聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

救世観音像は聖徳太子の生前に斑鳩宮の夢堂に安置されて礼拝されていたか:金子啓明「日本古代における秘儀と彫像」

2024年06月30日 | 論文・研究書紹介

 法隆寺については、実に様々なものが論争となってきました。こんなに論争になるのは、法隆寺には日本最初であって比較する相手がないものが多く、いつ頃のものなのか年代を定めにくい、という点が大きいでしょう。

 そうした論争の一つが、前回の記事で触れた東院伽藍の夢殿の本尊、つまり、日本最初の木彫とされる救世観音像をめぐる論争です。これについて論じた最近の論文が、

金子啓明「日本古代における秘儀と彫像―法隆寺夢殿救世観音像について―」
(『芸術学』第25号、2022年3月)

です。金子氏は仏、東京国立博物館の彫刻室長などを務めた後、慶応大学文学部教授や奈良の興福寺国宝館館長などを歴任した像彫刻史の研究者です。このブログでは、以前、釈迦三尊像に関する論文を紹介しました(こちら)。

 金子氏は、救世観音像は大きな鼻も異様であり、不気味な生々しさをそなえており、眼は前方の礼拝者へのまなざしを持っているという指摘から始めます。

 そして、両手で捧げている摩尼宝珠について意味を説明します(私は以前、初期禅宗史における摩尼宝珠について論文を書いたことを思い出しました。最近は、自分で何を書いたか忘れていることが多い……)。

 救世観音像は、180センチもの長身でありながら脚部は重量感が希薄であって、逆に上に浮かび上がるような印象があり、また下半身の衣が横に広がっているため、前に向かってくるような感じがあるうえ、全身だけでなく台座も頭光も金箔であって光輝いているため、その印象が強められています。金子氏はこうした像を前にして礼拝するのは誰なのかと問いかけます。

 このようにこの像は工夫がこらされているものの、眼の作りはアーモンド形に成形された金堂の釈迦如来像よりも飛鳥寺の釈迦像の眼に近いため、金子氏はこの像の制作時期はその中間頃と推測します。そして、金色を強く意識している点で、小型の金銅仏を参考にしたと思われると説きます。

 となると、聖徳太子の没後すぐに建立された釈迦如来像以前の作ということになりますが、『法隆寺東院縁起』では、この像は太子の在世中に造立された等身の像と記していました。

 また、焼き討ちされた斑鳩宮からは若草伽藍から出た瓦よりひと回り小さい飛鳥時代の瓦が出ていることから、斑鳩宮には仏堂があったことが推定されていますので、金子氏はそこに安置され、太子が個人的に礼拝していたと見ます。

 現在の夢殿の古代の正式な名称は上宮王院ですが、鑑真の弟子である思託が書いた『上宮皇太子菩薩伝』では、太子が禅定のために一日、三日、五日と建物に籠もると、世間の人は禅定を知らないため、「太子、夢堂に入る」と言ったとあるため、8世紀後半にはそうした呼び方がなされており、それ以前から夢に関する何らかの伝承があったことが推察されると説くのです。

 古代には夢見の儀礼があり、崇神天皇紀には、沐浴斎戒して殿のうちに「神床」をしつらえ、そこで疫病の流行を鎮めるよう祈ると、大物主大神が夢に現れて託宣したとあります。金子氏は、太子はこれを救世観音像を前にしておこなったのではないかと説きます。

 さて、どうでしょう。材質の年代調査などをしないと確定はむつかしいでしょうが、仏像を見る場合、誰がどのような目的で造立し、誰によってどのような目的で礼拝されたかを考えることは確かに必要ですね。


天皇は和語の漢字表記であって「スメラミコト」などの「スメ」は大化前代から:馬梓豪「日本律令時代初期における君主号と天皇号の性格」

2024年06月22日 | 論文・研究書紹介

 先に「天寿国繍帳」の絵柄について検討した論文を紹介しました。その「天寿国繍帳」で最も問題になるのは、銘文に「天皇」という語が見えることでした。このため、「天寿国繍帳」の成立時期をめぐって論争が続いてきたわけですが、その天皇の語について興味深い考察をしたのが、

馬梓豪「日本律令時代初期における君主号と天皇号の性格」
(『日中文化学報』第1号、2020年)

です。

 馬梓豪氏については、前にも論文を紹介しました(こちら)。今回は、日本人研究者が「天皇」という語に注意しすぎていて、他の称号について十分注意していないとし、他の称号について詳しく検討した論文であって、面白い結論を導きだしています。視点が斬新ですね。

 馬氏はまず、天皇号の研究史を概説し、推古朝説から天武天皇時代説へと移り、ついで天智天皇時に既にあったとする説が有力となり、最近では、新たな推古朝説も出てきていると説きます。

 そして、基本となる『養老令』の規定から見てゆきます。ここでは、「天子。祭祀に称する所。天皇。詔書に称する所。皇帝。華夷に称する所。陛下。上表に称する所。太上天皇。譲位の帝に称する所。乗輿。服御に称する所。車駕。行幸に称する所」と規定されています。このうち、陛下・乗輿・車駕は正式な称号ではなく、場合による敬称・美称に近いものです。

 次に、日本の律令の手本となった唐の律令は失われていますが、『唐令拾遺』に見える対応部分は、こうなっています。「皇帝・天子。華夷之を通称す。陛下。咫尺に対揚す。上表之を通称す。至尊。臣下内外之を通称す。乗輿。服御に称する所。車駕。行幸に称する所」。まさに、そのままであって、ちょっと違うだけですね。

 一方、『養老令』の官撰の注釈であって9世紀初めに成立した『令義解』では、「天子」の部分について、「謂ふ、神祇に告ぐるには天子と称す。凡そ天子より車駕に至り、皆な書記に用ふる所。風俗に称する所にいたり、別に文字に依らず。たとひ、皇御孫命(すめみまのみこと)及び須明楽美御徳(すめらみこと)の類なり」とあります。訓は古い形です。

 また、9世紀中頃に成立した私撰の注釈である『令集解』でも同じような説明がなされています。つまり、「天子」や「天皇」などは文書に書く際に用いるものであって、口頭の場合は、「スメミマノミコト」とか「スメラミコト」と呼ぶのであって、漢字に依らないとするのであり、これを文書にする場合はいろいろな漢字表記がなされた、ということです。

 ただ、『唐丞相曲江張先生文集』巻11の「勅日本国王書」では聖武天皇のことを「日本国王 主明楽美御徳」と呼んでいますし、『続日本紀』にもこの類の呼び方がかなり見えています。

 そこで、馬氏は、『養老令』の規定は建て前であって、実際には内政や外交の場でも「スメラミコト」を自称・他称として使う傾向があり、「スメミマノミコト」は『延喜式』の祝詞によく見えるため、祭祀にあたって使う傾向があったと推測します。

 馬氏は、唐令では皇帝を天子より先に置いたのに対し、日本では天子号を優先させ、祭祀に用いるとしていることから見て、日本の「天子」号は唐とは異なる概念に基づくものと見ます。つまり、日本の天子号と、唐令には見えない「太上天皇」号は、日本独自のものとするのです。

 そして、『養老令』の「公式令詔書式条」によると、「(一)明神と御宇らす日本の天皇が詔旨らまと云ふ。咸く聞きたまへ。(二)明神と御宇らす天皇が詔……(三)明神と御大八州らす天皇が詔……(四)天皇が詔……」とあり、冒頭に置かれていて「明神御宇日本天皇」こそが最も荘重であり、「天皇」だけの場合は簡単な呼び方ということになります。

 馬氏はさらに様々な例を検討し、「天皇」というのは、日本独自の君主号の呼び方のうちの書記用の一つにすぎなかったと説きます。そして「スメ~」という語の重要性を強調し、上代文献における「皇」の字に関する白藤禮幸氏の研究では、「皇」は「王」の字の増画であって、「天皇」は日本的な漢語であったとしていることを紹介します。

 白藤氏の研究とは、「上代文字研究 各論(一)―「皇」をめぐって―」(万葉七曜会編『論集 上代文学』第一六冊、1988年)であって古いものですが、重要でありながら最近はあまり引用されていないため、このブログでも紹介したいですね。

 馬氏は、「王」の語は単独で用いられることが多いのに対し、「皇」の語は熟語で用いられる例が多く、その半分が「天皇」のような日本的漢語であるとする白藤氏の指摘に注目し、『日本書紀』では「吉備嶋皇祖母命(すめみおやのみこと)」などの用例から見て、「スメ(皇)」を含む語の成立は大化前代までさかのぼりうるとします。

 そして、「スメラミコト」は「天皇」以外の表記が多く見られることからすると、天皇号の本質は「スメラミコト」のように「スメ」をつけた語、それも書記用でない「風俗用語」にあると説きます。「風俗」とは、それぞれの土地の習慣を指す漢語であって、ここでは当時の日本のしゃべり言葉のことです。「天皇」という称号は、そうした言葉の漢字表記の一つにすぎなかったと見るのです。

 馬氏は、さらに「明神」という言葉について検討していきますが、これについては簡単に紹介するにとどめます。馬氏は、天孫神話では、天皇だけでなく他の氏族も天の神の子孫とされていたが、古代の日本では見えない存在であった「神」が、天皇が「アキツカミ」とされることにより、現実にいる神として位置づけられ、別格の存在とされたと説きます。

 つまり、「明神」とされた「天皇」は、氏族制時代の呪術的な観念を受け継ぎながら、飛躍的な神格化を達成したのであり、7世紀後半から8世紀初めにかけて成立した律令は、氏族制頃の観念と唐に学んだ律令制の両面をそなえた「過渡期的な性格があった」と結論づけるのです。

 前に触れた森田悌氏が、「天皇(てんのう)」は呉音で発音されているため、「皇后・皇太子」のように「皇」を「コウ」と漢音で発音する律令以前の成立とした際、スメラミコトを須弥山(スメール)に依るものとしたのは無理そうですが(こちら)、「スメ」の概念を重視し、「すめらみこと」としての「天皇」の語の成立は早いとするのは大事な点ですね。

 「天寿国繍帳」銘同様、律令で定められたはずの「天皇」の語が用いられているという理由で、推古天皇を「大王天皇」と呼ぶ薬師像銘も「法王大王」と記された「湯岡碑文」も後代の作と疑われてきました。しかし、竹内理三「”大王天皇”考」(『日本歴史』第51号、1952年8月)は、薬師像自体は後代の作であるにしても、「大王天皇」などという妙な呼び方をしていることこそが「天皇」の語の成立事情を示すものであるとし、推古朝の呼び方である証拠としていたことが、卓見として思い起こされますね。


天寿国繍帳の神仙思想的な月像に見える古代韓国の影響:徐玉茜「天寿国繍帳と三国時代の韓半島」

2024年06月18日 | 論文・研究書紹介

 後代の作とする説もある「天寿国繍帳」の銘文は、亀の甲羅の柄に4文字づつ刺繍していっており、全部で400字となっています。前半は太子の妃である橘大郎女が、太子と自分はともに欽明天皇と蘇我稻目の娘の血を引いていることを誇る系譜です。

 ですから、残りの200字のうちに、太子の母と太子自身が亡くなったこと、橘大郎女の悲嘆ぶり、太子が往生したところが見たいという橘大郎女の願い、橘大郎女の祖母である推古天皇が気の毒に思って宮女たちに命じてこの繍帳を刺繍させたことを盛り込まねばならないため、1字でも無駄にしたくないはずです。

 しかし、銘文の末尾では、「画者東漢末賢 高麗加西溢 又漢奴加己利 令者椋部秦久麻 (画ける者は東漢末賢[やまとのあやのまけん]、高麗加世溢[こまのかせい]、又た漢奴加己利[あやのぬかこり]、令せる者は椋部秦久麻[くらべのはたのくま]なり)」となっており、作成した工人たちの名がずらずらと記されています。しかも、釈迦三尊像銘に一人だけ記された鞍作止利のような有名な人物はいません。

 聖徳太子が我々の寺にこれこれの土地を寄進したとか、太子が私の先祖を〇〇の役職に任命した、といったような文書なら、紙一枚書いて古く見せかければ良いだけです。実際、後代にそうした文書がたくさん偽作されていますが、手間暇掛けてこんな字数の無駄をした銘文を刺繍した豪華な偽物を作るはずがないと考えるのが普通でしょう。

 しかも、絵柄は漫画のようであって稚拙です。これに対して、繍仏などに見られる奈良時代の刺繍は、きわめて精緻であって見事な美術工芸品となっています。かの大山誠一氏は、兄弟たちが次々に疫病で倒れたため、太子に救いを求めようとした光明皇后が、橘大郎女という若い女性の姿を借りて自分の思いを託し、この繍帳を作らせたなどと、古代小説のような妄想をしていました。

 私が光明皇后なら、「私が作らせたなら、こんな稚拙な絵柄の刺繍はさせない!」と怒って名誉毀損で訴えたいところです。太子への思慕が強すぎると、その思いを銘文に盛り込んだりせず、工人たちの名前をずらずら並べて字数を使ってしまいたくなるんでしょうかね。

 それなのに後代作説がかなり盛んでした。古い要素があることも確かなので、東野治之氏などは、原型が推古朝にあったことを認めたうえで、現在の銘文には新しい表現と考えられる部分があるため、天武天皇の頃に文言を訂正して模作したと推定しています。これは真作説と偽作説の中間説ですね。

 その「天寿国繍帳」について、神仙思想的な絵柄の面から、中国→韓国→日本という流れを追った最新の論文が、

徐玉茜「天寿国繍帳と三国時代の韓半島―渡来系工人と日月像を中心に―」
(『奈良學研究』第26号、2024年2月)

です。徐氏は帝塚山大学大学院の博士課程に在学中であって、この論文は修士論文に基づく由。

 「天寿国繍帳」は現在は断片しか残っておらず、その銘文を記録した文献がいくつかあるだけですが、工人たちの名前は同じです。東漢末賢・高麗加西溢・漢奴加己利・椋部秦久麻ですので、秦氏、東漢氏、高麗氏、漢氏であって、すべて渡来系なのです。徐氏は最後の「令者」、つまり監督者については、繍帳の断片のうち、亀の甲羅部分がのこっている箇所に「利 令 者 椋」とあって、記録通りであることに注意します。

 徐氏は、蘇我氏は百済・伽耶の出身であるため、父母とも蘇我氏の血を引く太子は百済・伽耶系とする門脇禎二説を引きますが、蘇我氏の出自については明確な証拠がなく、諸説乱立の状況である以上、これで決まりといった引用の仕方は避けるべきですね。あと、蘇我氏は東漢氏を合併したと述べていますが、配下に置いたと記すべきでしょう。

 徐氏は、制作者として名があげられているのは、すべて渡来系である点を改めて強調したうえで、高句麗の影響もあると指摘した吉川敏子「天寿国繍帳制作の一背景」(『文化財学報』31号、2013年)をあげます。この論文については、このブログで以前紹介したことがあります(こちら)。

 さらに、大橋一章・谷口雅一『隠された聖徳太子―復元・幻の天寿国』(日本放送協会、2002年)のうち、谷口氏が、百済の故地にある韓国の国立扶余博物館館長の徐五善氏に「天寿国繍帳」を見せたところ、鐘堂の部分が百済山水山景文塼に描かれた建物に似ていること、繍帳の鳳凰の図が扶余陵山里寺院跡出土の百済金銅大香炉の頂上の鳳凰と似ていること、また、百済武寧王陵から出土した王妃の枕に描かれた鳳凰と似ていると指摘されたことを紹介します。

 谷口氏自身、王妃の枕に描かれた変化生(へんげしょう:奇跡として空中などにポンと生まれること)に似ていることを指摘しています。

 以上が前置きであって、徐氏はこれまで注目されていない月像に注意します。月像というのは月の絵であって、繍帳では、丸の中の中央に首の長い壺が描かれ、左に大きなウサギ、右に枝と花が描かれています。

 この月像については、1949年の青木茂作『天寿国曼荼羅の研究』(鵤故郷舎出版部)が既に中国の画像石や高句麗の古墳壁画などと比較して詳しく論じてています。

 月像があれば日像もあったはずですが、現在残っている繍帳の断片には見当たりません。ただ、玉虫厨子では須弥山図のうちに日像が描かれています。この日像・月像に関する最近の研究としては、西川明彦「日像・月像の変遷」(『正倉院年報』第16王、1994年)があります。

 徐氏はこれらの研究を承け、月像の検討を始めます。まず、中国では『楚辞』「天問」に「菟、腹に在り」という句が見えます。前漢の馬王堆漢墓1号墓から発見された帛画にはウサギとヒキガエルが月の象徴として描かれていました

 西川論文は、漢代の月像の遺品については中国中央の陝西省甘泉宮で出土しているほか、北地の中国吉林省集安、そしてそれに隣接する朝鮮の平壌に集中することに注意します。この時期は、漢が朝鮮北西部に楽浪郡を置いて北部を支配していた時期です。

 中国江蘇省では、左側に不老不死の薬をキネで搗くウサギ、右側に月桂樹を描いた5世紀後半の画像磚がでており、6世紀後半の高句麗内里1号墳壁画には、丸のうちに左側に月桂樹、根元には薬瓶の下部のようなもの、右側には動物の足のようなものが見ますす。山東省にまで広がっていたのです。

 さらに時代が下ると、不死の薬の入れ物を示す瓶や月桂樹などが描かれるようになり、唐代の鏡には中央に月桂樹、左側に飛天、右側にキネをつくウサギが描かれている例も見えるようになります。

 「天寿国繍帳」はそうした形ではないので、唐代以前の古いタイプですね。しかも、中国の伝説によれば月に生えている巨木である月桂樹のはずでありながら、ひょろっと長く伸びた1本の草花のように見えるのは、唐代の鏡などの文様を見ておらず、理解できていない証拠です。「天寿国繍帳」を後代になって作ったなら、唐の様式が反映していそうなものですが。

 このように、月像図は中国→韓半島→日本へと伝わるうちに変容し、「天寿国繍帳」の月像となったのです。月でウサギが餅を搗いているということになったのは、もっと後になってからのことです。


法隆寺再建説でも非再建説でもない自説を92歳で補強:鈴木嘉吉「白鳳時代の建物は遺存するのか」

2024年06月08日 | 論文・研究書紹介
 近代日本の美術史・建築史を発展させたのは、100年以上続いた法隆寺の再建・非再建に関する大論争でした。この論争は、昭和14年(1939)12月に始められた法隆寺西院伽藍の南東部の発掘調査により、聖徳太子が創建した法隆寺=斑鳩寺(若草伽藍)は焼失したこと、それとほぼ同規模である現在の法隆寺西院伽藍は後代の造営であることが確定しました。
 
 ところが、論争はまだ続いています。というのは、西院伽藍が当初の法隆寺ではないことは確定したものの、天智天皇9年(670)に全焼した後に現在の地で建て直したにしては、金堂の様式や本尊である釈迦三尊の様式が古すぎたからです。
 
 むろん、再建に当たっては、建物にしてもそこに安置する仏像にしても、以前の様式を受け継ごうとするでしょうが、それにしても、670年以後、8世紀初め頃までに造営された他の寺院の建物や仏像と比べて古式な点が目立つのです。非再建説が提唱されたのもそのためでした。
 
 そのため、釈迦三尊像については、火事から救出されたとする説(たとえば、こちら)があるほか、現在の金堂の本尊としては小さすぎるため、他の太子関連の寺、ないし、斑鳩宮内にあった仏堂に安置されていた仏像を再建法隆寺の本尊としたのだとする説(たとえば、こちら)などが出されました。
 
 また、金堂についても、九州王朝の寺を解体して斑鳩まで運んできて建てたなどというトンデモ説はさておき、大和の他の地域から移築したとする説も出されました(こちら)。
 
 このように諸説が乱立する中で、東大の建築科出身の建築史研究者であって、奈良文化財研究所に発足時から勤務して長年、奈良の古寺の修理に携わり、最後にはその所長も務めた鈴木嘉吉氏は、昭和61年(1986)に新説として「法隆寺新再建論」を発表しました。
 
 つまり、金堂は若草伽藍の焼失前に、聖徳太子を偲ぶ堂として造営され始めていたのであって、釈迦三尊像は斑鳩宮内の仏堂に安置されていたと主張したのです。
 
 以後、法隆寺については修理にともなって研究がさらに進み、年輪調査による木材の伐採年調査の成果なども出て議論が再び活発になりました。そうした中で、鈴木氏が最後に発表したのが、

鈴木嘉吉「白鳳時代の建物は遺存するのか」
(『仏教芸術』第8号、2022年3月)

であって、鈴木氏はこの年の12月に93歳で亡くなっています。論文が出たのが3月となると、提出はその半年ほど前でしょう。つまり、この論文は生涯をかけた研究の結論となる遺作なのです。

 この論文では、法隆寺再建非再建論争をざっと振り返り、昭和の大修理では、金堂の礎石は他から転用されたものが混じっていること、また修理工事の責任者であった竹島卓一は、まず金堂だけを独立して建て、後になって五重塔などを加えて伽藍を整備することになった結果、全体の地盤を現在の状態まで掘り下げたと指摘したことに注意します。

 そして、自分はこれらの問題を説明できる説として、昭和61年(1986)に「法隆寺新再建論」を発表したと述べます。その論文は、現在の西院伽藍の金堂は、内陣が四方吹き放しの開放的な造りであり、扉が外開きであるのも異例であるうえ、釈迦三尊像などが建物の中心より前寄りに安置されていることなどから見て、金堂は、最初は若草伽藍の西北の小高い場所、つまり現在の場所に建てられた聖徳太子を偲ぶ廟堂だったと説いた、と紹介します。釈迦三尊像は、隣接する斑鳩寺の宮のうちにあったと推定されている仏堂に置かれていたと推測したのです。

 鈴木氏は、これらは状況証拠に基づく議論だったが、平成15~16年におこなった年輪年代調査によって、西院伽藍の造営年代が分かったことにより、上記の推定が「ほぼ確実になった」と述べます。

 というのは、金堂の初重(一階部分)の天井板は、内陣・外陣部分は主に667年・668年に伐採されたものでした。つまり、670年に若草伽藍が焼ける前に準備されていたのであって、火事の時には初重は既に完成していたと見るのです。

 現在の金堂初重の内陣上方で井桁型になっている天井桁の両端には、上の部分を支える柱を据える柱盤が組みめぐらされていますが、そこには別のほぞ穴が残っており、現在の上重の切妻屋根部分をその上に載せると、玉虫厨子のような一重錣葺の屋根が作れると竹島が指摘していると述べ、鈴木氏はそれに賛成します。

 つまり、金堂は初めは単層の廟堂として建てられたのであって、670年段階ではまだ瓦を葺くには至っていなかったと見るのです。寺では、どの場合でも瓦は最後に葺かれ、それまでは木の板で覆われます。

 記録によれば、火災の後、しばらく寺地が定まらず、一部の僧侶や役人が他の寺に移ったとされていますが、鈴木氏は、これを、元の若草伽藍の地に建て直そうとした派と、初重まで造られていた現在の地の廟堂を中心として伽藍を整備しようとした派の対立を示すものと見ます。

 結局、この廟堂を中心にして再整備することに決まり、廟堂の周囲を堀り下げて伽藍の地を造成した結果、廟堂の基壇はそれまでの倍の高さの二重基壇となり、それまで一重だった廟堂の上に、当時の寺院の型式に合わせて二重目を載せて伽藍の中心となる金堂とした、と鈴木氏は推測します。

 そして、若草伽藍では中門、金堂、五重塔は南北に並んでいたものの、再建法隆寺では、最初の勅願寺となった舒明天皇の百済大寺にならい、塔は金堂の西に並べることにし、当時は地上に心礎を据えるのが普通になっていたものの、飛鳥寺や若草伽藍と同様に、地中深くに心礎を据える古い型式で塔を造営したと見ます。

 塔の二重目の西北隅肘木の年輪年代は673年であって、伐採は塔の建立年代に近いと考えられるため、670年代の後半には塔の建立も始まったものの、大化4年(648)以来与えられていた食封300戸が天武8年(679)に停止されたたため、塔の工事は中断されたと見ます。塔の心柱に風触の跡が見られるのはそのためとするのです。

 この工事が再開されたのは、持統7年(693)に法隆寺を含めた諸自院で行わせた仁王会であったと鈴木氏は推測します。『法隆寺伽藍并流記資材帳』ではこの時、持統天皇から紫の(天)盖、経台、帳などが施入されたとしており、これまではこの記事によって、少なくとも金堂はこの時期には再建されていた、と見られていました。

 鈴木氏は、平成16年の天蓋修理の際、中の間と西の間の仏像の上の重厚な金属製の箱形天蓋をつるす金具は当初のものと判定されたものの、東の間に安置された薬師如来像の頭の上に現在は使われていない吊金具、それも軽量のもの用の金具を後から付けてあることが発見されたことに注目します。

 というのは、『資材帳』で持統天皇が施入した天蓋は「紫」と記されているのは、当時流行していた軽い布製の天蓋であったことを示すのであり、それが薬師像の上に設置されたのは、薬師像の光背銘が朝廷から認められたことを示す、と鈴木氏は説きます。

 そして、これをきっかけにして伽藍整備が進み、聖徳太子を敬慕する近隣の者たちの助成もなされたと推定します。中門は大斗の年輪から700年頃から着工されたようです。

 鈴木氏は、薬師像銘については有名であるためか、内容に触れていませんが、この銘は病状が重くなった「池辺大宮治天下天皇(用明天皇)」が、「大王天皇」と「太子」に造寺造像を命じたものの、亡くなったため、「小治田大宮治天下大王天皇(推古天皇)及び東宮聖王」が遺命にしたがって建立した、と述べており、「天皇」の語が見えるため後代の偽作とされてきたものです。

 しかし、竹内理三は、「大王天皇」などと呼んでいるのは律令以前の表現である証拠としていました。今回の鈴木氏の遺作論文により、そのことが立証されることになりましたね。

 むろん、薬師像は釈迦三尊像より後の時期の作ですし、像よりさらに遅れるであろう光背銘の内容は事実ではありませんが、法隆寺を復興させようとした者たちがこれまで推測されていた7世紀後半よりも早い時期、少なくとも律令が制定される前に作成した可能性が高いということになるのです。

 鈴木氏は、ここでは紹介しませんが、法隆寺の次に、白鳳建築ないしそれに近いものとして伊勢神宮と薬師寺東西塔について検討しています。92歳だったのですから、その学問的な努力に頭が下がります。

 なお、鈴木氏については、氏に鍛えられた建築史学者の藤井恵介が、『仏教芸術』第10号(2023年3月)に「鈴木嘉吉先生を偲ぶ」という追悼文を寄せています。


蘇我馬子が入手した弥勒石像は固くて光沢のある蝋石製か:山﨑雅稔「敏達紀の「弥勒石像」と朝鮮三国の弥勒信仰」

2024年05月29日 | 論文・研究書紹介

 前回、須弥山石を取り上げましたので、それに続いて石像に関する論文を紹介しましょう。

山﨑雅稔「敏達紀の「弥勒石像」と朝鮮三国の弥勒信仰」
(『国学院雑誌』第121巻第11号、2020年)

です。

 中宮寺や広隆寺の半跏思惟像は最初期の仏像として有名であり、弥勒像と見るのが一般的です。しかし、山﨑氏は、インドや中国では弥勒像を半跏思惟の形で示した明確な例がなく、美術史では擬議が提示されていると述べます。

 そして、奈良時代には弥勒信仰に関する記述がある史資料が少なからずあるのに、その奈良時代の初期の養老4年(720)に完成した『日本書紀』は弥勒にほとんど触れておらず、例外は、敏達天皇13年(584)に見える記事であって、百済からもたらされた「弥勒石像」を蘇我馬子が所有したいうものです。そこで、山﨑氏はこの点について検討します。

 氏はまず弥勒菩薩の説明から始めます。弥勒は釈迦とともに修行したとされ、現在は兜率天にいて、現在仏である釈迦の次に仏となることになっている菩薩であって、未来の仏とされており、釈迦の入滅から56億7千万年後に人間世界に下生し、龍華樹の下で3度説法し(龍華三会と呼びます)、釈尊の救済から漏れた人々を救うとされています。ですから、弥勒の像は、菩薩の姿か悟った後の仏の姿で示されます。

 こうした弥勒に対する信仰は二種類であって、一つは未来世において弥勒が下生した際、その龍華三会に値遇したいと願うもの、もう一つは、現世で死んだら弥勒のいる兜率天に昇り、弥勒が下生する際にともに下生して三会に値遇したいと願うものです。前者が下生信仰、後者が上生信仰であって、インドでまず下生信仰が生まれ、後に上昇信仰が成立したものの、東の端の日本にはこの二つが一緒に伝えられたようで、むしろ上生信仰が盛んであったとされています。

 さて、問題の『日本書紀』敏達天皇13年(583)9月条では、百済から鹿深臣が弥勒石像一躯をもたらし、佐伯連が仏像一躯をもたらし、続く是歳条では、馬子がそれを請い受け、鞍部村主司馬達等・池辺直氷田に命じて行者を探させ、播磨で還俗した高(句)麗の恵便を見つけて師とし、司馬達等の娘の嶋を尼とし……、仏殿を宅の東に造って弥勒石像を安置して、というお馴染みの記述となっており、「仏法の初め」と記されています。

 そして、敏達天皇14年(584)には、馬子が病み、理由を占わせると父の稻目の時に祭った「仏神之心」が祟ったのが原因だと言われ、天皇に言上したところ、父の神を祭れと命じられたため、勅に従って「石像を礼拝い、寿命を延ばすことを乞う」たとあります。『元興寺縁起』では、甲賀臣が百済から「石の弥勒菩薩像」をもたらしたとあり、菩薩の姿であったとする点に山﨑氏は注意しています。「甲賀」は「鹿深」です。

 問題は、馬子が弥勒菩薩像に延命を祈って礼拝したことです。これはいろいろ議論のある野中寺の金銅造半跏思惟像の台座の銘文に、中宮天皇が病気になった時に知識たちが誓願して造った弥勒の象だとあることです。馬子の場合と同様、延命が主であって、上生・下生には触れられていません。

 平安中期の史料によれば、馬子が祭った石像は本元興寺(飛鳥寺)→新元興寺→多武峯平等院に移ったとされ、後代の史料、たとえば15世紀半ばの『南都七大巡礼記』によれば、この石像は一尺ほどで日本最初の仏像とされ、百済から渡ってきた「馬瑙之弥勒像」とされ、『上宮太子拾遺記』では坐像であって「色白く、極めて固く、面貌奇麗」とされています。

 山﨑氏は、こうした記述は、韓国の扶余や公州で発見された滑石(蝋石)の仏像に似ているとします。美術史の大西修也氏の研究によれば、百済では蝋石製の仏像は6世紀中頃から末頃にかけて流行したそうですので、馬子の仏像はそれと合うことになります。

 須弥山石のような粗い石質の大きな仏像なら、百済から持ち帰るのは困難ですし、あまり有り難くなさそうですが、「蝋石 像」とか「白玉 仏像」などで画像検索してみれば分かるように、そうした貴重な材質の小ぶりな仏像なら拝む気になるでしょう。

 さて、百済があった地では、金銅・銅像・石像・摩崖像などの形で半跏思惟像が見つかっており、弥勒信仰との関わりが推定されていますが、中国の龍門石窟などでは釈迦の前身である悉達太子が半跏思惟形で表されている例があるため、弥勒とは限らない可能性があるとします。

 山﨑氏は、百済・高句麗・新羅における弥勒信仰について検討し、朝鮮三国には弥勒を半跏思惟の形で表す例が造像記から見えると指摘します。そして、弥勒像は、現世の発願者自身や結縁もののために制作される場合は、三会値遇を願うためであり、死者の供養を目的として造られる場合は死者が弥勒の浄土に往生することを願うものでした。

 また、弥勒と阿弥陀を合わせて信仰した例も複数あることに山﨑氏は注意します。ただ、辛卯年銘金銅三尊像銘では、死者のために無量寿仏(阿弥陀仏)を造り、その功徳によって残された者たちが将来、弥勒に値遇できることを願っている点から見て、浄土の区別はなされていたと見ます。

 以上のことから、山﨑氏は、馬子が入手した百済の弥勒石像は、半跏思惟像であったと推定します。そして、鹿深臣の弥勒像とは別に佐伯連の仏像が記されていることから見て、馬子は弥勒菩薩単独ではなく、阿弥陀仏ないし別な仏像と弥勒菩薩をあわせて所有し、信仰したことに『日本書紀』は意味を持たせようとしたと考えられるとします。

 ただ、高句麗や新羅などの例では、馬子や野中寺像銘のように、弥勒に祈ることによってこの世での長寿を得ようとすることは見られないとし、馬子の弥勒信仰については、インド・中国・韓国における展開、俗信との習合など、様々な面から考えなければならないと述べてしめくくっています。

 このように、『日本書紀』のちょっとした記述も、幅広い視点から検討すればいろいろなことを語ってくれることが分かりますね。また、馬子関連の仏教に関する記述は、百済などの状況を正確に反映している面と、そうでない面があることがわかります。


夷狄に服属儀礼をさせる施設でなく、文化威力を見せつける噴水か:外村中「飛鳥の須彌山石」

2024年05月24日 | 論文・研究書紹介

 以前、「スメラミコト」は推古朝において仏教との関連の中で用いられるようになった「天皇」の語の訓であって、世界の中心とされた須弥山(スメール)に基づくとする森田悌氏の説を紹介しました(こちら)。

 律令制では皇后は「こうごう」、皇太子は「こうたいし」」であって、遣唐使によって確立した当時の漢音で発音しているのに対し、「天皇」は「テンノウ」であって、「四天王(してんのう)」と同様、朝鮮経由で入ってきて仏教界で用いられた古い呉音で発音されているのは、成立が古く、仏教との関係の深さを示すという森田氏主張に私はは賛成なのですが、「スメラ」は果たして「須弥」に基づくのかどうか。

 その森田氏が、推古朝や斉明朝に建造されていたことに注目した須弥山石に関する論文が出ていますので、紹介しておきます。

外村中「飛鳥の須彌山石」
(『日本庭園学会誌』21号、2009年)

です。掲載誌を見れば分かるように、外村氏は庭園史の研究者なのですが、インドや中国の原文を読みこなす語学力があって博学であるため、関連するインド仏教の問題についても、きわめて専門的ですぐれた論文をいくつも発表しています。

 今回の論文は、日本の須彌山石(外村氏は旧字にしているため、其に従います)を扱っているものの、そうしたインド仏教に関する素養が生かされています。

 まず、明治35年(1902)に奈良の飛鳥村の石神遺跡で発見された須彌山石について、最近の古代史学界の説は、これは『日本書紀』に見える「須弥山像」であって、飛鳥の朝廷に対して地方の夷狄が服従を誓う儀礼の場に置かれ、その儀礼に用いる水と関係する噴水のできる装置、と見ているとします。そして、その儀礼は、須弥山の上の方に住む帝釈天や四天王と関連する神聖な、あるいは呪術的なものだったと見ます。

 外村氏はこれに反対し、まず、『日本書紀』に見える例を検討します。初出は、推古天皇20年(612)是歳条に、百済から来た者が「山岳の形を構えることができる」と述べたため、須彌山のカッチおよび呉橋を南庭に設けさせた、とある記事です。

 次は、斉明天皇3年(657)7月3日に、都貨邏の男二人と女四人が筑紫に漂着したため都に呼び寄せ、15日に須彌山像を飛鳥寺の西に作り、盂蘭盆会をおこない、日が暮れれから都貨邏人たちのために宴を催した、とあります。

 次は同じ斉明天皇5年(659)3月17日に、甘樫丘の東の川のほとりに須彌山を造り、陸奥と越の蝦夷のために宴を催したとあり、同6年(660)5月には、石上池のほとりに須彌山を造り、寺の塔のように高く、粛慎の47人のために宴を催したとあり、阿倍比羅夫の遠征の成果によるようです。
 
 斉明紀に記される三例については、同一物であろうとする説もありますが、石上遺跡で発見された須彌山石をそれと見る説も、推古朝の時のものと見る説もありますが、外村氏はそのどれかであった可能性はあるとします。現在残っている須彌山石は、上中下の三段でしが、中段と下段がうまくかみあわないため、本来はその間にもう一段あったと推定されています。

 服属儀礼だとする説の根拠は、敏達天皇10年(581)閏2月条に、蝦夷数千人が辺境に侵入したため、首領たちを呼び寄せたところ、彼らは恐れかしこまり、泊瀬川の中に下りて三諸山(三輪山)に向い、水をすすって今後は天皇に忠誠心をもってお仕えします、と誓ったとあることです。また、また、飛鳥寺の西は神聖で誓約がなされる箇所であり、須彌山石はその近くに造られたことがあげられます。
 
 しかし、外村氏は、須彌山像を用いて服属儀礼をおこなった記事がないと指摘します。また、盂蘭盆会は、死後に悪所に生まれて苦しんでいる父母などを救う儀礼であって、服属儀礼とは関係ありません。さらに都貨邏人の場合は、たまたま漂着したのであって、国を代表する使節ではないため、服属儀礼をさせる必要はないのです。
 
 そこで外村氏が注目するのが、隋の煬帝が塞外民族のために散楽(サーカス)を大々的に行わせていたことです。しかも、『隋書』によれば、既に梁代の段階で元旦の儀礼の中で、「長蹻伎」「跳鈴伎」「跳剣伎」「擲倒伎」などの間に「須彌山伎」が演じられています。これらの技は、明らかにサーカスのような技です。「長蹻伎」について外村氏は竹馬のようなものかとしていますが、これは綱渡りです。

 いずれにしても、煬帝が大がかりに行った散楽は、東突厥の首領を見せつけ、文化力を誇示するものでした。四方に噴水する装置である「須彌山石」はそれと同じ状況で利用されていますので、服従させるためのものという点は確かですが、誓約儀礼をさせるための装置とは考えられないと外村氏は説きます。

 外村氏は、須彌山石の模様を東大寺の蓮弁図に見える須彌山などと比較し、『倶舎論』などで説明される須彌山とは異なるとします。そして、須彌山石の実態は不明としたうえで、この装置を当時の人々が須彌山に見立てていた可能性はあると説いてしめくくっています。

 こうして見ると、須彌山石は、天皇の訓である「スメラミコト」を「須彌(山)のような尊い方」と見る森田説の強い根拠とはできないことになります。ただ、森田氏が「天皇」は対外的な称号とした点は、須彌山石が蝦夷や都貨邏をもてなす宴の場の施設となっていた点と共通するものがありそうです。


マヘツキミの合議に外から関与した推古朝の世襲制大臣の行方:鈴木明子「律令制形成期における合議制の展開」

2024年05月19日 | 論文・研究書紹介

 クラウタウさんの新刊書、岡田さんの論文に続き、私の研究仲間の論文が出ています。これまで、旧姓での論文を含め、その着実な研究成果をこれまでも紹介してきましたが(こちら、旧姓の宮地明子での論文はこちらこちら)、今回は、推古朝の合議体制から律令形成期の合議体制への移行について論じた論文、

鈴木明子「律令制形成期における合制の展開」
(『寧楽史苑』第69号、2024年2月)

です。

 この論文では、孝徳朝から天武朝頃のあり方が詳細に検討されていますが、ここは聖徳太子ブログですので、申し訳ないことながら、そうした時代との対比のために推古朝について補足説明している箇所を中心に見ていきます。

 鈴木さんは、貞観16年(642)成立とされる「括地志」(『翰苑』所引)が、倭国には十二等の官があり、その第一は「麻卑兜吉寐(マヘツキミ)」であって、漢語では「大徳」という、と記しているしているのは、それほど有名であった証拠と述べます。

 そして、前稿では、倭国の重要方針は大夫(マヘツキミ)たちの合議で決定されており、推古朝においては、蘇我本宗家による世襲大臣制は冠位制を超越する地位であったため、大臣は合議を主催するものの発言はせず、合議体の外から関与したと論じ、合議での決定は大夫による全会一致が原則だったとしていました。

 大王への奏宣は大夫の職掌であって、大臣はおこなっておらず、また外交面では世襲大臣が主導性を発揮していたと鈴木さんは説きます。推古18年(610)10月丁酉条の新羅および任那の使者の来朝記事では、使者が使いの旨を「四大夫」に奏し、それを「四大夫」が大臣に啓しています。

 また推古31年(623)是歳条によれば、新羅征討の群臣会議では不征討・遣使の方向で決着しておりながら、同年、新羅征討が強行されており、同年11月条では征討を主導したのは大臣であったと記されています。

 また、大夫の冠位が大小の徳冠とほぼ同格であるため、大夫の合議は氏族代表による資属間の利害調整の場としての氏族合議体の性格を色濃く残していたものの、大夫層については王権のもとに掌握されることになったとします。
 
 乙巳の変によって蘇我本宗家が亡びると、大化3年(647)に七色十三冠位が設けられ、大臣の紫冠のみならず、皇親も冠位のうちに包摂されました。また、最下位として建武の位を新設し、実務担当の百八十部に与えたため、官位制は朝廷の構成員すべてを含むことになりました。
 
 ただ、阿倍内麻呂が左大臣となり、右大臣となった蘇我氏代表の倉山田石川麻呂の上に立ったことは、群臣の上に位置した世襲大臣を否定したことになるものの、古い冠を廃止した大化4年(648)になっても左右の大臣だけは「古冠」を着したことは、大臣は群臣の上にあるという認識が保持されていたものと見ます。

 さて、推古朝までの合議では、合議内容は主に皇位継承と外交(対外戦争と仏教受容の可否)であって、これが「大事」でした。しかし、皇位継承については、大化改新により皇極が孝徳に譲位した結果、王権の自立的な継承が始まったとされます。

 この後の時期については、『日本書紀』では天皇が大夫に皇嗣選定について諮問したとする記事がありますが、名があがっているのは当時の議政官すべてではなく、また議政官でない者の名も見えているため、臨時的なものであったとします。見解を統一する合議は、内裏とは別の場でなされたのです。

 以後、中大兄皇太子が庶務を委ねられた斉明朝から天武朝に至る合議について検討されていますが、壬申の乱時に、大友皇子が群臣に諮問した例と、近江朝では左右の大臣と群臣が共に「議を定め」たと天武天皇が高市皇子に語ったという箇所を除けば、合議がおこなわれたことを示す資料はないとします。

 つまり、合議を重視しつつ、その外から関与した世襲大臣の見解が優先された推古朝は、群臣合議と世襲大臣の二元的な権力構造となっていたのであって、乙巳の変以後は、王権による自立的な皇嗣選定へと移り、世襲大臣制に代わって置かれた左右の大臣も冠位制度の中にとりこまれ、天武朝になると大臣も置かなくなって合議制そのものが解消されるようになった、というのが鈴木さんの見通しです。


【重要】『日本書紀』中で「憲法十七条」だけが重要箇所で2度用いた語法が三経義疏すべてに!:岡田高志「「憲法十七條」の表現と思索」

2024年05月15日 | 論文・研究書紹介

 「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』が『優婆塞戒経』の利用その他の面で似ている点が多く、同じ人物によって書かれたらしいことは、私が以前指摘しました(こちら)。

 今回は、タイトルにあるように、『日本書紀』中で「憲法十七条」だけが、それも重要な箇所で2度用いている語法が、実は三経義疏すべてに見えることを指摘した画期的な論文が刊行されました。

岡田高志「「憲法十七條」の表現と思索-前漢~六朝の「詔書」・諸典籍との比較を通して」
(『古事記年報』第66号、2024年3月)

です。この発見は、数年前に古事記学会の研究会での発表で報告されたため、その論文化が期待されていたものです。私が昨年から『憲法十七条を読む』の原稿を書いておりながら、それが進んでいなかったのは、この論文が出るのを待っていたため、というのも一因です。

 その発表の後、私がリモートでやっていた『勝鬘経義疏』の読書会にも参加してくれた岡田さんは、研究を重ねて発表内容をさらに深め、この論文では、「憲法十七条」と中国の前漢から六朝時代の箇条書きの詔書と比較し、「憲法十七条」が典故に基づきつつ独自の思索をおこなっている点を検討、そして「憲法十七条」独自の語法を三経義疏と較べるという作業をしています。

 岡田さんはまず、「憲法」の語を中国の古典や史書で調べます。『国語』では賞罰を正しくおこなうことが国家の「憲法」であると述べており、また法家の『管子』では、君臣一体で統治すれば、「号令」を通じて「憲法」を明らかにすることができ、国内の風紀を正すことができる、と説いていることに注目します。これはまさに「憲法十七条」の内容と合致しますね。

 そこで、「号令」の例として、これまで「憲法十七条」との類似が指摘されてきた北周の蘇綽起草の「六条詔書」以外に、前漢の「六条詔書」、西晋の「五條詔書」についても比較します。これらは、地方の官吏を対象とし、口頭での伝達や冊書・尺牘の形で頒布されたことが知られています。

 岡田さんは、「六条詔書」の第二条が民に「仁順」を教えて「和睦せしめる」としている点が「憲法十七条」第一条の「上和下睦」と一致すること、前漢の「六条詔書」が「公」に背いて「私」に向かうことを戒めているのは、「憲法十七条」第十五条が「背私向公」を命じているのと共通すること、これらの詔書と「憲法十七条」は似ている面がかなりあること、また、「憲法十七条」は嫉妬の害を説くが中国の詔書にはそうした点はないことなどを指摘します。

 つまり、「憲法十七条」は役人あてに出された中国の箇条書きの詔書とかなり共通する面と、独自な面があるとするのです。その独自の面の一つは、「憲法十七条」がしきりに「聖」に言及してその意義を説いていることです。

 『日本書紀』では、「聖」の語は神、天皇、皇太子を指しており、官人に「聖」になるよう促すのは「憲法十七条」のみです。また、推古紀では、行路の死人を「聖」と呼び、慧慈を「聖」としていますが、これらの用法は「憲法十七条」を含めて厩戸皇子関連に限られることに岡田さんは注意します。

 このように、「憲法十七条」は『日本書紀』中で異質なのですが、その例の一つが、「憲法十七条」のが第四条では、民をおさめる根本は「要在乎礼」と述べて「礼」が根本であることを強調し、第九条では事業がうまくいくか失敗するかは「要在于信」と述べて「信」が大事であることを強調していることです。『日本書紀』ではこの二例を除いて、「~は、要は~に在り」という語法は見られません。

 岡田さんは、「の要は~に在り」といった形の用例は、法家の文献である『管子』や儒教とは異なる独自の思想を説いた『荀子』、鳩摩羅什の弟子である僧肇の『注維摩』などに見えることを指摘します。

 「憲法十七条」が法家の思想、特に『管子』に頼っていることは、山下洋平さんが指摘したことですし(こちら)、『注維摩』は、僧肇の注釈を柱として羅什その他の『維摩経』の注釈を編纂した書物であって、岡田さんは触れていませんが、『維摩経義疏』が用いた注釈ですね。

 ここで驚くことに、岡田さんは、「憲法十七条」が重要な箇所で強調するために用いている「要在~」の語法が、『勝鬘経義疏』に4例、『法華義疏』に1例、『維摩経義疏』に2例見えることを指摘します。

 つまり、『勝鬘経義疏』と「憲法十七条」が内容面で共通する点が多いことは、私が以前指摘したことですが、それが語法の面でも立証されたことになるのです。しかも、私の前回の論文では、「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』の類似を指摘しただけだったものが、岡田論文では、「憲法十七条」が重要な箇所で用いている語法、それも『日本書紀』で「憲法十七条」だけに見えている語法が、三経義疏すべてに登場することを明らかにしたのです。

 三経義疏はいずれも語法がきわめて類似してることは、花山信勝などが戦前から論じていましたが、そうした人たちは熱烈な聖徳太子信仰を有する僧侶学者がほとんどだったため、古代史学界からは信用されない面もありました。

 それと違い、僧侶ではない一般研究者の私がNGSMシステムを用い、変革語法も含めた多くの例を示して三経義疏の語法の類似を論証しましたが(こちらなど)、今回はまた一般研究者の岡田さんよって研究がさらに進んだことになります。

 『日本書紀』における厩戸皇子の事績については、編集段階でかなり潤色されていることが指摘されていたうえ、『勝鬘経』や『法華経』の講経は記されていても三経義疏には触れられていなかったため、三経義疏は懐疑的な史学者たちによって疑われてきました。また、朝鮮の書物だとか、百済・高句麗から来た僧侶などによって書かれたとする説もありました。

 しかし、三経義疏は6世紀初め頃の梁の三大法師の注釈を基調としており、太子当時は、中国でも朝鮮でも時代遅れになっていたうえ、変革漢文が目立つものの、古代朝鮮の変格漢文とは違っていることも私が指摘しました(こちら)。

 今回の岡田さんの論文は、これまでのこうした指摘の決定打となるものです。聖徳太子に関する伝承には後代に創作されたり、誇張されたりしたものが多いことは事実であるものの、「憲法十七条」については、『日本書紀』編纂時の多少の潤色はあるにせよ、基本は推古朝と見てよい、というのが現在の学界では主流の見方となりつつありますが、その点はこの論文で確定すると思われます。

 また、「憲法十七条」と三経義疏については、百済や高句麗から来た僧や学者が支援したにせよ、書いているのは同じ日本人であるらしい可能性も、これで非常に高まりました。

 ただ、律令が作成された後、天孫降臨神話によって天皇の権威を説いた『日本書紀』の編者が潤色するなら、なぜ「天皇」の語や「神」の語を用いなかったのかという疑問があるうえ、守屋合戦の記述の後に付された忠犬伝承を見ても、『日本書紀』が原史料をそのまま貼り込んだ部分があることは明らかですので(こちら)、「憲法十七条」についても大幅な潤色はなかったものと私は考えています。

【追記:2024年5月19日】
雑誌の刊行を5月と書きましたが、奥付を見たら3月刊となっていたので訂正しました。実際に出たのhは5月ですが、年度内に刊行したことにするというよくある事情によるものです。


片岡山飢人伝説は『日本書紀』編者の創作ではない:三舟隆之「片岡山飢者説話の形成」

2024年05月06日 | 論文・研究書紹介

 聖徳太子虚構説については賛同者はおらず、この10年以上は相手にされなくなっていて批判すらされていない、とこのブログで何度か書きましたが、最近になって批判している珍しい例が、

三舟隆之『片岡山飢者説話の形成:日本書紀』『日本霊異記』『万葉集』から―」
(小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝来』、雄山閣、2024年)

です。

 三舟氏は、片岡山飢者説話に対する戦前からの諸説をざっと紹介した後、大山誠一氏の聖徳太子非実在説(厩戸王実在説)では聖徳太子関連の資料を片っ端から否定しており、中でも『日本書紀』の片岡山飢者の記事はフィクション性が高いとされ、道教好きの長屋王が創作したものとして簡単に扱われていると述べます。

 そして、非実在論について詳しく検討はしないが、この説に全く触れずに片岡山飢者説話について述べることはできないため、自分の見解を示すとして、聖徳太子という名は後代のものであるにせよ、経済力と政治面から見てその尊称にふさわしい人物であったとします。

 そして、石井公成が指摘するように、非実在論は考古学や美術史の成果を考慮しておらず、問題が多いと述べます(言及、有難うございます)。拙著をあげてくださったのは有り難いですが、だったら、大山氏が本名だとして強調する「厩戸王」は、戦後になって仮に想定された名であることにも触れておいてほしかったところです。

 それはともかく、三舟氏は『日本書紀』、『日本霊異記』、『万葉集』の片岡山飢者説話を比較することから始めます。

 720年成立の『日本書紀』では、聖徳太子が片岡山に遊行した際、道ばたで臥せっている飢者に出逢ったため飲食を与え、自らの服を脱いで着せ、飢者を憐れむ「しなてる片岡山~」の歌を詠み、翌日、見に行かせると死んでいたため墓に埋葬させ、後日、「真人」だろうとして使者に調べに行かせると、死骸はなく、衣服のみが棺の上に置いてあったため、太子はその衣を取り寄せて着たため、世人は「聖人は聖人を知るというのは本当だ」と感嘆した、となっています。

 奈良朝末期から平安初にかけて編纂された『日本霊異記』では、片岡の路で乞食が病気となって臥せていた。太子はともに語り、着ていた衣を脱いで病人に覆い、戻ってくると、その衣は木の枝にかけられていて乞食はいなかったため、太子は周囲が卑しい人が着て汚れていると反対したのに衣を身につけた。乞食はほかの場所で死んでいたため、法林寺の東北の山に墓を作らせ、後に使いを派遣すると、墓の入り口は開いていないのに埋葬者はいなくなっており、「鵤の富の小川の~」の歌が戸に立てかけてあったため、太子は黙然とした。誠に聖人は聖人を知り、凡人の目には見えないものだ、としめくくられています。

 8世紀中頃に編纂された『万葉集』では、上宮聖徳皇子が竹原の井に出遊した際、龍田山の死人を見て悲傷して詠んだ歌は、「家ならば妹が手まかむ草まくら旅に臥やせるこの旅人あはれ」、となっています。

 飢者の「富の小川」の歌と、憐れんだ太子の「しなてる片岡山」の歌を並べるのは、中西進が指摘したように、太子に仕えた調使・膳臣家の記録に基づくと称して神秘的な伝承を並べたてた平安初期の『上宮聖徳太子伝補闕記』が最初です。

 それ以前に成立したと推測される『上宮聖徳法王帝説』には飢者説話は収録されておらず、巨勢三杖が太子の死を悼んで詠んだ歌の中に「富の小川」の歌が見られるため、初期の法隆寺系の史料には飢者説話はなかったと思われると三舟氏は説きます。

 上記の比較が示すように、『日本書紀』と『日本霊異記』と『万葉集』は場所や登場人物や歌などが異なっており、『日本書紀』の編者が創作した逸話が広まるうちに詳しくなっていったようには見えません。

 そこで、三舟氏は片岡の地について検討します。

 まず片岡廃寺(片岡王寺跡)は、明治まで土壇が残っていて四天王寺式伽藍配置であったことが分かっており、出土する瓦から見て7世紀前半の建立があることが明らかになっています。

 西安寺跡も四天王寺式であって、若草伽藍と同笵の瓦も出ており、7世紀前半造営の可能性がある寺です。

 尼寺廃寺のうち、巨大な心礎が発見されている北廃寺は、東面する法隆寺式伽藍配置をとっており、創建期の軒丸瓦は最初期の坂田寺と同笵であって、以後、四天王寺と同笵の素弁蓮華文軒丸瓦や川原寺式の複弁蓮華文軒丸瓦が出土しており、7世紀前半の建立で、7世紀後半に川原寺式の瓦を用いて整備されたようです。

 南廃寺は、調査不十分で伽藍配置などは不明であるものの、若草伽藍と同笵の瓦が出ているため、北廃寺と同様に7世紀前半の建立の可能性があります。

 これらの寺の檀越については諸説ありますが、『法隆寺伽藍縁起并資材帳』によれば、「片岡僧寺」と見えており、瓦などから見て、上宮王家と関係が深かったことは明らかだとします。

 ここで三舟氏が注目するのが、飛鳥池遺跡北地区から出土した木簡に、「五月廿八日飢者賜大俵一/道性/六月七日飢者下俵二/受者道性女人賜一俵……」とあることです。内容から見て、天武5年(676)から翌年にかけての飢饉の際の対策のようであって、飢者や女人に食料を配給しているのですが、それを取り次いだのが道性という名の僧侶らしいことです。

 つまり、僧侶が困窮した人々に対する支援活動にあたっていたのです。三舟氏は、厩戸王や法隆寺などの僧侶もこうした活動に携わっていたものと見て、以下のような説話の進展を想定します。

 まず、7世紀前半に片岡・竜田あたりでこの説話の元となる説話が成立し、それに尸解仙説話が加わって8世紀前半頃に『日本書紀』の説話となり、加わっていない形が『万葉集』の説話となり、『日本書紀』の説話がさらに巨勢三杖の挽歌を加えて8世紀後半に『日本霊異記』の説話へと成長し、さらに9世紀前半に『日本書紀』と『日本霊異記』の説話に、「調使家記」を加えて『上宮聖徳太子伝補闕記』の説話となって定着していった、という流れです。

 聖徳太子の生前の段階でこの説話が形成されていたかどうかは分かりませんが、四天王寺が後に悲田院などの福祉事業を始めていることから見ても、聖徳太子の仏教受容が貧民支援の活動を含んでいたことはありうることです。中国でも、寺院はそうした活動をしていました。

 その結果、聖徳太子没後になって関連の寺がそうした活動をする際、元祖として太子の逸話を強調したことはありうることでしょう。三舟氏は、太子関連の伝承は後代作成のものが多いことを認めたうえで、そうした伝承の背景について考えていくことが必要だとしており、これは納得できる意見です。


中華意識を持ったアジア諸国の一つとしての倭国:川本芳昭「《日本側》七世紀の東アジア国際秩序の創成」

2024年05月01日 | 論文・研究書紹介

 中国の中華意識は有名ですが、実は、中国北地の北方遊牧民族国家や中国周辺の国家の中にも、中華意識を持っていた国はいくつもあります。そうした国々と比較しつつ、倭国について検討したのが、

川本芳昭「《日本側》七世紀の東アジア国際秩序の創成」
(北岡伸一・歩 平編『「日中歴史共同研究」報告書 第1巻 古代・中近世史篇』、勉誠出版、2014年)

です。日本・中国・韓国は、歴史観の違いによってこれまでいろいろな問題が起きてきましたが、この本は書名が示すように、日本と中国の学者が協議してそれぞれの視点を示し、ともに認めることができる事実を明らかにしようとした試みの一つです。川本氏は、外交面などに注意している東洋史学者です。

 川本氏のこの論文の次には、王小甫「《中国側》七世紀の東アジアの国際秩序の創成」が掲載されています。このように、諸国の研究者がそれぞれの視点で意見を出し合い、協議していくことが大事ですね。聖徳太子関係を含め、トンデモ説や闇雲な日本礼賛主張者は、様々な史料をきちんと読まず、自説に有利な箇所だけを切り貼りして妄想をくりひろげるタイプばかりですので、文献派の海外の研究者からは相手にされません。

 さて、『宋書』倭国伝に見える478年の倭王武の上表文では、宋の順帝に対して自らを「臣」と称していましたが、埼玉県の稲荷山古墳から辛亥年(471)の年紀を有する鉄剣の銘文には、「治天下大王」とありました。つまり、倭国王は、「天下」を統治する皇帝を自認していた順帝に対しては「臣」と称しているものの、それより早い段階で、国内に対しては「治天下大王」と称していたのです。

 これはダブルスタンダードですが、こうした姿勢は、実は多くの国に見られるものでした。たとえば、高句麗では、漢の支配拠点であった楽浪を313年に陥落させて勢力を伸ばした結果、高句麗王は「好太王碑」が示すように、中国周辺国の「~王」との違いを示すため、「太王」の称号を用いるようになり、独自の年号まで使い始めます。

 「好太王碑」では、高句麗の由来について述べた部分では、鄒牟王は「天帝の子」であるとし、「我は是れ皇天の子」という言葉を記しています。これを漢文表記したら「天子」ですね。さらに好太王の子の長寿王時代の地方官であた牟頭婁という人物の墓誌には、「天下四方」の語も見えています。つまり、天下を統治する中国の皇帝のように、高句麗王が自分なりの「天下四方」を治めるとされていたのです。

 こうした中華意識は、やや遅れて百済や新羅にも見られるようになり、倭国もそれに続きます。さらに後に、ベトナムも同じことをやり、中国に対しては朝貢して「王」と名乗り、周辺国に対しては「皇帝」と称します。

 面白いことは、そうした傾向が中国でも見られることです。北方遊牧民族である鮮卑族が中国の山東地域に建国した南燕の王であった慕容鎮は、自分たちを「中華」と呼び、南地の漢族の王朝である東晋のことを、全身に入れ墨をして海に潜るような「南蛮」の国家とみなしていました。

 こうした意識が、遊牧民族が建国した北朝の多くの国に受け継がれました。当然ながら、南朝の国家は自分たちこそが天下を治める正統な皇帝の国であるとし、北方の国家を蕃族の国家とみなしていました。その北地の国家の一つが勢力を伸ばし、中国全土を統一したのが隋であり、その皇帝の親族が打ち立てたのが唐であったのです。

 その隋に対し、長らく南朝に「臣」として接して将軍の号をもらっていた倭国が、開皇20年(600)に久しぶりに使節を派遣します。隋の文帝が役人に命じてその使節に倭国の風俗を尋ねさせると、使節は「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天がまだ明けざる時に出て政を聞き、跏趺坐す。日出づれば便ち理務を停め、我が弟に委ねんと云う」と答えたと、『隋書』倭国伝にあることは有名です。

 この説明を聞いた文帝が「はなはだ義理無し」と呆れ、改めるよう訓令したと記されているのは当然でしょう。その結果、大業3年(607)に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」という国書が送られるようになったわけです。

 この国書について、川本氏は、「日」は中国では皇帝そのものを指しているため、それを弟扱いしているということになるとしていますが、いくら何でも、倭国が意図的に隋を弟扱いしたとは考えられません。

 私は、「天の日を兄弟としている」といった和語を、中国側が文飾して「以天為兄、以日為弟」と対句にしたのではないかと疑っていることは、拙著で書きました。

 川本氏は、次の派遣使節が提出した国書の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の文は、いかに不遜に見えようとも、「天の弟」「日の兄」などと言っておらず、訓令に従って改めたと見ています。

 これを見た煬帝は不快になったものの、身分の低い裴世清を使いとして送って宣諭させたため、川本氏は、倭国は「天子」の語は用いず、煬帝を「先輩か兄に見立て」た「東天皇敬白西皇帝」で始まる国書を送ることによって、「一定の常歩を示しつつも、一貫して強い自己主張を貫いている」とします。

 つまり、こうした状況で「天皇」の語が用いられたのであって、この語はまず外交文書で使われはじめ、従来の大王あるいはオオキミと併用されながら国内でも用いられるようになり、律令において正式な称号として確立したと、川本氏は推測します。

 問題は、『旧唐書』倭国伝が貞観5年(631)のこととする記事です。唐は新州刺史の高表仁を派遣したものの、「綏遠の才無く」、つまり蛮夷を慰撫する才が無く、王子と礼を争い、朝命を宣せずして還る」とあります。「開元礼」では、皇帝の使者が蕃国を訪れた際は、使者は蕃国側の再拝の礼に答えず、皇帝の詔書を宣し、蕃国側は北面して詔書を受け取ることになっていました。

 礼を争ったとある以上、倭国側はそうした形で詔書を受け取ることを認めなかったことになりますが、そうなると、高表仁より官位が低い裴世清の時はどうだったのか、倭国王を拝するなどしたうえで、国書や言葉だけは伝えたのか、ということになります。

 奈良時代になって778年に唐の使者、趙宝英が派遣された際は、趙宝英は遭難し、部下の孫興進が来日したのですが、孫興進とともに帰国した遣唐使の小野滋野は、新羅や渤海など日本が蕃国とみなす諸国からきた国使を迎える際の礼式で対応すべきだと主張したものの、中納言石上宅嗣は、蕃主が中国皇帝の使節を迎える礼で迎えるべきだと主張した由。

 ともかく、中国で南北朝時代が終わる頃になって北朝の勢力が強まっていくと、南朝と連動、ないしその傘下にあった柔然、吐谷渾、雲南の勢力、高句麗、百済などは相次いで亡び、それらの背後にあった突厥、吐蕃、南詔、渤海、新羅、日本などが興隆してきます。

 つまり、北地の夷狄であった五胡の中から登場した北魏が、漢民族の南朝とならぶ「朝」とみなされ、その北朝を承けて隋唐が中国の正統な王朝となるという現象が起きたのであり、これが中国周辺の諸国の興亡はつながっているのです。

 倭国が遣隋使、遣唐使を派遣して国政を変革させ、白村江の敗北を経て古代律令制国家を築いていったのは、東夷であった倭国が周辺に対して中華として振る舞うようになった動きと連動しているのです。その日本の変化は、単なる国内問題、あるいは朝鮮半島の動きとの関係といった視点ではなく、中国を中心とした「天下」の動きの中でのことであった点に注意すべきだ、というのが川本氏の結論です。


最近の研究成果を踏まえた穏健な聖徳太子論であって「和」の特質を強調:頼住光子「仏教伝来と聖徳太子」

2024年04月27日 | 論文・研究書紹介

 2018年に放送大学のテキストとして末木文美士・頼住光子共編でNHK出版から刊行された『日本仏教を捉え直す』が、修正・加筆のうえ、末木文美士編著『日本仏教再入門』となって講談社文庫から10日ほど前に刊行されました。最近の研究成果を踏まえた充実した内容になっています。

 末木さんが「はじめに」「序説」と日本仏教の特質に関する諸章、頼住さんが人物を中心として古代から中世までの諸章、大谷栄一さんが近代仏教の形成・グローバル化・社会活動などの諸章を担当し、最後の第十五章「日本仏教の可能性 まとめ」は、頼住「仏教思想の観点から」、大谷「近代仏教の観点から」、末木「仏教土着の観点から」という形で三人がそれぞれの立場で語っています。従来の日本仏教史の本とは異なる視点での記述が目立ち、有益です(献本してくださった三人の著者の皆さん、有難うございます)。

 ここは聖徳太子ブログですので、この本のうち、

頼住光子「第二章 仏教伝来と聖徳太子 日本仏教の思想Ⅰ」

をとりあげます。頼住さんは、日本倫理思想史を専門とする東大の教授でしたが、道元の研究で知られているためか、私が3年前に定年退職した曹洞宗系の駒澤大学仏教学部にこの4月から移られたため、私とはすれ違いになってます。

 この第三章では頼住さんは、人間は「超越的なるもの」を見いだすことによって、「この私」を成立させ、また「この私」の延長上にある共同体を成立させたというところから話を始めます。これは、日本人にその「超越的なるもの」を教えたのは仏教だからです。

 むろん、日本には日本なの信仰があったものの、それを意識して言葉で表現することを可能にさせたのは仏教でした。神道は、土着のカミ信仰が仏教の刺激によって自覚され、形成されていったのです。

 また逆に、日本の伝統的など土壌が仏教の受容に影響を与えますし、仏教や儒教のような外来の思想同士がある時には融合し、ある時には反発しあいながら日本風な仏教や儒教が形成されていったのだと頼住さんは説きます。
 
 日本には儒教と中国化された仏教が入ってきますが、儒教と仏教の関係について、頼住さんは3つの類型をあげます。(1)対立、(2)融和、(3)包摂、です。これは、宗教的多元論に関する議論で用いられる分類ですね。「包摂」というのは、どちらかが上となって相手を取り込む関係です。
 
 そして、頼住さんは、儒教は日本においては支配層からは、統治のための教え・道徳として摩擦なく抵抗なく受容されたとします。ただ、日本は儒教を受容したものの、天皇による神々の祭祀と衝突するため、「祭天」の儀礼は取り入れなかったことに注意します。

 これは重要な指摘ですね。唐王朝は北方遊牧民族出身ながら老子を祖先と称して祀っていたためめか、日本は遣唐使を送って盛んにあれこれ学んでおりながら、老子に基づくとされる道教の導入は拒否したこととも関わるのでしょう。

 一方、仏教については、受容に際して神々の祭祀と関わるとされ、紆余曲折があったことは良く知られていますが、受容されて王権守護、祖先祭祀などの面で共同体と結びつけられてからは、日本文化の最深部にまで浸透していったとします。これは、仏教教理の専門家などはあまり注意しない視点です。

 頼住さんは、そうした状況で登場したのが聖徳太子の「十七条憲法」であったと説きます。

 なお、私の方で補足しておくと、「十七条憲法」という呼び方には注意が必要です。『日本書紀』では「憲法十七条」とありましたし、古い注釈では「十七条憲章」とか「十七条之憲法」などと称していました。やや遅れる『聖徳太子平氏伝雑勘文』では「十七条憲法」と呼んでいますが、そういう呼び方が広く用いられるようになったのは、明治になって「大日本帝国憲法」が制定され、その先蹤という意味で用いられることが増えてからのことです。

 ともあれ、著者が用いているのでここではその呼び方を用いますが、「十七条憲法」の作者とされる聖徳太子については、その実在性も含めて議論が盛んであるものの、後に聖徳太子と呼ばれる人物が推古朝に蘇我氏の協力のもとで国政にたずさわったことは確かとされている、と頼住さんは述べます。

 さらに、国語学・歴史学の側からも『日本書紀』掲載の「十七条憲法」、少なくともその原型は推古朝にさかのぼる可能性が指摘されているとします。これが最近の学界の動向ですね。

 そして、「十七条憲法」は、地方官たちに対する倫理規定である北周の「六条詔書」など、北朝の官僚に対する倫理規定と類似しており、その影響下で作成されたと言われていると述べたうえで、「和」を冒頭にかかげるのは「十七条憲法」の特徴であることに注意します。
 
 ついで、第一条が強調する「和」に関して儒教由来・仏教由来とする議論を紹介したうえで、儒教であれば「和」と結びつくはずの「礼」がここで説かれていないことを指摘します。

 また、仏教では僧伽(僧団)の平等な和合を重視し、また様々なことを共に行うべきだとする「六和敬」を説いていることに注目し、「十七条憲法」が想定する官人集団も「共にこれ凡夫」と言われている点などから見て、仏教の「和」と似た性格を持つとします。

 となると、「憲法十七条」は全体として仏教色が強いものいうことになります。こうした理解を強調したのは、日本思想史の村岡典嗣であって、その考察が優れていることは、このブログでも指摘しました(こちら)。

 ただ「六和敬」については、隋の三大法師とも称される慧遠や吉蔵などもしばしば触れていますが、具体的なあり方に関する議論はほとんどなく、また三経義疏では六和敬について説明していないことが気になります。

 また、頼住さんが重視する「憲法十七条」の「共にこれ凡夫」の「凡夫」は、仏教の「凡夫」ではなく、儒教の人性論における「並みの人間」を指すことは、拙著の『聖徳太子―実像と伝説の間―』でも書いておきました。「和」を仏教色が強いものと見る点は賛成ですが、その基盤を大乗の「自他不二」の思想に求めるのは、理想主義的すぎる見方のように思われます。

 頼住さんは、拙著をこの章の参考文献としてをあげてくれているうえ、このブログも時々見てくださっているようですが、山下洋平さんが法家の影響の強さを強調したように(こちら)、「憲法十七条」はあくまでも統治の法であって、ここに仏教の道徳面を見いだそうとしすぎる点は賛成しかねます。

 「憲法十七条」の「和」については、拙著で触れたほか、古い論文でも書いたうえ(こちら)、少し前に「憲法十七条」の基盤となる仏教経典をを発見し(こちら)、「礼楽」という言葉が示すように、儒教の「礼」は「和音」を重要要素とする「楽」と結び着いているのに、「憲法十七条」では「楽」に触れず、仏教がその代役を果たしていることなどは、このブログでも報告しました(こちら)。「憲法十七条」については本を執筆中ですので、詳しいことはそちらに書きます。

 ともかく、この頼住さんによる第三章の聖徳太子論は、枚数の制限もあって簡略に書かれていますが、全体としては現在の学問成果を考慮した穏健な論述となっており、重要な視点も示した概説となっていると言えるでしょう。儒教の受容のされ方と仏教の受容のされ方の違いを指摘した点などは、大事な点です。

【追記:2024年4月28日】
頼住さんは、ネットの動画でも聖徳太子について3回の連載で解説しています(「憲法十七条」に触れた回は、こちら)。ネット上には、頼住さん以外にも聖徳太子について解説する動画がたくさんあがってますが、日本を闇雲に礼賛するサイトで予備校講師などが多くの分野について自信満々に語っている類の動画は、話題の本を数冊かじっただけの内容を受け狙いで大げさに話していることが多く、専門知識がないため初歩的な間違いをしているうえ、中には陰謀説のようなトンデモ論も混じっているものが目立ちます。ここで紹介して批判しようかと考えたこともあるのですが、その動画を見る人が増えても困るので、やめています。この手の人たちの特徴は、原文を自信をもって解説することはできないため、原文には触れないか、他の人の訳を利用して一部だけとりあげ、「要するに~ということです」などとまとめることです。「教科書では教えませんが、実は~」などと語ることも多いですね。私も大学院生時代に予備校や塾でバイトで教えていた頃は、生徒の注意を引こうとしてそうした話し方をしたこともあるため、分かるのですが、問題は上記のような人たちの中には、表現をおだやかにしてあるものの、論旨そのものは戦前の狂信的な右翼の主張や戦後のオカルト説に似ている場合が多いことです。「聖徳太子はいなかった。不比等と長屋王と道慈がでっちあげたのだ」というセンセーショナルな説もそうでしたが、陰謀説だと、すべてを簡単に説明できてしまい、聞いている側はスッキリするうえ、自分はそうした歴史の秘密を知っているのだという優越感を味わえるのですね。この点は九州王朝説も同じですね。実際の歴史は、諸要素がからみあっていて複雑であるうえ、資料不足で断定できない場合が多いわけですが。


古代日本は家族が未成立、中国と違って直系相続の意識無し:官文娜「日本古代社会における王位継承と血縁集団の構造」

2024年04月22日 | 論文・研究書紹介

 前回、日中を比較して「朝政」の検討をした馬豪さんの論文を紹介しましたので、同様に中国人研究者による日中比較の論文を紹介しておきます。

官文娜「日本古代社会における王位継承と血縁集団の構造-中国との比較において-」
(『国際日本文化研究センター紀要』28号、2004年1月)

です。20年前の論文ですが、この方面の論文は以後、あまり見かけないため、取り上げることにしました。

 官氏は、冒頭で「日本古代社会には有力豪族による大王推戴の伝統がある」と断言し、大伴氏・物部氏・蘇我氏・藤原氏らは次々に王位継承の争いに巻き込まれ、その勢力は関係深い王の交代によって増大したり衰えたりしたことに注意します。

 そして、6~8世紀には、王位継承をめぐる豪族同士の争いにおいて非業の死をとげた皇族が10数人以上におよぶのに対し、古代の中国では、王位をめぐる争いは常に統治集団内部の権力闘争だったと官氏は述べます。

 中国では、夏の時代に「父子相承」の形での直系相続が既に確立していたものの、後継ぎの子が幼い場合など、王の弟らが争って王族内に殺し合うことが多かったため、殷の時代には一時期ながら兄弟継承という形態がとられました。ただ、この混乱を避けるため、周の時代に嫡長男が王位を継承する制度が確立され、以後、これが中国の伝統となりました。

 これは兄弟姉妹が王位を継承した古代日本と違うところです。官氏は、日本の学者の一部が姉妹による継承を「中継ぎ」とみなしていることに反対します。直系相続が伝統になっていない状況では、直系相続をおこなうための臨時の中継ぎという形はありえないからです。

 女性の天皇たちについては諸説がおこなわれており、亡くなった天皇の皇后が即位することもあったものの、官氏は、皇族の女性という資格だけで即位している例もあることに注意し、当時にあっては、王位の継承者は成人(30才以上)でなければならないとする習慣の存在が大きかったと見ます。

 中国でも兄弟継承はおこなわれていましたが、これは「父子相承」の習慣が確立した後のことであり、王の子が幼いために王の弟が即位した場合、弟は自分の子を次の王にすることもありましたが、それは利己的な行為とされ、非難されたため、継承制度の主流にはならなかったと官氏は説きます。

 王の弟が即位しても、亡き王の子が成人したり、戦争などが終わって政治が安定したら、王位を前王の子に譲るのがあるべき姿とされたのです。

 一方、日本では30才以上でないと王位につけなかったうえ、譲位の習慣が無かったのですから、「中継ぎ」はありえないことになります。女性の身で即位して初めて譲位した皇極天皇は、軽皇子(孝徳天皇)に王位を譲ったわけですが、軽皇子は自分の子ではなく、前の天皇の子でもなく、自分の弟ですので兄弟姉妹継承であって、「中継ぎ」とも言えないことになります。

 しかも、古代日本の王位継承者は、有力な豪族たちの合意によって決定されていました。「皇太子」の制度は律令制からとはいえ、王を補佐し、その後継候補となる皇族はいたでしょうが、欽明天皇の嫡子であって「皇太子」となったとされる敏達天皇が亡くなり、その異母妹であった皇后の推古が天皇となると、推古は敏達と自分の間に生まれた皇子ではなく、自分の兄である用明天皇の子を「皇太子」としているのです。

 官氏は、『日本書紀』が「皇太子」としている皇族が必ずしも即位していないことに注意し、持統朝までの立太子は皇位継承者という位置づけより、天皇の補佐役となってある場合は天皇に代わって国政に参与する立場であったとする村井邦彦氏の説を紹介して賛同し、ヒツギノミコは一人とは限らなかったとする説もあることに注意します。

 そして7世紀にあっては、天皇を中心とする単位家族は成立していないため、直系相続もなかったのであって、これが変化するのは持統・元明朝からとします。持統天皇は在位中の11年(697)の春に15才だった軽皇子を太子に立て、同年8月に譲位して文武天皇とします。歴史上初の未成年の天皇の誕生です。

 しかし、文武天皇が25才で亡くなり、文武と不比等の娘の宮子の間に生まれた首皇子は僅か7才であって、天智の娘、持統の妹、草壁皇子の妃、文武の母である言天皇が即位し、首皇子が14才になった段階で皇太子としたものの、まだ幼いという理由で、自分と草壁の間の娘であって文武天皇の姉であった元正に譲位します。男子の直系相続はなされていません。

 いずれの国においても、王位の継承法はその国の血縁集団の特質と結びついており、中国の法令制度が日本に伝わっても、日本の血縁集団の構造自体は変わらないのです。持統天皇以後も、直系、あるいは嫡子相続はなされておらず、中国と違って女性たちが何人も皇位についているのです(女性を認めない儒教社会である中国において、皇位についたのは、仏教を利用して弥勒の化身と称して即位した則天武后ただ一人ですね)。

 官氏は、推古と持統は「優れた政治的能力を持った女帝」だったと評価します。お飾りでも中継ぎでもなかったのです。しかも、皇位継承をめぐる争いの中で多くの皇子たちが殺されたにもかかわらず、推古から元正に至るまでの六人、八代、計86年の間、女帝に反対して争いが起きたことはなかったと、官氏は指摘します。これは重要ですね。

 官氏は、当時は特定の天皇の単位家族は成立しておらず、近い皇族であれば男女の誰もが王位継承の資格があるとされ、皇后になっていなくても皇女であれば即位できたとし、だからこそ皇族内での極端な近親結婚が行われたのだと結論づけています。

 こうして見ると、「女帝中継ぎ論」は、儒教的な考えが広まった近世以後、明治以後の発想だったことが良くわかりますね。その国の特徴を知るには、やはり他の国と比較しなければならないということです。なお、私の『東アジア仏教史』(岩波新書)は、諸国の仏教の比較だけでなく、相互交流・相互影響という点に重点を置いて書いてあります。


朝政成立史においては推古朝が画期的:馬梓豪「日中比較からみる日本古代朝政の特色」

2024年04月17日 | 論文・研究書紹介

 まだ中国です。中国はネット規制が強いため、前の記事では次の記事は帰国後にアップすると書きました。実際、泊まっているホテルのWi-Fiではこの太子ブログにアクセスできなかったのですが、帰国する日の早朝(時差は1時間)に目が覚めてしまったため、別の経路でアップすることにしました。

 古代史は東アジアの政治情勢の中で展開していきましたので、海外からの視点から見てみることも必要です。その一つが、

馬梓豪「日中比較からみる日本古代朝政の特色」
(『国際日本研究』10号、2018年3月)

です。つくば大学の雑誌であって、この時の馬氏は大学院の博士後期課程の学生です。

 馬氏は、「朝政」という言葉の検討から始め、古代中国では、朝、臣下たちが君主にまみえたことが原義であったとし、平安時代では『源氏物語』に「朝政」を「あさのまつりごと」と呼んでいる例があるが、飛鳥時代から奈良時代にかけては、分析に足るだけの「朝政」の用例がないと述べます。

 ただ、政治がおこなわれる場所である朝堂については、7世紀には成立していたとされており、最古の遺跡は、孝徳朝の難波長柄宮と推定される前期難波宮の朝堂院です。『日本書紀』の推古紀や孝徳紀には、「庁」に関する記述が散見されるものの、朝堂の前身と推測されているだけであって、実態は不明です。

 実際、天武・持統期の飛鳥浄御原宮の遺跡では朝堂の遺跡は発見されていません。平安時代の十二朝堂は、中国の朝堂とは異なりますし、どこまで遡れるのかは明らかになっていないのです。

 とりあえず、馬氏は中国における「朝政」について、「朝」の字について検討することから始めます。諸文献に見える用例の変化を追い、馬氏は、両漢から魏晋南北朝までは、皇帝と官僚集団が相対的に独立しており、政策は各層の会議による官僚の集団意志と皇帝の裁可によって成立していたのに対し、隋唐になると、朝堂を外朝化することによって皇帝一人による一元的な「朝政」が出現したとします。

 一方、日本については、7世紀までは秦漢頃までの中国に似ており、諸豪族の連合政権であったと言えるとします。そして奈良時代の律令制は遣唐使を通じて唐の政治を取り入れたとされるものの、むしろ平安前中期の方が唐の制度に近いと述べます。律令制は、大化以前の伝統が唐制と妥協して生まれたものとするのが馬氏の見解です。

 『日本書紀』における「朝政」の初出は天武12年であって、「朝」は「みかど」と訓まれ、「朝政」が行われていた場所を指し、「政」は君臣に通じる「まつりごと」であったというのが馬氏の見解です。

 そこで、『日本書紀』における政治関連の「朝」「朝庭(廷)」の用例を検討し、「天皇・中央政府」、「宮・庭などの場所」、「天皇の治世」、「国家・国土」の4種に分けられるとして、崇神天皇紀以後の用例を分類していきますが、「天皇・中央政府」の用例が急に増えるのは、敏達朝と崇峻朝です。

 そして、「宮・庭」などの用例が急に増えるのは、推古・舒明・皇極・孝徳・斉明天皇の時であって、「朝廷」の語は推古朝に1例、孝徳朝に3例、天武朝では6例も見られます。推古朝に続く舒明朝では、「天皇の治世」「国家・国土」の例もそれぞれ1例登場します。このため、馬氏は小墾田宮が造営された推古朝を画期とみなします。

 つまり、宗教的な「まつりごと」を主としていた時代が終わり、様々な政治協議をおこなう朝堂の前身となる「庁」が設置され、複数の「庁」を包含する「ニハ(庭)」が成立したと見るのです。

 「朝廷」の語は、推古以前は中央政府を指すのが一般的であるのに対し、推古朝からは天皇を指す場合が多くなると、馬氏は指摘します。

 推古朝での変化は契機については、当然ながら、推古8年(600)の遣隋使が倭国の「まつりごと」について報告し、文帝に「おおいに義理無し」と評されたことをあげます。これをきっかけとして、一連の改革事業がなされていることは、良く知られている通りですが、「朝」の字の用例を見ても、それが裏付けられるのです。

 欽明朝あたりから政治と祭事が分離するようになり、推古朝の小墾田宮造営によって朝廷機能が変化し、伝統を反映させながら律令制を整備することによって、日本は固有のあり方から隋唐の式の朝廷・朝政へと変化していったというのが、馬氏の結論です。


大山誠一・吉田一彦氏に遠慮しつつ、ついに聖徳太子虚構・道慈作文説を否定:榊原史子「『日本書紀』崇峻即位前紀七月条と四天王寺の創建」

2024年04月12日 | 論文・研究書紹介

 こちらも論文集を紹介し始めたところで中断していた例です(こちら)。

榊原史子「『日本書紀』崇峻即位前紀七月条と四天王寺の創建」
(小林真由美・鈴木正信編著『日本書紀の成立と伝来』、雄山閣、2024年)

 四天王寺の研究者である榊原氏については、若い頃、大山誠一氏や吉田一彦氏に評価され、両氏が編集する論文集や雑誌の特集で論文を発表させてもらうようになった恩義があるためか、虚構説に遠慮して是非の判断を避ける書き方をしている本を以前紹介しました(こちら)。

 今回は、遠慮しつつも虚構説を否定し、注での目立たない書き方ですが、以前支持していた道慈作文説を撤回すると明記しています。

 今回の論文でも、冒頭で厩戸皇子については諸説があるとし、「近年においては、大山誠一氏によって聖徳太子虚構説が提起された」として、その説の内容を簡単に紹介します。

 そして、大山説以後も、「聖德太子をめぐっては、さまざまな説が提示されている」とし、具体的な活動については「いまだ十分に明らかになっていない」と述べるにとどめ、大山説が学界で相手にされなくなっていることには触れません。

 ここから四天王寺に関する検討に入り、若草伽藍で用いられた瓦当笵がすりへった段階で四天王寺の瓦作成に用いられたことなど、考古学の研究成果を紹介し、四天王寺の創建は若草伽藍の創建時期に近いが、それより遅かったことを再確認します。

 そして、どの程度遅れるかに関する諸説、また厩戸皇子の建立とする説と、難波吉士氏の建立であって厩戸皇子との関係は認められないとする説などを紹介します。

 ついで、文献から見て、当初、玉造に造営された寺が現在の地に移築されたとする説を紹介したのち、『日本書紀』の記事と考古学の成果から見て移築説を否定します。

 また、『四天王寺縁起』(1007年)は寺の所有として多くの土地や建物などの名をあげ、物部氏の旧領・邸宅・資材・人民が四天王寺に施入されたとしていますが、『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』が法隆寺のものと記している「水田」「薗地」「庄倉」は、物部氏の本拠であった渋川にも見られることに着目します。

 これらのことから、榊原氏は、四天王寺は厩戸皇子によって創建されたと考えるの妥当と結論づけます。

 ついで、創建説話については、『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』は信じがたいとする吉田氏の説を紹介し、同様に古い『四天王寺縁起』に基づいて『日本書紀』の創建説話が書かれたとは考えるのは難しいだろうと述べます。

 しかし、『日本書紀』は厩戸皇子が登場せず、四天王寺創建にも触れない記事の部分ですら四天王寺系の資料を用いており、すべて最終段階の編者の筆と見ることはできないことは、前回の記事で示しておきました(こちら)。

 榊原氏がその部分を疑うのは、厩戸皇子が勝たせてくれたら四天王の為に寺を建てますと誓った箇所のうち、「護世四王」とある部分は、『日本書紀』完成の少し前の702~703年に西明寺で義浄が訳した(そして、聖徳太子虚構説では、それを西明寺に留学していて718年に帰国した道慈がもたらし、道慈が理想的な厩戸皇子を記述するなど、『日本書紀』の原稿を潤色する際に用いたとされる)『金光明最勝王経』に見えるからです。

 しかし、5世紀初めに訳された『金光明経』には確かに「護世四王」の語は見えないものの、この語は、597年に訳された増補版であって中国でもかなり読まれた『合部金光明経』には見えています。創建説話のその箇所には後代の潤色があるとしても、7世紀の末頃までに四天王寺で創建説話の原型ができていて不思議ではありません。

 なお、榊原氏は、『日本書紀』の編者が『金光明最勝王経』を参照しながら四天王寺創建説話を書いたことは疑いないとし、「四天王像を頭に載せるという記述は、仏像が宝冠を頭に載せていることに想を得たのではなかろうか」と述べています。

 榊原氏は、いなかった説を痛罵した石井公成さんの『聖徳太子ー実像と伝説の間ー』は読んでおられないのか、大山氏や吉田氏への遠慮もあって引用しにくいのか、まったく言及していませんが、小さな仏像をお守りにする際は髷の中に入れるのがインドの習慣であることは、本に書いておきました。あるいは、榊原氏は、絵本などに描かれる巳の刻参りや八つ墓村のような太子の姿を思い浮かべているのでしょうか。

 榊原氏は、『日本書紀』編纂の最終段階で四天王寺創建説話が書かれたことについて、新川登亀男氏の説などを紹介し、「皇太子の制度の理想型」を示すために厩戸皇子が「皇太子」と呼ばれて活躍が強調されたとし、『日本書紀』の最終編纂時期に、理想的な皇太子が『金光明最勝王経』の教えを実践していたことにするためだったと推測します。

 そして、四天王寺は、一時期、古代史学で強調されたような外敵退散のためではなく、上宮王創建の他の寺と同様、追善のためとする三船隆之氏の説を紹介し、難波、斑鳩、飛鳥を結ぶ交通網が整備されたことに注意し、斑鳩宮への移住は対外交渉の拠点づくりのためとする塚口義信氏の説を紹介します。

 そして、推古朝は推古女帝のもとに、聖德太子と蘇我馬が共同執政の形で政治をおこなったとする塚口氏の説を「妥当な見解」と評価します。塚口氏の説の追認という形ですが、太子虚構説は完全に否定されていますね。

 ここまで書いてしまった以上、曖昧な書き方は無理とあきらめたのか、榊原氏はその後で、「厩戸皇子は、実在した勢力のある王族であり、有能な人物であったと評価することができるのではないだろうか」と述べ、ついに虚構説を否定してしまいました。しかも、馬子との共同執政であったものの「外交に関しては、厩戸が主導していた」と明言しています。いやいや。

 なお、注58では、自分の旧稿では道慈が創建説話を述作した可能性があるとしたが、「現在では、具体的な人物を特定することは難しいと考えている」と述べています。読んでいて感慨深いです。いろいろと迷った末の決断でしょう。

 なお、お知らせです。本日の夜の飛行機で中国に向かい、浙江大学、浙江理工大学、杭州仏学院などで「禅宗の成立と疑偽経類」「中日仏教文化交流」その他について連日講演し、最後に1日だけ寺院や遺跡をめぐって翌日に帰国しますので、次の記事は少し遅れるかもしれません。

 杭州は、鎌倉・室町時代には日中貿易や僧侶の往来の中心地だったところであって、また私が近代中国の思想家の中で最も高く評価する章太炎の旧居と墓があるところです。10月開催の唯識学会にも呼ばれてますので、杭州にはまた行くことになります。コロナ禍がおさまり、ようやく海外の研究者を受け入れるようになったため、秋には長らく延期になっていた北京の人民大学などでの講義もありそうです。


高句麗の影響を受けた百済の石積みによる造墓技術が方墳へ:坪井恒彦「大王(倭国王)陵としての前方後円墳の終焉」

2024年04月08日 | 論文・研究書紹介

 恒例となっている4月1日限定の特別記事では、蘇我馬子の「桃原」の墓と桃つながりらしい高桃塚古墳?を紹介しました(こちら)。

 飛鳥の古墳については新たな発見が続いており、その最新成果を収めた明日香村教育委員会編『遺跡の発掘からみた飛鳥』が刊行されるはずでした。しかし、1年半くらい前に予約したのに、発売延期、延期が続き、いよいよ刊行されるはずの日程の直前になってまた「5月末に発売」という延期通知が来ました。狼少年もこんなに繰り返し「出るぞ、出るぞ」とは言ってなかったんじゃないか……。

 それはともかく、古墳は重要なので、坂田原から桃原にかけての一帯の地の古墳について論じた最近の論文を紹介しましょう。

坪井恒彦「大王(倭国王)陵としての前方後円墳の終焉-敏達・用明朝の墳墓観変遷の背景-」
(『羽衣大学現代社会学部研究紀要』第6号、2017年)

です。

 前方後円墳が造られなくなることは、以前、取り上げた半沢英一氏も画期として注目していたところです。ただ、半沢氏は、母親の古墳に合葬された敏達天皇はそれ以前の天皇たちと違い、巨大な前方後円墳を造ってもえなかったとし、守屋合戦に勝利した厩戸が仏教的な法王として即位した結果、新たな時代が始まったたとする強引な仏教革命説を繰り広げていました(こちら)。

 一方、坪井氏のこの論文は、朝鮮の造墓技術との関連に着目した考古学の立場での考察です。氏は天皇のことを「大王」と記していますので、この記事ではそれに従います。

 坪井氏は、三輪山西麓に広がる纒向の地に初めて登場した前方後円墳、つまり、墳丘280メートルもある箸墓古墳の話から始めます。この巨大な古墳が倭国王の墓であることは疑いなく、その前方後円という特異な形は、大王の墓として考案されたものでした。

 以後、7世紀初めまで、何千という古墳が造営されましたが、大王墓と見られる前方後円墳は、いずれも首長クラスの 墓とは異なり、きわだって巨大なものでした。

 ところが、6世紀後半になって、大王が一般的に見える「方墳」に葬られるようになってしまうのです。7世紀半ばになると、高御座と共通する八角形の墳墓が作られるようになり、再び王権独自の墓が造営されるようになります。

 坪井氏は、考古学では、異論はあるものの、最後の前方後円墳は、太子町奧城にある墳丘長93メートルの太子西山古墳であろうとし、敏達大王(585年没)の墓とする説が有力だとします。この墓は、大型の方墳や円墳から成る磯長谷古墳群を見下ろす尾根の上に、いちはやく営まれています。

 続く用明大王陵は、春日向山古墳と推定されており、こちらは東西66メートル、南北60メートルの方墳です。用明大王の墓は初め磐余にあり、後に磯長に改葬したとする説もあるものの、磐余近辺にも前方後円墳の遺跡は見つかっていません。

 次に倉梯岡陵と記されている崇峻大王陵は、宮内庁は桜井市倉橋金福寺跡と治定していますが、考古学では同じ倉橋にある一辺50メートルの赤坂天王山古墳の可能性が高いとしています。

 推古大王については、大野岡上にあった竹田皇子陵に合葬され、後に磯長に改葬されたとされており、前者は橿原氏の上山古墳(東西40メートル、南北27メートルの長方墳)、後者は太子町の方墳である山田高塚古墳(東西66メートル、南北58メートル)と見られています。

 これらの大王たちの祖である欽明天皇の墓について、宮内庁は平田梅山古墳を治定していますが、考古学では墳丘長318メートルという巨大さを誇る五条野丸山古墳が有力です。

 平田梅山古墳については、被葬者をめぐって諸説があり、敏達埋葬のために造られたが何かの事情でそうならなかったとする説もあるものの、坪井氏は、いずれにしても敏達の墓を前方後円墳にしようとした事実はゆるぎないとします。

 『日本書紀』によれば、敏達は母である石姫の墓に合葬されたとあります。白石太一郎氏は、継体天皇は、それ以前の大和・河内勢力によるヤマト王権と血がつながっておらず、ヤマト王権の仁賢大王の皇女である手白香との婚姻が不可欠であったとしますが、坪井氏は、その継体から敏達に至るまでの大王はすべてヤマト王権の血を引く女性を妃としており、その系統が前方後円墳と結びついていたと見ます。

 一方、用明は、敏達の弟であるとはいえ、ヤマト王権の血とはつながりのない蘇我稻目の娘、堅塩媛から生まれています。続く崇峻も推古も欽明天皇と蘇我氏の女性の間に生まれています。

 ですから、ヤマト王権の伝統である前方後円墳にこだわる必要はなかったと坪井氏は説きます。しかも、この頃には、前方後円墳は大王陵としては既に形骸化していたと推測します。

 磯長古墳群は、蘇我氏系の大王の墓が林立することで有名ですが、坪井氏は、最初は蘇我氏の血を引かない敏達大王の墓で始まっていることを重視します。つまり、これによってこの地が皇室の墓の地として格付けされ、以後、前方後円墳にこだわらず、方墳を進展させた蘇我氏の影響が発揮されたとするのです。

 そもそも方墳は、4~5世紀の百済に普及していった高句麗系の「石基壇石塚古墳」と称されるものがルーツとなっていると、坪井氏は主張します。それが、6世紀後半に蘇我氏の宗主の墓に用いられ、やがて蘇我氏系の大王の墓に用いられたとするのです。

 ここで注目されるのが、一辺が41~42メートルであって、7~8段ほどの石積みとなっている都塚古墳です。この古墳は、大きさはさほどではないものの、人の頭ほどの石を12万9千個くらい積み上げてあり、大変な労力をかけたものです。これが百済の王陵と良く似ているのです。

 都塚古墳が位置する明日香村阪田から祝戸にかけての地域は、朝鮮半島からの渡来集団が配されていた地です。中国南朝出身の司馬達等もこの辺りに棲んでいました。

 その都塚古墳の北西400メートルほどのところにあるのが、巨大な石を積み上げ、「桃原」に造営された馬子の墓とされる石舞台です。つまり、渡来人を配下に持つ蘇我氏が、高句麗系の様式による百済の石積みの造墓技術を採用して自分たちの墓に用いたのであり、それが蘇我氏系の大王の墓に用いられるようになったとするのです。

 坪井氏は、こうした古墳の型式の変遷は、朝鮮半島の状況、それと日本との関係が大きな影響を及ぼしていることに注意して論をとじています。