漢字仏教文化圏のうち、韓国とベトナムは、禅宗が主流となった後、朱子学が国の学問となって仏教を迫害したため、また多くの戦乱のため、古い時代の仏教文献がきわめて少ないのが特徴です。自国の仏教史についても、まとまったものとしては、韓国では高麗の禅僧である一然の『三国遺事』しかありませんし、ベトナムでは17世紀頃に成立した編者不明の『禅苑集英』があるだけです。
このため、韓国・北朝鮮やベトナムの学者は、後代の伝説としか思われない『三国遺事』や『禅苑集英』の記述をかなり信じ、ナショナリズムに基づく想像をくりひろげてその意義を強調する傾向があります。もっとも、中国では、日本語ができる一部の学者を除いては、自国の資料と研究だけで東アジア仏教を語ることができると思い込んでいる人が増えており、また日本の場合は、客観的な研究ができるのは日本の学者だと考えて居る人が多く、ナショナリズムの影響を受けている点は、どの国も同じですが……。むろん、欧米の研究者の場合も、東アジア諸国の研究者は伝統に縛られすぎであって、学術的な研究ができるのは欧米の研究者だという前提で論じる人が目につきます。
ですから、自分の隠れたナショナリズムに注意して研究していくほかないのですが、最近の聖徳太子関連の論文で、ナショナリズムが邪魔していて伝承の検討が十分でない面があるように思われる部分があるのが、
金任仲「高句麗僧慧慈と聖徳太子-「伊与温湯碑文」を中心に-」
(『文芸研究:明治大学文学部紀要』139号、2019年)
です。金任仲氏は、西行を中心とする日本の中世文学研究者であって、仏教の巡礼や女性の意義などにも目を向けるほか、新羅の説話と日本の関係などについても書いている研究者です。幅広く研究しておられるものの、仏教学ではないため、そうした面はやや弱いです。
さて、上記の論文は、『日本書紀』や伊与温湯碑文に見える高句麗の慧慈に関する記述をほぼそのまま信じ、慧慈の役割の重要さを論じたものです。ただ、慧慈は三論宗であって成実宗にも通じていたとする凝然『三国仏教伝通縁起』の記述を紹介してそれに従っていますが(135頁下)、これは凝然の強引な解釈です。凝然は、太子信仰が篤く、三経義疏研究に打ち込んだ結果、三経義疏は大乗の色彩を有する小乗の論書である『成実論』を尊重する梁の光宅寺法雲の系統の影響が強いことを明らかにしました。
ただ、凝然は、日本のことを諸国と違う純粋な大乗仏教の国家と規定し、その源流を太子に求めたため、太子の師である高句麗の慧慈や百済の恵聡における『成実論』基調を認めることができず、大乗諸宗の祖と称される龍樹の『中論』『百論』などに基づく大乗の三論宗の学僧であって成実宗も学んでいたとしたのです。また、これは、奈良時代半ばに、宗派ではなく研究グループとしての六宗の一つとして組織された成実宗や倶舎宗が勢力を失い、成実宗は大乗の三論宗に、倶舎宗は大乗である法相宗に吸収されて寓宗となった日本の状況を反映したものです。しかし、三経義疏には吉蔵系統の三論宗の教義は入っていませんので、慧慈はそうした系統の僧ではありません。
日本と百済の親しさ、仏教伝来の経緯から考えても、太子には百済仏教の影響、またその百済に影響を与えた中国南地の『成実論』尊重派の系統の影響があったと見るのが自然でしょう。しかし、『日本書紀』では、高句麗を日本より下ながらそれなりの大国と位置づけていたのに対し、親しい百済は日本に頼るほかない朝貢国、新羅については敵国という位置づけが目立つため、太子の師という際は、高句麗の仏教が百済より尊重されて記される傾向があります。
こうした扱いは、伊与温湯碑も同様です。最古の引用テキストでは、太子ととともに温泉を訪れたのは「恵忩」とされており、この通りであれば百済の恵聡となるはずなのに、近代の研究では「恵慈」に校訂しており、金氏も疑わずにそれに従い、この碑文を書いたのは慧慈だとして、その内容を紹介し、慧慈の意義を強調しています。
また、伊与の温泉は、時々噴き出す間欠泉だったからこそ尊重されたのですが、そうした面を含め、碑文の内容に関する先行研究の成果が充分利用されていません(たとえば、当ブログなら、こちら)。
しかも、金氏の結論は、高句麗の慧慈はすぐれた学僧であって「太子の諸政策にも大きな影響を与えたにちがいない」(140頁上)です。そうであった可能性は高いですが、現存資料はかなりかたよっているのですから、批判的な検討を加えたうえで論じないと、結論ありきの論文ということになってしまいます。
【付記:9月2日】
題名と記述を少々変更しました。
このため、韓国・北朝鮮やベトナムの学者は、後代の伝説としか思われない『三国遺事』や『禅苑集英』の記述をかなり信じ、ナショナリズムに基づく想像をくりひろげてその意義を強調する傾向があります。もっとも、中国では、日本語ができる一部の学者を除いては、自国の資料と研究だけで東アジア仏教を語ることができると思い込んでいる人が増えており、また日本の場合は、客観的な研究ができるのは日本の学者だと考えて居る人が多く、ナショナリズムの影響を受けている点は、どの国も同じですが……。むろん、欧米の研究者の場合も、東アジア諸国の研究者は伝統に縛られすぎであって、学術的な研究ができるのは欧米の研究者だという前提で論じる人が目につきます。
ですから、自分の隠れたナショナリズムに注意して研究していくほかないのですが、最近の聖徳太子関連の論文で、ナショナリズムが邪魔していて伝承の検討が十分でない面があるように思われる部分があるのが、
金任仲「高句麗僧慧慈と聖徳太子-「伊与温湯碑文」を中心に-」
(『文芸研究:明治大学文学部紀要』139号、2019年)
です。金任仲氏は、西行を中心とする日本の中世文学研究者であって、仏教の巡礼や女性の意義などにも目を向けるほか、新羅の説話と日本の関係などについても書いている研究者です。幅広く研究しておられるものの、仏教学ではないため、そうした面はやや弱いです。
さて、上記の論文は、『日本書紀』や伊与温湯碑文に見える高句麗の慧慈に関する記述をほぼそのまま信じ、慧慈の役割の重要さを論じたものです。ただ、慧慈は三論宗であって成実宗にも通じていたとする凝然『三国仏教伝通縁起』の記述を紹介してそれに従っていますが(135頁下)、これは凝然の強引な解釈です。凝然は、太子信仰が篤く、三経義疏研究に打ち込んだ結果、三経義疏は大乗の色彩を有する小乗の論書である『成実論』を尊重する梁の光宅寺法雲の系統の影響が強いことを明らかにしました。
ただ、凝然は、日本のことを諸国と違う純粋な大乗仏教の国家と規定し、その源流を太子に求めたため、太子の師である高句麗の慧慈や百済の恵聡における『成実論』基調を認めることができず、大乗諸宗の祖と称される龍樹の『中論』『百論』などに基づく大乗の三論宗の学僧であって成実宗も学んでいたとしたのです。また、これは、奈良時代半ばに、宗派ではなく研究グループとしての六宗の一つとして組織された成実宗や倶舎宗が勢力を失い、成実宗は大乗の三論宗に、倶舎宗は大乗である法相宗に吸収されて寓宗となった日本の状況を反映したものです。しかし、三経義疏には吉蔵系統の三論宗の教義は入っていませんので、慧慈はそうした系統の僧ではありません。
日本と百済の親しさ、仏教伝来の経緯から考えても、太子には百済仏教の影響、またその百済に影響を与えた中国南地の『成実論』尊重派の系統の影響があったと見るのが自然でしょう。しかし、『日本書紀』では、高句麗を日本より下ながらそれなりの大国と位置づけていたのに対し、親しい百済は日本に頼るほかない朝貢国、新羅については敵国という位置づけが目立つため、太子の師という際は、高句麗の仏教が百済より尊重されて記される傾向があります。
こうした扱いは、伊与温湯碑も同様です。最古の引用テキストでは、太子ととともに温泉を訪れたのは「恵忩」とされており、この通りであれば百済の恵聡となるはずなのに、近代の研究では「恵慈」に校訂しており、金氏も疑わずにそれに従い、この碑文を書いたのは慧慈だとして、その内容を紹介し、慧慈の意義を強調しています。
また、伊与の温泉は、時々噴き出す間欠泉だったからこそ尊重されたのですが、そうした面を含め、碑文の内容に関する先行研究の成果が充分利用されていません(たとえば、当ブログなら、こちら)。
しかも、金氏の結論は、高句麗の慧慈はすぐれた学僧であって「太子の諸政策にも大きな影響を与えたにちがいない」(140頁上)です。そうであった可能性は高いですが、現存資料はかなりかたよっているのですから、批判的な検討を加えたうえで論じないと、結論ありきの論文ということになってしまいます。
【付記:9月2日】
題名と記述を少々変更しました。