年度末のため、研究助成を受けた共同研究の報告書や出版助成による出版が多く出されており、献本していただいた本も多いため、少し前に紹介した新刊の論文集の報告(こちら)が中途で止まっていました。今回は、その論文集のうちから、
小田裕樹「法隆寺式伽藍配置の由来に関する覚書」
(網伸也編『東アジアの都城と宗教空間』、京都大学出版会、2024年)
を紹介します。
創建期の斑鳩寺であった若草伽藍は、南門、塔、金堂が南北に一直線に並ぶ四天王式伽藍配置とされてきました。実際には、若草伽藍の配置に基づいて後で四天王寺が建立されたのですが、命名された当時は、若草伽藍の発掘がなされておらず、そうした状況は知られていなかったのです。
同じ状況が、南門の北に塔と金堂が東西に並ぶ現在の法隆寺西院の配置を、法隆寺式伽藍配置と呼ぶことにも当てはまります。それは、吉備池廃寺の発掘調査が進み、舒明天皇の百済大寺の跡と推測されるに至って、この寺の伽藍配置こそが現在の法隆寺の伽藍配置の先蹤であることが判明したためです。
小田氏は、1997年に始まった吉備池廃寺の調査結果から話を始めます。金堂の基壇はなんと、東西37メートル、南北25メートルという巨大さであって、ほぼ同時代の山田寺の2.8倍でした。金堂の西に位置する塔の基壇は、一辺が約32メートル。飛鳥時代の寺でこうした大きさのものはなく、文武朝の大官大寺や新羅の皇龍寺など、国家を代表する最大の寺クラスであるため、それらと同じく九重塔であったと推測されました。
そして、軒瓦の型式から見て630年代から640年代の創建と推測されたうえ、遺跡の巨大さに較べて瓦が少ししか出ていないため、移建されたと推測されました。この条件を満たすのは、舒明11年(639)に舒明天皇によって百済宮と並ぶ形で創建された百済大寺と見るほかないことが確定したのです。
しかも、軒平瓦は、斑鳩の若草伽藍忍冬唐草文の型を再利用していたうえ、金堂の掘り込み地業や塔の版築が、若草伽藍と共通しており、百済の技術で作られた飛鳥寺などと違い、若草伽藍と同様に隋の技術を用いていることが指摘されています。
小田氏は触れていませんが、この時期は厩戸皇子は没していたものの、山背大兄が生きていて斑鳩の地で仏教事業をやっていた時期ですので、上宮王家が百済大寺の建設に協力したことは明らかですね。山背大兄は、推古天皇の後継者争いでは田村皇子(舒明天皇)に敗れたものの、その次の可能性もありましたし。
さて問題は、百済大寺がなぜ塔を西、金堂を東に並置する形をとったかであって、現在は中国・朝鮮の型式を日本で改良した形と推測されています。しかし、小田氏は、韓国の益山の帝釈寺址に注目します。益山地域は、扶余の中心部から35キロほど南東にいちしており、武王の代(600-641)に遷都を考慮して造営した別宮と見られる王宮里遺跡があります。
帝釈寺については、日本に残る『観世音応験記』によれば、貞観13年(639)に激しい雷雨があり、「七級浮屠」、つまり巨大な七重塔を含めて「帝釈精舎」の仏堂や回廊がみな焼失したとあります。
帝釈寺の伽藍配置は何期かに分けて変動しますが、小田氏は、韓国の調査報告を参考にして、639年に焼失したのは第一期の建物であって、これが同時期の百済大寺の伽藍配置と関連しているはずと推測します。
それは、百済大寺以後の薬師寺式には新羅の影響、大安寺式には唐の影響が見られるため、それ以前に日本独自の伽藍配置がなされていたのは考えがたいためです。そして、この帝釈寺の伽藍配置は、中国の型式に由来すると推測するのです。
益山には、百済最大の寺院である弥勒寺も建立されており、639年には西石塔が建立され、中央に国家を代表することを示す九重塔と金堂と北の講堂の造営が進んでいたことが明らかになっています。この寺は名が示すように、弥勒信仰に基づく寺です。
帝釈寺の方は、帝釈天信仰と百済の伝統信仰である天神信仰が融合し、国祖崇拝と結び着いて王室の権威を高める寺として王室によって尊重されており、王宮里遺跡の東側に並ぶように造営されていました。
つまり、弥勒寺より王宮に近く、王権の私的な面が強い寺院であったことが推定できると、小田氏は述べます。
推測が多いのですが、小田氏は、帝釈寺と王宮里遺跡の関係は、百済大寺と百済宮、四天王寺と難波宮というあり方と関連するものと見ます。そのため、百済大寺、つまり吉備池廃寺の伽藍配置は、帝釈寺の配置と関連しているだろうと推察します。
法隆寺式伽藍配置、つまり、百済大寺の伽藍配置は、仏舎利を蔵する塔を寺院の中心とする四天王寺式から、仏像を納めた金堂の前に儀式ができる空間を作るものでした。このため、小田氏は、百済大寺は、百済の帝釈寺を含め、高層塔を有する東アジアの多くの寺院を参考にし、取捨選択したうえで日本独自の王権の寺院として造営されたのではないかと推測するのです。
なお、上記のような性格を持つ百済大寺(吉備池廃寺)の創建瓦が難波の四天王寺の再整備に用いられたことは、前に紹介しました(こちら)。