聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

伝承通りに慧慈の意義を強調:金任仲「高句麗僧慧慈と聖徳太子-「伊与の温湯碑文」を中心に-」

2020年08月31日 | 論文・研究書紹介
 漢字仏教文化圏のうち、韓国とベトナムは、禅宗が主流となった後、朱子学が国の学問となって仏教を迫害したため、また多くの戦乱のため、古い時代の仏教文献がきわめて少ないのが特徴です。自国の仏教史についても、まとまったものとしては、韓国では高麗の禅僧である一然の『三国遺事』しかありませんし、ベトナムでは17世紀頃に成立した編者不明の『禅苑集英』があるだけです。

 このため、韓国・北朝鮮やベトナムの学者は、後代の伝説としか思われない『三国遺事』や『禅苑集英』の記述をかなり信じ、ナショナリズムに基づく想像をくりひろげてその意義を強調する傾向があります。もっとも、中国では、日本語ができる一部の学者を除いては、自国の資料と研究だけで東アジア仏教を語ることができると思い込んでいる人が増えており、また日本の場合は、客観的な研究ができるのは日本の学者だと考えて居る人が多く、ナショナリズムの影響を受けている点は、どの国も同じですが……。むろん、欧米の研究者の場合も、東アジア諸国の研究者は伝統に縛られすぎであって、学術的な研究ができるのは欧米の研究者だという前提で論じる人が目につきます。
 
 ですから、自分の隠れたナショナリズムに注意して研究していくほかないのですが、最近の聖徳太子関連の論文で、ナショナリズムが邪魔していて伝承の検討が十分でない面があるように思われる部分があるのが、

金任仲「高句麗僧慧慈と聖徳太子-「伊与温湯碑文」を中心に-」
(『文芸研究:明治大学文学部紀要』139号、2019年)

です。金任仲氏は、西行を中心とする日本の中世文学研究者であって、仏教の巡礼や女性の意義などにも目を向けるほか、新羅の説話と日本の関係などについても書いている研究者です。幅広く研究しておられるものの、仏教学ではないため、そうした面はやや弱いです。

 さて、上記の論文は、『日本書紀』や伊与温湯碑文に見える高句麗の慧慈に関する記述をほぼそのまま信じ、慧慈の役割の重要さを論じたものです。ただ、慧慈は三論宗であって成実宗にも通じていたとする凝然『三国仏教伝通縁起』の記述を紹介してそれに従っていますが(135頁下)、これは凝然の強引な解釈です。凝然は、太子信仰が篤く、三経義疏研究に打ち込んだ結果、三経義疏は大乗の色彩を有する小乗の論書である『成実論』を尊重する梁の光宅寺法雲の系統の影響が強いことを明らかにしました。

 ただ、凝然は、日本のことを諸国と違う純粋な大乗仏教の国家と規定し、その源流を太子に求めたため、太子の師である高句麗の慧慈や百済の恵聡における『成実論』基調を認めることができず、大乗諸宗の祖と称される龍樹の『中論』『百論』などに基づく大乗の三論宗の学僧であって成実宗も学んでいたとしたのです。また、これは、奈良時代半ばに、宗派ではなく研究グループとしての六宗の一つとして組織された成実宗や倶舎宗が勢力を失い、成実宗は大乗の三論宗に、倶舎宗は大乗である法相宗に吸収されて寓宗となった日本の状況を反映したものです。しかし、三経義疏には吉蔵系統の三論宗の教義は入っていませんので、慧慈はそうした系統の僧ではありません。

 日本と百済の親しさ、仏教伝来の経緯から考えても、太子には百済仏教の影響、またその百済に影響を与えた中国南地の『成実論』尊重派の系統の影響があったと見るのが自然でしょう。しかし、『日本書紀』では、高句麗を日本より下ながらそれなりの大国と位置づけていたのに対し、親しい百済は日本に頼るほかない朝貢国、新羅については敵国という位置づけが目立つため、太子の師という際は、高句麗の仏教が百済より尊重されて記される傾向があります。

 こうした扱いは、伊与温湯碑も同様です。最古の引用テキストでは、太子ととともに温泉を訪れたのは「恵忩」とされており、この通りであれば百済の恵聡となるはずなのに、近代の研究では「恵慈」に校訂しており、金氏も疑わずにそれに従い、この碑文を書いたのは慧慈だとして、その内容を紹介し、慧慈の意義を強調しています。

 また、伊与の温泉は、時々噴き出す間欠泉だったからこそ尊重されたのですが、そうした面を含め、碑文の内容に関する先行研究の成果が充分利用されていません(たとえば、当ブログなら、こちら)。

 しかも、金氏の結論は、高句麗の慧慈はすぐれた学僧であって「太子の諸政策にも大きな影響を与えたにちがいない」(140頁上)です。そうであった可能性は高いですが、現存資料はかなりかたよっているのですから、批判的な検討を加えたうえで論じないと、結論ありきの論文ということになってしまいます。

【付記:9月2日】
題名と記述を少々変更しました。

黒上正一郎の聖徳太子研究が学生に与えた影響(2):一高の昭信会【追加版】

2020年08月27日 | 聖徳太子信仰の歴史
 昭和4年5月12日に東京高等師範学校の信和会の開会式が開催される少し前に、日本一のエリート高校であった第一高等学校の学生たちによって、同様に黒上正一郎を指導者と仰ぐ昭信会が成立していました。学生の中心は、2年生でリーダーシップに富んでいたスポーツマンの田所廣泰(1910~1946)でした。
 
 田所は、入学まもなく聞いた黒上の講演に感銘を受け、仲間の新井兼吉、河野稔、市川安司とともに、黒上に師事するようになったのです。その黒上は、郷里の徳島で療養中であった親友の東大生、梅木紹男とともに日本のあり方を憂い、三井甲之の主張に基づく聖徳太子・明治天皇鑚仰を柱とする学生の精神団体を設立しようとしていました。

 黒上が一高と関わりを持つようになったのは、一高教授だった国家主義の国文学者、沼波瓊音(1877~1927)が大正15年2月に学内に創設した日本精神強調の瑞穂会が、昭和3年に黒上を招き、「聖徳太子の人生観と日本文化」と題する連続講演を開催したのがきっかけです。

 黒上に傾倒するようになった田所たちは、瑞穂会から分かれて聖徳太子と明治天皇を鑚仰する会を創設することとなり、翌年の2月に昭信会という名を決め、3月に黒上とともに河内磯長の太子廟に詣で、徳島で梅木に会い、5月5日に明治神宮に参拝した後、一高の寮内で昭信会の発会式を行ないました。こうした経緯については、

 国民文化研究会編『「一高昭信会」初期活動記録-「御製拝誦」と黒上正一郎先生ご逝去前後の「昭信会日誌」を中心として-』(国民文化研究会、2005年)

が詳しく記しています。

 この昭信会には、後に小田村事件で有名となる小田村寅二郎(1914~1999)が参加していました。小田村は東大に進むと、先に入学していたものの肺患のために療養することの多かった田所と連絡をとりつつ昭信会メンバーを柱として昭和13年に東大精神科学研究会、昭和15年には日本学生協会を発足させ、国家主義学生運動を全国的に展開していきます。この流れを汲むのが、昭和31年に小田村が理事長となって創設し、上記のような黒上関連の資料などを刊行している国民文化研究会です。ここは戦後になっても、三経義疏研究を継続していました。
 
 こうしたメンバーは、きまじめで行動力のある学生たちでしたが、明治風なナショナリストであったからこそ神話の押しつけを嫌い、聖徳太子に関して客観的な研究をしようとしていた津田左右吉の研究には強く反発しており、また伝承をそのまま信じて日本礼賛に励むばかりで視野が狭く、当時の世界における日本の位置について冷静に判断するだけの力はありませんでした。そのような判断ができた数少ない例外は、北京で活動していた中江丑吉でしょう(こちら)。 

【付記】
昭信会は、黒上正一郎が亡くなると、昭和10年にその著作を編集して黒上正一郎『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』を刊行しました。戦後になると、国民文化研究会が編集し直し、理事長であった小田村の「復刊の辞」を付けて昭和41年に再刊します。興味深いのは、その「復刊の辞」では、

  また発行について、文部省の社会教育課の方々をはじめ、解説、註釈、ふ
  りがな、その他編集については、当会の役員・会員の方々にすくなからぬ
  ご協力をいただき……(4頁)

と述べられていることです。文部省そのものではなく、社会教育課の何人かの職員・嘱託が趣旨に賛同して協力したのでしょうが、そうした人たちと国民文化研究会がつながりを持っていたことが注目されます。戦前・戦中に文部省がいかに聖徳太子を重視し、関連するパンフレットなどを多数刊行して諸学校に配布していたことは、以前、紹介しました(こちら)。
 

黒上正一郎の聖徳太子研究が学生に与えた影響(1):東京高師の信和会

2020年08月22日 | 聖徳太子信仰の歴史
昭和4年(1929年)5月12日、東京高等師範学校の数学科の学生であった副島羊一郎(1907~?)を中心として、聖徳太子を礼賛・研究する東京高等師範学校信和会が結成されました。理論面の指導者は、在野の若い聖徳太子研究者、黒上正一郎(1900-1930)、財政面の支援者は、実業家であって日本の精神文化の復興を願っていた大倉邦彦(1882-1971)でした。

学内の紛争に嫌気がさしていた副島は、昭和3年(1928)の春休みに四国遍路の旅に出ることとし、文化講演会で知り合っていた大倉のところに挨拶に出向いたところ、黒上を訪ねるよう勧められ、紹介の名刺を渡されたそうです。そこで、徳島まで行って黒上に面会した際、このブログでも紹介した聖徳太子と明治天皇を鑚仰する超国家主義の詩人、原理日本社の三井甲之(1883-1953)の影響を受けていた黒上の談話と人柄に感銘を受けたのです。

帰京した後も、黒上と手紙のやりとりを続けていた副島が、一年下の後輩達とやっていた和歌の会で黒上のことを話し、昭和3年10月に、上京していた黒上を東京高師の一教室に招いて話を聞いた結果、聖徳太子の「憲法十七条」、三経義疏、明治天皇の和歌などを柱とする学習会を始めることとなりました。この時期、第一高等学校でも同様の学生の組織作りが進んでおり、こちらは第一高等学校昭信会となります。

こうした経緯は、副島が1997年に刊行した回想集、『聖徳恋歌-最高の人を求めて-』(東明社)にまとめられています。

左右陣営の対立、国際社会における日本の孤立、経済不況、映画・音楽による欧米文化の流行と反発など、落ち着かない社会情勢のなかで、不安を抱いていた若い学生たちが、理論と人格の面で頼りにすることができる人物を求め、それを黒上のうちに見出したのです。求道者のようなひたむきさで聖徳太子研究に打ち込んでいた黒上は、年若い学生をまったく対等な仲間として尊重し、手紙と談話で導いてくれたといいます。

明治から大正にかけて、悩みを抱えていた東京のエリート学生たちが頼りとしたのは、本郷の弘道会館で活動していた真宗大谷派の近角常観(1870-1941)、本郷教会の海老名弾正(1856~1937)、鎌倉の円覚寺の釈宗演(1860-1919)など、仏教・キリスト教の近代的で魅力ある指導者たちでした。これが昭和初期になると、マルクス主義がこうした宗教の代わりを務めるようになっていき、また逆に左翼陣営に対する反発も高まり、日本の伝統に復帰しようとする動きが強まっていきました。

そうした中で、中国文化を自主的に取り入れつつ対等の外交を行い、中国の学僧の注釈に基づきながら時にそうした学僧たちの説を批判したとされる聖徳太子と、太子同様に海外文化を取り入れて日本を先進国家とする一方ですぐれた和歌を数多く詠んだ明治天皇に対する礼賛を、宗教化また政治運動化した原理日本社が盛んに活動するようになり、その中でもっとも純粋な人柄であった若い黒上が学生達に尊敬され、大きな影響を与えたのです。

名のヒントを中国に求めた前之園亮一「厩戸皇子の名前と誕生伝承」

2020年08月19日 | 論文・研究書紹介
「厩戸」の名前の由来については、諸説があります。出つくしたのか、最近はそうした論文はあまり見かけなくなりましたが、珍しい例外がありました。

前之園亮一「厩戸皇子の名前と誕生伝承」
(『共立女子短期大学 文科研究紀要』59号、2016年1月)

です。

前之園氏は、まず『古事記』と六国史に見える「ウマ」に関わる人名を摘出しますが、『日本書紀』と『続日本紀』にはかなりいます。ただ、「ウマヤト」は厩戸皇子以外には見えず、また厩戸皇子の娘である馬屋古女王と同じ「ウマヤコ」も見えないとしたうえで、『日本書紀』から興味深い例をあげます。

それは、斉明天皇三年是年条に見える「間人連(はしひとのむらじ)御厩」であり、「ミウマヤ」と訓むのだろうと推測します。そして氏は、「御」とついているため、天皇ないし宮廷の厩に関わることが推測されると述べ、厩戸皇子の母である穴穂部間人皇女とのつながりが予想されるとし、間人皇女は間人連に養育されたため、そう呼ばれたのだろうと説きます。

注目すべきことは、この間人連は、7世紀には対外関係の任務についている者が目立つことです。間人連塩蓋は任那の使者の導者となり(推古18年10月)、間人連御厩は新羅使に付して唐に渡るよう命じられ(斉明3年是年条)、間人連大蓋は新羅を討つ将軍として派遣されています(天智2年3月)。

こうしたことから見て、間人連が馬と関係があっても不思議でないとするものの、厩戸という言葉の説明としては不足しています。そこで氏は、六朝志怪小説の代表である『捜神記』では、人に使われていた女が「車屋下」で男子を産んだため、その子を「車子」と名付けたという説話(天から銭を借りた夢)に注目します。

また『捜神後記』には、晋時代の広州郡の太守の息子である「馬子」が郡の役所の厩舎のなかで起居している説話(厩の中の幽霊)にも注意します。

そこで、厩戸皇子という名も、馬や馬養の渡来にともなって将来された、こうした馬に関する志怪小説の影響を受けて名付けられたのではないかと推測します。

志怪小説の部分はやや弱いように思いますが、間人連との関係という点はなかなか興味深いものがあります。

なお、ネットにあげられていた某古代史記事が、『日本書紀』が間人皇女について「乃ち厩の戸に当たり、労(なや)みはたまはずして忽ちに産れませり」としているのは、厩の戸に「当たって(衝突して)」いながら無事に生まれたという点が重要なのだ、と述べているのを目にしました。

拙著には書いてませんが、「当戸」というのは戸に衝突するということではありません。「当戸而眠(戸に当たりて眠る)」「当戸而立(戸に当たりて立つ)」といった中国の用例が示すように、「まさに戸のところで」ということです。月の光が戸に当たっているといった例はありますが、戸に衝突するといった例は見られません。漢文は、用例第一で考えないと、珍説を述べることになります。

「憲法十七条」と『日本書紀』の「公私」に着目した宮地明子「日本古代国家論-礼と法の日中比較より-」

2020年08月15日 | 論文・研究書紹介
真偽論争が盛んな「憲法十七条」では、「公」を尊重して「私」を邪なものと見ていること、こうした見方は法家の思想に基づいていることは良く知られています。この問題を追求し、『日本書紀』全体において「公私」の概念がどのように用いられているかを検討したのが、

宮地明子「日本古代国家論-礼と法の日中比較より-」
(館野和己・小路田泰直編『古代日本の構造と原理』、青木書店、2008年)

です。宮地氏は、『日本書紀』において「公」と「私」を区別している箇所を調べ、「私」という語は『日本書紀』全体で用いられているのに対して、「公」の方は推古紀の「憲法十七条」が強調してから、以後の巻において言われるようになったと説きます。また、推古時代で終わっている『古事記』には、「公私」の概念は見られないことに注意します。

その『日本書紀』の用例の表がこちらです。



一目瞭然のように、推古紀以前は、β群である神功紀と欽明紀に1度づつ見えるだけであって、「憲法十七条」以後、「公」の用例が急に増えます。となれば、「憲法十七条」が「公」の概念を確立したか、天武天皇の頃に確立された「公」の概念を権威づけるために「憲法十七条」が作成されたか、ということになるでしょう。

宮地氏は、前者の立ち場であって、「憲法十七条」は「礼」を重んぜよと命じているものの、最も尊重されているのは法家の思想であって、これは、礼典を前提としなくては律令法典が成り立たない中国との大きな違いだとします。そして、中国の礼制を受容することは、中国の皇帝を頂点とする中国風な礼的国際身分秩序を受け入れることになるため、そうした秩序に組み込まれないため、礼を切り離して法家的な法を国家の柱としたのだ、と説いています。

「憲法十七条」について、そこまで言えるかどうか疑問ですが、「憲法十七条」は礼の面が弱く、仏教の信仰がその面をおぎなっていることは、かつて拙稿で指摘しました(こちら)。

聖徳太子いなかった説については、律令制の模範となる天皇像を示すために理想的な聖徳太子像を造ったというなら、理想的な天皇とされる仁徳天皇などはどうなるのかといった疑問がありましたが、宮地氏のこの論文を読むと、仁徳天皇紀が「公私」の別を強調していないのは、仁徳天皇が儒教的な聖天子として描かれているためであって、法家の思想が持ち込まれていないことも一因となっていることが推測されます。

義疏の内容に踏み込んだ田村晃祐「『法華義疏』の撰述とその思想(序)」

2020年08月12日 | 三経義疏
 筆者は現在、オランダのBrill社が刊行中である Brill's Encyclopedia of Buddhism のうち、Buddhism in Vietnam という項目を悪戦苦闘しながら執筆する一方で、東大寺凝然の700年遠忌記念として来年刊行される論文集に寄稿するため、凝然の三経義疏研究に関する論文を書いています。凝然は、自ら「三経学士」と称したほど三経義疏研究に打ち込んだ大学僧です。

 前者では、現在のベトナム中部にあたるインド文化圏のチャンパ(林邑。後の環王国・占城)や、チャンパと関係深いジャワの密教についても調べているのですが、こうした東南アジアのインド文化圏諸国では、国王はヒンドゥー教の神か、ヒンドゥー色の強い密教系の観音菩薩を守護神とし、かつそうした守護神と一体視されることによって権威を保っていました。

 倭国が手本とした隋の文帝なども、梁の武帝を継承して菩薩戒皇帝を自称し、仏教に関する様々な奇瑞があったと宣伝し、また宣伝させ、自らを聖なる存在として権威づけをはかっていました。古代とはそういうものなのです。また、そのように描くのが当時の常識というものです。たとえば、梁の武帝に朝貢した婆利国の上表文では、「伏して惟うに、皇帝是れ我が真仏」と賞賛していました
(河上麻由子「中国南朝の対外関係において仏教が果たした役割について」『史学雑誌』117(12), 2008年、28頁。こちら)。

 聖徳太子は、蘇我馬子のような一番の実力者ではなかったものの、その補佐役であって次代の天皇候補者であったのですから、生きているうちは普通の人間とみなされ、死後かなりたってから神話化が進んだなどというのは、古代というものを理解していないからこそ出てくる議論です。

 さて、前の記事で紹介した聖徳太子講義では、三経義疏のうち、『法華義疏』と『勝鬘経義疏』は太子の作と見て間違いないとし、「師匠が講義する種本の注釈をまとめつつ、自分の解釈をはさみ、時に種本説に反対して見識を示すといった感じ」と述べ、こうした注釈書作成は「国威発揚の一助でもある」ことに触れました(61頁下)。これは、梁の武帝やその息子の昭明太子の経典講義がそうしたものだったためです。

 津田左右吉は、中国についても日本についても幅広く知っていたため、太子の経典講義は、そうした事例に基づく作文である可能性を示唆したのですが、実際にそうした事例をまねたものと見る方が妥当です。このことは、種本と比較しつつ、三経義疏を和習だらけの原文(漢文)で読んでみれば分かります。太子礼賛者であった花山信勝が苦労して読みやすくした訓読文しか読んでいない最近の歴史研究者には、和習の部分は見えません(津田は原文をざっと読んでいたようです)。まして、訓読さえ読まずに聖徳太子本を書いている人たちは論外です。

 凝然の三経義疏研究に関する論文を書くため、近年の三経義疏に関する論文を調べてみたところ、内容に踏み込んだ論文はきわめて少ないのが実情のようです。そうした状況にあって、今でも有益なのは、

田村晃祐「『法華義疏』の撰述とその思想(序論)」
(『日本仏教綜合研究』 3号、 2005年、PDFはこちら

でしょう。

田村先生は、『勝鬘経義疏』に関する藤枝説を更に拡大して三経義疏は中国製だと論じた大山誠一説を検討し、その問題点を具体的に示しつつ「無定見」「研究史無視」「他説の曲解」などの特徴を指摘しています。また、『法華義疏』については、種本について「ここは奥深すぎて分からない」などと率直に述べている部分があること、「私の懐(こころ)」「私の釈」など、「私」の語を盛んに用いて解釈していることをなどをあげ(これは、花山信勝が既に述べていたことですが)、太子が保護した学僧の顧問団の作とする井上光貞氏の説を批判し、「多くの朝鮮人学僧の共同著作ではなくて、何人かの諸種の傾向をもった学僧たちの顧問をもった個人の著作であると考える」(3頁下~4頁上)と述べています。

大山氏の師匠である井上光貞は、東大の国史の学生でありながら、印哲の授業にも出て学んでいました。仏教学の素養はかなりのものですし、『勝鬘経義疏』の種本と言われた敦煌写本が話題となると、その写本と『勝鬘経義疏』の原文を綿密に比較して読んでいます。このため、賛成・反対はともかく、井上は、考慮すべき説を数多く述べています。読まずに想像であれこれ論じるようなことはありません。

田村先生は、『法華義疏』が教判を説明する際、一初教、二波若教、三維摩教、五涅槃教に分け、その上で四として法花教を位置づけていることに着目します。これは、『法華義疏』の種本である梁の光宅寺法雲の『法華義記』が、道場寺慧観の有名な分類である、一有相教(小乗)、二無相教(般若)、三抑揚教(維摩)、四同帰教(法華)、五常住教(涅槃)という五時教判を、光雲が法華至上の立場から、一有相教、二大品経、三維摩経、四涅槃経、五法華経と改めたのを受け継ぎつつ、四とされた涅槃に五の番号を付けて慧観の古い教判に戻したものと見るのです。

 こうした点が、種本に大幅に頼りながら、ところどころで見識を示そうとする例です。

 ただ、田村先生は指摘していませんが、三経義疏は、大部な経典である『涅槃経』を尊重する学僧たちの詳しい注釈には通じていないため、『涅槃経』と『法華経』の同異に関する詳細な議論はしていません(と言うか、読んでないからできない……)。

 三経義疏は吉蔵(549-623)の三論学の影響があるとし、推古朝以後の作とする説もありますが、『涅槃経』の一切衆生悉有仏性説を重視して三論の空の思想と融合しようと努め、『法華経』も尊重していた吉蔵の直接の影響は、三経義疏には見られません。つまり、光宅寺法雲のような六世紀前半の梁の三大法師の注釈を種本とし、それを批判するというのは、7世紀初めとしては時代遅れです。

 こんな古くさい学風の注釈を、三論宗と法相宗が盛んになって教学が大いに発展した奈良時代になって作るのは不可能ですし(つい新しい用語や思想が入ってしまう)、種本を略抄した部分以外は「在」と「有」を混同するような変格語法だらけなのですから、中国製作のはずがありません。残る可能性は、百済/高句麗作、百済/高句麗の学僧(たち)が日本で作成、それらの学僧に習った日本人が作成、です。

 最後に、田村先生が「おわりに」の冒頭で説いている結論の最初の部分をあげておきます。

  (1)『原典』が第一の資料であり、原典の精読なくして論ずることはできない。

【付記】
同じ内容が貼り込まれていたため、訂正前の部分を削除しました。
ご指摘に感謝します。

『教化研究』聖徳太子特集で小倉豊文の太子研究を検討

2020年08月07日 | 小倉豊文の批判的聖徳太子研究
親鸞が熱烈な太子信仰を抱いていたため、真宗は太子信仰が強く、研究も盛んです。来年は太子1400年遠忌ということで、真宗ではいろいろな行事が予定されているようですが、そうした中で、多角的な視点から太子と太子研究を見直す特集が刊行されました。

真宗大谷派の教学研究所が出している『教化研究』の166号です。



私の講義録は、太子について語るのは自分を語ることであって実は怖い行為であることについて説明した後、「厩戸王」という表現を戦後に作った小倉豊文の太子研究を戦前・戦中・戦後と時代順に検討し、誠実でひたむきな小倉の太子研究が、いかに時代の影響を受け、揺れ動いていたかについて述べたものです。

『教化研究』の表紙を見ればおわかりのように、太子いなかった派の吉田一彦さんも講義を載せてますが、私の「いなかった派」批判のうち、三経義疏は和習がたくさんあるため中国成立を説く藤枝説は成り立たないと私が指摘したことなど、自説にとって都合の悪い確定部分は無視したうえで、決択がついていない箇所だけとりあげ、石井反論は論証が不十分と言ってすませている感じがします。

吉田さんの太子論は、『日本書紀』の太子関連記述は様々な系統の資料、それも和習だらけの資料の寄せ集めであることに気づかず、唐に16年も留学した博学な道慈が書いたとする説を展開するなど、勇み足が目立ったものの(いなかった派は、その点を指摘されると、道慈は筆者ではなくプロデューサーだった説に切り替えましたが、文章チェックをしないプロデューサーって何なんでしょう?)、資料に基づく着実で有益な検討もかなりなされていただけに、上記のような論法は残念です。

今回の聖徳太子特集は、名和さんの「ブックガイド」を初めとして、聖徳太子研究・聖徳太子信仰研究を知りたい、始めたいという人には有益な論考が並んでいますので、お勧めです。

刊行されたばかりでまだ掲示されてませんでしたが、東本願寺出版のサイトで購入できるはずです(こちら)。

聖徳太子と日本主義の関係:『近代の仏教思想と日本主義』

2020年08月04日 | 論文・研究書紹介
ご無沙汰しました。聖徳太子に関わる論文集のお知らせのために復帰しました。

国学者や国学寄りの儒学者たちが激しい聖徳太子攻撃をしていた江戸時代が終わり、近代に入ると、聖徳太子の再評価がなされるようになります。特に大正時代以後は太子顕彰の気運が高まりました。さらに、昭和になって神道系の国家主義者たちが仏教のことを国家に有害な外来思想として激しく攻撃するようになると、仏教界は皇族であって仏教を広めた聖徳太子のことを、「憲法十七条」で天皇の命令を尊重するよう命じた国家主義の元祖として持ち上げるようになっていきました。

以前書いたように、原理日本社の同人たちは、そうした人々の中でも最も熱烈に聖徳太子を尊崇していた超国家主義者たちであって、左翼や自由主義の学者たちに罵詈讒謗を加えて大学から追い出し、言論弾圧を強めて日本を戦争に導く役割を果たしました。

近代におけるこうした聖徳太子像の変容と利用のあり方を、様々な面から明らかにしているのが、9月に刊行される次の本です(写真は、東本願寺境内での学徒出陣壮行式)。




石井公成監修、近藤俊太郎・名和達宣編
『近代の仏教思想と日本主義』(法藏館、2020年9月、572頁、6500円税別)

目次は、以下の通り。

「仏教思想と日本主義への入射角――序にかえて」………………………………近藤俊太郎

【総論】「日本主義と仏教」……………………………………………………………石井公成

第Ⅰ部 親鸞・聖徳太子
「真宗大谷派の教学と日本主義――曽我量深を基点として」………………………名和達宣
「真宗本願寺派の教学と日本主義――梅原真隆を通して」…………………………内手弘太
「聖徳太子と日本主義――金子大榮を中心に」………………………………………東 真 行
「『原理日本』と聖徳太子――井上右近・黒上正一郎・蓑田胸喜を中心に」……中島岳志
「民族主義の体系と形式――三井甲之とその門弟」…………………………………藤井祐介

第Ⅱ部 日蓮・禅
「日蓮主義と日本主義――田中智学における「日本による世界統一」という
  ビジョンをめぐって」……………………………………………………………ユリア・ブレニナ
「日蓮主義と日本主義との衝突――日中戦争期における東亜連盟運動」………クリントン・ゴダール
「鈴木大拙『日本的霊性』再考――仏教を超える新「日本宗教」 」……………ステファン・グレイス
「臨済宗と「日本精神」――関精拙と古川堯道を中心に」………………………大 竹  晋
「禅・華厳と日本主義――市川白弦と紀平正美の比較分析を通じて」…………飯島 孝良

第Ⅲ部 教養・修養・転向
「本居宣長と日本主義――暁烏敏による思想解釈を通して」……………………齋藤公太
「日本回帰の思想構造――亀井勝一郎の場合」……………………………………碧海寿広
「吉川英治と日本主義――修養する武蔵と親鸞」…………………………………大澤絢子
「「日本主義」の主体性と抗争――原理日本社・京都学派・日本神話派」……栗田英彦
「親鸞とマルクス主義――佐野学の思想経験を中心に」…………………………近藤俊太郎

「まとめと展望」…………………………………………………………近藤俊太郎・名和達宣
「あとがき――課題としてのX」……………………………………………………名和達宣

以上です。題名や副題を見ただけでも近代仏教思想における聖徳太子の重要さが理解できるでしょう。実際には、3分の2くらいの論文が太子に触れています。

出版元の法蔵館のチラシは、こちら

amazonでも予約が始まっています。

現代の太子研究は、近代のこうした太子観の影響を受けていたり、そうした太子像に対する反発としてなされていることが多いため、史実としての太子研究を進めていくには、近代の太子像の変遷に注意する必要があります。

私の「総論 日本主義と仏教」では、『日本書紀』の国家神話における仏教の影響を指摘し、以後の国家主義と仏教の関係を概論したうえで近代の聖徳太子観について紹介しましたが、一方では、三経義疏研究も進めています。来年は聖徳太子の1400年遠忌であって、様々な行事がなされ、玉石混淆の太子論が展開されるでしょうから、判断の参考になるよう、このブログを久しぶりに復活させることにします。

【追加:10月16日】
一瞬だけですが、amazonの「日本思想史」の部で売り上げが1位になりました。少しして見直したら4位に落ちてましたが、1~3位は670円とかの Kindle
本ばかりでした。そうした中で、税込みで7000円を越える価格でありながら、この位置を保っているのですから、善戦していると言って良いでしょう。