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【重要】「憲法十七条」の「和」の背景となったのは『史記』の「楽書」だった:「仏教タイムス」紙に連載

2022年01月28日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 「憲法十七条」第一条には不自然な箇所があります。第一条では、人は党派を組みがちであり、また対立を離れて物事を見ることができる「達者」は少ないため、「あるいは君父に順わず、また隣里に違(たが)う」と述べたうえで、「上和下睦」してなごやかに話し合えばうまくいくと述べています。

 しかし、君主と臣下、父親と子供なら上下の対立ですので、「上和下睦」しておだやかに話しあえばまとまるかもしれませんが、「隣里と違う」、つまり近隣との仲違いというのは、横の対立です。

 この点については、これまで検討されてきていませんが、こうした不自然な表現になったのは、典拠となった文献を強引に要約したためです。その典拠を指摘して説明した拙文、「 「憲法十七条」の「和」の典拠を発見(上)」が「仏教タイムス」紙の1月27日版に掲載されました。

 その典拠とは、司馬遷『史記』のうち、音楽の働きについて儒教の立場で解説した「楽書」です。「楽書」では、君主の先祖を祀る廟において「上下」がともに音楽を聞くと「和敬」しないことがなく、「族長鄉」、つまり大きさの異なる集落・村落において「長幼」がともに音楽を聞くと「和」しないことがなく、家庭において「子兄弟」がともに音楽を聞くと、「和親」しないことがないと説いています。

 「礼」は上下関係を律する行動規範ですが、これを強調すると、どうしても上下の緊張・対立が高まりますので、それを上下の異なる音が調和して美しい和音(ハーモニー)を生む「楽」によって和らげることが必要になります。ですから、儒教の教育は、「礼」と「楽」が柱となっているのです。

 ただ、当時の倭国ではそうした教育はなされておらず、また伝統的に「和音」にはなじみがないため、「楽」に触れずにこの「楽書」の部分を無理にまとめ、「長幼」という点を省いて逆の状況の対句にすると、人は「君父わず、隣に違」いがちだが「睦すればうまくいく」という第一条ができあがることになります。
  
 また、第一条が説く「以和為貴」は「和」、第二条が説く「篤敬三宝」は「敬」であって、合わせれば、まさに「君臣上下」の「和敬」であって当時の倭国の朝廷が最も必要とするものですし、「和敬」は仏教が和合をもたらすものとして尊重する「六和敬」とも重なります。

 「憲法十七条」の「和」は『論語』が「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と説くような「和」ではなく(こちら)、むしろ儒教が戒める「同」であって、和合のために相手に「同」ずる六和敬に近いですね。

 第一条冒頭の「以和為貴」については、文言は『礼記』「楽記」の「礼之以和為貴」に基づくとされ、内容は『論語』の「礼之用和為貴」に近いなどと言われています。しかし、この句を用いたのは、冒頭に有名な四字句を持ってきて権威づけるためでしょう。『礼記』の用例は、「楽」について述べた箇所ですし。

 第一条全体を支えているのは、上記の『史記』「楽書」、そして似たような内容を説いて「上和下睦」の句の元となった『孝経』であって、「憲法十七条」はそれらの儒教の立場を無視した使い方をしており、実質は仏教が支えているという構図です。

 これで、「憲法十七条」第一条の不自然な表現の理由もわかりましたし、「憲法十七条」全体の意図も見えてきました。三経義疏はいずれも冒頭の大事な箇所で、「楽」の効用について述べた『孝経』の文を利用していながら「楽」に触れておらず、その点は「憲法十七条」と共通しています。

 「憲法十七条」は、天皇という称号とその権威を確定した律令以前、神話によって天皇を権威づけしようとした天武朝以前の作であること、そして『勝鬘経義疏』を書いたのと同じ人が書いたことは間違いありません(こちら)。天武天皇は、全国から「楽人」を集め、「楽」を重視しようとしてましたが。

 いやあ、典拠を明らかにすることは大事ですね。「仏教タイムス」は週刊ですので、(下)は来週の2月3日版に掲載されますが、そちらでは、「憲法十七条」が重視している仏教を尊重するよう命じた「篤敬三宝」が第二条、君主への服従を説く「承詔必謹」が第三条に配され、第一条が「和」の強調となっている理由について説明しています。
【付記】
現在の『史記』「楽書」は、後に補われたものですが、その内容は、『荀子』「楽論」とほぼ重なります。いずれにしても、「憲法十七条」の作者は、類書で見たか、または、隋の劉炫『孝経述義』が問題部分を引用していますので、専攻する南朝の『孝経』の注釈のうち「楽」の部分などに引用された形で見ていたと思われます。
「2月27日版」と誤記してあった部分を「1月27日版」に訂正しました。

【追記:2022年6月25日】

大発見のように書いてしまいましたが、『史記』楽書ではなく、楽書が基づいた根本の『礼記』楽記ですね。お恥ずかしい。7月9日の聖徳太子太子シンポジウムで訂正します。

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