聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

上宮王家の大和側南岸進出:岡島永昌「西安寺からみた大和川の古代寺院」

2023年01月28日 | 論文・研究書紹介

 飛鳥を含む奈良盆地における重要な交通ルートの一つは大和川でした。蘇我氏系である上宮王家は、物部合戦の後、その北岸の斑鳩を中心にしてこの地に進出しましたが、南岸には蘇我氏系ではない敏達天皇の系統の王族が進出していました。

 この点がこれまで注意されてきたのですが、見直す必要が出てきたのは、南岸に位置する西安寺遺跡から、若草伽藍の瓦と同笵の瓦が発見されたためです。となると、南岸は敏達系がすべて押さえていたとは言えなくなるのです。

 この問題に取り組み、大和川周辺の古代寺院について検討したのが、

岡島永昌「西安寺からみた大和川の古代寺院ー法隆寺若草伽藍同笵瓦の検討を通じてー」
(『聖徳』第244号、2021年8月)

です。岡島氏は、この発掘調査をした王寺町文化財学芸員です。

 (同論文、4頁上)

 太子建立の四十六寺の一つとされている西安寺は、大和川から200mほどのところにあります。昭和59年の第一次調査では寺の遺構、平成27年の第二次調査では塔跡の心楚の抜き取り穴や楚石、基壇土などが検出された由。以後、令和元年の第九次調査までなされる間に発見が続きました。

 それによれば、塔の基壇は13.35m四方、建物は6.75m四方であって、現在の法隆寺の五重塔とほぼ同規模であって、造営尺は1尺が30.3cmであるそうです。この大きさは驚きですね。伽藍配置は、南を正面とする四天王寺式である可能性が高いとか。

 重要なのは、最初に述べたように、西安寺跡から出た瓦が若草伽藍の創建瓦である7Abと傷まで一致する同笵の瓦であったことです。また、若草伽藍の創建期の補足瓦である6Bと同笵の瓦も出ています。となれば、大和川南岸とはいえ、北岸の斑鳩を押さえていた上宮王家との関係を考えざるを得なくなります。

 ただ、塔と違って西安寺の金堂は規模が小さいため、金堂の建立は七世紀前半であって寺院の前身となる小堂であり、後に金堂の修理がなされ、さらに7世紀後半になって規模の大きな塔が建立されたのだろう、というのが岡島氏の推測です。

 西安寺跡の瓦で他に注目すべきは、忍冬蓮華文軒丸瓦です。これは軒丸瓦の蓮華文に忍冬文(パルメット)を付加したもので、中宮寺で最初に使用され、後に若草伽藍の補足瓦(33A)として用いられたものです。これと組み合う軒平瓦と同笵の瓦が斑鳩宮跡から出土しています。

 近年、この33Aと同笵の瓦が、滋賀県の蜂屋遺跡から出土しており、この近辺は法隆寺と関係が深く、聖徳太子との関係を強調する伝承を持った寺が多いことで有名です。太子の晩年の頃か、山背大兄の頃には、上宮王家の勢力が伸びていたということでしょう。

 さらに、西安寺跡からは、若草伽藍の6B・7Abと同笵の瓦も出ていますので、上宮王家との関係の深さは確実です。しかも、西安寺の西には、太子と飢人説話の舞台となり、山背大兄の妹である片岡女王との関係が推測されている片岡王寺が存在します。このため、岡島氏は、大和川南岸にもある程度、上宮王家が進出していたと見るのです。

 なお、西安寺の忍冬蓮華文の瓦は、相模国の宗元寺のそれと同笵であることが知られています。これについては、森郁夫氏が天武天皇の関与を推測していました。岡島氏も、7世紀後半になって西安寺に大規模な塔が造営されるのは、大和川沿岸で竜田の神、広瀬の神を祀り、竜田に関を置いた天武天皇が、交通の要衝であるこの地を押さえようとしたことと関連すると推測します。

 そして、古代の寺は軍事拠点としての役割を果たしていた(こちら)ことから見て、西安寺の北側、つまり大和川と西安寺の間にかなり広い空間が確保されているのは城塞の機能を果たしていたと見ることも可能かもしれないとし、今後の調査に期待しています。

 こうした研究によって、上宮王家がかなりの土地を押さえ、経済力をつけていったことが分かってきますね。また、推古朝の末には「四十六」の寺があったという『日本書紀』の記述は疑われることが多かったのですが、意外に正確かもしれないことが見えてきます。

 塔や金堂や回廊などを供えた伽藍ではなく、飛鳥周辺の豪族の邸宅の中の建物を一つ二つ改装して小型の仏像や仏の画像を安置したり(これが大規模な改築になると、捨宅寺院ということになります)、邸宅のそばに瓦で葺かれた小さな仏堂を建てた程度であれば、推古朝末年までに主要な豪族がやっていても不思議はないからです。

 以前、誓願論文などで述べたように、中国の北朝でも古代日本でも、寺や仏像を造ってその功徳によって帝王の長寿を祈る(あわせて自分の父母・祖先などの往生や自分たちの現世利益も願う)のは、忠誠の証明でした。


聖徳太子虚構説は終わり:石井公成「「聖徳太子はいなかった」説の誕生と終焉」刊行

2023年01月23日 | 論文・研究書紹介

 一昨年の11月に、四天王寺で「「聖徳太子はいなかった」説の誕生と終焉」と題するお笑い講演をやりました。

 その短縮版が、今回、四天王寺の雑誌、『四天王寺』第812号に掲載されました。「令和5年1・2月号」という形ですので、1月配布ですが、奥付の日付は2022年12月23日ということにになっており、雑誌を届けていただいたのは本日です(有難うございます)。

 1時間半の講演の短縮版とはいえ、B5版の3段組であって字がびっしりとつまっているため、かなりの情報量になっています。内容は、このブログで以前紹介した通りです(こちら)。末尾は、

太子については、確かに史実でない伝承が多く、批判的に研究しなければならないことはたくさん残っています。ただ、大山氏流の「聖徳太子はいなかった」説は終わった、ということだけは断言して良いと思います。「厩戸王」という名も、次の指導要領が発表されたら、教科書から消えることになるでしょう。

となっています。

 この『四天王寺』誌は、かなりの数が刊行配布されているそうですので、関心を持つ人たちが、これによって「聖徳太子はいなかった」説が生まれてきた背景と、現在の状況を理解できるでしょう(PDFは、こちら)。


聖徳太子の「意外なしたたかさ」を指摘した論考:森公章「推古朝と聖徳太子」

2023年01月19日 | 論文・研究書紹介

 前回の続きです。前回は、仏教関連の記述に問題が多いため、きびしいコメントになりましたが、森氏は代表的な古代史研究者の一人であるため、さすがに感心させられる指摘もしています。

 まず、斑鳩宮の造営についてです。森氏は、これについては蘇我氏から離れて政治をおこなうためとする説に反対し、この近辺には推古天皇の額田宮があるため、当時は政治の中枢から外れていた敏達系の王族が広瀬郡あたりに進出していたことに対抗し、難波と飛鳥を結ぶ経路であって、守屋滅亡後に空白となっていた地域に蘇我系王族が新たな展開を試みたものと見ます。これは私も同意見です。

 森氏は、厩戸は皇位継承候補者のために創設された壬生部を与えられており、この時期の王族では、厩戸の系統だけ部民制的な名を持つ皇子女が集中していることに注意します。そして、これは蘇我系の上宮王家に王族内の財力・権力を集中する意図があるのであって、「厩戸の意外なしたたかさがかいまみられる」と述べています。

 これは卓見ですね。私も浅草寺文化講座で太子周辺の近親結婚の多さに注目し、当時は欽明天皇の血と蘇我氏の血をともに引く王族が天皇になっていた時代であって、太子自身、父も母もそうであったのに、太子の子供たちは蘇我氏と結婚せず、太子の系統の中でのみ近親結婚していることに触れ、これが山背大兄王の時の蘇我本宗家との対立の遠因となったのはないかと推察しました(こちら)。

 聖徳太子については、「憲法十七条」では民を使う時は思いやるようにと書いているものの、壮大な土木工事をやっているのですから、他の豪族のような強引は働かせ方は避けたにせよ、動員して労役に従わせたはずです。こうした面もきちんと見ていくことが必要でしょう。

 森氏は続いて、当時の厩戸の地位について、『法王帝説』が島大臣(馬子)とともに天下の政を輔けて三宝を交流し、元興・四天皇等の寺を起て、位十二級を制ると述べているのが、実情としてふさわしいとします。

 おおよそはその通りと思いますが、仏教に関することとなると、またしても問題が出てきます。「元興・四天皇(ママ)等の寺」とありますが、元興寺を建てたのは馬子であり、また聖徳太子が四天王寺を建てたのは事実であるものの、法隆寺が抜けているのはおかしいのです。これについては、以前ちょっとだけ書きましたが、別に述べます。

 冠位十二階については、『法王帝説』では馬子も制定側と解されるため、天皇家・蘇我本宗家による朝廷の組織化の第一歩と位置づけることができる、と説きます。これが実情でしょう。

 「憲法十七条」については、仮託と見る説もあるとしつつ、「むしろこの時期の制法としてふさわしいとする評価も根強い」と述べます。「憲法十七条」の公布状況は見性できないとしたうえで、当時は馬官、祭官、大椋官などの官司名が知られているため、「部民制的奉仕に基づく朝廷の職務分担を官司として整備しようとしたいたことがわかる」とします。

 そして、法隆寺の釈迦三尊像の台座に「尻官」とあるため、諸王宮でも「官」という語が用いられているため、朝廷だけが超絶した存在ではなかったとします。こういう過渡期的なあり方が重要であって、律令制かそれ以前かという明確な二分論は実情に合わないですね。

 遣隋使の「日出処」の国書については、高句麗僧恵慈が起草したとする李成市説もあると述べ、そうしたことも考慮する必要があるとします。李成市さんは、私が東洋哲学科の助手だった頃、東洋史の助手をしており、助手仲間です(その縁か、この夏に出る「アジア人物史」では、編集委員である李成市さんの依頼で、新羅の「元暁」の項目を担当しました)。

 蘇我蝦夷と入鹿が生前に壮大な墓を作るために厩戸から子に継承されていた壬生部の民を徴発しようとし、厩戸の娘が怒った事件については、森氏は、上宮王家側に「封民」を死守しようとする意識が強いとし、こうした王族の権益を排してどのように中央集権的な仕組みを作るかが課題だったとします。

 これは、厩戸とその子を天皇家の代表と見る見方から離れた視点によるものであり、新たな視点の提示として重要ですね。ただ、厩戸が死ぬと、王族と群臣による政務補佐のバランスが崩れたとしていますが、群臣にあっても、境部摩理勢のような存在もあったわけですから、群臣内部、それも蘇我氏系内部の争いという点にも注目すべきではないでしょうかね。

 このように、仏教関連の記述は問題ばかりであるものの、現時点で聖徳太子を新たな視点で見直そうとする姿勢が見られる記述となっています。


三経義疏を読まずに筋違いの断定をする聖徳太子概説:森公章「推古朝と聖徳太子」

2023年01月15日 | 論文・研究書紹介

 これまでは『人物で学ぶ日本古代史』シリーズでしたが、今回はその前に出た『テーマで学ぶ日本古代史』シリーズのうちの聖徳太子項目をとりあげます、

森公章「5 推古朝と聖徳太子」
(新古代史の会編『テーマで学ぶ日本古代史 政治・外交編』、吉川弘文館、2020年)

です。森氏は古代の外交史や天皇制に関する着実な研究で知られており、代表的な古代史研究者の一人ですが、この「推古朝と聖徳太子」には感心できない箇所が目につきます。

 まず、冒頭で「聖徳太子の位置づけ」を論じた部分では、本名は「厩戸皇子(うまやとのおうじ)」としており、『日本書紀』の表記である「皇子」に「おうじ」というルビを振っています。これは見識ですが、実はその確証はありません。

 「みこ」という和語は古くからあったでしょうから、「うまやとのみこ」ならありうるものの、皇子を「おうじ」と漢語で発音する場合、その前の語を和語で発音するかという問題があります。つまり、「重箱(じゅう・ばこ)」読みが古代からあったか、という問題です。「上宮太子」は「うえ(かみ)つみやのみこ」か「じょうぐう・たいし」でしょう。「厩戸」という部分にはそれ以外にも問題があることは、以前の記事で触れました(こちら)。

 次に、当時は皇太子制度はまだ確立していなかったとするのは通説ですが、「後代の職名から想起される摂政の役割も疑わしい」というのは、曖昧ですね。「摂政」という役職がなかったことと、そのような職務、そこまでは行かないにしてもかなり政治に関わる職務を担当していたかどうかは別の問題だからです。

 森氏は、厩戸が主体となったと記されるのは、大盾・靫・幡幟の製作、憲法十七條、そして『法華経』『勝鬘経』の講説と、『維摩経』を加えた三経義疏(さんぎょうぎそ)の作成などに限られ、対隋外交に関わった明証はないため、「儀礼の整備や仏教の研鑽に努めた人物像が浮かんでくる」と述べています。

 困りましたね。『日本書紀』があげているのは『勝鬘経』と『法華経』の講経だけであって、三経義疏の作成には触れていませんし、「ぎそ」は中国の注釈の呼び方であって、仏教経典の注釈は「ぎしょ」と発音します。仏教の素養、仏教への関心の弱さが見えてきます。

 しかも、森氏は、『勝鬘経義疏』について極似する敦煌本の『勝鬘経義疏本義』が知られ、「他の二義疏も中国南朝系の学僧の注釈の系譜を引き隋代に完成したものをもとにしたもので、独創的な内容ではない」と断言し、「実際には当時の学僧の学問的活動の成果とみるのがよい」と論じています。

 これによって、森氏は三経義疏を訓読本ですら読んでいないうえ、関連する近年の論文をきちんと読んでいないことが明らかになってしまいました。

 『勝鬘経義疏本義』というのは、『勝鬘経義疏』と良く似ており、『勝鬘経義疏』が「本義」と呼んでいる種本とも一致する箇所が多い注釈の断片(奈93)が敦煌写本中に発見されたため、藤枝晃氏がその注釈を仮に「勝鬘経義疏本義」と呼んだのであって、その写本は多くの敦煌写本と同様に前半が欠けていて題名は不明です。

 しかも、その注釈が、『勝鬘経義疏』の「本義」であるかどうかは論争になっていますし、敦煌は中国の西北に位置するため、当初は北地の注釈とされました。これが実は、南朝の梁の三大法師の注釈の佚文と説が一致するため、南朝の注釈が北地に伝わったものと解釈されるようになりましたが、森氏の上の説明を読む限りでは、そうしたことは分かりません。

 また、「他の二義疏も中国南朝系の学僧の注釈の系譜を引き隋代に完成したものをもとにしたもの」とは、どういうことなのか。『法華義疏』は、梁の光宅寺法雲の『法華義記』を「本義」としており、それ以外に引いている説も南朝の古い説ばかりであって、隋の注釈は反映してません。

 「隋代に完成したものをもとにしたもの」とは、どういうことなのか。三経義疏には隋から初唐にかけて活躍した三論宗の吉蔵の注釈に見える説と一致することが多いのですが、それは吉蔵が古い注釈をたくさん引用しているためであることが判明しています。

 三経義疏を厩戸を指導者とする学団の作とするのは、井上光貞先生の説ですが、これまで何度も書いたように、井上先生は奈93を含めた中国の注釈と三経義疏とを比較して読んだうえでその結論を導きだしていました。

  古代史学者がそこまで検討していたことに敬意を払うほかありませんが、井上先生が論文を発表していたのは50年近く前だったうえ、三経義疏は「私の考えでは」と述べている箇所が多く、集団の作とは考えにくいことは、花山信勝や田村晃祐先生の論文(このブログでも紹介しました。こちら)が指摘していました。

 さらに、私は、コンピュータを活用し、三経義疏はいかに変格漢文で書かれていて良く似ているか、しかも漢文を基調とした古代朝鮮の変格漢文とは異なり、『源氏物語』のようなぐねぐねした文章で書かれていることを指摘しました。また、私の研究を踏まえた木村整民氏は、三経義疏は同一人物が書いたものであり、隋以前の古い注釈を用いていることを明らかにしました(これも紹介ずみです。こちら)。

 現代の細分化された研究と違い、かつての日本の学者の研究はおおざっぱでしたが、彼らは儒教や仏教の素養があり、幅広い文献を原文や注釈で読んでいました。三経義疏は特殊な性格の文献ですので、すべての古代史学者がこれを綿密に読むのは無理ですが、読んでいないなら、自分が読んで確信したことであるように断定せず、「これこれの研究によると~と思われる」などと書くべきでしょう。

 ということで、森氏のこの概説のうち、仏教に関する記述はほとんど全滅でした。他の点では、さすがに勝れた指摘もなされているため、これについては続きの記事で紹介します。

【追記】
公開後、文章の面などを少々訂正しました。


いま時、道慈が『日本書紀』の聖徳太子関連記事を書いたとする時代遅れの概説:水口幹記「道慈」

2023年01月11日 | 論文・研究書紹介

 『人物で学ぶ日本古代史1 古墳・飛鳥時代』の次に出た『人物で学ぶ日本古代史2 奈良時代篇』(吉川弘文館、2022年)では、『日本書紀』編纂および「聖徳太子はいなかった」説がらみで言うと、藤原不比等、舎人親王、道慈、長屋王その他が取り上げられています。

 その中で見逃すことができないのが、

水口幹記「道慈ー奈良仏教の礎を築いた僧侶ー」

です。

 水口氏は、天文・陰陽の術や日中交渉を初めとして幅広い分野を研究されているものの、古代日本の仏教に関する論文はおそらく書いていないと思います。つまり、この「道慈」という項目は、専門でない分野の人物を担当させられているのであって、気の毒なのですが、このブログとしては聖徳太子に関する記述としては無視できないため、問題点を指摘させてもらいます。

 まず、道慈が滞在していた可能性が高い長安の西明寺について、空海・円載・円珍・真如などの日本僧が続々と訪れているため、日本との関係が深いとされています。これはその通りなのですが、西明寺は唐における仏教国際センターのような存在であり、インドや西域からやって来た僧はここに止まることが多く、また百済や新羅の僧侶などもここに滞在し、中国僧の講義を受けていました。

 問題は、道慈の業績の一つとして、帰国時に「最終段階を迎えていた『日本書紀』編纂への関与である」と断定し、「仏教関連だけでなく、聖徳太子関連記事にも及んでいるとされ」るとして、唐で学んだ最新知識を『日本書紀』編纂に存分に生かし、「日本の歴史」を紡いでいった人物だったともいえるのである」と論じています。

 参考文献では、曾根正人『道慈』(吉川弘文館、2022年)と吉田一彦「道慈の文章」(大山誠一編『聖徳太子の真実』、平凡社、2003年)だけがあげられています。吉田さんのこの論文は、『日本書紀』の聖徳太子関連記述は和習だらけであることを指摘した森博達氏の検討によって完全に否定されたものです。2022年にもなって、そうした時代遅れの説が紹介されているのは不思議です。

 最新の成果である曾根さんの『道慈』では、

最新の唐仏教を吸収して帰国したばかりの道慈は、執筆者として最適だったはずである。……個々の記事にどういう形で道慈が関与しているかは不明だが、その知識や見解はかなり反映されていると考えられる。(99頁)

と述べており、道慈の関与を説くものの、どの記事にどの程度関与したかは「不明」としています。『日本書紀』の仏教関連記事、とりわけ聖徳太子関連記事は和習だらけであって、t唐に16年も留学し、儀礼的ながら講経も担当したことがある道慈が直接執筆したとは考えられないとされたため、こうした言い方になっているのです。

 ただ、これでも言い過ぎであって、せめて「持ち帰った文献や唐の仏教に関する知見を提供した可能性がある」程度に留めるべきだったでしょう。その場合は、道慈の立場とは異なる記述となっている可能性がある、とすべきですね。

 戒律重視、唐代仏教尊重の道慈の立場から見て、『日本書紀』の仏教関連の記述は道慈が書いたものとは考えられないことは、直林不退氏がかなり前に論じており、このブログでも紹介しました(こちら)。

 あと注意すべき点は、曾根さんは道慈が『日本書紀』に関与したと見ているものの、藤原不比等と長屋王と道慈が理想的な天皇像としてでっちあげたとする大山流の虚構説にはまったく触れていないことですね。言及する価値無し、ということでしょう。

 いずれにしても、水口氏は、最新の成果であって道慈の『日本書紀』関与を認める曾根さんの本ですら、道慈がどの記事にどの程度関与したかは不明としている点に注意すべきでした。また、曾根さんも、文体面や直林氏の論文にもっと注意すべきでしたね。 


いま時、物部氏は寺を建てていたとする概説と、聖徳太子を「厩戸王」と記す概説(前回の続き)

2023年01月07日 | 論文・研究書紹介

 前回の続きです。

 新古代史の会編『人物で学ぶ日本古代史』シリーズは、どの人物をとりあげるか会員にアンケートをとって決めたそうで、意外な人物も含まれているうえ、参考文献を並べるだけでなく、簡単な紹介をつけてあって便利ですが、最新の内容になっていない項目も目につきます。その一例が、

榎村寛之「物部守屋-聖徳太子の仇敵と伝えられた大連-」

です。榎村氏は、守屋と仏教の関係について、以下のように述べています。

守屋の本拠の一つと見られる八尾市渋川(渋河家の所在地)に中河内最古級の寺院遺跡である渋川廃寺があり、またこの周辺が渡来系氏族の一大集住地だったこと、守屋の別宅を推古天皇元年(五九三)に官寺にしたとする大阪市四天王寺の創建時遺構が六世紀前半までしか遡らず、厩戸王子の合戦との関わりにも疑問が持たれることなどから考えても、物部氏排仏の物証は確認できないと言えるだろう。

 末尾の「参考文献」では、篠川賢『物部氏の研究』(雄山閣、2009年)、安井良三「物部氏と仏教」(三品彰英編『日本初期研究』第三冊、1968年)のみがあげられていますが、篠川氏の本では仏教との関係に触れていないため、上記の推測は安井氏の論文に基づいたのでしょう。

 しかし、渋川廃寺を調査した山本昭氏が、渋川廃寺の瓦は守屋が滅ぼされた後の推古朝のものであって、この地が聖徳太子の支配下に置かれた後に寺が建立されたとしていることは、このブログで紹介しました(こちら)。

 また、「四天王寺の創建時遺構が六世紀前半までしか遡らず」というのは、「七世紀前半」の誤りでしょう。

 榎村氏のこの項は、「仏敵とされてきたが、実際はそうでない」ということを強調しようとするあまり、調査不十分のまま問題のある記述となったように思われます。

 次に、中村友一氏の「蘇我稻目・馬子・蝦夷・入鹿ー権臣と大王家の鼎ー」は、『日本書紀』の記述を簡単にまとめつつ論じようとしたためか、最近の研究状況を説明する概説本としては説明不足の箇所が目立ちます。

天皇暗殺の非常事態の中で、固辞しながらも即位したのが初の女帝となる推古であり、元年(五九三)四月には厩戸皇子が「皇太子」に立てられ、かつ「摂政」となった。

という箇所がその一例です。『日本書紀』は崇峻を殺すことを推古が認めて命じたとされており、史実もその通りだったと思いますが、その場合、後継の天皇をまったく決めずにこうした暗殺がなされるとは考えられません。「皇太子」も「摂政」も当時の用語ではないですし、様々な説があるわけですから、それに近い立場になったとする説がある、といった程度にすべきでしょう。

 会の代表幹事である三舟隆之氏の「舒明天皇と山背大兄王ー皇位を争った二人と大化改新前夜ー」も、問題があります。「はしがき」で「厩戸王(聖徳太子)」と記していた三舟氏は、この項の冒頭では「推古の後継者は厩戸王であったと思われる」と書いてますが、古代の文献には見えないと指摘されている「厩戸王」を、2022年の段階で説明抜きで実名のように使うというのは、どういうことなのか。

 また、蝦夷が叔父の境部摩理勢を討った事件については、『日本書紀』の記述をそのまま紹介し、蝦夷は蘇我系の山背大兄を支持すべき立場でありながら、推古の遺詔やそれを支持する群臣を無視できず、「やむなく抵抗する叔父の境部摩理勢まで討たざるを得なかったのではないか」と述べたうえで、この事件については諸説があるとし、「ぜひ真相を明らかにする研究が現れることを期待したい」と、他人事のように述べている。

 この事件については、遺詔なるものの存在そのものが論義となっているうえ、このブログでも紹介したように(こちら)、即位の条件となる当時の婚姻関係に関する研究が進んでいるのだから、それを踏まえたうえでもう少し踏み込んだ推測を示すべきでしょう。

 また、舒明の百済大寺建立についてその意義を説く際、「従来寺院は祖先の追善供養のために造営されるものであって」と述べていますが、これは氏寺に象徴される氏族仏教から国家仏教へという田村圓澄の古い図式に基づいた言葉ですね。

 受容期の日本仏教では、寺は「君臣之恩」のために建立されたことは、推古紀の三宝興隆の記事が述べている通りです。この場合の「恩」は、パワーを意味します。仏教的な善行による功徳を君主は(七世の)父母に振り向ける戸、君主や父母のパワーが増し、それが臣下・子孫に及ぶのです。先祖供養の追善の面が強まるのは後代になってのことです。

 中国北地の造像銘では、まず皇帝の長寿を祈り、その後で没後か現存の父母の「奉為」を願う例が多いことは、このブログで紹介した倉本さんの研究(こちら)などが示している通りです。どうも、古い図式で論じている印象が強いですね。


聖徳太子を含む2022年刊行の人物概説本:新古代史の会編『人物で学ぶ日本古代史1 古墳・飛鳥時代』

2023年01月03日 | 論文・研究書紹介

 歴史出版社である吉川弘文館が、一般向けに「人物で学ぶ日本古代史」というシリーズの刊行を始めました。その最初の巻が、 

新古代史の会編『人物で学ぶ日本古代史1 古墳・飛鳥時代』
(吉川弘文館、2022年)

です。

 古代の多くの人物が解説されており、聖徳太子や関連する人物としては、「Ⅰ ヤマト王権の形成」では欽明天皇、物部守屋、善信尼、「Ⅱ 飛鳥時代の政争と人物」では蘇我稲目・馬子・蝦夷・入鹿、推古天皇、聖徳太子、舒明天皇・山背大兄、鞍作止利、などが取り上げられ、それぞれ異なる研究者が4頁から10数頁ほどの長さで執筆しています。古代人物辞典を読みやすい形にした本という感じでしょうか。

 会の代表幹事である三舟隆之氏の「はしがき」によれば、2020年に刊行した新古代史の会編の「テーマで学ぶ日本古代史」シリーズは、「最新の研究成果を分野別に学生や初学者にわかりやすく解説し、さらにそこから楽しく古代史の世界に入っていけるように心がけ、主要な参考文献の紹介を盛り込んだ」ものであり、今回はそれを人物ごととし、生き生きした形で紹介しようとしたそうです。

 ただ、読んで見ると書き方と質と量は執筆者によって様々であり、『日本書紀』の関連記述を簡単にまとめて少し説明を加えただけであって、「最新の研究成果」を解説したとは言いがたい項目も目につきます。

 原稿の締め切りがいつであったのか知りませんが、この「聖徳太子研究の最前線」ブログをこまめに読んでいる読者なら、「どうして、あの論文を紹介しないんだろう?」と思う場合もしばしばあるでしょう。

 何回かに分けて紹介しますが、最初はまず聖徳太子その人について現在の研究成果に基づく穏健な概説となっている、

鷺森浩幸「聖徳太子ー真実の姿はどこに?ー」

からです。

 鷺森氏は、まず太子の多様な名から話を始め、生前の名は「厩戸豊聡耳」であろうと述べ、「上宮」も生前から使用されただろうとしたうえで、この項では広く通用している「聖徳太子」を用いると述べており、「厩戸王」には触れません。これは、三舟氏の「はしがき」では、高校の教科書を意識したのか、「厩戸王(聖徳太子)」となっているのと違い、私の本などを読んでいるからですね。末尾に付された「参考文献」は、次のようになっています。

 石井公成『聖徳太子ー実像と伝説の間ー』春秋社、二〇一六年
 大平聡『聖徳太子-和国の「大国」化をになった皇子-』山川出版者、二〇一四年
 新川登亀男『聖徳太子の歴史学-記憶と創造の一四〇〇年-』講談社、二〇〇七年
 曾根正人『聖徳太子と飛鳥仏教』吉川弘文館、二〇〇七年
 東野治之『聖徳太子-ほんとうの姿を求めて-』岩波書店、二〇一七年
 吉村武彦『聖徳太子』岩波書店
   ・右六点は現在の到達点がわかる概説書。それぞれに得意分野があり、引きつけられる点がある。
 法隆寺編『法隆寺史 上 古代・中世』斯文閣出版、二〇一八年
  ・最近出版された法隆寺の通史、聖徳太子・法隆寺研究の今がみわたせる。
 『新修 斑鳩町史 上巻』斑鳩町、二〇二二年
   ・聖徳太子・法隆寺も含めて広くこの地域をみる。
 北康宏『日本古代君主制成立史の研究』塙書房、二〇一七年
 鷺森浩幸『日本古代の王家・寺院と所領』塙書房、二〇一七年
 本郷真紹編『日本の名僧一 和国の教主聖徳太子』吉川弘文館、二〇〇四年

以上です。

 2017年、2018年、2022年の書物があげられているため、最近の研究成果を考慮して書かれていることが分かります(拙著を挙げてくださって有り難うございます。ただ、個人のブログは、停止したり URLが変わったりするため、「参考文献」としてあげるのは難しいでしょうが、最新の研究成果が示されているのは、古代史、仏教史・仏教学、美術史、考古学、建築史などの最近の論文を紹介しているこのブログですね)。

 さて、鷺森氏は、「厩戸」については、「戸」を坂の入り口と解釈し、阿直伎が馬を飼育したとされる厩坂のことだとする説を紹介します。ただ、賛否は分かれるとしたうえで、馬と関係深いのは事実であり、むしろ馬が飼育されていた「額田」の地を考慮すべきだと説きます。推古天皇がこの地と関係深く、またこの地の額田部氏は馬と関わりが深いためです。

 政治面での活動については、推古朝を太子を軸として見ることは否定されているとし、推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子を中心とすると見るのが普通であって、どの人物に比重を置くかは研究者によって異なると述べます。ただ、推古も太子も蘇我系であることを重視するのはほぼ共通するとします。

 「憲法十七条」については、冠位十二階と関連しており、用語面はともかく、内容はほぼ当時のものとして承認するのが学界の傾向だとし、「憲法十七条」は太子自ら定めたと明記される数少ない政策の一つであることに注意します。

 法隆寺金堂の薬師如来像は七世紀後半の法隆寺再建頃の作とされているため、その銘は時代が合わないとします。釈迦如来像銘については光背作成時のものとする東野治之の論を紹介し、天寿国繍帳銘については、「天皇」の語が見えるため議論になっているとして研究状況に簡単に触れますが、この辺りは簡単すぎてわかりにくくなっています。

 この本は、研究状況の概説が主であって、執筆者氏自身の私見を述べるものではないですが、簡単な証拠をあげたうえで執筆者の考えを示す部分がもう少しあっても良さそうに思われます。語句の断片的な解釈では不十分であるうえ、「現在の水準はそれを超える」と述べていますが、どう超えているのかを示さないと読者に不親切でしょう。

 斑鳩については、道路が敷設され、地割と呼ばれる地制が施行されたと思われるとし、若草伽藍や太子道(筋違道)の方位と一致すると述べ、これは開発計画に基づくものであり、「隋や朝鮮半島諸国との外交を意識した都市の建設という意義を持つだろう」とし、「聖徳太子が斑鳩で新しい文明を取り入れた、新しい宮殿と寺院、その周辺に広がる都市的な空間を作ろうとしたことは事実であろう」と結論づけます。

 ただ、最後の「聖徳太子と仏教」の部分は弱いですね。三経義疏や天寿国繍帳について諸説あることを紹介するのですが、三経義疏そのものの真偽論争と、『法華義疏』が自筆であるかどうかの議論などが明確に区別されておらず、曖昧な記述になっています。

 これは、近年の古代史研究者が、かつては必須の教養であった仏教や中国思想と縁遠くなったためですね。戦後の古代史学は専門分化し、細かい点の検討が進みましたが、仏教や中国思想を踏まえた研究は減ったように思われます、

 「憲法十七条」について最もバランスが良い研究は、日本思想史の村岡典嗣が戦時中におこなった講義です。村岡のように、中国古典や仏教の出典に注意しつつ注釈をつけられるような人でないと、「憲法十七条」を理解するのは困難でしょう。

 三経義疏についても同様です。をきちんと読んだうえで論文を書いたのは、井上光貞と曾根正人さん以外にどれほどいるか。たまに読んだ人がいたとしても、花山信勝の訓読版でのことのように思われます。

 しかし、太子礼賛者である花山の訓読本は、和習と誤字・誤記だらけの原文を、読みやすくて意味が通るように工夫してあるため、三経義疏をきちんと理解するためには、元の漢文で読む必要があります。その点、井上光貞は、『勝鬘経義疏』との類似が話題になった敦煌写本を含め、中国の注釈と比較して読んでいました。

 むろん、古代史研究者がすべて三経義疏を丁寧に読むのは無理でしょうし、鷺森氏は、諸説があるとしているだけで、大山誠一氏のように「~のはずがない」などといった断定はしていません。ただ、大山氏以外にもそうした人がまだいるため、近いうちにとりあげることにします。