聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

田中英道『聖徳太子虚構説を排す』の問題点(3):厩戸皇子の誕生描写は仏伝による

2010年12月28日 | 太子礼讃派による虚構説批判の問題点
 前々回、田中英道『聖徳太子虚構説を排す』が戦前の景教影響説を受け継ぎ、厩戸皇子の誕生時の記述は「馬小屋で生まれた」イエスの話と類似すると主張していることを批判しました(ここです)。

 その時の記事について、聖書ではイエスが馬小屋で生まれたとは明記しておらず、牛やロバがいる家畜小屋で生まれたとする伝承も成立が遅いのに、日本では馬小屋誕生が常識となった経緯を書いた京都産業大学の平塚徹氏のページ「イエスは馬小屋で生まれたか?」に着目した国家鮟鱇さんが、自らのブログでとりあげ、景教影響説を批判するなら、イエスは馬小屋で生まれていないことを根拠とすべきではないか、とコメントされました。

 私はもともと唐代仏教が専門なので、唐代の景教については、前から中国・日本の研究書や論文を集めて調べていたものの、そうした視点からの検討は頭になかったため、感謝していろいろな調査を始めたところです(現存する僅かな景教の漢文文献では、「末艶(マリア)」は「涼風(聖霊)」によって妊娠して「移鼠(イエス)」を生んだとあるのみで、生まれた場所に関する記述はありません)。
 
 国家鮟鱇さんはまた、后が宮中の役所を視察して回っていた際に「厩戸に当りて」産んだというのと「馬小屋で生まれた」というのは大変な違いだとした私の主張について、それはそうだが、馬という点が共通している以上、反論としては十分ではないだろう、としています。

 これは確かにもっともな指摘であって、説得力が弱いのは、私の説明不足によるものです。実は、あの文章は、厩戸皇子の誕生場面は仏伝に基づくらしいと気づきながら、ネタの出し惜しみをして書いたため、ああした中途半端な言い方にとどまっていたのです。あの文章の力点は「~に当りて」にありました。

 その仏伝を紹介する前に、『日本書紀』の該当箇所を見ておきましょう。仏伝と比較しやすくするため、古訓のように和語風に訓み下すのではなく、漢語そのままの通常の漢文訓読風にしておきます。

 皇后、懐姙開胎の日に、禁中を巡行して、諸司を監察す。馬官に至りて、乃ち厩の戸に当りて、労せずして忽(たちま)ち産む。生れて能(よ)く言ふ。

 要素としては、(1)皇后が、(2)臨月の際、(3)宮中の役所を、(4)あちこち見て回り、(5)馬の役所に至り、(6)厩の戸に、(7)「当りて」=まさにそこで(立って、ぶつかって、よりかかって)、(8)「不労(苦しまない、疲れない)」の状態で産み/生まれ、(9)生まれるとすぐ話した、ということになります。

 「厩」という語は、当時にあっては最先端の技術・知識を思わせるイメージがあったことは、前に書いた通りですが、上の要素のうち私が特に注目するのは、「~に当りて」という言い回しです。「厩」という語にだけ着目してキリスト誕生を思い浮かべるのでは、『日本書紀』の記述を当時風な漢文で書かれた「文章」として読んでいるのではなく、目についた単語を現代語に置き換えているだけにすぎません。

 さて、数ある仏伝のうち、よく読まれた隋・闍那崛多訳『仏本行集経』の「樹下誕生品」を訓読で示せば、次の通りです。釈迦を「菩薩」と呼んでいるのは、仏となる前のあり方を示す伝統仏教の用法です。

 (浄飯王の夫人である)聖母摩耶、菩薩を懐孕し、まさに十月に満たんとす。……(摩耶夫人は、出産で亡くなる危険もあるとする父(大臣)の要望で実家に帰り、父が造らせたルンビニーの華麗な園林におもむき)処々観看し、此の林より復た彼の樹に向かう。かくの如く次第し、周匝[経めぐり]して行く。然るにその園中に、別に一樹有り、波羅叉と名づく。……彼の(素晴らしい波羅叉)樹の下に至る。……(胎内の菩薩が、摩耶夫人に普通の出産のような「身体遍痛」や「大苦悩」を与えないよう念じると)是の時、摩耶、地に立ち、手をもって波羅叉樹の枝を執[と]りおわりて、即ち(右脇からするすると)菩薩を生む。……如来、仏道を成ずるを得おわりてより「無乏無疲、不労不倦」にして、よく一切の煩悩諸根を抜く。……菩薩、生まれおわりて、人の扶持すること無く、即ち四方に行くこと、面ごとに各の七歩。……口に自ら言を出だす。(大正蔵3巻、685b~687b)

 以上です。「王の夫人が」、「臨月の身で」、あちこちの樹を「見て回り」、ある樹の下に<至り>、(邸内でなく)その樹<のところで>立って枝に手をかけたところ、「苦しむことなく子を生んだ」が、如来は悟ってからは<不労>であり、「生まれるとすぐ話した」、という流れです。

 『日本書紀』では、間人皇后が宮中の役所を監察して回ったという無理な設定にしてますが、何で出産直前の妊婦が役所を巡察する必要があるのか。これはやはり、仏の誕生時に臨月の摩耶夫人が園林の素晴らしい樹から樹へと巡り歩いて眺めたというのを、太子の命名伝承にあったのであろう「厩」がらみの話にするため、仏誕生の場面を利用して描いたためと思われます。

 『日本書紀』の「厩戸に当りて」は、『日本書紀』編纂者が「その樹のところで、立ってその枝に手をかけたまま」の「樹」を、「厩戸」で置き換えたか、僧侶などが既にそのような釈迦の誕生になぞらえた命名伝承を造っており、それを『日本書紀』編纂者が潤色したものと考えます。いかがでしょう?

 なお、『日本書紀』の太子関連記述は、中国の類書(文例による百科事典)から、「聖」や「帝」に関する表現を切り貼りして用いているらしいことは、このブログに置いてある拙論「聖徳太子伝承中のいわゆる「道教的」要素」で論じておきました。厩戸皇子の誕生場面があまり仏教風でなく、むしろ中国の聖人の印象が強いのはそのためもあるでしょう。

 いずれにせよ、聖書に見えるキリスト誕生の場面とこの仏伝と、どちらが『日本書紀』の厩戸皇子誕生の場面に近いかは、明らかではないでしょうか。ただ、これはその箇所を書くにあたって潤色に用いた材料に関する話であって、厩戸皇子の誕生場所や名の由来が実際にはどうであったかは、また別に考えなければならない問題です。

三経義疏が中国作でないことの念押し論文: 石井公成「三経義疏の共通表現と変則語法(上)」

2010年12月24日 | 三経義疏
 以前、このブログでお伝えしていた三経義疏の語法に関する拙論がようやく刊行されました。

石井公成「三経義疏の共通表現と変則語法(上)」
(『駒澤大学仏教学部論集』第41号、2010年10月)

です。予定より遅れたため、抜刷が出るのは来年となりました。PDF公開が始まれば、リンクするようにします。

 藤枝先生の中国撰述説を否定した拙論「三経義疏の語法」(『印度学仏教学研究』57巻1号、2008年12月)の詳細版ですね。朝鮮俗漢文の語法が含まれている可能性もあるため、今回は題名では「倭習」という語を用いず、「変則表現」としました。三経義疏それぞれの冒頭部分を検討し、三経義疏だけに共通していて他の諸文献には出て来ない表現が多く、しかも中国の知識人が書く漢文とは異なる変則表現が多いことを論じたものです。

 共通表現については、簡単に説明して一覧表を末尾に並べるだけにしてています。三経義疏に共通して出てくる表現を、仲間たちと開発したNGSMというプログラムで自動的に抽出し、それが漢訳経論や中国・朝鮮・日本の仏教文献ではどの程度用いられているか、私自身長く関わってきた SAT(大蔵経テキストデータベース研究会)、そして、SATと協力関係にあった台湾の CBETA(中華電子仏典協会)のデータによって検索したものです。

 三経義疏だけに出てきて他には全く見えない例のほか、『法華義疏』の種本となった梁代の光宅寺法雲『法華義記』と三経義疏とにだけ共通する表現、三経義疏と新羅や日本の文献にだけ出てきて中国文献には見えない表現などををあげて注記しておきました。『勝鬘経義疏』はS、『法華義疏』はH、『維摩経義疏』はYで表しており、H:10 とあるのは、この言い方が『法華義疏』に10回出てくる、という意味です。こんな感じの一覧表が何頁も続いています。

自有二。第一  (S:1 H:10 Y:14)  *他に、『法華義記』36例のみ
自有三。第一  (S:1 H:1  Y:9)   *他に、『法華義記』9例のみ
有二。第一挙  (S:1 H:7  Y:7)   *他に、『法華義記』2例のみ
有二。第一初二 (S:2 H:3  Y:1)
有二。第一嘆  (S:1 H:1  Y:1)
有二。第一直  (S:7 H:26 Y:7)
第一先列     (S:1 H:4  Y:3)  *他に、『法経義記』3例、
                     『涅槃経集解』1例のみ
第一可見。就第二 (S:1 H:6 Y:5)
第一初二行偈   (S:1 H:6 Y:3)
第一初三     (S:1 H:3 Y:2)   *他に、日本『因明論疏明
                      燈鈔』1例のみ
第一直述     (S:2 H:1 Y:2)
第二釈標疑云   (S:1 H:4 Y:3)
第三従是故以下結 (S:1 H:1 Y:1)

 三経義疏の科文(かもん=内容分類)は、いずれも『法華義記』の用語に基づいており、それをちょっとだけ変えることによって中国や朝鮮の文献には無い三経義疏だけの独自な形になっていることがよく分かりますね。

 日本にも無い場合が多いのは、現存する日本の他の注釈は、中国仏教が確立した隋唐の仏教文献の表現を基本としているからです。上のリストのうち、『法華義記』以外に出てくる『涅槃経集解』は、『法華義記』の少し前に同じ系統で編集された梁の注釈集成文献です。

 リストのうち、「第一可見。就第二(第一は、見るべし[最初の部分は、経文を見ればわかるだろう]。第二に~就きては……)」とか「第三従是故以下結(第三に『是故』より以下は、~を結ぶ)」などという長たらしい言い方が三経義疏だけに共通していて、現存する中国・朝鮮・日本の注釈に用例が全く見えないのは、三経義疏が同じ著者(たち)か同じ学派のきわめて近い人々によって書かれた証拠ですね。

 むろん、中国でも朝鮮諸国でも、多くの注釈が失われており、中には三経義疏と同様に『法華義記』系統の用語を使ったものもあったでしょう。上記の調査によって言えることは、「現存文献で電子化されていて簡単に検索できるものついては……」ということです。敦煌写本などはまだほとんど電子化されていませんし。

 変則表現については、『勝鬘経義疏』の冒頭の部分を中心に論じましたが、最初の数十行だけでも標準的な漢文の語法に外れた表現がたくさん出てきます。また、『勝鬘経義疏』と内容が7割ほどまで一致することで有名な敦煌出土の『勝鬘経』の注釈と比較し、文体がいかに違うかについて、以下のように書いておきました。『勝鬘経義疏』が「苦仏已過(苦は、仏はすでに過ぎている)」と、日本語の文をそのまま漢字にしたような文を書いている部分です。

「また、『苦仏已過』もおかしい。普通の漢文であれば、『苦仏』という仏が既に過ぎてしまったように読めてしまう。一方、敦煌本は、該当する箇所では、……『此苦、於仏乃是過去(此の苦は、仏に於いては乃ち是れ過去なり)」(452a)としており、意味は明瞭である。
 すなわち、Sは敦煌本と内容が七割ほど内容が一致すると言われているが、文章はこれほど違うのである。」

 むろん、語句が完全に一致する箇所も多いうえ、敦煌本にも漢字の誤記・誤写はあるものの、『勝鬘経義疏』のように語順が大幅に違っている箇所や、副詞を形容詞として用いる類の文法の間違い、平安朝の物語のようにうねうねと長く続く文などは全くありません。

 今回の論文は(上)としましたが、続篇は(下)になるか(中)になるか未定です。三経義疏の思想を扱った論文はその後で書きます。三経義疏と聖徳太子の関係の有無について書くのは、さらにその後になるかもしれません。きちんと論ずるためには、それなりの準備が必要ですので。それまでには、田村晃祐先生の『法華義疏』の研究書が出ているでしょうし。

【追記 12月24日夜】
拙論を含む論集が22日に学部事務室に届けられたため、刊行月を「12月」と記しましたが、改めて見たら、論集の奥付も論文のヘッダも当初の予定日であった「10月31日」のままでした。訂正しておきます。
【付記 2021年5月5日】
三経義疏に関する拙論については、このブログの画面右側に出る「作者の関連講演・論文」コーナーにリンクを貼ってあります。この論文については、こちら

田中英道『聖徳太子虚構説を排す』の問題点(続):田中説の拠り所である「関野貞説」なるものは虚構だった?

2010年12月20日 | 太子礼讃派による虚構説批判の問題点
【19日早朝にアップしましたが、夜になって読み直したところ、田中氏が自説の拠り所としている関野貞氏の説なるものが関野氏の原論文の内容と異なることに気づき、掲示をやめました。その部分と関連する部分の記述を訂正したものを再アップします。このところ、再アップ続きで申し訳ありません】

 前回の記事では、同書の全般的な傾向について紹介しましたので、今回は仏像関連の主張を見ていきます。

 田中氏は、関野貞や秋山義一などによる戦前の二寺併立説を評価し、現在の法隆寺西院伽藍は聖徳太子が父の用明天皇のために建立したものであり、聖徳太子が重病となった際に発願された釈迦三尊像は、太子亡き後に建立された若草伽藍の本尊となったと説きます。つまり、二つの寺が同時に存在していたのであって、天智9年(670)の火災で焼失したのは若草伽藍であり、現在の法隆寺は、五重塔の心柱が年輪年代法によれば594年の伐採であることが示すように、聖徳太子が創建した当時のままだとするのです。

 氏は、法隆寺金堂の薬師如来像は、形だけ見れば釈迦如来像と言ってよいとし、止利仏師の様式にならって作られた擬古の像であると説きます。擬古作とみなす点は、最近の通説と同じですね。

 そして氏は、西院伽藍の本来の本尊である「原・『薬師如来』像」は止利様式の丈六の釈迦像だったが、若草伽藍焼失の後、その金堂から救出された釈迦三尊像が新たに西院伽藍の金堂の本尊とされた際、その新らしい本尊の横に安置するため脇侍の大きさの仏像が必要となり、丈六の釈迦像を真似て小さくした擬古像が作られ、また釈迦三尊像と重ならないよう薬師如来とされたのであって、銘文もその時に書かれたのだと推測しています。

 しかし、田中氏が自説の拠り所とする年輪年代法調査を行った研究者たちは、建立は若草伽藍が先であって、西院伽藍の金堂は670年の火災の年の少し前に着工された可能性があるとし、心柱だけが異様に古くて新旧の部材を用いている五重塔は、その金堂の建立後に建てられたとしていました。

 光谷拓実氏、つまり、この年輪年代法の調査をおこなった当人が、法隆寺建立事情については、今回の年輪年代法の調査によって「ようやくその謎解きに一歩近づいたことになろう」(光谷「古代史の謎を解く年輪年代法」、『歴史読本』2009年8月号)と述べているのに、田中氏はこれで決定だとするのです。また、瓦研究の成果も、西院伽藍は若草伽藍より後の建立であることを示すというのが通説であることは、前回書いた通りです。

 つまり、田中氏の主張は前提からして成り立たないのですが、それはともかく、若草伽藍から釈迦三尊像を持ってきて西院伽藍の金堂の本尊としたのであれば、それまで本尊とされていた丈六の釈迦像はどこに行ったのでしょう? 

 田中氏は、火災から救出された釈迦三尊像が金堂の本尊とされた際、「原・『薬師如来』像もつくり直された」と述べ、その「原・『薬師如来』像」については、「六四三年の蘇我入鹿の斑鳩寺攻撃の際に破壊同然の目に遭っていたからかもしれない」としています。そして、すぐれた建築史家であった関野貞氏が、若草伽藍はこの年「焼失した」としていたのは「示唆的である」と述べています。(54頁。56頁にも同趣旨のまとめ有り)

 しかし、田中氏は『日本書紀』に従い、若草伽藍は天智9年(670)の火災で焼けたとします。田中氏は、斑鳩宮襲撃と記さず、「蘇我入鹿の斑鳩寺攻撃」と書いていますが、そうなると、蘇我入鹿が派遣した軍勢は、643年に「斑鳩寺」を襲っておりながら、斑鳩宮を焼いただけで、その斑鳩宮と方位も同じであって宮とセットになっていたことが確実な若草伽藍とその釈迦三尊像には全く手をつけず、一方、方位が大きく異なる西院伽藍については本尊だけに損傷を与えた、それも蘇我系の用明天皇のために造られた本尊だけに破壊同然のひどい損傷を与えたことになります。あまりにも不自然ではないでしょうか。

 田中氏は、薬師如来像銘については、擬古像を造った際、「薬師如来とするために、無理して父、用明天皇の病気のことを推古天皇と聖徳太子が平癒を祈願したものだ、という物語を作りだし」て書いたと述べ(55頁)、ほかにもこの銘文には「いろいろな矛盾がある」(54頁)としていますが、この書き方だと、用明天皇は、推古天皇と聖徳太子の父であるみたいですね。

 また、上の記述によれば、病気平癒を祈願したのは推古天皇と聖徳太子ということになりますが、薬師如来像銘が後代の作だとされているのは、重病の人のために周囲が誓願する初期の通例と違い、用明天皇自身が「病気が治るよう寺と薬師像を造ってお仕えしたい」と述べた、と記されていることも一因となっています(古い時代の中国・日本仏教の誓願の特徴について論じた論文は、私が前に書いたものだけでしょうから、いつか紹介します)。

 実際の銘文は、すぐ亡くなってしまった用明天皇のその願いを果たすために「小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王」、すなわち推古天皇と聖徳太子が遺命を奉じて推古十五年に作った、と述べています。つまり、擬古像を造った際に「推古天皇と聖徳太子が平癒を祈願した」という物語も作って光背に刻み込んだとする田中氏の説明は、銘文の内容と異なるのです。前回の記事では、田中氏による釈迦三尊像銘の内容説明が不適切であることを指摘しましたが、今回は、薬師如来像銘の内容把握が不適切ということになりました。

 しかも、田中氏は、54頁では、670年の火災から救出した若草伽藍の釈迦三尊像を西院伽藍金堂の本尊とした際に、丈六の釈迦像を真似た擬古的な小さい像が作られ、「光背の銘文もまた書き込まれたのである」としておりながら、56頁では、擬古的につくり直された際、「原・『薬師如来』像の光背に書かれていた銘文も新たに書き込まれたのである」と述べています。銘文は擬古像を造った時に新たに作文されたのでしょうか。それとも、「原・『薬師如来』像」に既に刻まれていたのでしょうか。

 既に刻まれていたとしたら、聖徳太子は丈六の釈迦像を造っておきながら、「薬師如来像を造って……」という銘文を光背に刻み込ませた、という妙なことになります。

 あるいは、「原・『薬師如来』像」の光背銘には、「用明天皇は、自分の病気が治るよう寺と釈迦像を造ろうと願い……その遺命を承けて推古天皇と聖徳太子が……」と書かれていたのを、後に擬古像を作った際、「釈迦像を」の部分だけ「薬師像を」と改めたということなのでしょうか。しかし、この銘文は「無理して……つくり出した」ものであり、他にも「いろいろな矛盾がある」ことは、田中氏自身が指摘している通りです。

 田中氏は最新の著作、『「やまとごころ」とは何か』(ミネルヴァ書房、2010年)では、自著の『聖徳太子虚構説を排す』は「法隆寺問題だけでなく歴史家の様々なもっともらしい聖徳太子懐疑説を論破したものだが、これに対する反論はまだ提出されないでいる」(97-8頁)と書いています。しかし、前回と今回検討してきたような内容なのですから、学術論文で取り上げて反論する研究者が出てこないのは、仕方ないことではないでしょうか。

 ちなみに、自説に反論がないとする点は、大山誠一氏が自らの聖徳太子虚構説について「学問的反論は皆無である」としばしば誇っているのと似ていますね。

 大山氏との共通点はほかにもあります。それは、大山氏が天皇号に関する津田左右吉の説や聖徳太子に関する久米邦武の著作を紹介する際、孫引きですませていて出典表示が不適切であり、また「憲法十七条」についても津田の説をきちんと読まず、自説に都合良く解釈して自説の根拠としていたのと同じことを、田中氏も関野説についてやっていることです。

 田中氏によれば、関野貞氏は、若草伽藍は「六四三年の蘇我入鹿の乱で焼失し、本尊のみが法隆寺金堂に移し替えられた」と述べたとし、これは「昭和二年」に『アルス大建築講座』に発表された説だとしています(31頁)。そして、若草伽藍がその時に焼失したと関野氏が述べたことを「示唆的である」として高く評価しています。田中氏は、他の箇所でも、関野の学識を賞賛しています。確かに関野貞(1868-1935)は日本建築史の分野を確立した、きわめて優れた学者でしたが、昭和10年代に行われた斑鳩宮と斑鳩寺の発掘調査の成果や、戦後急激に進展した建築様式や瓦の様式の研究成果を知らずに、限られた材料に基づいて模索していた時代の人物であることも考慮すべきでしょう。

 そもそも、「蘇我入鹿の乱」などという歴史用語はありません。また、この昭和2年に発表された関野説については、論争史の代表的な概説であって誰もが読む論文、藤井恵介「法隆寺は再建か非再建か--法隆寺再建非再建論争の展開--」(大橋一章編『寧楽美術の争点』、グラフ社、1984年)では、関野説は「若草伽藍は聖徳太子のために発願された釈迦三尊像を本尊として建立されたが、天智九年の火災で焼失したとする」(22頁)と明記されており、出典は昭和2年刊行の『アルス大建築講座』としています。

 つまり、田中氏の紹介と違い、関野説では、643年に入鹿が派遣した軍勢が斑鳩宮を襲うとともに若草伽藍も焼いたとはしていなかったのです。田中氏が関野説を正しく伝えていたなら、斑鳩宮の焼き討ちの際、西院伽藍の本尊も破壊されたのだろうという田中氏の推測は成り立ちにくくなります。

 また、上記の藤井氏の紹介では、関野説の出典は田中氏の本と同様、『アルス大建築講座』となっていますが、これは間違いであり、実際にはその講座の名は、『アルス建築大講座』です。焼失に関する記述は、関野が担当した「日本建築史」のうち、85頁から86頁にかけて書かれています。

 つまり、田中氏は、『聖徳太子虚構説を排す』の中でもとりわけ重要な主張、すなわち、法隆寺は再建でなく創建当時のままだという主張をするため、一番の拠り所としている関野説を紹介するにあたって、その論文自体を読まずに出典名の誤りを含んだ論争史紹介論文の説明の孫引きですませ、しかも自説に都合よく改めた形で紹介したのです。

 これは悲しいですね。田中氏に言われるまでもなく、法隆寺は現存する世界最古の大型木造建築であり、芸術的な傑作であって、日本と世界中の人々にとってこのうえなく貴重な文化遺産です。田中氏のようなフェアでないやり方によって法隆寺の古さを強調しようとするのは、法隆寺に対する冒涜です。

【追記 2010年12月23日】
 『アルス建築大講座』を『アルス大建築講座』と誤記するのは、上に記した藤井恵介「法隆寺は再建か非再建か--法隆寺再建非再建論争の展開--」(大橋一章編『寧楽美術の争点』、グラフ社、1984年)が最初ではありませんでした。
町田甲一『法隆寺』(角川書店、1972年)が「関野貞『アルス大建築講座』所収「日本建築史」昭和二年」(119頁)と記しており、それ以前に同氏の論文、「法隆寺再建非再建論争の経緯」(『東京教育大学教育学部紀要』15巻別冊、1969年3月)が「昭和2年発行『アルス大建築講座』所収「日本建築史」」(4頁)と書いてました。以後、孫引きで間違いが受け継がれていったわけです。町田氏以前はどうなっているか、調べてみます。
 町田氏の『法隆寺』は後に時事通信社から増補版が出ており、田中氏は問題の箇所(54頁)でその増補版に触れているため、氏の言う関野貞説なるものは藤井論文でなく町田氏のその本に基づいて記したのかもしれません。いずれにせよ、自説にとっても最も重要な関野の論文に直接当たらず、論争史紹介の文章から書名の誤りも含めて孫引きし、しかも関野説の内容を自説に都合良く改めたことに変わりはありません。

【追記2 2011年1月13日】
上の記事中で、日本仏教の誓願の特徴に関する拙論に触れましたが、そのうち、上代日本に関する拙論のPDFをブログに置きました。ここです

田中英道『聖徳太子虚構説を排す』の問題点

2010年12月16日 | 太子礼讃派による虚構説批判の問題点
 出版はだいぶ前になりますが、現在も一般読者にある程度の影響を与えているようなので、聖徳太子虚構説を批判している本について検討しておきましょう。

田中英道『聖徳太子虚構説を排す』
(PHP研究所、2004年)

です。

 聖徳太子の存在を全面的に否定する大山誠一氏の著作が、結論先行で想像と断定が多いのと同様、聖徳太子礼讃・伝承説尊重の立場に立って大山氏の太子虚構説を厳しく批判するこの本も、結論先行で想像と断定的な物言いが目立ちます。また、西洋美術史学者である田中氏は、キリスト教美術に馴染んでいるためもあってか、「天寿国」は「キリスト教の天国とさえ思われる」(98頁)とか、キリスト教の一派である景教(ネストリウス派)の「景教」とは「光明の教え」の意味であって光明皇后の名はそれに由来する(95頁)と述べるなど、学界では認められていない突飛な主張をしている箇所も少なくありません。

 まず、同書は、通説に反対し、現在の法隆寺は再建でないとする主張から始まります。田中氏は、法隆寺西院伽藍は聖徳太子が用明天皇のために建立したものであり、若草伽藍は聖徳太子のために発願された釈迦三尊像を本尊として建立された、とする戦前の別寺説に賛成します。670年の火災で焼けたのは、若草伽藍の方であって、より古い法隆寺は創建当時のままだとするのです。そう主張する最大の根拠は、五重塔心柱の伐採年代は594年だとする年輪年代法の調査結果です。

 年輪年代法による最新の調査については、前回の記事で紹介した通りです。この調査をした研究者たちは慎重であって、心柱の伐採年代によって再建非再建問題が完全に解決したとは主張していないうえ、西院伽藍については、670年の火災前後に伐採された木材を使った金堂 → 心柱だけ異様に古く、後は新旧寄せ集めの部材を使った五重塔 → 690年頃伐採の部材を使った中門、という建立順序を想定しており、聖徳太子当時の建立という説は成り立ちません。また、最初期の寺である飛鳥寺や豊浦寺の瓦を受け継いでいて古いのは、若草伽藍の金堂の瓦であって、西院伽藍の瓦はそれよりずっと新しいことが判明しています。田中氏は両伽藍の瓦にも触れているものの、最近の研究成果を正しく紹介していません。

 三経義疏については、藤枝説で決着がついたと断定する大山氏と違い、漢文の誤りなどについて、「私たちはそうした文献的な研究成果を待つだけである」(148頁)と述べているのは、妥当な姿勢です。ただ、三経義疏真撰説については、花山信勝などの先行研究に基づいて論じており、新たな証拠は示されていません。

 天寿国繍帳については、先行研究に基づいて真作であることを強調していますが、「世間虚仮、唯仏是真」における「世間」という語は、「『法』とか『諸行』といった仏教的な言葉と異なる、日本人の社会のあり方への独特な見方を感じさせる」(68頁)だというのは、無理な議論です。
 
 確かに、「世間」という語は現在では日常語として定着していますが、7世紀当時にあっては耳慣れないモダンな用語であって、今で言えば「DNA」に当たるような語感があったはずです。中国では「世間」の語は仏教以外の場面でも使われていますが、用例はきわめて稀です。梵語の manuşya-loka の漢訳語である「世間」を僧侶以外の人々が頻繁に用いるようになるのは隋唐以後であって、その場合でも仏教を意識した場面に限られます。

 日本においては、「世間」どころか、それを和語にした「世の中」という語でさえ、『万葉集』ではモダンな印象を与える表現として用いられていることは、講演で触れたことがあります(石井公成「恋歌と仏教--『万葉集』『古今集』『伊勢物語』--」、武蔵野大学編『心 日曜講演集』25集、2006年4月)。

 また、田中氏は、聖徳太子伝説について述べる際、「馬小屋で生まれた」(97頁)としてキリストとの類似を指摘し、戦前に唱えられた景教影響説を再評価するのですが、これも「厩」という語の現在のイメージにとらわれ、文脈と当時の語感に注意していない読み方です。

 『日本書紀』推古元年の「(宮中の役所を視察して回っていた皇后が)馬官に至り、厩戸に当たりて」安らかに産んだという記述は、現代に置き換えれば、「皇室の御用自動車の車庫兼整備工場[英国から派遣された技術スタッフやその二世・三世が仕切っており、英語で話している]を視察した際、その入り口まで来たところで安産した(そのせいもあってか、太子は成人すると車好きとなり、スポーツカーを高速で飛ばすようになった)」などといった感じでしょうか。『日本書紀』は、伝承に基づいて潤色しているのでしょうが、そもそも后が宮中の役所を視察していて「厩戸に当たりて」安産したというのと、「馬小屋の中で生まれた」とでは大変な違いです。

 「百済入朝して、龍編(中国古典)を馬厩に啓[ひら]」いたとする『懐風藻』の序や、百済王が阿直伎を派遣して良馬二頭を献上し、阿直伎は「軽の坂上の厩」でその馬を飼うとともに、儒教の書物に通じていたため「太子菟道稚郎子」の「師」となって教えたとする『日本書紀』応神天皇15年条の記事に着目した新川登亀男さんは、「厩」で馬を飼う者が「太子」を教育する「師」でもあり、「厩」は当時は「教育発信と受容の場でもあった」ことに注意しています(『聖徳太子の歴史学』19-20頁)。「厩」と聞いてすぐ、キリストが生まれた馬小屋を思い浮かべるのではなく、『日本書紀』や天寿国繍帳銘などの資料は、それが書かれた当時の常識と語感に基づいて読まねばなりません。
 
 光明皇后というか、光明子の「光明」にしても、『続日本紀』を読み、また光明皇后・聖武天皇、そしてその娘の孝謙天皇の強烈な『金光明最勝王経』信仰を考えつつその『金光明最勝王経』を読めば、「光明」の由来は明らかです。同経のどの箇所が重要かは、先日、東大寺で行なった講演で述べましたが、別に書きます。

 田中氏は、谷沢永一『聖徳太子はいなかった』を猛烈に攻撃しています。そのように激しく非難するに至る経緯はどうであれ、谷沢氏のこの本は、大山説ときわめて限られた文献だけに基づいて書きとばした間違いだらけの駄作です。近代の書誌学が専門で古代は弱い谷沢氏は、三経義疏を真撰として高く評価していた時期も、三経義疏は「世界で最古の学問書の一つである」と主張するなど、出鱈目を書いていました。三経義疏は、太子の真撰だとしても7世紀初めなのであって、古代のギリシャやインドや中国などの書物に比べれば遙かに後代のものなのですから(インドでは口承が基本であって書物の形になるのは遅いですが)、「世界で最古の学問書の一つ」などというのは、ひいきの引き倒しです。

 ところが、田中氏は、谷沢氏が聖徳太子礼讃の立場から「聖徳太子はいなかった」説に節操なく転じたとして非難する一方で、その谷沢氏が聖徳太子を礼讃していた時期の文章、すなわち、「聖徳太子は……布教はしなかったし、させもしなかった。独り書斎にあって法華経、維摩経、勝鬘経などを読み、研究をした。……仏教を『信じる宗教』ではなく『人生の知恵』だと受け取った証拠である」という文章を引用したうえで、「私もこの聖徳太子への考え方に賛成である」(120頁)と述べているのですから、まったく理解できません。

 これは、大正教養主義などに見られる書斎派の知識人のあり方ではないでしょうか。谷沢氏にしても田中氏にしても、三経義疏そのものや釈迦三尊像銘などを、現代語訳などでなく、原文できちんと読んでもらいたいものです。そういえば、田中氏が釈迦三尊銘の趣旨について説明した箇所も、「太子の病気回復と安寧を祈って太子等身大の釈迦像をつくろうとした」(49頁)とあるのみです。延命が無理なら「浄土に往登し、早く妙果に昇」られるよう願った部分に言及しておらず、かたよった説明になっています。

 こうした例は他にいくつもあります。田中氏は、『日本書紀』などの太子関連の記述をそのまま信じて太子の偉大さや法隆寺の芸術的意義を強調し、当時の日本文化の素晴らしさを説こうとしておりながら、実際には、キリスト教に引きつけて解釈したり、氏が好ましく思う近現代のあり方を太子のうちに読み込むなど、歴史を無視した主張を重ねているのです。
 
 大山氏の常識外れの美術史理解をたしなめたところなどは妥当であるものの、批判の多くは、大昔の古くなった諸説を含む従来の研究成果と、田中氏が想定する聖徳太子像に基づくものであって、新たに客観的な証拠を示して大山説を論破したと言える箇所は、ほとんど無いように思われます。

 田中氏のこの本は、漢文資料の読解と仏教理解の面が十分でなく、結論先行であって歴史の実状や最近の研究成果を無視した想像や断定が多いといった点では、最初に述べたように、大山氏の著作に良く似ているという印象を受けます。大山氏との類似と言えば、津田左右吉の著作をきちんと読まずに津田に論究する点も同じですね。

 大山氏は、津田左右吉説のうち自説に都合の良い箇所だけを孫引きで使い、津田は「憲法十七条」は奈良時代初期に『日本書紀』の編纂者が作成したと述べたなどと事実に反する主張をしていました。大山氏は他にも、津田は「早稲田大学教授を追われ」た(『聖徳太子と日本人』)などと誤ったことを書いており、古代史の批判的研究の先駆者である津田の伝記も読んでいないことが知られます。

 一方、田中氏は、太子について「明治以降、実証主義とマルクス主義が移入されてから、この人物が天皇に近い権力者の一人であるというので、さらに疑う史家が多くなった。典型は津田左右吉氏である。……彼の否定論……」(156-7頁)と述べ、津田はマルクス主義に近い実証学者であって聖徳太子不在論を述べていたかのように書いています。

 しかし、津田は、皇室を敬愛し日本文化の独自性を強調する明治人らしいナショナリストであってマルクス主義に反対しており、聖徳太子の存在を認めていました。「憲法十七条」や三経義疏などを後代の作と見たことは事実ですが、薬師如来像銘や釈迦三尊像銘などの金石文を史実とみなしていましたので、聖徳太子不在論を唱えたわけではありません。

 ナショナリストでありながら『日本書紀』に見える神話や超人的な聖徳太子像を疑う津田の姿勢は、聖徳太子を尊崇すればこそ後代の伝説を荒唐無稽な神話化として否定した久米邦武の姿勢に、多少似た面があります。その津田を攻撃して著書の発禁にまでもっていった超国家主義的な聖徳太子礼讃者たちについては、このブログの以前の記事で紹介した通りです。

【追記 12月14日にアップしましたが、年輪年代法関連の記述を詳しくするなどの訂正をしましたので、新たに再アップします】

金堂着工は火災の年より前?: 光谷拓実・大河内隆之「年輪年代法による法隆寺西院伽藍の総合的年代調査」

2010年12月11日 | 論文・研究書紹介
「年輪年代法による調査の結果、法隆寺五重塔の心柱の伐採年代は594年かその直後」と2001年に発表された際は、かなり話題になりましたね。594年と言えば、推古天皇2年であって、「皇太子及び(蘇我馬子)大臣に詔して、三宝を興隆せし」めたところ、多くの者たちが「君臣の恩の為」に競って寺を建てた(=建て始めた)とされる年ですので。

 この発表は、通説となっていた法隆寺再建説をゆるがすものであったため、別の寺の塔の柱を転用したのだとか、その頃伐採されて保存されていた木を利用したのだろうといった様々な解釈が試みられたばかりでなく、年輪年代法という調査法そのものの信頼性を疑う意見も複数出されました。

光谷拓実・大河内隆之「年輪年代法による法隆寺西院伽藍の総合的年代調査」
(『仏教芸術』第308号、2010年1月)

は、奈良文化財研究所においてその年輪年代法による測定を実施した光谷氏が、同研究所の大河内氏と、2002~4年と2008年に法隆寺西院伽藍の総合的な年代調査を行った結果の報告であり、年輪年代法による研究の集大成ともいうべきものとなっています。年輪年代法そのものと、それによる具体的な調査の内容について詳しく説明されていますが、それらの点は省き、結果だけ紹介しておきましょう。

 まず、金堂の部材76点を調査したところ、平安時代や鎌倉時代の修理と推定されるものも含め、年輪年代が確定したものが60点あり、そのうち、外陣天井板には推測伐採年代が667年のもの、内陣天井板は667年と668年のもの、上重雲肘木には669年のものが見られたとか。

 同論文では、これは再建論争にとって「大変微妙な年輪年代」(53頁)である述べています。そして、金堂は『日本書紀』が斑鳩寺の被災の年とする天智9年(670)以前に着工されていた可能性もあるとし、また、金堂とは別の目的で準備していた木材を急遽集め、金堂に使用したことも考えられると説いています。

 五重塔については、594年伐採と判定された心柱は、法起寺三重塔心柱の年輪パターンと酷似していることが明らかになった由。これによって、同じ産地から供給された木材が用いられたことが知られるとのことです。ただ、五重塔のうち、心柱以外の部分については、三重垂木の1点が663年伐採、二重隅行雲肘木の1点が673年伐採、垂木断片が671年伐採であり、火災前後の時期に伐採された木が使われていたほか、四重雲斗雲肘木の部材には631年、635年伐採のもの、初重裳階窓方立は606年、初重裳階腰長押は650年伐採のものもあり、「かなり前に伐採された木材をかき集めて使用された可能性」(58頁下)があるそうです。

 中門の部材については、樹齢700年以上の大径木が使われており、690年前後に伐採された可能性があるとされています。再建の最後頃になって建立されたことは明らかですね。

 技術的な説明が多いため、詳細は省かざるを得ませんが、同論文の結論では、今回の調査では現在の西院伽藍建築について「再建か非再建かという二者択一の結論を見出すことはできなかった」ものの、金堂→五重塔→中門という建立順序を確定しえた(69頁上段)としめくくっています。

 この順序自体は、これまでなされてきた推測と一致しており、従来説の正しさを裏付ける結果となっています。一方、金堂については、『日本書紀』が記す火災とほぼ同時期ながらも微妙に違う伐採年代、ということになりました。そして、五重塔の心柱の伐採年代については、前回の調査の結論そのままであって、修正などはなされていません。

 さて、研究者たちは、こうした報告をどう解釈するのか。いや、他人事でなく、私自身も考えていかないと……。そういえば、この調査に立ち会って助言したという鈴木嘉吉氏は、金堂だけは火災以前に建立され始めていたとする説でしたね。


聖徳太子と後に呼ばれる人物以外はいなかった?: 原田実『トンデモ日本史の真相』

2010年12月07日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

【12月5日にアップした際、宋成徳氏の論文内容について、記憶頼りで「その民話は、『竹取物語』をモデルにし云々」と書きましたが、読み直したらもっと複雑であったため書き直し、ついでに他の部分も多少修正したものを再アップします。申し訳ありません】

 聖徳太子に関しては、早い時期から様々な伝承が生まれており、現代でも「トルコ系の遊牧民族の王が渡来して聖徳太子となった」といった類のトンデモ説が次々に生み出されています。

 ついこの間も、その遊牧民族の王は正確な地球儀に基づいて日本まで至ったのであって、王が用いた地球儀が今でも法隆寺に存在するという某氏の珍説を紹介したうえで、独自の新説として、法隆寺の五重塔は実は送電塔がモデルになっているなどと、時代錯誤のトンデモ説を大真面目に並べ立てた文章が、某国立大学の紀要に論文として掲載されたほどです。師茂樹さんの読書ブログ「もろ式:読書日記」(こちら)が取り上げ(その論文はPDFで公開されており、法隆寺の構造図と送電塔の写真が並んでいるところも載ってます……)、私も冗談コメントをつけておいたところ、関連するトンデモ説を擁護する人が反論してきたので驚きました。

 そのようなトンデモ説の一つとして、大山誠一氏の聖徳太子虚構説を、バッサリ切った本が出ています。

原田実『トンデモ日本史の真相:と学会的偽史学講義』
(文芸社、2007年、1500円)

です。

 トンデモ本を探し出してそのトンデモぶりを楽しむ「と学会」の会員である原田氏は、同書では、日本史に関する様々な珍説奇説を紹介すると同時に、それがいかにデタラメかを資料に基づいて示しており、楽しく読める一般向けの本になっています。問題の地球儀については、江戸時代半ばに西洋伝来の知識に基づいて作られたものであることを論証し、江戸期に法隆寺に奉納されたものと推測しています。

 その怪しげな古代地球儀説とセットにして、原田氏がトンデモ説として紹介しているのが、大山誠一氏の聖徳太子虚構説です。原田氏は、聖徳太子なる理想的人物は実在せず、史実として確実なのは、蘇我氏系の有力な王族であって、宮殿と氏寺を持っていた厩戸王という人物がいたということだけだとする大山説を紹介した後、大山氏の次の文章を引用しています。

「読者の皆さんは、たったこれだけかと驚くかもしれないが、実のところ、7世紀初頭頃の人物について、これだけ確認できるだけでも稀有なことなのである。生年や居所でさえ確認できる人物はほとんどいないのである。」(大山『<聖徳太子>の誕生』)

 これに対して、原田氏は次のように評しています。

「この記述から見る限り、7世紀初頭の状況は「聖徳太子はいなかった」というより、「聖徳太子(と後世呼ばれる人物)はいたがそれ以外はいたかいなかったかわからない」といった方が適切に思えてくる。」(164頁下段)

 至言ですね。短い言葉による大山説批判としては、これが一番でしょう。

 大山氏は、史実として分かっているのは上記の事柄だけとしていますが、「厩戸王」という呼称は現存史料には見えず、小倉豊文が戦後になって推測・提唱したものであることは、このブログの小倉豊文コーナーその他で詳しく書いておきました。
 
 「聖徳太子」や「厩戸皇子」は、確かに七世紀初め頃の表記ではないでしょうが、『日本書紀』だけに限っても、厩戸皇子、東宮聖徳、豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王、厩戸豊聡耳皇子、上宮厩戸豊聡耳太子、皇太子、厩戸豊聡耳命、上宮太子、上宮豊聡耳皇子、太子などの名で呼ばれています。さらに異なる呼び方をしている法隆寺系資料や伊予湯岡碑文は別に扱うとしても、確実に『日本書紀』以前のものとしては、『古事記』が上宮之厩戸豊聡耳命という非常に尊重した呼び方をしています。名前に関して、これだけ資料が残っている人物は上代にはいません。

 しかも、『日本書紀』の用明天皇元年正月条では、「豊耳聡」と「豊聡耳」という名を並んであげているのですから、『日本書紀』編纂以前に既に伝説化されていた様々な記録や言い伝え、それも複数の系統のものがあったと考える方が自然でしょう。むろん、すべてを史実と見ることはできませんし、『日本書紀』編纂者が創り出した呼称も混じっているでしょうが、当時としては異様な情報量の多さではないでしょうか。

 一方、蘇我蝦夷や入鹿は、『日本書紀』では悪役として描かれているのですから、後に称徳天皇が自分の意にそわない報告をした和気清麻呂に激怒して左遷させ、別部穢麻呂と改名させたように、『日本書紀』の編集者は、「えみし」と発音される名を「蝦夷(蕃族)」というおとしめた表記に変え、いかに悪逆な行為をしたかを誇張して描いている可能性があります。そうなると、大山流に言えば、「実在したのは、馬子の子として権勢をふるった某であって、蘇我蝦夷はいなかった」ということになるはずです。

 原田氏が、「聖徳太子(と後世呼ばれる人物)はいたがそれ以外はいたかいなかったかわからない」と言う方が適切ではないか、と評するのはもっともですね。『日本書紀』の最終編纂段階において、不比等と長屋王と道慈の三人で理想的な人物像をでっちあげたのなら、呼称はもっとすっきり統一され、登場する場所によって呼び方に偏りがある現在のような状態にはならなかったでしょう。

 原田氏は、大王家の一員が早い時期に仏教支持の立場を鮮明にし、氏寺まで建てるというのは、それなりの信念と実力がなければできない行為である以上、斑鳩寺を建立したというのは、「たったこれだけ」と片付けられる話ではない、と論じます。

 また、原田氏は、大山氏が聖徳太子と同様の架空人物としている頓知小僧の一休さんにしても、様々な逸話自体は後世になって作られたとはいえ、それは「一休の禅風から想像されたもので、実在の彼と無関係というわけではない」(164頁上段)としています。これに付け加えておくと、一休は反骨の禅僧であって、わざと話題になるような奇矯な振るまいをしていたことで有名な人物であり、実際の逸話だけでなく、一休の言動を大げさに語り伝えた話が、彼が生きていたうちから広まっていたうえ、他の人の逸話が一休の話として広まるようなこともあったようです。
 
 大山氏の説は、厩戸皇子の実在そのものを否定したり、厩戸皇子以外に聖徳太子のモデルを求めたりした従来の聖徳太子非実在論者に比べれば「穏当」だが、「そのため、かえって、この説の方法論的な矛盾をより露骨に示すようになった」(166頁上段)というのが、原田氏の結論です。

 なお、原田氏は、聖徳太子に関する記述には信用しがたいものが多いことは、戦後の歴史学界で繰り返し論じられてきたことにすぎず、大山氏が「聖徳太子は架空の人物」とまで言うのは、「学問上の議論というよりむしろレトリックの問題だろう」と評しています。これと同じ趣旨のことは、『聖徳太子の実像と幻像』でも何人かの研究者が指摘していましたね。

 確かに、大山氏の書くものには、そうしたレトリックが目立ちます。氏は、厩戸王という人物が斑鳩に宮と寺を建てたことを史実として認めるものの、

 「王族の居所を宮というのは『日本書紀』の筆法であり、氏寺の建立も『日本書紀』によると、推古天皇の時代には「寺四十六所」ということであるから、都の飛鳥から遠く離れていることもあり、たぐいまれな存在とまでは評価できない」(『<聖徳太子>と日本人』、角川ソフィア文庫、18頁)

と述べ、その意義をできるだけ小さくしようとします。つまり、宮といってもたいしたことはなく、寺にしても推古朝にあったとされる46寺中の一つにすぎない寺を都から遠く離れた地に建てた王族でしかないように描くのです。

 しかし、斑鳩は都と難波を結ぶ交通の要衝でしたし、発掘の結果、斑鳩宮はかなり広大なものであったことが分かっています。その斑鳩宮と隣接して建立された斑鳩寺、すなわち現在は若草伽藍跡となっている寺は、蘇我氏の飛鳥寺・豊浦寺に続き、その技術を用いて建てられた最初期の寺の一つ、それも壁画で飾られた堂々たる最新建築でした。四天王寺については不明な点が多いものの、厩戸皇子の没年頃には、斑鳩寺の塔の瓦を作るのに用いられた瓦当范そのものが難波の四天王寺創建時の瓦を作成するのに使われ始めています。大山氏の上記の表現は、まさにレトリックに満ちたものであり、フェアではないのです。

 なお、原田氏のこの楽しい本では、「かぐや姫」とそっくりな話である「斑竹姑娘」が中国四川省北西部のチベット族の民話として出版されていることから、「斑竹姑娘」は『竹取物語』の別伝、ないし原型だとする説についても紹介しています。氏は、以後、中日共同の現地調査がなされたにもかかわらず、そのような話が現地の民話として伝わっていたことは確認されていないことを重視します。つまり、その民話が収録された本が出版されたのは戦後のことであり、この時期には日本に留学した知識人がまだ多数いた以上、民話の採集者とされる田海燕が『竹取物語』を知っていたとしても不思議はないとするのです。

 原田氏は触れていませんが、実はこの問題については、日本留学中の中国人研究者によって原田氏の推測通りであったことが論証されています。

宋成徳「「竹公主」から「斑竹姑娘」へ」
(『京都大学国文学論叢』12号、2004年9月)

です。

 この論文によれば、日本に留学して早稲田で学び、復旦大学で西洋文学と日本文学を講義した謝六逸(1898-1945)が、『竹取物語』の梗概を載せた『日本文学史』を1929年に著します。謝の文学研究仲間であった鄭振鐸は、中国最初の児童文学雑誌を刊行して『竹取物語』を多少潤色した「竹公主」を掲載し、後に「竹公主」を含め、諸国の童話を訳したり潤色したりした本を出版します。そして、田海燕がチベット族の民話を採集して整理したものと称する「斑竹姑娘」は、『竹取物語』でなく、この「竹公主」に基づいて書かれていた、とのことです。

【追記 2010年12月7日】
なお、原田氏の解説のうち、三経義疏に関する記述は間違いだらけです。「『維摩経疏』は6世紀前半の中国における注釈書のほぼ丸写しである。また、『法華経疏』『勝鬘経疏』についてもそれぞれ、6世紀前半の中国での注釈書で、内容の7割までが一致するものが見つかっている」(162頁上段)とありますが、そもそも書名表記が不適切ですし、『維摩経義疏』については、種本の存在は推測されているものの見つかっていません。また、中国の注釈と内容が7割ほど一致するのは『勝鬘経義疏』だけであって、『法華義疏』の場合は「本義」と称している法雲の『法華義記』に基づいて書かれているものの、7割が一致とまでは言えません。大山氏の『<聖徳太子>の誕生』などは、藤枝説に頼って三経義疏は中国撰述と述べる際、また別な誤りを記していますが、上記のようなことは書いてません。


広がっていく再建法隆寺の軒瓦の影響: 森郁夫「法隆寺の造営と斑鳩文化圏の成立」

2010年12月03日 | 論文・研究書紹介
 前回紹介した森氏の論文とセットになる論考です。
 
森郁夫「法隆寺の造営と斑鳩文化圏の成立」
(『奈良学研究』第8号、2006年1月)

 森氏は、法隆寺・中宮寺・法起寺・法輪寺はそれぞれ造営の事情が異なっており、創建時の軒瓦の文様も寺ごとに違っていながら、堂塔工事が再開されたり修造されたりする七世紀の第III四半世紀から第IV四半世紀にかかる頃には、法隆寺西院伽藍の軒瓦、すなわち「法隆寺式軒瓦」と言われるものが共通して用いられるようになることに注目します。

 そして、この系統の軒瓦は、斑鳩に近い平隆寺・長林寺・額安寺で用いられるほか、さらには春日山西麓の山村廃寺も法隆寺式であり、大和盆地南端に近い醍醐廃寺でも法隆寺式が退化した形の文様の軒瓦が見られるのは、何かしら大きな力が働いたためだろうとするのです。

 斑鳩の地で若草伽藍に続いて建てられたのは中宮寺であり、発掘調査によれば、金堂は610年代、塔は630年代に建立されたと推測されているため、上宮王家が健在なうちに完成したことになります。法起寺は舒明10年(638)には造営が始まっています。法輪寺については、露盤銘の真偽をめぐって議論がありますが、森氏は、出土瓦から見て法隆寺再建以前に建立し始められたことは確実とします。また、これらの寺々の中心となる若草伽藍は、新たに発見された壁画の破片から見て、堂々たる伽藍であったとします。それらの寺の工事は、一時中断されますが、それが7世後半になるとほぼ同時に工事が再開された形跡があります。

 以上のことから、森氏は、法起寺の堂塔工事が再開される天武14年(686)あたりには、この地域一帯で一斉に新造・修造・葺き替えなどの工事が始まったと考えます。いわば、法隆寺再建をきっかけとする「斑鳩再開発」ともいうべき大がかりな事業が始められ、その余波が斑鳩以外の寺々にまで及んでいくのであって、これを斑鳩文化圏の拡大、第二次斑鳩文化圏の成立とする森氏は、その主原因を天武天皇の皇后、すなわち聖徳太子と血のつながりを持つ後の持統天皇の聖徳太子敬慕に求めています。

 持統天皇の聖徳太子敬慕については、明確な資料はありませんが、以上の考察から分かることは、上宮王家ないしそれと関連する氏族は、早い時期から蘇我氏に次いで活発な造寺活動を行っており、そして七世紀後半には、法隆寺再建を軸として上宮王家関連の寺で建設ラッシュが起きていた、ということですね。上宮王家は7世紀半ばに滅びているのですから、この7世紀後半のラッシュが、何らかの形の太子敬慕・太子崇拝と無関係であったとは考えにくいところです。

【追記 2010年12月7日】
「六世紀後半には、法隆寺再建を軸として上宮王家関連の寺で建設ラッシュ」とあったのを、ご指摘により「七世紀後半」に直しました。