聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

文体に注意しないで誤って提唱された「憲法十七条」僧旻原作説:前田晴人「憲法十七条と孝徳朝新政」

2023年11月28日 | 論文・研究書紹介

  前回、三経義疏の漢文がいかに日本風であって誤りを含むかを説明した動画を紹介しました。こうした点に注意しないと、どんな失敗をするか、実例をあげておきます。古い論文ですが、

前田晴人『飛鳥時代の政治と王権』「第一章 憲法十七条と孝徳朝新政」
(清文堂出版、2005年)

です。

 「憲法十七条」について、律令制のもとでなければありえないとする偽作説はさすがに無理があるとなってきた頃、推古朝よりは後の時代の作だが、内容が素朴なので律令制よりは前のものだとする中間的な説がいくつか出ました。前田氏のこの論文は、その代表ですね。

 前田氏は、まず、津田左右吉の「憲法十七条」論を検討し、津田は大化以後、天武・持統朝頃までに誰かが作成したと考えられるとし、『法王帝説』の記述から見て、「憲法」という語が入らない形で「十七条法」と呼ばれたのではないかと結論づけているのであって、「正当にも憲法を書紀編者らの創作とはしていないことに注意すべきであると考える」(17頁)と述べています。

 これは、藤原不比等・長屋王・道慈などが『日本書紀』の最終編纂時に聖人としての<聖徳太子>像を作り上げたと断定し、津田もこの時期の編者の作としていたかのように述べていた大山誠一説(こちら)に対する批判ですね。

 前田氏は、『隋書』倭国伝には冠位十二階は見えているのに、「憲法十七条」は見えないとし、推古朝は女帝のもとで太子・大臣が執政する形ではあるものの統治権は女帝が握り、仏教興隆は馬子大臣が主体となって推進したとします。これはそうでしょうね。

 次に、「憲法十七条」の第三条・第十二条では君主絶対が説かれているが、実権を握っていた馬子はこれを認めないはずであるため、推古朝とは考えられないとします。しかし、馬子大臣が他の豪族より強大な地位を占めたのは、葛城の地の割譲以外は、推古が叔父である馬子の主張をすべて聞き入れ、豪族会議を経たうえでのことにせよ、その主張を絶対的な「詔」として布令していたためではないでしょうかね。

 前田氏は、官司制度がきちんと整備されておらず、個々の業務を担当する大夫層の邸宅で個別におこなわれていた時代に、「憲法十七条」が実効的な力を発揮できたとは考えられないと述べ、推古朝と律令制の間の時期の成立と論じていきます。

 そして、それは孝徳朝であり、「憲法十七条」を作成したのは、推古16年に隋に派遣され、25年の学習期間を経て、舒明4年(632)に帰国した僧旻であると推測します。つまり、仏教尊重の立場であって、豪族の子弟に『周易』など中国古典を教授していた僧旻がふさわしい、と論じるのです。

 そして、いろいろと論じるのですが、問題は、森博達氏が指摘したように、「憲法十七条」は和習が多いことです。それも、「不」と「非」とを取り違えるような初歩的なミスが目立ちます。

 つまり、「机の上に筆あり」を「机の上に筆おり」と書くような類の和習がたくさん見られるのです。僧旻は、中国で25年も学び、儒教の古典を講義できるようになっておりながら、「ある」と「おる」の違い程度も分からなかったことになります。

 大山氏の太子虚構説では、「憲法十七条」を含め、太子関連の記事を書いたのは、中国に長らく留学し、幅広い知識を身につけた僧の道慈だとされていました。

 和習が目立つため道慈ではありえないと指摘されると、大山氏とその支持派の人たちは、道慈は執筆せずプロデューサー的な役割を務めたのだ、と主張するようになりました。私は、「そのプロデューサーさんは、担当者たちに方向を指示して書かせただけであって、その人たちが書いた和習だらけの漢文をチェックして直すことはしなかったんですね」と皮肉ったことをおぼえています。

 前田氏のこの論文をおさめた本が刊行されたのは、2005年。森さんの『日本書紀の謎を解く』(中公新書)が刊行されて話題になったのは、1999年。森さんはそれ以前から「憲法十七条」の和習を論文で指摘していました。文章に注意しないで用語だけで論じるのは危険ということです。


三経義疏の類似や和習、読み取れる筆者の性格などに関するわかりやすい解説動画公開:石井公成「聖徳太子と日本語学」

2023年11月24日 | 論文・研究書紹介

 日本語学会会長の近藤泰弘さんは、最初期の文系パソコン・ユーザーの代表の一人です。その近藤さんの業績のうち、このブログと関係するのは、コンピュータによる自然言語処理の第一人者であった長尾真先生が創唱した N-gram活用法を日本語学・日本文学研究に適用して成果をあげ、私が三経義疏研究に使っているNGSMシステムの元となる技法を開発したことですね(こちらや、こちら)。

 その近藤さんに聖徳太子関連での講演を頼まれ、10月にリモートで「聖徳太子と日本語学」というわかりやすい講演をしました。内容は、これまで論文に書いたり、講演で話したり、このブログで紹介してきたことがほとんどであって、三経義疏の類似や和風漢文の特徴などについて、気楽な調子でわかりやすく解説しています。

 ただ、江戸の偽作の『大成経』では、聖徳太子が1万3000の漢字の訓を定め、『論語』の題名である「論語」の部分の左側に「呂無五」と記して韓音を示し、右側に「あげつらひかたることば」といった訓点をつけるといった形で漢文訓読を始めた、と説かれていることを報告するなど、これまで書いていないことも多少含まれています。

 その講演動画は、10月28日・29日の日本語学会大会の少し前から会員限定で公開されていましたが、大会が終了したため、一昨日から学会のサイトで一般にも公開されるようになりました(こちら)。

 私は、聖徳太子絵解きフォーラムの「特別口演」では張り扇を持参して、講談・浪曲・落語調を交えて話したことが示すように(こちら)、芸能好きのお調子者であることを見抜いていたのか、恩師の平川彰先生から「石井君、テレビには出ない方がいいぞ」と釘をさされていたため、これまで数多くあったテレビ出演はすべて断り、資料・情報の提供だけに留めてきました。

 カルチャーセンターでの講義の動画などについても、ネットでの一般公開は断ってきたのですが、中国やフランスでやった講演や発表は、知らないうちに動画が流れていました。また、一昨年に佛教大学での「法然における戒と悪」講演は、引き受けた後になって動画公開の予定を知らされ、公開は断ったのですが、先方にもいろいろ事情があってあれこれやりとりした結果、論文(こちら)だけでなく、動画の公開も認めましたので、『歎異抄』の害などについて語った動画が公開されています。

 今後は、講演・講義の内容や話し方によっては公開を認めるようにするかもしれません。ただ、四天王寺で「「聖徳太子はいなかった」説の誕生と終焉」と題しておこなった講演では、コロナ流行が一時期おさまった時期であって、250人もの聴衆が来てくれたため嬉しくなってしまい、冒頭で「『週間文春』の仏教スクープ班といった感じでやります」と宣言し、暴露話を並べた爆笑講演をやりましたので、この類の講演の動画公開は無理ですね。ただ、その講演の概要はresearchmapにPDFをあげてあり、この説の登場の背景と消えていった状況を知るには便利です(こちら)。

 それにしても、学界では「いなかった」説は10年以上前からまったく相手にされなくなり、批判することすら稀になったのに、ネットでは、いまだに「聖徳太子は実はいなかった」などと最近の大発見のように説明する記事が時々あがってますが、不勉強もはなはだしいですね。

 今回の講演は、日本語学会の研究者向けですので、訓読や和習といった面に重点を置いていますが、専門知識が無い人にも分かるように三経義疏の類似や和習、そこから読み取れる聖徳太子の性格などについて、わかりやすく語っていますので、太子関連の文献研究の入門篇、またNGSMシステムによる用語・語法分析の解説としては役立つと思います。

 なお、藤枝晃先生の『勝鬘経義疏』遣隋使将来説に続いて、「憲法十七条」の和習に関する森博達先生の発見や以後の共同研究に語ったのですが、前の部分に引っ張られ、「森先生は~」という言うべきところを、何度か「藤枝先生は~」と言ってます。申し訳ありません……。事務局に頼んで、コメントのところに訂正を示してもらってあります。聞けば、文脈で分かると思いますが。


クラスター分析で『日本書紀』区分論を見直し、巻でなく天皇ごとの検討を提唱:松田信彦「日本書紀「区分論」の新たな展開」

2023年11月22日 | 論文・研究書紹介

 森博達さんの区分論と加筆の指摘は、『日本書紀』研究に圧倒的な影響を与えました。私が三経義疏の変格漢文研究などを始めたのもその影響です。

 ただ、同じ巻の中でも天皇によって記述の形が違う場合があるのが気になっており、基づいた史料の違いかと思っていたのですが、この点についてクラスター分析を用いて検討した研究が出ています。

松田信彦『『日本書紀』編纂の研究』「第四部第二章 日本書紀「区分論」の新たな展開-多変量解析(クラスター分析)を用いて-」
(おうふう、2017年)

です。

 松田氏は、「序 研究史と問題点の整理」において、これまでの区分論は、別伝注記の用語、分注の偏在、歌謡表記に用いられた仮名、様々な用語、多義性のある漢字の用法、漢籍の出典、助動詞的な用字、などに注目して区分分けしてきたと述べます。

 その結果、ほとんどの研究結果が、巻13(允恭・安康)と巻14(雄略)の間で区分の線を引くことで一致したとしたのです。さらに、森博達氏が歌謡の仮名の音韻によって提唱した中国人によるα群と日本人によるβ群に分け、榎本福寿氏が使役の助動詞や「之」の字の用法によって分けた Ⅰ群・Ⅱ群・Ⅲ群という区分では、Ⅰ・Ⅱ群がβ群、Ⅲ群がα群と一致したため、『日本書紀』を大きくα群とβ群の二つに区分することが定着したと述べます。

 ただ、松田氏は両氏の功績を認めたうえで、両氏の方法では、α群・β群をさらに細かく区分けすることができないとし、それを可能にする方法を上記の「日本書紀「区分論」の新たな展開-多変量解析(クラスター分析)を用いて摸索します。

 クラスター分析というのは、複数のデータ群を比較し、共通する要素の多さによってそれらをグループ分けして、それぞれのデータ同士の類似度を見やすい図の形で示すものです。

 松田氏は、各巻に十分な数の用例がある字を選んで検討します。というのは、従来の区分論では用例があるかないかを判断の基準としており、ごく僅かでも用例があればそれを判定基準としていましたが、松田氏はどの巻でもかなり使われている要素に着目したのです。

 そのうえで、その巻の全体の字数におけるこの2字の割合を考慮し、さらに巻による字数の多さ・少なさの違いも考慮して補正します。また、神代巻は除外します。というのは、「一書」の引用が多く、その巻の著者の文章の特徴を判断するのが難しいためです。

 松田氏は、まず「於」と「于」という置き字を選んで検討します。この2字は、どちらも英語でいえば in や at などの前置詞にあたるものですが、『日本書紀』の御陵の埋葬記事では、どの地に埋葬したかを示す場合、ある巻では「於~」を使い、別の巻では「于~」を使うなど、巻によって違いがある点に注目したのです。

 松田氏は、この2字によって上記のやり方で『日本書紀』の巻をクラスター分析した結果、『日本書紀』は大きく二つに分かれることが示されたとし、「注目すべきは、このグループ分けが従来の森氏のα群とβ群とほぼ一致する」ことだと述べます。

 ただ、「於」と「于」だけでは弱いため、文末に置かれて強調を示す助字の「焉」と「矣」を加えて処理します。これは、日本語には相当する語がなく、その用い方によってこれを書いた人の漢文の素養が分かるためです。

 このように、多くの要素をパラメータに設定して分析していくのが多変量解析の強みなのです。その4字を用いた分析の結果が以下の図(同書、436頁)です。

 ①の縦線の地点で巻が大きく二つに分かれていますが、Aのグループがα群、Bのグループがβ群です。面白いのは、より細かい違いに注目した②の縦線の段階では、α群がさらに二つに分かれていることです。

 ③の段階になると、さらに細かく区分けされることになります。すなわち、β群(Ⅱ群)とされている巻5(崇神)から巻13(允恭・安康)までのグループが、崇神・垂仁(仲哀も含めてよいか)のまとまり、神功・応神のまとまり、仁徳・履中・反正・允恭・安康のまとまりに分けられるのです。

 崇神・垂仁はともに「イリビコ」の名を持っていて共通しており、仁徳天皇とその子供たちの巻がひとつのグループになっていることが分かります。

 聖徳太子関連では、α群(Ⅲ群)とされる雄略から用明・崇峻までの巻も、雄略紀、敏達紀、用明・崇峻紀の3巻がウに区分され、それに挟まれる各巻がアに分類されており、特に継体紀、安閑・宣化紀が同じグループとなっており、その前後の巻と別グループになっているのが注目されると松田氏は説きます。

 この分類方法だと、基づいた史料による語法の違いとか、森さんがおこなった後からの加筆部分とかは判定できませんが、おおよその傾向ということだけでも、こうしたことが分かってくるのは興味深いですね。

 森・榎本氏の分類が主流になる前は、様々な区分が行われており、多い場合は17に分けるといった説もありました。松田氏は、上記のようなクラスター分析を推し進めれば、森・榎本氏のような大きな区分と、細かく分ける区分とを包括して理解することが可能になるかもしれないと述べています。

 私が気になる聖徳太子関連では、巻20の敏達紀と巻21の用明・崇峻紀とは割と近い位置にあるものの、それに続く巻22の推古紀はかなり離れており、絶讃される厩戸皇子の記述を含む推古紀は、巻13の允恭・安康紀と極似し、ついで巻12の履中・反正紀と似ており、つまりは『日本書紀』が天皇の模範として絶讃する仁徳天皇の子供たちの巻と似ていることが気になります。

 それ以外で興味深いのは、推古紀に続く巻23の舒明紀が、その息子のうち、巻27の天智紀とはかなり離れているのに対し、巻28の天武紀上と極似しており、一方、巻29の天武紀下は、まったく別なグループに入っていることですね。その他にも、この図を見ているだけで研究のヒントになることがいろいろ思い浮かびます。

 松田氏は、縦線の引き方によって、区分論から編纂・成立論に変わりうることを期待すると述べ、論文をしめくくってます。

  なお、同書の「第二部第一章 日本書紀編纂についての一疑問」では、『日本書紀』の即位記事が、「太子即天皇位」になっている巻と「皇太子即天皇位」になっている巻で分かれるなど、表記の違いがあることに注意し、同じ巻でも天皇によって表記が異なっているのは、編纂・筆録が巻ごとではなく、天皇ごとにおこなわれていた可能性があることを示すと述べています。これは今後、検討すべき問題ですね。

 松田氏のこの書以後に、別の視点によって『日本書紀』の区分に取り組んで森説の区分を評価し、α群中国人説が正しい可能性を示唆したうえで『日本書紀』を4つの群に分類し、天武紀の上巻と下巻の執筆者が異なる可能性を示した葛西太一さんの研究については、以前、紹介した通りです(こちら)。

【追記】
クラスター分析を手軽に試すには、筆者と漢字文献情報処理研究会の仲間たちで開発したNGSMシステムで処理し、その結果を Excelに読み込んでアドイン・ソフトでクラスター分析させて図示するのが早い。NGSMの威力については、以前、簡単な形で解説してあり(こちら)、処理の具体的な手順やコツについても公表している(こちら)。


『日本書紀』同様に作為のある『隋書』、意外に史実を伝えた面もある『日本書紀』:石井正敏「『日本書紀』隋使裴世清の朝見記事について」

2023年11月18日 | 論文・研究書紹介

 私が長らくやめていた聖徳太子研究に復帰し、大山説批判に乗り出してまだ数年の頃、2011年に藝林会の第5回学術研究大会としておこなわれたシンポジウム「聖徳太子をめぐる諸問題」に参加しました。

 このシンポジウムでは、所功氏の司会のもとで、武田佐知子、石井正敏、北康宏の諸氏と私が発表して相互討議をおこない、翌年、他の研究者が書いた聖徳太子関連論文とともに『藝林』第61巻2号に掲載されました(諸氏の論文の一覧は、こちら。私の論文は、こちら)。

 その石井正敏氏は、温和な様子で文献を着実に検討しておられましたが、残念なことに2015年に亡くなってしまっため、知友が編纂して著作集を出しており、その中にこの時の発表に基づく論文が収録されています。

石井正敏『石井正敏著作集第一巻 古代の日本列島と東アジア』「『日本書紀』隋使裴世清の朝見記事について」
(勉誠出版、2017年)

です。

 『日本書紀』は編纂時の改変・潤色の多さが良く知られているのに対し、『隋書』は比較的信頼できるとされる傾向がありますが、石井氏は、『隋書』は『日本書紀』同様、「王朝の手になる、きわめて政治性の高い編纂物であることにあらためて注意すべきであろう」と述べます。

 そして、裴世清の朝見記事を例として『隋書』と『日本書紀』の記述の違いを検討していくのですが、その際、着目するのが小墾田宮でおこなわれたとされる儀式と、隋唐の儀礼の規定です。

 『隋書』倭国伝では、倭国では王の朝会の際、儀仗をととのえ、その国の楽を奏すとあるのは、裴世清が受けた迎賓儀礼が中国式であったことを伝えるものとします。その儀礼は隋の儀礼に基づいていたはずですが、隋では『隋朝儀礼』『江都集礼』などが編纂されたものの内容は不明であるため、石井氏は、それを受け継いだ『大唐開元礼』を見ていきます。

 そのうち、参考になるのは、唐の皇帝が外国使節を謁見する「皇帝受蕃使表及幣」儀と、皇帝の使いが蕃国におもむいて国王の前で皇帝の詔を宣する儀式である「皇帝遣使詣蕃宣労」儀です。氏の説明をまとめると、以下のようになります。

 前者では、蕃国の使者が国書と朝貢品を携えて待機し、皇帝が出御すると、中書侍郎が国書・上表を載せる案(台)を持った持案者を従えて西階段下で待機、通事舎人が国書と朝貢品を携えた蕃使を率いて所定の位置に立つと、中書侍郎が持案者を連れて使者の前に至り、書を受け取って案の上に置いて西階段下まで戻り、書を持って西階を登り、皇帝に奏上する。

 後者では、詔書を載せた案を持つ者が使副の前に進み、使副が詔書を使者(大使)に渡し、使者が「詔あり」と称すると蕃主は再拝し、使者が詔書を宣読すると、蕃主はまた再拝し、蕃主が使者の前に進み、北面して詔書を受け取る。

 前者のうち、中書侍郎が国書を皇帝に奏上する点について、読み上げるとする解釈もあるが、動作が示されていないため、これは献呈するだけであって、国書は別の場で専門家たちが読んで検討し、その後で皇帝の閲読に供されたと石井氏は推測します。

 倭国伝では、煬帝が倭国の国書を見て不快となり、以後はこうした無礼なものはとりつぐなと命じたことは有名ですが、国書を皇帝に奉呈してその場で読み上げたなら、煬帝は即座に儀式の中止を命じていたはずとするのです。

 後者については、『隋書』南蛮伝・赤土国条では、隋使は国王などが皆な坐っている状態で慰労詔書を読み上げています。倭国と隋の間でも、こうした規定に基づいて儀礼がなされたと石井氏は説きます。

 裴世清の場合は、「皇帝遣使詣蕃宣労」儀に基づいて朝見がおこなわれたはずですが、『日本書紀』では「自ら書を持ち、両度再拝し、使旨を言上して立つ」とあり、これまでは「国書を読み上げた」と理解されてきましたが、石井氏は、これは使いの趣きを口頭で述べたにとどまり、国書を読み上げてはいないと見ます。

 『隋書』倭国伝でも、「使者曰く、聞く、海東の菩薩天子、重ねて仏法を興すおと……」と述べたとし、「其の国書に曰く、日の出づる処の天子……」とし、「帝、之を覧て悦ばず」とありますので、帝が倭の国書を見たのは謁見の後と思われるとします。

 一方、『日本書紀』の敏達天皇元年には、天皇が高麗の表疏を大臣に授け、史たちを集めて読解させたという記事があり、皇極天皇四年の記事では、天皇が大極殿に出御し、「倉山田麻呂臣、進みて三韓の表文を読唱」したとあります。つまり、国書そのものは外国の使者が読み上げるのではないのです。これは、倭国が蕃国とみなした国からの書に関する記述、それも伝承的なものですが、参考になると石井氏は説きます。

 そして、裴世清が言上したのは、唐の皇帝陛下の素晴らしい徳が四海にまで行き渡っており、倭王がその化を慕ってきたので、使いを派遣し、宣諭する」といった内容ではなかったか、と推測します。

 『日本書紀』では倭王が再拝するのではなく、裴世清が二度再拝したとしており、中国の儀礼からはあり得ないとされることが多いのですが、石井氏は、『新唐書』巻105の李義琰・義琛伝では、高句麗に派遣された義琰は高句麗王を拝することを拒んで王を屈服させたのに対し、弟の義琛が使いした際は、匍匐して高句麗王を拝したと記されていることに注目します。

 この記述について、榎本淳一氏は、外交使節の第一の目的は皇帝の命令を伝達することであり、そのためには対応は外交使節にまかされた部分が大きいのであって、『日本書紀』の裴世清の朝見記事では、隋の国書では倭国が「朝貢してきた」といった不都合の記述をそのまま載せていることから見て、国書の「倭王」を「倭皇」に改竄する程度であって、「原史料の記載が比較的残されている」と見ており、石井氏もこれに賛成します。

 そして石井氏は、『旧唐書』倭国伝などが、舒明4年に倭に派遣された唐使の高表仁について、「綏遠の才なく、王子と礼を争ひ、朝命を宣べずして還る」と批判しているのは、倭国側が裴世清の時と同じ儀礼を求めたのに、高表仁が「綏遠の才なく」、つまり臨機応変に振る舞って蕃国をうまくなだめることができず、相手の要求に従わなかった結果、肝心の使命を達成できなかったことを批判したものと見ます。

 そこで、石井氏は、『日本書紀』の記述と裴世清が隋に帰国しておこなった報告が異なっており、『隋書』では倭王との対話を詳しく記しておりながら国書伝達のことが記されていないなどの違いがあるのは、『日本書紀』が記す朝見と、裴世清が述べる会見が別の機会でおこなわれた可能性を示唆します。そして、使者の報告は、主観や作為が含まれている場合もあることに注意すべきだとする榎本氏の主張を紹介しています。

 そして、その例として、『隋書』では、倭国の使者が「聞海西菩薩天子……沙門数十人来学仏法」と言上したとあるが、この後の遣隋使・遣唐使に随行した留学生・留学僧の例から見ても、「数十人」というのは明らかに誇張だとし、仏教を興隆していた隋の皇帝の威徳を強調するための文飾があるとしています。

 最後の部分はなるほどと思わせますね。『日本書紀』の記述だけ疑い、中国の史書の記述はそのまま史実として受け取ることはできないことが良く分かります。『隋書』倭国伝が冠位十二階について記す際、「徳仁礼信義智」となっている順序を、『隋書』では無知な蛮夷の誤りと見たのか、「徳」以下を「仁義礼智信」という普通の五常の順序に基づいて並べて記しているのがその良い例です。「仁礼信義智」という順序は六朝の五行思想の本に見えるものであって、倭国はそれを採用したのですが。


皇室史学者が三波春夫の偽『五憲法』解説本を擁護:倉山満『嘘だらけの日本古代史』

2023年11月14日 | 偽作の『五憲法』と『先代旧事本紀大成経』関連

 「聖徳太子はいなかった」説が勢いをなくすと、「それ見たことか」と調子に乗り、太子にかこつけて国家主義や戦前の旧道徳の押しつけを始める連中が出てくるぞ、その際は偽作の『五憲法』が使われる可能性があるぞと予言しておきましたが、その通りになったため、前回の記事でお知らせしたように、「偽『五憲法』と『先代旧事本紀大成経』関連」というコーナーを新設した次第です。 

 その第一弾が、

倉山満『嘘だらけの日本古代史』「第四章第四節 世紀の大珍説「聖徳太子はいなかった」」
(扶桑社新書477、扶桑社、2023年)

です。少し前なら、「聖徳太子に関する珍説奇説」コーナーか、「国家主義的な日本礼賛者による強引な聖徳太子論」コーナーに入ったであろう内容です。

 扶桑社って、「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書を出しているところですね。文科省の歴史の指導要領が「厩戸王」という名を中心にしようとして国会でも議論された際、文科省案に反対する「新しい歴史教科書をつくる会」の理事が、「厩戸王」の名は『古事記』にも『日本書紀』にも見えず、戦後になって小倉豊文が想定した名であることを知らずに国会議員にレクチャーし、しかもそれを隠蔽しようとしたことは、前に記事で書いておきました(こちら)。伝統を守れと叫び、聖徳太子を持ち上げる人には、そうしたタイプが多いですね。

 倉山満氏は、この本の著者紹介によれば、憲制史学者で救国シンクタンク理事長兼所長。中央大学で学び、大学院在学中から国士舘大学日本政教研究所の非常勤研究員となり、2015年まで同大学で日本国憲法を教えた、とありました。「あとがき」では、「皇室史学者 倉山満」と記しています。

 奥付は11月1日刊となってましたので、出たばかりです。『五憲法』や『大成経』であれこれ検索していたらヒットしたため、購入しました。

 この「第四章第四節 世紀の大珍説「聖徳太子はいなかった」」では、導入部分で三波春夫の『聖徳太子憲法は生きている』(小学館、1998年)を紹介し、「たいへん固い内容の本です」と述べます。真面目なだけに困った作であるこの本については、このブログで以前、紹介してあります(こちら)。

 倉山氏は、偽書と判定された『聖徳太子五憲法』について、「偽物だと言ってもそのすべてが嘘とは限らず、本当の部分だけを抽出して事実を再現する手法なので、極めて高度な技術が求められます」と説いています。

 これは、その通りの場合もありますが、偽作ではあるが古い貴重な資料に基づいているはずだと論じる場合、よくあるのは、明らかな偽作を無理に弁護しようとする場合です。こうした傾向についても、前に書きました(こちら)。

 倉山氏は、三波が『聖徳太子五憲法』によって、十七条憲法はもとは八十五条あったと主張していることについて「納得がいくことが多々あります」と述べます。

 倉山氏は、十七条憲法では天皇より先に坊さんが来ているのは不自然とし、八十五条を解体して一つにまとめた際、こうなったのは仏教界の意向が反映したためとする仮説は成り立つ、として三波説を評価します。それというのも、倉山氏は神道重視であるためです。

 氏は、「仏教を信仰する聖徳太子は蘇我馬子と組んで神道を固守する物部氏を滅ぼした」というイメージだけで語るより、その後も神道家や儒学者から崇拝された日本の歴史を考えると、三波説の方が説得力がある、と説いています。

 これで倉山氏の歴史や思想史に関する学力が知れました。氏の専門は古代ではありませんが、日本の憲制史を研究し、聖徳太子を絶讃しているのですから、憲法の初めとされる「憲法十七条」については、古代史の専門家に近いほど研究していて論文が書けるくらいでないとおかしいはずです。

 しかも、倉山氏は、本書では、歴史研究者は自分の専門のところしか知らないが、自分は幅広く研究しており、広い時代にわたって本を書いていると自負しています。

 広いと言っても、実際にはこの程度でしかない、ということですね。あるいは、『五憲法』は明らかな偽作であって、三波の本は史実や当時の研究成果を踏まえていないと分かっていながら、知らぬ顔で評価しているのか。前者なら学力不足、後者なら詐欺です。 

 『五憲法』は、宋代の儒学や中世の神道論に基づいて書かれていますので、古い時代の成立とすることはできませんし、神道家が太子を崇拝したとありますが、それは『五憲法』が登場する前からのことであって、彼らは『五憲法』など読んでおらず、引用もしてません。

 ただ、中世の神道家は、「憲法十七条」が「神」にひと言も触れていないので困り、太子は実は神道を重視していたとする伝説を作りあげたのです。その伝統を引き継いで江戸時代に、古代としては不自然な漢文や、禅宗の語録などに良く見える中国近世の俗語などを用いて『五憲法』が作成されるのであって、『五憲法』があったから太子が神道家たちに尊崇されていたわけではありません。

 要するに、真面目で道徳志向であるものの、歴史や思想について学術的研究ができない歌手の三波春夫が、聖徳太子が儒教・仏教・神道の尊重を説いて作ったとされる『五憲法』を真作と見てその意義を強調したため、天皇重視・神道尊重でいきたい倉山氏がとびついた、ということです。

 その程度の学力ですので、これに続けて大山説を批判した部分も、「聖徳太子」というのは後代の名だといっても当人が存在しなかったことにならないとか、「国司」という言葉があるからといって後代の作とは言えないといった程度であって、これは大山説ではなく、津田左右吉説に対して何十年も前から指摘されていることばかりであり、大山氏の新説の柱となる部分について具体的に批判することはしていません。

 聖徳太子が大偉人だったことは、『教科書では絶対に教えない偉人たちの日本史』(ビジネス社、2021年)に書いてあるとあったので眺めてみましたが、上の著書と良い勝負の粗雑な記述であり、とりあげる価値はありません。

 こうした人だからこそ、「日本の伝統は」などと言って憲法や皇室について自信満々で語れるんですね。歴史は実際には分からないことが多いのですが。

【追記:2023年11月15日】
倉山氏が大山説を批判した部分は、津田説について何十年も前から言われてきた批判でしかない、という説明を付け加えました。他にも、わかりやすくなるよう補足したところが少しありますが、趣旨は変えてません。


「偽の『五憲法』と『先代旧事本紀大成経』関連」コーナーを新設しました

2023年11月11日 | このブログに関するお知らせ

 タイトルにあるように、「偽の『五憲法』と『先代旧事本紀大成経』関連」というコーナーを新設しました。

 前に書いたように、このブログの当初の狙いであった「聖徳太子はいなかった説」を撃破するという目的は果たしました。しかし、そうなると、「ほら見ろ!」ということで、また戦前のように、聖徳太子を利用して国家主義をあおろうとしたり、旧道徳を押しつけようとしたりする人々が元気づき、盛んに活動し始める可能性があります。

 ただ、「憲法十七条」は「神」にも「孝」にも触れていませんので、三波春夫のように(こちら)、それらをも説いてくれている江戸時代の偽作、『聖徳太子五憲法』に飛びつき、利用しようとすることが懸念されるにとどまらず、実際、そうした例が出始めました。

 私が長らく尊重して来た小倉豊文は、真の聖徳太子のあり方を明らかにしようと努めていたため、伝説をそのまま信じて太子を過度に神格化しようとうする人々、とりわけ、太子作と称する偽作の『五憲法』を持ち上げる人々を強く批判していました(こちら)。

 ですから、このコーナーでは、『五憲法』と、それを含む江戸時代の偽史であって聖徳太子の作(編纂)と称する『先代旧事本紀大成経』について、批判的に検討してゆくことにします。

 『大成経』は、聖徳太子信仰の材料としても、また江戸から明治初期の思想史を考えるうえでもきわめて重要なものですので、これをきっかけとして多くの研究者が『五憲法』と『大成経』に関心を持ち、研究が進むことを期待しています。

 なお、これまで『五憲法』については何度も記事で触れていますが、それが中心となっている記事を、この新コーナーに移しました。内容は変えておらず、訂正する場合は、【追記】などの形で行います。


スメラミコトは天皇の訓であって須弥(スメール)山に基づくとする学問的な主張:森田悌「天皇号と須弥山」

2023年11月10日 | 論文・研究書紹介

 このブログは、「聖徳太子研究の最前線」という名ですので、この10年以内、できればこの数年内の論文や研究書を紹介するようにしてきましたが、それらについてコメントしていると、かなり前の研究が問題になることもあります。その一例が、

森田悌『天皇号と須弥山』「天皇号と須弥山」
(高科書店、1999年)

ですね。森田氏のこの説については、これまで何度か言及したことがあるものの、20数年前の論文であるため、詳しく紹介してませんでしたが、前々回の記事で須弥山と天皇の関係に触れましたし、天皇号の問題は以後も未確定のままですので、ここで紹介しておきます。

  森田氏は、天皇以前の倭王の称号としては「大王」とされることが多いが、大王は皇族中の有力な人に対しても用いられているため、「治天下」という語と結びつけられることによって倭王の立場を示すとします。そして、前後の文脈からそれが分かる場合は、「治天下」の語が省かれる場合もあるとします。

 次に「天王」号については、雄略紀5年7月条と23年4月条に見えるが、前者は『百済新撰』の引用であり、後者は本文中に出ている前後の呼称から見て、これも『百済新撰』の引用とみられるとする説を紹介します。

 ただ、天王であれば、訓はアメキミかアマツオホキミとなるはずだが、そうした用例は見られないうえ、開皇20年の遣隋使も日本の君主を「阿輩雞弥」と称しており、これは「アヘキミ」ないし「オホキミ」であって、アメキミではないことに注意します。『隋書』倭国伝に見える「小徳阿輩台」は推古紀の外交記事に見える「阿倍鳥」と推測されることも、その理由です。

 そして、さらに重要な指摘をします。それは、天皇は「テンワウ(テンノウ)」であって呉音であるのに対し、律令制で規定された「皇后」や「皇太子」では「皇」は漢音で「クワウ(コウ)」と訓まれており、これは導入時期の違いを示すというものです。

 日本には、南朝に朝貢していた百済から仏教を初めとする文化が導入されたのですが、百済は次第に北朝に朝貢するようなり、隋が天下を統一するとすぐ朝貢します。北朝系である隋は都を長安に移し、続く唐も北朝系であってこれを受け継ぎますので、中国でも周辺国でも次第に北方音が有力になっていくとされています。

 ただ、中国側の記録によれば、推古8年の段階では、日本の君主は「アメタリシヒコ」、中国語では「天児」「天子」だと説明されており、国内では「オホキミ」と称していたことが知られるため、この段階では天皇号は用いておらず、推古朝のその後の時期か舒明・皇極朝にかけて使われ始めたことになると推測します。

 ここで森田氏が着目するのが「スメラミコト」という語です。唐代になると、遣唐使は日本の君主は「主明楽美御徳(スメラミコト)」だと上申し、唐の皇帝の返書の宛て名もそうなっています。これは、怒られた「天子」の語や皇帝と重なる「皇」の字を用いると問題にされるため、日本語の発音を示して逃げたものですね。

 「スメラ」については、統治を意味る「総(す)ベル」の語に基づく「統ベラ」が元とする説もありましたが、森田氏は、「スメラ」の「メ」は甲類であるのに対し、「統ベラ」の「ベ」は乙類であって発音が異なるとします。

 また、「清(す)む」に基づく「清メラ」だとする説については、一般的な言葉である「清む」に基づくのであれば、「赤ら顔」などの形で「清めら顔」とするような用例があるはずなのに、そうした例は見られないと指摘します。

 そして、大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『古語辞典』(岩波書店)では、「スメラ」は「スメロ」の母音交替形であって、「梵語で、至高・妙高の意の蘇迷盧sumeruと音韻・意味が一致する。また、再考のヤマを意味する蒙古語sumelと同原であろう」とあることを紹介し、そうした須弥山を君主を象徴するものとし、それに尊貴な人物を意味する「ミコト」を付け、「スメラミコト」の語ができたと推測します。

 古代日本では、天香具山その他の神々しい山を信仰してきており、そうしたことも背景となって須弥山のことを君主を象徴するものと考えるようになったのであって、仏教用語を用いているのだ、というのが森田氏の推測です。私も道教由来とする津田説には反対であって、天皇号は仏教と関係が深いと考えています。

 実際、遣唐使が行き来するようになった8世紀末になっても、仏教の年分度者については漢音を学ぶよう「制」が命じていることは、仏教側では呉音での読経の伝統が根強かったことを示していると、森田氏は説きます。

 そこで森田氏は、「テンノウ」と呉音で発音される「天皇」の語、そしてその訓としての仏教由来の「スメラミコト」は仏教界との関わりの中で使用されるようになったとし、推古朝の後期になって外交面で使われるようになったものの、国内では確立しておらず、「大王」「治天下大王」などと併用されたと論じます。

 そして、これにより、「天皇」の語が見えるということで疑われていた推古遺文も、それが否定の理由にはならないと述べます。

 須弥山については、『日本書紀』斉明紀に見える、飛鳥寺の西、甘樫丘の東の川上、石上池の辺に須弥山を作ったという記事が有名ですが、その前の推古20年是歳条に、百済から渡ってきた斑白の工人が「須弥山の形、及び呉橋」を作ったという記事が見えます。森田氏は、この推古・斉明の時期以後、六国史に須弥山の記事はなく、仏教振興の時期であるこの時期にだけ見えるのは、スメラミコトの称号が仏教と関連していることを示す、と結論づけています。

 以上です。森田氏は触れていませんが、氏の推測は、法隆寺の薬師如来像銘に見える「大王天皇」などという妙な呼び方を説明する根拠となりますね。この呼び方については、竹内理三氏が律令制以前の過渡期のものと説いたことで有名ですが、私も賛成です。

 薬師如来像もその銘も推古朝以後の作であることは確実ですが、基づく資料があり、それを都合良く変えて使っている可能性はあります。最近は、薬師如来像銘は後代の作だが7世紀後半までは下らず、舒明天皇の宣命などを利用したとする北康宏氏の説(こちら)や、像は7世紀中頃の作とする美術史の三田覚之氏の説(こちら)も出されてますし。


『上宮記』は推古朝の天皇記・国記を舒明朝時に上宮王家系に改作した史書:関根淳「上宮記考」

2023年11月06日 | 論文・研究書紹介

 前の記事で『上宮記』の成立を大化の改新が行われた7世紀中頃とする半沢英一氏の主張に触れた際、最近の研究はそう見ていないと書きましたので、その例をあげておきます。

関根淳『日本古代史書研究』「第四章 上宮記考」
(八木書店出版部、2022年)

です。関根氏は、『六国史以前ー日本書紀への道のり』(吉川弘文館、2020年)を出しており、古代の史書研究の代表の一人です。

 この論文では、従来の研究としては、生田敦司氏の「『上宮記』の史料的性格」(生田『記紀氏族伝承の基礎的研究』、和泉書院、2020年。初出は2000年)を評価し、その見解を以下のようにまとめます。

 ①『上宮記』は上宮王家に伝わる「帝紀及本辞」である。
 ②神代史や厩戸皇子の事績が記されていた。
 ③上中下の三巻であった。
 ④七世紀後半の成立である。
 ⑤古事記との関連性が認められる。

 なお、関根氏は、大山誠一「『上宮記』の成立」(大山誠一編『聖徳太子の真実』平凡社、2014年)もあるが「その考証には飛躍が多い」と切り捨てており、相手にしていません。

 そして、諸文献に引用される『上宮記』の佚文について検討していきます。『聖徳太子平氏伝雑勘文』の「法大王~」で始まる引文については、聖徳太子を中心とした系譜ではなく、太子を起点とした子女に関する系譜であることに注意します。この系譜が権威付けようとしているのは、太子自身ではなく、「法大王」と尊称された厩戸皇子の子である「尻大王(山背大兄)」「多米王」「長谷部王」「久米王」などとその子女たちだとするのです。

 この系譜では、「誰々が誰々をめとり、児の〇〇を生み、妹は~弟は~」となっているのに対して、『日本書紀』の資料は「誰々が誰々をめとり、◎男と◎女を生む。其一曰~、其二曰~」となって序列を示そうとしており、『上宮記』の方が素朴で古い印象を受けるとします。

 これに似ているのは稲荷山古墳出土の剣銘だと述べ、系譜に見える「巷宜汙麻古(蘇我馬子)」という表記は「元興寺塔露盤銘」に見える古い形であるため、『上宮記』の成立は通説通りに七世紀前半と見て良いとします。

 そして、法空が書写した『聖徳太子平氏伝雑勘文』が『上宮記』を三巻とし、「太子御作也」と述べているのは、太子作として問題になる記述がなかったこと、また太子と子女の系譜を下巻から引いていることから見て、『上宮記』の収録内容の下限は推古朝であったと推測できるとします。

 天文11年(1274)頃に作成された『天寿国曼荼羅繍帳縁起勘点文』では、『聖徳太子平氏伝雑勘文』が『上宮記』として引く文と同じ文章が見えているものの、『天寿国曼荼羅繍帳縁起勘点文』ではそれを「或書」の引用としているため、『上宮記』そのものではなく、『上宮記』を祖本として派生した別書からの引用とする飯田瑞穂氏の説に賛成します。

 関根氏は、『上宮記』は『古事記』とともに『日本書紀』を講義する際の重要な参考文献とされたことに注意し、『上宮記』の引用には『日本書紀』巻一の神々の記述に見える「浮漂」の語や「国常立尊」などに関する記述があることに注目します。

 関根氏はそれ以上は述べていませんが、このことは、天照大神に基づく建国神話が創作される前の素朴な建国神話が、『上宮記』の時代に既に存在したことを示すものであり、『隋書』倭国伝で倭の使いが伝えた(しかも、きちんと伝わらなかった)神話風な内容が、実際に当時の倭国に存在した可能性を示すものですね。

 氏はさらに、『太子伝玉林抄』では、『日本書紀』が太子と馬子の編纂とする「天皇国記」について、「口伝」として、「上宮紀上中下三巻御草也、注ハ他ノ作也云々」と述べ、「又上宮聖徳法王帝記一巻、在之」と記していることを手がかりとして、推古朝に編纂された「天皇記国記」については、以下のように見解をまとめます。

 a 蘇我氏による「帝紀」で、<欽明天皇系+蘇我氏>という王族の確立を目的とした。
 b 「天皇記」という書名は日本書紀の編纂段階でつけられた。
 c 神代から推古朝までを記述している。
 d 「古字」「古語」を用いて記述されている。
 e 全三巻で年紀はない。

 そして、これはそのまま『上宮記』の性格に当てはまるとします。しかも、『上宮記』は聖徳太子の子女を権威付けようとしていたことから見て、関根氏は、馬子の娘を妃としていた田村皇子を天皇後継とした蘇我本宗家に対抗し、上宮王家が自己の正統性を主張するために、推古朝時に蘇我氏系の帝紀として編纂された天皇記を、聖徳太子系の系譜に改めたものが『上宮記』であり、推古朝の天皇記国記とかなり類似するのはそのためと推測します。

 さて、どうでしょう。いずれにしても、欽明天皇の五十周忌の年にあたる推古20年に、蘇我氏の堅塩媛を欽明天皇陵に皇后のような扱いにして改葬し、盛大な儀式を行った際、蘇我氏の氏姓の由来、つまりは大王への奉仕の由来を述べさせたことは、推古28年の太子と馬子による「天皇記・国記」などの編纂と関係していることは確かでしょう。

 関根氏は、『上宮記』は上記のような事情のため、「太子に依拠した正当性を誇示する書名」となったと推測していますが、「上宮王が編纂された」神代以来の天皇記を元とし、上宮王家を権威づける記述が付されたもの」という見方もできますね。

 これは、『上宮聖徳法王帝説』という書物の題名を考えるうえでも関わってくる問題です。東野治之校注『上宮聖徳法王帝説』(岩波文庫、2013年)では、本書の本来の書名は「~帝記」だったかとしています(13頁)。

【追記】題名に「欽明朝時」とありましたが、「舒明」の間違いですので訂正しました。


聖徳太子仏教倭王論の改悪:半沢英一『天皇制以前の聖徳太子』

2023年11月02日 | 論文・研究書紹介

 少し前に、半沢英一氏が2002年に『日本書紀研究』に掲載した聖徳太子倭王法王論を紹介し、強引な推定が多いと論評しました(こちら)。すると、半沢氏が、2011年に刊行した本ではかなり訂正した、ということで著書を送ってこられました。

半沢『天皇制以前の聖徳太子ー『隋書』と『記』『紀』の主権者矛盾を解くー』
(ビレッジプレス、2011年)

です。

 私はこうした場合、評価を改める必要はないと思われた時はブログで紹介することはしないようにしてきたのですが(困った本を送ってくる人も多いので……)、今回は、若い頃に羽仁五郎を読んで刺激を受けるなど、同世代の人間として共通する記述が多く、半沢氏があのような主張をする心情は理解できるため、特例として取り上げることにします。

 この本でも、基本となる主張は前の論文と変わらないのですが、前には真作としていた「天寿国繍帳」や『上宮記』を7世紀中頃の作とするなど改めており、それによって主張がいっそう無理なものになってしまいました。前より詳しくなった仏教関連の記述でも、当時としてはありえない解釈が目立ちます。今回の記事のタイトルを「改悪」とした所以です。

 とにかく半沢氏の主張で目立つのは、聖徳太子の意義を重視し、馬子の役割を無視することです。その原因の一つは、「憲法十七条」の第十条が「我必ずしも聖に非ず、彼必ずしも愚に非ず、ともに凡夫なるのみ」と述べている箇所が若い頃から好きで、座右の銘としてきた(77-78頁)と書いていることでしょう。

 現在は、「必ずしも」と言えば「雷が鳴っても、必ずしも雨が降るとは限らない」といった場合に用いられていますが、これは「必ず~」の否定です。漢文では「非必~」であれば、「必ず~」というわけではない、という意味になりますが、第十条では「必」が「非」の上に来ています。

 つまり、「必」が「非~」というあり方全体にかかっていますので、否定部分を強調した形であって、「絶対に~でない」という語法です。ですから、ここの意味は「自分は絶対に聖ではない、他の人は絶対に愚ではない」となり、そのように自覚せよと命じたことになります。

 他の部分と同様、誤った和風漢文で「必非~」と書いたことも考えられますが、第十四条では「賢聖」がいないと国が治まらないと述べていますので、そうした「賢聖」は聖でも愚でもない「凡夫」の官人たちとは別の存在ということになります。蘇我馬子あたりでしょう。

 また、「必ずしも」は今日では、「必ずしも雨が降るとは限らない」などいった用法で用いられており、こうした用法は平安時代からあります。「しも」は副助詞の「し」に強調の係助詞である「も」がついた形であって、「しも」と打ち消しの語が結び着くと「~とは限らない」という意味になることが多いのですが、否定の強調となることもあります。

 たとえば『角川古語大辞典』では、「きっと~というわけではない」の用法とは別の用法として、『古今集』の「いく世しもあらじ」その他を例にあげ、「幾世もは生きていない」と訳しています。「憲法十七条」の古注が「必非~」を「必ずしも……あらず」と訓んでいたからといって、「必ずしも聖であるとは限らない」という意味ではない可能性もあるのです。

 自分は愚かな凡夫だという自覚を尊ぶ真宗の僧侶(学者)や悪人重視の『歎異抄』の影響を受けた人たち(こちら)は、第十条を好み、「ともに凡夫なるのみ」という点を評価しがちです。しかし、『論語』陽貨篇では、すべての人は教育で改善できるとし、ただ「上智と下愚」は別であって「移らず」、つまり変化しないと述べており、これが太子の頃の儒教の常識でした。「憲法十七条」は儒教・仏教・法家などの思想に基づいて書かれています。

 第十条が聖でも愚でもない「凡夫」と呼んでいるのは、そうした普通の「凡人」である官人たちのことであって、生まれついての「上智」であり「聖」である聖徳太子は「憲法十七条」では「凡夫」ではないのです。厩戸皇子は『日本書紀』では「聖」であることが異様に強調されていますしね。この点については、30年前の「憲法十七条」論文で書いておきました(こちら)。

 半沢氏は、敏達天皇が亡くなっても前方後円墳が作られず、崇峻4年になって母の陵に合葬されたのは、祭祀に支えられた前方後円墳の時代が終わったことを示すのであって、この年こそが法興元年であり、仏教による社会変格が始まった年であるとして、この動きを法興革命と呼びます。

 この時期が社会の大きな変わり目であるとするのは妥当ですが、半沢氏は、その革命の中で聖徳太子が「法皇」として即位し、法興革命を推し進めたと主張します。しかし、この時期に最初に出来た寺は、蘇我馬子が建立した飛鳥寺、次は馬子が姪である推古の宮を改めて尼寺とした豊浦寺であって、太子の法隆寺(若草伽藍)はその後になって建立されます。半沢氏は考古学の成果によってこの順序を認めています。

 聖徳太子が若い身で法皇として即位し、倭王となって仏教による政治・外交を進めていったのであれば、なぜ上宮法皇の寺は三番目に立てられ、しかも、都から離れた斑鳩の地に、飛鳥寺の金堂と同じ大きさの金堂を建てるのでしょう。飛鳥寺の金堂は三つあるのに、若草伽藍の金堂は一つだけですので、規模は小さいことになります。

 この順序、つまり、馬子→推古→太子、が当時の権力の順序であったと考えるのが自然ではないでしょうか。実際、舒明天皇が立てた百済大寺は、飛鳥寺をはるかに上回る巨大さであって、九重塔は高さが100メートルほどもあったことが分かっています。

 そこまではいかなくても、飛鳥寺よりやや大きい寺を上宮法皇の寺として建てなかったのはなぜなのか。それとも、飛鳥寺は上宮法皇の寺だったのか。それに、馬子の墓とされる石舞台は壮大なものであって、蝦夷・入鹿の生前の双墓も巨大であった(こちら)のに、聖徳太子の墓とされる墳丘はさほど大きくないですね。

 半沢氏は前論文では、推古は祭祀王であり、「天皇」であったとしても、仏教では天(デーバ=神)は仏より下なのだから、「天皇」は仏(悉達太子)である「法王」「法皇」より格下なのだと説いていました。本書ではその理由について詳しく説明し、また、最古の経典である『スッタニパータ』は生まれによる区別を否定しているため、天皇の血統を重視する『日本書紀』の路線とは異なるとしています。

 しかし、パーリ語で書かれていて漢訳がない『スッタニパータ』が、日本を含めた東アジアに知られたのは明治以後のことであり、これが最古の経典であることが知られたのはさらに後になってのことです。中国の奉仏国家では仏教を皇帝の権威付けに利用していましたし、日本では天皇は前世に十善を行ったため天皇に生まれたとされており、人々の家柄・身分の違いを仏教の因果説・業論によって説明していました。

 そのうえ、半沢氏が真作と認める釈迦三尊像銘では、太子周辺の者たちは、何度生まれ代わっても、そのたびごとに「三主」である聖徳太子、母后、王后に「随奉」したい、つまり、おそばでお仕えしたいと願っていました。これは、家系による区別の固定です。

 経典の例をあげるなら、当時の東アジアで広く読まれていた経典をあげる必要があります。四天王が活躍する『金光明経』などでは、仏教を奉ずる国王を四天王が守護することが説かれています。国王は特別な存在とされているのです。

 また半沢氏は、「アメタリシヒコ」は、大乗経典では仏が「宇宙に遍在している」と説いていることに似ているとし、会津八一が東大寺の毘盧遮那仏について詠んだ歌、「おほらかに もろて の ゆび を ひらかせて おほき ほとけ は あまたらしたり」をあげ、「仏のように宇宙に充ちている存在」とも解釈できるとします。

 会津八一が好きなのは私も同様であって、大学時代には八一の弟子である加藤諄先生の書道史の講義に出て八一の思い出話を聞きました。また、仏教学部に社会人入学し、私の授業に2年間、最前列の次の席で無遅刻無欠席で出席した萩本欽一さんが退学された際は、八一が書いた「游於藝(芸に遊ぶ)」の書をプリントしたバッグに本を入れて贈ったりしましたので、気持はわかります。しかし、華厳教学が専門であって東大寺について論文を書いたことがある立場からすれば、半沢氏の主張は時代錯誤の間違いとしか言えません。

 君主については、絶対的な権力を誇った中国の皇帝でさえ、宇宙に遍満するなどと言われたことはありません。その徳が天下の四方にまで広がり、といった程度です。世界全体を統治するというなら、模範はむしろ転輪聖王でしょう。前の記事で触れたように、隋の文帝は各地に仏塔を建てさせたアショカ王を気取っていましたし。天皇が密教化された毘盧遮那仏、つまり宇宙に遍満する大日如来と一体視されるのは、密教儀礼が発達した平安時代以後のことです。

 なお、大化の改新によって仏教による法興革命を否定し、神祇重視に転じたというのが半沢氏の主張ですが、斉明6年に甘樫丘の東に「須彌山」を作って蝦夷たちを「饗」したという『日本書紀』の記事のことを、半沢氏は当時の奇妙な石造の建造物とならべて「神仙思想」によるとし、王権の威信のためとしています(183・185頁)。

 しかし、須彌山は仏教の宇宙観によれば世界の中心にそびえたつ山です。森田悌氏などは、「スメラミコト」の「スメラ」はこの「須彌(スメール)」に基づくと説いています。この説の是非はともかく、斉明天皇が須彌山を作って蝦夷たちに見せたのは、仏教によって天皇を権威づけしようとしたものです。このほかにも、半沢氏が仏教について自説を述べている部分の多くは誤りです。

 そのうえ、半沢氏が神道路線への復帰だとみなす大化改新時の諸詔は、『日本書紀』編纂の終わり頃の時期の作が多いことが知られています。『日本書紀』大化元年条によれば、孝徳天皇は僧尼を集め、蘇我氏が仏教を興隆してきたことを述べ、今後は天皇が造寺などを支援すると宣言したことになっています。この時期は実際には仏教重視であって、次々に寺塔が建立されています。

 半沢氏は、上宮法皇による仏教路線の法興革命から天孫降臨神話に基づく万世一系の天皇制へという点を強調するあまり、『日本書紀』の編纂時の神祇重視のイデオロギーを大化の頃にある程度読み込みこもうとしすぎているのではないでしょうか。『日本書紀』は天照大神以来の皇統を強調しますが、その天照大神の成立は遅く、大化などよりかなり後になってから皇祖としての神話が作成されたことは常識です。

 では、半沢氏が前の論文の説を改め、より説得力を増したと自負する「天寿国繍帳」および『上宮記』の後代作説について見てみましょう。前の論文では真作としたため、法皇に即位し倭王として振る舞ったはずの人物が「太子」と呼ばれていることの説明に苦労したわけですが、その矛盾から逃れるため、本書では「天寿国繍帳銘」と『上宮記』を大化の改新と同じ7世紀中頃の成立としています。

 半沢氏は、「天寿国繍帳銘」では推古について「治天下」の語が用いられておらず、上宮法皇について「大皇」という表記が使われていたらしいことから見て、推古天皇の単独統治という図式が確立する前の中間的な時期の作成と見て、7世紀中頃の作とします。

 そして、前論文では、太子について「共治天下」と述べていた『上宮記』を早い時期の成立と見て、上宮法皇である倭王と祭祀王である推古の共同統治と見たが、『上宮記』は「天寿国繍帳」と同様に7世紀中頃の作と考えられるため、現在では推古は祭祀だけであって政治には関わらなかったと考えていると述べます(108頁)。

 しかし、「天寿国繍帳銘」は、聖徳太子と橘大郎女に至る系譜が前半分を占めているうえ、末尾では「画ける者は東漢の末賢、高麗の加西溢、また漢の奴加己利。令者は椋部の秦久麻なり」とあって制作を担当した有名でない工人たちの名をあげており、貴重な字数を費やしています。『日本書紀』が描いているような厩戸皇子の超人さを賞賛する内容はまったく書かれていません。

 7世紀中頃になって、なぜこんな銘文を作る必要があるのでしょう? 聖徳太子は法皇として倭王だったのではなかったことを示すために、わざわざ「太子」と記した銘文を縫いつけて豪華な繍帳を作成したのでしょうか。

 こうした点は、『上宮記』の場合も同様です(『上宮記』については以後、半沢氏の解釈とは異なる方向で研究が進んでいますので、近いうちに紹介します)。

 平沢氏は、太子が倭王だったと主張するなら、『播磨国風土記』に「聖徳王御世」(こちら)とある部分に注意すべきでしたね。これは、早くから法隆寺領が置かれていた播磨ならではの記述と見られますが。

 また、「天寿国繍帳銘」では聖徳太子のことを「大皇」と呼んでいたという点ですが、当時の日本の漢字音では「大王」も「大皇」も同じですし、訓も「おおきみ」で同じです。律令が発布された後も、長屋王邸跡からは「長屋皇」と記した木簡が発見されており、敬意を強めた場合、「王」とすべきところを「皇」と書く例もあったことが知られています。

 『上宮法王帝説』でも、四天王寺を「四天皇寺」と書いてますね。古代の日本では、「王」と「皇」では発音が異なる中国と違い、「王」と「皇」の区別はゆるかったようです。

 半沢氏が、推古が天皇であったとしても、その天皇という語は、『日本書紀』および以後の常識となった天皇とは違う意味だと強調するのは妥当ですが、「天寿国繍帳銘」と『上宮記』を7世紀中頃の成立とすることによって、前論文の強引さがより増してしまいました。

 半沢氏は、『日本書紀』は上宮法皇が倭王であったことを隠蔽しようとしたと述べるのですが、そうであるなら、『日本書紀』は厩戸皇子についてなぜ「或名豊聡耳法大王。或云法主王」などと記し、痕跡を残したのでしょう。

 推古15年春2月条では、推古が神祇尊重を説いて神祇を拝するよう命じ、皇太子と大臣が百寮をひきいて神祇を祭拝したと記されています。この記事については、『日本書紀』編纂時の追加記述ではないかと早くから疑われてきました。

 その点は不確定ですが、いずれにしても、聖徳太子が法皇に即位し、倭王として仏教に基づく政治・外交をおこなっていたことを隠蔽するなら、「法大王」「法主王」といったまぎらわしい別名は出さず、皇太子となった厩戸皇子は推古天皇の命令に従ってひたすら神祇を重んじた、としてそうした記事をいくつも書けば良いのに、なぜそうなっておらず、皇太子の仏教事業に関する記事ばかり並んでいるのか。

 このように半沢氏の主張は認められないことばかりであって、九州王朝説に反対するようになって本格的に古代史研究に入ったとはいえ、古田流の強引な推定と陰謀史観と大げさな言い回しの影響が目立ちます。前の論文では、いくつか意義ある指摘をしていたのに本書では改悪されているうえ、仏教などの基本知識がないまま妙な主張をしている部分が多いため、あれこれ勉強している古代史マニアによる、思い込みが先行した粗雑な作と評するほかないものになっています。

 氏の書いたもののうち、賛成できたのは、「聖徳太子「法皇」倭王論補強-大山誠一氏『<聖徳太子>の誕生に対する疑問』-」(『古代史の海』第20号、2000年6月)の大山説批判の部分ですね。この論考は、これに続いて同号に掲載されている秦政明「「筈である」の論理的脆弱性-大山誠一氏の場合-」の厳しい批判とともに、この当時における大山説批判としてすぐれたものでした。

【2023年11月3日】
 『スッタニパータ』には漢訳がないことを付け加え、釈迦三尊像銘の「三主」に触れた段落を上にあげて、この『スッタニパータ』の説明の次に移しました。「天寿国繍帳銘」については、最後に列挙されている工人たちの名を記し、また後代の太子信仰を思わせるようなことは書かれていないことを補足しました。