑誌に発表された論文だが、後にその著者の本や講座ものの本などに収録されており、この論文ではそちらを参照したというような場合、「初出は『〇〇大学文学部紀要』第八巻、一九六二年三月。△△編『〇〇講座』第三巻、古代史出版社、一九九六年、所収)などといった場合に用いるのが普通であって、出典に片っ端から「所収」と付けるのは標準的な引用の仕方ではありません。

 以前の記事で書いたことを、もう一度、引いておきます。

 明石書店は良書を出している社会派の出版社なのに、なぜ学問の訓練を受けていない大学1年生たちが組織した歴史同好会のトンデモ会報みたいなシリーズを出し続け、会社の信用度を落とすのか、不思議です。
 内容のひどさはどうしようもないでしょうが、せめて注の付け方くらい編集部の担当編集者が注意してやれば良いと思うのですが。担当編集者は古田史学の会に任せっぱなしできちんと見ていないのか、それともこの会に好意的であって、歴史知識も編集能力も同じようなレベルなのか。

 さて、正木氏は法隆寺金堂の釈迦三尊像銘に見える「上宮法皇」は、隋の皇帝を「海西の菩薩天子」と称して使いを送った「海東の菩薩天子」たる九州王朝の「多利思北孤」だとします。そして、「菩薩天子」とは、「仏法に帰依し仏門に入った天子(皇帝)を意味」する(145頁)と説くのですが、これは僧尼が守るべき詳細な戒律(vinaya=教団規則)と、大乗仏教を奉ずる僧尼や在俗信者が受ける精神的・理想的な心構えである菩薩戒(bodhisattva-śīla)の区別がついていないことによる間違いですね。

 「仏門に入る」とは、出家・剃髮して僧尼ないしその前段階の身分になることです。菩薩戒の場合は、在家の男女なら五戒、僧尼であれば戒律を受けた後に菩薩戒を受けるのが普通であって、在家の場合、受戒しても出家する必要はありません。正木氏は仏教の常識であるこの区別が分かっていないため、「隋王朝でも、皇帝が僧籍に入り受戒している」(146頁)と述べるのですが、「僧籍に入る」のは正式に出家して認められた僧尼であって、俗人の籍であれ僧尼の籍であれ、民の籍の管理の最高責任者は皇帝であり、中国の皇帝は出家した例がありません。

 そして、隋の文帝と煬帝の仏教関連の事績を並べるのですが、次のようになっています(146頁)。

 ◆(開皇元年)高祖、普く天下に詔し、任(ほしいまま)に出家を聽す。(『隋書経籍志巻四』)
 ◆(開皇四年)……俗を離れむと欲する者有らば師に任せ度せ(『仏祖統紀』)
 ◆(開皇五年)法経法師を招き、大極殿に菩薩戒を受く。……(『弁正論巻三』)
 ……
 ◆(開皇十一年)……楊広に「総持」の法号を授く。楊広跪(ひざまず)き受く(『中国歴史故事網』)

 出典については「『隋書経籍志巻四』」とか「『仏祖統紀』」とか「『弁正論巻三』」などとしてあり、書名の二重カギ括弧の中に「巻四」などの巻数まで入れる妙な表記をしています。普通は、『隋書』「経籍志」巻四、とか、『隋書』経籍志巻四とか、『弁正論』巻三、とかでしょう。しかも、『仏祖統紀』については、大部の書なのに巻が表示されていません。不統一ですね。

 「開皇元年」の条では、許すという意味の「聴」がここだけ「聽」となっていて旧字なのは、どこからかコピーして貼り込んだためでしょう。それに、「経籍志巻四」って、おかしいですね。その時代の書物の情報をまとめた経籍志は、『隋書』では巻三十二志第二十七に収録されています。

 そこで、右の引文について確かめてみたところ、経籍志は「経籍一、経籍二、経籍三、経籍四」と分かれていますが、問題の箇所は、仏教書その他のリストを記してある「経籍四」の部分にありました。正木氏は、何かで検索してこの部分がヒットしたため、「経籍四」を巻のことだと思い込んだうえ、『隋書経籍志巻四』というおかしな形で書いたのですね。大学生の皆さん、こういうことをやってはいけません。

 漢文の訓みはむろん間違いだらけです。たとえば、「開皇四年」条のうち、文帝が僧侶の得度は霊蔵律師にまかせると述べた部分について、氏は「師に任せ度せ」と訓読してますが、原文は「有欲離俗者任師度之」なのですから、「俗を離れんと欲する者有らば、師の之を度するに任す」です。「之」が脱けてますし、「任せ度せ」は、古文としてもおかしいと思わないのか。

 「開皇五年」条では、正木氏は「法経法師を招き、大極殿に菩薩戒を受く」と訓んでいますが、『弁正論』を確認したところ、原文では「開皇五年爰請大徳経法師。受菩薩戒。因放獄囚。」(大正52・509a)となってました。「大徳の経法師を請じ」となっていて僧侶の名が違い、「招く」でなく「請じ」となっており、大極殿でという部分がありません。

 そこで検索したら、『仏祖統紀』巻三九に「五年詔法経法師。於大興殿授菩薩戒」(大正49・359c)とあるため、これが本来の典拠なのかと思ったら、「大極殿」でなく「大興殿」となってました。つまり、『弁正論巻三』ではありませんし、隋の都である大興城の宮のことを、正木氏は日本の常識に基づいて勝手に「大極殿」と書き換えていたのです。こんな資料はどこにもないため、これは資料改変に等しい行為です。

 さらに、「開皇十一年」に煬帝が天台智顗から菩薩戒を受けたことについては、出典として『中国歴史故事網』をあげています。実際には、同じ『仏祖統紀』の巻六に見える記事です。『中国歴史故事網』と二重カギ括弧になっており、本の引用の形ですが、文字面を見ると中国か台湾のネットのサイトのようです。

 国会図書館でも中国・台湾の大手書店でも本としては検索できず、検索してみたら、やはりネットのサイトでした(http://www.lishi54.com/)。「中国歴史故事網」という漢字づくめなので権威がありそうですが、これは中国語だからであって、実際には、聖徳太子について資料を列挙する際、『日本書紀』『上宮聖徳法王帝説』「れきしチャンネル」、と並べているようなものです。

 学生はレポートなどではやたらとネット記事の切り貼りをやるため、大学の授業では、「ネット記事は原則として使うな。原典にあたれ。資料として利用する場合は、注でURLを示し、必要な場合は何年何月何日閲覧と表記しておくように」などと教えると思うのですが、ネット記事であることを明記してURLを示すことをしておらず、あたかも書物から引用したような表示の仕方です。卒論でこうしたことをやると、不正とみなされて落とされます。大学の講師先生がこれですか……。

 このように、隋の皇帝に関する仏教記事を4例をあげていながら、すべて問題がありました。孫引きばかりの粗雑論文、ネット記事のコピペだらけの学生レポートなどでも、ところどころにおかしな点があってバレるという程度が普通であって、ここまで連続して間違えているのは見たことがありません。

 コピペすらきちんと出来ず、漢文も読めず、さらに勝手に書き換えて新しい典拠を作り出すことまでやっているわけですが、これほど次から次へと間違いを重ねることができるというのは、これはもう正木先生の特殊な才能ですね。隋の頃の皇帝の菩薩戒受戒については、河上麻由子さんの「隋代仏教の系譜ー菩薩戒を中心として」(『東アジアと日本』2、2005年)のような好論文があるほか、他にも論文が出ており、CiNiiで検索できるんですけどね。

 こんな調子ですから、大事な主張に関してもおかしなことを書いていることは言うまでもないでしょう。たとえば、多利思北孤は煬帝に対して「重ねて仏法を興した」と述べており、「煬帝と崇仏を「競う」からには、この時点で法号を得ていて不思議はないだろう」(147頁)と氏は説きます。

 つまり、多利思北孤は煬帝にライバル心を抱き、「私は仏教を興隆しましたが、あなたも重ねて、つまり、私の奉仏事業に重ねる形で興隆しているのですね」と使者に言わせたと見るのです。となると、多利思北孤は煬帝より仏教熱心で先に興隆に尽力していたことになります。

 隋では、文帝が北周の廃仏を改めて仏教復興に尽力しており、経巻の整備・写本については、文帝が十三万二千八十六巻、煬帝が九十万三千五百八十巻、古像の修理は文帝が百五十万八千九百四十体、煬帝が十万一千体、新像の制作は文帝が大小十万六千五百八十体、煬帝は三千八百五十体と言われています(『釈氏稽古録』巻二、大正49・811a)。むろん、寺の修理や新造も大変な数です。

 正木氏は、九州王朝の王である多利思北孤は「煬帝と同じく(あるいは「より先に」)仏教を興した海東の菩薩天子」だと自称している(66頁)と説いています。凄いですね。それほど仏教熱心だったのに、北九州には6世紀末から7世紀半ばの間の大きな寺の遺跡が一つもなく、寺の瓦を焼いた瓦窯も一つも発見されていないのは、なぜなんでしょう?
 
 九州は朝鮮半島・中国大陸に近く、先進的であって、仏教も渡来人を通じて大和より早い時期に伝わっていたと、私は考えています。しかし、6世紀末から7世紀初めの日本において、瓦葺きの壮大な寺を建立し、大きな仏像を造るというのはまさに国家事業であって、家の中に小さな金銅仏などを安置して拝むというのとは、規模がまったく違うのです。

 この点については、最近の研究である井形進『九州仏像入門ー大宰府を中心にー』(海鳥社、2019年)が九州のその時期の状況を示している通りです。

 それに、「重興仏法」は、「隋の皇帝であるあなたは、重ねて、つまり、私(多利思北孤)と並んで」ということでなく、きわめて盛んであった仏教を北周が廃仏政策によって破壊したため、隋が再び興隆したということです。隋を建国した文帝は、還暦の誕生日に全国30箇所に舍利塔を建立させた際、「朕帰依三宝、重興聖教」(『広弘明集』巻17,大正52・213b)と述べているのをはじめ、詔勅でしばしば仏教を「重興」したという趣旨の言葉を述べています。

 だからこそ、「重興仏法」の「海西菩薩天子」は煬帝ではなく、父の文帝だとしたり、文帝を相手として隋への遣使を準備したが、煬帝に代わったので、文言をそのまま煬帝相手に用いたといった説があるのであって、論文もいくつも出ているのです。

 CiNiiで「菩薩天子」とか「重興」とかで検索すれば、文帝説を説く礪波護「天寿国と重興仏法の菩薩天子と」(『大谷学報』83巻2号、2005年3月)がヒットしてPDFで読めるのに、なぜ先行研究を調べようとしないのか。正木氏のこの論文で名をあげて引用しているのは、古田史学系の人たちが書いたものだけです。それに、SATで検索すれば、唐の道宣の『続高僧伝』が文帝について「重興仏法」(大正50・667c)と述べてますね。

 このように、正木氏は漢文が読めず、用例も先行論文もきちんと調べずに、「九州王朝はすごかった」という思い込みに基づいて自説に都合良い珍解釈をし、通説をくつがえす新発見をしたと誇るわけですが、漢文訓読に関する特にひどい間違いは、『海東高僧伝』の真興王の記事をあげたところです。正木氏は、「幼年即柞」という原文を「幼年にして柞(はは)に即(つ)きたれども」(147頁)と訓んでいます。

 「柞」は木へんであることが示しているように、ナラやクヌギなどの木の総称であって「ははそ」とも言われるそうですが、正木氏は勝手に「そ」を外して「はは」とし(改変が得意ですね)、「幼年にしてははに即く」と訓んでいます。真興王は、幼い頃は母にべったりだったが後に仏教熱心になった、ということですか? 

 邪馬壹国と邪馬臺国、倭国と俀国は違うとして、1字にこだわる九州王朝説信者でありながら、最古の朝鮮光文会本でも、それを受け継いだ仏教文献の世界標準である大正大蔵経も、「即柞」でなく「即祚」としており、幼くして即位したと述べているだけであることを確かめてないんですね。正木氏は、いったい『海東高僧伝』のどんなテキストに依ったのか。私は「柞」としているテキストは知らないのですが。それとも、氏はここでもコピペミスか転写ミスをしたうえで強引な解釈をしたのか。

 氏は漢文が読めないのですから、注釈や現代語訳があるものについては、それを参照することをお勧めします。『海東高僧伝』は、私の親しい研究仲間である小峯和明さんたちの訳注本が平凡社の東洋文庫シリーズで出てますよ。むろん、「即祚」としています。

 間違いは何行かにひとつくらいのペースで出てきており、こうした調子で指摘しているといつになっても終わりませんので、最後に一つだけ。

 正木氏は、『隋書』の後代の版本の誤記を認めず、倭国の王は姓は阿毎、名は多利思北孤とし、しかも、「太子を名づけて利歌彌多弗利と為す(太子名利歌彌多弗利)」とある部分を、「太子を名づけて利と為す。歌彌多弗の利なり」と訓んで、俀国の太子の名は「利」だとする古田武彦氏の珍解釈を受け継ぎます。

 そのため、「斑鳩厩戸勝鬘」が善光寺如来に宛てた手紙は、死を前にした「利」のお願いの手紙であって、「多利思北孤と利が聖徳太子のモデルであったことを示す」(149頁)と断言するのです。しかし、この手紙は中世の偽文献であり、この件に関する古田史学の会のメンバーたちの解釈が間違いだらけであることは、以前、指摘しました(こちら)。

 それに、日本語ではラ行と濁音は語頭に立たず、ラ行で始まるのは漢語など外来語だけであることは、橋本進吉が「古代音韻の変遷」(1938年)で指摘し、通説となっています。韓国語でも古代にはラ行で始まる語はなかったようで、そのためラ行で始まる漢語はナ行の音に変えて発音するのです(「労働」は「ノドン」であって、例の北朝鮮のミサイルの名「ノドン」は、朝鮮労働党の「労働」ですね)。

 俀国の太子だという「利」さんの「利」は、和語の「り」でなく、漢字の「利」なのか。だとしても、日本の漢字音は、遣唐使の影響で長安などの北方音に基づく漢音を用いるようになる前は、古代中国の漢字音が韓国に入って多少変化した漢字音を受け継いていたのですが、九州王朝はどの国から漢字音を学んだんでしょう。「理恵」とか「里沙」などラ行で始まる短い名も使われるようになった現代日本語を使っていたのでしょうか。
 
 そもそも、「太子を名づけて利と為す。歌彌多弗の利なり」って何ですか?第十八集末尾に付された古田氏の読み下しの注だと、「哥彌多弗」は博多の地名である上塔(カミタフ)だそうですが、『隋書』の宋代の版本に見える「利歌彌多弗利」は「和歌彌多弗利(わかみたふり)」の誤りであって、大王の子を指す言葉であることは、1951年の渡辺三男論文が指摘しており(こちら)、これが通説です。

 そのうえ、「太子名〇〇〇」というのは、漢語の語法では「太子の個人名は〇〇〇だ」ということです。「太子を〇と名づく。〇〇なり」ではありません(SATで検索してみてください)。多利思北孤が派遣した使いは、「太子の名は利です。対馬の利さんや肥後の利さんではなく、博多の上塔の利です」と説明したんですか。冗談もほどほどにしてください。
 
 久留米大学の関係者の方々、見てますか? 皆さんが公開講座の講師に招いているのは、こういうレベルの歴史ファンたちですよ。久留米大学の教員たちも九州王朝論講座に参加しているようですが、他分野を専門としていて古代史については素人の方たちのようですね。

 九州という地の歴史的意義の見直しのため、地域活性化・観光促進のためなのかもしれませんが、こうしたことをしていると、本業である専門分野もこの程度なのか、久留米大学全体もそうした大学なのかと思われてしまうでしょう。

 学説はいろいろあって良く、「重興仏法」の「菩薩天子」は隋の文帝か煬帝かというのは学問上の異説ですが、「重興」は九州王朝の多利思北孤の仏教興隆に「重ねて」ということだとするのは、漢文が読めず、研究史を知らない素人のトンデモ解釈であって学説以前のレベルです。九州王朝説が最古の旧石器発見ブームの時のように久留米大学周辺で盛り上がり、「タリシホコ饅頭」とか「上塔の利マップ」とか作って後で回収するような事態にならないよう祈るばかりです。

【追記】
早朝に公開しましたが、『隋書』経籍志の引用間違い・コピペの件など、あれこれ訂正・追加したので、「訂正版」として再公開しました。
なお、題名は「大学生が手本にしてはならない~」としてありましたが、あまりにもひどいことが明らかになったため、「絶対に手本にしてはいけない」と改めました。よくここまで間違えられるもんだ……。
【追記:2022年5月28日】
「所収」の語、大興殿、韓国語の漢字音などについて説明を少し補足し、他にも表現をいくつか改めました。
【追記:2022年5月29日】
仏法を重興した「菩薩天子」について、礪波論文を例にあげました。残っていた誤記などを訂正し、わかりにくい部分を直しました。
 なお、久留米大学の九州王朝論講座の題目には「九州王朝論と筑後の観光資源」というものがありました。公開講座担当の方々には、ゴッドハンドと称された藤村氏の捏造を告発した考古学者、竹岡俊樹氏の『考古学崩壊ー前期旧石器捏造事件の深層』(勉誠出版、2014年)の「第9章 行政・マスコミ・町おこし」を読むことをお勧めします。この章では、各地の自治体が旧石器発掘ブームを歓迎して町おこしに利用しようとし、「原人まんじゅう」などが売り出された状況を批判的に報じた朝日新聞の河合信和氏の文章、また、藤村氏の行為は「事実の捏造」だったが、そうしたブームに便乗した学者や行政の発掘担当者による大げさな発表の仕方については「解釈の捏造」と呼びたい、と記した読売新聞の矢沢高太郎氏の文章などを引き、当時の状況を明らかにしています(260頁)。藤村氏は、次々に大発見をしていったわけですが、古田史学の会の人たちも、前期難波宮は九州王朝の副都ないし複都であって四天王寺も九州王朝の寺だったなど、解釈変更だけで次々に新発見と称する成果をあげておられるようですね。
 念の為に書いておきますが、私は万世一系を説く皇国史観寄りの立場で九州王朝論者を批判しているわけではありません。学問のレベルに達していないことを問題にしているだけであって、ブログを見てくだされば分かるように、虚構説の大山誠一、法隆寺怨霊鎮魂説の梅原猛、太子ノイローゼ説の井沢元彦、史実と異なる太子礼賛ばかりの「新しい歴史教科書をつくる会」元会長や理事など、様々な系統の人々の聖徳太子論の粗雑さを批判しています。私は仏教研究者ということになっていますが、津田左右吉のひ孫弟子であって、皇国史観などには大反対であり、いかにして古代の、また近代の日本の国家主義が形成されていったかを批判的に研究している一人です。6月7日開催の近代仏教史研究会では、明治期の日蓮宗系の天皇絶対主義は、実は外国の影響を受けていたことについて発表することになっています。
【追記:2022年5月31日】
樹木の名である「ははそ」の「そ」をことわりなく外して「はは(母)」としている、ということが分かりやすくなるよう表現を改めました。古田史学会論集第十八集に収録されている正木氏の他の聖徳太子論を眺めてみたら、そちらでも似たようなことをやってますね。「ははそ」については、「ははそい(葉々添)」「はほそ(葉細)」などが語源だとされており、「母」とは関係なさそうですが。

「聖徳太子」という呼称を用いた最初は、歴代天皇の漢字諡号を定めた淡海三船

2022年05月24日 | 論文・研究書紹介
 前々回の記事で触れたように、「聖徳太子」という呼称を用いた最初は、奈良時代後半に石上宅嗣とともに「文人の首」と称され、歴代天皇の漢字諡号を定めた淡海三船(722-785)と思われます。

 このことについては、真宗大谷派教学研究所での講演、

石井公成「聖徳太子といかに向き合うか―小倉豊文の太子研究を手がかりとして―」
(『教化研究』166号、2020年7月。こちら

で語っておきました。ただ、題名が題名だけに、この講演録はあまり読まれておらず、淡海三船の件は広く知られていないようです。

 聖徳太子の従来のイメージに縛られずに客観的に研究するため、生前に呼ばれていた名によって呼ぼうとして文献に見えない「厩戸王」という呼称を仮に想定した小倉豊文については、尊敬しているため、このブログでも小倉コーナーを特設してあるのですが、こちら)。

 さて、『釈日本紀』の「私記」によれば、神武天皇などの漢字諡号を定めたのは淡海三船だと「師」が説いたと記しています。この点は学界でも認められており、通説になっています。また、現存文献における「聖徳太子」の語の初出は、751年に記された漢詩集、『懐風藻』の序であることは良く知られており、この『懐風藻』は三船の編纂によることもほぼ通説になっています。

 その三船は、鑑真とともに来日した弟子の思託と仲が良かったのですが、思託は日本で天台宗と戒律を広めようとしており、聖徳太子は天台大師智顗の師である南岳慧思の生まれ変わりだと主張していました。思託の『鑑真和尚東征伝』に基づいて真人元開(淡海三船)が書いた『法務贈大僧正唐鑑真過海大師東征伝』(779年)には「聖徳太子」とあり、ここでは南岳慧思後身説も見えています。

 それ以前から、三船は自作の漢詩でも「聖徳太子」という言葉を使っていました。それは、神護景雲元(767年)に、称徳天皇に従って法隆寺東院を訪れた際の漢詩、「五言。扈従聖徳宮寺一首。高野天皇在祚」の序に「聖徳太子」と見えており、ここで既に太子は南岳慧思の生まれ変わりと述べています。

 つまり、「聖徳太子」という言葉は、奈良朝半ばすぎには南岳慧思の生まれ変わり説と結び付いた形で用いられていたのです。思託が来日したのは753年ですので、「聖徳太子」の語はそれ以前から用いられていたことになりますが、『日本書紀』では太子のことを「東宮聖徳」と呼び、また「上宮太子」と呼んでいるのですから、これを結びつければ、「聖徳太子」という語ができあがることになります。

 三船は、『大乗起信論』の注釈で知られる新羅の還俗僧、元暁を尊敬し、自らも『起信論』の注釈を書いて中国に送っています。このため、新羅から元暁の孫である薛仲業が外交使節としてやって来ると、元暁には会えなかったが孫に会うことが出来たと喜んで大いに歓待したのです。

 このことは、薛仲業が帰国した後、元暁を讃えて新羅の高仙寺に建てられた「響幢和上塔碑」に記されており、元暁の評価があがる一因となったようです。この碑は、割れた一部が現存しています。

 三船は御船王と呼ばれた皇族でありながら臣籍降下して僧となり、還俗して学者となった人物です。このことから考えると、三船は自分と同様に居士であって経論の注釈を著した聖徳太子と元暁を尊崇していたと思われます。

 その三船が歴代の天皇諡号を定めたのですから、厩戸皇子について「聖徳太子」という尊称を創り出しても不思議はありませんし、それ以前から寺院などで「聖徳太子」という呼称が用いられていたとしても、広めて定着させたのは三船だと見て間違いないでしょう。

天孫神話の原型は400年頃に伽耶から須恵器とともに伝わった?:瀬間正之「高句麗・百済・伽耶の建国神話と日本」

2022年05月21日 | 論文・研究書紹介
 「阿毎多利思比孤」について二人の研究者の説を紹介しましたが、匈奴であれ倭国であれ、その国独自の伝統に基づく「天子」という概念はありうるものの、「天孫」を天から地上に送るというのは特殊な形ですね。この点が聖武天皇を「孫」とする藤原不比等の政治的位置と関わることを示唆したのは、上山春平氏でした。

 ここまでは仮説としてはありうるものの、大山氏の太子虚構説は、これを極度なまでに展開したため、墓穴を掘る結果となった次第です。

 ただ、問題は、「天孫降臨」の思想を受け入れる基盤、つまり、天から幼い者が支配者として地に降りてくるという図式が倭国に古くからあったかどうかですね。この問題に取り組んだのが、

瀬間正之「高句麗・百済・伽耶の建国神話と日本」
(『東洋文化研究』第20号、2018年3月。こちら

です。早くからコンピュータを活用して『風土記』や『古事記』の仏教利用の面を解明してきた瀬間さんは、最初期の文系コンピュータ利用仲間の一人であって、日本と古代韓国の変格漢文にも注意を払っていたため、以前、科研費で変格漢文の国際共同研究をおこなった際は、メンバーとしてご参加いただきました。

 その瀬間さんは、学部時代に韓国語を学び、また2008年に韓国に長期滞在したほか、近年も在外研究で韓国におもむいて韓国の研究者たちと交流して木簡などに見える変格語法に注意しており、2010年頃からは「<百済・倭>漢字文化圏」というものを唱えています。これは、百済滅亡の後、大量の亡命者たちがやってきていますが、その一世と二世くらいまでは、百済と倭は同じ漢字文化圏であったというものです。

 これにはその前駆があり、それは高句麗の好太王が400年に韓国南部の伽耶まで進出したため、大量の伽耶人が倭国に逃れてきたことです。この人たちがもたらしたのが、伽耶式土器であって、これがいわゆる須恵器です。瀬間さんは、この人たちは、須恵器だけでなく、神話ももたらしたと推測するのです。

 瀬間さんは、百済の漢字の字体が藤原宮の木簡にも見えるものの、平城宮になると変わってくるなど、早い時期における百済の漢字文化の影響を指摘します。百済の木簡297号に見える「疎加(ソカル)」の「ル」は、稲荷山鉄剣の「獲可多支(ワカタケル)」と同じ字体なのです。

 これに対して、新羅では固有の言葉の発音を漢字で表記するやり方は、百済や日本と異なっていたとし、ただ、片仮名の起源になるもの、またお経の訓点は新羅と密接に関係すると瀬間さんは述べます。

 『日本書紀』天智天皇7年の記事で唐が高句麗を討ったという部分では、「母夫人」という語に「おりくく」という古訓がつけられていますが、これについては『周書』百済伝が「妻を於陸と名づく」とし、「夏言妃也(夏には妃と言うなり)」と述べていることに注意します。朝鮮半島関連の記事は亡命百済人が訓をつけていたと説くのです(「〇言~」の語法については、前回の記事で触れましたね)。

 こうした古訓については疑われることもあったのですが、1975年に百済の地である光州から『千字文』が出たため、百済の発音が判明し、『日本書紀』に見える不思議な訓は、百済人の言葉に基づくことが判明しました。

 その他、興味深い指摘が多いのですが、この記事の題名に関連する内容として、伽耶国神話と天孫降臨説話の類似をとりあげたところを見てみましょう。

 高麗の『三国遺事』が引用している『駕洛国記』のうち、首露王の降臨神話の部分では「北亀旨」に降りたとされていますが、この「亀旨(くじ)」の語が日本の天孫降臨の地である「久士布流多気(くしふるたけ)」と音が一致することが前から注目されていました。

 この神話では、それから幾ばくもなくして天から紫色の縄が下りて来て地に着き、縄のもとを見ると紅幅で包まれた金の合子があり、開けてみると黄金の卵が六つ入っていたとされています。これが、真床覆衾に包まれて嬰兒(ニニギ)が降臨するのと良く似ているのです。

 瀬間さんは、ここで三輪の大物主が蛇となって結婚するという三輪山神婚譚に注目します。三輪の娘のところに正体不明の男が毎晩やって来るが分からないため、衣に針と糸を付けておき、その糸をたどっていくと、三輪山の神の社に至ったため、男は神の子だと知り、糸は三勾(みわ)だけ残っていたので三輪と名付けたという話です。

 これと似た話が『三国遺事』の「後百済」のところに見えており、紫の衣を着た男が娘の寝室にやってきて共寝するため、父が長い糸を針に通して男の衣に刺しておくように言い、夜が明けてから糸をたどっていくと、大きなミミズにささっており、娘はみごもって子を産んだが、それが百済王の甄萱となったとしています。ただ、この話より、母が池の龍と交わって百済の武王となる藷童が生まれたとする説話の方が古いようです。

 瀬間さんが問題とするのは、『新撰姓氏録』や『粟鹿大明神元記』などでは、糸をたどっていく際、茅渟の陶邑から三輪山まで行っている点です。そこで瀬間さんは、陶邑を通る理由を問題とし、三輪山からは陶邑で作られた祭祀用の須恵器が大量に出土していること、また百済の甄萱の「甄」も陶の意味であることに注目します。そして、三輪山型説話の原型が朝鮮半島にあり、特に須恵器の作成法を伝えた集団で伝承されていた可能性を推測するのです。

 『常陸風土記』でも、誕生した子が蛇であって、子供を育てる容器として「杯(つき)」や「瓫(ひらか)」が登場するなど、須恵器と関わる素材が出てくることに注目するのです。

 このため、瀬間さんは三輪山型神婚譚も「天孫降臨神話」も400年に高句麗侵攻から逃れてやってきた亡命伽耶人たちが持って来たのではないか「想像をたくましくしているところです」(153頁)と述べて終わっています。

 「天孫降臨神話」と言っても、「孫」の部分はなく、あくまでも「天」から幼い者/卵が包まれて降りてくるという図式のことでしょうが、倭国と朝鮮半島南部の国が密接な関係にあったのは明らかなのですから、瀬間さんの問題提起を検討していく日韓共同の国際研究が必要ですね。 

阿毎多利思比孤は「天の満ち足りた男子」という意味:熊谷公男『大王から天皇へ』

2022年05月18日 | 論文・研究書紹介
 前回の記事の末尾で、次回とりあげると書いたのが、

熊谷公男『日本の歴史03 大王から天皇へ』(講談社、2001年)

です。本書は、4世紀頃の日本列島と韓国南部の状況から始まり、律令制によって天皇が確立した時期までをバランス良く描いた良書です。

 本ブログに関連するところだけ紹介します。第四章「王権の展開」の「2 女帝と太子」では、蘇我氏は戦前は足利尊氏とならぶ逆賊という扱いを受けていたものの、実際には仏教の受容に努め、渡来人を配下に置いて先進技術を活用したとして蘇我氏を評価します。

 その蘇我氏系の王族の代表が聖徳太子であったとする熊谷氏は、大山誠一氏の「聖徳太子は実在しなかった」とする「センセーショナルな説」(220-221頁)について、史料批判については一定の評価をしつつ長屋王などによる「捏造」とする点には疑問を呈する者が少なくないとし、太子信仰を『日本書紀』成立時点まで引き下げるのは無理と説きます。

 そして、『日本書紀』の厩戸皇子に関する記述が太子信仰の所産と見られる部分が多いことは確かだが、「一定の史実も含んでいると考えられる」とします。むろん、「皇太子」などという呼称は推古朝には無かったものの、「その前身となるような地位」はあったとするのです。
 
 その一例が、『隋書』倭国伝に見える「太子を名づけて利歌弥多弗利となす」の部分です。この「利歌弥多弗利」の「利」は「和」の誤記であり、奈良時代以後は皇族の子女の尊称として使われた「ワカミタフリ」のことであることが明らかになっています。

 というのは、古代の日本語ではラ行の音と濁音は語頭に立たず、ラ行で始まる語は「羅列」「利己」「瑠璃」「練金」「魯鈍」など漢語ばかりであることが国語学で解明されているからです。実際、660年以前に唐で作成されたと推測されている類書の『翰苑』、それも日本の太宰府天満宮に残る現存最古の写本では、「王の長子を和哥弥多弗利と号す。華には太子と言う」としてあり、語頭は「和」となっています。


(同書、222頁)

 漢語が多く用いられるようになった中世でも、ラ行で始まる言葉は発音しにくかったようで、ヤ行やナ行の音に変えて発音する場合もあったことが指摘されています。

 九州王朝説信者 は、「利歌弥多弗利」というのは九州王朝の王の長子である「リカミタフリ」だと主張していますので、太宰府を都としていたという七世紀の九州王朝では、時空を飛び越え、利左衛門(りざえもん)とか利佳子(りかこ)などという名も付けるようになった中世以後の日本語を使っていたのでしょう。

 なお、「華言太子」という句については、「華言の太子なり」という訓が普通であって、熊谷氏もそう訓んでいますが、「華言~」は、「[中]華には~と言う」ということであって、中国では~と呼ぶということです。

 中国の経典注釈では、「〇〇者、此云~(〇〇とは、此[ここ=中国]には~と云う」という説明が多数見られることが示すように、これは定型表現ですね。「華言の太子なり」と訓んでも、意味は同じですけど。ちなみに、『勝鬘経義疏』では「梁云~」という例があり、梁代を基本としていたことが知られます。

 熊谷氏は、当時にあって「太子」にあたる存在としては厩戸しかいないとし、推古15年(607)に、有力な王子の生活費に充てるための名代・子代に相当する壬生部(乳部)が設定されており、これが厩戸没後も上宮王家に受け継がれたことをその証拠とします。

 そして、推古朝を推古女帝のもとで厩戸と馬子大臣が共同で輔政したと記す『上宮聖徳法王帝説』の記述を認める研究者が多いとし、自分もその一人であると述べます。これが今日に至る主流の考え方です。教科書において厩戸皇子の功績が強調されなくなったいったのは、どの時期に誰の発言力が強かったかは判定しにくいとするためですね。

 ただ、熊谷氏が厩戸の政策を認めていることは、遣隋使の派遣期間(600~614)が、高句麗が派遣してきて厩戸の師となった僧侶の慧慈の在日期間(598~614)と重なるとする坂元義種氏の指摘に触れ、また慧慈の役割を重視した李成市氏の論文に触れていることからも明らかです。李成市さんは、私が早稲田の東洋哲学科で助手をしていた際、東洋史の助手をしていた仲間です。

 熊谷氏は、「憲法十七条」は、太子ひとりの作かどうかはともかく、推古朝当時の作と見ることは現在は多数意見だとします。そして問題の「阿輩雞弥」については、『翰苑』が「天児」だとしている以上、「オオキミ」ではなく「アメキミ」と訓むべきだとし、「阿毎多利思比孤」については、『万葉集』が「天の原振り放け見れば大王の御寿は長く天足らしたり」(巻2・147)の歌などを考慮すると、「天の満ち足りた男子」という意味の尊称と解される、とします。

 世襲王権の初めとも言われる欽明天皇が「アメクニオシハラキヒロニワ」、皇極天皇が「アメトヨタカライカシヒタラシヒメ」、孝徳天皇が「アメノヨロズトヨヒ」、天智天皇が「アメノミコトヒラカスワケ」、天武天皇が「アメノヌナハラオキノマヒト」であって、この時期の天皇名については「アメ」が強調されている以上、推古朝前後の倭王の尊称であろう「アメタリ(ラ)シヒコ」も同様だったと見ます。

 つまり、大王を天の子孫とする考えは既に形成されていたとするのです。ただ、その「アメ」は徳治を前提とした中国的な観念の「天」ではなく、既に独自の「天下」観を有するようになっていた倭国の、独自の「事依(よ)させ」に基づくものであって、まだ記紀神話のようには体系化されていなかったと見るのです。

 さて、いかがでしょう。「天の満ち足りた男子」というのは、「天の子」というのとは、少し違うように思われるのですが、大きな流れとしては、熊谷氏の説かれる通りで差し支えないと思われます。

 次回は、「天の子」に関わる神話についてとりあげましょう。

【追記:2022年5月19日】
古代の日本語でラ行の語や濁音は語頭に来ないこと、また現代では用いられていることなどについて、少し補足しました。

「阿毎多利思比孤」は倭国の王を指す言葉で天孫を意味する:近藤志帆「「阿輩雞弥阿毎多利思比孤」について」

2022年05月15日 | 論文・研究書紹介
 前回の記事で「阿毎多利思比孤」に触れました。この問題については、「追記」であげた、

近藤志帆「「阿輩雞弥阿毎多利思比孤」についてー七世紀の君主号ー」
(『高円史学』第17号、2001年10月。こちら

が妥当と思われる推測をしています。20年以上前の論文ですが、紹介しておきます。なお、『高円(たかまど)史学』は奈良教育大学歴史研究室の紀要であって、本論文は、近藤氏の修士論文を補訂したものである由。

 近藤氏は、「天皇」号の成立に関する諸説を紹介し、最近では天武・持統朝成立説が有力になっているとします。そしてその例として、倭国の王の呼称は「大王」であったが、「大王」から「天皇」への移行にあたっては、「帝(帝王・帝皇・皇帝)」が用いられたとして「天皇」号の成立を天武・持統朝と説く渡辺茂氏の説をとりあげ、検討します。

 近藤氏は、渡辺氏があげる「帝」系の語が見える文献は「天皇」という称号を定めた律令以後のものであるため、必ずしも「天皇」に先行するとは言えないと述べます。

 次に、「天皇」号以前に「天王」が使われたとする角林文雄氏の説を検討します。角林氏は、高句麗・百済・新羅の王が「大王」「太王」と名乗っていた以上、百済を従属させていると自認していた倭国がそれと同様の語を用いるとは考えにくいとし、「大王」の根拠とされてきた銘文を疑い、推古朝遺文や『万葉集』では「大王」は皇子・皇女を指す言葉として用いられているとして、「天王」から発音も同じである「天皇」に移行したと説きます。

 これに対して近藤氏は、推古朝でも「大王」の語が用いられているうえ、「大王」の語は稲荷山鉄剣の銘によって使用例が確認されたため疑う必要はないとします。そして、『万葉集』の用例は、「天皇」号が確立したことにより、「大王(オオキミ)」という敬称の尊重度が下降し、皇子にまで使われるようになったものと推測します。

 また、角林氏が推古朝遺文というのは「天寿国繍帳銘」であって、これについては成立年代をめぐって諸説があるうえ、この銘では「天皇」の語も見えるため、「天皇」号成立以前の文献が皇子・皇女を「オオキミ」と呼んだ例は無いとします。

 さらに『日本書紀』が引用している『百済新撰』に見える「天王」の例は、全て雄略天皇を指したものだが、『百済新撰』の引文には「天皇」と記している箇所も見え、一貫性がないうえ、金石文には「天王」の用例は見えない点からしても、「天皇」の略敬か、簡便に「天王」と書いただけと見る説を妥当とします。

 次に『隋書』や『通典』の「阿輩雞弥」と「阿毎多利思比孤」のうち、「阿輩雞弥」については「オオキミ」説と「アメキミ」説がありますが、「オオキミ」ならば国内で使われていた称号をそのまま示したことになり、「アメキミ」であれば、隋との外交に際して新たに創出されたと考えざるを得ないとします。

 「阿毎多利思比孤」については諸説あるものの、実在した人物の固有名とすると推古女帝にあてはまらないうえ、国王を指す一般的な語と見る場合も、国内で「アメタリシヒコ」が使われた形跡がないため、問題があると述べます。

 ただ、『日本書紀』では孝昭天皇を「天足彦国押人命」と称してますね。孝昭天皇は問題がありますし、『日本書紀』は「日本足彦國押人天皇」と呼び、「此れ和珥臣等の始祖なり」としていますので、律令制成立以後の和珥氏の伝承ということになるのでしょうが。 

 近藤氏は、そこで山尾幸久氏の説を紹介します。山尾氏は、欽明天皇において「アメクニオシハルキヒロニワ」の形で「アメ(天)」を含む和風諡号が初めて現れるため、この時期には倭国独自の「天」観念を踏まえた大王の始祖説話の原型ができており、それが推古朝になって大王即位儀礼などにおいて伴造などの奉仕由来譚として誦唱され、神話が体系化されていく中で、「アメタリシヒコ」は降臨した天孫を意味する「あまくだられたおかた」というほどの意味を持った、とします。

 そうであれば、『通典』が言う「華言天児也」とも通じると、近藤氏は説き、当時の称号は厳密には「オオキミ」だったが、その特性について語った言葉が「阿毎多利思比孤」だったのであって、それを隋が誤解して、「阿毎」を姓、「多利思比孤」を名だと受け取ったとするのです。

 しかし、「阿毎多利思比孤」の背景に倭国の「天」の概念に基づく始祖説話があった可能性は高いですが、「あまくだったお方」と「天児」はかなり違いますね。

 近藤氏は、開皇20年(600)の遣使にあたり、それまで用いてきた「倭王」や「倭国王」ではなく、「阿輩雞弥」という表現を用いたのは、隋の冊封を受けている朝鮮諸国に対する優位性を主張しようとしたためだとする石母田正氏の主張を認めます。

 『隋書』大業3年(607)の記事では「其王多利思比孤」とありますが、これは「阿毎」を姓、「多利思比孤」を名と受け取った開皇20年の記事を受けての記述であるるため、考慮する必要無しとします。

 そしてこの遣使は対等外交ではなく、隋を頂点とする東アジアの冊封体制への参入であり、「朝貢」であったとする研究者の主張に賛同し、倭国側も「天子」を称したのは、朝貢はするが冊封は受けないという方針を示すためであったと、近藤氏は説きます。

 倭の五王以来、中国への遣使が途絶えていた時期に、倭国を中心とした倭国独自の「天下」の概念が成立しており、推古朝の遣使が用いた「天」の語はそれと関係しているとするのです。実際には、当然ながら隋には受け入れられず、不興をかったため、異なる称号を摸索することになったというのが近藤氏の見通しです。

 近藤氏は、「スメラミコト」への変化を含めた「大王」「オオキミ」から「天皇」「スメラミコト」への変化の全体の検討を今後の課題にしたいと述べてこの論を閉じています。実際、最も不明なのは「スメラミコト」の由来であって、森田悌氏の須彌山(スメール)由来説を含めてきちんと検討する必要がありますね。

 倭国が「大王」の語を倭国王の意味で用いる際は、その上に「治天下」という言葉がついていることが大事であることは、この近藤論文以後ですが河内春人氏が述べています(こちら)。近藤氏が20年前に修論でこうして諸説を検討していたことは評価できるだけに、これ以後、論文は書かれていないようであるのが惜しまれます。

 なお、本論文の「付記」では、修士論文提出と前後して熊谷公男氏の『大王から天皇へ 日本の歴史03』(講談社)が刊行されており、本論文と重なるところがあるため、氏の論を踏まえて再考すべきところもあったが十分に果たせていない、と述べていますので、次回は熊谷氏のこの書の該当部分を紹介します。

【珍説奇説】九州王朝説論者が『勝鬘経』も『法華義疏』も読まずに「石井公成氏に問う」などと力んだトンデモ聖徳太子論

2022年05月11日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説

 世の中には、妙なことを聞いて飛びつき、それを知っている自分は優位な存在だと思いこんで、自分たちの目から見たら間違った常識に従っているとしか思えない世間の人々の迷妄を解いてあげようとする困った人たちがいます。

 トランプ大統領を救世主とみなし、その演説に基づいて世の中の人のためと思い、善意で反マスク運動を展開したような人たちですね。古代史研究の世界において、これと良く似ているのが、九州王朝説信者です。

 そうした困った九州王朝説信者の中でも、とりわけ強引な主張を展開しているのが、現代の偽作である『東日流外三郡誌』を真作だと強弁した晩年の古田武彦直系の古田史学の会です。その代表である古賀達也氏が、私が長く関わったSAT(大正新脩大蔵経テキストデータベース)を利用したと称して時代錯誤のデタラメを書いていたため、さすがに放置できず、このブログでとりあげて誤りを指摘しておきました(こちら)。

 そうしたら、今度はその仲間が私を名指して批判したトンデモ聖徳太子論が刊行されました。学界では相手にされないため、ネットで取り上げてくれそうな人にからんでみたということでしょうか。

服部静尚「聖徳太子と仏教ー石井公成氏に問うー」
(古田史学の会編:『古田史学論集『古代に真実を求めて』第二十五集 古代史の争点』、明石書店、2022年)

です。『古代に真実を求めて』というシリーズ名は、「古代に都合良く解釈できる記述を求めて」と改名した方が適切でしょう。何号からかは知りませんが、服部氏は二十五集の前までこのシリーズの編集長を務めていた由。

 読むまでもないため放置したかったのですが、知人の研究者が、「AMAZONでこの新刊書を見かけたところ、<石井氏に問う>などという題名になっている論文があるようだ。どんな主張なのか、反論しなくて良いのか」と尋ねてきたため、仕方なく購入しました。

 注文したものが届いたので、読んでみたところ、「1+1=3 である。これを<古田の絶対公理>と呼ぶ。したがって、 1+1-2 の答えは、この公理の論理的必然的帰結として 1 とせざるをえないのに、石井公成氏はこれについて何も語っていない。この公理を無視して聖徳太子について語ることはできないはずだが、氏はこの公理についてどう考えているのか? (触れないのは、皇国史観に基づく大和王朝一元論に立っているせいではないのか)」と詰問されたような気分になりました。

 困りましたね。そもそも私はナショナリズムや皇国史観などには反対であって、近代日本の国家主義、それも特に聖徳太子や仏教に関連するナショナリズムを批判的に研究するという点では、このブログや、石井公成監修、名和達宣・近藤俊太郎編『近代日本の仏教思想と日本主義』(法藏館、2020年)での私の「総論」が示すように、私はおそらくその分野の代表的な研究者の一人だと思うのですがね。 

 ともかく、服部氏の主張を見てみましょう。氏は、良書と聞いて石井の『聖徳太子ー実像と伝説の間ー』を講読したとして話を始めています(買ってくださって有難うございます)。そして、読み始めたところ、「古代について考えるには、古代の人々の常識、思考法、心情を理解する必要がある」と書いてあるため、賛成して読み進めると疑問が出てきたので批判したい、と述べます。

 疑問の最初は、『日本書紀』の守屋合戦における厩戸皇子と馬子の戦勝祈願の部分です。拙著では、厩戸皇子が四天王に祈願し、馬子が四天王以外の神々の擁護を願ったというのは不自然なので、これは四天王やその他の護法の神々に対して大勢でなされた一つの祈願を分け、厩戸皇子の誓願と馬子の誓願に割り振って記したのではないか、と推測しました。また、「軍勢の士気を高めるため、戦勝を願う大がかりな儀礼を行うのは古今の通例です」と述べました。

 ところが服部氏は、四天王による護国を説くのは『金光明経』だけであり、『金光明経』では、『金光明経』が供養されるなら国王と人民を守り、隣国が侵攻して来たら降伏させると四天王が誓うと記されている以上、「普通の人の常識でこの経典を読めば、厩戸皇子の四天王への祈願が筋違いであることが判る」(73頁)と論じます。

 そして、『金光明経』の読経をするなどの恭敬供養をしないと「その願いは届かない」のであって、後代の日本では実際にそうした儀礼をしているとし、「三上喜孝氏の著書によって」(73頁)その後代の例をあげます。

 「著書」とあるため、そのような研究書が刊行されているのかと思って注を見たら、山形大学の雑誌に載った「古代の辺要国と四天王法」という論文でした。学問の世界では、というより、「普通の人の常識」では論文のことを「著書」とは呼びません。そもそも、注の表記の仕方が学術論文の形式になっていませんね。たとえば、
 
  (注1) 壬生台舜『金光明経』大蔵出版
 (注2) 三上喜孝「古代の辺要国と四天王法」山形大学歴史・地理・人類学論集5 二〇〇四年
 ……
 (注4) 赤沼智善訳「国訳一切経」大東出版社
 (注5) 壬生、前掲書
 ……
 (注10) 『名古屋大学文学部研究論集(史学)』一九六七年に掲載の、谷川道雄「蘇綽の六条詔書について」 
 (注11) 二葉憲香『古代仏教思想史研究』一九六二年

とあるうち、注1では出版社を示して刊行年を出さず、注11では出版社を示さずに刊行年だけ記していて不統一であるうえ、当該ページの表示もされていません。また、注2の三上論文が掲載されているのは山形大の紀要なのですから、二重カギ括弧にして『山形大学歴史・地理・人類学論集』5、などと記すのが普通です。実際、注10では、大学の雑誌名を二重カギ括弧で表記しており、不統一であるうえ、「~に掲載の、」などという珍妙な書き方をしています。学術誌に掲載された論文を注で示す場合は、出典だけ示すのが普通であって、「~に掲載」などとは書きません。

 おまけに、本文の『金光明経』四天王品という部分につけられた注4の「国訳一切経」はシリーズ名ですので、個別の書名として出すなら、二重カギ括弧にして『国訳一切経・経集部5』などの形にする必要があります。それに、赤沼の訓読文を引用するならともかく、経典の品(章)の名を示すのに訓読本の題名だけ、それもシリーズ名だけ注で示すというのは珍妙なやり方です。グローバルスタンダードとなっている大正大蔵経の巻・頁・段で示すのが常識です。

 学術論文というよりは、大学1年生が初めて書いて提出し、先生に形式の不備を叱られるレポートみたいな書き方ですね。『古代に真実を求めて』シリーズに掲載されている論文もどきたちは、こうした素人くさい書き方が目立ちます。

 しかし、服部氏は、編集長としてこうした点をチェックし、訂正する立場だったんじゃないんですか? 九州王朝説に基づく説を長年にわたって書き散らしておりながら、いまだにこんな調子であって、学術論文の形式で書けない以上、肝心の内容も学問的でないことは言うまでもないでしょう。

 服部氏は、上記の「三上喜孝氏の著書によって」、『金光明経』を読誦して祈願する四天王法が行われたのは後代になってのことであり、また『三国遺事』によれば、新羅でも四天王信仰に基づく戦勝祈願がなされたのは7世紀後半であって、しかもそれは「近頃」学んできた「秘法」とされているため、「いわゆる四天王法は七世紀後半より広まったと考えられるのだ」と述べ、物部合戦の頃は四天王法は「未だ「古今の通例」ではなかった」(75頁)と論じています。

 私の言葉である「古今の通例」を使って批判していますが、私は「軍勢の士気を高めるため、戦勝を祈る大がかりな儀礼を行うのは古今の通例です」と述べたのであって、四天王への戦勝祈願が「古今の通例」だなどとは書いていません。

 『金光明経』がインドで4世紀頃に成立し、5世紀の初めに漢訳されるはるか前の紀元前から、中国では戦闘の前に動物を焼いて祖先の霊に捧げるなどして戦勝を祈る儀礼をやっていました。「古今の通例」というのは、戦闘にあたっては、何かしら士気をを鼓舞するような戦勝儀礼をおこなうのが普通だということです。

 さらに重要なのは、『三国遺事』は、新羅の明朗法師が龍宮に入り秘法を学んできたとしていることです。「文豆婁秘密之法」(大正49・972b)とあるため、文豆婁(mudrā=印)を結んでダラニを唱えるなど密教による祈祷を行ったことが知られます。

 しかし、5世紀初めに訳された『金光明経』は「印」を説いていません。四天王に守ってもらうためには、四天王が喜ぶことをし、四天王を元気づける必要がありますが、『金光明経』によれば、この経典を供養して焼香すると香煙が天まで届いて四天王を初めとする神々の活力が増すと記されています。

 焼香については、漢訳では「諸の人王、手に香爐を擎(と)りて」この経を供養する(T16・342c)となっており、梵文テキストでは dhūpa-kaṭacchu(香を入れたスプーン・柄杓)を hasta-parigṛhīta(手につかんで)、となっています。

 つまり、柄香炉を手にして焼香供養するのです。上記の『金光明経』の例については、石井「六朝における道教・仏教の焼香儀礼」(『駒澤大学大学院仏教学研究会年報』29号、1996年5月。こちら)で検討しておきました。

 インド・西域では、香炉を手にして祈る場合は、あぐらをかいて片方の膝を立てた形でおこなうことが多いようですが、聖徳太子孝養像と呼ばれるお馴染みの姿は、立って柄香炉を手にする形ですね。

 孝養像は父である用明天皇の病気平癒を祈る姿とされ、中世には大量に作成されていますが、私は物部合戦の際の祈願の姿が元であって、それが孝養像に変わっていったと考えています。なお、法隆寺には古い柄香炉がいくつも残されており、そのうちの一つは、由来は不明であるものの、朝鮮三国時代ないし飛鳥時代の古い作とされ、国宝となっています。

 それはともかく、5世紀初めの曇無讖訳『金光明経』では、印を結びダラニを唱えて云々といった密教的な祈願法は説かれていません。印とダラニを並べて記しているのは、隋代に陀羅尼最浄地品その他の品が加えられた『合部金光明経』(597年)と大幅に増広された唐代の義浄訳の『金光明最勝王経』(703年)です。

 また、652年に長安にやって来た中インドの阿地瞿多が翌年訳した『陀羅尼集経』では、「四天王法印呪」(T19・878c)を初めとして、四天王関連の様々な印とダラニと祈願法が説かれています。

 つまり、四天王への祈願は、『金光明経』が流行すればなされうるのです(隋の前の王朝である陳では、『金光明経』に基づく悔過も盛んになされており、文帝が『金光明経』に基づく懺文を書いています)。ただ、インドで密教が盛んになるにつれて、『金光明経』自体も密教色を増して増広されていったうえ、唐代に密教の四天王儀礼を説いた密教経典が翻訳されると、そうした儀礼が最近の「秘法」としておこなわれるようになり、明朗はそれを学んで来た、ということです。

 ただ、 戦争中の祈願となれば、何日もかけて講経などをしている時間はありません。やれるのは、焼香して「戦いに勝ったら、~します」と誓願することくらいでしょう。実際、『日本書紀』では、厩戸皇子は「戦いに勝ったら、護世四王のために寺塔を建てます」と誓い、勝ったので四天王寺を建てたと記してあります。

 これは法隆寺ではなく、宣伝上手の四天王寺側の資料に基づいたため、こうした四天王寺起源説話になっているのですが、四天王のために四天王寺という名の寺を建てておきながら、四天王が護国を約束している『金光明経』の講経をしないなどということはありえないでしょう。
 
 この誓願と造寺というパターンは、日本最古の仏教説話集である『日本霊異記』上巻「亀の命を贖ひて放生し現報を得て亀に助けらえし縁」にも見えています。百済を救うために派遣されることになった備後の豪族が、無事に帰れたら神々のために寺を建てますと誓って出かけたところ、百済の禅師弘済をともなって帰国することができ、寺を完成させて盛大な供養をすることができた、という話であって、明朗の祈願の少し前の時期です。

 この説話では、百済の弘済法師も瀬戸内海で海賊に襲われたものの、脅されて海に飛び込む直前に誓願した結果、生き延びることができています。誓願しているだけであって、印を結んでダラニを唱えるなどはしていません。弘済は後に多くの寺を建てたと記されており、これはその時の誓願を実行するためでしょう。

 古代のアジア諸国にあっては、誓願は最新の威力あるハイテクだったのであって、尊重されていたことは、この弘済の話を検討した「誓願の威力か亀の恩返しか」という講演録で述べておきました(こちら)。

 それだけでなく、私は誓願に関する論文をいくつも書いており、「上代日本仏教における誓願について-造寺造像伝承再考-」という、そのものズバリの題名の論文もかなり昔に書いています(こちら)。私の論文に限らず、誓願の研究は盛んになっており、そうした諸論文は CiiNiiや researchmapで検索できますし、PDFで読めるものも増えているんですが。

 四天王に「戦いに勝たせてくれたら寺を建てます」と誓願した厩戸皇子の願は筋違いだとした服部氏は、このエピソードを作った人について、「想像するに仏教関係者ではなさそうだ」(75頁)と述べています。仏教のことを良く知らない人が書いたため、そうした「筋違い」な話になったと氏は推測したのでしょう。しかし、実際には、仏教を知らないのは服部氏の方でした。

 次に、隋と仏教交流をしたのは九州王朝の男性の王である「多利思北孤」だとする立場の服部氏は、女性の推古天皇が仏教興隆に努めたとする伝承を疑います。

 鳩摩羅什訳『法華経』の提婆達多品では、仏弟子が女性の能力を疑って女性の身は汚れていて法の器でないとか、仏や世界の王にはなれないといった障害があるなどと述べているうえ、龍王の娘である龍女がそうした疑いを打破するため、男性に変わって仏になったとされており、男でないと仏になれないとするなど、女性差別の記述が見られるからだというのです。

 そして、吉蔵、智顗、基など隋唐の諸宗の僧たちの龍女解釈を紹介するのですが、吉蔵『法華義疏』については、白景皓氏の論文「法華経提婆達多品『変成男子』の菩薩観」(ネットで公開されています。こちら)によるとして、「男また男にしてまた女なり。則ち龍女がこれなり」という文を引き、「龍女は男女両性をそなえるので男子に変わり得ると解する」(77頁)と述べています。

 しかし、白氏の論文が示している訓読文は「亦た男にして、亦た女なり。則ち龍女、是れなり」であって「亦男亦女。則龍女是也」(T34・592b)とある原文通りの訓読となっており、「男また男にして」などとはなっていません。「亦た男、亦た女にして」と「男また男にして」では構文が違ってしまいますし、忠実な引用でないため落第です。

 吉蔵は三論宗であって空・無自性を説く立場ですので、「男」も「女」も固定的な実体はないとし、龍女がその良い例だとしているだけです。龍女が「男女両性をそなえる」などとは言ってません。

 漢訳経典では男女の両性器を備える人については「二根人」とか「二根者」その他の表現をしていますが、提婆達多品の漢訳では、龍女は「忽然の間に変じて男子と成る(あっという間に男性になった)」としているため、完全に女性として扱っています。

 それどころか、漢訳ではぼかして訳していますが、梵語原文では「女性の性器が消えて男性の性器が出現し」と書かれています。この場面を描くためもあって、龍女はまだ幼い少女という設定にしてあるのです。

 服部氏は、吉蔵などは「女性は仏になれない」という問題を逃げるようになったと述べ、続く「鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』に見える変成男子論」と題する節では、『維摩経』にも「釈迦の男女観がみえる」(78頁)と述べるのですが、大乗経典は釈尊が没して数百年後に作成されたものですので、最初期の仏典について言うならともかく、大乗経典について「釈尊の男女観がみえる」といった書き方をするのは適切ではありません。

 なお、氏は『維摩経』については、女性の能力を疑う仏弟子の舎利弗を、天女が神通力で女性の身とし、自らを男性の身に変えたうえで、男女は固定的なものでないため、仏は「一切のものは男に非ず、女に非ず」と説いた、という部分を紹介していました。これは、実は漢訳の日本語訳であって、梵語原文では、na strī na puruṣaḥ (女でもなく男でもない)となっています。漢訳は、男女平等であることを示そうとしておりながら、つい漢語の「男女」という言葉に引かれて「非男非女」と訳してしまったのです。

 そうした点では男性優先の立場が残っているとはいえ、男尊女卑の中国において、天女が「男に非ず、女に非ず」として男女の区別を真っ向から否定したのは大胆な言明でした。しかも、これは権威ある経典の言葉です。この点は、龍女成仏の場合も同様です。
 
 しかし、服部氏は、『法華経』では「変成男子」が説かれ、男にならないと仏になれないなどという女性蔑視がなされていた以上、「女性である推古天皇のもとでの、この時期の仏教受容はあり得ないと私は考える」(79頁)と述べるのです。

 「考える」のは勝手ですが、「古代について考えるには、古代の人々の常識、思考法、心情を理解する必要がある」という私の主張に賛成したことはどうなったんでしょう。提婆達多品の記述は、今日の目からすると女性差別の面を含んでおり議論になっているものの、日本では提婆達多品は法華八講の中心として重視され、平安文学を見ればわかるように、女性救済を説くものとして女性たちの信仰のよりどころとなってきました。

 というか、そもそも『法華経』には提婆達多品は含まれていなかったんですけどね。提婆達多品そのものは成立が古く、インドでは単行経典として流布しており、後に梵文『法華経』の見宝塔品の後半に付加されるに至っていますが(付加されているだけで、品としては独立していません)、羅什訳『法華経』には入っていません。羅什訳に加えられたのは、隋の少し前頃と推測されています。

 ですから、『法華経』の古いテキストに依っている梁の光宅寺法雲の『法華義記』には、提婆達多品はありませんし、その『法華義記』を「本義(種本)」としている上宮王(厩戸皇子)の『法華義疏』でも提婆達多品はとりあげていません。

 『法華義疏』は、提婆達多品を含む新しいテキストに基づく隋唐の『法華経』注釈を参照しておらず、見ていないようです。三経義疏は、古いテキストに基づき、古い学風の注釈をしているのです。

 となれば、推古天皇が提婆達多品について聞き、「女性差別だ」と考えることはなかったでしょう。このことが示すように、九州王朝説論者の主張は、そもそも前提が大間違いであって議論が成り立たない場合がほとんどなのです。

 そのうえ、服部氏は、『日本書紀』では推古天皇が厩戸皇子に『勝鬘経』を講経させたと記されており、上宮王(厩戸皇子)作とされる『勝鬘経義疏』が伝えられていることを忘れてますね。その『勝鬘経』では、勝鬘夫人が大乗仏教の教理を述べ、如来から賞賛されています。

 しかも、『勝鬘経』では、如来は勝鬘夫人に対して、汝は如来の真実の功徳を賛歎した功徳により、無限の長さにわたって「天人の中に自在王と為らん(天人之中為自在王)」(T12・217b)と保証しているんですよ。

 『勝鬘経』では、その後の部分で勝鬘夫人が10の誓いをなすのですが、この点について『勝鬘経義疏』は、世間の人は女性は志が弱いから重要な仕事は無理だと疑うため、「誓(願)を立てて疑いを断」ずるのだと説明しています。女性弁護です。しかも誓願重視です。

 推古天皇は、欽明天皇の皇女であって敏達天皇の后となり、大乗仏教を広めていますので、国王夫妻の王女であって隣国の国王の妃となり、大乗仏教を説いた勝鬘夫人と同じ立場ですね。そのような『勝鬘経』を講経させた推古天皇が(実際には、厩戸皇子が講経を申し出て、それを推古が許可したという形でしょう)、倭国最初の女性の天皇(大王)となっているわけです。

 なお、男尊女卑の儒教が常識となっていた中国において、女性の身で皇帝となって新たに王朝を打ち立てた唯一の存在は、則天武后です。武后は、武后は弥勒の化身だとする経典注釈を流布させて即位し、それまで道教→仏教という順序であった宮中での僧侶の並ぶ順序を、仏教→道教の順に変えさせました。つまり、推古天皇も則天武后も、その即位は仏教によって保証されているのです。

 仏教経典については、今日の目から見て女性差別的だと考えられる面があることは事実ですが、古代にあっては仏教が女性の地位を向上させる役割を果たしたこと(また、劣っている女性でも救われるという形で女性差別を助長したこと)は、疑いありません。「古代について考えるには、古代の人々の常識、思考法、心情を理解する必要がある」というのは、こういうことです。

 なお、隋から初唐にかけて活躍した中国三論宗の吉蔵の『勝鬘経』注釈では、女性を低く見ているのに対し、上宮王の『勝鬘経義疏』では、勝鬘夫人がいかに優れた女性であるかを強調し、また「母」という点を強調しています。

 吉蔵の注釈は、『勝鬘経』のうち、国王夫妻が我が子の勝鬘夫人を誉めている箇所について、「子供を判断する点では父にかなうものはない」という諺を示して父だけを問題にし、また勝鬘夫人に対する「父の慈愛の重き」ことを説くに止まっています。

 一方、上宮王の『勝鬘経義疏』では、「父にかなうものはない」という諺をわざわざ改めて「父母にかなうものはない」と記しており、「母」という点を強調しているのです。推古天皇は厩戸皇子の叔母であって、義理の「母」ですね。

 こうした点、また『勝鬘経義疏』と「憲法十七条」は共通する部分が多く、同じ人が書いているとしか考えられないことは、昨年の講演録で明らかにしてネット公開し、このブログでも紹介しました(こちら)。

 その「憲法十七条」については、服部氏は、隋の皇帝を「海西菩薩天子」と呼んで使節を送った九州王朝の王である多利思北孤が作ったという九州王朝説論者の主張を繰り返していますが、それほど仏教熱心な国王がいたなら、立派な寺を建てたでしょう。しかし、遣隋使が送られた前後の時期について言えば、九州では大寺院の遺跡も瓦を焼いた瓦窯もまったく発見されていません。

 一方、飛鳥では、百済の王立寺院として完成した王興寺を造った百済の工人たちが6世紀末に馬子の要請で派遣され、王興寺の瓦にそっくりな瓦を飛鳥の地で焼いて飛鳥寺の屋根に葺いています。寺の近くで瓦を焼いた瓦窯が発見されているのです(こちら)。

 その瓦を造った瓦笵で造られた瓦が、馬子の姪である推古天皇の旧宮を改めた豊浦寺で用いられ、その改良型の瓦笵で造られた瓦が馬子の娘婿かつ推古の娘婿である厩戸皇子の斑鳩寺(若草伽藍)に葺かれ、その瓦笵がすり減ったものが山背の楠葉瓦窯に持ち込まれ、創建時の四天王寺の瓦が作成されていることが、考古学の研究成果で明らかになっています(こちら)。

 「法王」と称したという仏教熱心な九州王朝の多利思北孤さんは、隋と交流する前は、どこから仏教を導入したんですか? 中国南朝の陳ですか? 古代朝鮮のどこかの国ですか? この数十年で、北九州の都市開発・宅地開発が大幅に進んだにもかかわらず、陳の寺の瓦に似た瓦、その陳が影響を与えた百済の瓦、またその時期の高句麗の瓦に似た瓦が北九州で大量に発掘されたという報告はなされていません。

 このため、苦しくなった九州王朝説論者たちは、現在の法隆寺は大宰府にあった九州王朝の寺を移築したものだと説いたりしており、中でも古田史学の会のメンバーは、難波の天王寺(四天王寺)は実は難波を副都だか複都だかとした九州王朝が造営した寺だなどと妄想するのです。

 しかし、法隆寺西院伽藍の前身である若草伽藍は、現在の法隆寺と同じ規模の寺でした。現在の法隆寺の金堂の礎石は、焼けた若草伽藍の金堂の礎石を利用していることが判明しています。

 となると、若草伽藍も九州王朝の寺を移築したんでしょうかね。そういうことになるなら、壮大な飛鳥寺も豊浦寺もすべて九州王朝の寺を移築したのであって、九州では瓦の破片一つ残らないようにしたんでしょうね。それとも、若草伽藍も飛鳥寺も豊浦寺も、実は難波や大和を支配した九州王朝の寺だったんでしょうか。服部氏の主張はこんなレベルのものばかりです。

 氏は末尾で、六世紀末から七世紀初めにかけて仏教交流に努めた天皇は推古女帝ではなく、『隋書』俀国伝に見える男王である阿毎多利思北孤であって、隋の楊堅・煬帝の菩薩皇帝の思想、国家仏教と言える政策を学び、十七条憲法制定などをおこなったとし、『日本書紀』の厩戸皇子の記述は阿毎多利思北孤の事績であり、「筋違い」である厩戸皇子の祈願は七世紀後半以降に九州王朝の天王寺を隠すために創作されたと述べます。

 そして、「石井氏にお教え願いたい」として、聖徳太子伝承に用いられている九州年号をどのように考えるか、「推古天皇と同時期に『隋書』俀国伝に現われる阿毎多利思北孤(男王)の存在をどのようにお考えなのか」と記し、「この二点に蓋をされて、聖徳太子を語ることは可能なのでしょうか」(84頁)と問いかけて終わっています。

 もちろん可能です。というより、そんなデタラメに基づいて学問的に「聖徳太子を語る」ことは不可能だと言うべきでしょう。九州年号と言われるものは、古くて信頼できる金石文に見えず、平安から中世にかけて、自分たちの一族や寺にとって都合の良い記述をした文献や有名な人物に仮託した偽作文献が盛んに作られた際に用いられ、広まったものです。歴史的な存在としての厩戸皇子とは関係ないことは常識であり、学界では相手にしていません。

 また、氏は「推古天皇と同時期に『隋書』俀国伝に現れる」と書いていますが、『隋書』に「俀国」とあるのは、何百年も後の宋代になって作られた版本でのことです。『隋書』のその版本自身、東夷伝では「俀国」としつつも帝紀の部分では「倭国」としていることが示すように、「俀」は「倭」の異体字として通用していました。

 また、『隋書』に限らず、古代の日本に言及する古い史書の写本・版本では、同じ内容の記事が「倭国」とされたり「俀国」とされたりしているうえ、『隋書』の版本が作成される以前の写本・版本について言えば、「倭国」の例が圧倒的であることは、これまで指摘されてきた通りです。

 古田武彦氏は日本の学者を罵倒し、文献については中国の学者の判断を尊重すべきだと述べていたと思いますが、中国の史書のテキストで現在最も学術的とされ、諸国の研究者も信頼して利用しているのは、中国を代表する出版社である北京の中華書局が出している「点校本二十四史修訂本」シリーズであって、その『隋書』第六冊(2020年)の東夷伝では「倭國」と表記しています。

 版本によって「偶」が「遇」となっていたり、「阿」が「何」になっているように字が異なる場合は校異を示しており、「多利思北孤」については『北史』『通典』『大平御覧』その他によって「多利思比孤」と改めると注記しているのに、「俀国」の部分は単なる異体字と見て標準的な「倭」で表記しており、当然のこととして注もつけていないのです。これが近年の中国の学者たちの判断です。

 南北朝期は異体字が多すぎたため、唐では役人が学ぶ儒教のテキストなどを新たに確立した楷書で石に刻み、標準的なテキストと標準的な字体を定めたのです。ちなみに、南朝の古くさい注釈に基づいて書かれ、おそらく読みにくかったであろう草稿を作者とは別の能筆の人が急いで筆写したと思われる上宮王の『法華義疏』(こちら)も、実際には異体字(こちら)と誤字・誤写だらけです。



 しかも、奈良朝の初め頃に別人によって冒頭に付された題名・著者名の表記の部分では、国名の「大倭」を「大委」と記しており、「委」を「わ」と発音していた時期の古い表記を用いています。また、原本には無かったが加えた方が良いと後で思って注のつもりで入れたのか、あるいは、原本でもそうなっていたという情報に基づいてそのままの形で記したのか、「國」でなく「国」の字を横に小さく書き添えてあります。

 大事な書名・撰者名を書いた数行の紙を貼り付けるのですから、「国」という字をうっかり書き落して訂正したとは考えられません。となると、「存在したのは邪馬臺国でなく邪馬壹国だった」や「倭国と俀国の表記は使い分けられているので別の国だ」という九州王朝説の図式に従って、「倭国はなかったのであって、存在したのは委国だった!」とか「いや、委国と倭国は別の国なのだ!」ということになるんですか?

 この「大委国」という表記が奈良朝になると不自然と思われるようになり、正倉院の写経記録では「委」と書いたうえで、後から左側ににんべんを書き加えたりしているのです(こちら)。

 そのため、後に書写された『法華義疏』や『勝鬘経義疏』では「大倭国」という表記が普通になります。772年に誡明・徳清などが唐に持っていった『勝鬘経義疏』に対して、中国の天台僧である明空が注釈として『勝鬘経疏義私鈔』を書き、それが平安時代に日本にもたらされますが、その注釈でも「大倭国」となっています。

 写本とか版本というのは、そういうものなのです。「発音が同じなら、画数が少ない字の方が書くのは楽だよね」といった調子の例は、敦煌写本とか見ているといくらでも出てきます。異体字だか誤記だか分からない字もたくさんあります。

 「上宮王」の「宮」にしても、『法華義疏』では、うかんむりの下は「呂」でなく、口を二つ重ねた古字の「宫」の形ですが、「上宮王はいなかった。いたのは上宫王だ!」ですか? 「上宮王と上宫王は別の人物だ!」ですか? 法隆寺が宝治年間(1247-1249)に『法華義疏』に似た字体で彫った版木で刊行した『勝鬘経義疏』でも、「宮」の字はすべて「宫」になってますけど。

 「阿毎多利思北孤」について、「阿毎」を姓、「多利思北孤」を名と見るのは中国の誤解であり(現在でも天皇には姓はありません)、「多利思北孤」は上記の修訂本の『隋書』が記しているように、「多利思比孤」の誤記です。

 冠位十二階では、「徳」の下に「仁、礼、信、義、智」と並べていますが、『隋書』では野蛮な東夷が五常の順序を誤ったものと見たようで、「仁義礼智信」という通常の五常の順序に直して記しています。中国は周囲の諸国については野蛮国とみなしていますので、史書が外国について記述する際、中国の常識に合わせた表現にするのはよくあることです。

 裴世清来訪の道筋は『日本書紀』に詳細に描かれており、地理的に見て他国の使者の来訪記事と矛盾しませんので、飛鳥来訪と見てよいものです(こちら)。

 「阿毎多利思比孤」については、個人名でなく、倭国の王を指す言葉とする説が妥当と思います。裴世清が対話し、「倭王」と記した相手は、厩戸皇子であった可能性があると考えていますが、これについては、いずれ論じます。ともかく、服部氏の主張は上記のような誤解と空想ばかりです。

 なお、同誌に載っていた古田史学の会の事務局長だという正木裕氏の「二人の聖徳太子「多利思北孤と和歌彌多弗利」」という文章も、漢文資料が読めておらず、仏教の知識もないため、間違いだらけであってひどいものでした。釈迦三尊像銘に見える「干食王后」と「鬼前太后」に関するトンデモ説明がその好例です。

 SATを利用して検索したようですが、地獄の描写で有名な『正法念処経』に「熱鉄野干食其身中」とか「諸餓鬼前身」とあるため、「干食」と「鬼前」は、天然痘で苦しんで死んだのであろう「太后・王后の陥った地獄の苦しみをを示す諡号(あるいは法号)だった可能性が高い」(65頁)などと書いています。

 上宮法皇や妃の遺族たちは、地獄の亡者について「極熱の鉄製の野干(śṛgāla=ジャッカル)が体を食う」と記している文に基づいて、上宮法皇の最愛の妃に「干食」という諡号/法号をつけ、「もろもろの餓鬼(preta)たちは、前世の時、嘘でだまし、良い人を殴り、殺したりしたので、餓鬼の世界に落ちた」(地獄に落ちるのではなく、餓鬼の世界に生まれる、です。地獄と餓鬼は別の世界です)と述べた部分のうち、「餓鬼の前身」という箇所に基づいて、太后、つまり太子の母后に「鬼前」という諡号/法号を贈ったんですね。このネーミングは凄い! それに、「餓鬼の前身」なら伝染病で苦しんでおらず、元気で悪いことをしている状態ですが。

 釈迦三尊銘では、釈迦像建立を誓願した親族や臣下たちは、「出生入死、随奉三主、紹隆三宝」と述べており、「何度生まれ変わっても、三主、つまり、太子と母后と王后にお仕えして仏教興隆に励むと誓っています。そうした母后や王后に上記のような諡号/法号を贈ったんですか。「天寿国繍帳」では、母后とおぼしき女性は、寿命の長い天に生まれ、宮殿風な建物の中におり、侍女と僧たちに囲まれている姿で描かれているんですけどね。

 正木氏は、自分でも不自然と思ったのか、

そうであれば「悪諡」といえるが、卒時の状況をそのまま反映しており、逆にその地獄からの釈迦如来による救済を願って付けられたものとなろう。釈迦三尊像の脇侍が「薬王菩薩・薬上菩薩」であるのは、願いの通り釈迦如来になった上宮法皇に救済された太后・王后の姿と考えられよう。(65頁)


などと苦しい弁明をしています。

 しかし、伝染病で亡くなったのは太后と王后だけでなく、王后とともに病床につき、1日遅れで亡くなった上宮法皇も同様でしょう。となると、上宮法皇も地獄の亡者のように苦しんで亡くなったのかと考えてしまいますが、上宮法皇にはそうした諡号/法号は与えられないんですか?

 あと、氏は「法皇」という呼称をローマ法王のような存在と誤解しているため、妙なことを書いてますね。「法主」は、中国では講経の巧みな学僧が任じられる役職であって、『日本書紀』が厩戸皇子の異称として記している「法主王(のりのぬしのおおきみ/のりのぬしのみこ)」はそれを承けており、講経の巧みな「おおきみ/みこ」ということです。

 その「法主王」と並んで記されている「法大王」の訓は「のりのおおきみ」ですが、「法王」も「法皇」も当時の倭国では漢字の発音は同じであり、訓はどちらも「法大王」と同じで「のりのおおきみ」でしょう。意味は、「法主王」と同じですね。「法王」という表現には、釈尊のイメージを重ねている可能性はありますが(こちら)。

 また、正木氏は「願いの通り釈迦如来になった」と書いてますが、願ってもなれません。釈迦如来は一人だけであって、すでに涅槃に入ってしまっています。なるとすれば、上宮法皇と同様に太子であって(厩戸皇子が生まれた時は父の用明はまだ天皇ではないですが)、出家して悟った「釈迦如来のような仏」でしょう。

 正木氏は、どうしてこのような常識はずれなことばかり書くのか。それに、釈迦像の脇侍を薬王菩薩・薬上菩薩とするのは、後代になって生まれた法隆寺の寺伝であって、そのような造像例はアジア諸国には見られないことは良く知られています。

 さらに、この第二十五集では、古田史学の会の重鎮会員だという谷本茂氏が「小野妹子と冠位十二階の謎」と題するコラムであれこれ推測を並べたて、末尾で「やや妄想的になってきましたので、これくらいにしておきます」(71頁)と自ら述べていました。「やや妄想的」ではありません。まさに素人の「妄想」そのものです。

 谷本氏は、『隋書』に見える耽牟羅国は済州島ではなく、ルソンだと主張した人じゃなかったですか。氏も、学術誌に載った論文について注で記す際、服部氏と同様、「~に所収」などとおかしなことを書いており、注の書き方が分かってないですね。
 
 古田史学の会は、代表と事務局長と編集長と重鎮が上記のような珍説を、大学1年生のレポートのような不備な形で書き、学界の説を批判した気になる「学問ごっこ」を楽しんでいるのです。しかも、そうした実状を知らない一般市民が、この人たちが主催する研究会などに参加し、皇国史観に基づく大和王朝一元史観に毒された学界の通説を打破した新説、民主的で合理的な多元史観による最新研究成果と称するトンデモ説を聞かされているわけです。

 明石書店は良書を出している社会派の出版社なのに、なぜ学問の訓練を受けていない大学1年生たちが組織した歴史同好会のトンデモ会報みたいなシリーズを出し続け、会社の信用度を落とすのか、不思議です。

 内容のひどさはどうしようもないでしょうが、せめて注の付け方くらい編集部の担当編集者が注意してやれば良いと思うのですが。担当編集者は古田史学の会に任せっぱなしできちんと見ていないのか、それともこの会に好意的であって、歴史知識も編集能力も同じようなレベルなのか。

【追記】
「トンデモ主張」となっていた題名の末尾を「トンデモ聖徳太子論」と変えました。『隋書』の「俀国」という表記については、榎本淳一氏の論文が詳細に説明しており、このブログでもその論文を紹介してあります(こちら)。「阿毎多利思比孤」については、個人の名ではなく、倭国の王を指す言葉という点を追加しました。『隋書』に関する記述の一部を削除しました。
【追記:2022年5月12日】
『太平御覧』の書名が誤変換になっていた箇所などを訂正し、また「男女両性をそなえる」を「男女の性器をそなえる」と改めるなど、曖昧な表現になっている箇所をいくつか訂正しました。なお、服部氏は、多利思北孤は隋の楊堅(文帝)・煬帝の菩薩皇帝の思想・政策を学んで「憲法十七条」制定などをおこなったとしていますが、三経義疏が古い梁代の注釈に基づいているのと同様、「憲法十七条」も南斉や梁など隋以前の南朝の仏教に基づいていることは昨年刊行された講演録で述べ、このブログでも報告しておきました(こちら)。上で触れた「阿毎多利思比孤」の解釈については、近藤志帆氏の論文(こちら)の主張が妥当なところでしょうから、次回の記事で紹介します。
【追記:2022年5月14日】
「餓鬼の前身」だと伝染病で苦しんでいないことになるという部分を追加しました。正木氏は大阪府立大学の非常勤講師の由。学生たちにこうしたことを教えていないよう祈るばかりです。正木氏と同様、服部氏も漢文が読めないことは、訓読や現代語訳がないか氏が調査不足で関連論文を見ていない漢文資料について説明する際、まともな訓読文が示せないため、訓読風な箇所と現代語による意訳(妄想訳)をまぜた文章を示してごまかしていることが示す通りです。たとえば、この第二十五集に氏がもう一本載せている「中宮天皇ー薬師寺は九州王朝の寺ー」で薬師寺東塔擦銘の訳文と称している文(201頁)は、誓願を「請願」と書くことに始まり、間違いだらけの悲惨な内容になっています。東塔擦銘については論文は多数あり、現在の研究水準から見ると完璧ではないですが、ほぼ正しい訓読を示した論文もいくつか出ていますが(たとえば、ネット上で見られる一例は、こちら)。古田史学の会のメンバーについては、漢文入門の本と古文入門の本、そして仏教に関する入門書を読むようお勧めします。
 なお、久留米大学では地元の観光促進とからめ、古賀氏や正木氏など古田史学会の会員を招き、九州王朝講座をやったりしているようですが、捏造石器にとびついて観光事業をやろうとした地方自治体のことを思い出してしまいます。そういえば、きちんとした古文が書けない現代人が偽作した『東日流外三郡誌』も、自治体の観光促進の動きと結びついていたっけ。私は、聖徳太子没後になって造営された寺を太子建立として宣伝しようとした某自治体の観光キャンペーンがらみの講演依頼を断りました。

【追記:2022年10月10日】
久留米大学の九州王朝講座は、まさに街おこしのために非学問的な形で始まったことを記事にしておきました(こちら)。


『中日新聞』『東京新聞』に聖徳太子研究に触れたインタビュー記事が掲載されました

2022年05月08日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 『中日新聞』の5月7日版の記事ですが、系列紙である『東京新聞』にも掲載されており、こちらは電子版が公開されていました(こちら)。

 聖徳太子遠忌関連の記事となる予定であって、まだ寒い時期にインタビューを受けたのですが(ですから、写真では冬の格好をしてます)、以後、あれこれメールでやりとりしているうちにウクライナ事件も起きて掲載が遅れ、ようやく研究者インタビューの形で掲載されることになった次第です。私はいろいろなことをやっているため、まとめるのは大変だったでしょう(林啓太記者に感謝)。

 ナショナリズムへの関心と津田左右吉との関係に重点を置いて書かれていますね。私は、結果としては「憲法十七条」や三経義疏を疑う津田説をくつがえしたわけですが、その研究の過程で、当時の状況についてきわだって踏み込んだ考察をしていたのは津田であったことに気づき、改めて畏敬の念を抱いたことは、昨年やった講演で述べておいた通りです(こちら)。

 早稲田で東洋哲学専攻に進んだ理由はいろいろであって、以前、書いてあります(こちら)。ただ、アジアの近代史、特にナショナリズムと仏教の関係に対する関心が強かったことは確かですね。

 この6月には近代仏教史研究会の大会で、その一例について批判的に検討した発表をする予定です。今回はリモート大会であって、非会員でも参加できます(こちら)。 

舒明天皇の仏教政策は厩戸皇子を模範とした:三舟隆之「舒明天皇即位紛争事件の再検討」

2022年05月08日 | 論文・研究書紹介
 山背大兄を題名とした論文が少ないことは前にも記事で紹介しましたが(こちら)、舒明天皇の即位を論じる際、山背大兄に触れる論文は当然ながらかなり有ります。その一例が、

三舟隆之「舒明天皇即位紛争事件の再検討」
(吉村武彦編『日本古代の国家と王権・社会』、塙書房、2014年)

です。

 吉備池廃寺後の発掘が進み、これが舒明天皇が建立した巨大な百済大寺であることが確定しましたが、三舟氏は、「蘇我氏の権力が絶頂期の中、なぜ舒明天皇にそれだけの規模の寺院を造営しうる権力が存在したのか」を問題にします。

 山背大兄と舒明天皇となる田村皇子の関係については、当時は「嗣位」とか「遺詔」の概念はなかったして『日本書紀』の記述を疑う説や、境部摩理勢が山背大兄を応援して蘇我入鹿に殺されたとするのは後代の解釈で実際は蘇我氏内部の争いだとする説や、舒明天皇が即位した時には山背大兄は既に亡くなっていたとする説など、様々な説があります。

 しかし、篠川賢氏はそうした説を批判しており、三舟氏もそれに賛成し、この件については『日本書紀』はおおむね当時の史実を伝えていると見ます。そして、曖昧とされる推古天皇の遺詔を検討し、やはり田村皇子を意中の継承者としていたと推測します。ただ、それは山背大兄に資格がなかったためではなく、当時はまだ若かったためであろうとします。だからこそ、その後になって再度、皇位継承問題が起きたとするのです。

 外交については、伝統的に親百済派であった蘇我氏と違い、舒明天皇は、新羅に対しては均衡外交策をとり、良好な関係を保ったため、蘇我氏との対立が生まれたと推測します。

 その舒明天皇は百済大宮と百済大寺を建設するのですが、宮が「大宮」と呼ばれるのはこの宮だけであるため、本格的な宮を造営しようとしたことが分かると説きます。そして、宮と寺を平行して建設したのは、斑鳩宮と斑鳩寺が先行例であるうえ、宮中での経典講読の例も考えると、「舒明天皇の仏教政策は厩戸皇子を範としたのではなかろうか」と論じます。

 舒明天皇は山背大兄との競争に勝って即位したため、反上宮王家であったように思われがちですが、実際には政策は厩戸皇子を継承したと見るのです。この点は、以前、同じ推測を述べている鈴木明子さんの論文を紹介したことがあります(こちら)。

 そして、舒明8年には、大派王が豊浦大臣、すなわち蝦夷に朝参の時刻厳守を進言するが蝦夷は従っていないことから、舒明天皇と蝦夷は対立関係にあったとします。舒明天皇は推古朝の政治路線を継承しようとしたが、天皇の権力強化には蝦夷は反対だったのであって、孝徳朝になって時刻厳守が定められている点から見て、舒明天皇は内政・外交・仏教政策はすべて推古朝の方針を継続して強化しようとしていたと見られると説きます。

 また、『万葉集』では、巻一は雄略天皇の歌で始まりますが、次の歌は舒明天皇の国見の歌であり、巻一は雄略天皇以外は、舒明・皇極(斉明)・天智・天武とその近親の歌で始まっていることから考えて、『万葉集』の編者が古代の王権をどのように見ていたかが分かるとします。舒明天皇は、古代における画期的な存在の天皇と見られていたのであり、それは推古朝の政策を推し進めることによってそうなったとするのです。

合議を重視していた蘇我氏政権:長家理行「古代日本に於ける合議と王族政治」

2022年05月04日 | 論文・研究書紹介

 前々回、佐藤長門氏の合議制成立論文を紹介しましたが、そこでは蘇我氏の役割は詳しく論じられていませんでした。この件に触れているのが、

長家理行「古代日本に於ける合議と王族政治」
(日本書紀研究会『日本書紀研究』第30冊、2014年)

です。

 長家氏は、王権の歴史の画期となった天武朝の皇親政治は、それ以前の氏族合議体制を皇親会議に替えようとしたものだとしたうえで、合議制の成立について検討していきます。

 まず、『日本書紀』では継体天皇即位前紀では、大伴金村大連が議し、大臣などとともに倭彦王を迎えに行ったところ、逃げ出してしまったため、男大迹王が適任だとして三国に迎えに行っており、許勢男人大臣、物部麁鹿火大連などと相談したうえで行動しています。

 推古天皇崩御の際は、蘇我蝦夷が大臣であって、ひとりで決めようとしたが、群臣が従わないことを恐れ、阿倍麻呂臣と議して群臣を大臣の家に集め饗応したとあります。

 ここで重要なのは、舒明紀では大臣は蝦夷であって、大夫には、(1)阿倍麻呂臣、大伴鯨連、采女臣麻礼志、高向臣宇摩、中臣連弥気、難波吉士身刺、(2)許勢臣大麻呂、佐伯連東人、紀臣塩手、(3)蘇我倉麻呂、がいるものの、舒明即位前紀では、(1)については「四臣」と呼び、(2)については「三人」と称し、(3)については「臣」と称していることです。

 このうち、(1)は蝦夷の田村王子推薦に反対しなかった人々、(2)は反対した人々、(3)はただ「臣」と称しています。山背大兄は合議に参加しておらず、議政官ではなかったこと知られるとします。

 そして、合議制の歴史をふりかえり、最初は大臣・大連の議政で始まり、宣化朝に大夫が加わるようになり、推古朝から舒明朝にはさらに群臣の範囲が広がっています。

 これはかつて言われていた蘇我氏専制とは矛盾するものであり、長家氏は、「蘇我氏政権はむしろ、合議による議政を重視していたと考えるとします。これは、塚口義信氏の主張に基づきます。

 大化以後、編戸や官司が律令に組み込まれていきますが、蘇我本宗家を打倒してそうした改革を始めたのではなく、蘇我氏政権によって進められていた素地に基づいて進められたのであり、本宗家打倒後も、蘇我氏が政権に加えられていることが示す通りです。

 推古朝においては、厩戸皇子の国政関与は、いわゆる摂政としてのものでなく、あくまでも有力王族の一人としての関与に止まるという、やや古い見方に賛同しますが、立太子は国政参与の条件とはならないと論じます。

 孝徳天皇即位前紀によれば、軽皇子の皇位継承をめぐって大臣・大連・大夫などの合議があったのであって、そこには中大兄が参加していたと推測します。そして、中大兄の立太子と議政への参加は、王権政治への端緒となったとします。

 さて、どうですかね。『日本書紀』と『藤氏家伝』は、中大兄と鎌足についてはかなり作為して書いてますので。

 それはともかく、中大兄が即位すると、大臣・大連・大夫の上に王族(皇族)を置くという体制となり、皇親主導の政治となります。ただ、天智10年段階では、左大臣に蘇我赤兄臣、御史大夫に蘇我果安臣が任命されている点から見て、従来の氏族合議制を基にしたうえで、王族を上位の太政大臣に任命する形だったのに対し、天武天皇時代には、王族を官職に任命し、王族合議をめざしたとします。

 合議制がそうした方向で変化していったことは事実でしょうが、重要なのは、天智天皇段階でも蘇我氏が重視されていたことですね。

 これによって、「中大兄と鎌足によって横暴な蘇我氏が打倒された」などというのはこの二人にとって都合良く生み出された主張にすぎず、蘇我本宗家が倒されたのは、実際には、蘇我氏が強大になりすぎた結果として発生していた前からの蘇我氏内部の勢力争いを、中大兄などが利用したことが分かるように思われます。


近代仏教研究者がオカルト的聖徳太子論を批判的に検討:オリオン・クラウタウ「ノストラダムスから聖徳太子へ」

2022年05月01日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説
 昨年7月、このブログの「珍説奇説」コーナーに、「太子の未来記とユダヤ伝説その他を結びつけたトンデモ予言本:五島勉『聖徳太子「未来記」の秘予言』」という記事をアップしました。

 1999年に人類が滅亡するというノストラダムスの恐ろしい予言をとりあげ、ベストセラー作家になった五島勉のオカルト風な聖徳太子本について紹介したものです(こちら)。

 そうしたら、この聖徳太子本について検討した興味深い論稿が、このほど刊行されました。

オリオン・クラウタウ「ノストラダムスから聖徳太子へー五島勉による終末論の行方ー」
(『中央公論』2022年5月号[1662号]、2022年4月)

であって、この号は、「プーチンの暴走」と「オカルト・ニッポン」を特集しており、クラウタウ論考は、むろん後者におさめられています。ネット上で、これを紹介している記事は、こちら

 著書の『近代日本としての仏教史学 』(法藏館、2012年)によって高く評価され、最近は近代における聖徳太子の研究に力を入れている東北大学准教授のクラウタウさんは、私の研究仲間です。彼が先日主催し、私もコメンテーターとして参加した「近代の聖徳太子」シンポジウムについては、このブログで紹介しました(こちら)。

 ですから、クラウタウさんのこの論考は「論文・研究書」コーナーで紹介すべきですが、題材が題材だけに、前の私の記事と並ぶようにするためもあって、「聖徳太子をめぐる珍説奇説」コーナーで紹介することにしました。

 さて、クラウタウさんは、ノストラダムス(1503~1566)が『予言集』で、「海上都市の大きな悪疫」について語っているため、新型コロナウィルスが広まるとすぐに、多数の河川が揚子江に流れこむ都市、すなわち武漢と新型コロナウィルスのことだと論じる人たちがネットに現れたことから話を始めます。

 日本では、聖徳太子が予言していたとする言説も見られました。オカルト関連のニュースを流しているサイトでは、オカルト作家、白神じゅりこ氏の「聖徳太子2020年の予言は「新型コロナウィルス」だった!」という記事を掲載した由。

 その白神氏が参照しているのが、例の五島勉の聖徳太子本、『聖徳太子「未来記」の秘予言ー1996年世界の大乱、2000年の超変革、2017年日本はー』(1991年)なのです。

 クラウタウさんは、まずその五島の経歴を紹介します。函館市のキリスト教徒の家庭に生まれた後藤は、東北大学法学部卒業後、文筆の道に進み、宗教関係の本を出すようになります。そして、1973年に、「1999の年、7の月、空から恐怖の大王が降ってくる」というノストラダムスの予言をスモッグによる人類滅亡と解釈し、『ノストラダムスの大予言ー迫り来くる1999年7月の月、人類滅亡の日』を刊行しました。

 当時は公害問題が深刻となっていたこともあってか、本書は250万部を越える空前の大ベストセラーとなったため、五島は次々に続篇を出しますが、次第に日本から救世主が現れると説くようになります。それを読み、「我こそ救世主だ」と考える人も出てきており、それが阿含宗の桐山靖雄やオウム真理教の麻原彰晃などの教祖だったと、クラウタウさんは指摘します。五島の終末論は、不安だった日本社会に大きな影響を与えたのです。
 
 人類滅亡を救う救世主は日本から現れると説くに至った五島が着目したのが、聖徳太子でした。平安期から南北朝期にかけて聖徳太子信仰が高まると、太子の伝記、あるいは太子作とされる怪しい記述が盛り込まれた書物が次々に書かれ、太子の予言と称されるものが続々と登場します。

 これが太子の「未来記」と呼ばれるものであって、小峯和明さんなどによって研究が積み重ねられていますが、五島はこの「未来記」に着目してその図式を拡張し、救世主が日本から現れると説くに至ったのです。

 五島は、現在の世界を支配しているのはユダヤ・キリスト教・白人文明であるとし、その「思い上がった未来プログラムを打ちくだく」ものを東洋に、実際には日本に求めるようになったのですね。その結果、『聖徳太子「未来記」の秘密予言』は、『ノストラダムスの大予言』には及ばないものの、91年のノンフィクション部門のベストセラーとなりました。

 実際には、「未来記」は予言している事柄が実現した後に、それを聖徳太子が予言していたという形で記していることが多いのですが、五島はそうした研究は無視します。また、五島は予言が載っている『先代旧事本紀』などを原典だとしつつも、実際にはジャーナリスト出身の白石重の『聖徳太子』から孫引きしていたうえ、五島が太子の「未来記」の内容とするものの中には、五島が創作した話が含まれている由。こうした本は、怪しいのですよ。

 クラウタウさんは、五島は「結局のところ、一種の新しい予言を創作し、それを聖徳太子のものとして語ることで、予言者としての太子の地位を高めようとしたことになる」と説いています。

 そして、太子についてストーリー小説風に語るという点では、梅原猛『隠された十字架』が五島に大きな影響を与えたと説きます。梅原説のひどさは、この「珍説奇説」コーナーで3回にわたって解説しましたが、ここでも梅原だったのか……。弊害が大きいですね。

 私は今度の土曜には、その梅原が初代の所長を務めた京都の国際日本文化研究所で、「anitya、無常、つねなし」と題してインド・中国・日本の無常観比較の講演をする予定になっています。駒大在職中に1年間、在外研究で行かせてもらった京都大学人文科学研究所の場合も、所長を務めた福永光司先生の「憲法十七条」道教影響説と、世界的に有名だった敦煌班を率いた藤枝晃先生の『勝鬘経義疏』中国撰述説を批判する論文を書いてますので(こちらと、こちら)、どうも私は聖徳太子関連で批判している大先生の所属先と縁があるようです。

 さて、クラウタウさんは、五島がノストラダムスから聖徳太子へ乗り換えたのは、彼の「一種の西洋嫌悪」が強まり、「日本独自」の予言体系の探求につながった結果だと説いてこの論考をしめくくっています。

 そう言えば、このブログの「太子礼讃派による虚構説批判の問題点」コーナーで、聖徳太子虚構説に反発するあまり、史実を無視して太子を礼賛する国家主義的な人々を紹介・批判する際にとりあげた田中英道氏も、五島と同じような道筋を歩んでいますね。氏は西洋美術史家であったのに、太子やその関連の日本美術を絶讃する本を書くようになったうえ、最近では古代の四大文明よりも日本文明の方が先であってすぐれていたなどというトンデモ本を多数出していますし。

 田中氏が会長をつとめたことのある「新しい教科書をつくる会」のメンバーは、他にも西洋の研究者から日本讃美に転じた人が多いようですが、こうした傾向の先蹤は、西洋哲学や文学の研究から日本中心のトンデモ古代史ライターに転じたキムタカこと木村鷹太郎なので、そのうち取り上げましょう。