聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

蘇我氏は全羅南道からの渡来人であって渡来氏族を統括した?:坂 靖『蘇我氏の古代学』

2021年11月30日 | 論文・研究書紹介
 蘇我氏渡来人説は、早くからありました。高麗時代に編集された『三国史記』では、百済は高句麗軍によって475年に都の慰礼城(ソウル)を攻略され、蓋鹵王は敗死したが、子の文周は木刕満致らとともに南方に逃れたとしています。一方、『日本書紀』では応神天皇25年(414?)の条に、百済の高官として木満致が登場しており、蘇我氏の祖先とされる蘇我満智宿禰と名が似ています。

 そこで、津田左右吉が早くに同一人物と説いたのですが、戦後になってこの説を唱えたのが、門脇禎二『新版 飛鳥ーその古代史と風土ー』(日本放送出版協会、1977年)です。同書が1970年に出された際は、門脇氏は蘇我氏は河内の石川から出たとしており、その後、渡来人説に転じたのです。

 しかし、『三国史記』では南方に逃れたとするだけで倭国に至ったとはされておらず、文周は熊津(光州)を都として王となっています。また、年代も60年ほど違っています。このため、賛成する研究者は稀であり、また渡来人説を取り上げる場合も、文献に関する議論がほとんどでした。

 そうした状況が続く中で、蘇我氏と関係深い地から出土する土器などの面から蘇我氏渡来人説を唱え、しかも倭国との関係が強調される伽耶諸国などではなく、朝鮮半島西南端の全羅南道出身と推測した最近の研究成果が、

坂 靖『蘇我氏の古代学ー飛鳥の渡来人ー』
(新泉社、2018年)

です。坂氏は、奈良県立橿原考古学研究所に勤務して古墳や集落の遺跡などを調査してきたうえ、2004年には約1年間、韓国国立文化財研究所で研修をしており、韓国の発掘状況にも詳しい研究者です。本書刊行時の肩書きは、上記研究所の企画学芸部長となっています。

 坂氏は、まず「渡来」と「帰化」の語について検討し、また古代朝鮮諸国の歴史と考古学の発掘状況を概説します。百済は、熊津からさらに南の泗沘(扶余)に遷都した後になってようやく勢いを取り戻し、新羅が伽耶地域の諸国を併合していったのに対して、百済も少しづつ南進して領地を拡大し、全羅南道地域を統合しました。

 坂氏は、その百済王権とヤマト王権をつなぐ役割を果たしたのが、全羅南道の在地勢力であったとし、伽耶地域と同様に小国分立状態にあったこの地域を、韓国の学者たちにならって馬韓残存勢力と呼んでいます。

 奈良盆地にやってきた渡来人の多くは、出土する土器の共通性から見て、この全羅南道地域からやって来たと坂氏は説きます。また、北部九州には、ヤマト王権と百済の間をつないだ倭人たちがおり、この人たちは交易集団であって明白な国家への帰属意識を持っていなかったし、朝鮮半島南部にもそうした人たちがいたと見ます。全羅南道には、日本特有の前方後円墳がいくつも発見されており、相互交流の形跡が見られることが知られています。

 そのような人たちが存在したことは、香港から東南アジアにかけての水上生活者たちを見ても推測できますね。船の上で一生をすごすこの人たちは、季節や天候、その国の治安や経済の状態に応じて移動するのであって、どの国の住民かということは関係ないのです。特に古代については、現在の国家意識や国境を基準にして考えるわけにはいきません。

 さて、坂氏は、ヤマト王権と百済王権の間にあって、両方の文化に通じつつも、在地では実力を発揮できなかった氏族たちが、5世紀にヤマト王権に招かれて飛鳥に定住したのであって、その中で、技術を持った渡来人たちを束ねて頭角を現したのが蘇我氏の祖先だったと推測します。

 下の百済系土器の分布図(同書、118頁)が示すように、7世紀の飛鳥南部の官道沿い、つまり蘇我氏の本拠地に百済系の土器が出土しており、しかも漢江・錦江流域など百済の中央で発見されるタイプは少なく、全羅道で見いだされる系統がほとんどなのです。



 たとえば檜隈地域は、渡来人の集落が点々と確認されていますが、この地域の中心は、東漢氏の氏寺が築かれる檜隈寺周辺です。東漢氏は、蘇我氏の配下の渡来系氏族のうち、もっとも蘇我氏に忠実であったことは有名ですね。
 
 坂氏は、百済系の土器と墓の出土状況について詳細に論じており、それが肝心な点なのですが、ここでは略させてもらいます。坂氏は、かつてはヤマト政権と並ぶような勢力を持っていた葛城氏が、6世紀以後は蘇我氏配下となり、同じく蘇我氏配下の額田部氏とともに外交面で活躍しており、馬匹文化とも関係深いことに注意します。

 そして、このようにして蘇我氏が飛鳥で力をつけ、大王を迎え入れ、飛鳥を開発して先進的な方策を推し進めていったのであって「飛鳥」派であり、これについては「反飛鳥」の傾向の王族と氏族の動きもあったとします。

 坂氏は、蘇我氏の代々の邸宅と墓についても検討し、馬子の墓とみられる石舞台古墳が大王を上回るほどの力を示す巨大さであるのに対し、より開明的であった厩戸皇子の墓である可能性が高い叡福寺北古墳、およびそれと同時期・同設計の岩屋山古墳は、「小さくきれいに整備されたもの」であって、権力の象徴である古墳の意義が徐々に薄れていったことを示すとしています。

 つまり、斑鳩に宮を築いた厩戸皇子を「反飛鳥」の一人と見るのですが、どうでしょうかね。厩戸皇子は父方・母方ともに蘇我氏の血を引き、また馬子の娘を娶っていますので、少なくとも、斑鳩に宮と寺を築いた頃は、むしろ蘇我氏の一員であって「飛鳥拡大派」であったように見えますが。

 肝心の土器や墓の説明をこの記事では省略してしまっているので申し訳ないのですが、この本を読む限り、飛鳥を都とした倭国では技術を持った渡来氏族がいかに様々な面で活躍していたか、それも百済中枢でなく、半島南端の全羅南道地域出身の人々がどれほど多かったかが明らかになったものの、蘇我氏について言えるのは、その人たちと関係深く、彼らを統括してその力によってのしあがった、ということまでであるように思われました。

 むろん、『扶桑略記』推古元年正月条に「(法興寺の)刹柱を立つる日、嶋大臣、幷びに百余人、皆な百済の服を着す」とあるのは、百済から技術援助をしてもらったためだけでなく、自らの氏族の出自の国であるためであった可能性もないではありませんが、確定するにはもう少し証拠が必要でしょう。ただ、本書は飛鳥の実態を知るうえで、きわめて有益な書物であることは間違いありません。

【付記】
土器から見た全羅南道地域と倭国の相互交流の状況、それが河内を中心として手工業を発展させて近畿の開発を支えたことについてPDFで読める最近の論文としては、中久保辰夫「百済・栄山江流域と倭の相互交流とその歴史的役割 (第2部 総論)」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第217 集、2019 年9 月、こちら)があります。

『日本書紀』の記述は原資料の残存程度によっても左右される:細井浩志「天文異変と史書の生成」

2021年11月27日 | 論文・研究書紹介
 少し前に、天文観測記事やその他の語句の偏りに着目し、『日本書紀』の成立について論じた谷川清隆氏の論文を紹介しました(こちら)。

 その谷川論文の先行論文である谷川清隆・相馬充「七世紀の日本天文学」(『国立天文台報』11号、2008年)を批判した最近の論文が、

細井浩志「天文異変と史書の生成ー舎人親王の作品としてに『日本書紀』」
(山下久夫・斎藤英喜編『日本書紀1300年史を問う』、同朋社、2020年)

です。細井氏は、『古代の天文異変と史書』(吉川弘文館、2007年)や『日本史を学ぶための<古代の暦>入門』(吉川弘文館、2014年)などの著書があります。古代から平安時代あたりの歴史の研究者であって天文事象記録や陰陽道などの専門家です。

 さて、中国では陰陽五行説に基づき、最大の陽である太陽が最大の陰である月に冒される日食は、天子の政治に関わる深刻な天変と認識されており、早くからその観測と予測がなされていました。流星を含め、天体の観測は交代して担当しなければならないため、『大唐六典』によれば、唐では90人の天文観生がいた由。

 ところが日本では、757年の『養老律令』においても、天文博士と学生である天文生が10人置かれているにすぎず、実例を見ると定員通りに存在した可能性は低いと細井氏は説きます。したがって、6世紀末から7世紀前半の推古朝にあっては、天文の知識がある者(主に僧侶)が単発的に天変を発見し、観察して占った程度にすぎないだろうとします。

 その点、前にとりあげた谷川論文の前に書かれた谷川清隆・相馬充「七世紀の日本天文学」では、『日本書紀』のβ群である推古紀や天武紀では天文観測が行われたのに対し、皇極・孝徳・斉明・天智紀などのα群では天変を軽視していたとし、これらの記録の偏りを偶然と見る細井説を批判していました。

 細井氏は本稿ではそれに反論し、α群は推古朝より時代が新しく、β群の執筆者より唐の事情に通じていただろうから、天変を軽視していたとは考えられないとし、記録に精粗があるのは、記録が残存していたかどうかによると論じます。

 天変は機密事項であるため、発見すると内裏に密奏されるのみであるため、情報が広まりにくいのです。そのうえ、β群の天武朝では天文記事が多いのに、それより後のα群でもβ群でもない持統紀に天文記録が1例しかないのは不自然とします。

 そして、記録の精粗は資料の有無によるとし、本論文では、その一因は『日本書紀』の最終的な編纂の総裁であった舎人親王が、天武天皇の息子であって、天武紀の天文記事の原資料を持っていたためと推測します。当時は律令制度における官司の施設や文書の保存もまだ不備であって、天皇に関する貴重な資料は担当部署でなく、その皇子に受け継がれたと見るのです。

 天武天皇の皇子である舎人親王の母は、皇后であった持統天皇ではなく、新田部皇女ですので、天武時代の記録は受け継いでいたものの、持統時代の記録は持っていなかったというのが細井氏の推測です。また天武紀における天変記事は、ある時期にかたまっているため、密奏の集積記録などではなく、何らかの事情でまとめられた記録が原史料かもしれないとします。

 ただ、舎人親王は皇位継承候補ではありませんので、天武時代の資料のすべてを継承してはいなかったと見ます。このあたりは、ちょっと苦しいですね。そして、斉明紀の天文記事が無く、天智紀の記事が1例しかないのは、天智天皇時の記録がその皇子である大友皇子に継承されたものの、壬申の乱によって大友が敗死したためと考えられるとします。

 なお、私の方で補足しておくと、ベトナムなどは、外国からの侵略もたびたびあったうえ、王朝が変わると前の王朝の文献を燃やすこともあり、古い文献は僅かしか残っていません。同様に外国の侵略を繰り返し受けていた朝鮮もこれに近い面があり、新羅が対立していた百済と高句麗を打倒して統一を果たしたため、新羅の仏教文献はかなり残っているものの、新羅より早い時期から仏教が盛んであって新羅に仏教や寺院建設の技術などを伝えた高句麗と百済の仏教文献で残っているのは、日本に残存する百済文献1例のみです。

 細井氏は他にもいろいろ論じており、『日本書紀』が利用した記録の有無の他に、編者の意向にも注意します。『日本書紀』については、完成当時の権力者たちの意向が反映していることは良く知られていますが、細井氏は、『日本書紀』の天武紀では天武天皇を顕彰しているものの、その皇后である持統天皇については必ずしもそうしていない記述が見られるとして、その例をあげています。

 つまり、権力者たちが常に一枚岩であるわけではなく、藤原不比等・元正天皇のグループと舎人親王との間には微妙な距離感があり、それが天文記事や持統天皇の記述に反映していると見るのです。さて、どうでしょう。

 ただ、正倉院の写経記録のように、何年何月何日まで記された精密な記録が、一定期間続いている場合は、その中での変化、記述の偏りについて論じることができますが、『日本書紀』の場合は、α群内でも、またβ群内でも記述の精粗があり、後からの潤色もあるわけですので、「α群は天文観測をしなかったから、β群とは別の王朝の記録だ」などと簡単に言えないことは確かですね。

 なお、細井氏は、谷川・相馬論文は森説のα群β群を評価していたが、このブログで最近取り上げた谷川氏の「『日本書紀』成立に関する一試案」では、根幹に関わるα群β群の評価を変えているため、「今後の研究の進展をみて、本稿も再検討をしたい」と述べてしめくくっています。

倭国の国書の「日出処」は倭語を漢語に訳したものか?:廣瀬憲雄「「日出処天子」外交文書再考」

2021年11月24日 | 論文・研究書紹介
 「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書については、様々な議論がなされてきました。日が昇る倭国を上位とし、日が沈む隋を下位とみなしたうえで用いたという説も出されました。

 こうした状況を変えたのは、「日出処」「日没処」の語は東アジアで広く読まれた『大智度論』のうち、「日出づる処は此れ東方、日没する処は此れ西方」とある箇所に基づいており、方位を示しているだけで上下関係は意識されていないとする東野治之氏の『遣唐使と正倉院』「日出処・日没処・ワークワーク」(岩波書店、1992年)でした。

 この問題を最近になって改めてとりあげたのが、

廣瀬憲雄『古代日本と東部ユーラシアの国際関係』「第二部第三章 「日出処天子」外交文書再考-典故と翻訳の問題から-」
(勉誠出版、2018年)

です。外交史を専門とする廣瀬氏については、このブログでも「東天皇」国書に関する論文を紹介したことがあります(こちら)。

 廣瀬氏は、上記の東野氏の発見を「卓見」として評価したうえで、『大智度論』のその箇所を「日出処」国書の典拠とはみなせない理由を述べます。それは、『大智度論』のその箇所は、仏教が批判していたインドの六派哲学の一つである勝論(ヴァイシェーシカ学派)の主張を述べた箇所であるためです。

 『大智度論』は、『二万五千頌般若経』(鳩摩羅什の漢訳では『大品般若経』)に対して龍樹が作ったとされる注釈であって、『大品般若経』と同様に羅什訳とされていますが、梵文が残っている『二万五千頌般若経』と違い、注釈である「論」の部分の梵文は発見されておらず、インドの仏教文献では引用が見られないため、先行の注釈に基づきつつ鳩摩羅什が自らの考えを交えて編集・作成したとする説が有力です。

 「日出処」「日没処」の語は、『大智度論』では、元の経典ではなく、「論」の部分に見えています。永続的な実体を認めない仏教では、方位についても相対的なものと見て実体とは認めないのに対し、勝論は様々な実体を想定しており、方位も実体とみなしていたため、その立場で仏教の方位説を批判したのが、この箇所であることに廣瀬氏は注意します。むろん、この議論の後に仏教側の反論が示されています。

 問題の箇所は、「如経中説、日出処是東方、日没処是西方……」とあり、「経中説」というのは、『大智度論』が注釈している『大品般若経』のこととみなされがちですが、廣瀬氏は、『大品般若経』にはそうした箇所はなく、これは勝論の議論であるため、「経」は勝論側の経典であるはずとします。

 そこで、廣瀬氏は、宮元啓一氏の日本語訳の『勝論経』では、この東は西という概念が実体としての方位に基づくことが説かれていることを示し、そのような勝論側の議論に基づく表現を仏教外交で使うことは考えにくいと説きます。

 さらに、6世紀に波斯国が北魏あてに送った国書では、北魏のことを「日出処」と称してその「天子」に対して波斯匿国王が「敬拝」しますと述べており、梁の『職貢図』では、胡蜜檀国が梁の皇帝のことを「揚州天子、曰(日)出処大国聖主」と称していることに注意します。

 そして、波斯匿の国書については、中世ペルシャの書簡文言が反映されているという論文があるとし、胡蜜檀国の国書については、国王が「胡蜜王、名は時僕」という特異な自称形式を用いているとしたうえで、類例をあげてサンスクリット文書の形式であるとします。

 つまり、「日出処」は、いずれも中国周辺の国の国書を漢語に訳したものに見えるため、倭国の「日出処……日没処」の国書も、倭語から漢語に訳した結果生まれた可能性を想定しなければならないとします。そして、実際に、インドやチベット系の国から送られた致書形式の書状が、明らかに元の国の表現を訳したと思われる漢語表現が見られると説くのです。

 このため、倭国では当初から隋を上位とする関係を容認していたのであって、「日出処天子・日没処天子」という国書は、倭国の表現に引きずられていて上下関係を正しく表記していなかった可能性があり、あるいは倭国の上下関係の認識を正しく表示していたが、隋は臣属関係が正しく表記されていないとみなした可能性もあるとし、そのふたつの可能性を検討すべきだとします。

 前者の場合だと、倭王が隋使の裴世清を丁重にもてなし、「大国維新の化を聞かん」と述べたとする『隋書』の記述と良く合うことになり、翻訳で生まれた「日出処・日没処」の表現がまずかっただけということになります。

 廣瀬氏のこうした主張の問題点は、「日出処……日没処……」という文言が、倭国風な表現の文を漢語訳した結果生まれたとしたら、元になる倭文はどんな表現だったのか、類似した表現は『古事記』や『万葉集』などの古代の文献に見えるのか、という点ですね。また、訳したのは誰だったのか。

 私の最近の発見によれば、倭国王は、自分は「海西菩薩天子」の弟分である「海東菩薩天子」だという自負を持っていたのですから(こちら)、さらに新たな検討要素が加わったことになります。

 いずれにしても、あれこれ勝手に空想するのではなく、東野論文・廣瀬論文ように、典拠に注意しつつ文献を精査・精読することによって、研究は少しづつ進展していくのだ、ということを痛感させられますね。

神道の祖とされた聖徳太子:吉田兼倶の偽作『唯一神道名法要集』と江戸期の偽作『聖徳太子五憲法』

2021年11月21日 | 聖徳太子信仰の歴史
 四天王寺講演では、聖徳太子のイメージの変遷の激しさに触れましたが、意外なのは、「憲法十七条」は「神」という語すら出てこないため、江戸時代には国学者などから非難されたのに、一方では「神道の祖」とする動きが中世以来あったことでしょう。

 中世は本覚思想が進展して様々な場面で用いられた時代、そして、偽文書が山のように作られた時代でした。その中でも、本覚思想を応用して偽作の神道文献を作りまくり、吉田神道(宗源神道、唯一神道)を確立して後代に影響を与えたことで知られるのが、吉田兼倶(1435-1511)です。

 朝廷の祭祀に関わる卜部氏であった兼倶は、自邸が放火されたうえ、代々奉仕してきた京都の吉田神社が応仁の乱で焼かれたため衝撃を受け、新たな神道の構築をはかります。日野富子の支援を得て吉田山に新たに斎場所を設けて、ここで祀る太元神こそ全国の神々の「宗源」だと称し、文書や系図を盛んに偽作して神道界のトップに立つに至ったのです。

 先祖である卜部兼延の作と称して書いた『唯一神道名法要集』(1486年)では、推古天皇の時、上宮太子が「我が日本が種を生じ、中国は枝葉を現わし、天竺は花実を開いたため、天竺の仏教も中国の儒教も、我が国の「神道の分化」であって、花は落ちて根に帰るため、仏法は根本である日本に戻ってきて盛んになった」と密かに奏上した、と述べています。

 「根葉花実論」、あるいは「枝葉花実論」と呼ばれるこの主張は、卜部氏出身の天台宗僧侶であって伊勢神道を重んじた慈遍(15世紀)が『旧事本紀玄義』で既に述べていたことでしたが、兼倶は聖徳太子が述べたことにしたのです。仏や菩薩が辺地である日本を教化しようとして、その地の人々に合わせるために神として現れたとする本地垂迹思想は早くからありましたが、中世になるとそれが逆転したのです。

 この地の人々の機根に合っているのは仏菩薩よりもむしろ日本の神だという主張が強まり、神の地位が高まっていきました。さらに、蒙古襲来の際、神風が吹いたとされ、日本の神々の権威が高まった結果、日本の神が根源であって、その化身がインドに現れたのが釈尊や諸菩薩だとする逆本地垂迹思想が広まっていくのですね。

 こうした思想を説く人、とりわけ神道家にとって困ったのは、仏教を盛んにして尊崇されてきた聖徳太子が、「憲法十七条」では神についてまったく説いていないことでした。そこで、『唯一神道妙法要集』のような言説が出てきたのであって、これが江戸時代になるとさらに進みます。聖徳太子は「神」の語が見られない通常の「憲法十七条」だけでなく、神道重視を説いたタイプの「憲法十七条」も制定していたとする話がでっちあげられたのです。

 それが偽書と判定されて天和元年(1681)に関係者が処罰され、版木が焼かれた『先代旧事本紀大成経』です(こちら)。

 『大成経』のうち巻三十三「帝皇本紀 下之上」、つまり推古天皇の巻では、推古六年冬十月に越の国から一頭の大きな白い鹿が献上されたところ、左右の角が合わせて17に分かれており、それぞれの角の付け根から「琴」とか「月」とかの字が合計17読み取れたとします。

 そこで、皇太子は、これは推古天皇の「仁化」が四海に及んでいるため、天がこうした瑞祥を示したのだとしつつも、まだ及ばない点があるため「仁徳」をおこなうべきだと奏上したため、天皇はそれに従います。

 さらに、『日本書紀』の記述と同様、推古12年に皇太子が「憲法十七条」を自ら初めて作ったとするのですが、五篇あったとします。つまり、「通蒙憲法」「政家憲法」「神職憲法」「儒士憲法」「釈氏憲法」が創られたとされるのです。

 写本が広まるうちに、内容を知りたいという読者の声が寄せられたせいか、それらの「憲法」が巻七十の「憲法本紀」において述べられるのです。近世・近代の偽作もそうですが、偽作というものは、こういう文献が存在していてほしいと願う人たちの要望に応える形で次々に作成されていきますからね。

 五憲法の筆頭の「通蒙憲法」は、『日本書紀』に掲載される「憲法十七条」と共通する部分が多いのですが、順序も内容も変えてあり、第二条の「篤く三宝を敬え」は末尾の第十七条に置かれて「篤く三法を敬え」とされ、「三法とは儒・仏・神なり」と断言されています。中国の儒・仏・道の三教一致説影響もあって江戸時代に盛んになった三教一致説を、神道を含む形に変えたものですね。

 この「憲法本紀」の五憲法を単行したのが『聖徳太子五憲法』であって、様々な版やら注釈が刊行されています。これこそ、都から離れた斑鳩の地で「世間虚仮」とつぶやいた聖徳太子を敬慕しつつ荒唐無稽な伝説を批判した小倉豊文が、真実の太子の姿を歪めるものとして最も嫌ったものでした。

 しかし、禁書となっても長く読まれており、神道が復活した明治初期などは大人気となり、通常の「憲法十七条」よりたくさん出版されていました。現代でも信者がいることは、「「お客様は神様です」の三波春夫が偽作版「憲法十七条」の礼賛本を書いた」という記事で述べ、『大成経』成立の背景についても簡単に紹介しておきました(こちら)。

 その「神職憲法」の第一条は、「神道は三才の本にして、万法の根なり。宗源、天地を成し……」という言葉で始まっています。「根」という言葉が示すように、「根葉花実論」に基づいていること、吉田神道(宗源神道)が根本とした「宗源」の語を用いていることから見て、兼倶の主張を受け継いでいることが分かります。

 不思議なのは、この『大成経』を尊重した僧侶たちが多く、禅宗の僧が目立つことです。黄檗宗の潮音道海(1618-1695)などは、すっかりほれこんで木版での刊行事業の中心となっており、処罰されています。

 その潮音は聖徳太子を尊崇し、寛文10年(1670)に仏教の立場で注釈した『聖徳太子十七条憲法註』を刊行していました。潮音は神道についても調べており、上宮太子が根葉花実論を説いたとする兼倶の『唯一神道名法要集』を読んで関心を持っていたのです。そのため、その後で『五憲法』を見せられると、これこそが太子の真の意図だったのだと感激し、刊行に尽力したのですね。

 要するに、儒学者たちからの仏教批判、それも聖徳太子批判がなされていた時期にあって、自分が望むような儒教や神道などの諸教和合の内容を太子が述べてくれていた文献であったため、偽作かどうか疑おうともしなかったのす。

 冷静に読めば、推古朝にはありえない言葉が出てくることが分かるはずですが、まさに「目がくらんで飛びついた」としか言いようがありません。そのうえ、『大成経』の偽作者ないし偽作者と関係が深かったとされる長野采女は、カリスマ性があったようで、潮音は采女を尊信するようになっており、采女から神道潅頂を受けるに至っています。

 この点は、各種の大蔵経を比較して高麗大蔵経の正確さを指摘した浄土宗の学僧、忍澂(1645-1711)も同じであって、采女から神道の伝授を受けています。また、個性的な思想家として知られる安藤昌益(1703-1762)は、『大成経』を全面的に尊重してはいなかったらしいものの、その『自然新真営道』では、自説の補強となる箇所に着目して引用していることが指摘されています。自説に有利な内容が書かれていると、どうしても真偽の判定が甘くなるのです。怖いですね。

【付記:2021年11月25日】
『大成経』に関する記述を一部削除しました。

推古朝・舒明朝の位置づけと天皇・蘇我氏の墓:塚口義信「『古事記』の書名と三巻構成の意味するもの」

2021年11月18日 | 論文・研究書紹介
 少し前の記事で、巨大な小山田古墳は「大陵」と称された蘇我蝦夷の墓であって破壊され、蝦夷と入鹿は小さな宮ヶ原1・2号古墳に埋葬されたとする小澤氏の論文を紹介しました(こちら)。この説を早い時期に唱えていた研究者がいます。

 『古事記』の巻の編成を論じて蘇我系と非蘇我系の王族たちのあり方を検討し、その墓の問題にもちょっと触れている、

塚口義信「『古事記』の書名と三巻構成の意味するもの」
(『古事記年報』第54号、2012年1月)

です。

 『古事記』上巻が、神話による天皇の権威化をめざした天武天皇の遺志を受けて神々の物語となっており、中巻が神武天皇で始まって下巻が推古天皇で終わっているのは、その頃までが古い時代とみなされていたため、とするのが通説です。問題は、応神天皇と仁徳天皇の間で中巻と下巻を分けていることです。

 推古朝までが古い時代とされ、舒明朝からが新時代とされたことは、墓の形の変化からも推測される、と塚口氏は説きます。7世紀後半から推古天皇に至る蘇我系の天皇や蘇我氏の有力者は、方形の古墳を採用していることが多く、次の非蘇我系の舒明天皇の古墳から八角形となるためです。

 塚口氏は、これを対比した表では、石舞台古墳は馬子の墓の可能性大とし、宮ヶ原1号墳・2号墳を蝦夷・入鹿が実際に埋葬された墓の可能性有り、としています。巨大な小山田古墳を、「大陵」と称されたという蝦夷の墓と見ての見解です。

 蘇我氏系と非蘇我氏系の違いについては、塚口氏は「皇祖(すめみおや)」という語に注目します。この語を付して呼ばれた人物の中心は、蘇我氏の血を引いていない敏達天皇と息長氏系の広姫の間に生まれた押坂彦人大兄皇子であって、「皇祖大兄」と呼ばれています。

 そして、その押坂彦人大兄皇子と結婚して舒明天皇を生んだ糠手姫皇女は「嶋皇祖母命」と呼ばれ、彦人大兄の子である茅渟王と吉備姫王(皇祖母命)の間に生まれたのが宝皇女(皇極・斉明)であって「皇祖母尊」と称され、舒明天皇と皇極天皇の間に天智天皇と天武天皇が生まれ、この二人の系統が『日本書紀』編纂時まで続きます。

 つまり、その系統の祖先が「皇祖」と称されているのであって、用明・崇峻・推古など蘇我氏系の天皇とその系統の皇族はそのように称されることはありません。ですから、それまでの蘇我氏系の天皇の方形の古墳と違い、押坂彦人大兄皇子の子である舒明天皇から八角の古墳となるのは、王統が変わったことを天下に示したものと塚口氏は説くのです。

 この指摘は重要ですが、完全に非蘇我系とは言い切れない面もあります。それは、「皇祖母命」と称されている吉備姫王は、蘇我稲目の娘である堅塩媛と欽明天皇の間に生まれた第六皇子である桜井皇子の娘であるためです。したがって、吉備姫王の子である宝皇女(皇極・斉明)と孝徳天皇は蘇我氏の血を引いているのであって、その宝皇女と舒明天皇の間に生まれた天智天皇も天武天皇も、実は蘇我氏の血が流れているのです。

 乙巳の変で蘇我本宗家が亡びた後も、蘇我倉山田石川麻呂その他の蘇我氏の人間が高位についており、それは天智朝でも同様でしたし、天智の皇女である持統天皇の母は、蘇我倉山田石川麻呂の娘です。古代史を「天皇家 vs. 蘇我氏」という図式やその変形の図式でとらえるのは、適切でありません。そもそも天皇を強大にしたのは蘇我氏でしたし。

 なお、「皇祖」の語を用いるかどうかについては、前々回の谷川論文(こちら)が天群と地群の違いとしてあげており、天群と地群は別の王朝であった証拠の一つであることを示唆していましたが、『日本書紀』の巻による語句の偏りには、このような事情に基づく場合もかなりあるのです。

 さて、舒明の系統に王統が変わるのは、蘇我氏の専横がひどくなったためと解釈されてきましたが、塚口氏は蝦夷・入鹿に関する記事には「疑わしい点」があるとし、「蘇我氏は大王家の外戚として繁栄を築こうと考えていた氏族であり、また当時の政治形態である、大王(天皇)を中心とした大臣や大夫たちによる合議制という枠内で政治を主導していた氏族であって、何でも好きなようにできた、というわけでは決してなかった」と考えられると述べています。

 この点、論証が十分でないのですが、私も蝦夷までについては、この見方で良いと考えています。これについては、別の記事で取り上げます。

 問題であった『古事記』の中巻・下巻の分け方に戻ります。塚口氏は、中巻は天下った天孫の血統を継ぐ天皇たちが日本の各地を平定し、新羅と百済を服属させたことを語ることが重点だったとします。

 そこで、『宋書』が録している倭王武の471年の「上表文」が、倭国は東の毛人の五十五国、西の衆夷の六十六国、海外の九十五国を平定したと述べ、申請してあった百済が除かれた諸国を監督する官爵を得ているため、国数の信頼度はともかく、当時はそうした物語群があったと考えられるとし、また中央の大和平定が述べられていないことに注目します。大和平定が述べられていないのは、そこが前からの本拠地であって「自明の前提であったから」と見るのです。

 そして、五世紀には、仁徳を始祖と仰ぐ履中系の王統と、応神を始祖とする允恭系の対立があったとし、中巻が応神で終わって下巻が仁徳で始まっており、しかも中巻最後の応神天皇の段では仁徳に関する話が多く、中西進氏によれば「仁徳前史」ともいうべきものになっているのは、そのためと説きます。

 この説の是非はともかく、『日本書紀』では聖帝と絶讃されている仁徳に始まり、仁徳→仁賢→手白香皇女と来て、その手白香皇女を后とした継体天皇→欽明天皇に至る系統の正統性を強調する伝承が早い段階で既にあった、とする指摘は重要です。

 この系統は、宣化天皇の皇女である石姫と欽明天皇の間に生まれた敏達天皇から押坂彦人大兄へと続く系統と、蘇我稲目の娘である堅塩媛・小姉君と欽明天皇の間に生まれた蘇我系の諸天皇の系統に分かれます。

 ここからは、塚口論文をきっかけとした私の見解となりますが、豪族の娘であるその堅塩媛が推古20年に「皇太夫人」と称され、盛大な儀礼によって欽明天皇の檜隈大陵に改葬されたことは、蘇我氏の堅塩媛を欽明天皇の正式な后とみなしたことを示しており、当時の蘇我氏の権勢の盛んさを物語ります。しかも、この改葬の際、馬子は同族(弟)である境部摩理勢に、蘇我氏の「氏姓之本」を読み上げさせていました。

 そうなれば、欽明天皇の子の世代から始まる蘇我系の天皇たちの正統性を強調する記録・史書が作成されるのは当然でしょう。「天寿国繍帳銘」も、欽明天皇と蘇我稲目の娘である堅塩媛を祖とする系譜が銘文の前半をすべて占めているほど、この点を強調して書かれてますしね。

 となると、そうした記録・史書は、非蘇我系とされる皇族たちにとっては歓迎できないものとなるはずです。対処法は、焼いてしまうか、「焼けた」と称して隠し、自分たちに都合良く書き換えることですね。そう言えば、厩戸皇子と蘇我馬子が作成したとされる記録も……。

四天王寺で「『聖徳太子はいなかった』説の誕生と終焉」と題して講演

2021年11月15日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 私はこれまで「聖徳太子はいなかった」説を批判し、また日本史学界では通説として受け止められていた藤枝晃の三経義疏中国撰述説を論破してきました。ですから、僧侶でも聖徳太子信奉者でもない単なる研究者ではあるものの、法隆寺や四天王寺から嫌われる存在ではないはずです。

 しかしながら、両寺からの講演などの依頼は長らくありませんでした。「三経義疏は倭習が多く、中国人はこんな下手な漢文は書かない」などと論じたのがいけなかったのか、単に無名だっただけのことなのか。

 奈良では、東大寺のご依頼を受け、東大寺総合文化センターで多くの聴衆を前にして聖徳太子講演をやったこともあるのですが、大仏建立とか華厳教学について話すならともかく、東大寺で聖徳太子について講演するというのは、何とも不思議な感じでしたね。

 ところが、2017年に奈良県庁主催の「聖徳太子シンポジウム 芸能のはじまりとその軌跡」(こちら)で私が人選して基調講演をやった際、法隆寺の大野管長なども来てくださった余波なのか、「法隆寺文化講座」のご依頼を受けました。そのため、2019年の春に、東京国立博物館でのことでしたが、法隆寺の方々を含めた皆さんの前で講演をすることができました(ただ、明らかに聖徳太子が没してかなり後に出来た寺の観光キャンペーンなどでの講演は断ってます)。

 そして今回、四天王寺のご依頼で、「千四百年御聖忌記念 聖徳太子講演会」全7回の第2回目として11月14日に講演することになった次第です。先月、第1回目の講演をされたのは、令和年号で知られる万葉学者の中西進先生でした。聖徳太子についても書いておられますので。

 さて、今回の講演の題は、

  「聖徳太子はいなかった」説の誕生と終焉

です。なぜ、そのような説が出てきたか、なぜ消えていったのかを説明したのです。長らくリモート続きであって、200名以上の人を前にして話すのは2年ぶりくらいであったため、こちらも浮き浮きしてしまい、『週間文春』仏教取材班みたいな調子で裏話などしゃべりすぎました。内容はこんなことです。

 まず、明治以後、東大の国史学の黒板勝美・坂本太郎、印度哲学(仏教学)の高楠順次郎・花山信勝、宗教学の姉崎正治、法学の小野清一郎などが聖徳太子信奉の立場で研究を進めたのに対し、早稲田の津田左右吉、そしてその津田の影響を受けた広島文理大学の小倉豊文などは伝説に満ちた太子の事績を疑っており、学統の違いがあります。

 小倉は、飛鳥の都から離れた斑鳩の地で「世間虚仮」とつぶやかざるをえなかった人間聖徳太子を敬慕していました。そのため、『聖徳太子五憲法』のような偽作に基づく太子のイメージが広まることをひどく嫌っており、戦時中と敗戦直後は四天王寺に入りびたって、聖徳太子の雑誌を刊行するなどしていました。

 ただ、戦後になって逆コースが強まるにつれ、太子が再び戦時中のように国家主義に利用されるのを懸念し、太子に関する伝説批判を始め、三経義疏を疑ったのです。聖徳太子のイメージに縛られずに研究しようと努めており、生前の名は「厩戸王」だったかと思われるとしてそれを使おうとしたのも、そのためです。

 ただ、「厩戸王」の名は古代・中世の文献に出てきませんし、太子に関する史実と伝説の区分けは困難であったため、小倉は太子の伝記の草稿を4回も書き直しながら完成させることができず、「厩戸王」という名についても論証できないまま亡くなります(こちら)。

 戦後の教科書では、聖徳太子については、横暴な蘇我氏を押さえて大化の改新・律令制を準備したのだとする戦前・戦時中の国家主義的な史観を穏やかにし、太子の文化面の意義を強調する形で記述されたものの、「承詔必謹」を説いた天皇絶対主義の元祖とされ、太子の御精神でこの戦争を勝ち抜くのだなどとされていた戦時中の状況、それに迎合していた歴史学者たちに対する反発もあって、戦後の古代史学界では、津田・小倉の指摘を重視して太子の事績を疑う傾向が次第に盛んになっていきました。

 それに追い打ちをかけたのが、京都大学出身であって、その人文科学研究所で敦煌班をひきいていた藤枝晃による『勝鬘経義疏』中国撰述説でした。敦煌文書から、『勝鬘経義疏』と7割ほど重なる注釈が発見され、これまで太子独自の解釈とされていたものの多くが、そこに書かれていたのです。

 そこで藤枝は、『勝鬘経義疏』は中国北地の二流の注釈を遣隋使が持ち帰り、太子はそれを読み上げただけだと主張しました。実は、『勝鬘経義疏』には通常の漢文の語法とは異なる倭習があることを無視したのです(こちら)。

 東大の国史でも、坂本の弟子であった井上光貞は、黒板や坂本のような太子信奉派ではなく、太子当時の日本仏教の水準では三経義疏は無理と見ていました。その井上は、藤枝の指摘をきっかけとして三経義疏を検討しなおし、百済から派遣されていた僧たちなどから成る太子の学団が作成し、太子の作とされたという見解にたどりつきました。

 淮南王劉安の作とされる『淮南子』にせよ、昭明太子の撰とされる『文選』にせよ、貴人の周囲の文人たちがそうした編集をしたのであって、中国にはそうした例は多いですからね。問題は、その貴人がどれだけ関与していたかです。まったくのお任せの場合が多いものの、すぐれた学力があって口を出している場合も少なくないのですが、井上はその問題には踏み込みませんでした。

 この井上の学団作成説に反発したのが、井上光貞の学生であって自宅にしばしば呼ばれ、ともに飲んで盛り上がることも多く、一番弟子を自認していた大山誠一氏です。井上先生の学団制作説は、師の坂本への「お愛想」でそうした説を説いたのではないかと、大山氏は「井上先生の思い出など」(『東アジアの古代文化』137号、2009年)で書いており、「先生には不似合いのみじめな研究」と酷評しています。

 大山氏は、大化の改新や長屋王などを中心として古代政治史を研究していましたが、井上の後を継いで東大国史に残ることにはならず、中部大学人文学部日本語日本文化学科の教授となります。当時は中部大学の学内誌にはあまり書かず、外の学術誌にしきりに書いており、聖徳太子虚構説も他の大学の雑誌に発表しています。

 その頃、意気投合した研究仲間が、上智大学大学院で史学を専攻して名古屋市立女子短期大学(後に名古屋市立大学に組み込まれる)に赴任して仏教史研究をしていた吉田一彦氏、そして、筑波大学大学院で道教文化を研究し、豊田短期大学に赴任していた増尾伸一郎氏です。

 つまり、関東の大学を出た優秀な若手研究者たちが、東京・京都・大阪の伝統ある大学・大学院の歴史学科などででなく、名古屋付近の大学の日本語日本文化学科や短大などで教えつつ、学界の研究状況に不満を持って既存のパラダイムをひっくり返そうとしていたのです。

(惜しくも2014年に急逝してしまった増尾さんは、そうした野心家ではありませんでした。彼とは道教学会の仲間として親しくしていましたが、快活であけっぴろげな性格であって、諸国の研究者たちから愛され、信頼されていました。増尾さんも発表する予定だったシンポジウムにやって来ないため、前に大病しているので心配した事務局がご自宅に電話したところ、前日に電車の椅子に座ったまま亡くなっていたと知らされ、私も、また最も親しかった小峯和明さんも、ショックのあまり足が地につかず、ふわふわして自分が何を話しているのか分からないような状態で発表をやったことを思い出します。没後に友人たちが2冊の論文集をまとめており、その『道敎と中國撰述佛典』は名著です)。

 そこで生まれたのが、<聖徳太子>と呼ばれる偉人・聖人は、律令体制における理想的な天皇像を示すため、儒教面は貴族のトップの藤原不比等、道教面は皇族の長屋王、仏教面は長い留学を終えて唐から618年に帰国したばかりの道慈が柱となり、文章自体は博学であった道慈が書いたのだ、とする大山氏の聖徳太子虚構説です。その際、モデルとなったのは、斑鳩に宮と寺を建てる程度の力はあったものの、国政に関わるほどではなかった厩戸王だとされました。聖徳太子は虚構であって、厩戸王が本名だと説いたのです。

 政治は東洋では儒教の担当ですので、儒教(政治史)の大山氏、仏教史の吉田氏、道教文化の増尾氏という組み合わせになりますが、これは、儒教=不比等、道教=長屋王、仏教=道慈、という役割分担と良く似ていますね。つまり、「聖徳太子はいなかった」説は、大山氏が自分たちの状況を古代に読み込んだのだというのが、私の推測です。

 聖徳太子前後の歴史記述を疑う動きは、学界以外でも早くからありました。戦後すぐでは、私の大好きな破天荒作家、坂口安吾が「飛鳥の幻」(1951年)で、乙巳の変前後の記述は異様であり、これは蘇我の蝦夷か入鹿が天皇だったことを隠そうとしたものだろうと論じました。

 ついで梅原猛が『隠された十字架』(1972年)をベストセラーにし、古代史について素人が大胆な説を書いてもよいのだ、専門家は常識にとらわれているから駄目なのだ、という風潮を作りだしました(このブログの、「珍説奇説」コーナーで紹介しました)。また、松本清張は『清張通史4 天皇と豪族』(1978年)で、太子の事績は蘇我馬子の事績が仮託されたものと推定しました。

 安吾の説は明らかな誤認もありますが、鋭い洞察を含んでおり、示唆することの多いものです。清張説も、すぐれた推理作家ならでは考察を含んでいます。梅原本はデタラメであって、説き方も気にいらないのですが、残念ながらトンデモ説の合間にいくつか優れた指摘もなされています。

 以後は、これらに刺激された素人たちのトンデモ説ばやりとなります。超能力を持った少年であって男性を愛する若き太子を主人公として描いた山岸凉子『日出処の天子』(1980-84年)は、娯楽作として楽しめる漫画なので、これはこれで良いですが、太子は実は馬子の子である善徳であって、中大兄に殺されたとする高野勉『聖徳太子暗殺論』(1985年)や、関 裕二『聖徳太子は蘇我入鹿だった』(1991年)などは、今日に続く非専門家によるトンデモ太子本ですね。

 扱いに困るのが、九州王朝説の古田武彦の『古代は沈黙せず』(1988年)などであって、少々の学術的な指摘と多大なトンデモ空想が混じっています。その影響を受けた素人の歴史ファンたちが書くものの多くは、トンデモ説のオンパレードですが(たとえば、こちら)。

 以後も、聖徳太子は天武天皇が創作したとする石渡信一郎『聖徳太子はいなかった』(1992年)や、太子は北方民族の首領だとする小林惠子『聖徳太子の正体―英雄は海を渡ってやってきた』 (1993年。エイプリルフール記事でからかっておきました。こちら)など、あやしい本が続きました。

 そこへ、東大の国史出身で博士の学位を得ている大山氏の衝撃的な「いなかった」説が登場したため、当初は太子の事績を疑う傾向が強かった学界で注目を集め、またマスコミも飛びついて一般社会で話題となったのです。河合敦氏が最新の有力な学説としてテレビで紹介したり、一般向けの多数の本で紹介し続けたことも一因となったかもしれません(こちら)。

 しかし、虚構説はあまりにも強引であって、様々な反論がなされており、このブログで紹介してきたように、飛鳥・斑鳩の寺院の瓦の研究や、飛鳥と斑鳩を斜め一直線に結ぶ太子道の発掘など、考古学の成果は、太子が蘇我馬子・推古天皇につぐ存在であったことを示していました。

 また、「私の説に対する学術的な反論はない」と断言し続ける大山氏の姿勢が反発を呼び、次第に扱われなくなり、、学界で大山説を積極的に承認する論文は、この10年以上出なくなっているのが現状です。

 そのうえ、太子の手本は中国南朝の仏教であって、太子主要な事績とされてきたものはほぼ認めて良いことを私が発見し、7月に学会発表したことについては、このブログで、「【重要】「憲法十七条」の基調となる経典を発見、「憲法十七条」も三経義疏も遣隋使も聖徳太子の作成・主導で確定」と題する、足びきの山鳥の尾のしだり尾の長々しい題名の記事で紹介しました(こちら)。

 その発表は、予定より大幅に遅れましたが、12月の初旬に刊行されることになりましたので、刊行されたら報告します。なお、私は太子の事績を疑った津田左右吉のひ孫弟子、津田の弟子で『維摩経義疏』を後人の作とした福井康順の孫弟子ですが、ひねくれていて無暗に疑った津田を尊敬し、津田説そのものを疑ったため、某先生からは「石井君は津田先生を批判しているらしい」などと犯罪人のように言われていました。

 つまり、太子信奉の伝統がある東大国史出身ながらその伝統に反発した大山氏と、太子の事績を疑ってきた早稲田東洋哲学研究室の大先輩の説を疑った私は、実は似た面があるのです。

 聖徳太子に関しては、史実とは異なる後代の伝承が多いため、今後も文献学・美術史・考古学その他の面から批判的に検討していく必要がありますが、上に述べたことから推測されるように、「聖徳太子はいなかった」説は消えるでしょうし、「厩戸王」という呼称も教科書から消えるでしょう。

 講演の冒頭で述べたのですが、拙著の『東アジア仏教史』(岩波新書)に書いたように、仏教史は釈尊のイメージの変遷史であり、日本仏教は聖徳太子のイメージの変遷史という面を持っています。

 生前の呼び名は複数あったでしょうが、奈良時代に確立された「聖徳太子」という名が1200年以上にわたって用いられ、日本文化に多大な影響を与えた以上、「聖徳太子」という名と、「聖徳太子」と呼ばれた人物について教えないわけにはいきません。どう評価するかは、また別な問題です。

【付記】
公開後、大山氏と私とが立場が似た面があることなどを書き加えました。
【付記:2021年11月20日】
大山説出現の背景として、「大化改新非実在説」についても述べておくべきでした。
【付記:2021年11月23日】
もう一つ、古田武彦については、『「邪馬台国」はなかった―解読された倭人伝の謎』 (朝日新聞社、1971年)もあげておくべきでした。梅原猛、古田武彦、大山誠一の諸氏は、「私の説には反論がない」と言い張る点も共通しています。
【付記:2022年11月19日】
九州王朝説論者たちの中でも、古田武彦を受け継ぐ「古田史学の会」の幹部たちは、基礎学力がないため、さらにトンデモ度を増しており、学界の研究成果を無視した妄想説を垂れ流しています(こちらや、こちら)。この人たちは、私がこのブログの「珍説奇説コーナー」で批判した多くの初歩的な間違いについてはダンマリを決め込み、反論できると思いこんだ箇所についてのみデタラメな反論をしていますね。

【付記:2023年1月26日】この講演の短縮版が刊行されましたので、PDF情報を含めてブログで紹介しました(こちら)。


天文記述などから森博達氏のα群β群説を補強し、α群中国人作説は批判:谷川清隆「『日本書紀』成立に関する一試案」

2021年11月12日 | 論文・研究書紹介
 『日本書紀』研究を画期的に進展させたのは、森博達氏が『古代の音韻と日本書紀の成立』(大修館書店、1991年)で提唱し、さらに『日本書紀の謎を解く』(中公新書、1999年)で分かりやすく示して広く知られたα群β群の区分説でした。

 私もこの衝撃によって語法に注意するようになったうえ、森さんには変格漢文に関する国際共同研究に参加していただき、多くの学恩を受けました。このブログでは、中国人作説に反対する井上亘さんと森さんの論争がなされ、私も何度か発言しましたが、以後、論争はそのままになっており、私自身は音韻の知識がないため、それ以上踏み込めずにいます。

 そうした状況で、「森のα・β群分類の正しさを承認する」と述べて補強する一方で、α群=中国人述作説を批判したのが、天文学者である谷川清隆氏のこの論文です。

谷川清隆「『日本書紀』成立に関する一試案」
(『日本書紀研究』第30冊、塙書房、2016年)

 谷川氏の論文については、以前、このブログで紹介したことがあります(こちら)。氏は以後も研究仲間と発表してきた諸論文で、天文観測記録はβ群にあってα群には無いこと、β群の観測記録は職業的天文学者の存在を示しており、観測は7世紀に始まったことの他に、屋久島との交流記事の有無など国際交流の面、また様々の用語の面でも『日本書紀』は巻によって偏りがあることを示してきた由。

 そして、『日本書紀』の7世紀の巻について、天文観測記事を重視して天群、地群、泰群の3つに区分していますので、簡単にまとめておきます。

 天群 22巻 推古 天文観測あり β群 遣使記録あり(日中側とも一部記録)
 天群 23巻 舒明 天文観測あり β群 遣使記録あり(中国側も記録)
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 地群 24巻 皇極 天文観測なし α群 遣使記録なし(中国側記録なし)
 地群 25巻 孝徳 天文観測なし α群 遣使記録あり(中国側記録なし)
 地群 26巻 斉明 天文観測なし α群 遣使記録あり(中国側記録なし)
 地群 27巻 天智 天文観測なし α群 遣使記録あり(中国側記録なし)
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 天群 28巻 天武 天文観測あり β群 ー     (中国側記録なし)
 天群 29巻 天武 天文観測あり β群 ー     (中国側記録なし)
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 泰群 30巻 持統 観測1他予測 (α群に近い中間) ー (中国側記録なし)

 谷川氏は、持統紀の天文記事のうち、観測したと思われるのは1例のみで、他の6例は暦からの推測とします。音韻・倭習の面から分けたα群β群と見事に一致してますね。

 ここまで一致するなら、天・地・泰という新しい区分は必要なさそうに思われます。そうしないのは、森説が基づいた音韻と倭習以外の面の違いを重視し、またα群中国人述作説に反対するためであって、森説を以下のように要約します。

 唐人である続守言が巻14から始まるα群を書いて巻21の修了間際で倒れ、薩弘恪が巻24以後を担当して巻27まで書いて忙しくなって執筆を終えたたため、やむを得ず、還俗して文人となっていた山田史御方が巻1から巻13までと巻22・23、巻28・29を文武朝以後に書き、紀清人が巻30の推古紀を述作し、三宅藤麻呂がα群と巻30の潤色・加筆をおこなった。

 以上です。しかし、上のリストのうち、天文観測記事があるかどうか、屋久島関連の記事を入れるかどうかは、漢文の巧拙とは関係ありません。このため、谷川氏は、「α群とβ群の違いには、漢文の書き方の上手下手では片づかない深刻さがあることが見える」と説きます。

 また、α群の遣唐使は『旧唐書』の夷蛮伝では無視されており、β群の遣隋使・遣唐使は無視されていないことも、両者の違いを示すとし、これらは「史料の出どころが違う可能性があり得る」と論じるのです。

 森説の中国人述作説の理由は、正格漢文で書いており、清音と濁音の区別ができず、「妻」のことを「我が妹(いも)」と呼ぶなどの日本の習慣を知らない、というものでした。これに対して、谷川氏は、百済で補えられ、日本に送られた続守言は30年近く日本で暮らした以上、日本の事情にかなり通じるようになっていたはずであり、また唐に長年留学していた日本人なら正格漢文が書けたはずと反論します。音韻の面での批判ではなく、常識的な一般論ですね。

 森さんの中国人述作説のうち、特定の人物を同定した部分などについては、推測の部分も多いことは確かですが、妻を「わが妹」と呼んでいることを漢文で書くにあたって、「古の俗なり」と説明するならともかく、「蓋古之俗乎(蓋し古の俗か=思うに古代の習慣か)」と書くのは、そうした習慣になじんでいた白鳳時代から奈良時代初期の日本人としては不自然ですね。「中国人とは限らず、朝鮮から渡来して間もない人物の筆による部分があった可能性もある」などと論じるなら分かりますが。

 谷川氏はさらに、唐人が述作者であったなら、7世紀のα群の記事の日付を南朝の宋の元嘉暦で計算して記すのは不自然とします。しかし、元の資料が元嘉暦に基づいて記されていた場合、唐人の述作者は天文記事を含め、すべての月日を儀鳳暦で計算しなおす(しなおさせる)のでしょうか。

 倭習については、谷川氏は、『日本書紀』は推古朝頃の資料を起点として元正朝に完成するという長い過程をとったとする梅澤伊勢三の主張もあり、倭習は7世紀初めにまで遡るとする論者もいるとし、倭習に満ちたβ群を必ずしも文武朝以後としなくても良いはずと説きます。

 なお、倭習が目立つ三経義疏を上宮王の作と認めてよいことは、花山信勝が戦前から説いており、私がコンピュータ分析で確定し、倭習は7世紀前半にはあったことが確実になっています。森さんも三経義疏に倭習があることを認め、研究に取り組んでいますので、そのうち成果が発表されるでしょう。

 谷川氏は、天群と地群では、これまで指摘されたものにしても谷川氏などが発見したものにしても、語彙の違いが目立つとします。そして、泰群については、項目によって天群的であったり地群的であったりして中間の性格を持つと説きます。

 その他、いくつかの点を考慮し、谷川氏は次のような試案を提出します。

  天群の巻を書いた人々は独自の情報に基づいて記述した
  天群の倭習入りの文章ははじめから承知で書かれた
  地群は独自の情報で書き、足りない部分は天群の史料を借用する
  『日本書紀』では天群が主、地群が従である
  泰群の述作者は天群と地群の史料を見る立場にある

 この結果、森説ではα群が先でβ群が後だったが、この試案ではα群とβ群は前後関係になく、倭習入り文章の真偽判定は慎重におこなう必要がある、とします。

 谷川氏の論のうち、「地群の人々は屋久島との交流をおこなわなかった」とか「地群の人々の遣使は中国史書で無視された」などの点は、根拠不足の強引な断定と思われますが、違いがあることは確かですね。

 このため、谷川氏は、「『書紀』が少なくとも二つのグループの人々の歴史から成っていることを想定する」と記すのですが、どの程度の大きさのグループを考えているのか。編集体制の問題なのか、二つの権力グループを考えているのか。何となく九州王朝説の匂いがしますね。

 しかし、片方が九州王朝の記録であるなら、天群だけでなく、地群の巻における寺や墓や都などに関する記述も、飛鳥や斑鳩の発掘の成果とよく合うのに対して、隋に使節を送った仏教国家であったとされる九州王朝の地には、6世紀末から7世紀半ば頃の大寺院やそれに瓦を供給した瓦窯や都などの遺跡がまったく発見されないのはなぜなのか。

 また、巻二十八と二十九の天武紀はともに天群とされていますが、このブログで紹介した句読や語法に基づく葛西太一さんの研究では、『日本書紀』を甲乙丙丁の四部分に分けており、巻二十八と二十九は傾向が違っていて巻二十八はβ群である推古紀と同じ丙群、巻二十九は他の多くの巻とは異なる性格の丁群であって著者が違うと推定されています(こちら)。

 これと別王朝説を組み合わせると、天武紀の2巻は、前半は天群の王朝の歴史を書いた人、後半は天群の王朝の資料および別の王朝である地群の資料を両方とも見ていた人が書いたことになりますが、そうしたことが有りうるのか。

 そう思いながら読み終えると、論文末尾の「付記」で「森博達、古田武彦……の各氏から投稿版への論評をいただいたとありました。古田氏ね、ふ~ん。

 そこで検索してみたところ、谷川氏は、最近の『古代に真実を求めて 古田史学論集』の第二十三集と第二十四集に「特別寄稿」ということで論考を載せていました。

 このシリーズの中心人物、すなわち、古田史学の会の代表を務める古賀達也氏は、漢文や仏教の知識が不十分なまま聖徳太子についてトンデモ説を書きまくっていることは、このブログで紹介した通りです(こちら)。天文記事や特定の語の偏りに関する谷川氏の指摘は、興味深いものも多いのですが、そういう雑誌に寄稿するんですか。

 この古田史学の会は、九州王朝説を説く古田武彦を指導者と仰ぐ市民の歴史研究団体が、まともな文語文も書けない近代の贋作者が切り貼りして粗製濫造した偽文書である『東日流外三郡誌』を真作とみなすかどうかでもめて分裂した際、自分の説に通じるところがあるためか真作だと言い張り、それを認めるかどうかを踏み絵とした古田武彦を支持した信奉派のグループですね。

 検索してみたら、現在は古賀代表のトンデモ化が進んでいて、会員から抗議文が出されているのに応答しておらず、もめているようです。ともかく、谷川氏の他の論文も集めて読んでみることにします。

 なお、谷川氏は、結論部分をこうしめくくっています。

最後に、続守言と薩弘恪が文字通り「音博士」であった可能性を指摘しておく。……中国滞在が長い日本人がまず倭習ありの原史料を土台にして唐代北方音になるように文章を述作する。それを読み上げるそばに続守言または薩弘恪がいて、必要があれば注意する。これでどうだろう。

 さて、どうでしょうか。この点も次にとりあげる際に検討します。

【付記】
記事の一部を訂正しました。
【付記:2021年11月16日】
天武紀に関する記述がおかしかったため、訂正しました。

『日本書紀』の記述を裏付ける蘇我蝦夷の巨大な墓:小澤毅「小山田古墳の被葬者をめぐって」

2021年11月09日 | 論文・研究書紹介

 聖徳太子は、父方・母方とも蘇我氏の血を引く最初の天皇候補者であって、蘇我氏の血を引く叔母かつ義母である推古天皇のもとで、伯叔父(おおおじ)かつ義父である蘇我馬子とともに政治・外交にあたったのですから、太子研究に当たって最重要なのは、蘇我氏の状況を研究することですね。

 蘇我氏がどれほどの力を持っていたかは、墓を見れば分かるはずです。蝦夷と入鹿の墓を中心とした蘇我氏の墓に関する最近のすぐれた研究が、

小澤毅「小山田古墳の被葬者をめぐって」
(『三重大史学』第17号、2017年3月)

です。

 2015年に公表されて新聞で話題になったのは、奈良県明日香村川原で貼石・敷石と板積石を含む大規模な掘り割り遺構が発見されたことでした。調査した橿原考古学研究所では、一辺50m以上の方墳を想定しましたが、周辺の地形からは70m以上であって、80m近かった可能性もあるとされている巨大な方墳ですね。

 7世紀になると、前方後円墳に代わって寺院を建設するようになり、天皇の墓も方墳になって古墳時代より小型になっていく中で、この大きさは異様です。また、上に積まれていた榛原石は、7世紀中頃の寺院で多用されていますが、古墳で上に積まれているのは、舒明天皇(在位629-641)が改葬された押坂陵と推定されている段ノ塚古墳だけであるため、その時期に造成された重要人物の墓であったことが推定されます。

 このため、この小山田古墳については、欽明天皇の初葬陵である滑谷岡の陵と見る説も出されています。しかし、小澤氏は、小山田古墳の掘り割りが造成されてからほどない時期に埋められ、墳丘が削られているのは不審とします。推古天皇の初葬陵は、改葬後も丁重に管理されている以上、多大な労力を費やして造成した巨大な天皇陵を、改葬して棺を運び出したからといってすぐ破壊するはずがないと説くのです。しかも、氏が6頁に示しているように、この地域は蘇我氏の勢力圏でした。
 


 巨大な古墳と言えば、全長318mもあって奈良県最大の前方後円墳である五条野丸山古墳は、蘇我稲目の墓と推定されています。

 一方、欽明天皇が改葬された陵については文献資料が多く残っており、梅山古墳であることが確実と小澤氏は説きます。その梅山古墳は稲目の墓より0.7kmほど南方にあり、舒明天皇の皇子である天武天皇・持統天皇を合葬した大内陵と推定される古墳もその東にあるほか、他にも非蘇我系の皇族の墓が、小山田古墳のすぐ南を東西に走る道より南側に点在していることに注意します。

 つまり、その幹線道路の北側が蘇我氏の勢力圏、南側が非蘇我氏系天皇の墓が造営された地域です。この指摘によると、この道を西から来て都に入ろうとする人は、欽明天皇陵に似た巨大な小山田古墳をすぐ左に見上げながら、蘇我氏が権勢を振るっていた飛鳥の地に入っていったことになりますね。蘇我氏系の人なら誇らしいでしょうが、そうでない人たちには反感を買いそうです。

 その巨大な小山田古墳を、小澤氏は蘇我蝦夷の墓と推定します。蝦夷は、皇極天皇元年(642)に、厩戸皇子の子が受け継いだ壬生部の民を含め、国中の民を徴発して「双墓」と称された生前の寿陵を二つ造り、一つを「大陵」と称して稲目大臣の墓とし、一は「小陵」と称して入鹿臣の墓とするといった横暴な行いをした、と『日本書紀』は記しています。

 そこで、小澤氏は、小山田古墳が蝦夷の墓だと推定するのですが、そうなると、「双墓」なのですから、似たような形のやや小ぶりな入鹿の墓も側に並んでいなければならないということになります。すると、小山田古墳の西北100mほどの地に、二つの石棺を縦に置くことができる玄室がある菖蒲池古墳がありますので、これが「小陵」であって、ここに蝦夷と入鹿を埋葬したと見る研究者もいます(近いうちに紹介します)。

 しかし、小澤氏は、「双墓」というからには似た形で並んでいるはずであるのに、小山田古墳と菖蒲池古墳では墳丘の構造が違いすぎるとします。そこで、菖蒲池古墳のすぐ南西に、小山田古墳が築かれた東側の尾根と対応する形で低い尾根があるため、ここに「小陵」があったと推定し、乙巳の変によって入鹿と蝦夷が殺された後、「大陵」と「小陵」は破壊されたと推測するのです。

 ところが、「小陵」があったと推定される地は、1963年頃には削平工事が始まっており、現在は尾根全体が削られて姿を消してしまっていました。しかし、工事の際、何も発見されなかったのでしょうか。

 2015年に遺構が発見された「大陵」と違い、入鹿の「小陵」の方は、工事が始まった際に遺構が出土しなかったのは、蝦夷以上に憎悪され、完璧に破壊されたからということになるかもしれませんが、少しは痕跡が残りそうなものです。あるいは、1960年代は発掘調査がきちんとなされず、開発工事が急がれたのか。この近辺の調査を望みたいですね。

 ともかく、『日本書紀』では、乙巳の変の後で、蝦夷と入鹿を埋葬することを許したとあるため、小澤氏は、「大陵」のような巨大なものは許さず、小さめを墓を作らせたと考えます。そして、それが以下の図(18頁)が示すように、宮ヶ原1・2号古墳だと推定するのです。



 つまり、大幅に小さくした「双墓」を造らせたと見るのですね。そして、二人の棺を納めるよう作られた菖蒲池古墳は、年代から見て、自殺させられた蘇我倉山田石川麻呂とその長男の墓と見るのです。

 小澤氏は、この他にも、この地域の古墳を蘇我氏の有力者の墓と見て、被葬者を推定しています。

 こうした飛鳥に関する考古学の諸発見が示すのは、『日本書紀』は編集時の権力者や有力氏族にとって都合良く書かれている部分が目立つものの、記されている事件そのものは、史実を反映していることが意外に多い、ということですね。


自説に都合が悪い説は無視した聖徳太子研究史:吉田一彦「聖徳太子研究の現在と親鸞における太子信仰」

2021年11月06日 | 論文・研究書紹介
 大山誠一氏の聖徳太子虚構説はその無理さが知られるようになり、学界では相手にされていない状態が10年以上続いているうえ、大山氏の盟友として虚構説を支えてきた吉田一彦氏は、次第にこの問題から撤退して触れないようになってきているため(一例は、こちら)、今後はとりあげない予定でした。

 ところが、「聖徳太子 研究動向」などで検索すると、真宗大谷派(東本願寺)の雑誌である『教化研究』の聖徳太子特集号に掲載された講義録、

吉田一彦「聖徳太子研究の現在と親鸞における太子信仰」
(『教化研究』166号、2020年7月)

が上位でヒットするせいか、ある人から「これが最新の研究状況を伝えていると考えていいんですか」と尋ねられました。この号には、私の講義録「聖徳太子といかに向き合うかー小倉豊文の太子研究を手がかりとしてー」(こちら)も掲載されています。

 ですから、刊行された際、吉田さんのこの講義録もざっと読んだのですが、吉田さんは虚構説にはあまり触れないようにし、軸足を親鸞の太子信仰の方に移そうとしているようなので、このブログでは取り上げずにきました。しかし、改めて読み直してみると、問題が多いため、やはり指摘しておくことにします。

 まず、「はじめに」に続く項目は、「聖徳太子(厩戸皇子)に関する資料」です。しかし、吉田さんは、「聖人としての<聖徳太子>は捏造であって、そのモデルは、国政に参加するほどの力はなかった厩戸王だ」という大山説を補強する立場で活動してきました。

 「厩戸王」については、すぐ後のところで、「小倉豊文は……「厩戸王」と呼ぶべきだと論じました」と述べており、実在人物としての「厩戸王」と信仰上の存在である「聖徳太子」は区別すべきだと論じたとしています。「厩戸王」の語は古代の文献には見えず、小倉が推定した名であることは古代史の太子関連論文で指摘されたことがなく、私が気づいて強調してきたことですが、それには触れません。

 そもそも小倉は「厩戸王と呼ぶべきだ」などと言っていません。斑鳩の地で「世間虚仮」とつぶやいた太子を敬慕しつつ過剰な伝説を排除しようとする小倉は、『増訂 聖徳太子と聖徳太子信仰』(綜芸舎、1972年)では、「私は「厩戸王」というのが生前の称呼ではなかったと思いますが」(22頁)と述べるのみで論証は示さず、「私の求めるのは、あくまでも歴史的実在としての「人間」聖徳太子なのです」(17頁)と述べるにとどまっており、「厩戸王」という呼称の論証はできないまま亡くなりました。

 つまり、小倉は「聖徳太子」伝説に縛られずに研究しようとし、実際の生前の名は「厩戸王」と思われるとしただけであって、実在人物である「厩戸王」と信仰上の存在である「聖徳太子」を区別すべきであるということを強調したのは、小倉説を受け継いだ田村圓澄ですね。この田村論文に引きずられ、大山氏などは「本名は厩戸王」と書いていたわけです。

 ついでに言うと、「聖徳太子」の語は『日本書紀』に見えないどころか、虚構派によれば太子に関する様々な捏造をしたとされる法隆寺の行信や光明皇后も「聖徳太子」の語は用いてないのですが、虚構派はそうしたことは指摘したことはありませんね。

 続いて、吉田さんは、『法華義疏』や「天寿国繍帳」について、「『日本書紀』以前に遡るものとは言いがたいと評価されます」と述べていますが、これも古い説ですね。最新の研究状況は紹介されていません。研究史をふりかえるという形にして、自説に有利な古い研究だけを紹介している印象を受けます。

 「津田左右吉の段階で、『日本書紀』の聖徳太子関係の記述の多くが編者による創作だという評価が下されました」とありますが、津田は太子の講経などは僧侶による創作と説いていました(こちら)。編者の作とは言っていません。

 しかも、津田は『日本書紀』の詔勅類は編者の作が多いとしつつ、「憲法十七条」は異質すぎるため、編者の作ではなく、「律令の制定、国史の編纂などを企てつゝあつた時代の政府の何人かが儒臣に命じ、名を太子にかりてかゝる訓誡を作らしめ」たのだろう(『日本上代史研究』岩波書店、1930年、188頁)と推測していました。

 「編纂中であった」ではなく、「企てつゝあつた時代」であって、他の箇所の記述とも合わせると、国史の編纂を命じた天武天皇あたりの頃を津田は考えていたとするのが史学界の常識です。『日本書紀』の「編者の創作だという評価が下されました」という書き方は不適切です。津田説について、自説に都合が良いように歪曲して利用する大山氏(たとえば、こちら)と同じやり方です。

 これは、720年に『日本書紀』が完成する2年前に唐から帰国した道慈が聖徳太子関連記述を書いたとする大山説、それどころか、仏教伝来に始まる仏教関連の記事はすべて道慈が書いたとする吉田説の残響でしょう。それだと、道慈は『日本書紀』の強力な編者の一人ということになりますので。

 三経義疏については、1975年の藤枝晃の中国撰述説を「画期的な研究」と紹介するのみです。40年近く前の説ですよ。変格語法が多いため中国作ではないことは、戦前から花山信勝が主張しており、私がコンピュータ分析によって補強して論証したのに(こちら)、まったく触れません。都合の悪い説は無視するのです。

 盟友である大山説については、さすがに紹介してありますが、森博達氏が、『日本書紀』の聖徳太子関連記述は文章が倭習だらけであり、唐に16年も留学した道慈が書いたはずがなく、大山説はまったくの妄想だと厳しく批判したことには触れません。森氏については、「憲法十七条」は天武朝以後に日本人が書いたと推測した、ということを紹介しているだけです。

 「天寿国繍帳」については、儀鳳暦を用いているから690年以後だとする金沢英之氏の論文を紹介していますが、2001年の論文です。以後、北康宏氏などの反論も出ていますが、むろん、紹介しません。なお、暦の面から見ても儀鳳暦を、それも複雑な計算法であって『日本書紀』も用いて以内儀鳳暦を用いていたかどうかは確定できず、可能性が低いことは、このブログで書いておいた通りです(こちら)。

 なお、道慈については、大山氏が『日本書紀』の太子関連記述は道慈の筆と説いたと述べていますが、自分自身、それに賛同して補強する論文をいくつも書いたことには触れていません。忘れたい過去なのでしょう。

 吉田氏に限らず、当時は大山説に賛成してその立場で書いていた人たちの中には、そのことに触れられるのを嫌がり、黒歴史として抹殺しようとする人もいます。そのうち、そうした人たちの例を示しましょうか。
 
 大山説や吉田説については、石井公成氏が盛んに反対する論陣を張っているとしていますが(有り難うございます)、「否定説、偽撰説は認められないとする見解を序論的に述べるという傾向があり、先行学説に対する実証的な批判は今後の論文発表に委ねられているように思われ」るそうです。

 大山説や吉田説の問題点はたくさん指摘してきてますが、これまで述べてきたように、それらは取り上げず、石井は見解を述べるだけで「実証的な批判」は無いということにされているみたいですね。「私の説に対する学問的な批判はまったくない」というのは大山氏の大好きなフレーズですが(こちら)、盟友の吉田さんもそれに近い言い方をするのか。

 ちなみに、出典と語法に注意しない虚構説派と違い、私はその面は徹底的に追求しますので、その結果、吉田さんのこの講演の後になりますが、そうした面の研究によって「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』は同じ人が書いたとしか考えられないことが明らかになったことなどは、このブログで紹介した通りです(こちら)。

 「憲法十七条」と三経義疏は語法は異なる面もあるのですが、それは補助したスタッフが、「憲法十七条」では百済から派遣された儒教の学者、三経義疏では百済・高句麗から派遣された僧侶だったためと思われるため、これから細かく検討します。

 吉田さんは、古代については上記のような概略ですませ、『日本書紀』以後の太子信仰、そして親鸞の太子信仰について論じており、講義録の重点はそちらに置かれています。もともと、そうした方面をやりたかったようですので、「いなかった」説、それも自分自身がかなり関わった道慈執筆説からは静かに撤退し、太子信仰史の研究や、新しい発見を重ねられる神仏習合思想の研究に軸足を移したいのでしょう。
 
 それはかまいませんし、吉田さんの神仏習合思想の研究(吉田さん自身は「融合」の語を用いてます)などについては私は有益なものとして評価しており、このブログでもそう書いたのですが、今回のような書き方は感心できませんね。上記のように、自説に都合の悪い研究には触れず、自分がやってきたことを隠すというのは、いかがなものでしょう。

法隆寺と百済人の密接な関係:山崎信二「七世紀後半の瓦からみた朝鮮三国と日本の関係」

2021年11月03日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子虚構説論者たちは、考古学を考慮せずに文献だけを材料としていましたが、考古学の研究成果、それも実物が語る状況を最優先したうえで、文献も考慮する研究は重要です。

 その例の一つが、

山崎信二「七世紀後半の瓦からみた朝鮮三国と日本の関係」
(『日韓文化財論集』Ⅰ、奈良文化財研究所学報:第77冊、2008年3月)

です。山崎氏は、飛鳥藤原宮跡発掘調査部に勤務して複数の共同研究の中心となり、また韓国国立文化在研究所と奈良文化財研究所の共同研究の窓口・実務担当者となって韓国の研究者と交流し、韓国の諸寺院の瓦を調査した考古学者です。

 山崎氏は、法隆寺の瓦では、忍冬唐草文軒平瓦と呼ぶべき一群の日本風な瓦があるとし、若草伽藍以外では、6世紀後半から7世紀前半にかけて百済から渡来した百済系渡来人たちの寺で主に用いられたと述べます。

 一方、7世紀末には、紀伊の上野廃寺や伯耆の斎尾廃寺などで独特の文様を持つ軒平瓦が使われており、こちらは新羅式の作り方であって、主に7世紀に新羅から渡来した人々の寺で用いられた由。

 そして、確実に高句麗風な瓦と言えるのは、琵琶湖東岸に見られるものですが、これについては文献には見えないものの、高句麗からの亡命者たちが生み出したと見ます。

 まず、法隆寺215Aは、7世紀中頃に若草伽藍で用いられたものであって、以後の法隆寺式の祖型となったとします。次に、216Aは、法隆寺西院伽藍の金堂と塔の創建瓦であって、若草伽藍が670年に焼けた後のものであるため、675年あたりが上限となります。

 斑鳩周辺の平隆寺や山村廃寺の瓦は216Aより後、また播磨の新部大寺の瓦はさらに後、播磨の下太田廃寺はその模倣、讃岐仲村廃寺の瓦はさらにその模倣であって、年代がかなり下り、675-700年あたりと推測します。

 次に法輪寺216Bを祖型とするのは、近江・伊賀・摂津・土佐などの諸寺です。法輪寺は、『上宮聖徳太子伝補闕記』によれば、斑鳩寺が焼失した後、寺の者たちが再建の土地を定めることができずにいた際、百済の「入師」が人々を率いて(斑鳩北方の三井の地に法輪寺である)三井寺を造った、とあります。

 そのため、山崎氏は、再建された金堂の法隆寺216Bは法輪寺216Bより遅れると見ます。法輪寺216Bが評判が良かったため、再建法隆寺でも用いられ、関連する各地の寺でも用いられたと推測するのです。法隆寺216Bは、摂津の細工谷瓦窯にもたらされています。

 再建法隆寺の216Cは、組み合う軒丸瓦から見て、早くても天武期とします。
そして、これに似た例は、物部氏の故地である渋川廃寺の例のみであり、渋川廃寺の瓦は、この216Cを変化させたものと見ます。となると、渋川廃寺の主要な瓦は天武期のものということになりますね。

 山崎氏は触れていませんが、渋川廃寺は物部氏が建てた寺なので物部氏は仏教反対でなかったとする説がまだ根強いですが、これは誤りであって、物部守屋が打倒された後になって建立されたことは以前紹介しました(こちら)。

 さて、山崎氏は上記のような状況についてさらに詳しく論じた後、法隆寺と百済人の関係について見てゆきます。

 まず、(A)釈迦三尊像は鞍作止利が造ったと記されています。止利の祖父は、渡来した司馬達等であって、父については「百済仏工鞍部多須奈」と記されていますね。(B)金堂の広目天像は光背に山口大口費が造ったと記され、『日本書紀』でも白雉元年(650)に「この年、漢山口直大口が詔を奉じて千仏の像を刻る」とあります。山口氏は渡来系の漢氏ですね。(C)法隆寺の銅板造像記に、鵤大寺の徳聡、片岡王寺の令弁、飛鳥寺の弁聡という3人の僧が父母の恩に報いるために造ったとあり、「族は大原博士、百済に在りては王姓」と記されています。

 つまり、すべて渡来系氏族の者たちなのです。鞍作氏の寺である坂田寺からは手彫り忍冬唐草文軒平瓦が出土してますが、これが見られるのは若草伽藍と坂田寺だけであって、密接な関係がうかがわれます。祖先は中国出自と主張する氏族たちもいますが、その当否はともかく、直接には朝鮮半島、主に百済から来た人たちです。

 7世紀半ばに制作された広目天像の時期に近い瓦は、若草伽藍の213A、213Bであり、舒明天皇の百済大寺と考えられる吉備池廃寺では、213Bの型押しを用いているものの、若草伽藍より范傷が進んでいます。

 法隆寺再建当初の(C)に近いものとしては、摂津堂ヶ島廃寺から216Aと同笵の瓦が出ており、これが摂津百済寺であろうと推測されています。また、そのすぐ北の細工谷遺跡からは、「百済尼」「尼寺」と書かれた土器が出ており、百済尼寺と見られています。

 この百済寺と百済尼寺を建てたのは、『日本書紀』天智3年(664)条に「百済王善光等をもって、難波に居らしむ」とあるため、百済王善光と推測されます。先に見た大原博士氏も百済の王姓でしたね。善光は、日本の軍事援助を望む百済の義慈王が送り込んだ百済王子の豊璋の弟であって、百済が亡びた後、倭国は善光を難波に置き、日本に朝貢する百済の王とみなしました。

 つまり、若草伽藍造営時は、百済渡来の倭漢氏の一員である鞍作氏と山口直氏、再建前後の法隆寺は百済王族と関係が深いのです。

 舒明朝の時期から皇極朝にかけて百済大寺が造営された頃、早くに百済から渡来していた人々は、百済王族を囲む形で集住するようになっていき、その核は百済大寺と、若草伽藍、そして摂津であったと山崎氏は推測します。

 飛鳥時代は、進んだ技術を有していた渡来系氏族をいかに配下に置いて活用するかが重要でした。仏教はまさに最新技術であったため、飛鳥寺・豊浦寺・斑鳩寺(若草伽藍)はその好例であり、斑鳩寺は焼失後も斑鳩近辺の豪族たちによって支えられていたうえ、百済人と深い関係を持っていたのです。となると、四天王寺についてもこの面から検討すべきだということになりますね。