聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

聖徳太子は背が高かった?:西山厚「聖徳太子 過去と現在をつなぐ」

2022年11月27日 | 論文・研究書紹介

 前回は、聖徳太子に関する説として、2020年の講演を紹介しました。今回は、今年の3月に刊行されたばかりの講演録ですので、まさに「聖徳太子に関する最新の説」ということになります。世の中には「最新」というよりは「最悪」の愚論と呼ぶべき太子論もたくさん出ていますが、こちらは、「もの」と「文献」を長年見てこられた研究者の講演です。

西山厚「聖徳太子 過去と現在をつなぐ」
(『研究紀要 奈良県立同和問題関係史料センター』26号、2022年3月)

 古代史研究者であって奈良国立博物館学芸部長を務めた西山氏は、古代日本の仏教美術の専門家であるとともに、古代から鎌倉時代にかけての古文献から仏教思想と個性的な人物のあり方を読み取る研究にも力を入れておられます。

 この「聖徳太子 過去と現在をつなぐ」は、奈良県立同和問題関係史料センターでの講演だけに、「人権」を意識した内容になっており、冒頭では、「歴史はすべて現代史である」と述べ、「一四〇〇年前に亡くなった聖徳太子も、私たちとおんなじ人間」と語っています。

 さて、西山氏は2021年に奈良博が開催し、その後で東京の国立博物館に巡回した特別展について触れた後、関連する寺や仏像について述べていきます。特別展については、聖徳太子の夾紵棺の断片とされるものが展示されていたと述べます。

 この断片については、このブログでも最近、紹介しました(こちら)が、西山氏も、他の古墳で発見された麻布を貼り合わせた夾紵と違い、絹布を45枚も漆で固めているのは、よほど大切な人の棺であることを示すとします。

 そして、法隆寺金堂の釈迦如来像は太子と「等身」と記されており、座高では87.5センチであって、倍にすると175センチであって、飛鳥時代としては身長が高すぎるようだと述べます。

 ただ、夢殿の救世観音像も太子と「等身」とされており、こちらは178.8センチです。釈迦如来像よりさらに背が高いことになりますが、西山氏は「可能性は十分あると思います」と述べます。というのは、法隆寺近くの藤ノ木古墳の二人の被葬者のうちの一人は、骨から見て170センチ以上あったことが知られているからです。当時としては大柄ですね。

 しかも、被葬者の一人は殺された崇峻天皇とも穴穂部皇子とも言われており、どちらにしても聖徳太子の母方の叔父です。このため西山氏は、太子の母方は高身長だったのではないか、と推測するのです。 

 西山氏がさらに注目するのは、法華義疏です。御物本は訂正が多いため、太子の真筆と伝えられてきたのですが、西山氏は、余白に書き込む訂正や追加については、「紙の下端まできてしまったので、九〇度文字を傾け、紙の下端に沿って書き続けている箇所」もあるとし、「こういうことをする人が私は好きです。これだけで聖徳太子に好感を持ってしまいます」と述べています。

 西山氏はどの箇所か示していないのですが、おそらく薬草喩品の釈の部分であって、以下のところでしょう。画像は、私がかなり前に古本で購入した複製本です。書道史関係らしい前の所蔵者が、「本」を正字の「夲」で表記してある箇所を赤丸で囲んで付箋を貼ってあった箇所ですね。他にも異体字などについてそのように赤丸をつけている箇所が多かったので、木製の箱に四巻の巻物が収められている精密な複製本が、本来なら数十万円もしていたのに安く買えたのです。

 ただ、私自身は、『法華義疏』についてはこのブログで紹介した中島壌治の見解に賛成であって、おそらく乱雑に書かれていた原本を太子の能筆の臣下、それも儒教が主で仏教はあまり詳しくない臣下が大急ぎで筆写したものと考えています(こちら)。

 なお、金堂の釈迦三尊像については、西山氏は、塀で囲まれていた若草伽藍の北側に建物があったことが分かっているため、この北方建物に安置されていた可能性があるとします。

 ただ、もっときちんとした場所に祀りたいということで、現在の西院伽藍がある場所に新御堂を建て始めていたところ、670年に若草伽藍が焼けてしまったため、西院伽藍の場所に伽藍全体を遷したのではないか、というのが西山氏の推測です。

 この説だと、現在の法隆寺は再建されたものということになり、しかも、金堂の様式がその少し後の時期の寺院より大幅に古い理由が分かることになります。あくまでも仮説ですが、可能性はゼロではありません。

 「憲法十七条」については、仏教がなければ曲がったことを直せない、「人みな心あり、心おのおの執るところあり」「共に凡夫のみ」などといった言葉をつむぎだせる人は、飛鳥時代においては聖徳太子以外には考えられないと述べています。

 「共に凡夫のみ」については、私の古い論文「「憲法十七条」が想定している争乱」では、あくまでも群臣たちについて言った言葉であって、太子や馬子はその中に入らないと指摘したのですが(こちら)、当時にあっては、「憲法十七条」が深い人間観察を示していることは事実ですね。「心おのおの執るところあり」は、「執著」の「執」の字を用いていることが示すように、仏教の人間観に基づくものであって、おそらく『法華経』によることは、最近の講演録で触れておきました(こちら)。

 なお、「等身」の像という点については疑わしいとされることが多かったのですが、隋唐では皇帝が父親や自分の「等身」の仏像を造らせていたことは、このブログで美術史の肥田路美氏の論文を紹介しています(こちら)。肥田さんとは早稲田の某シンポジウムでお会いしただけですが、数年前に私が北京大学の哲学系で講演した際、隣の建物で肥田さんを含めた早稲田大学の美術史メンバーが北京大学と共同シンポジウムをやっておられたので、縁を感じたことでした。


聖徳太子という呼称を最初に用いたのは誰か、「厩戸王」と呼ぶのはなぜまずいのか

2022年11月23日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 「聖徳太子 最近の説」と入力してあれこれ検索していたら、ヒットしたうちの一つが、

宮﨑健司「″和国の教主″としての聖徳太子」
(真宗大谷派教学研究所編『ともしび』第817号、2020年11月)

でした。PDFで読めます(こちら)。

 宮﨑氏は真宗大谷派の大学である大谷大学の教授であって、古代の写経について綿密な研究をされている研究者です。この文章は、2020年1月の東本願寺日曜講演をまとめたものである由。ですから、最近の聖徳太子論の一つですね。

 宮﨑氏の所属と講演の性格上、当然のことながら、熱烈な聖徳太子信者であった親鸞が読んで影響を受けた聖徳太子伝、つまりは『聖徳太子伝暦』と盛んに作られたその注釈の話を中心としつつ、聖徳太子研究の現状について簡単に紹介しています。

 宮﨑氏は、聖徳太子という呼称については、751年の『懐風藻』に見えるため、「八世紀なかばを上限として成立したといえるかと思います」とし、767年に称徳天皇が諸寺を巡行し、聖徳太子の寺におもむいた際に、同行した淡海三船の漢詩があり、南岳慧思の転生説が詠まれていると述べていました。

 「上限」というのは、この時期から広がり始め、以後、盛んに使われるようになり、「聖徳太子信仰」と呼ぶべきものが盛んになった、という意味でしょう。ただ、「聖徳太子」という呼び方がそれ以前に成立していて、それが751年の紀年がある『懐風藻』の序に見えているのだ、という成立史の立場から言うと、751年はむしろ「下限」ということになります。

 この講演録は、2020年1月の講演を編集したものが11月に刊行されたものですので、無理もないのですが、この年の8月には、まさに大谷派の雑誌である『教化研究』が刊行されており、そこで私が「聖徳太子」の名の由来を論じています。「聖徳太子といかに向き合うか」という題名ですので、お説教風な内容と思われ、あまり読まれてないのかもしれません。

 その講演では、『懐風藻』を編纂したのは淡海三船と推測されているため、「聖徳太子」という呼称を作ったのは淡海三船だろうとしました。そして、天台教学を重んじていた鑑真とともに来日した弟子の思託が、太子は天台大師の師である南岳慧思禅師の生まれ代わりだと説いており、三船はその思託と親しくしていたため、『懐風藻』以後は、この呼称を慧思後身説と結びつけて用いていたことを指摘しました。

 つまり、「聖徳太子」という呼称は、慧思後身説と一緒に広まったのです。この件については、このブログでも紹介しました(こちら)。もっとも、『日本書紀』段階でも「聖徳」と「太子」の語を用いているため、これを組み合わせれば「聖徳太子」という語はできるのですが。

 三船は、歴代天皇の漢字諡号を定めたとされる文人です。ですから、「聖徳太子というのは、没後の名なのだから用いない」というなら、用明天皇とか推古天皇といった名も没後の諡号、それも奈良時代半ばすぎに定められたものなのに、聖徳太子という名はなぜいけないのか、という話になります。もっとも、天皇は漢字諡号を用いるものの、皇太子については生前の名で呼ぶという史学の習慣はあるわけですが。

 問題は「厩戸王」です。この名については、広島大学の小倉豊文が、聖徳太子のイメージに縛られずに客観的に研究するために戦後に想定した名であって、古代中世の文献には出てこないということは、このブログを含め、あちこちで書いてきました。

 現在、高校の教科書の多くは、「厩戸王(聖徳太子)」などとしています。それは、実在したのは「厩戸王」だと大山誠一氏が主張した影響も多少はあるでしょうが、太子について客観的に検討しようとする古代史学者たち(大山説に明確に反対している研究者たちもいます)が、小倉と同様に、「厩戸皇子」の「皇子」は律令制の呼称であって、それ以前は大王の子については「王」と呼んでいただろうと見ているためです。
 
 律令制以前に大王の子を漢文では「王」と記していたとする推定は、おそらく正しいのですが、問題は、「厩戸」と「王」の結びつきです。九州大学教授であった古代史・仏教史の研究者であった田村圓澄が、広く読まれた中公新書の『聖徳太子』(1964年)において、小倉が生前のものと想定した呼称を説明無しで用い、信仰上の人物は「聖徳太子」、歴史上の人物は「厩戸王」と使い分け、これが定着したことは、これまであちこちで書いてきました。

 しかし、「厩戸王」については問題があるのです。「厩戸王」というのは、用明天皇と間人皇后の間に生まれた子が、馬を怖がり、乗馬の練習をするたびに「馬やだよ~」と泣いていやがったため、「馬やだ王」と呼ばれたのが由来だとする、あやしいネット記事も出ています(こちら)。

 まあ、その記事は、石井なんとかさんという人が冗談で書いたのですが、この時は、このブログの「珍説奇説」コーナーでとりあげた、妄想好きな梅原猛大先生や井沢元彦大先生の霊が降りて来ていて、イタコ状態で書いたものを4月1日に公開したような記憶があるそうです。

 それはともかく、「厩戸王」という呼称を想定して用いようとした小倉豊文については、私は高く評価しており、このブログで特別コーナーを作ってあるうえ、私の聖徳太子本も「(太子を)凡人として過小評価することも……非凡人として過大評価することも」慎まねばならない、という小倉の言葉を巻頭に掲げているほどです。しかし、「厩戸王」という語については賛成できません。

 聖徳太子について触れた確実な文献で最も古いのは『古事記』であって、「上宮之厩戸豊聡耳命」と呼んで尊重しています。「上宮」というのは、太子が住んでいた場所であり、三経義疏の撰号も「上宮王」となってますね。

 これが少なくとも晩年の正式な名であった可能性は高いです。アメリカ大統領の見解を「ホワイトハウスは~」という形で述べたり、落語の桂文楽を「黒門町は~」と呼ぶようなもので、尊重されている人、親しまれている人を住んでいる場所の名で呼ぶことは諸国でよく見られるものです。

 「豊聡耳」については、『日本書紀』も一名としてあげていますし、「天寿国繍帳銘」も、「等已刀彌彌乃彌己等(とよとみみのみこと)」と呼んでおり、『古事記』とも合うため、これが本名であった可能性が高いでしょう。

 ただ、近代以前では、同じ人でも名前は一つではありません。幼い頃の名、成人してからの名、壮年になっての名が変わったりするだけでなく、相手に応じて自称を変えたり、また相手からの名の呼び方が変わったりします。特に漢字表記は、最澄と論争した会津の「徳一」が「得一」と記されたり、空海の「海」も「毎」の下に「水」を書く形もあったりで、様ざまです。

 大王の子の名は、漢字を用いるようになってからは、男女とも「王(みこ)」が良く用いられたようですが、そうした呼び方の場合、養育した氏族の名や彼らの本拠であった地名が付けられるのが通例です。

 推古天皇が『日本書紀』で「額田部皇女」とされているのは、「皇女」は律令以後の表記にせよ、斑鳩の南西にあたる額田の地を本拠とした額田部氏が養育を担当したからですね。この地には、額田部氏の氏寺と考えられている額田寺もありました。

 ところが、「厩戸」については、そうした氏族も地名も知られていません。ということは、厩戸で誕生したという伝承に基づいて呼ばれていた可能性もあるということでしょう。

 ジャズのトランペットの名手であるハリー・エディスンは、甘い音色が有名であって、渾名を付ける名人であったレスター・ヤングが、ハリー・"スウィーツ"・エディスンと呼んだため、「スウィーツ」が愛称となり、親しい人はこの名で呼んでいました。こうした通称の例は、生前にせよ没後にせよ、古今東西たくさんあります。

 『日本書紀』が異名としてあげる「法大王(のりのおおきみ)」や「法主王(のりのぬしのおおきみ)」(いずれも講経が巧みな王子の意)、釈迦三尊像銘に見える「法皇(のりのおおきみ)」(こちらは、講経の巧みな[准]大王)などは、そうした例でしょう。

 「厩戸」はそのような名の一つ、それも、早い時期の法隆寺では用いられていなかった名なのではないか。

 『古事記』の「上宮之厩戸豊聡耳命」や『日本書紀』の「上宮厩戸豊聡耳太子」の場合、住所である「上宮」と、妃の橘大郎女も称している「豊聡耳のみこと」は、聖徳太子の生前の名の一つであるのは確実ですが、「厩戸」は果たしてそう言えるのか。

 そうなると、残る問題はどの氏族が養育を担当したかです。「豊聡耳のみこ」「豊聡耳のみこと」が、斑鳩近辺を本拠地とし、法隆寺再建にも関わったらしい膳部氏とか山部氏などが担当し、膳部王とか山部王などと呼ばれていたなら分かるんですけどね。それとも、厩戸というのは、いずれかの氏族の別の名だったのか。

 いずれにせよ、文献であれ碑銘などであれ、確実な資料が出てこない限り、「厩戸王」という呼称は避ける方が無難でしょう。

【付記:2022年11月25日】
「厩戸」という呼び名は、厩戸誕生伝承に基づいて後に生じた可能性があると書きましたが、それを言うなら「豊聡耳」にしても、耳の良さ、記憶力の良さで回りが驚くようになってからの名であって、生まれた時に付けられた名ではない可能性が高いということになりますね。とにかく、聖徳太子の名は、その別名の多さも含め、いろいろな意味で特別です。

【追記:2022年12月5日】
誤解を避けるため、文章の一部を訂正してわかりやすくしました。論旨は変わっていません。


『日本書紀』編者が用いた便利な文例ネタ本である類書:池田昌広「『日本書紀』の出典」

2022年11月19日 | 論文・研究書紹介

 このところ、『日本書紀』の記事に関する論文の紹介が続きました。問題は、『日本書紀』のそうした記事が、元の資料をどの程度反映しているか、完成近い頃の編者の潤色がどの程度入っているかです。

 そのどちらの場合であっても、『日本書紀』は多様な漢籍の表現を利用して書かれているのですから、その利用は元の漢籍に基づくのか、他の文献、特に広範な用例を集めた類書などからの孫引きか、という点が重要となります。類書というのは、多くの書物から引いた文例を項目ごとに整理してならべた分厚い百科事典のようなものです。

 この問題を検討したのが、

池田昌広「『日本書紀』の出典ー類書問題再考ー」
(瀬間正之編『「記紀」の可能性』<古代文学と隣接諸学 10>、竹林舎、2018年)

です。

 池田さんのこの論文は、類書利用の研究史をふりかえったうえで、池田さんの最新の見解を示したものです。先に紹介した笹川論文については、文章が硬くてわかりにくいと書いたのですが、池田さんの場合は、森鷗外など明治の文豪を手本にしているのか、読んでいて心地良い、きりっとした文体となっています。

 かつては原勝郎とか山口剛などのような名文家の学者もいたのですから、現代の研究者も、名文とは言わないまでも、読みやすく理解しやすい文章を心がけてほしいですね。

 さて、『日本書紀』が類書を利用しており、直接の引用とは区別しなければならないことは、小島憲之が大著『上代日本文学と中国文学』上(塙書房、1962年)で詳細に論じたことで知られました。小島は、『日本書紀』は元の文献ではなく、唐代に盛んに用いられた類書の『芸文類聚』から孫引きしている箇所が多いことを明らかにしたのです。

 ただ、『日本書紀』が類書を利用していることは間違いないものの、『日本書紀』の表現が『芸文類聚』に掲載された文章の表現と一致したとしても、『芸文類聚』から孫引きしていたとは限りません。というのは、『芸文類聚』は、それ以前に登場した類書の文章をそのまま使っていることが多いからです。

 そうした類書の影響関係については研究が進んでおり、中でも勝村哲也が重要な発見をしました(勝村先生は、京大にいた頃、古典研究にコンピュータ研究を持ち込み、研究会を組織して各地の研究者の交流を盛んにさせた方です。先生が島根県立大学に移ってから開催した国際シンポジウムが忘れられません)。

 その影響関係を、池田さんは以下のようにまとめています。国名は私が付けました。(長文)や(短文)というのは、元の文献から長く引用しているか、短いかということです。

梁『華林遍略』(長文)→→北周『修文殿御覧』(短文)-→宋『太平御覧』(短文)
          |→→唐『文思博要』(長文)--→/
          |→→唐『芸文類聚』(短文)--→/

 『華林遍略』は720巻もある大部なものです。『修文殿御覧』は、それを半分にまとめたものであり、それをほぼそっくり収容したうえで多数の用例を加え製作したのが『太平御覧』1000巻です。『文思博要』は1200巻、『芸文類聚』はお手頃な100巻。

 ただ、池田さんによれば、右の図はおおよその傾向であって、実際には『華林遍略』でも短文の部分もあるうえ、『芸文類聚』は『修文殿御覧』からも文を引いている由。

 さて、小島の『芸文類聚』説は画期的な提唱でしたが、疑問も早くから提示されていました。たとえば、『日本書紀』冒頭の部分は呉の徐整の『三五暦紀』に依っているものの、本書は中国でも早くに失われており、『日本書紀』の引用は直接の引用でなく、類書に引かれたものの孫引きであることは確かです。

 そこで小島は『芸文類聚』に依ったとしたのですが、清水茂は、『日本書紀』に見えない部分が『太平御覧』の該当箇所に見えるため、『日『修文殿御覧』を検討すべきだと論じました。

 また、勝村も『日本書紀』の冒頭部分は、『芸文類聚』でなく『修文殿御覧』天部の五重説に基づくと指摘しました。さらに、神野志隆光と瀬間正之の他の箇所について、『修文殿御覧』を利用した可能性を指摘しています。

 ただ、池田さんは、『修文殿御覧』によれば疑問がすべて解決するわけでないことに注意し、その元の『華林遍略』を利用した可能性もあると指摘しました。『芸文類聚』にあって『修文殿御覧』に見えない例もあるからです。

 ところが、近年、『芸文類聚』説の復権を説く説を瀬間さんが発表しました。池田さんはこれを批判したものの、誤っていた部分もあるため、問題とされた雄略紀の文章の出典を再考し、『日本書紀』の編者は『芸文類聚』を手にしていたと推測します。ただ、『芸文類聚』には見えない部分があるこも確かであり、これをどう考えるか。

 実は、『日本書紀』は類書以外に、比較的新しい唐人の文章を流用したと思われる箇所があることが指摘されています。そうした文章に、問題の箇所が含まれていた可能性もあるのです。また、瀬間さんや八重樫直比古さんは、漢訳仏典の利用も発見しています。そのことから、池田さんは、『日本書紀』の最終段階で加筆した編者は、仏典のかなりの知識があったとします。

 森博達さんの研究によって『日本書紀』の編纂過程が明らかになり、和習の多さから、古典を片端から読んで暗記した中国の知識人と違い、潤色者の漢文能力があまり高くないことが明らかになりました。そうした潤色者が膨大な漢籍からどのように適切な表現を見いだせるかを考えれば、類書の利用を想定するほかありません。

 慎重な池田さんは、そうした類書について、現状では「『華林遍略』と『芸文類聚』の併用を想定する段階にいたった」とし、『修文殿御覧』説を支持する徴証はないとしたうえで、今後のさらなる出典を検討する必要性を説いています。

 無難な結論ですが、疑問は、『日本書紀』の編纂時期に、『華林遍略』と『芸文類聚』をともに揃えて利用できたか、という点です。『芸文類聚』は100巻ですし、便利なので唐代には盛んに書写されたでしょうし、その一部だけが単行されたこともあったでしょうからから、まだ良いです。

 しかし、『華林遍略』は古い時代のものであって720巻もあります。『華林遍略』の一部や縮小版、ないし『華林遍略』の要所を大幅に取り込んだ便利な本は無かったのか。

 なお、私自身は、「憲法十七条」を含む推古紀が、厩戸皇子について異様に「聖」という点を強調していることから見て、類書の「聖」の部分を利用しているのではないかと古い論文で推測しておきました。これは調べてみる価値がありますね。

【追記】類書の巻数が間違っていた部分を訂正し、説明を少し補足しました。


国立能楽堂の11月パンフレットに「聖徳太子と芸能」を寄稿

2022年11月15日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 国立能楽堂では、聖徳太子1400年遠忌に寄せてということで、11月には太子関連の芸能を上演する予定であることは、このブログで紹介しておきました(こちら)。

 その11月のパンフレットに以下のようなエッセイを書きました。11月1日付けで刊行されており、今月、能楽堂に能・狂言などを見に行かれたら、700円で販売されています。

石井公成「聖徳太子と芸能」
(『国立能楽堂』第467号、2022年11月、36-39頁。こちら)

です。

 24日は、真宗大谷派井波別院瑞泉寺住職の竹部俊惠師による「聖徳太子絵伝絵解き」と、新作能「夢殿」、30日は狂言(和泉流)の「太子手鉾」、世阿弥自筆本による復曲能「弱法師」です。

 それぞれの演目については、別の方が簡単な解説を書いておられます。私は、9月初めにパリの翻訳シンポジウムに出かけていた際、夜、ホテルに戻ったら能楽堂からエッセイの依頼メールが来ていたため、急いで書いたのですが、編集担当の方は、私を聖徳太子研究者と思って依頼されたようです。

 実は私は仏教学は苦手であって、文学や音楽・芸能好きであり、以前は、この太子ブログと平行して、匿名で音楽ブログと芸能ブログをやってました。絵解き・能・狂言については拙著の『<ものまね>の歴史』や、村田みおさんとの共著『教えを信じ、教えを笑う』の「第二章 酒・芸能・遊びと仏教の関係」でその誕生の歴史を簡単に紹介しています。

 今回のエッセイでは、それぞれの演目の解説とかぶらないよう配慮しながら、聖徳太子と芸能の関係について語り、太子伝の絵解き、夢殿、「弱法師」、「太子手鉾」のすべてにさりげなく触れておきました。

 詳しくは、上記の拙著に書いてありますが、絵解きはインド由来であって、インドでは今でも旅芸人がやってます。棒で指して説明するのもインド・西域由来の伝統です。インドは横幅の広い布でやってますが、日本では紙芝居となりました。聖徳太子伝の絵解きは、恐らく日本の絵解きの最初です。

 他にも、聖徳太子が始めたとか、聖徳太子に関するものが最初といった芸能伝承は多いのですが、「聖徳太子と芸能」では次のように書きました。

(一)聖徳太子が実際に関わった芸能、(二)太子を題材とした芸能、(三)太子を始祖とする後代の芸能起源伝承、という三つは、区別する必要があるのです。

 仏教を導入するということは、建築・美術・芸能・製紙・医学その他の最新技術を受容することですので、仏教を盛んにした聖徳太子が様々なもののの開祖とされるのは不思議でないのですが、中世になって作られた伝承も多いのです。

 「夢殿」は国語学者で歌人でもあった土岐善麿が作った新作能です。土岐は太子信仰の篤い真宗寺院に生まれたのです。法隆寺には古い伎楽面が多く伝えられており、仏教芸能も盛んだったのですが、聖徳太子信仰と太子関連の芸能については、平安時代以来、宣伝上手な四天王寺が中心となっています。

 そうした中で夢殿が再び注目されるようになったのは、明治からですね。これについては、救世観音像を世に出したフェノロサと、その通訳をつとめた岡倉天心の役割が大きいようです。なお、夢殿は、法隆寺の行信が光明皇后に働きかけ、焼けた斑鳩宮の跡に造営したものの、もともとは法隆寺とは別の寺でした。

 新作能「夢殿」が作られたのは、太子は芸能の祖とされていながら、不思議なことに能で太子を主人公とした「守屋」「太子」「上宮太子」などはすべて廃曲となっているからです。

 「弱法師(よろぼし)」は、別れ別れになっていた父と息子が、四天王寺で巡り会うという話です。今回は、世阿弥自筆本に基づいたということなので楽しみです。

 狂言では僅かに「太子手鉾」だけが太子を扱った作品として残っていますが、ここでは太子は登場せず、「守屋(もりや)は法(のり)の敵なりけり」という和歌、つまり、仏敵の物部守屋と説法の邪魔となる「漏り屋(もりや:雨漏りのする家)」を掛詞にしたおふざけ歌が中心となっています。

 この和歌は、瞻西上人が説法していると雨が漏れてきたため、説法が終わると袖をぱっと払って詠んだと伝えられるものです。瞻西上人は、南北朝頃の『秋夜長物語』では、比叡山の文武両道の僧だった頃、道中で出逢った藤若という少年に恋してしまい、ひと夜をともにすることができたものの、その少年が川に身投げして死んでしまったため、発心して修行に励んだとされています。

 この『秋夜長物語』については、以前、天台宗の叡山学院でおこなった講義が活字になってます(こちら)。学院長の堀澤祖門先生が直前になって比叡山に会議で出かけられたため、よーしということで、「ここ坂本は少年愛の本場です。それを文学作品としているのは、さすが天台宗」と誉めたのですが、数年後に某国際学会で堀澤先生にお会いしたら、「先生の講演は大変話題になりました」と言われ、恐縮しました。

 現代では、山岸涼子『日出処の天子』が太子伝をボーイズラブの話として描いていますが、言葉遊びを発達させたのは仏教ですので(石井説!)、聖徳太子、芸能、言葉遊び、少年愛は、こうしてつながっているのだ、というのが私のエッセイの結論です。もっとも、伝承の世界では、少年愛の元祖は太子でなく、空海ということになってますが。


若草伽藍の金堂壁画の焼け残り破片を見てきました:斑鳩文化財センター秋季特別展

2022年11月11日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 急ぎの仕事が一段落したため、斑鳩文化財センターに行って焼け残りの壁画の破片を見てきました。

令和4年度秋季特別展「若草伽藍の壁画展-古代寺院の荘厳-」(10月22日~11月27日)

です。

 東野治之先生がセンター長を務めているこのセンターは、日頃はすぐ近くの藤ノ木古墳の遺物の展示が中心なのですが、法隆寺金堂の壁画の修復が終わったということもあって、この展示期間中は、若草伽藍の壁画の破片を中心として、7世紀から8世紀にかけての複数の寺院壁画の破片を展示しています。

 そうした地味な展示のため、豪華な工芸品で知られる藤ノ木古墳の遺物を見に来た人は失望することが多いようで、入り口で係の方が入館料をもらう前に、「現在はこのような展示になっていますが、それで良いですか」と声をかけてました。

 私は、もちろん入館しましたが、観光客らしき4人くらいの団体の人たちは、「じゃあ、法隆寺に行きます」と言って入らずに去っていきました。

 展示の図録はないですかと尋ねたところ、斑鳩町教育委員会?の山根惇史さんが「500円です。マニア向けの内容ですが」と心配してくれたので、「一応、プロなので」とお答えして購入しました。その山根さんも執筆している斑鳩町教育委員会:斑鳩文化財センター編の図録が、こちら。

 展示では、若草伽藍の焼け残りの壁画片と壁土と瓦、西院伽藍の旧壁画の模写、山田寺の壁画片と種々の塼仏と瓦を初めとして、これまで発見されている7世紀から8世紀までの各地の寺院跡の壁画片・塼仏・瓦などが並んでいました。こうした遺品は、その土地への古代仏教の浸透具合を示すものです。

若草伽藍(壁画片・壁土・瓦):奈良県斑鳩町
法隆寺西院伽藍(金堂旧式壁画模写):同
山田寺跡(壁画片・塼仏・瓦など):奈良県桜井市
安倍寺跡(壁画片・瓦):同
橘寺(塼仏・瓦):奈良県明日香村
川原寺跡(塼仏・瓦):同
川原寺裏山遺跡(塼仏・緑釉波文塼):同
小山廃寺[紀寺跡](塼仏・瓦):橿原市・明日香村
石光寺(塼仏・瓦):奈良県葛城市
二光廃寺(塼仏・瓦):同
日置前廃寺(壁画片・壁土・瓦):滋賀県高島市
山崎廃寺(壁画片・塑像片・塼仏・瓦):京都府大山崎町

 これだけ壁画片や塼仏が並ぶのを見たのは初めてです。成16年(2004)に若草伽藍迹の西方を発掘調査した際、焼けた壁画片を含め,焼けた壁土や瓦などが出てニュースになりましたが、この展示では、若草伽藍の壁画片については、このブログでも論文を紹介したことのある斑鳩町教育委員会の平田政彦氏が解説を書いていました。

 それによると、壁土の中心部となる木舞に塗りつける「荒土」の上に、壁を平らに整えるための約1.5センチの「仕上げ(中塗り)土」、さらに、壁画が描かれる「白土」が塗られている由。若草伽藍では、「白土」が1~3mmほどあり、後になって造営された他の寺の壁画より「壁面の仕上げ」が「しっかり行われていた」そうです。

 『日本書紀』によれば、飛鳥寺を造営するにあたって崇峻元年(588)に百済から派遣された工人たちの中に白加という名の「画工」がおり、また推古12年(604)には「黄書画師」と「山背画師」という絵描き集団が編成されているうえ、韓国の弥勒寺跡や比蘇山寺跡からは壁画片が出ているため、こうした渡来系の技術者の指導で作成されたと平田氏は推定します。

 若草伽藍よりやや遅れ、7世紀半ばに創建された山田寺では、壁画の破片が僅かに出ているほか、仏像を陰刻した原型に粘土を埋めて型抜きして焼いて作成した塼仏がいろいろ出ており、こうした塼仏を壁面に数多く張って堂内を荘厳していたと見られています。

 さらに、670年に若草伽藍が焼失した後に再建された現在の法隆寺西院伽藍の金堂は、インド調の色彩の強い唐代の仏画の影響を受けた美術的傑作の壁画で飾られていました。日本最初の本格寺院建築である飛鳥寺、それに続く豊浦寺では、壁画の破片は見つかっていません。

 ですから、壁画無しの飛鳥寺・豊浦寺、壁画で飾られた厩戸皇子の若草伽藍、塼仏を飾った山田寺、最先端の唐の仏画を描いた再建法隆寺、という順序で堂内の荘厳が発展していったのです。つまり、壁画は厩戸皇子の若草伽藍が最初であり、若草伽藍は最新の豪華な荘厳を備えた寺なのであって、『日本書紀』は斑鳩寺については焼失記事しかありませんが、崇峻朝から推古朝にかけての寺院関連の記述は、かなり史実を伝えていた、ということになります。

 聖徳太子をできるだけちっぽけな存在として描こうとした大山誠一氏は、推古朝の末年には寺が46あったという『日本書紀』の記述に基づき、「厩戸王」は都から遠く離れた地に、当時は46もあった寺の一つを建てたにすぎないと称しており、若草伽藍のことを田舎の小さな仏堂のように扱ってましたね。

 その若草伽藍とほぼ同規模の大きさで再建された法隆寺を見たことがなく、また、自説を発表した後は、自説がゆるがないように、若草伽藍の壁画片の発見や飛鳥と斑鳩を斜め一直線に結ぶ太子道の遺構の調査(こちら)など、考古学の成果については目をつぶり続けていたのか……。

 なお、若草伽藍の焼け残りの壁画片は、1cmから5cmくらいの小さな破片ばかりであって、仏像を描いた部分の一部と思われるものは無い由。川原寺跡の場合、その裏山遺跡から三尊塼仏の破片が1600点出土していることから見て、若草伽藍の壁画片のうち、仏像を描いた部分の破片は、平成16年に発見されて今回展示されている壁画片などは別の箇所に丁重に埋められたのではないか、今後、発見される可能性があると、平田氏は展示の解説で書いていました。

 上記の奈良・滋賀・京都の寺跡以外で、早い時期の壁画片が発見されているのは、色が残っている壁画片が発見されてニュースにもなった島根県米子市の上淀廃寺(こちら)、そして東日本最古の本格寺院跡である群馬県前橋市の山王廃寺跡です。仏教建築や美術に関する最新技術を独占していた大和王権との関係の強いところ、ということになるのでしょう。

 私は展示を見終えて出る際、「上淀廃寺で、色彩が僅かに残っている壁画の破片を見た時のことを思い出しました」と入り口にいた山根さんに語り、ちょっとだけ話しました。

 展示期間は22日までです。意義のある展示ですので、関西在住の方には、コロナ感染が猛烈に増える前に見ておかれるようお勧めします。


蘇我氏と物部氏の対立は外交権独占争いか:笹川進次郎「ヤマト倭王権による危機管理体制とミヤケ支配」

2022年11月06日 | 論文・研究書紹介

 『日本書紀』が崇仏・排仏派の対立として描いている蘇我氏の物部氏の争いについては、様々な説が提示されてきました。そうした中で、最近になって登場したのが、

笹川進次郎「ヤマト倭王権による危機管理体制とミヤケ支配ー蘇我・物部憂世力の対立と難波津のミヤケー」
(山尾幸久編『古代日本の民族・国家・思想』、塙書房、2021年)

です。

 笹川氏は学説史を概説し、教科書風には「大和朝廷の地域への権力支配の中で配置された直轄領地」とされてきたが、館野和己氏は漢字の意味を重視し、政治的軍事的拠点説を唱えたと紹介します。

 そして、統一的外交権の確立過程の中で、地域首長たちのヤケ機能を統括する統監ミヤケ体制が成立し、さらに国ミヤケの権力中枢として軍事的屯倉が置かれたとする自説を展開します。

 つまり、御宅→官家→屯倉、という展開を説くのであって、その際、地域の首長と大和王権の間だけでなく、大和王権内部の抗争も生ずるとしており、視点は面白いのですが、文章が硬くて理解しにくいですね。

 ここでは、聖徳太子に関連する部分をとりあげます。それは、蘇我・物部の争いを、外交拠点であった難波津をめぐる抗争と見る点です。倭王権は、諸氏族に代わり、難波津の改修・拡大によって国家的外交権の拡充を進めたとします。当時の難波津の館・宅は中河内の物部氏の勢力下にあったが、それを飛鳥勢力による「官家」としてミヤケ制下に編成されていったと見るのです。

 この地で外交の実務を担当した崇仏派の渡来氏族は、蘇我氏のもとで難波津大津での外務担当官人となっていったと推測します。難波津に館を持っていた物部氏は、旧大和側のウヂの本拠である八尾地域から交通拠点を管理していました。

 このため、馬子・厩戸の勢力はこれと対峙するようになっており、だからこそ、戦闘になった際は、守屋の資人である捕鳥部万が百人をひきいて守屋の難波宅を守ったとします。

 また、『上宮聖徳太子伝補闕記』『聖徳太子伝記』では、四天王寺は元々は玉造東岸にあったとし、守屋の田荘・奴を基にして建立されたと記していることも、以前はこれらの地が物部氏の勢力下にあり、湾岸交通や外交権を分掌管理していたことが知られるとします。

 物部氏については守旧的であり、渡来系氏族を活用した先進的な蘇我氏との対立という図式が語られるのですが、笹川氏は、物部氏も難波やそこから続く地の渡来系氏族を利用しており、その占有を争って物部・蘇我の抗争が起きたと見るのです。

 その前の段階から、地方の首長が持っていた交通・外交権を飛鳥勢力の元に統括しようとする動きがなされていたわけですが、そうした強権的な政策への反発の典型が、筑紫君磐井の乱であったと笹川氏は説きます。

 この地の津、河川の交通、また馬を活用した交通がいかに重要であったかについて、笹川氏は河内国分(河内アスカ=安宿)の馬や船を描いた線刻画が良く示しているとします。

 そして、河内におけるこうした動きとミヤケ設定は、ツクシ・キビなどの外交拠点とその経路でも同時進行しており、難波大津・吉備児島津・筑紫那大津という三大津での統一的儀礼外交が、ヤマト国家としての事業として渡来系集団を実務官僚とした蘇我アスカ勢力によって推進され、ヤマト国家が形成された、というのが笹川氏の大きな見通しです。

 となると、笹川氏によれば、斑鳩から八尾のあたり、また難波を押さえて寺を建てた厩戸皇子は、そうした蘇我氏の手兵のような役割を果たしたことになりますね。


森岡秀人「叡福寺北古墳(皇太子聖徳太子磯長墓)宮内庁書陵部墳丘事前発掘調査建学(限定公開)手記」

2022年11月01日 | 論文・研究書紹介

 前々回、叡福寺北古墳は聖徳太子墓の可能性が高いとする論文をとりあげました。この古墳については、宮内庁が簡単な事前調査をやっており、懐疑派の森岡秀人氏その見学に参加して報告を書いておられますので、紹介しておきます。

森岡秀人「叡福寺北古墳(皇太子聖徳太子磯長墓)宮内庁書陵部墳丘事前発掘調査建学(限定公開)手記」
(『古代文化』第74巻第1号、2023年6月)

です。題名が長いので、このブログ始まって以来のことですが、論文名だけで紹介文なしのタイトルになってます。

 この古墳の外護部分が痛んできたため、その補修工事をするにあたって事前発掘調査をすることになり、陵墓公開運動をしている16学協会に対して案内があったものの、コロナ対策で密集を避けるということもあってか、各学協会から一人だけ参加するという形となった由。2022年2月3日の調査には、13学協会14名が参加したそうで、古代学協会から参加したのが森岡氏です。

 この磯長の地域は、敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇の陵があり、この時期の天皇の墓が集中している場所です。暗殺された崇峻天皇と、天智・天武の父として特別視された舒明天皇以外はすべて揃ってますね。

(上記論文106頁の「磯長谷における古墳の分布」図の一部)

 見学は、宮内庁の調査官の誘導に従って午後に開始されたそうです。叡福寺北古墳の規模は、東西53メートル、南北はぐっと縮まって43メートル、高さは7~10メートルです。ただ、背後の岡を利用して造営したためにせよ、形のいびつさが目立つため、基底は74メートルであって多角形と見る山本彰氏説などもあります。

 この古墳は、聖徳太子の墓と見るのが考古学界の主流であるものの、玄室二段・羨道一段の形は岩屋山古墳と同じです。岩屋山古墳は7世紀前半とする説だけでなく、中半とする説もあるため、そちらと同形式ということだと、太子の墓ではない可能性も出てきます。

 森岡氏は「信頼度の面で懐疑派の見方を行っている」由。石部正志氏は、近くの葉室古墳群の越前塚古墳を聖徳太子墓と有力候補としているそうですが、論文名をあげていないため、分かりませんでした。葉室塚古墳は、上の地図だと9であって、7は石塚古墳、8は釜戸古墳です。

 調査部分は、墳丘の南面裾部の羨道右側であって、幅2.0m、長さは4.5mです。最も崩壊が危惧される部分にトレンチを入れたものであって、この調査結果に基づいて全体の修復工事をあり方を設計するのが目的です。

 このため、この部分の石材などが取り除かれており、過去に埋められた結界石なども並べられていたそうです。そのうち、3個の二上山凝灰岩白石は、加工面があり、高松塚古墳の二上山凝灰岩に極似するものであって、「終末期古墳特有の二上山凝灰岩利用石材の二次的移動物」と見られ、太子墓の時期に最も近い外護施設の片鱗かもしれない、というのが森岡氏の判断です。

 この部分の土からは、各時期の灯明皿や北宋の銭なども見つかっているそうで、太子墓の信仰され具合をうかがわせるものです。

 森岡氏は、今回の調査見学は、当初は各学協会3人の計48名とされたものが、直前になって各学協会それぞれ一人とされたとし、宮内庁書陵部からの通知は「緊急公開」「緊急見学」といったニュアンスのものであって、事前の説明会もなされなかったのは、予定外の緊急工事に即応したためだろうと推測します。

 ただ、報道関係者への案内が無く、市民への情報公開がなされなかったため、古代学協会から派遣された者として、その会員にはせめてこの貴重な機会の「臨場感」を知ってもらいたいと思い、この簡単な報告を会誌に載せたと述べてしめくくっています。この報告記は森岡氏が撮影した写真が数多く掲載されており、確かに「臨場感」が伝わってきます。