聖徳太子研究の最前線

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生前の呼び名は「厩戸王」だったろうと説いた誠実な研究者:小倉豊文(1)

2010年08月19日 | 小倉豊文の批判的聖徳太子研究
 津田左右吉に続いて、聖徳太子の事蹟を疑った学者は、小倉豊文(おぐら・とよふみ) (1899-1996) です。

 千葉に生まれ、兵隊になるのが嫌で千葉県師範学校に入った小倉は、以後、広島高等師範学校・広島文理科大学で学び、旧制姫路高校教授、広島文理科大学の助教授等を歴任、戦後には同大学が改組した広島大学文学部及び大学院で教授を務めました。研究の対象は、精神的な悩みを抱えていた際に「世間虚仮、唯仏是真」の語に出会い、心惹かれて調べ始めた聖徳太子と、現代の菩薩と思われた宮沢賢治でした。

 この間、終戦直前の昭和20年6月には、出版が決まっていて原稿用紙3300枚以上あった『聖徳太子信仰の歴史的研究』の原稿、写真集『聖徳太子--像及び絵伝--』の300枚を超えていた原稿すべてが、空襲による火災で焼けてしまったうえ、8月には広島原爆によって妻を亡くし、自らも被爆します。

 津田左右吉の疑義には共感しつつも、その論証の仕方に不満を抱いていた小倉は、戦時中にあっても、時局に便乗して太子礼讃を繰り返していた研究者たちに同調せず、聖徳太子を敬愛しながら種々の伝承について厳密な史料批判を行ない、真実の姿を明らかにしようと努めていました。

 小倉の発表、「聖徳太子の御事蹟御教学に就いて」は、文部省教学局が編纂し、文部大臣の「挨拶」を付して昭和17年12月に刊行された『日本諸学研究報告 第十七篇(歴史学)』に掲載されたものですが、そこでは、「大東亜共栄圏への聖徳太子顕揚の可能性に就て」という項目を設けておりながら、資料が集まらなかったという理由で「ここでは全然省略いたすことにいたしました」(9頁)と述べ、避けています。そして、『旧事大成経』や五憲法など太子に仮託された偽書の多さを指摘したうえで、「かゝる偽書、俗信仰の出現した事実そのものを、思想史的にも社会史的にも相当重要な問題としなければならぬかと思ひます」(12頁)と論じています。偽書や後代の俗信仰であることを明確にしつつも、そうしたものだからこそ重要であって研究すべきだとしているのは、非常に先進的ですね。

 さらに、小倉は、「又性急に太子を常人として過小評価することも、或ひは又非凡人として過大評価することも、何れも慎まなければなりません」(17頁)と言い切っています。これは、当時、太子を超絶的な天才として絶讃していた金子大栄や白井成允や花山信勝その他の学者たちとは全く異なる姿勢です。

 小倉は、太子関連の資料のうち疑問に思われる点について「何か深い思召しがあつての事である」といった「安易な態度で太子讃仰に急ぐが如きは、歴史学の自殺であるばかりでなく、真に太子を顕揚する所以ではないと思ひます」とまで明言します。そして、三経を講讃したとか、隋との外交にあたって対等の文辞を用いたといった事柄について慎重に検証せず、そのまま信じて礼讃ばかりするのであれば、それは「太子の顕揚」ではなく、「我を顕揚する滑稽に堕するもの」だと断言しています(17頁)。津田事件の後で、それも文部省教学局編纂の研究発表集で、よくここまで言えたものです。

 その小倉は、戦後になると、「聖徳太子」(『現代仏教講座』第五巻、角川書店、昭和30年)では、聖徳太子の本名について、「私は厩戸皇子がそれであり、上宮王とも通称されたのではないかと考へてゐるが、それとて確証のある訳ではない」(82頁)と述べています。さらに、広島大学での定年退職を前にした講演を原稿化した「聖徳太子流芳録--「聖徳太子信仰」資料研究中間報告--」(『広島大学文学部紀要』22巻2号、昭和38年3月)になると、

 私は厩戸王なる称呼が彼の生前の名であると思うが、その論証はここでは省略する(拙著「聖徳太子--厩戸王とその時代--」参照)。しかし本論では最も広く通行している聖徳太子なる称呼を用いることにしておく。(1頁)

とあり、「厩戸王」という名が登場しています。天皇という称号が確定する前である以上、「皇子」の語も使えないということで、「厩戸王」としたのでしょう。ただ、その論証を含むとされた「拙著」は、小倉の病気と完全志向のために、改稿を何度も繰り返したのち、ついに出版が断念されました。同年9月に刊行された『聖徳太子と聖徳太子信仰』(綜芸舎)でも、上と似た説明がなされています(22頁)。

 一方、上の本の翌年に中公新書の一冊として刊行され、広く読まれた田村円澄『聖徳太子』では、説明なしで「ともあれ、上宮王・厩戸王と豊聡耳王の名前が、比較的古いと考えられる」(9頁)と言われています。この本は、参考文献で小倉の『聖徳太子と聖徳太子信仰』をあげていますので、小倉の説を参考にしたものと思われます。田村氏は、以後の著作でも、信仰の対象としての聖徳太子と区別するために、歴史的人物としての太子について「厩戸王」の呼称を用いるようになり、これが世間に広まっていきます。

 さらに、大山誠一氏になると、聖徳太子は架空の人物であって、実在したのは「厩戸王」だと断言し、「厩戸王」は「実名」であるとしています。しかし、「厩戸王」という称呼は、『日本書紀』や『法王帝説』を初めとした諸文献には全く見えず、小倉が推測したものです。その小倉は、『日本書紀』などに見える聖徳太子の事蹟の多くについて疑い、摂政というのは事実でなく当時の第一の権力者は馬子であったとし、三経義疏を太子作としたのは行信だろうとするなど、大山説のうちのかなりの部分を既に説いていました。

 しかし、大山氏は、津田左右吉や藤枝晃先生などについては、その主張を詳しく紹介しているものの(津田説については自説に有利なように歪めた形でしたが)、小倉の主張については、個々の説を具体的に紹介してその意義を評価したことが全くないのです。大山氏の一般向けの著書しか読んでいない読者は、大山説が小倉説にかなり一致していることを知らずに終わるでしょう。しかも、大山氏の著作では、津田説の出典の記載が不備であったのと同様、ごく稀に小倉について言及した場合、出典の記載が不備なのです。これについては、改めて書くことにします。

【追記 2010年9月28日】
被爆後、小倉は「後遺症に苦しむようになった」と書きましたが、広島大学定年前に過労で持病の胃と肝臓が悪化し、寝たり起きたりの状況となって頭脳労働や執筆を禁止され、退官後しばらくは療養に努めたものの、被爆の後遺症そのものではなかったため、後遺症の箇所は削除しました。
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