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田中英道『聖徳太子虚構説を排す』の問題点(続):田中説の拠り所である「関野貞説」なるものは虚構だった?

2010年12月20日 | 太子礼讃派による虚構説批判の問題点
【19日早朝にアップしましたが、夜になって読み直したところ、田中氏が自説の拠り所としている関野貞氏の説なるものが関野氏の原論文の内容と異なることに気づき、掲示をやめました。その部分と関連する部分の記述を訂正したものを再アップします。このところ、再アップ続きで申し訳ありません】

 前回の記事では、同書の全般的な傾向について紹介しましたので、今回は仏像関連の主張を見ていきます。

 田中氏は、関野貞や秋山義一などによる戦前の二寺併立説を評価し、現在の法隆寺西院伽藍は聖徳太子が父の用明天皇のために建立したものであり、聖徳太子が重病となった際に発願された釈迦三尊像は、太子亡き後に建立された若草伽藍の本尊となったと説きます。つまり、二つの寺が同時に存在していたのであって、天智9年(670)の火災で焼失したのは若草伽藍であり、現在の法隆寺は、五重塔の心柱が年輪年代法によれば594年の伐採であることが示すように、聖徳太子が創建した当時のままだとするのです。

 氏は、法隆寺金堂の薬師如来像は、形だけ見れば釈迦如来像と言ってよいとし、止利仏師の様式にならって作られた擬古の像であると説きます。擬古作とみなす点は、最近の通説と同じですね。

 そして氏は、西院伽藍の本来の本尊である「原・『薬師如来』像」は止利様式の丈六の釈迦像だったが、若草伽藍焼失の後、その金堂から救出された釈迦三尊像が新たに西院伽藍の金堂の本尊とされた際、その新らしい本尊の横に安置するため脇侍の大きさの仏像が必要となり、丈六の釈迦像を真似て小さくした擬古像が作られ、また釈迦三尊像と重ならないよう薬師如来とされたのであって、銘文もその時に書かれたのだと推測しています。

 しかし、田中氏が自説の拠り所とする年輪年代法調査を行った研究者たちは、建立は若草伽藍が先であって、西院伽藍の金堂は670年の火災の年の少し前に着工された可能性があるとし、心柱だけが異様に古くて新旧の部材を用いている五重塔は、その金堂の建立後に建てられたとしていました。

 光谷拓実氏、つまり、この年輪年代法の調査をおこなった当人が、法隆寺建立事情については、今回の年輪年代法の調査によって「ようやくその謎解きに一歩近づいたことになろう」(光谷「古代史の謎を解く年輪年代法」、『歴史読本』2009年8月号)と述べているのに、田中氏はこれで決定だとするのです。また、瓦研究の成果も、西院伽藍は若草伽藍より後の建立であることを示すというのが通説であることは、前回書いた通りです。

 つまり、田中氏の主張は前提からして成り立たないのですが、それはともかく、若草伽藍から釈迦三尊像を持ってきて西院伽藍の金堂の本尊としたのであれば、それまで本尊とされていた丈六の釈迦像はどこに行ったのでしょう? 

 田中氏は、火災から救出された釈迦三尊像が金堂の本尊とされた際、「原・『薬師如来』像もつくり直された」と述べ、その「原・『薬師如来』像」については、「六四三年の蘇我入鹿の斑鳩寺攻撃の際に破壊同然の目に遭っていたからかもしれない」としています。そして、すぐれた建築史家であった関野貞氏が、若草伽藍はこの年「焼失した」としていたのは「示唆的である」と述べています。(54頁。56頁にも同趣旨のまとめ有り)

 しかし、田中氏は『日本書紀』に従い、若草伽藍は天智9年(670)の火災で焼けたとします。田中氏は、斑鳩宮襲撃と記さず、「蘇我入鹿の斑鳩寺攻撃」と書いていますが、そうなると、蘇我入鹿が派遣した軍勢は、643年に「斑鳩寺」を襲っておりながら、斑鳩宮を焼いただけで、その斑鳩宮と方位も同じであって宮とセットになっていたことが確実な若草伽藍とその釈迦三尊像には全く手をつけず、一方、方位が大きく異なる西院伽藍については本尊だけに損傷を与えた、それも蘇我系の用明天皇のために造られた本尊だけに破壊同然のひどい損傷を与えたことになります。あまりにも不自然ではないでしょうか。

 田中氏は、薬師如来像銘については、擬古像を造った際、「薬師如来とするために、無理して父、用明天皇の病気のことを推古天皇と聖徳太子が平癒を祈願したものだ、という物語を作りだし」て書いたと述べ(55頁)、ほかにもこの銘文には「いろいろな矛盾がある」(54頁)としていますが、この書き方だと、用明天皇は、推古天皇と聖徳太子の父であるみたいですね。

 また、上の記述によれば、病気平癒を祈願したのは推古天皇と聖徳太子ということになりますが、薬師如来像銘が後代の作だとされているのは、重病の人のために周囲が誓願する初期の通例と違い、用明天皇自身が「病気が治るよう寺と薬師像を造ってお仕えしたい」と述べた、と記されていることも一因となっています(古い時代の中国・日本仏教の誓願の特徴について論じた論文は、私が前に書いたものだけでしょうから、いつか紹介します)。

 実際の銘文は、すぐ亡くなってしまった用明天皇のその願いを果たすために「小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王」、すなわち推古天皇と聖徳太子が遺命を奉じて推古十五年に作った、と述べています。つまり、擬古像を造った際に「推古天皇と聖徳太子が平癒を祈願した」という物語も作って光背に刻み込んだとする田中氏の説明は、銘文の内容と異なるのです。前回の記事では、田中氏による釈迦三尊像銘の内容説明が不適切であることを指摘しましたが、今回は、薬師如来像銘の内容把握が不適切ということになりました。

 しかも、田中氏は、54頁では、670年の火災から救出した若草伽藍の釈迦三尊像を西院伽藍金堂の本尊とした際に、丈六の釈迦像を真似た擬古的な小さい像が作られ、「光背の銘文もまた書き込まれたのである」としておりながら、56頁では、擬古的につくり直された際、「原・『薬師如来』像の光背に書かれていた銘文も新たに書き込まれたのである」と述べています。銘文は擬古像を造った時に新たに作文されたのでしょうか。それとも、「原・『薬師如来』像」に既に刻まれていたのでしょうか。

 既に刻まれていたとしたら、聖徳太子は丈六の釈迦像を造っておきながら、「薬師如来像を造って……」という銘文を光背に刻み込ませた、という妙なことになります。

 あるいは、「原・『薬師如来』像」の光背銘には、「用明天皇は、自分の病気が治るよう寺と釈迦像を造ろうと願い……その遺命を承けて推古天皇と聖徳太子が……」と書かれていたのを、後に擬古像を作った際、「釈迦像を」の部分だけ「薬師像を」と改めたということなのでしょうか。しかし、この銘文は「無理して……つくり出した」ものであり、他にも「いろいろな矛盾がある」ことは、田中氏自身が指摘している通りです。

 田中氏は最新の著作、『「やまとごころ」とは何か』(ミネルヴァ書房、2010年)では、自著の『聖徳太子虚構説を排す』は「法隆寺問題だけでなく歴史家の様々なもっともらしい聖徳太子懐疑説を論破したものだが、これに対する反論はまだ提出されないでいる」(97-8頁)と書いています。しかし、前回と今回検討してきたような内容なのですから、学術論文で取り上げて反論する研究者が出てこないのは、仕方ないことではないでしょうか。

 ちなみに、自説に反論がないとする点は、大山誠一氏が自らの聖徳太子虚構説について「学問的反論は皆無である」としばしば誇っているのと似ていますね。

 大山氏との共通点はほかにもあります。それは、大山氏が天皇号に関する津田左右吉の説や聖徳太子に関する久米邦武の著作を紹介する際、孫引きですませていて出典表示が不適切であり、また「憲法十七条」についても津田の説をきちんと読まず、自説に都合良く解釈して自説の根拠としていたのと同じことを、田中氏も関野説についてやっていることです。

 田中氏によれば、関野貞氏は、若草伽藍は「六四三年の蘇我入鹿の乱で焼失し、本尊のみが法隆寺金堂に移し替えられた」と述べたとし、これは「昭和二年」に『アルス大建築講座』に発表された説だとしています(31頁)。そして、若草伽藍がその時に焼失したと関野氏が述べたことを「示唆的である」として高く評価しています。田中氏は、他の箇所でも、関野の学識を賞賛しています。確かに関野貞(1868-1935)は日本建築史の分野を確立した、きわめて優れた学者でしたが、昭和10年代に行われた斑鳩宮と斑鳩寺の発掘調査の成果や、戦後急激に進展した建築様式や瓦の様式の研究成果を知らずに、限られた材料に基づいて模索していた時代の人物であることも考慮すべきでしょう。

 そもそも、「蘇我入鹿の乱」などという歴史用語はありません。また、この昭和2年に発表された関野説については、論争史の代表的な概説であって誰もが読む論文、藤井恵介「法隆寺は再建か非再建か--法隆寺再建非再建論争の展開--」(大橋一章編『寧楽美術の争点』、グラフ社、1984年)では、関野説は「若草伽藍は聖徳太子のために発願された釈迦三尊像を本尊として建立されたが、天智九年の火災で焼失したとする」(22頁)と明記されており、出典は昭和2年刊行の『アルス大建築講座』としています。

 つまり、田中氏の紹介と違い、関野説では、643年に入鹿が派遣した軍勢が斑鳩宮を襲うとともに若草伽藍も焼いたとはしていなかったのです。田中氏が関野説を正しく伝えていたなら、斑鳩宮の焼き討ちの際、西院伽藍の本尊も破壊されたのだろうという田中氏の推測は成り立ちにくくなります。

 また、上記の藤井氏の紹介では、関野説の出典は田中氏の本と同様、『アルス大建築講座』となっていますが、これは間違いであり、実際にはその講座の名は、『アルス建築大講座』です。焼失に関する記述は、関野が担当した「日本建築史」のうち、85頁から86頁にかけて書かれています。

 つまり、田中氏は、『聖徳太子虚構説を排す』の中でもとりわけ重要な主張、すなわち、法隆寺は再建でなく創建当時のままだという主張をするため、一番の拠り所としている関野説を紹介するにあたって、その論文自体を読まずに出典名の誤りを含んだ論争史紹介論文の説明の孫引きですませ、しかも自説に都合よく改めた形で紹介したのです。

 これは悲しいですね。田中氏に言われるまでもなく、法隆寺は現存する世界最古の大型木造建築であり、芸術的な傑作であって、日本と世界中の人々にとってこのうえなく貴重な文化遺産です。田中氏のようなフェアでないやり方によって法隆寺の古さを強調しようとするのは、法隆寺に対する冒涜です。

【追記 2010年12月23日】
 『アルス建築大講座』を『アルス大建築講座』と誤記するのは、上に記した藤井恵介「法隆寺は再建か非再建か--法隆寺再建非再建論争の展開--」(大橋一章編『寧楽美術の争点』、グラフ社、1984年)が最初ではありませんでした。
町田甲一『法隆寺』(角川書店、1972年)が「関野貞『アルス大建築講座』所収「日本建築史」昭和二年」(119頁)と記しており、それ以前に同氏の論文、「法隆寺再建非再建論争の経緯」(『東京教育大学教育学部紀要』15巻別冊、1969年3月)が「昭和2年発行『アルス大建築講座』所収「日本建築史」」(4頁)と書いてました。以後、孫引きで間違いが受け継がれていったわけです。町田氏以前はどうなっているか、調べてみます。
 町田氏の『法隆寺』は後に時事通信社から増補版が出ており、田中氏は問題の箇所(54頁)でその増補版に触れているため、氏の言う関野貞説なるものは藤井論文でなく町田氏のその本に基づいて記したのかもしれません。いずれにせよ、自説にとっても最も重要な関野の論文に直接当たらず、論争史紹介の文章から書名の誤りも含めて孫引きし、しかも関野説の内容を自説に都合良く改めたことに変わりはありません。

【追記2 2011年1月13日】
上の記事中で、日本仏教の誓願の特徴に関する拙論に触れましたが、そのうち、上代日本に関する拙論のPDFをブログに置きました。ここです
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