聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

吉備池廃寺(百済大寺)と百済益山の帝釈寺から考える:小田裕樹「法隆寺式伽藍配置の由来に関する覚書」

2024年03月28日 | 論文・研究書紹介

 年度末のため、研究助成を受けた共同研究の報告書や出版助成による出版が多く出されており、献本していただいた本も多いため、少し前に紹介した新刊の論文集の報告(こちら)が中途で止まっていました。今回は、その論文集のうちから、

小田裕樹「法隆寺式伽藍配置の由来に関する覚書」
(網伸也編『東アジアの都城と宗教空間』、京都大学出版会、2024年)

を紹介します。

 創建期の斑鳩寺であった若草伽藍は、南門、塔、金堂が南北に一直線に並ぶ四天王式伽藍配置とされてきました。実際には、若草伽藍の配置に基づいて後で四天王寺が建立されたのですが、命名された当時は、若草伽藍の発掘がなされておらず、そうした状況は知られていなかったのです。

 同じ状況が、南門の北に塔と金堂が東西に並ぶ現在の法隆寺西院の配置を、法隆寺式伽藍配置と呼ぶことにも当てはまります。それは、吉備池廃寺の発掘調査が進み、舒明天皇の百済大寺の跡と推測されるに至って、この寺の伽藍配置こそが現在の法隆寺の伽藍配置の先蹤であることが判明したためです。

 小田氏は、1997年に始まった吉備池廃寺の調査結果から話を始めます。金堂の基壇はなんと、東西37メートル、南北25メートルという巨大さであって、ほぼ同時代の山田寺の2.8倍でした。金堂の西に位置する塔の基壇は、一辺が約32メートル。飛鳥時代の寺でこうした大きさのものはなく、文武朝の大官大寺や新羅の皇龍寺など、国家を代表する最大の寺クラスであるため、それらと同じく九重塔であったと推測されました。

 そして、軒瓦の型式から見て630年代から640年代の創建と推測されたうえ、遺跡の巨大さに較べて瓦が少ししか出ていないため、移建されたと推測されました。この条件を満たすのは、舒明11年(639)に舒明天皇によって百済宮と並ぶ形で創建された百済大寺と見るほかないことが確定したのです。

 しかも、軒平瓦は、斑鳩の若草伽藍忍冬唐草文の型を再利用していたうえ、金堂の掘り込み地業や塔の版築が、若草伽藍と共通しており、百済の技術で作られた飛鳥寺などと違い、若草伽藍と同様に隋の技術を用いていることが指摘されています。

 小田氏は触れていませんが、この時期は厩戸皇子は没していたものの、山背大兄が生きていて斑鳩の地で仏教事業をやっていた時期ですので、上宮王家が百済大寺の建設に協力したことは明らかですね。山背大兄は、推古天皇の後継者争いでは田村皇子(舒明天皇)に敗れたものの、その次の可能性もありましたし。

 さて問題は、百済大寺がなぜ塔を西、金堂を東に並置する形をとったかであって、現在は中国・朝鮮の型式を日本で改良した形と推測されています。しかし、小田氏は、韓国の益山の帝釈寺址に注目します。益山地域は、扶余の中心部から35キロほど南東にいちしており、武王の代(600-641)に遷都を考慮して造営した別宮と見られる王宮里遺跡があります。

 帝釈寺については、日本に残る『観世音応験記』によれば、貞観13年(639)に激しい雷雨があり、「七級浮屠」、つまり巨大な七重塔を含めて「帝釈精舎」の仏堂や回廊がみな焼失したとあります。

 帝釈寺の伽藍配置は何期かに分けて変動しますが、小田氏は、韓国の調査報告を参考にして、639年に焼失したのは第一期の建物であって、これが同時期の百済大寺の伽藍配置と関連しているはずと推測します。

 それは、百済大寺以後の薬師寺式には新羅の影響、大安寺式には唐の影響が見られるため、それ以前に日本独自の伽藍配置がなされていたのは考えがたいためです。そして、この帝釈寺の伽藍配置は、中国の型式に由来すると推測するのです。

 益山には、百済最大の寺院である弥勒寺も建立されており、639年には西石塔が建立され、中央に国家を代表することを示す九重塔と金堂と北の講堂の造営が進んでいたことが明らかになっています。この寺は名が示すように、弥勒信仰に基づく寺です。

 帝釈寺の方は、帝釈天信仰と百済の伝統信仰である天神信仰が融合し、国祖崇拝と結び着いて王室の権威を高める寺として王室によって尊重されており、王宮里遺跡の東側に並ぶように造営されていました。

 つまり、弥勒寺より王宮に近く、王権の私的な面が強い寺院であったことが推定できると、小田氏は述べます。

 推測が多いのですが、小田氏は、帝釈寺と王宮里遺跡の関係は、百済大寺と百済宮、四天王寺と難波宮というあり方と関連するものと見ます。そのため、百済大寺、つまり吉備池廃寺の伽藍配置は、帝釈寺の配置と関連しているだろうと推察します。

 法隆寺式伽藍配置、つまり、百済大寺の伽藍配置は、仏舎利を蔵する塔を寺院の中心とする四天王寺式から、仏像を納めた金堂の前に儀式ができる空間を作るものでした。このため、小田氏は、百済大寺は、百済の帝釈寺を含め、高層塔を有する東アジアの多くの寺院を参考にし、取捨選択したうえで日本独自の王権の寺院として造営されたのではないかと推測するのです。

 なお、上記のような性格を持つ百済大寺(吉備池廃寺)の創建瓦が難波の四天王寺の再整備に用いられたことは、前に紹介しました(こちら)。


『日本書紀』における仏教漢文の語法が示す重要事実:森博達「仏教漢文と『日本書紀』区分論」(2)

2024年03月23日 | 論文・研究書紹介

  前回の続きです。まずは被動句例、つまり受け身の語法から。漢訳経典では、通常の「為A所B(AのBする所となる=AによってBされる)」などの形とは異なる受け身形がしばしば用いられるだけでなく、動作主なしで「所~」という形だけで受け身を示すことがあります。梵語では受け身形が多いので。

 森さんは、『日本書紀』に見えるそうした例をあげます。たとえば、巻21の「妣皇后所葬之陵」という部分は、普通の漢文であれば、「所」の前は動作主となるため、「妣皇后」、つまり亡き母である皇后が誰かを葬った陵という意味になるはずのところが、「妣皇后の葬られたまひし陵」と受け身になっているのです。この箇所はα群ですが、森さんは用明紀と崇峻紀から成る巻21には後人の加筆が多いことを指摘していました。

 巻24では、蝦夷が国史を焼こうとした際の記事として、船史恵尺が「疾取所焼国記奉中大兄」とあり、「焼かるるる国記」となっています。これはまさに中大兄こそが史書を継承したとするものであって、中大兄の意義を強調し、中大兄の子孫やその親しい氏族の系統である自分たちにとって都合の良い史書を書こうとする者たちの作為が見える箇所ですね。

 次は、仏典に良くみられる「~已(~しおわりて)」の語法であって、これは梵語の ~tvā や ~tya (~して、~しおわって)の訳です。『日本書紀』では、この用例は4例あり、すべてα群です。そのうち、巻19は、欽明天皇時の仏教伝来の有名な箇所、「天皇聞已、歓喜踊躍」であって、最新の『金光明最勝王経』の「四天王聞是頌已、歓喜踊躍」を利用したことが知られています。

 問題は、巻21のうち、守屋合戦において四天王に誓願した後、「誓已厳種種兵、而進討伐(誓ひ已りて、種種の兵を厳りて、進みて討伐す)」とある箇所です。森さんは、これを『金光明最勝王経』の「時王見已。則厳四兵、発向彼国、欲為討伐」に基づくとし、最終段階の加筆と説きます。

 「時王見已。」の「已」は「見已(おわ)りて」であるため、「。」でなく「、」ですが、確かに『金光明最勝王経』利用の可能性はあります。ただ、隋の闍那崛多訳『添品妙法華経』にも、「時転輪王、起種種兵、而往討伐」と近い表現がありますので、そちらの可能性もないではありません。

 なお、大山説では、703年に長安の西明寺で訳されたばかりの『金光明最勝王経』を用いたのは、西明寺に留学していた道慈であって、その道慈が理想的な聖人である<聖徳太子>を描き出したとしていました。

 そうであるなら、厩戸皇子が活躍する巻22の推古紀やそれに続いて山背大兄の言動が記される巻23や巻24で『金光明最勝王経』が盛んに用いられるはずなのに、そうなっていないのは不自然ということになります。特に、推古紀で重要な「憲法十七条」が『最勝王経』の表現をまったく利用していないのはなぜなのか。

 森さんは、他の仏教漢文の特徴も検討したのち、これらの語法が『日本書紀』では巻によって偏って用いられていることに注意します。

 仏教漢文の語法は、β群にだけ見られることが多く、たとえば理由を示す「因以~」は、106例もあるのにすべてβ群であり、「有~之情」も11例すべてがβ群である由。これには気づきませんでした。驚きですね。

 「動詞 + 之日(〇〇する/した日)」という語法も、全28例のうち、β群が25例で、α群に2例、巻30に1例という偏った分布になっており、α群の2例は例のように乙巳の変と大化の改新の詔勅です。正格漢文に近い文体で書かれてる巻30のこの箇所は、新羅の弔使への詔勅であって、この詔勅は倭習が目立つため、森さんは原資料を転載した可能性が高いとします。

 森さんはこれまでの著作では、『日本書紀』で倭習が目立つのは、上宮王家滅亡、乙巳の変、大化改新の詔勅の3箇所だと指摘してきましたが、仏教漢文が目立つのも、まさにこれらの箇所だったのです。

 結論として、森さんは『日本書紀』における仏教漢文の大きさを知ったとし、これまでβ群の撰述者として、渡来系氏族出身で僧侶として新羅に渡って学び、還俗して文人学者となった山田史御方を想定してきたが、今回の検討によってもそれが裏付けられたと説きます。

 そして、α群は唐人の音博士であった続守言と薩弘恪が正格漢文で書いたが、最終段階で三宅藤麻呂がα群を中心として特定の記事に潤色・加筆したのであって、α群に見える変格漢文は、この加筆か原史料の反映と見ます。

 藤麻呂についても、おそらく新羅からの渡来系氏族であって、御方と同様に仏教を学んだろうと推測します。ただ、御方と藤麻呂では、「使用する仏典表現にも相違があるのだ」と説いてしめくくっています。

 これは画期的です。同じく仏教漢文の語法でありながら、人によってどの語法を用いるかの違いが出るというのは重要な発見です。この論文によって、『日本書紀』の語法研究は新しい段階に入りました。

 ただ、聖德太子関連の箇所に見える仏教漢文の語法については、『日本書紀』の編者の文ではなく、四天王寺系の聖徳太子伝ないし四天王寺縁起を利用した結果である可能性もありますね。『日本書紀』以前にそうした文献が出来ていたことについては、今月中に私の論文が刊行されますので、出たら紹介します。

 なお、仏教の表現がいかに日本の文章表記に影響を与えたかは、先日刊行された私の『源氏物語』論文でも指摘しておきました(こちら)。

 つまり、「思い知る」は漢訳の「念知」であり、「心から」という語は近世以前は「自業自得」の「自」を和語化したものであって、これを最も多く使って登場人物の心理を描きわけたのは『源氏物語』であり、女は「宿世」に流され、男は「心から」行動して悩むというのが『源氏物語』の基本構造だと論じたのです。

 近世になると、「欲の心から」などの用例が示すように、「~の心に基づいて」の意味で「心から」という言い方が用いられるようになりますが、現在のような「心から申し訳なく思います」といった言い方は、from the bottom of my heart などの翻訳語法だろうと説きました。

 これからも分かるように、仏教の影響に注意しないと、古代・中世の文献は読めないのです。


『日本書紀』における仏教漢文の語法が示す重要事実:森博達「仏教漢文と『日本書紀』区分論」(1)

2024年03月20日 | 論文・研究書紹介

 久しぶりの森博達さんの力作の論考です。定年退職後、日本語と系統が近いトルコ語の勉強を始め、一昨年と昨年は、イスタンブールのトルコ語の学校に2ヶ月つづ通われた由。

 凄いですね。私は、退職後はベトナム語の学校に通う予定でしたが、コロナ禍でのびのびになったままです。たくさん抱えている仕事を一段落させて、来年あたりから通ってしっかり学び、2010年に不出来なまま出してしまったベトナム仏教史の概説を書き直したいものですが。

 さて、その森さんが、『日本書紀』に見える仏教漢文の語法に関する画期的な論文を発表されました(有難うございます)。森さんには、2012年から4年間、私が代表となり、科研費研究「古代東アジア諸国の仏教系変格漢文に関する基礎的研究」にご瀬間さんとともに参加いただきました。

 日本からは森博達・金文京・瀬間正之・奥野光賢・師茂樹、中国からは董志翹・馬 駿、韓国からは鄭在永・崔鈆植などの諸先生にご参加いただいたのですが、森さんには上記の人選を含め、いろいろと助言していただきました。後に若手研究者となって『日本書紀』の語法の本(こちら)を出した葛西太一さんも、当時は瀬間さんの指導を受ける大学院生として参加したことがあります。

 今回の森さんの論考は、この共同研究がきっかけとなり、仏教漢文にも注意されるようになって始めた研究をまとめられたものです

 その論文は、

森博達「仏教漢文と『日本書紀』区分論」
(吉田和彦編『ことばの不思議ー日本語と世界の言語』、松香堂書店,]2024年)

です。奥付では3月31日刊行となっていますが、刊行元である京都産業大学の学術リポジトリには既にPDFが掲載されました(こちら)。

 私は森さんの『日本書紀の謎を解くー述作者は誰かー』(中公新書、1999年)に衝撃を受け、三経義疏の変格漢文について調査を始め、その一環として『日本書紀』の一部に見られる仏教漢文についても検討し、論文をを書いたのですが(こちら)、今回の森論文はそれを『日本書紀』全体にあてはめ、仏教漢文の語法について徹底した検討を加えたものです。

 『日本書紀』が『金光明最勝王経』などの文章を使っていることは、家永三郎が早くに指摘しており、小島憲之などが仏典利用の研究を進め、瀬間さんも『風土記』と『日本書紀』に見える仏教漢文の語法の例を指摘したのですが、今回の森論文によって、これまで以上に語法に注意して読む必要性が高まりました。

 仏教漢文の語法についてこれだけ網羅的な研究がなされたのは初めてであって、まさに画期的なものです。結果としては、これまでも森さんの区分論と、それぞれの部分の担当者に関する主張を裏付けるものとなった由。

 いずれにしても、『日本書紀』中で目についた単語だけ拾い、「日本は伝統的に~だった」などと論じることはできなくなったのです。なお、森さんは「倭習」という言葉を使っているため、この記事ではそれに準じます。

 構成は、簡単にまとめると、

 1.『日本書紀』に関してこれまで指摘された仏典の利用

 2.近年の仏教漢文に関する研究、『日本書紀』におけるそうした語法の例

 3.『日本書紀』の変格表現のいくつかは仏教漢文であったこと

 4.『日本書紀』における仏典表現の偏在、各群の性格と編集過程

となっています。

 最初に1では、森さんの『日本書紀の謎を解く』『日本書紀 成立の真実ー書き換えの主導者は誰かー』(中央公論社、2011年)とその他の論文で明らかにしたことが示されます。『日本書紀』区分論、すなわち、α群は持統朝に中国人の続守言と薩弘恪が書き、β群は文武朝に新羅留学の山田史見方が書き、元明朝に紀朝臣清人が正格漢文に近い文体で巻30を述作し、三宅臣藤麻呂が誤用・奇用が目立つ文体で全体に潤色・加筆をおこなったとする説を、まず提示します。

 続いて、従来の研究を紹介しており、小島憲之は、703年に義浄によって漢訳されたばかりの『金光明最勝王経』が、巻15・16・17・19・20・21で用いられていることを指摘したと述べます。これらはすべてα群です。

 (この指摘が、義浄の住した長安の西明寺に留学した道慈による聖徳太子伝説執筆説の背景の一つとなったわけですが、聖德太子の活動が特記される肝心の巻22の推古紀で用いられていないのが致命的ですね)

 続いて、瀬間さんによる研究が紹介されます。瀬間さんは、仁徳紀の兄弟相譲譚や時代来上の火仲出征譚には仏典の影響があるとし、また「未経幾〇(いまだ幾ばくの〇を経ずして)」という語法は、『経律異相』などの仏典に多く見られるものであってβ群に偏在することを明らかにしました。

 森さんは、本来は主語の後に来る「亦」がβ群に偏在することを指摘しましたが、これについては、石井氏からこうした語法は仏教漢文には多いことを指摘されたと述べます。

 そして、森さんは、言うという意味の「噵」は朝鮮俗漢文と仏典に見られることを指摘し、この字は『日本書紀』ではα群に8例、β群に3例見られるものの、α群のうちの4例は朝鮮関係記事、巻24の2例は上宮家滅亡記事、そしてβ群の3例は巻23の舒明即位前紀であって、舒明と山背大兄の後継争いの部分であって、この箇所は和習が見られるβ群の中でも変格用法が特に目立つ由。

 つまり、上宮王家関係であって、後の加筆と思われる部分に多いということになります。

 ついで、仏教関係記事が見える巻19の欽明紀から上宮家滅亡が記される巻24までの仏教漢文や変格漢文を指摘した石井の論文の内容を詳しく紹介します。森さんはそれに基づいて考察を加え、「到於~(~に到る)」と「於」を入れて字数を調えて四字句にする例は、大化の改新の詔勅に見えるとします。この時期の詔勅は、一連の詔勅はα群の中でも特に倭習が目立つ箇所なのであって、『日本書紀』編集の最終段階近い頃に後から書かれたものなのです。

 次に、中国で急に発展してきた仏教漢文の研究状況について紹介します。その一例が、四字句や五字句に調えるために不要な「於」などの助字を加えることです。『日本書紀』にもそれが見られるのであって、中国の標準的な漢文と比較していた森さんの以前の著作では、これらを「奇用」としていたのですが、森さんは「結局、これは仏教漢文だったのだ」と感慨を漏らしています。

 β群で3例、特別である巻30の1例をのぞけば、他の18例はすべてα群であり、特に目立つのは、巻25の孝徳紀に4例見えていて、そのうちの3例が大化の改新の詔勅であることだと述べます。

  他に目立つのは朝鮮漢文の記事であって、これは森さんが前著で既に指摘したよう、朝鮮の原史料を尊重してそのまま用いたためと見ます。目立つのは、巻21の崇峻紀に4例見え、しかも3例は崇峻暗殺の記事であって、この部分には「所」という字の誤用も見られる由。崇峻紀にはかなりの加筆がなされているのです。

 漢籍で用いられ、仏教漢文でも良く見られる「~不?」という疑問の形については、例によって朝鮮関係の記事と大化改新の詔勅に集中して出てくると述べます。大化の改新の詔勅は本当に怪しいですね。

 明らかに仏教漢文の特色とされる「除~(~を除いて)」の語法については、口語表現であって中国では唐代まではほとんど現れないにもかかわわらず、仏典にはしばしば見え、『日本書紀』ではβ群にのみ11例も登場します。

 そこで、森さんは、新羅に僧侶として留学し、後に還俗して文人学者となり、大学頭にまでなった山田史御方がβ群の筆者だとする自説が確認できるとします。そして、仏教漢文の語法と言っても、α群とβ群では個性の違いがあるとします。これは重要な発見ですね。 


『日本書紀』で後に増補されたのは天孫降臨・聖德太子・大化改新・壬申の乱:瀬間正之「日本書紀形成論に向けて」

2024年03月16日 | 論文・研究書紹介

 少し前に瀬間正之さんと葛西太一さんの論文が掲載された『日本書紀』の論文集を紹介しました(こちら)。その瀬間さんの新著が3月1日に刊行されました(瀬間さん、有難うございます)。

瀬間正之『上代漢字文化の受容と変容』(花鳥社、2024年)

です。この3月で上智大学を定年退職するにあたり、最近の論文をまとめたものである由。構成は以下の通り(詳しい目次は、花鳥社のサイトにあります。こちら)。

初出及び関連論文
序に代えて
はじめに——上代という特殊性——
第一篇 表記と神話——東アジアの文学世界——
 第一章 高句麗・百済・新羅・倭における漢字文化受容
 第二章 〈百済=倭〉漢字文化圏——音仮字表記を中心に——
 第三章 『古事記』の接続詞「尒」はどこから来たか
 第四章 上代日本敬語表記の諸相——「見」「賜」「奉仕」「仕奉」——
 第五章 文字言語から観た中央と地方——大宝令以前——
 第六章 漢字が変えた日本語——別訓流用・字注訓・字形訓の観点から——
 第七章 高句麗・百済建国神話の変容——古代日本への伝播を通して——
 第八章 歌謡の文字記載
 第九章 清明心の成立とスメラミコト——鏡と鏡銘を中心に——
第二篇 文字表現と成立——達成された文字表現から成立論へ——
 第一章 万葉集巻十六題詞・左注の文字表現
 第二章 『論語』『千字文』の習書木簡から観た『古事記』中巻・下巻の区分
 第三章 藤原宇合の文藻——風土記への関与を中心に——
 第四章 菟道稚郎子は何故怒ったのか——応神二十八年高句麗上表文の「教」字の用法を中心に——
 第五章 欽明紀の編述
 第六章 続・欽明紀の編述
 第七章 『日本書紀』β群の編述順序——神武紀・景行紀の比較から——
 第八章 日本書紀形成論へ向けて
  一 記紀の成立年と日本書紀区分論
  二 日本書紀と太安万侶
  三 アマテラスの成立と記紀
  四 形成論に向けて
後記
総合索引/研究者・辞典類・研究機関索引

以上です。ここでは、聖德太子に関わる第八章を紹介しますので、そこだけ節の名もあげておきました。この目次を見てもわかるように、『日本書紀』読解の進展ぶりが分かりますね。

 『日本書紀』のあちこちから目についた単語だけ拾い、「『日本書紀』は~」などと論じることはもはやできず、執筆者の違い、元の文章なのか編集の最後になって訂正・加筆された部分なのか、また朝鮮資料や半島系渡来人が書いた資料、仏教文献の語法が色濃く出ている箇所などに注意しなければ、正確に読めない時代になったわけです。

 瀬間さんは、国語学者としては珍しいことに、早くから日本古来の伝承とされてきた『古事記』の内容や表現が仏典と類似していることに注意し、梁代の宝唱が516年に編纂した仏教の類書である『経律異相』に着目、パソコンの草創期のため自ら電子化したうえで『古事記』と比較し、『古事記』の説話は意外にも仏典に基づいた部分があることなどを発見してきました。私はその頃からのパソコン仲間です。

 これまでの自他の研究を踏まえて今後の研究の方向を示したこの第八章では、瀬間さんはまず、720年に成立した『日本書紀』の僅か8年前に『古事記』が成立しており、しかも、内容から見ると『古事記』の方が新しいとする見方が現在の通説であることに注意をうながします。

 そして、歌謡と訓註の仮名が中国語原音に依拠しており、中国人の執筆と見られるα群とそうでないβ群による区分論を唱えた森博達さんの説を紹介したうえで、β群はα群よりも『古事記』に近い面がある例をあげます。

 太安万侶の太氏の子孫である多人長「弘仁私記序」や「日本紀饗竟宴和歌序」では、『日本書紀』は舎人親王と太安万侶などが撰述したとしていることに触れ、恩師である太田善麿氏が太安万侶の『古事記』序と『日本書紀』巻13以前の類似を指摘したことをさらに詳細に検討します。

 たとえば、その両方に見える「未経幾〇」という語法は、中国古典にはなく、漢訳仏典に含まれており、『古事記』の潤色に用いられた『経律異相』にも数例見えるのです。

 β群は仏教漢文の影響が強いことを瀬間さんが指摘したこともあって、森博達さんはβ群の筆者として、新羅に留学した後に還俗した山田御方だとし、『万葉集』に見える「三方沙弥」がその前身だとしたのですが、瀬間さんは森さんのα群β群説を評価しつつも、「三方沙弥」が山田御方かどうかは異説もあるとし、『古事記』との類似から見て、太安万侶も有力視されると述べます。そうなると、太安万侶と仏教の関係を知りたくなりますね。

 『古事記』は一貫して「天照大神」の語を用いており、『日本書紀』β群にもその呼称が見えるものの、α群では「日神」「伊勢大神」の呼称しか出てきません。そこで、瀬間さんは、森さんの主張と筑紫申真氏の天照大神論により、『日本書紀』はα群から書き始められたことは確実とします。アマテラスも儀鳳暦を用いているβ群に見えることから、元嘉暦から儀鳳暦に移った698年以後にβ群が書き始められ、アマテラスもそれ以後の成立と説きます。

 そして『日本書紀』区分論については、このブログでも紹介した葛西太一さんの区分、森さんの区分、そして変格漢文の有無その他による榎本福寿氏の区分論を以下のように対比します。

  

 また、聖德太子の姉であた酢香手姫が伊勢の斎宮になったことについて、用明紀に「炊屋姫天皇の紀に見ゆ」という注があるものの、現在の推古紀には見えないことから、元になった現在とは別の推古紀があったとする森さんの説に賛成し、α群風な推古紀があったと推測します。

 以上の検討を踏まえ、瀬間さんは、『日本書紀』が強調している天皇家支配の正当性を示す箇所として、天孫降臨、聖德太子伝説、大化の改新、壬申の乱をあげ、これらは大化の改新以外はすべてβ群であることに注意します。大化の改新の部分は、α群でありながら変格漢文がきわめて多く、後から加筆されていることで有名ですね。

 聖德太子と山背大兄について詳しく説いているのは巻22と23であって、ともにβ群に属します。瀬間さんは、この両巻も元はα群で書かれていたものが、大幅に改稿されたと見るのです。

 大化の改新前後も、歌謡の部分はα群ですが、漢文の誤用の多さはβ群と較べても際だっています。このため、瀬間さんは、孝徳紀も「原孝徳紀」を大幅に書き改めたことが推定されると述べます。

 瀬間さんはこのように結論づけたうえで、α群において誤用・奇用が多いのは朝鮮半島関連記事の編述がなされた時期、また仏教漢文による潤色がどの時期になされた時期など、検討しなくてはならない課題は多いとしてしめくくっています。

 これ以外の章を読んでみても、『日本書紀』編纂の経緯がこれまで以上に明らかになっています。アマテラスの成立と神武天皇の記述は同じ時期、つまり天武天皇以後になること、しかも仏教の影響もあることについては、今後も検討してゆくべき指摘です。

 なお、瀬間さんは『アリーナ2008』に書いた論文では、推古朝遺文と呼ばれるものは7世紀末から8世紀初めの成立と見る立場であって、他の用例から見て「天寿国繍帳銘」などは文武天皇以後などと推測していました。

 ただ、「天寿国繍帳銘」などが現存最古の例だったらどうなるのか。奈良時代の正倉院の写経関連記録のように、何年何月何日に書写が終わるとか、何年何月何日に経典をどこどこに返した、といった記事がずらっと揃っているなら、「こういう表現は何年から後になって使われる」と言えますが、上代の文字資料で残っている例はごく僅かです。

 また、後世の偽作説や中国伝来説もあった三経義疏は、文体・用語がそっくりであって、いずれも100年近く前の南朝の梁の注釈を種本にしていました。645年に中国に戻った玄奘三蔵が新しい訳語を盛んに作り、教義も進んだ7世紀後半になって、こんなに時代遅れの古くさい注釈を手本にして書くでしょうか。

 しかも、変格漢文満載で、それも韓国の変格漢文には見られない、『源氏物語』を思わすようなうじうじと長たらしい文体で書かれた注釈であることを考えねばならず、そのうえ、その三経義疏と「憲法十七条」は、語法を含めて共通する点が多いことを考えてみる必要がありますね。


聖徳太子の磯長墓から出たとされる棺の破片を放射性炭素年代判定:岡田文男「安福寺蔵漆棺考」

2024年03月11日 | 論文・研究書紹介

 聖徳太子の磯長墓から持ち出されたと推測される安福寺所蔵の夾紵棺の断片については、以前、このブログで紹介しました(こちら)。他の夾紵棺の出土例では、漆で貼り合わせた布が20枚とか35枚とかであるのに、安福寺のものは42枚ほど重ねており、飛び抜けて豪華で精緻な作りになっているという内容です。

 今回は、その布をAMS(加速器質量分析法)によって放射性炭素の年代測定をしてみた試みの報告であって、

岡田文男「安福寺蔵漆棺考-AMS14C年代測定・制作技法・部位」
(『国立歴史民俗博物館研究報告』第225集、2021年3月)

です(小さな数字の14は、本来は上つき)。

 岡田氏は、そのうちの剥落した破片をAMS法によって測定してもらったところ、較正による1σは575-620年(確率 68.2%)、2σは563-641年(確率 95.4%)となった由。聖徳太子は622年没とされていますので、この範囲におさまります。前々回に紹介した白石太一郎氏による横穴式石室の年代設定、つまり、太子墓の石室の型式である岩屋山式は7世紀半ばからそれ以降とする設定とは合いませんね。

 構成については、絹布を漆で塗り固めた層と、地粉と漆を混ぜた層を交互に重ねており、表面は漆を二度塗りして「非常に平滑に仕上げている」が、糸が細くて均一な絹布ではなく、糸の太さも形状も様々であって「麁布(粗い布)」とされていた「絁(あしぎぬ)」であった可能性が高いそうです。

 このため、岡田氏は、この破片の元になった棺を夾紵棺と呼ぶのは適切ではないため、奈良時代の呼び方である漆棺と呼ぶべきだとします。

 そして、安福寺の破片はこれまで棺の短辺の一部とされてきましたが、阿武山古墳の漆棺、法隆寺五重塔初層西面金棺その他の夾紵棺の大きさの縦横の比率を考慮すると、これが短辺の場合は長辺は3メートルを超える大きなものとなって棺台におさまらないため、実際には長辺の一部だったと見ます。

 なお、地粉に用いた粉は、多孔質であって火山灰に似ているため、その後に調査したところ、すぐ近くにある二上山麓の火山灰堆積層の火山灰粒子と同様であることが判明した由。適した材料が選ばれ、工夫した作業がなされていたことが分かりますね。


守屋合戦と「憲法十七条」に見える「自敗」は巻13以前の用例とは性格が異なる:葛西太一「自敗自服する賊虜と日本書紀β群の編修」

2024年03月06日 | 論文・研究書紹介

 このところ、聖徳太子に関わる論文を含めた古代史の本が続いて刊行されていますが、面白いのは、以下の2冊が偶然ながらともに2月26日に出版され、同じ日に献本が届いたことです。

 一つは、山下洋平さんの『日本古代国家の喪礼受容と王権』(汲古書院、2024年)です。山下さん、有難うございます。「憲法十七条」における『管子』の影響を論じた山下さんのすぐれた論文は、このブログでも紹介しましたが(こちら)、その論文も収録されています。最近、考古学の発見が続いているだけに、古墳や墓の変化と中国から受容した喪礼がどう関わるかは重要な問題ですね。

 もう一冊は、『日本書紀』の編纂について語法の面で論じた論文集であって、このブログで取り上げた上智大学国文学科の瀬間正之さん(こちら)と葛西太一さん(こちら)の論文が収録された、小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝来』(雄山閣、2024年)です。瀬間さん、葛西さん、有難うございます。

 瀬間さんは、私が科研費によって仏教系変格漢文の国際研究プロジェクトをやった際のメンバーの一人であり、現在はつくば大の准教授となっている葛西さんは、その節は大学院生として会議に来たりしてました。

 なお、瀬間さんは、パソコンで漢字が使えるようになったばかりの最初期からのパソコン仲間であって、国文科で『源氏物語』を1年間講義する非常勤講師として私を招いてくれたうえ、昨年の『源氏物語』シンポジウムにも招いてくれています。

 おかげで『源氏物語』は、自業自得の「自」の和語化である「心から」の語を多用し、宿世に流される女と「心から」動いて問題を興して悩む男の対比構造になっていることを発見できました(こちら)。和語化というのは訓読の問題でもあり、「憲法十七条」をどう訓読するかという問題にも関わることは、少し前の記事で書いておきました(こちら)。

 それはともかく、今回の論文集では、瀬間さんが書いているのは「雄略紀朝鮮半島記事の編述」ですので、聖徳太子ブログとしては、太子関連記事に関わる葛西さんの論文を紹介することにします。

葛西太一「自敗自服する賊虜と日本書紀β群の編修ー太安万侶の関与をめぐって」

です。

 葛西さんは、『日本書紀』は、他の巻を参照するようにと指示があっても、そちらには記載がなかったり、同じ語について巻によって異なる注記がなされたりするなど、全体の統一が不十分であるものの、かなりの数の巻にわたって表記の統一がはかられている場合おあることから話を始めます。「天照大神」という呼称は、森博達さんが指摘したようにβ群にしか見えないこともその一例です。

 そこで、そうした例の一つとして葛西さんが着目したのが、「自敗、自服、自伏、自平」などの表現です。つまり、激しく戦わなくても、相手が勝手に敗北したり、服従してきたりするという意味の語ですね。たとえば、巻三の神武紀、巻七の景行紀、巻八の仲哀紀には中国文献にしばしば見える言い回しである「不血刃」、つまり、刀を血でぬらさないのに「虜必自敗」とか「賊必自服」などとあり、戦わずして勝つことが書かれており、しかもこれらはすべて森さんの指摘したβ群なのです。

 葛西さんは、これに類した表現が巻五の崇神紀、巻九の神功紀などβ群の多くの巻に見えているとし、国について「自ら平らぐ」と説かれるような例も、「天照大神や天神地祇の霊異を天皇が負うことによって」であって、上記と同じ発想に基づくことに注意します。

 巻二の神代紀下と巻四の綏靖紀には兄弟の間で用いられていますが、どちらも兄が正当な弟に自づと服従する形であって、タイプは同じだとします。

 これらはすべて巻十三までのβ群の用例であって、巻十四以降にも「自敗」「自服」の類の語が見えるが文脈が違うと葛西さんは説きます。このブログと関わる巻二十一の崇峻即位前紀の守屋合戦の例では、迹見首赤檮が木に登って矢を放っていた守屋を弓で射おとし、守屋とその子たちを殺すと、守屋の軍勢が「忽然自敗」したとあります。以後は、打ち倒さないのに逃げていったということですね。

 また、巻二十にの推古紀に見える「憲法十七条」の第三条では、「承詔必謹」が説かれ、地が天を覆おうとしてはならないとされ、天皇の詔勅を聞いて慎まない臣下は「自敗」するだろうと述べられています。これは警告ですね。

 ここで私の考えを書いておくと、古代の人々はこの世界には邪気や呪詛で満ちており、何かに守られないと死んでしまうと思っており、仏教信者の場合は仏法守護の神たちが守ってくれているものの、悪業をなすと神が見放してしまうため、自然と死んでしまうことになるのです。高祖の霊を背負う天皇の威徳によって自然に従うようになるという発想ではないですね。

 つまり、崇峻前紀はα群であり、推古紀はβ群ですが、いずれも巻十三までのβ群とは異なる用例になっているのです。β群の中にも矛盾するような箇所、表記が統一されていない箇所はあるものの、天照大神や天神地祇の威力を背負った天皇については賊虜が自然と従うという点については、表記がほぼ統一されていることになります。これは、「天照大神」の語がβ群にしか見えないことと連動しています。

 そこで、葛西さんは、「頼皇霊之威」とあるように、介詞の「頼」の目的語として皇祖などの霊威をあげる用例はβ群に限られており、そもそもその「皇霊」を初めとして、「皇命、皇位、皇威」などの言葉はβ群に集中し、「皇祖」とされる「高皇産霊尊」や天照大神が以後の天皇たちの行動と結びつけられていることに注意します。

 そして、葛西さんは、誰がそのような統一をおこなったを検討し、「頼~」の形は『古事記』序文に「頼先聖」とあることに注意し、太安万侶がβ群の統一に関与した可能性を示唆します。これは最後に触れただけで、以後の課題としていますが、可能性はありますね。

 この葛西さんの論文が示すことの一つは、『日本書紀』編集の後期になって、天照大神などの皇祖神が子孫である天皇を庇護することを強調する編集作業がなされたものの、「憲法十七条」はまったく方針が違うということですね。

 「憲法十七条」は「天皇」という語も「皇」の語も使わず、「神」に触れず、万国で尊重されている仏教による統治をめざしていますので、日本独自のx神話によって天皇を権威づけようとした天武天皇以後、とりわけ『日本書紀』編纂の最終段階における皇祖神重視の方針とはまったく違うのです。それなのに、十七条がそっくり記されているということは、いかに重視されていたか、ということですね。


『日本書紀』は和語の伝承を漢文化したものとされ、古訓では復元のつもりで和語を創作:福田武史「『日本書紀』の訓読がもたらしたもの」

2024年03月02日 | 論文・研究書紹介

 現在、「憲法十七条」の本を執筆中ですが、悩むのは訓読をどうするかです。平安時代の古訓を載せるのか、国語学者の協力を得てさらに考察し、より古い形を復元するよう努めるのか、太子当時の訓み方を示すのは諦め、現代の普通の形の訓読にするのか。

 その点、参考になるのが、2021年に刊行された神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝訳・校注『新釈全訳日本書紀』上巻(講談社)です。この本は原文と現代語訳はのせていますが、工夫された訓読は付されていません。そうなった理由を述べたのが、共著者の一人による、

福田武史「『日本書紀』の訓読がもたらしたもの」
(『和漢比較文学』第71号、2023年8月)

です。

 福田氏は、『新釈全訳日本書紀』の解説では、では、中国人のように読むことを主張した吉川幸次郎が、『尚書正義』では従来の漢文訓読法に執着する必要はないとし、原文と現代語訳だけにしたことにならったと、と記してあるというところから話を始めます。

 実際には、岩波書店の日本古典文学大系の『日本書紀』が、「おおむね平安時代の中頃の漢文訓読の文体によって統一することをはかった」と述べ、小学館の新編日本古典文学集の「在来の古来の古訓を批判し採用しつつ、やや音読の方に目を向けようとした」と述べていることに対する批判による由。
 
 というのは、『日本書紀』の訓読は、ほかの漢籍や日本漢文の訓読とは本質的に異なるためだと述べます。

 『日本書紀』については、純粋な日本語で伝えられていたものを漢文に訳したものだと見ることは、平安時代における『日本書紀』の講書における議論で明示されています。ですから、当時は、漢文で書かれた『日本書紀』を訓読することは、古代の日本語で伝えられていた神話・物語を復元する行為だと考えられていたのです。
 
 当然のことながら、その訓読はできるだけ和語を用いるようにしますので、漢字音で訓んだ部分は少なくなります。しかし、『日本書紀』が書かれていた当時、そのように訓読していたかどうかは分かりません。

 これを「憲法十七条」で言うなら、「以和為貴」は、「わをもって」なのか、「やわらかなるを」なのか、「あまなひを」なのか、つまり「和」を和語にするのか、「以」は訓むのか訓まずに単に「~を」とするのか、ということになります。「~をもって」は漢文くさいので、できるだけ和語風にするというなら、「やわらかなるをとうとしと」となるでしょう。「為」も「なす」は漢文調だということになれば、「とうとしとし」となります。

 いずれにしても、『日本書紀』は中国の史書を切り貼りして人名のところだけ変えたようか箇所もかなりありますので、古代の日本語で書かれていたように復元するというのは「虚構」なのです。

 そのため、『日本書紀』の古訓とされるものの中には、古くからそう訓まれてきた語、新たに発見された古語、あるいは『日本書紀』の訓読の課程で新たに創出されたものもあったのです。そして、一度、そうした言葉が古訓として確立し、古語として権威を持つようになると、和語の文学である和歌で用いられ、広まっていった例もあり、中には秘伝とされた例もある由。怖いですね。