そこで、津田左右吉が早くに同一人物と説いたのですが、戦後になってこの説を唱えたのが、門脇禎二『新版 飛鳥ーその古代史と風土ー』(日本放送出版協会、1977年)です。同書が1970年に出された際は、門脇氏は蘇我氏は河内の石川から出たとしており、その後、渡来人説に転じたのです。
しかし、『三国史記』では南方に逃れたとするだけで倭国に至ったとはされておらず、文周は熊津(光州)を都として王となっています。また、年代も60年ほど違っています。このため、賛成する研究者は稀であり、また渡来人説を取り上げる場合も、文献に関する議論がほとんどでした。
そうした状況が続く中で、蘇我氏と関係深い地から出土する土器などの面から蘇我氏渡来人説を唱え、しかも倭国との関係が強調される伽耶諸国などではなく、朝鮮半島西南端の全羅南道出身と推測した最近の研究成果が、
坂 靖『蘇我氏の古代学ー飛鳥の渡来人ー』
(新泉社、2018年)
です。坂氏は、奈良県立橿原考古学研究所に勤務して古墳や集落の遺跡などを調査してきたうえ、2004年には約1年間、韓国国立文化財研究所で研修をしており、韓国の発掘状況にも詳しい研究者です。本書刊行時の肩書きは、上記研究所の企画学芸部長となっています。
坂氏は、まず「渡来」と「帰化」の語について検討し、また古代朝鮮諸国の歴史と考古学の発掘状況を概説します。百済は、熊津からさらに南の泗沘(扶余)に遷都した後になってようやく勢いを取り戻し、新羅が伽耶地域の諸国を併合していったのに対して、百済も少しづつ南進して領地を拡大し、全羅南道地域を統合しました。
坂氏は、その百済王権とヤマト王権をつなぐ役割を果たしたのが、全羅南道の在地勢力であったとし、伽耶地域と同様に小国分立状態にあったこの地域を、韓国の学者たちにならって馬韓残存勢力と呼んでいます。
奈良盆地にやってきた渡来人の多くは、出土する土器の共通性から見て、この全羅南道地域からやって来たと坂氏は説きます。また、北部九州には、ヤマト王権と百済の間をつないだ倭人たちがおり、この人たちは交易集団であって明白な国家への帰属意識を持っていなかったし、朝鮮半島南部にもそうした人たちがいたと見ます。全羅南道には、日本特有の前方後円墳がいくつも発見されており、相互交流の形跡が見られることが知られています。
そのような人たちが存在したことは、香港から東南アジアにかけての水上生活者たちを見ても推測できますね。船の上で一生をすごすこの人たちは、季節や天候、その国の治安や経済の状態に応じて移動するのであって、どの国の住民かということは関係ないのです。特に古代については、現在の国家意識や国境を基準にして考えるわけにはいきません。
さて、坂氏は、ヤマト王権と百済王権の間にあって、両方の文化に通じつつも、在地では実力を発揮できなかった氏族たちが、5世紀にヤマト王権に招かれて飛鳥に定住したのであって、その中で、技術を持った渡来人たちを束ねて頭角を現したのが蘇我氏の祖先だったと推測します。
下の百済系土器の分布図(同書、118頁)が示すように、7世紀の飛鳥南部の官道沿い、つまり蘇我氏の本拠地に百済系の土器が出土しており、しかも漢江・錦江流域など百済の中央で発見されるタイプは少なく、全羅道で見いだされる系統がほとんどなのです。
たとえば檜隈地域は、渡来人の集落が点々と確認されていますが、この地域の中心は、東漢氏の氏寺が築かれる檜隈寺周辺です。東漢氏は、蘇我氏の配下の渡来系氏族のうち、もっとも蘇我氏に忠実であったことは有名ですね。
坂氏は、百済系の土器と墓の出土状況について詳細に論じており、それが肝心な点なのですが、ここでは略させてもらいます。坂氏は、かつてはヤマト政権と並ぶような勢力を持っていた葛城氏が、6世紀以後は蘇我氏配下となり、同じく蘇我氏配下の額田部氏とともに外交面で活躍しており、馬匹文化とも関係深いことに注意します。
そして、このようにして蘇我氏が飛鳥で力をつけ、大王を迎え入れ、飛鳥を開発して先進的な方策を推し進めていったのであって「飛鳥」派であり、これについては「反飛鳥」の傾向の王族と氏族の動きもあったとします。
坂氏は、蘇我氏の代々の邸宅と墓についても検討し、馬子の墓とみられる石舞台古墳が大王を上回るほどの力を示す巨大さであるのに対し、より開明的であった厩戸皇子の墓である可能性が高い叡福寺北古墳、およびそれと同時期・同設計の岩屋山古墳は、「小さくきれいに整備されたもの」であって、権力の象徴である古墳の意義が徐々に薄れていったことを示すとしています。
つまり、斑鳩に宮を築いた厩戸皇子を「反飛鳥」の一人と見るのですが、どうでしょうかね。厩戸皇子は父方・母方ともに蘇我氏の血を引き、また馬子の娘を娶っていますので、少なくとも、斑鳩に宮と寺を築いた頃は、むしろ蘇我氏の一員であって「飛鳥拡大派」であったように見えますが。
肝心の土器や墓の説明をこの記事では省略してしまっているので申し訳ないのですが、この本を読む限り、飛鳥を都とした倭国では技術を持った渡来氏族がいかに様々な面で活躍していたか、それも百済中枢でなく、半島南端の全羅南道地域出身の人々がどれほど多かったかが明らかになったものの、蘇我氏について言えるのは、その人たちと関係深く、彼らを統括してその力によってのしあがった、ということまでであるように思われました。
むろん、『扶桑略記』推古元年正月条に「(法興寺の)刹柱を立つる日、嶋大臣、幷びに百余人、皆な百済の服を着す」とあるのは、百済から技術援助をしてもらったためだけでなく、自らの氏族の出自の国であるためであった可能性もないではありませんが、確定するにはもう少し証拠が必要でしょう。ただ、本書は飛鳥の実態を知るうえで、きわめて有益な書物であることは間違いありません。
【付記】
土器から見た全羅南道地域と倭国の相互交流の状況、それが河内を中心として手工業を発展させて近畿の開発を支えたことについてPDFで読める最近の論文としては、中久保辰夫「百済・栄山江流域と倭の相互交流とその歴史的役割 (第2部 総論)」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第217 集、2019 年9 月、こちら)があります。