聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

飛鳥・斑鳩・難波の寺に瓦を供給した瓦窯は蘇我氏が管理する屯倉にあった:上原真人「初期瓦生産と屯倉制」

2021年12月30日 | 論文・研究書紹介
 少し前の記事で、百済の王興寺から倭国の飛鳥寺に至る事情を検討した鈴木靖民氏が倭国の外交と中宮寺の弥勒像の関係を説いた論文を紹介しました。その飛鳥寺を初めとして、飛鳥や斑鳩の寺の創建、再建については、珍説奇説も少なくありません。確実なのは瓦の研究ですので、これを判断の基準とする必要があります。

 その瓦は瓦窯で焼かれます。このブログでは、そうした瓦窯に関する論文をいくつも紹介してきましたが、その瓦窯とヤマト朝廷の直轄地である屯倉(みやけ)の関係に関して早い時期にすぐれた指摘をしていたのが、

上原真人「初期瓦生産と屯倉制」
(『京都大學文學部研究紀要』42号、2003年3月)

です。

 上原氏は、飛鳥寺の造営から話を始めます。飛鳥寺の瓦は、百済の王興寺を造営したグループから来た4人の瓦博士、それも星組と花組と称される異なる系統の瓦を作成した2組の工人たちが指導して作成しますが、何しろ日本初のことですので、飛鳥寺に隣接する南東の丘に瓦窯が2基、作られました。以後の瓦窯が寺から離れた場所に設置されたのとは異なり、作業している工人の姿も見える距離です。

 星組が作成した弁端点珠形式の瓦は、僧寺である飛鳥寺と対になる尼寺である豊浦寺の金堂でも用いられ、さらに斑鳩の若草伽藍金堂と創建瓦となります。若草伽藍では、その瓦当笵を用いたほか、やや丸みを帯びた花弁の先端に珠点を置く瓦の瓦当笵を新たに造りだしました。この瓦当笵は、かなり使われ、痛みが進んだ段階で四天王寺の瓦の作成に用いられました。

 このほか、星組の系統の瓦は、河内新堂廃寺の創建瓦として用いられたほか、7世紀前半のうちに大和・摂津・河内の広い地域で用いられ、トレースできます。これは星組の工人たちが伝統を墨守する傾向があったためと吉川氏は説きます。

 一方、花組の瓦は、豊浦寺で用いられたほか、和田廃寺、古宮遺跡、南山城の高麗寺などでも用いられているものの、主力ではなかったとされます。このため、花組は影が薄いとされるのですが、吉川氏は、中央では傍流でも、地方では広範に活動していたとし、目立たないのは技術的に柔軟であって、従来の須恵器の工人たちが動員された結果、変化が進んだためと見ます。四天王寺創建瓦を生産した楠葉平野山窯も、瓦と須恵器の生産を兼業していました。

 問題は、飛鳥寺の創建瓦はすぐ側の瓦窯で焼かれたのに対し、豊浦寺に瓦を供給した山背の隼上り窯は、豊浦寺から北に50km も離れていることです。四天王寺の瓦を焼いた楠葉平野山窯は四天王寺から30km、豊浦寺や奥山廃寺に瓦を供給した明石市の高丘窯は80km、豊浦寺や奥山廃寺に供給した岡山の末ノ奧窯に至っては、180kmも離れています。そこまでいかないものの、数十km離れている例は他にもあります。

 そこで吉川氏が注目したのは、これらの遠い瓦窯の地が、蘇我氏が管理していた屯倉の地とされる土地と見事に一致することです。つまり、早い時期に瓦を生産したのは、天皇・皇族の屯倉の所在地、あるいは屯倉の近くにあって水運の便の良い拠点近くの土地であって、上宮王家を含む蘇我氏や秦氏が関わっていた土地なのです。そう言えば、蘇我氏が台頭したのは、渡来人を使って屯倉を管理したことが一因でした。

 これらの地に築かれた瓦窯は、特定の寺専用ではなく、他の寺の瓦も供給したほか、瓦窯周辺の地域の寺の瓦も作成したとします。屯倉は農業の生産地に設置されるのですが、吉川氏は、その近辺の山林、河川、海浜なども含めた領地支配となっており、窯業技術がもたらされて産業が発展したと見るのです。

 ただ、初期にはその地域の寺は無く、飛鳥・斑鳩・河内などの寺に運ばれたため、瓦の生産は「貢納」という面を持っていたと、吉川氏は推測します。

 これは重要な指摘ですね。瓦は最初期には寺だけ、後もしばらくは寺と政庁にだけ用いられましたので、蘇我氏、それを受け継いだ王権によって管理されていたことになります。瓦の生産は、最先端の国家技術だったのです。

 仏教自体は渡来人によって公伝以前に各地に入っていたと思われますが、早い時期に瓦葺きの壮大な寺院を建設できたのは、またその瓦を供給できたのは、中国南朝と交流していた百済の国家技術を導入した蘇我氏とその関連氏族だけでした。

 仏像や仏とおぼしき像が見える鏡などは、古いものが各地で発見されていますが、6世紀末から7世紀半ば頃の大きな寺院の遺跡や瓦窯などについては、蘇我氏、蘇我系である上宮王家、そして上宮王家と関係深く、その資産を受け継いだと思われる舒明天皇関連以外の地で発見されないのは、当然ですね。

【重要】「憲法十七条」第一条の「和」と疑問箇所の典拠が判明:聖徳太子シンポジウムで講演予定

2021年12月27日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 少し前の記事で、「憲法十七条」の第二条・第十四条の典拠となるだけでなく、「憲法十七条」全体の基調となっているのは大乗戒経の『優婆塞戒経』であることを指摘した拙論が刊行されたことを紹介しました(こちら)。この発見のおかげで、第二条中で違和感をおぼえてきた箇所が、なぜそう書かれているのか分かりました。

 古代の文献は、典拠と語法に注意しなくては正確に読めないという一例ですが、拙論刊行後になって、さらに「憲法十七条」の第一条のうち、疑問に思われる箇所が基づいていた儒教の文献を発見しました。

 第一条では、「和」を強調したのち、世の人々は党派を組みがちであって、悟っている者が少ないため、「是を以って、或いは君父に順わず、また隣里に違[たが]う(以是、或不順君父、乍違于隣里)」、つまり、「君主や父の言うことに従わず、また近隣と仲違いする」と述べており、それを防ぐために「上和下睦」してなごやかに話し合うことを強調しています。

 しかし、君と臣、父と子の対立なら、「上和下睦」すればおさまるかもしれませんが、横の関係である「隣里」がここに出てくるのはおかしいと、前から考えていました。そうしたら、まさに「君」と臣、「父」と子を「和」し、そして「隣里」に相当する語を用い、地域における年長者・年少者の対立・緊張を「和」すことを説いている儒教系の文献を見つけたのです。

 その箇所を強引にまとめ、「地域における年長者・年少者の対立」のうちの「年長者・年少者の対立」という部分を省いて無理に対句の形にすると、「君父に順わず、隣里と仲違いする」となり、「(しかし)上下和睦すれば~」と続く第一条の問題の文ができあがることになります。そうだったのか……。

 実際には、「憲法十七条」の作者は典拠の原文は見ておらず、『孝経』の関連箇所の注釈で引用されているものや、類書(近代以前の百科事典・要文集)の記述を見て利用したものと思います。『孝経』の重要さは、上記の拙論でも触れた通りです。

 この発見については、2月19日に四天王寺大学などを運営する学校法人・四天王寺学園が創設100周年記念としておこなう公開シンポジウムで発表する予定です。



リモート開催であって事前申込が必要であり、先着順で1000人限定の由(詳細は、こちら)。

 「憲法十七条」は仏教尊重を説き、また「天皇」の語は用いていないものの、皇室の権威を確立したものと称されてきました。しかし、それならなぜ「篤敬三宝」を強調した部分が第二条、君主は天に等しいとして「承詔必謹」を説いた内容が第三条とされ、それ以上に「和」が重視されて冒頭の第一条で強調されているのか。上記の第一条における疑問な箇所の典拠が判明したら、その理由も見えてきました。

 2月の講演では、「憲法十七条」に関する古注の歴史を概説したのち、第一条と第二条の典拠の発見について報告し、仏教尊重や君主絶対という点ではなく、第一条でまず「和」が説かれた理由について説明します。これで、「憲法十七条」の第一条と第二条の典拠はほぼ明らかにすることができ、「憲法十七条」作成の背景がはっきりしました。律令制の時代では考えられません。

 なお、典拠として新たに発見したのは儒教の文献ですが、「憲法十七条」は儒教第一主義ではありません。儒教で最も大事な「仁」はさほど重視されていませんし、『孝経』を重視しておりながら、肝心な「孝」にはまったく触れていませんので。

 儒教では「礼楽」という語が示すように、「礼」と「楽」が教育の根本となっているのに、「憲法十七条」は「礼」はしきりに強調するものの、「楽」は無視です。儒教の言葉は用いてますが、倭国の当時の状況から見て必要な部分を取り入れただけであって、儒教全体を受け入れたわけではまったくないのです(これに関連する記事は、こちら)。
 
 それにしても、1400年遠忌という年になって、上記の拙論に続いて、「憲法十七条」全体の性格に関わるこうした重要な典拠を続けて発見できるとは思いませんでした。しかし、このことは、裏を返せば、「憲法十七条」は誰もが知る有名な基本文献でありながら、これまで厳密に正しく読まれずに来たということですよね。私自身、典拠に気づかず、「不自然だな」と思うだけで長年そのまま来ていましたので、我ながらこれはなかなかの衝撃です。

四天王寺の至宝を中心にしたサントリー美術館の聖徳太子展は壮観

2021年12月24日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 一昨日、四天王寺間近の大阪市立美術館に長らく務めていた石川知彦氏が監修し、和宗総本山 四天王寺の編で刊行された『聖徳太子と四天王寺』の紹介記事を公開しましたが、これと内容がかなり重なる特別展が開催中であることを紹介し忘れていました。

和宗総本山四天王寺・サントリー美術館・日本経済新聞社主催:
 千四百年御遠忌特別展「聖徳太子 日出づる処の天子」
(サントリー美術館:11月17日~1月10日、事前予約不要。こちら

です。秋に、和宗総本山四天王寺・大阪市立美術館・日本経済新聞社・テレビ大阪の主催で、大阪市立美術館で開催されていた特別展の東京版です。



 太子二歳時の南無太子像や摂政像や絵伝・文献など四天王寺の至宝を柱として、さらに日本各地の太子絵伝を中心とした太子関連文物を数多く集めており、壮観でした。図録は、カラー写真満載で357頁プラス英文の作品紹介となっており、ずしりとした重さです。

 四天王寺は何度も焼け、そのたびに同じ場所に再建することを繰り返してきました。法隆寺が古代の伝統と格式を受け継ぐ寺であるのに対して、四天王寺は貴族から庶民に至るまでの太子信仰の中心の寺として栄えており、性格の違いが面白いところです。

 図録が四天王寺所蔵の鎌倉時代の太子絵伝の図で始まっているのは、太子伝の絵画化と絵解きが奈良時代に四天王寺で始まったとされていることを象徴するものです。人々の生きた信仰は、こうした資料を絵で、しかも実物で見ないと、実感されにくいでしょう。

 たとえば、多くの絵伝では、厩戸での誕生を描く際、厩のことを、宮中の馬を管理する役所とする伝承に基づいて宮中の建物の一つとして描き、その中に駿馬を何頭も描いており、隣の建物にも馬がいるような立派な施設としています。「馬小屋で誕生」などと言うから、キリストの誕生との類似が説かれるのですが(こちらや、こちら)、近世以前の人々が思い描いていたのは、前にも書いたように、現在で言えば「英国から技師が派遣されていた王室用ロールスロイス整備工場のところで間人皇后が産気づいて生まれたため、成人するとスポーツカーで飛ばすのが好きになった」といったようなイメージですね。

 あと、印象深いのは、亡くなる場面を描く際、膳菩岐岐美郎女と枕を並べて横たわっている姿で描くことです。僧がこの場面を絵解きすると、聞いている善男善女たちは、涙にくれたことでしょう。

 図録では、主催者挨拶に続き、

総論:南谷恵敬四天王寺執事長「四天王寺の聖徳太子信仰」
 聖徳太子・四天王寺年表

図版:第一章 聖徳太子の生涯
   第二章 聖徳太子信仰の広がり
   第三章 大阪・四天王寺の一四〇〇年
   第四章 御廟・叡福寺と大阪の四天王寺信仰
   第五章 近代以降の聖徳太子のイメージ…そして未来へ

となっており、第二章「宗派を超えて崇敬される太子」では、浄土教や律宗など、様々な系統の僧侶たちの太子信仰に基づく活動を示す文献や絵伝が紹介されています。「聖徳太子」という呼称を教えないとなると、こうした文化の伝統を教えないということになってしまいます。教える際、聖徳太子というのは没後の呼称だとつけ加えておけば良いだけのことです。

第五章では、近代における太子の絵から山岸涼子の「日出処の天子」の原画までが紹介されています(これは、漫画好きの方にはお勧めです)。

 そして、解説となる「各論」では、四天王寺絵堂の解説、絵伝に描かれた四天王寺、伝記の展開と太子関連の巡礼、中世の律宗と太子信仰、近世の絵伝、伽藍の修理などが論じられており、太子信仰の実際の姿が分かるようになっています。

 こうした図録の内容が示すように、充実した展覧でした。

四天王寺に関する最新の研究成果:石川知彦監修・四天王寺編『聖徳太子と四天王寺』

2021年12月22日 | 論文・研究書紹介
 四天王寺で11月14日に「「聖徳太子はいなかった」説の誕生と終焉」という講演をおこなったことは、少し前の記事で書きました(こちら)。

 虚構説誕生の背景を話したのですが、原秀三郎氏の「大化改新非実在説」と古田武彦氏の「邪馬台国はなかった」説の影響にも触れるべきでした。両人とも、善悪二分の図式主義の傾向が強く、マルクス主義史観に立っていた原氏は、当初は大胆な主張によって評価され、支持する研究者もかなりいたものの、後年には一転して津田左右吉説批判を展開し、「敬神愛国」を説くようになっています。新しい歴史教科書をつくる会の国粋主義的なメンバーにも、こうした転向組がいましたね。

 一方、古田氏は親鸞に関する緻密な文献学的研究で出発して評価されておりながら、九州王朝説を主張するようになってからは、こじつけ文献学に陥ったあげく、まともな文語文が書けない近代人によって作成された偽文献の『東日流外三郡誌』を、自説に通じる点があるため、真作と主張するに至りました。

 実際には、古田説を考慮して偽作された部分もあるため、通じる点があるのは当然なのですが。自説に都合の良いことが記されていると、偽作にコロリとだまされるか、怪しいと思いつつ理由づけして利用しようとする傾向については、このブログでも「憲法十七条」の偽作をとりあげた記事で触れました(こちら)。

 ただ、『日本書紀』の乙巳の変の記述が、中大兄と鎌足に都合良く書かれていることは確かであり、大化改新詔は後世の潤色が目立ち、あやしい部分が多いことも事実であって、研究が進んでいます。大化改新詔に関する論争史については、北康宏「改新詔文飾論と改新否定論の課題ー大化改新詔と甲子の宣をめぐる史学史ー」(『日本史研究』662号、2017年10月)が有益です。

 さて、私の四天王寺講演の少し後で刊行されたのが、

石川知彦監修・和宗総本山 四天王寺編『聖徳太子と四天王寺』
(法蔵館、2021年11月)

です。



本の帯には「この一冊でわかる、四天王寺のすべて」とありますが、302頁もあってカラー写真満載であり、博物館の特別展の豪華図録のような趣きがあります。四天王寺さんから送っていただきました(有り難うございます)。

 博物館の図録のように見えるのは、四天王寺近くの大阪市立美術館に長らく在職して聖徳太子関連の特別展を3度も開催し、現在は龍谷大学の龍谷ミュージアム副館長を務める石川知彦氏が監修したためでしょう。執筆陣も、博物館や文化財関係の機関に属する美術史や考古学の研究者が中心となっています。

 まず、石川氏の「序 四天王寺ー太子と共に歩んだ一四〇〇年ー」では、四天王寺の歴史を概説し、「結びにかえて」では、四天王寺はたびたび戦乱に巻き込まれて何度も焼けたが、「常に人々の心を引き寄せ、多様な信仰の場を形成していった」結果、雑多な「信仰の百貨店」となったのであって、その「ええ加減」さこそが大阪人の気質として根付いたと説いています。

 その指摘通り、四天王寺は早い時代から聖徳太子信仰の中心となりましたが、このブログが扱っている古代については、考古学の網伸也氏が「古代の四天王寺」と称して概説し、以下、コラムとして、矢野昌史「四天王寺の発掘調査ー発掘調査によって判明した創建期の四天王寺ー」、谷崎仁美「出土瓦からみた飛鳥・奈良時代の四天王寺」その他が並んでいます。

 このブログでも論文を取り上げたことがあり(こちら)、他に何度も触れたことがある網氏は、四天王寺の名は『金光明経』四天王品に基づくとし、創建時には地名によって荒陵寺と称されていたと考えられるとして、天武天皇五年(676)に『仁王経』と『金光明経』を宮中と諸寺で講説させており、その前年4月に諸寺の名を定めているため、この時に四天王寺の法号が定まった可能性が高いとします。

 こうした主張は良く見られますが、無理ですね。中国でも韓国でもベトナムでも、寺の正式名称とその土地で呼ばれている通称は違う場合が多いです。大変な費用と労力をかけて寺院を建立し、その創建儀式を盛大におこなう際、「この寺を、西寺と名付ける」とか「あじさい寺と名付ける」などとやるはずがありません。まして、「荒陵」などという名にすることは考えがたいです。「御陵寺」とかなら、まだありえるかもしれませんけど。当初の正式名称は、四天王寺ではなかったかもしれませんが、荒陵寺という地名の名だけであって、正式名称が無かったということはないでしょう。
 
 網氏は続いて創建伝説に触れたのち、発掘調査からは塔の位置は動いていないことが判明したことを述べ、また上町台地では四天王寺の創建瓦より古い瓦は発見されていないため、「玉造の東岸の上」に建築され、後に現在の地に移転したとする伝承を否定します。そして、瓦の編年の面から見て、造営の順序は飛鳥寺→斑鳩寺→四天王寺とします。豊浦寺が脱けてますね。

 そして、石積基壇なども百済寺院の影響が強いことを指摘し、難波は対外的な玄関口であり、渡来系氏族が多く居住する地であって、国際的な色彩が強いことに注意します。創建時より後になって造営された講堂については、東西に分かれていて西半部は冬用にオンドルが設置されていた百済の古代寺院と比較し、四天王寺も夏堂と冬堂に別れていた可能性を指摘します。

 ただ、上宮王家の寺であった時期は伽藍が完備しておらず、造営が進んだのは白雉2年(651)に孝徳天皇が難波に遷都し、壮大な宮殿を造営したことによるとします。つまり、難波宮を荘厳する大寺として再整備されたとするのです。

 その一例は、四天王寺の中心地域から、舒明天皇が建立した初の天皇の勅願寺である飛鳥の百済大寺と推定される吉備池廃寺と同笵の軒瓦が多数出土していることです。7世紀半ばから後半にかけての出土瓦の4分の1がその百済大寺の瓦であることは、天皇家との関係の深さを示すものです。

 白雉4年に中大兄皇子と皇極上皇が飛鳥に戻り、孝徳天皇も傷心のうちに翌年亡くなってしまいますが、百済大寺が舒明天皇没後も造営が継続されたように、四天王寺も造営は勧められていました。天武天皇13年(683)には難波を副都とする詔が出されていたことも、四天王寺の存在意義を高めたと氏は推測します。

 さらに、持統天皇6年(692)には封戸250戸が四天王寺に施入されており、大宝3年(703)に持統天皇が亡くなると、勅願の四大寺とともに、他の33寺の筆頭として七七日斎を設けており、格式の高さを示しています。網氏は以後の時代の状況についても論じており、有益ですが、矢野氏のコラムに移ります。

 矢野氏は、網氏が概説されていた部分を詳しく論じており、創建時の建物については、百済の影響、それも当時の百済の最先端の技術で建立されていたことを指摘してます。そして、当時は、四天王寺の西側は海であって、行き交う船から壮大な伽藍が見えたとし、ヤマト王権にとって四天王寺は新しい時代のモニュメントであったと述べます。

 次に谷﨑仁美氏のコラムでは、出土瓦について詳しく論じています。四天王寺の創建瓦が、斑鳩の若草伽藍の瓦当笵、それもかなり損傷が進んだ段階のものを使っていたことはよく知られていますが、それとは別の素弁系軒瓦についても、若草伽藍の瓦と制作技術が類似するとします。

 難波遷都以後、吉備池廃寺の同笵瓦が用いられるようになるものの、孝徳天皇の崩御や飛鳥遷都によって、金堂の整備は中断された可能性があるとします。再開されるのは、少し後の660年頃からであって、数多く出土する瓦は、この地に配置された百済王氏の難波百済寺と推定される堂ヶ芝廃寺の創建瓦であり、この時期から講堂・中門・回廊の建立が本格的になり、百済の復興と護国の祈願をこめて、整備が進められたと推測します。

 ここまでで、本書の43頁までしか紹介できていません。以後も諸氏によって古代から現代に至るまでの四天王寺に関する最新の研究成果が述べられており、生きた太子信仰に関する最近の研究動向を知るためには、必須の読み物となっています。 

中宮寺の弥勒菩薩半跏思惟像をめぐる倭国の国際関係:鈴木靖民「半跏思惟像をめぐる倭と百済・新羅」

2021年12月19日 | 論文・研究書紹介
 古代史を考えるには、東アジア全体の枠組みの中で考えねばならず、朝鮮半島諸国および中国との関係はとりわけ大事であって、その際、仏教が重要な役割を果たします。この面を解明するためには、文献だけでなく、考古学、美術史、建築史、金工史など、モノを扱う学問の成果、それも韓国や中国の研究成果も活用する必要があります。

 古代史の研究者の中でも、そうした面に注意してきた研究者の代表の一人が、多くの著書を刊行するとともに、百済の王興寺から倭国の飛鳥寺へと至る過程を探るため、様々な分野の学者たちを結集して国際的な共同研究をおこない、論文集として『古代東アジアの仏教と王権 王興寺から飛鳥寺へ』 (勉誠出版、2010年)を刊行した鈴木靖民氏です。

 これまでは、飛鳥寺の塔の心楚から出土した宝物が古墳の埋葬物と類似するため、倭国では固有の呪術的な祖先祭祀信仰の基盤のうえに仏教が受容されたとする説が有力でしたが、王興寺遺跡からも同様の埋葬物が出ていることに注目する鈴木氏は、通説を批判し、飛鳥寺は馬子が王興寺をモデルにして建立したと主張しました。

 その鈴木氏が、上記のように国際関係を重視する立場から、聖徳太子ゆかりの中宮寺の半跏思惟像が制作される至るまでの倭国の外交と仏教受容について概説した論文が、
 
鈴木靖民「半跏思惟像をめぐる倭と百済・新羅ー七世紀ー」
(鈴木『古代の日本と東アジアー人とモノの交流史ー』、勉誠出版、2020年)

です。

 鈴木氏はまず、百済の王興寺の造営に携わった技術者たちや僧が推古朝に活動し、飛鳥寺の造営と運営に参加したことを確認します。伽藍の造営は、仏像の将来、制作、経典の講説、様々な技術の伝習、僧尼の育成などとも連動するものであり、幅広い領域にわたる活動であるためです。

 渡来僧は、儒教などの学問や技芸を備えており、寺々は「中国、朝鮮半島の先進文化を習学する人々のセンターとな」ったうえ、以後も新たな文化・技術・制度の発信地となりました。

 7世紀半ば以後には、唐の影響が及んだほか、それまでの百済・高句麗に加えて新羅との交流も進み、僧尼もたくさん来ます。鈴木氏は、朝廷はやって来た新羅僧を還俗させ、医学・儒学・陰陽道・文章道などの学問・技術を活用したことに注意します。私自身、大学院生の頃、橋本政良「勅命還俗と方技官僚の形成」(『史学研究』141号、1978年9月)を読み、そうした還俗例の多さに驚いたことを思い出します。

 また、寺のほか、王族の宮、豪族の家にも新羅の僧尼が住んで様々な教授をすることが増えていきました。百済と違って新羅と倭国の関係は悪い時期もかなりあったのですが、7世紀後半には新羅仏教が与えた影響が大きかったのです。

 鈴木氏は、672年から701年の間、遣唐使が派遣されなかったのに対し、遣新羅使が10回派遣され、新羅使が25回来ていることに注意します。民間の仏教交流はさらに多かったでしょう。日本仏教史では、百済からの仏教伝来や高句麗仏教の影響が強調され、後は唐の影響とするような概説を良く見かけますが、この時期の新羅の影響は重要です。

 ただ、鈴木氏は「新羅の華厳仏教を広めた」と書かれていますが、新羅仏教の主流は法相唯識であり、百済から受け継いだ三論宗もありました。新羅で華厳宗の勢力が盛んになっていくのは、8世紀前半すぎ頃からと見るべきでしょう。また、新羅の元暁を唐で学んだと思われるとするのは誤りであり、新羅に留学し、後に東大寺の前身となる金鍾寺で『華厳経』を講義した審祥を元暁に習った可能性があるとするのは、元暁の没年から考えて無理と思われます。

 なお、鈴木氏は、新羅の皇龍寺造営には百済の援助があったことに触れ、仏教信仰は王権と密接であるものの、政治・外交の対立に関わらない面もあったことに注意します。すべてを政治利用として語るのは行きすぎなのですね。

 鈴木氏は、唐を中心とする国際関係と倭国の外交について概説したのち、最後に中宮寺の弥勒菩薩半跏思惟像に簡単に触れます。この像については制作地についても議論がなされており、制作年代も推古朝説から天武・持統朝説まであって様ざまです。

 この半跏思惟像とセットにして語られる広隆寺の宝冠弥勒半跏思惟像は、秦河勝の寺であって、厩戸皇子の没後に新羅から送られた仏像や幡や舎利を納めたことが示すように新羅と関係が深く、またアカマツを用いていることから新羅製とするのが通説です。

 鈴木氏は、飛鳥寺では百済の技術によって造営が始まったものの、高句麗の資金援助や高句麗僧の来往もあったうえ、百済の弥勒寺の造営には新羅の工人の協力があり、新羅の皇龍寺の造営には百済の工人が技術を伝えていることなどを指摘し、中宮寺の半跏思惟像についても、そうした状況の中で考えるべきだとします。

 この像は、美術史では7世紀半ばとする説が有力であるものの、法隆寺若草伽藍とその仏像を手がけた集団が、新羅の影響も受けて作成した可能性があるため、新羅との交流が進んだ670年代以後の天武・持統天まで制作時期を広げて考える方が適切ではないかとするのです。

 このブログでも、この半跏思惟像は聖徳太子の面影を映しているとする最近の片岡氏の説を紹介しました(こちら)が、片岡氏は木材の組み合わせ方などから見て、持統朝の686年から690年初頭という説でした。鈴木氏の論文は、片岡論文の前に書かれておりながら、結論は似ています。

 厩戸皇子の場合も、新羅征討のために弟2人を将軍としておりながら、以後は交流がなされ、太子が没すると新羅から仏像や幡などが送られてくるのですから、日本は百済と親しく、新羅とは抗争が続いていたといった図式ですべて割り切るのは不可であり、時代による状況と複雑な影響関係を考えないといけないですね。

 戦争やそれに近い対立の後で、急激に親しくなって外交が進んだり、また関係が悪化したり、外交が悪化しつつも文化の交流は盛んだったりといった状況は、韓国と日本、日本とアメリカ、アメリカとベトナムの関係など、現代でもいくらでも見られることですので。

【付記】
公開した記事を見直したら、「12月16日」公開となっていました。このところ3日に1度の割で公開しており、今回は18日が過ぎて19日になった瞬間、おそらく0時1分くらいに公開したはずです。記事は6~7本、書きためてあり、順序を考えながら公開していってますが、今回は最後に手をくわえた日付のまま公開してしまったようですので、日付を訂正しておきます。

欽明紀は大陸系渡来人と仏典には通じているが漢文が弱い日本人/半島系渡来人の述作:瀬間正之「欽明紀の編述」

2021年12月16日 | 論文・研究書紹介
 少し前に、森博達さんの『日本書紀』α群=中国人述作説を批判した天文学者の谷川清隆氏の論文を紹介しました(こちら)。谷川論文は、天文記事などの記述の偏りから論じたものですが、朝鮮半島関係記事が大半を占め、森説ではα群とされる欽明紀は、国語学の立場から見ると、「大陸系渡来人」が書いた部分と、仏教に通じているものの漢文に不慣れな日本人か朝鮮半島系渡来人が書いた部分から成るとする論文が刊行されました。

瀬間正之「欽明紀の編述」
(『上代文学』第127号、2021年11月)

 出たてのほやほやです。瀬間さんは、電子データを活用し、『古事記』に仏典の影響が見られることを早くに指摘しており、古典を扱う文系研究者のうち、最も早い時期からコンピュータを活用していた仲間の一人です。変格漢文に関して、韓国、中国、日本の専門家たちに集ってもらい、科研費で国際共同研究を4年間やった際のメンバーでもありました。

 その瀬間さんが送ってくれたこの論文では(有り難うございます)、『日本書紀』中では天武紀についで分量が多い欽明紀の特徴を論じています。まず、柳玟和氏によれば、欽明紀の84%が朝鮮半島関連の記事である由。また、小島憲之氏は、雄略紀から欽明紀までは、他の巻が利用していない『梁書』『隋書』『金光明最勝王経』の利用が見られ、他の巻に比べ「即・則」より「乃」の使用、「於是」「由是」という接続の助字が繰り返し用いられるなどの特徴があり、同一人物が述作したことを指摘しています。

 これに対して瀬間さんは、欽明紀だけの特徴として、句頭辞の「又・亦」の使用がきわだって多く、欽明紀だけに見られる用語もあることに注意します。

 「~から」の意で「自」の語が用いられている箇所について、「動詞+自+地名」という語法のうち、「還自+地名」は10例あり、α群9例とα群β群に属さない持統紀の1例であって倭習が目立つβ群には見えないことを指摘します。

 そして、他の箇所は「~より」という出発の起点を示すものの、欽明即位前紀の用例は、「得自~里(~の里より得)」であって、「より」という点は共通していても起点ではなく、動作が行われる場所を示しているため、『日本書紀』から倭習を数多く指摘して訂正した五井蘭州は、欽明紀のこの「自」の用例を不審と見たのか文を改めているとします。

 そして、中国古典にも「自」を「於・在」の意味で用いる用例はあるが、欽明紀のこの箇所は、「自」を「より」と読むことが定着したことによって生じた倭習の可能性があるとします。ここはその通りでしょう。

 また、即位前紀では、欽明天皇が若かった頃、夢で将来即位すると告げられて喜び、「歎未曽夢(いまだかつて夢みずと歎く)」のですが、これは仏典の決まり文句である「歎未曽有(未曽有と歎ず=これまで無いことだと感嘆する)」に基づき、「歎未曽有夢(未曽有の夢と歎ず)」とすべきところを、記憶によって書いたため、文の意味が通じなくなった可能性があるとし、この辺りは仏典の語法の影響があることを指摘して、私の論文の指摘を引いてくれています。

 そして、蘭州はこの「歎未曽夢」のあたりをどさっと削除していることを指摘するのですが、作者は「未だ曽つて夢みずと歎く」、つまり、夢にも思ったことがないと書こうとして妙な文章になった可能性もありますね。

 なお、瀬間さんの学生であった葛西太一さん(こちら)の教示によると、蘭州は江戸の儒者が模範とする漢文から見て不適切と思われる仏教の語法や俗語などは、大胆に改めたり削除したりしており、蘭州が削除しているからといって倭習漢文とは限らない由。

 瀬間さんは他にも例をあげ、欽明紀を潤色した人は、仏典には親しんでいたものの、漢文の語法には通暁していなかったと推測し、私が欽明即位前紀の特徴について述べた箇所を引用しています。
 
 ただ、欽明紀の本文は様子が異なっているそうで、欽明14年10月条の文章を分析した瀬間さんは、「詩賦に由来する語を自由に組み合わせ、……対句仕立ても見られ、相当にこなれた作文と言うことができる」と述べています。

 そして、この10月条には、『日本書紀』の朝鮮半島に関する記事で用いられる特異な語が複数登場するとし、そうした語はα群にもβ群にも見られるため、同じ人が書いたのではなく、α群とβ群に共通する原史料に基づいたものと考えられるとします。当然、朝鮮で書かれたか、朝鮮半島渡来の人が書いた記録ですね。

 瀬間さんが着目するのは、10月条で述べられている百済と高句麗の戦闘場面のうち、馬に乗った将兵に関する記述のうち、「插鐃者二騎(鐃を挿す者は、二騎)」という句について、「鐃字未詳」という注が付けられていることです。この「鐃」は『三国史記』の将官の服装の記述から見て「翹」の誤写であって、鷲などの羽を指すことを意味することが指摘されています。

 瀬間さんは、朝鮮諸国の風習を真似た倭国でも、推古朝19年夏五月には、諸臣が豹の尾や鳥の尾を冠にかざしたことが記されているとしています。他には、『梁職貢図』の諸国の使節の絵では、高麗の使者がそうした飾りを付けてましたね。

 そこで瀬間さんは、この注をつけた人は、古代の朝鮮や日本の風習を知らなかったと推測します。雄略紀では、木偏に疑を加えた字について「未詳」としたうえで、「蓋是槻乎(けだし是れ槻か)」と註記したように、「鐃字未詳」とせず、「蓋是翹乎」という注を付けることもできたはずだからです。瀬間さんは、このことは森さんのα群中国人述作説に通じるとします。

 瀬間さんは、さらに半島関連記事特有の表現が、α群である欽明紀だけでなく、β群にも見える例などをあげたほか、欽明紀本文に見える受け身表現の誤りを指摘し、以下のように結論づけます。

 『日本書紀』編述者は、「百済三書」以外の半島系資料も使用していた。欽明紀の編述者は、仏典に親しんでいたものの漢文の読解能力・述作能力にやや難のある編述者と、三韓および倭国の習俗にうとい編述者という、少なくとも二者以上の編述者がいた。前者は半島系渡来人か日本人、後者は大陸系渡来人と推察される。

 以上です。確かに、欽明紀の朝鮮半島記事では、「未詳」という註記が多いですね。正格の漢文が書ける身からすると誤写だろうとは思っても、朝鮮諸国の風習に疎いため、自信を持って訂正することができなかったのでしょう。これは、欽明紀では、きちんとした漢文が書ける述作者が、疑問に思われる部分が多い原史料を勝手に訂正せず、そのまま利用している箇所が多いということであり、その後で倭習漢文を書く別人が潤色していろいろ書き加えたものの、全巻にわたる最終的な校閲がきちんとなされていなかったことを意味しそうですね。

 元になった学会発表では、瀬間さんは多様な問題をとりあげたものの、今回の論文は枚数の都合で一部を論じるにとどまったそうなので、続篇を楽しみにしましょう。

三経義疏は梁以前の学説に基づき、同一人物によって書かれた:木村整民「聖徳太子の序品解釈」

2021年12月13日 | 三経義疏
 前回の記事では、「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』は同一人物が書いたとする私の発表「聖徳太子は「海東の菩薩天子」たらんとしたか」が刊行されたことをお伝えしました。三経義疏については、早くから同一作者説で論文を書いてきました。

 ただ、古い論文で述べたのは、中国撰述ではないというところまでであって、日本で書かれたと書くようになったのは最近であり、厩戸皇子の作と見てよいということを明確に示したのは、今回が初めてです。しかも、今回の「聖徳太子は「海東の菩薩天子」たらんとしたか」では、梁代仏教の影響だけでなく、その前の王朝である南斉の仏教が厩戸皇子に与えた影響について論じてあります。
 
 上宮王の三経義疏のうち、『法華義疏』は、中国南朝の梁の三大法師と称された光宅寺法雲(467-529)の『法華義記』を「本義」と呼んで種本としつつ、時に批判も加えていることは有名です。『法華義疏』以外でも、『勝鬘経義疏』は三大法師のうちの僧旻の『勝鬘経』注釈に基づいているらしいことは、このブログでも触れました(こちら)。

 つまり、三経義疏は、隋唐仏教から見れば古くさい南朝仏教、それも梁代の学風に基づいているというのが通説になりつつあるのです。私は論文では、法雲の『法華義記』の用語が三経義疏全体の基本になっていることを指摘したのですが、これを更に進め、三大法師より前の学僧たちの解釈に基づいている部分が多いことを指摘した論文が春に出ていました。見落としていて申し訳ありません。

木村整民「聖徳太子の序品解釈」
(『四天王寺大学紀要』第69号、2021年3月。PDFは、こちら

です。木村氏はインド仏教や中国仏教の論文などを書いており、聖徳太子関連はこの論文が最初のようです。

 木村氏がこの論文で取り上げたのは、経典の序の部分を三経義疏がどのように解釈しているかという問題です。中国では仏教経典については、序分・正宗分・流通分という三つの部分に分けて解釈するのが通例ですが、どの部分を序分とみなすか、また序分を更にどのように分けるか、序分はどのような意図を説いていると見るかは、注釈者によって様々です。

 ですから、三経義疏のうち、経の序分に関する解釈と似ている解釈をしている注釈があれば、三経義疏はそれを参照して書かれた、ということが分かるわけです。その問題に取り組む前に、木村氏は三経義疏をめぐる論争史を整理して紹介しており、きわめて有益です。私の諸論文にも触れてくれています(有難うございます)。三経義疏の論争史について書かれた論文は、20年以上前のものしかありませんので、最近の研究を含む論争史としては、木村氏のこの論文をお勧めします。

 さて、そこで紹介されている諸説の中で一番穏当なのは、田村晃祐先生の「多くの朝鮮人学僧の共同著作ではなくて、何人かの諸種の傾向をもった学僧たちの顧問をもった個人著作」という説でしょうね。三経義疏を読みもせずに、「あの当時の日本仏教の水準で書けるはずがない」と決めつけて否定する大山誠一氏を批判した田村論文については、このブログで紹介したことがあります(こちら)。

 木村論文は、「結論から言えば、三疏は同一人物によって書かれたものであり、それは、梁代以前の学説に基づくものであると考えられる」としつつ、序分解釈の特徴を論じた今回の論文で扱ったのは、あくまでも三経義疏全体の一部であるとことわっています。着実ですね。

 中国南朝で盛んだったのは、小乗でありながら大乗に似た面を持つ論書、『成実論』の法相を利用しつつ、『涅槃経』『勝鬘経』『法華経』『維摩経』『大品般若経』などの大乗経典を研究する成実涅槃学派でした(この呼方は私の提唱)。この派は「一切衆生悉有仏性」を説く『涅槃経』を最重視する者が多かったのですが、そうした立場を良く示すのが、梁の武帝の命によって宝亮が編纂し、509年に完成したとされる『涅槃経集解』71巻です。

 『涅槃経集解』は、道生・僧亮・僧宗・宝亮など20名もの学僧たちの解釈を編集したものですが、編者については異説があり、宝亮撰述は疑われています。ただ、梁とそれ以前の学僧たちによる『涅槃経』解釈を集成したものであることは間違いないため、南朝仏教の教理を知るためには、きわめて重要な注釈です。

 木村氏は、この『涅槃経集解』に着目し、三経義疏における経の序分の解釈と一致している説を検討します。『法華義疏』では法雲の『法華義記』を「本義」としつつ、法雲とは別な解釈を採用したり、「一家の習う所(自分たちの派で伝統として学んできたこと)」としてある学派の共通の見解をあげたりしているためです。

 すると、法雲以前の僧の解釈と三経義疏が一致していたり、ある僧が「旧釈」として述べている説、つまり、梁代より前の時代の説と一致したりする場合があることが明らかになります。法雲の説と一致する場合もあり、一致しない場合もあるのです。

 このため、木村氏は、三経義疏は、そうした旧説を「統合した人物、もしくは学派の説を参考としたものと考えられ、法雲の説に限定されるものではない」と結論づけます。

 これは重要な指摘ですね。南朝は南斉→梁→陳と移り、隋によって南北朝が統合されるのですから、陳代あたりに、梁代とその前の南朝仏教の教理に基づき、少しだけ訂正を加えた注釈があれば、『法華義疏』は光雲の『法華義記』を「本義」としつつ、そうした注釈をも参照したと可能性がある、と私は考えていました。木村氏は、梁代とその前の解釈を使っている、という点を強調していますが。

 いずれにしても、停滞していた三経義疏研究が、こうして新たな視点で検討しなおされ、着実は研究成果が報告がなされるのは、非常に好ましいことです。私も刺激を受け、早速、複数文献の一致箇所を自動的に抽出して比較するNGSM(こちら)を用いて『法華義疏』と『涅槃経集解』の一致箇所を調べてみたところ、いろいろ面白いことが分かってきました。

 こうなると、法隆寺で後代に偽作したとか、中国北地の注釈を遣隋使が持ってきただけだといった説は、いよいよ成り立たないことになりますね。

【付記:2021年12月23日】
木村氏は、結論において、上記の事柄をまとめたうえで、「吉蔵の諸説との類似性は、非常に重要である」と述べてしめくくっています。吉蔵は、六朝時代の多くの注釈をとりこんで注釈を書いたことで有名であり、どこまでがそうした説でどこが吉蔵の新説であるかを見極めることが必要とされています。吉蔵がそれまでの教学と違う主張をするようになった重要な転機は、『法華経』に如来蔵思想を認める世親『法華経論』に出会ったことですので、そうしたことも含めて、この問題を検討していく必要があります。

【重要】聖徳太子に関する最新の説が刊行されました:石井公成「聖徳太子は海東の菩薩天子たらんとしたか」

2021年12月10日 | 論文・研究書紹介

 このブログの7月の記事(こちら)で【重要】として予告し、内容を簡単に述べてあった講演録が、学部論集の退職記念号に掲載されて刊行されました。

石井公成「聖徳太子は海東の菩薩天子たらんとしたか-「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』の共通部分を手がかりとして-」
(『駒澤大学仏教学部論集』第52号、2021年10月)

です(PDFは、こちら)。

 奥付は10月31日刊となっているものの、雑誌と抜刷ができあがって届いたのは8日であって、ひと月ほど遅れてます。コロナ禍その他の事情により、学内のリモート研究会での発表の形という形をとる結果となりましたが、コロナ感染が下火になったら最終講義代わりの公開講演をする予定になっており、その講演録という形で事前にほとんど書き、刊行日程の都合で発表前に印刷に回してあったため、「です、ます」の講演口調になっています。

 内容は、ブログで予告しておいた通りであって、「憲法十七条」全体を支えているのは、大乗仏教の信者を「在家菩薩」と呼び、そうした「在家菩薩」が国王となった場合に人民になすべき教誡を説いている大乗戒経の曇無讖訳『優婆塞戒経』であり、「憲法十七条」は『勝鬘経義疏』と類似点が多いため、同一人物の作としか考えられず、その内容は遣隋使とも関連している、というものです。

 学生の頃から「憲法十七条」を読んでいて不自然に思われたのは、第二条では、極悪の者は少ないので「教えれば従う」ものだとと述べておきながら、それに続けて「三宝に帰依しないでどうして曲がったこと(悪)を直すことができようか」と、矛盾した内容を述べていることでした。教えれば従うのであれば、儒教や仏教の道徳を説く内容にして教えれば良いだけのことなのに、「三宝に帰依しないで、どうして曲がったこと(悪)を直すことができようか」と強い調子で述べているのはなぜなのか。

 今回、その箇所の典拠となっている『優婆塞戒経』の該当箇所を読んで、そのように書いてある理由が分かりました。古代の文章は典拠に基づいて書かれますので、典拠を明らかにしないと正しく読めないですね。

 「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』は、その『優婆塞戒経』のまさに同じ箇所を利用している点を初め、共通する要素が多いため、同一人物の作としか考えられません。しかも、「憲法十七条」は、『優婆塞戒経』が「在家菩薩」が国王になったら人民を教戒すべきだとして述べた徳目を説いており、菩薩国王の自覚を持っていたらしいため、「海西菩薩天子」の仲間である「海東菩薩天子」という自覚のもとにおこなわれた遣隋使と関連していたと考えられます。

 「憲法十七条」第一条の「無忤」「和」「宗とする」などの語や三経義疏が、いかに隋唐以前の古くさい中国南朝仏教の影響を受けていたかも強調してあります。第二条の「極宗」の語も「無忤」と同様、六朝以前の中国古典には見えず、南朝仏教で用いられた言葉です。

 ブログの予告では概要を述べただけでしたが、講演録では原文を示し、関連論文に触れつつ論じています。そのPDFを researchmapの私の「マイポータル」サイトの論文一覧のところ(こちら)に置き、また、このブログの「作者の関連講演」のコーナーからもリンクを貼っておきました。

 ただ、印刷所が版下から作成したPDFはまだ届いていないため、とりあえず、抜き刷りをスキャンしてPDFにしたものをアップロードしてあります。正式なPDFが届き次第、読みやすいそちらの版に切り替えます(→16:50に正式版に切り替えました)。

 結果としては、「憲法十七条」や『勝鬘経』講経や三経義疏を疑った津田左右吉説を否定したことになりましたが、講演末尾で述べているように、これらの事績の背景に最も迫っていたのは、太子礼賛派の学者たちではなく、津田であったため、改めて畏敬の念を強くした次第です。

 私が学んだ早稲田の東洋哲学研究室では、開設者である津田が絶対視されており、ある先輩は、博士論文を提出する際、謝辞の部分で諸先生や諸先輩への感謝を記した後、「助手の石井公成君にもいろいろ教えてもらった」と書こうとしたものの、某先生が「石井君は津田先生のことを批判しているらしい」などと、まるで犯罪人であるかのように語っていたことを思い出してびびってしまい、石井君の名は記せなかった、と後に語ってくれました。

 私は、このブログでも津田左右吉コーナーを設けてあることが示すように、津田の幅広い学風と常識にとらわれない学問姿勢を尊敬し、少しでも近づきたいと思っていろいろやって来たのであって、今回の津田説乗り越えは、学恩に対する恩返しのつもりです。

 「憲法十七条」については、以後も発見があり、いろいろなことが分かってきました。一般向けの解説本と、学術的な校注本を出す予定になっていますので、今後はそちらに尽力していきます。

 ただ、私は津田には及ばないものの、かなり多様な分野に手を出していて様々な仕事を抱えていますし、退職記念号に上記の聖徳太子講演と一緒に掲載された略歴・論文一覧(こちら)を改めて見直したら、聖徳太子関連論文は私の全論文の1割程度にすぎないですね。

 あれこれやっている私にしか書けないだろうと思われるのは、毎月1度、トイビトのサイトでお気楽エッセイを連載している「仏教のヨコ道ウラ話」あたりか。ちなみに、今月の記事は、「乳の仏教学」です……(こちら)。


推古朝の国史編纂は隋への説明と欽明天皇の系譜強調のため:笹川尚紀「推古朝の修史にかんする基礎的考察」

2021年12月06日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子の事績とされるものの多くは誇張されており、疑われてきたものが多いのですが、その代表の一つが「天皇記」などの編纂です。『日本書紀』推古28年(620)の「是歳条」では、

是歳、皇太子・嶋大臣と議して、天皇記及び国記・臣連伴造国造百八十部并びに公民等の本記を録す。

とあります。この記事を検討したのが、

笹川尚紀『日本初期成立史攷』「第一章 推古朝の修史にかんする基礎的考察」
(塙書房、2016年)

です。

 この第一章の冒頭の「はじめに」は、「推古天皇の時代、厩戸皇子・蘇我馬子によって修史がおこなわれた」という文で始まっています。「~と記されている」でなく、「おこなわれた」なのですから、驚かされます。史実として扱っているのです。

 また、『日本書紀』皇極天皇四年(645)六月己酉条には、

蘇我臣蝦夷等、誅せらるるに臨み、悉く天皇記・国記・珍寶を焼く。船史尺、即ち疾く焼かるる所の国記を取り、中大兄に献じ奉る。

にあると述べています。すべて史実と見ているようです。

 笹川氏は、「前者が是歳条におかれたのは、『日本書紀』の編纂者が、それらをまとめあげるのにはある程度の期間が必要であるとする点を考慮に入れた結果となろう」と述べていますが、問題は、前者の記事は、10月に欽明天皇の
檜隈陵の上に砂礫を葺き、各氏族に土の山の上に大柱を立てさせた際、倭漢氏の坂上直の柱がとりわけ太くて高かったため、世間では「大柱の直」と呼んだという記事の後に来ていることです。

 この陵は、推古20年(612)に、蘇我稲目の娘である堅塩媛を合喪して盛大な儀礼をおこなった陵であり、いわば堅塩媛を欽明天皇の皇后とみなして、天皇と蘇我氏の関係深さを強調して蘇我氏の権力を誇示する場となっていました。

 それと関連する記事の後に、先の記事が来ているのですから、年が不明であったか、年は分かるものの月が不明であった伝承を、それと関係深い記事の後に「是の歳」として付したものと考えるのが自然ではないでしょうか。だからこそ、厩戸皇子と蘇我馬子大臣が議して編纂したという記述がしっくり来るわけです。

 もう一つ重要なのは、馬子を「嶋大臣」と呼んでいることです(笹川氏は、「島」としていますが、ここでは「嶋」の字にしておきます)。馬子を「嶋大臣」と記すのは、この箇所と、推古34年(626)に馬子が没したという記事中で、馬子は飛鳥川のかたわらに邸を建て、池を掘って中に「小嶋」を作ったため、世間では「嶋大臣」と呼んだという箇所だけです。

 池に小島を作って話題になった年は不明ですが、推古朝の早い時期であれば、記録される可能性もありますので、権勢が強まった推古朝半ばすぎあたりのように思われます。となると、「天皇記」その他の編纂も、推古20年に欽明陵に堅塩媛を改葬し、蘇我氏の伝統を強調したこととも連動していそうに思われます。

 笹川氏は、こうした点には触れず、「帝紀」「旧辞」などの編纂との関係を問題にし、先行説を検討していきます(論文半ばでこの問題をとりあげます)。そして、「臣連伴造國造百八十部并びに公民等の本記」という部分については、その前の「国記」に対する注記と見る説を疑いますが、「天皇記」については、皇統譜を中心とする「帝紀」と同類の書であったと見て良いだろうとします。

 ここで笹川氏がとりあげるのが、「西琳寺縁起」です。この縁起の天平15年(743)12月晦の日記によると、大山上の文首阿志高(あしこ)が親族をひきいて、欽明天皇のために己卯9月7日に西琳寺と阿弥陀仏像を造立したとあります。この「己卯」は「西琳寺縁起」では欽明20年(559)としていますが、笹川氏は、冠位から見て、干支を一巡繰り下げた推古27年(620)と見ます。

 そこで着目するのが、上で記した檜隈陵の記事です。この檜隈陵は、現在の山古墳と合致する可能性が高いとし、『書紀集解』によれば、大和の平尚重が明和8年(1771)のひでりの際、土地の人が池を掘るために梅山古墳の範囲内の池田という廃渠を掘ったところ、深さ数十尺のところから大きさ10囲、長さ3尺の「大柱」が出てきた由。

 「囲」というのは大人が両手でかかえられる太さのことですので、150cmほどとすると、10囲は大げさとしても、直径3~4mくらいの太い木柱が建てられた可能性はありますね。

 推古28年(620)は、欽明天皇が死去して50年になる年であり、和田萃氏は、それを記念して大柱を立てる儀礼がおこなわれたと推測し、笹川氏も賛成します。そこで笹川氏は、推古朝の修史は欽明天皇の50年忌と密接に関係していると推測します。

 そして、もう一つの要因としてあげるのが、中国におもむいた使いがなされる質問です。白雉5年(654)に高向玄理らの遣唐使は長安に到着し、髙宗に謁見しますが、役人が「日本国の地理及び国初の神の名」を尋ね、使は問われるままに答えたしており、石母田正氏は、こうしたことが契機となって神代史が形成されたのではないかと推測しています。

 笹川氏も賛同し、外交が盛んであった推古朝では、天皇記は、対外関係を強く意識して作成されたととしつつ、国内の要因として、欽明天皇50年忌をあげます。この際、欽明天皇の父方・母方の系譜に手が加えられ、皇統を一つにする作業が推進されたと推測するのです。

 そして、天皇記が焼けたとして、その修史の成果は何らかの形で伝えられ、『日本書紀』編纂の素材となったのではないか、とします。また、661年に中の大兄が百済王子の豊璋に織冠を授け、多臣の女性をめあわせているのは、九州の豪族を軍事活用するために、そうした九州と関係深い多臣の女性を選んだのであって、同祖同族関係を把握するためには、何かの記録に基づいたいたであろうとし、推古朝の「臣連伴造國造百八十部并びに公民等の本記」に基づく可能性もあるとします。

 最後の部分は推測ですが、蘇我稲目の娘を3人もめとり、その子たちが次々に天皇となった6世紀後半から7世紀初頭の時期において、国史の編纂がなされるとしたら、欽明天皇と蘇我氏の関係が強調されるのは当然であり、また隋との国交がきっかけの一つとなった可能性は確かに強いですね。

斑鳩宮跡は現存最古の宮の遺構であって以後の宮殿の先駆:小笠原好彦「斑鳩宮の建物構造」

2021年12月03日 | 論文・研究書紹介
 現在の法隆寺は、再建された金堂や五重塔などがある西院と、奈良時代になって法隆寺僧の行信が、焼き討ちされた斑鳩宮跡が荒れ果てたままなのを嘆き、上宮王家の追善施設、太子信仰の中心施設として建立した夢殿を中心とする東院から成っています。

 このブログでは、若草伽藍や西院に関する記事は多いものの、考えてみたら聖徳太子が住み、没後は山背大兄が後を継いだ斑鳩宮については、記事をあげたことがありませんでした。そこで紹介するのは、発掘成果をまとめ、新しい知見を加えた、

小笠原好彦『日本の古代宮都と文物』「第一部第一章 斑鳩宮の建物構造」
(吉川弘文館、2015年)

です。小笠原氏については、これまで寺院の遺構や瓦に関する論文をいくつも紹介してきました(たとえば、こちら)。

 さて、東院は昭和9年(1934年)に解体修理がおこなわれましたが、その際、斑鳩宮の跡を調査したのは、法隆寺国宝保存工事事務所の技手(後に所長)であった建築学者の浅野清氏でした。浅野氏は、東院の伝法堂を解体し、掘立柱の建物群の跡を検出しました。

 昭和13年(1938)には、現在の回廊の礎石の下からも掘立柱の柱根が検出され、先行する回廊があったことが明らかになり、調査がさらに進められました。すると、伝法堂とは方位を異にする掘立柱の建物の柱穴が多数発見されたほか、炭や焼けた壁土片も出土したため、入鹿の軍勢によって焼かれたという『日本書紀』の記述が裏付けられることとなりました。

 以後も調査が続けられており、近年では防災工事のための発掘調査がおこなわれた結果、これらの建物群の南側から東西の溝が検出されるなど、新たな発見もなされています。



 小笠原氏は、発見された小型建物群の跡を各地で発見されている6世紀の掘立柱建物と比較し、大型建物との関係はなく、有力氏族の居宅とみなしうるとしています。この辺りを本拠地とし、聖徳太子の最愛の妃であった菩岐岐美郎女を出した膳氏の建物跡であって、そこに斑鳩宮を建築したのでしょうか。

 小笠原氏は、斑鳩宮の配置が、石舞台古墳の南西、飛鳥川の左岸で発見された稲淵川西遺跡と称される建物群ときわめてよく似ていることに注意します。稲淵川のあたりは、有力氏族の居宅もあった箇所ですが、桁行14間とか15間といった大きな建物が整然として配置されているうえ、広場には人の頭ほどの大きさの玉石が全面に敷かれていたため、宮殿遺跡とみなされており、氏もそれに賛成します。

 そして、一緒に出土する土器の編年から見て、稲淵川西遺跡は7世紀後半と考えられることから、斑鳩宮の配置が採用されたものと推測します。稲淵川西遺跡の建物群と同一の配置は、平城宮の大膳職の第二期の建物群でも採用されているため、この形式が宮殿中心部の配置として伝統的に継承されていたと、氏は推測します。

 斑鳩宮跡で注目されるのは、7世紀前半と思われる軒丸瓦2種と軒平瓦1種が発見されていることです。軒丸瓦は2種とも蓮華文であって小ぶりであり、小量しか出土していないことから見て、小さな仏堂に用いられたと想定されています。大津宮も内裏に仏殿があったことが知られていますので、小笠原氏は、斑鳩宮の中心部に仏殿的な建物、ないし小仏堂が営まれていた可能性があるとします。

 斑鳩宮の大きさについては、北室院の北からも掘立柱建物跡が見つかっているため、1町を越えていたのは確実であり、おそらく、伝法堂・絵殿・舎利殿を中心とした1町以内に中心となる建物が配置され、その外側に上宮王家の経済活動に必要な諸施設や倉庫などが配置されていたと推定しています。

 本格的な宮殿の最初である小墾田宮がまだ発見されていない現在、斑鳩宮跡は後代に続く宮殿跡として現存最古、かつ7世紀前半では唯一の遺構ということになります。斑鳩宮については、有力な皇子が管理する皇子宮の一つという見解もありますが、斑鳩宮が上記のような性格のものであったことは、上宮王家の地位を示すものであって、その意義は大きいですね。