蘇我氏については、『日本書紀』ではいろいろな地に家があったとされています。つまり、小墾田・向原・軽・飛鳥河傍・豊浦・畝傍などです。これらは、別邸とみなすべきなのか、世代によって本拠地が移ったのか。この問題を検討したのが、
西本昌弘「蘇我本宗家の本拠地と甘檮岡家」
(『なにわ大阪研究』第7号、2025年3月)
です。
『日本書紀』持統即位前紀の朱鳥元年(686)12月乙酉条には、天武天皇の追善供養のため、無遮大会を大官・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田の「五寺」でおこなったとあります。ただ、「五」は「六」の誤記だとする説が江戸時代からあり、近年では「小墾田豊浦」は「小墾田・豊浦」の2寺であって「六寺」が正しいとする研究者が増えています。
西本氏は、僧寺が三寺(大官大寺・飛鳥寺・川原寺)、尼寺三寺(小墾田寺・豊浦寺・坂田寺)とみなしたうえで、小墾田寺については奥山廃寺がそれであって、「大后寺」と呼ばれていたとする近年の研究に注意します。つまり、小治田寺と豊浦寺は別とするのです。
小墾田の地については、百済の聖明王から送られた釈迦像や経論を、蘇我稻目が申し出て受け取り、小墾田の家に安置し、向原の家を改めて寺としたとされており、小墾田の家がやがて小墾田宮となり、推古天皇の没後に小墾田寺に改造されたと推定されています。
一方、豊浦寺は、蘇我氏の邸を推古天皇の宮に改め、推古が小墾田宮に移った後に、改めて豊浦寺としたものです。この時は大臣の馬子がやっています。つまり、いずれも蘇我氏の邸宅であったことに西本氏は注意します。
なお、西本氏は触れていませんが、坂田寺は、蘇我氏に仕えて仏教振興を支えた渡来系氏族の司馬達止の娘で日本最初の尼となった善信尼が住した尼寺です。これも蘇我系ですので、六寺だとすると、大官大寺と川原寺を除く四寺が蘇我氏および蘇我氏系ということになり、蘇我氏が仏教流布の面でいかに大きな役割を果たしたかがわかりますね。法隆寺も四天王寺も出てこない……。
馬子については、敏達13年に、善信尼などを出家させて保護した馬子が「仏殿を宅の東方に」造って弥勒の石像を安置し、「また石川宅に仏殿」を造ったとあります。この二つのは「宅」は同じものと見られていましたが、西本氏は、「また」とあるところに着目し、別と見ます。これは妥当ですね。
そして、『元興寺縁起』によると、慧信尼などは「桜井道場」に置かれたとありますので、宅の東方の仏殿がそれだとし、石川宅はのちの石川廃寺(旧称は浦坊廃寺)の場所にあったと見ます。橿原市の石川町の小字宮ノ下から浦坊にかけての地域ですね。
嶋の大臣として知られる馬子は、飛鳥河のほとりに邸宅を構え、池を造り、その中に小さな嶋を置いています。これが明日香村の島庄ですね。ここからは大型建物の跡が発掘されています。
その馬子の長子であった蝦夷は豊浦大臣と称されており、稻目や馬子の豊浦の邸宅を伝領していました。したがって、西本氏は、これが蘇我氏の本拠であったと見ます。蝦夷は畝傍にも邸宅を有しており、馬子同様に池を造らせた由。この付近からは豊浦寺の瓦と同笵の瓦が出土しいますが。
『日本書紀』によれば、蝦夷と入鹿は甘檮岡に邸宅を構え、蝦夷の家を「上宮門」、入鹿の家を「谷宮門」と呼んだとしています。ただ、これは彼らの専横ぶりを強調した記事の一部ですが、西本氏は、その地は豊浦集落の背後の丘陵あたりと見ます。
すると、やはり豊浦周辺ということになりますので、蘇我氏の本拠地は、一貫して桜井・豊浦地域にあり、それ以外に別宅を置いたのだと西本氏は論じます。このことは、甘樫神社が鎮座するのは、向原寺のすぐ傍であることからも明らかとするのです。
いずれにしても、『日本書紀』は史実をかなり正確に伝えている部分と、蝦夷・入鹿を悪者として強調している部分が混在していますので、そこら辺は慎重に見分けていかないといけないですね。