聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

聖徳太子前後頃の群臣の会議に天皇や大臣は参加したか:鈴木明子「推古朝の合議」

2022年01月08日 | 論文・研究書紹介
 「憲法十七条の典拠について、先日書いた発見(こちら)を補足する発見があり、おかげで「憲法十七条」全体の意図が見えてきました。逆に言うと、私自身を含め、これまでいかに表面の言葉に引きずられ、「憲法十七条」の背景や作成の意図を理解できずにきたか、というこということになります。

 その典拠と関わる重要な問題は群臣会議ですが、これに関する最新の論文が刊行されました。

鈴木明子「推古朝の合議-大夫合議制の変質と冠位十二階・憲法十七条」
(小路田泰直・斉藤恵美編『聖徳太子像の再構築』、敬文社、2021年)

 鈴木氏の論文については、これまで旧姓の宮地明子名のものも含め、論文を2篇紹介してきました(こちらと、こちら)。

 今回の論文は、昨年5月に奈良女子大学がライブ配信した「けいはんな公開シンポジウム 聖徳太子像の再構築」を書物として刊行した論文集に収録されたものです。奥付によれば、刊行は12月10日、しかも、実際は少し遅れたようなので、まさに出たてのほやほやです(鈴木さん、有難うございます)。

 鈴木氏は、大化前代に「大夫」たちが形成していた合議体に関する諸説の整理から始めます。有名なのは、合議を(A型)臣下が自分の見解を大王に個別に奏上する形であって、中国の「議」に相する、(B型)臣下が合議をおこない見解を一本化して奏上するもので、日本の論奏、中国の宰相会議にあたるタイプに分け、大化前代の倭国の合議はA型であって、そうした合議制が太政官合議へと変化するには重要なインパクトが必要だとする川尻秋生氏の説です。

 川尻氏は、舒明天皇即位前紀における天皇後継者をめぐる合議は大臣の私邸でおこなわれており、しかも天皇も参加していないとして合議の例から外します。しかし、鈴木氏は、川尻氏の研究を評価したうえで、①推古朝には大臣不参加の合議が他にも存在する、②私的な根回しの会としては大臣の発言がない、③政府の機能や施設は群臣の私邸に置かれる場合があった、などの理由にこれに反対し、推古朝の大夫合議制は冠位十二階と関連していると説きます。

 つまり、合議の場で大王が群臣ひとりに直接問う「歴問」の形は欽明朝以後は見られないとし、推古朝の特徴は大王ばかりか大臣が参加しないことだと述べます。かつては大臣は群臣の筆頭として発言していたのと違い、推古朝以後に冠位十二階を授ける側となった大臣は、合議を開催して議論させ、とりまとめたのであって、その合議では全員一致がめざされたとするのです。

 鈴木氏は、このため、大夫たちの合意が天皇によって認められると、合議の合意と天皇の意志がイコールになり、皇帝がすべてにおいて最終的な決済をする中国と違い、天皇の責任の所在が曖昧になると指摘します。

 そうした観点で「憲法十七条」を見ると、合議こそが「憲法十七条」の主要テーマであることがわかると述べます。『日本書紀』に掲載される「憲法十七条」は、文章そのものは改変を受けているが、内容は推古朝の状況を反映しているとし、上下和睦して議論を成立させるとする第一条も、大事なことについては独断を排して衆議によって決せよと説く第十七条も、合議における意見の一致をめざしていたとするのですね。

 そして、こうした衆議の背景には合議制と親和的な要素を含む仏教があるとし、また新羅の合議制度である「和白」では一人でも異論があればやめることになっていたことに注意します。ただ、鈴木氏は推古朝でのこうした変化を指摘するものの、「依然として氏族合議体の要素を色濃く残存させていたとみられる」と説きます。これは、冠位十二階も同様でしょう。

 近代には「憲法十七条」の「和」の精神なるものが強調されるようになり、「日本は和の国だ」「日本は古来から和を尊んできた」などと言われるようになりましたが、「憲法十七条」そのものは、国民一般の「和」などではなく、あくまでも群臣の合議、範囲を広げてもそれぞの官における官人たちの「和」を問題としているのだ、ということを覚えておく必要がありますね。
この記事についてブログを書く
« 聖徳太子は王統の正統を継ぐ... | トップ | 夢殿の救世観音菩薩像が持つ... »

論文・研究書紹介」カテゴリの最新記事