聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

菩薩天子をめざした聖徳太子の手本となった中国南朝の皇子:遠藤祐介「蕭子良における菩薩と統治者の合一」

2022年03月28日 | 論文・研究書紹介
 「憲法十七条」は在家向けの大乗戒経である『優婆塞戒経』を柱としており、この点は南斉の第二皇子であって司徒(宰相)として父の武帝を補佐していた蕭子良と重なります。というか、太子は蕭子良を手本としていたと思われることは、以前報告しました(こちら)。その蕭子良について論じた論文が、

遠藤祐介「蕭子良における菩薩と統治者の合一:蕭子良と孔稚珪の問答を通してー」
(『武蔵野大学仏教文化研究所紀要』32号、2016年3月)

です。仏教信奉の皇帝となると、筆頭にあがるのが梁の武帝であって、この時期に皇帝菩薩という点が強調されたわけですが、その武帝に大きな影響を与えたのが、親戚であって文学仲間でもあったこの竟陵王蕭子良(458-494)です。

 遠藤氏のこの論文は、蕭子良と代々の道教信者であった文人官僚の孔稚珪(?ー501)との間でかわされた問答に、大乗仏教の菩薩と統治者の合一というテーマが見える点を検討したものです。聖徳太子には触れていません。

 さて、中原から南遷した江南の南朝諸国は自然豊かで文化が栄えた王朝であって、仏教だけでなく、五斗米道の系統の道教も勢力があった土地でしたので、儒教・道教・仏教の間の論争も盛んに行われました。

 伝統思想側は、仏教は異国の野蛮人の国の教えであり、「夏(中華)」にはふさわしくないと攻撃し、仏教側は仏教の普遍性を強調し、仏教の絶対性を説くか、仏教を上位としたうえでの儒仏一致論をとっていました。孔稚珪は、皇帝・皇太子が仏教を尊重していた南斉の文人官僚であったためか、仏教も尊重する道教徒という立場をとっていたようです。

 遠藤氏は、第二皇子であって政治にも関与していた蕭子良は、既に五戒を受けている父帝の雉狩りに反対する上書をするほどの仏教信者であったため、大乗の菩薩としての自覚を持っており、上書からは、武帝に「菩薩として国家統治に臨んでほしいという強い願いが看取される」と説きます。

 一方の孔稚珪は、蕭子良とのやりとりでは、『維摩経』や『勝鬘経』などに言及していました。仏教思想を知っており、仏教と道教は本質は同じとしたうえで、道教を先祖以来の信仰ということで、より重んじる立場を示していたのですね。つまり、道教信者ですら、『勝鬘経』を重視していたのです。南朝における『勝鬘経』尊重の傾向が分かります。

 遠藤氏は、これによって蕭子良も国王夫人である菩薩が説いた『勝鬘経』を重視していたことが分かり、それは「菩薩と統治者の合一を裏付けるもの」と見て、こうした姿勢が親しくしていた親戚の蕭衍、つまり後の梁の武帝に影響を与えたと推測します。

 こうして見ると、厩戸皇子が仏教復興の気運の中で、まず『勝鬘経』を講義してみせたのは、推古天皇が勝鬘夫人と同様に女性であったためだけではなかったことが分かりますね。聖徳太子については高句麗の慧慈との関係が強調されがちですが、三経義疏が南朝の教学に基づいていることが示すように、中国南朝→百済→倭国という流れが基本でしょう。

大兄とヒツギノミコは違うが、山背大兄は天皇に準じる存在であった厩戸を輔政?:中田興吉「王の後継者候補」

2022年03月24日 | 論文・研究書紹介
 前の記事で中田興吉氏に触れましたので、氏の聖徳太子関連の別の論文も紹介しておきましょう。

中田興吉「王の後継者候補ー皇太子制成立以前ー」
(『日本歴史』730号、2009年3月)

です。

 中田氏は、『古事記』景行天皇段では、80人の王子のうち、3人だけが「太子の名を負う」と記され、ヒツギノミコとされていることに注意します。そして、『日本書紀』応神40年正月戊申条では、天皇は莬道稚郎子を跡継ぎとしたいという心を常に持っており、大山守命と大以大鷦鷯尊に莬道稚郎子を「太子」とすることをどう思うか尋ねたうえで、莬道稚郎子を「嗣」としたうえで、「大鷦鷯尊を以て太子輔となし、国事を知らしむ(以大鷦鷯尊為太子輔之、令知国事)」としていることに通じると説きます。

 ミコの中から「太子」と補助する「太子輔」を選んでいるのです。「為太子輔之」の「之」は代名詞の「これ」ではなく、中止・終止の語気を示す用法であって、古代の韓国・日本に多い変格語法ですね。

 天皇後継のヒツギノミコについては、武烈天皇段が「此の天皇、太子无[な]し」と述べ、続けて、天皇が崩じたものの「日続を知る王を知るべき無し」と述べているため、「ヒツギ」は王位を継ぐことであって、「ヒツギ」と「ミコ」が重ねて用いらていれば、それは王の後継候補を指すことになるとします。

 なお、「太子」には「長子」の意味があることが指摘されていますが、中田氏は、「ヒツギノミコ」は必ずしも長子とは限らないと述べます。

 ここで「大兄」の語をとりあげます。中田氏は新羅の「大兄」に起源があるとする大平聡氏の説を初めとする諸説を紹介したのち、日本における確実な初例は継体朝の「勾大兄」に求められ、この大兄は大后とともに政治の中心を占めていたと考えられているとし、王の複数の配偶者の長子が大兄とされ、その半数が即位していると指摘します。

 そして、この時期には、王家以外には大兄と称された者はいないとしたうえで、すべての長子が大兄とされているのではないとし、特に資質があると認められた者のみが大兄とされたと推測します。

 そこで問題になるのが、厩戸の長男ではあっても天皇の長子ではない山背大兄王です。これについては、「厩戸が天皇に準じた地位にあった結果」だとする説に賛成し、厩戸が推古天皇を補弼したのがだ、「実質的な政務は厩戸が執っていた」のであって、「その厩戸をさらに山背は補政したことにより大兄とされ」、舒明朝・皇極朝になっても大兄という語を冠して記録されたのではないかとします。

 ただ、大兄のみが即位したのではないことに注意し、その例として長子でも大兄でもない敏達天皇と崇峻天皇をあげ、資質によって選ばれて即位したと推定します。他の有力候補である大兄が亡くなったとか、その時の王の長子が劣った人物だったといった特別な事情があるのでしょうが。

 このように、大兄は王の「有能な長子」であっても、継承候補者としての「ヒツギノミコ」とは異なっており、大兄はあくまでも大兄として王を輔政していたものの、実際には大兄の多くが即位しているため、同じ立場とみなされることも多かったろう、というのが中田氏の結論です。

 さて、どうでしょう。中田氏は前に見たように、推古朝の初期は厩戸の発言力は弱く、馬子が仕切っていたという説でしたので、次第に発言力を増し、王の実務を担当するようになったと見るわけですね。

外交を中心とした古代史研究の現状がわかる:鈴木靖民監修『古代日本対外交流史事典』

2022年03月21日 | 論文・研究書紹介
 前回の記事では、最近の古代史研究の状況を概説した本、それも2月に出たばかりの本を紹介しました。同様に、最近の研究状況を読みやすい事典の形にした本が、昨年の11月に出ています。

鈴木靖民監修、高久健二・田中史生・浜田久美子編『古代日本対外交流史事典』
(八木書店、2021年)

です。本文が392頁、索引が充実しており、特にすごいのは日本とアジア諸国の詳細な地図であって、非常に充実した内容です。

 「対外交流史」となっていますが、特殊な分野ではありません。古代にあっては、韓国や中国からの人や技術や書物などをすさまじい勢いで受け入れ、それぞれの時代の社会を作っていってますので、「古代日本対外交流史」は、実質的には「日本古代史」とほとんど同じことになるのです。

 「Ⅰ 弥生時代」、「Ⅱ 古墳時代」、「Ⅲ 飛鳥時代」、「Ⅳ 律令国家の形成と展開」、「Ⅴ 交易と交流の拡大」に分け、「1 稲作農耕と東アジア」から「40 国風文化」に至るまでの項目をさらに分け、キーワードを概説しており、まさに最近流行の「読む事典」となっています。

 このブログと関わる「飛鳥時代」は、「10 仏教伝来」「11 日本と朝鮮の石刻資料」「12 東アジアの木簡」「13 飛鳥宮跡とその周辺」「14 壁画古墳」となっており、それぞれの項目を専門の学者が担当しており、多くの図や写真を用い、キーワードの説明をしてくれてますので、研究状況を容易に把握できます。

 「Ⅳ 律令国家の形成と展開」でも、「15 隋唐帝国の成立と国際関」をはじめとして、その前の時代に簡単に触れてから説明している項目が多く、聖徳太子研究にとっても有益です。、河上麻由子さん担当の「16 隋との外交」では、聖徳太子虚構説について「流行したが、これは正しくない」(148頁下)と切り捨てており、小気味よいですね。

 鄭東俊氏の「26 東アジアの官(冠)位制」では、唐・朝鮮三国・渤海の官位制と倭国の制度を簡単に比較しています。冠位十二階については、諸説をあげたうえで、馬子主導説を説いた中田興吉氏の論文を簡単に紹介していますが、中田説についてはこのブログで推測が多いとして批判的にとりあげたことがあります(こちら)。

 軍楽である鼓吹が隋から導入されたことについては、渡辺信一郎氏の研究を以前紹介しましたが(こちら)、豊永聡美氏の「31 外来楽の伝来と楽制」では、早い時期における新羅・百済・高句麗の楽の導入などについて概説しており、日本古代史を研究するにはアジア諸国との交流を検討する必要があることが痛感されます。

 本書の最後の項目である皆川雅樹氏の「40 国風文化」では、国風文化なるものの曖昧さが指摘されています。教科書では天平文化とか平安文化とか北山文化といった言葉が多く見えるものの、時代を限定したそれらの語と違い、国風文化という語は異質だとして検討しており、1901年の文学史の教科書で、遣唐使の廃止によって美術や文学が「国風に純化」したとする見方が提示され、「国風文化」という語自体の初出は1933年と見られるとして、その経緯について論じています。

 古代史について研究する際は、こうした後代に生まれた概念を元とし、その起源を探るといったことをしがちなので、このような研究は反省の材料として重要でしょう。

近年の研究を反映した概説と歴史小説・研究への重い提言:吉村武彦・川尻秋生・松本武彦編『東アジアと日本』

2022年03月18日 | 論文・研究書紹介

 最近は書名に「東アジア」の語を用いる本が増えました。私自身、岩波新書でベトナムを含む『東アジア仏教史』を出しているわけですが、私たちがこの語を使い始めた何十年か前には、東アジア論はそれなりに論じられていましたが、個々の論文はそれほど多くはありませんでした。

 また、盛んに使われるようになった現在も、中国と日本だけ、あるいは韓国と日本だけを扱っておりながら「東アジア」と称する論文も目につきます。それでも日本の資料だけで論じていた頃に比べれば、状況は改善されたと言えるでしょう。

 さて、角川選書から出されている「シリーズ*地域の古代日本」全6巻の第一巻として、「東アジア」の語を冠して出版されたばかりなのが、

吉村武彦・川尻秋生・松木武彦編『東アジアと日本』
(角川書店、2022年2月)

です(吉村先生、有難うございます)。この3人の編者によるシリーズは、他は『陸奥と渡島』『東国と信越』『機内と近国』『出雲・吉備・伊予』『筑紫と南島』であって、『東アジアと日本』はその総論にあたります。この本を読んだ後、さらに理解を深めるため、参考文献、関連する博物館などの施設、年表、地図などが付されており、便利です。

 吉村武彦「1章 東アジアにおける倭国・日本」は、最近の研究に基づいて概説しており、7世紀には百済・新羅・高句麗から駱駝が贈られていることに触れ、日本がユーラシアの一部であることに注意し、倭国の国内でも通訳を必要とする蝦夷や隼人がいたことに注意します。

 仏教や儒教の伝来に触れた部分のうち、推古朝に諸寺が建立された目的は「君親」のためであって、「つまり推古天皇のためであった」(39頁)としていますが、「親」も重要ですね。もっとも、氏族の先祖は天皇に仕えて職務を保証されていたのですから、「君」のためという点と「親」のためという点は重なります。これは、中国北地の造像碑などが、「皇帝」のため「父母」のためと称していることを承けていますので。

 『聖徳太子』の著述もある吉村氏は、この本では推古朝については、推古天皇・蘇我馬子・厩戸皇子の三頭体制と見ているようで、厩戸皇子を特別に重視している様子はありませんが、最近の他の本では「太子は~」と述べていますので(別の記事で紹介します)、「皇太子」の語は潤色にせよ、「太子」と呼ばれていたことは認めているように見えます。

 なお、「憲法十七条」については、統治の基本は礼だとしている点は、「儒家思想の本質」が捉えられているとしつつ、このブログでもとりあげた山下洋平氏の論文(こちら)を引き、『管子』の影響も指摘されているとしています。

 礼は確かに儒教の柱ですが、それにともなうべき「楽」が「憲法十七条」では無視されていることは、最近、私が発見したこのブログでも紹介した通りです(こちら)。

 次にこのブログと直接関わるのは、川尻秋生「4章 仏教の東漸と寺院」です。この章では、欽明15年(554)2月条が、百済が救援の兵士を乞うて来た際、五経博士などの交代とともに、「僧曇慧等九人を、僧道深等七人に代う」とあることに注意します。

 これによれば、『日本書紀』が仏教公伝の年とする欽明13年(552)より前に僧侶たちが派遣されていたことになり、『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』や『上宮聖徳法王帝説』が説く欽明天皇戊午年(538)に軍配があがることになります。川尻氏は欽明13年説を正しいとは断定しないものの、欽明15年頃には百済から僧侶が交代で来ていたことを認め、既に伝来していたことは確かとします。

 瓦については、文様の類似だけなら瓦当笵の移動で説明できますが、飛鳥寺の創建期の軒丸瓦は2種であって、瓦当部と丸瓦部の接続法まで違っており、それぞれ百済の王興寺の2種の瓦と一致するため、王興寺の瓦を作成した2グループの工人たちが飛鳥にやって来たことが明らかになったと述べます。

 そして、「聖徳太子」の語を用いたうえで、その聖徳太子の病気平癒を祈って造立された法隆寺金堂の釈迦三尊像銘は、東野治之氏によって追刻でないことが示されている以上、そこに「法皇」の語があるのは当時のものと見てよく、すると天皇号もこの時期にはできていたことになるとします。

 三尊像の木製台座を支える補助材に「辛巳年(621)」という墨書が見えていることも、太子の没年である壬午(622)と齟齬しないと説くのです。

 疑われることが多くなってきた『元興寺縁起』については、最初に疑った福山敏男の研究を先駆的と評価したうえで、津田左右吉と同様、「厳密にすぎる」面があったとします。

 福山が怪しいとした箇所のうち、蘇我を「巷宜」と表記する点、また推古天皇の宮を「佐久羅韋等由等(さくらいとゆら)宮」と表記する点については、多数出現した7世紀の木簡のうちに「巷宜」と記したものがあるうえ、「桜井舎人部豊前」と記した木簡から「桜井宮」に仕えた舎人の存在が知られ、豊浦宮はかつては『元興寺縁起』が説くように「桜井豊浦宮」と称されていたことが明らかになったため、古い伝承を伝えていると見て良いとするのです。また、都周辺と地方での寺院の建立について検討しており、有益です。

 他にも松木武彦「2章 東アジアの古墳と墳丘のかたち」、館野和己「3章 中国・朝鮮・日本の古代都城」、三上「5章 漢字文化の東アジア的展開と列島世界」などが並んでおり、異色であるのは、今津勝紀「6章 古代の災害」と遠藤みどり「7章 ジェンダー」であり、これによって最近の研究状況を知ることができます。

 井沢元彦の間違いだらけのトンデモ歴史本(こちら)と違い、歴史に関する見識を示していたのが、巻末に置かれたエッセイ、澤田瞳子「歴史研究と歴史小説」です。同志社大学の大学院で奈良朝仏教と正倉院文書を研究した後、歴史小説家に転じた澤田氏は、歴史小説はフィクションだから研究とは無関係ではないかという疑問に対して、こう述べています。

私は声を大にして違うと答えたい。むしろ歴史を虚構として描くからこそなお、その根底には真摯な研究が必要なのだ、と。……気ままな解釈すら加えることが可能だ。とはいえそれは自由であると同時に、時に歴史的歪曲に伴う差別すら生み出しかねる危険な行為。つまり誰でも接触できるからこそなお、我々は歴史を正しく知り、読み解かねばならない。資料の正しい解釈と多くの研究者の精緻な分析への敬愛を欠いた恣意的な歴史解釈は、客観性の失せたただの玩弄物に堕してしまう。その事実を、我々は常に意識すべきだろう。(240頁)


 まったくその通りであって、井沢氏に毎朝唱えてもらいたい文章ですが、これは歴史研究者に対する注文でもあるでしょう。研究者も、程度の差こそあれ、考証の形を借りてこうしたことをやりがちなので。


厩戸皇子を推古朝の改革、特に隋との外交の主体と見る:若井敏明「厩戸皇子による改革の一側面」

2022年03月15日 | 論文・研究書紹介
 推古朝を推古天皇・蘇我馬子・厩戸皇子の三頭体制とみなす「穏健そうな」見方が有力となっている中で、前回は外交に関する厩戸皇子の関与を疑う神野志論文を紹介しましたので、逆に、厩戸皇子の主導と見る論文を紹介しておきましょう。10年前のものですが、

若井敏明「厩戸皇子による改革の一側面」
(『神戸山手短期大学紀要』55号、2012年12月)

です。個性に富んだ研究で知られる若井氏は、隋を模倣した推古朝の諸改革は、厩戸皇子によるものと見られると大胆に説いています。

 若井氏は、用明天皇の蘇我氏の血を引く初めての大王就任であって、用明の即位は大和朝廷が仏教を受け入れるきっかけとなる出来事だったとします。

 そして、用明天皇の後継をめぐる蘇我氏と物部氏の争いの際、物部氏側の中臣勝海が呪詛しようとしたのは、敏達天皇の皇子である彦人皇子と竹田皇子であったことから、この二人が有力候補であったとします。しかし、事情は不明ながら実際に即位したのは用明の弟である泊瀬部皇子であって、崇峻天皇となりました。当然のことながら、年若い厩戸皇子などは、まったく問題にされていません。
 
 ついで法興寺と大仏の建立について厩戸皇子の関与を説く文献もあるものの、『日本書紀』大化元年の孝徳天皇の詔では馬子の建立としているため、太子の疑わしいとし、推古2年の三宝興隆の詔についても、仏教を推進してきたのは蘇我氏であるため、この時点での厩戸が関与した可能性は低いとします。

 このように、否定的なのですが、厩戸が斑鳩に宮を構えた頃から、その活動が記される例が増えるのは、この時期になって政治的発言力をつけた証拠と説きます。そして、津田左右吉が、推古天皇の時代に倭国に導入された技術については、部民制による組織がなされていないと指摘していることに注意します。

 つまり、従来の品部を配置したにすぎないかもしれないものの、役職を特定の氏族に任せるのではなく、官司的なものの設置が進められていたと見るのです。そこで注目するのが、大化元年八月に国司を東国に派遣するに際しての詔が、「法に違えば爵位を降す」と述べていることです。爵位と法は不可分のものであって、これは冠位を制定した段階で考慮されていたはずと説きます。

 冠位十二階が制定されたことは、『隋書』によって明らかであり、そうであれば、それにともなって「法」が制定されるのは当然であり、「憲法十七条」がまさにそれだとするのです。

 「憲法十七条」で問題になった「国司」の語は、律令制における行政官としての国司であって、黛弘道氏が説いたように、大化前代にあっても地方に派遣された国司が存在して不思議はないとします。さらに重要なことは、倭国において初めて、冠位の昇進という概念が生まれたことであると説きます。

 外交については、倭国が隋と接近したことは、過去の対立を改め、仏教面で倭国を支援してきた高句麗にとって好ましくないことになる点に注意します。推古初年以来の百済・高句麗を中心とする外交政策と異なっている以上、推進主体が違っていると見るべきだとするのです。

 新羅もこの時期には倭国に接近してきますので、隋と関係を深める必要はないとする意見が出ても不思議はないのに、この当時進められていた改革は隋を模範としていたのです。

 この時期、倭国はしきりに隋に使いや留学生を派遣しますが、留学生はなかなか召喚されませんし、推古26年には、隋を打ち破ったとして高句麗が捕虜や戦利品と思われる品々を贈ってきます。そうなれば、隋と関係を深める必要なしという主張が出ても不思議はありません。

 そのような状況で、厩戸皇子は推古30年(622)に亡くなります。隋に送られて唐の建国とその強大化を見聞した留学生たちは、厩戸皇子が没した翌年に新羅経由で帰国してその強盛さを伝えますが、倭国が唐に使いを送るのは、舒明天皇2年(630)のことでした。

 以後も、第1回の遣唐使の帰国にともなって来た唐の使節は、倭国の王子と礼を争っており、以後、倭国は大化改新まで遣唐使を送ることがありませんでした。取り残された留学生は自力で帰国しますが、朝廷で重んじられた形跡はありません。

 つまり、推古朝初年までの百済・高句麗重視の外交政策に戻ったのであって、推古朝における隋との盛んな興隆を推し進めた人物がいなかったことになります。これを逆に言えば、厩戸皇子こそが隋との外交を盛んに進めたことを示すとするのです。冠位十二階と「憲法十七条」もその時期のものですし。

 「彼はやはり聖徳太子と呼ばれるにふさわしい人物だったといえるであろう」というのが、若井氏の結論です。

 ただ、厩戸没後、高句麗から仏教関係の品が贈られ、太子ゆかりの四天王寺と秦寺におさめられたことを見ると、厩戸皇子を隋一辺倒の人物とみなすわけにもいかないように思われます。重点をどちらに置いたかということでしょうか。

冠位十二階・憲法十七条・遣隋使の三点セットを太子主導と見る説を疑う:神野志隆光「『日本書紀』の「歴史」と「聖徳太子」」

2022年03月12日 | 論文・研究書紹介
 長く続いた聖徳太子信仰の時代、江戸期における儒者・国学者の太子批判の時代、近代になって新たに始まった太子顕彰の時代、「承詔必謹」を説いた国家主義の元祖としてもてはやした戦前戦中のナショナリズム時代、戦後に一転して民主主義の元祖、新たな変革のリーダーとされた時代の後、戦前・戦中の太子観に対する反省、また戦後になっても太子を重視し続けようとする傾向に対する反発もあって、太子の事績を疑う傾向が強まり、「聖徳太子はいなかった」説まで登場した懐疑時代となりました。

 現在は、太子についてはほどほどの再評価がなされつつあり、推古朝は推古天皇・蘇我馬子・聖徳太子の三人体制だったとされ、「憲法十七条」は多少『日本書紀』の潤色があるにせよ、大筋は推古朝と見る説が主流になっています。太子の役割をどの程度認めるかは研究者によってそれぞれですが、「憲法十七条」については、周辺の学者などの支援は得たにしても方向性は厩戸皇子が示した、と見る研究者が増えつつあるように思われます。

 そこに私が参戦していろいろと発見し、太子の事績を疑った津田左右吉のひ孫弟子であって僧侶でも太子信者でもないのに、文献研究の結果、冠位十二階・「憲法十七条」・『勝鬘経』講経(三経義疏)・遣隋使は太子の主導と見てよいと説くに至ったわけです(こちら)。

 上記のような太子再評価の動向の中にあって、聖徳太子の役割を認めない少数派の一人が、『古事記』の研究者として知られる神野志隆光氏の、

神野志隆光「『日本書紀』の「歴史」と「聖徳太子」」
(万葉七曜会編『論集 上代文学』第37冊、2016年)

です。

 ただ、文学研究者として出発した神野志氏は、太子の事績否定といっても、『日本書紀』だけを作品として読めばそう読めるのであって、他の文献や後代の太子伝説を持ち込んで強引に解釈するのは適切でない、という立場です。

 この論文で神野志氏は外交を中心に扱っており、隋使の裴世清が会った倭王は聖徳太子だろうとするなど、『隋書』の倭国訪問報告と『日本書紀』を重ね合わせてあれこれ推測するのは、『日本書紀』を『日本書紀』として読む姿勢ではないため、「語られていないことは語られないことで意味あるものとして見ることではないか」(112頁)と説きます。

 つまり、倭の五王のことも、推古8年の遣使もなかった歴史を語るのが『日本書紀』なのでああり、それを見届けるのが『日本書紀』を読むことだとするのです。近年のテキスト論とヴィトゲンシュタインを合わせたような意見であって、これはこれで見識です。

 その神野志氏が紹介するのが、「天寿国繍帳」研究で知られる飯田瑞穂氏の『聖徳太子伝の研究』(1999年)の一節です。

『書紀』の記事では、政治・外交の面での太子の関与は意外に少なく、推古朝の新政の眼目をなす冠位十二階の制定や、対外関係の一連の記事、すなわち対新羅・百済の外交・征討、遣隋使の派遣、隋使の来朝などについて、太子との連関はまったく語られていない。

 実証的で評価が高い飯田氏のこの本は、聖徳太子虚構説が登場する前に書かれた諸論文を集めたものであって、上の文は、推古朝を「聖徳太子の時代」と見ることに対する疑いです。

 ただ、『日本書紀』の最終段階で律令制における天皇の理想象である三教に通じた聖人として<聖徳太子>を捏造したとする聖徳太子虚構説に対する反論にもなる指摘ですね。『日本書紀』は、太子の活躍の様子を強調していない面があるというのですから。

 神野志氏は当時の豪族の合議、天皇継承における群臣推挙を重視しており、厩戸皇子が皇太子となったのは群臣の合議を経てのことであり、厩戸の死後、皇太子が立てられなかったのは、合意形成がなされていなかったためと見ます。

 『日本書紀』の記述から見て、崇峻天皇の暗殺も皇極天皇の譲位も、群臣の合意によるものとするのです。なお、豪族の合議に関する研究は、以前紹介しました(こちら)。
 
 こうした立場から遣隋使関連の記事を読むと、皇太子に言及されないのは、群臣の合意としてなされたためとしか考えられないとします。『聖徳太子伝暦』では、太子が妹子を隋に派遣したのは前世で所持していた『法華経』が衡山にあるのでそれをもたらすためだったとされており、外交とは無縁の内容になっていることに注意するのです。

 この論文では、持統天皇の即位にあたっては、群臣がレガリアを献上するという形でなく、中臣大嶋が「天神寿詞」を読み、忌部色夫知が「神璽」としての鏡と剣を奉るという形で、その正統性は神の権威によって保証されている点で、それまでの群臣推挙とは全く異なるものになったと説いた前稿と対比して論じるなど、有益な指摘もいくつかなされています。

 ただ、『日本書紀』ではどう描かれているかという面だけを見てゆくという方法はそれで良いものの、問題は、『日本書紀』が特別に重視して全文を掲載している「憲法十七条」の内容に触れていないことですね。

 神野志氏の方法によって見えてきた面もあるものの、『隋書』の記述を切り捨てたため、『隋書』における倭国の使者の言上が「憲法十七条」や『勝鬘経』講経と共通する面があることなどは見逃されました。

 また、古代のこうした史書では、国家の方針は国王によって決定されるため、新たな決定に関する記事に主語がない場合は、国王の命令と見るのが普通です。推古紀には厩戸皇子の関与があまり説かれていないのは確かですが、用明紀では、冒頭で厩戸皇子について「豊耳聡聖徳」「豊聡耳法大王」「法主王」などと貴い異名がいくつも語られ、「位、東宮に居り、万機を総摂し、天皇の事を行なう。語、豊御食炊屋姫天皇紀に見ゆ」と記されています。これは、まさに『日本書紀』の文言ですよ。

 厩戸皇子の命令とは記されていないものの、皇族としては異例なことながら、太子の二人の弟が続いて新羅征討の将軍として派遣されていることをどう見るのか。

 そのうえ、舒明天皇即位前紀では、山背大兄の天皇即位を主張し続けた境部摩理勢のことを「以前から聖皇に寵愛されていた(素聖皇所好)」と述べていることも見逃せないでしょう。推古8年に新羅に大将軍として派遣された「境部臣」は、雄摩侶よりは摩理勢の可能性が高いため、これらはつなります。


 神野志氏の上記の議論は、あくまでも推古紀に描かれた厩戸皇子に関する主張であって、『日本書紀』全体が描いている厩戸皇子に関するものではないことになります。
 
 また、その推古紀にしても、冒頭で厩戸皇子の神格化された記述が見られる反面、後半になると皇太子に関する記述がぱったりと無くなることをどう見るのか。馬子と対立して斑鳩にこもり国政から遠ざかったとする推測が正しいかどうかはともかく、推古紀におけるこうした記述の落差について、何らかの事情を想定すべきですね。

 神野志氏のこの論文は、新鮮な視点を示していて参考になる指摘がいくつも有るものの、太子中心主義に対する反発が強いあまり、太子の事績否定の面ばかりが強調され、『日本書紀』を『日本書紀』の立場で読むという神野志氏自身の立場が、完全には貫かれていないように見えるのですが、いかがでしょう。

「近代の聖徳太子」シンポでのコメント:津田左右吉曰く、「憲法十七条」はデモクラシイではない

2022年03月09日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 「近代の聖徳太子」シンポジウムがいかに充実していたかは、前回の記事では紹介しきれませんが、3人の発表を承けて私がコメントし、それに対する発表者の応答があった後、フロアーを交えて討議になりました。

 私はまず、私自身、N-gramを利用した古典文献の比較対照ツール、NGSMの作成に関わったこともあるため(こちら)、その威力を熟知しているN-gramを活用したGoogle Ngram Viewerで、Prince Shotoku という語を英語文献で検索してみた結果を示し、年代ごとの言及の変化を示しました。



 Shotoku Taishi で検索しても同様の結果となります。この二つの語を同時に検索して比較することもできますし、下の年代のところをクリックすると、Googleに収録されているその年代の文献の参照箇所に飛びます(こちら)。英語が主ですが、諸国語の文献もかなりカバーされており、不十分ながら日本語文献、中国語文献も増えつつあります。青空文庫の明治・大正の文献データなどを活用すれば、これに近いことができるでしょう。

 「憲法十七条」が説く「和」こそが日本人の古来からの特質だとする俗説を批判するため、また自民党などは保守なのだから聖徳太子絶讃だろうとする常識があてにならないことを示すため、「日本人は「和を以て貴しとなす」の精神を捨てよ」と題された宮澤喜一元首相のインタビュー記事(『中央公論』2004年2月号)を紹介しました。

 歴代総理の中でおそらく最も英語が達者であった宮澤元首相は、

私は日本人はいったん「和を以て貴しとなす」の精神を捨てるべきだとさえ思います。リスクをとることを恐れない強い精神力、勇気を持たなくてはいけない」(141頁)


と断言しています。国会議員や官僚たちが国内国外の顔色ばかり気にし、重要な事柄について自分の判断で決定してその責任をとるという姿勢を見せないことに我慢ができかねたのでしょう。

 ついで引いたのは、津田左右吉が大正9年(1920)4月に文芸雑誌『人間』に掲載した「陳言套語」です(現代仮名遣いになっています)。「ありふれた詰まらない言葉」という意味の題名はむろん反語であって、当時稀なすさまじい批判がなされています。

我が国の過去に固定した風俗や国民性があるように考え、そうして将来もそれをそのままに保存してゆかねばならぬように思うのが間違である、ということは、これだけでも明であろう。こういう間違った考を有っている人々は歴史に重きを置いているように自らも思い人にも思われているらしいが、実は全く歴史を知らぬものである。少くとも歴史的発展ということを解しないものである。またこういう人たちは、昔の思想や風俗がそのままに近ごろまで行われていたように思っている位であるから、現在の新しい思想を考えるについても、それと同じものが昔にもあったように説く。今日の立憲政体は神代史にも現われている我が国固有の政治思想の発現 であるという。あるいは、聖徳太子の憲法にデモクラシイの精神があるなどという。まるで昔の時代をわきまえず、その時代の精神をも解せざるものである。のみならず、現在の事実をも知らぬものである。


 いや、すごいですね。津田が聖徳太子の事績を疑ったのは、こうしたいい加減なことを言う人々に対する反発によるものであることが良く分かります。オリオンさんがあげた稻田朋美議員の珍発言などは、ここで指摘されている歴史知らず、現実知らずの典型ですね。その稻田議員を支援してきた安倍元首相なども、読書家であった大平首相などと違って本を読まないことで知られており、歴史音痴の一人ですが。

 「新しい歴史教科書をつくる会」の元会長にしても、「厩戸王」の指導要領問題が起き、国会討論となった際に国会議員にレクチャーしたという現理事にしても同類であって、聖徳太子についてきちんと研究していないことは、このブログの「太子礼賛派による虚構説批判の問題点」コーナーで書いてきた通りです(こちら)。

 「憲法十七条」は話し合い重視ですが、これは現在で言えば大臣クラスと上級官吏対象です。当時の状況では、民衆の政治参加を期待するのは無理だったでしょうが、君・臣・民という三分法に立つ「憲法十七条」では、民衆は儒教の視点でも仏教の視点でも「思いやってあげる」べき存在に止まります。身を捨ててでも救うべき対象ではあるものの、政治の主体とはなりえない存在です。

 当時としては画期的であったと評価することと、現代の民主主義と同じだとするのとは大違いです。なお、津田は太子虚構説ではありません。極度な伝説を否定し、太子の真のあり方を明らかにすべきだという主張であって、政治や仏教の面でそれなりの事績があったことは認めていました。

 私は、津田説に反対して「憲法十七条」や三経義疏は太子の作と見て良いと説いているわけですが、これは、津田の批判的な研究方法を評価して津田説自身に向けて検討してみたという一面もあるのであって、津田の個々の説については反対であることが多いものの、学者としては学生の頃から尊敬していました。そのことは、論文にも書き、このブログでも触れた通りです(こちら)。

 さて、3人の発表はいずれも有益でしたが、それを評価したうえで、最初のデフランス発表については、(1)聖徳太子への関心は日本美術の発見と平行しているなら、聖徳太子の評価は、日本(仏教)美術の高い評価と連動していたのか? (2)海外で太子のイメージを提示したという姉崎正治の著作の影響の具体的な例は? (3)『伝暦』重視だというボーネルの力作は、太子信仰史の素材という点だけで評価したのか、史実も反映していて有益とみたか? (4)実像追求を放棄する最近の研究態度について、どう考える? などと尋ねました。

 これに対しては、日本側も万博などを通じて美術面を打ち出しており、聖徳太子はその日本美術の中心とみなされた面があるとのことでした。姉崎については、欧米の研究書や論文などではあまり触れられていないものの、姉崎の日本文化の本は教科書のように広く読まれていた由。また、ボーネルは文献の訳に重点を置いており、彼の本でも『法王帝説』の訳を示し、『伝暦』の影響を明らかにするなどの面が中心であって、史料批判や太子の歴史的実像といった面にはあまり関心がないそうです。

 次のブレニナ発表については、(1)近代において日蓮信徒が太子を顕彰する際、『法華経義疏』が本義とする『法華経』を最高としない法雲流の解釈をどう扱ったか? (2)日蓮参詣を打ち出した叡福寺としては、日蓮の「引き立て役」の太子でいいのか? (3)在家の日蓮主義団体を組織した田中智学は、太子が「在家」であったことをどう評価したか。(4)重要な役割を果たした姉崎は、智学流の日蓮信仰をどう考えていか?と尋ねました。
 
 これについては、日蓮自身、太子を尊重しつつも『法華義疏』の『法華経』観については批判的であったため、日蓮系の太子顕彰には微妙な点があるとのことでした。また、叡福寺では、親鸞や空海関連の施設は目立つものの、日蓮の成績については、あまり目につかない場所にあるそうです。智学は、太子が「在家」であったことは強調しておらず、偉大な政治家という面を重視していたらしいとのことでした。姉崎については、智学とは距離をとろうとしていたらしい時期があるものの、智学門下の代表的な学者とは長く交流があった由。

 次のクラウタウ発表については、昭和の手前までを扱っていたわけですが(それでも膨大な資料でした)、昭和期の「和」の強調は紀平正美などの役割が大きいことに触れておきました(こちら)。

 質問としては、(1)明治憲法と「憲法十七条」の関係を強調した本は意外にもほとんどないことを明らかにしたのだから、「ないわけではない」としめくくるとそちらが強調されすぎないか? (2)明治期には「憲法十七条」そのものの注釈は少ない以上、小倉豊文が排撃したが、偽作の『五憲法』の影響具合はどうだったか? (3)明治天皇と聖徳太子が同一視される風潮であったうえ、明治天皇は『法華義疏』や唐本御影を手元に起き続けたことが示すように太子を意識していたと思われるが、天皇やその側近たちは、明治天皇と太子を同一視することをどう考えていたのか? などについて質問しました。 

 これらの質問に対して、「ないわけではない」ことは確かだが、「ほとんどない」に近いので、そちらを強調すべきだったとのことでした。偽の「五憲法」は江戸時代から明治の末まではかなり有力であり、明治期の国家主義的で著名な僧侶も、太子の憲法というと「五憲法」で考えていたそうです。明治天皇自信の太子観などについては今後の課題とのことでした。

 その他にもフロアから、明治憲法起草に関わった箕作麟祥が「憲法十七条」を意識して「憲法」の語を用いたとされるが、これについてどう思うかという質問がありましたが、オリオンさんも私も、そう言われているものの、箕作自身がそれについて述べたものを見たことがない、答えるほかありませんでした。

 今回の紹介記事で触れられなかったことも多く、本日の発表が論文や本になって出るのを楽しみにするばかりです。とにかく充実したシンポジウムでした。私自身も、先日の別のシンポジウムで「憲法十七条」の古注の変遷について紹介しましたので、歴史上どう扱われてきたかについては、いずれどこかで書く予定です。


1400年遠忌の各種シンポジウム中で最も充実していた「近代の聖徳太子」シンポジウム

2022年03月06日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 少し前に紹介しておいた「近代の聖徳太子」シンポジウム(こちら)が開催されました。司会は、近代における親鸞像の研究で知られ、前の記事で触れた石井公成監修(と総論)、近藤俊太郎・名和達宣編の論文集、『近代の仏教思想と日本主義』(法藏館、2020年)にも寄稿してくれていた大澤絢子さんですので、おなじみのメンバーばかりです。

 ちなみにこの本は、550頁もあって7000円を超える価格でありながら、発売してひと月たたないうちに、瞬間風速ながら、AMAZONの日本思想分野で2回、売り上げ1位になり、1年ほどで再版が出ました。

 さて、聖徳太子1400年遠忌のため、この1年、各地で聖徳太子シンポジウムがいくつも開催されてきました。しかし、ポスターや発表資料などを見ると、参加者には古代史や考古学関係の研究者ではあるものの、太子に関する研究をしたことがなさそうな人もかなりいたうえ、新しい研究成果を示してくれた人は少数でしたね。発表者全員がこれまで知られていない多くの情報と有益な知見を示したという点では、私の知る限りでは、このシンポジウムが最も充実していたように思われます。

 国会図書館の近代ライブラリ(現在は、デジタルライブラリ。こちら)が充実し、明治・大正の書物がかなりネット上で読めるようになったこともあって、近代日本仏教の研究については、この10数年で、学問的訓練を受けた海外の研究者の活躍が目立ってきており、そうした研究者たちがリードしている分野も増えています。

 近代における聖徳太子の研究が、そうした分野の一つになろうとは、私がこの面を調べ始めた頃には想像もしていませんでした。発表者全員が私の諸論文を引いてくれていましたが、今後も参照してもらえるように、この太子ブログでは、最先端の情報を伝えるようにしていきます。

 古文・漢文の読解力がきわだっているデフランスさんの「太子の使者:欧文の文献における聖徳太子」は、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語で書かれた太子関連の文献を検討したものです。

 まず明治期の欧米における太子への関心と研究は、日本への仏教伝来と日本美術史の線に沿っていたとします。そして意外なことに、藤島了穏を初めとする日本人によって欧文で書かれたものもかなりあることに注意します。

 次の段階では、日本での研究成果を反映し、太子の政治業績・外交政策なども注意されるようになったほか、近代日本における太子顕彰運動についても海外で紹介されるようになった由。

 太子顕彰の立役者である黒板勝美や姉崎正治などによって欧文での紹介もなされましたが、コレージュ・ド・フランスでフランス語講演をしたり英語での本や論文を発表するなどして盛んに活動していた姉崎と違い、黒板は反英感情が強かったせいか、英語論文は「憲法十七条」について論じた論文1本に止まるそうです。

 それらを集大成したのがプロシャ福音教会の宣教師としてドイツ領の青島に渡った後、日本でドイツ語やギリシャ語を教えたドイツ人のヘルマン・ボーネル(1884-1963)です。ボーネルは関連史料を独訳したのち、1940年に1000頁を越える Shôtoku Taishi というドイツ語の本を出します。太子を神格化した伝記の代表である『聖徳太子伝暦』を重視して太子信仰のあり方を検討しているのが特徴である由。

 そして、戦後になると、イタリアの日本研究者、アドルフォ・タンブレロが従来の太子研究における史料批判の不足を指摘したことが示すように、伝説を見直す研究がなされるようになり、視覚的な文化としての面からの関心に基づく研究も進められたことを紹介します。

 美術史研究と実像を追求する研究の後、2000年代になると実像追求を放棄し、それぞれの時代の「宗教的想像力」による太子像を尊重してその解明に努めるようになったと論じます。

 興味深いのは、聖徳太子を専門として博士論文を書く研究者たちが登場するようになったことであり、日本学科ではなく、宗教学科や美術学科に属する研究者が多い由。欧米の数多い著書や論文があげられており、驚かされました。

 ブレニナさんの「近代の日蓮仏教における聖徳太子像の種々相」では、日蓮が太子を『法華経』を伝持した先駆者としつつ、その実義は伝えなかったとし、『法華経』教学は最澄を最初としたことで話を始めます。

 1921年は、太子1300年遠忌、最澄1100年遠忌、日蓮降誕700年のトリプル記念年であったため、この前後は太子や太子と宗祖に関する様々な講演がなされたものの、戦後になると、太子と日蓮の関係はあまり注目されなくなるとします。そうだったか。

 なお、太子の墓とされる叡福寺はかつては真言宗の寺であって、戦後は単立の太子宗となりましたが、この太子御廟に日蓮が参詣し、太子が示現したとする伝説が近世に生まれるものの、その聖跡を記念する塔や石碑は近代になってから整備されたと指摘します。

 日蓮関連の聖跡は、日蓮が生まれた千葉を初めとする関東に多いが、この叡福寺の聖跡によって関西に日蓮信者が参詣できる聖地が誕生したと説きます。この場合、太子は日蓮の偉大さを示すための引き立て役のような形だが、こうした顕彰は、日蓮信者にとっても叡福寺にとっても望ましいものだったとするのです。

 そして、近代になって日蓮主義を広めて国体論を盛んにした田中智学は、大阪に布教所として立正閣を建設した際、勾欄に法隆寺の五重塔の様式を用いたのであって、これが後に富士山を望む三保松原に移築されて最勝閣となります。智学は太子を「武人にして強固なる外交家、巧妙なる美術工芸家」として評価し、次第に「天照大神、神武天皇、聖徳太子、日蓮、明治天皇」を国聖と説くようになっていった由。

 ただ、三経義疏については、日蓮信者であった姉崎正治の解釈によっている点が多い由。その姉崎は、日蓮とともに聖徳太子に対する尊崇が篤く、後にはそれは太子信仰とも言うべきものになったとします。

 その他、多くの指摘がなされていますが、1300年遠忌は、イベント、メディアの活用により、近代の太子像を形成するうえで大きな役割を果たしたとしています。知らないことばかりでした。

 最後のクラウタウさんの「<憲法作者>としての聖徳太子の近代」では、近代以後のすさまじく多数の「憲法十七条」関連の資料が提示され、圧巻でした。

 まず、戦後の太子のイメージを漫画・ドラマ・教科書などによって概観し、「憲法十七条」以来、日本は民主主義だったと国会で発言した稻田朋美議員の迷演説とそれに対する反応、右翼思想家や仏教学者の「憲法十七条」解釈なども紹介します。

 そして、明治憲法によって「憲法十七条」が評価しなおされたとする通念を検討し、実際には、1889年以降に刊行された数多い「憲法十七条」解釈テキストでは、太子への言及は稀であり、むしろ明治憲法との違いを指摘する例が多く、「憲法十七条」を中心として太子をとらえようとする傾向はあまり展開していないと説きます。意外ですね。

 そして、近代法学形成の立役者の一人であった有賀長雄が、「憲法十七条」は法律とは言えないとしたのを初め、この種の言説を多数紹介し、仏教者がこれに反発して新しい太子像を築いていったとします。つまり、古代にあっては法律と道徳は区別できないとする主張など「であって、また中には「憲法十七条」を支えているのはあくまでも宗教だと説いた近角常観もいた由。

 法律としてはともかく道徳面は今でも役立つといった議論もあり、「憲法十七条」は大正時代になって、新たな思想動向の中で「訓戒」として再発見されたとします。しかも、明治憲法より、「万機、公論に決すべし」で始まる「五箇条の御誓文」や教育勅語や戊申詔書との関係が強調されたとし道徳の基盤として評価され、私の論文にも触れつつ、明治天皇の死をきっかけとしてその傾向が強まったと結論づけます。
 
 以上は、3人の発表の概要の一部にとどまります。これまで知られていなかった事実の報告を多く含み、太子に関する通説について考え直させる内容であって、きわめて有益でした。ただ、長くなりましたので、私のコメントと発表者の応答については、次回の記事で紹介します。

「法興」を私年号と称するのは適切か?:細井浩志「日本の古代における年号制の成立について」

2022年03月04日 | 論文・研究書紹介
 法隆寺釈迦三尊像銘や伊予温湯碑は、「法興」という年号を用いていることで有名です。これについては、僧侶などの間で用いられていた私年号という扱いをされることが多いのですが、私年号と呼ぶことに疑問を呈した論文が出ています。前回取り上げた甘懐真氏の論文が掲載されている論文集から、もう1本紹介しておきます。

細井浩志「日本の古代における年号制の成立について」
(水上雅晴編『年号と東アジアー改元の思想と文化ー』、八木書店、2019年)

です。暦の研究者である細井氏については、前にも論文を紹介したことがあります(こちら)。

 細井氏は、唐の年号の多くは皇帝の徳を示す吉祥句の年号であり、高句麗や新羅の年号も吉祥句年号であったのに対し、8世紀の日本の年号は、対馬からの黄金の献上によって「大宝」とし、白亀出現によって「神亀」とするような祥瑞の具象的表記や、「太平」のようなめでたい字の句であったと指摘します。なお、「神亀」は、6世紀初めの後魏の年号と同じですね。

 8世紀以前の日本の年号については、『日本書紀』ではいくつかの年号が見えるものの、『日本書紀』の記述通り実施されたのか、過去に溯及して年号を与えた追年号かということで研究者の意見が分かれています。発掘によって出てくる木簡は、年号でなく、干支を記しているからです。

 ただ、いろいろ議論がある「大化」については、祥瑞年号が全盛だった8世紀に造作されたとは考えにくいため、細井氏は、同時代の唐・新羅・高句麗の影響で制定された可能性が高いとします。

 そして、『日本書紀』は、基本的には天皇の治世紀年で年代を定めているが、いくつかの倭国の年号については「拾って使い」、唐などの年号を用いると従属を意味してしまうため、そちらは捨てたと考えられると説きます。

 問題は、「法興」ですが、7世紀に存在したことは間違いないとしたうえで、私年号とする見解については、疑問を呈します。『日本書紀』では、「厩戸王」(細井氏は2019年段階でもこの呼び方を使ってますね)を天皇とは認定していない以上、彼を顕彰する年号は採用しなかったと考えることができるとします。

 「大宝」以前は国家的年号が成立していなかったとする説もあるため、「律令国家成立以前の年号を、公私に峻別することができるのかは問題である」(379頁)とし、これに近い見解は久保常晴『日本私年号の研究』(吉川弘文館、1967年)も既に述べていたと説きます。

 そして、「暦は百済から仏教文化の一部として倭国に伝播した」ため、「有力寺院など複数の場所それぞれで毎年作られ、使われた可能性が想定できる」(同)とし、同じ暦法を使っていれば、通常は同じ暦日になるが、計算の微妙な違いで、日付がたまに異なることもありうると注意します。

 そうした状況では、天皇(大王)が年号を定めても社会的に共有されにくく、口頭での伝達も多かった時代にあっては、「アカミトリ」と訓まれた「朱鳥」と類似する「朱雀」、「白雉」と類似する「白鳳」の混在のように、漢字表記すら統一できなかったろうと見ます。

 一方、逆に仏教僧などが新羅や唐の年号の知識に基づいて、「法興」などの年号を独自に定めた時、「それが仏教ネットワークで、天皇(大王)の定める年号より広範囲で使われた可能性がある」(580頁)以上、天皇を「公」、仏教や豪族を「私」とするのは、律令制定以後の秩序概念を遡及させてしまうことになると論じるのです。

 推測に基づくところがかなり多い議論ですが、それぞれの時代の状況を考える際は、後代の常識によって見てはならないということは確かでしょう。

「天王」は仏教尊崇の胡族国家の王名:甘懐真「東アジアにおける四~六世紀の「治天下大王」と年号」

2022年03月01日 | 論文・研究書紹介
 2年ちょっと前に、「天皇」という称号について考えるうえで有益な論文が刊行されました。

甘懐真「東アジアにおける四~六世紀の「治天下大王」と年号」
(水上雅晴編『年号と東アジアー改元の思想と文化ー』、八木書店、2019年)

です。甘氏は、台湾大学歴史系教授であって、専門は中国古代史ですが、東アジア諸国の制度の比較についても論文を発表されています。

 甘氏は、「天下」という言葉の意味が時代によって変化したとし、漢代では天下は唯一で天子である皇帝が君臨していたものが、三国時代に入ると、これらの国はそれぞれ漢を継承したと称して皇帝を名乗り、元号を立てました。ですから、三つの天下が並立したことになります。

 さらに五胡十六国時代になると、皇帝を名乗らずに元号を制定する者が出てきます。匈奴系の石勒は319年に趙国を建国すると、「趙王元年」と改称しました。328年、石勒は、天の命が革まったと宣言し、年号を立てて「太和」としましたが、皇帝を名乗らず、「趙天王」と称し、329年になって「皇帝の事を行」ったのち、正式に皇帝の位につきました。

 これは、『日本書紀』用明紀が厩戸皇子について「天皇の事を行なう」と記していることを想起させますね。

 以後、中国で天王を名乗ったことが記録に見えるのは、前秦・後燕・後秦・後涼・夏の諸国です。前秦の場合、君主の符洪は「秦王」と名乗ったのち「天王」を称し、352年に皇帝となっていますが、「皇始」という元号を立てたのは、天王になった時です

 その後を継いだ苻堅も、すぐには皇帝に即位せず、まず「大秦大王」と称し、「永興」と改元しています。また、匈奴の赫連勃勃は409年に「天王・大単于」と称して国号を夏とし、元号を龍昇とした後、418年に皇帝と称しています。この時代は、皇帝が各地にいて年号を定めており、複数の天下が並立していたのです。

 甘氏はここで日本を検討し、稲荷山古墳出土鉄剣銘に「治天下」と「大王」という語が見えることに注目します。つまり、天下を治める本来の中国の皇帝よりは下であると考えていたもの、単なる国王ではなく、諸国を配下に置いて小天下を治める「大王」であると自認していたことになるため、これを中国の「天王」と同じ性格のものと見るのです。

 実際、書写の際の問題とする説もありますが、『日本書紀』雄略紀では、百済王が雄略天皇のことを「天王」と呼んだとする記事があり、註では『百済新撰』を引き、百済王が弟を大和朝廷に遣わして「天王に侍」させたと記しています。まさに、「治天下」の「大王」に相当するものを「天王」と呼んでいるのです。ただ、当時の倭国は宋の君主に対して「臣」と称していたためか、元号は立てていません。

 面白いのは、この前後の時期には、東アジアでは「大王」やそれに類する称号が見えており、高句麗の広開土王は「太王」と称されていることです。広開土王の碑では、建国神話がきされており、祖先は「天帝之子」とか「皇天之子」と称されており、国王は「天子」を自認していたことが推測されるのです。

 なお、「天王」という称号は仏教に由来するとする説については、甘氏は否定し、「天王」はあくまでも「儒教の王権制度」に属するものであって、仏教王権の制度によるものではないとします。

 ただ、「天王」という語そのものは仏教のものであることを認め、当時の王者には仏教徒の者がおり、また後秦の姚興のように人民も王者を仏教王権の王とみなしていたと述べた後、「王と皇帝の中間たる天王が仏教王権の官名であるというのはしごく合理的ではなかろう」(269頁)と記していますが、妙な表現ですね。「なかろうか」の誤記ではないかと考えてしまいます。

 初めて天王を名乗った石勒にしても、仏図澄に出会って熱心な仏教信者となっているわけですし。「制度としては儒教に基づいているものの、仏教の用語を参考にした可能性がある」という方向でも良さそうに思うのですが。

 これは日本の「天皇」の場合も同じですね。呉音では、「天皇」も「天王」も発音は同じですから、仏教を推進していた時期であれば、天皇という称号を名乗る際、天王をヒントにしたといった程度はありそうに思われます。

 甘氏は、仏教の用例にまったく言及していませんが、「天王」は中国の古典には見えず、仏教文献では devarāja や devendra(deva + indra)などの訳語として数多く用いられる言葉です。四天王の「天王」は、 mahārāja(大王)やこれに devatā(神)の語がついたものであって、いわゆる「天王」とは系統が違いますが、漢訳では区別されていません。

 「天」という語は、昔、「『日本霊異記』の重層信仰」という論文(こちら)で指摘したように、インドの deva と中国の天と、胡族や日本の伝統的な天の概念を曖昧に結びつける便利な言葉なのです。