聖徳太子研究の最前線

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瓦の様式と瓦窯と造営氏族から考える飛鳥・斑鳩の寺々:小笠原好彦『検証 奈良の古代仏教遺跡』

2021年08月19日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子虚構説は、文献だけを材料としてあれこれ想像するばかりであって、考古学や美術史の研究成果を無視していました。

 だからこそ仏教受容の初期に百済の工人が招かれ、蘇我馬子の飛鳥寺→推古天皇の旧宮を改めた豊浦寺→推古天皇の甥で推古天皇・馬子の娘婿である厩戸皇子の斑鳩寺(若草伽藍)→四天王寺、という順序で瓦を作成する瓦当笵が(むろん、百済の工人に育成された倭国の工人たちも)移動し、壮大な寺院が造営されていった事実に目を向けず、斑鳩寺などは推古朝に46もあった寺の一つが都から離れた地に建てられたものにすぎないのであって、「厩戸王」は国政に関わるほどの勢力はない一王族だった、などと断定することができたのです。

 また、学界ではまったく相手にされていないものの、九州王朝説の信者たちは、今でも「聖徳太子とされるのは九州王朝の多利思北孤だ」とか「現在の法隆寺は九州王朝の寺を移築したものだ」などという珍説を信じ、仲間うちの雑誌に書いたりネットに投稿したりしています。考古学については、自説に都合のよい部分だけをつまみ食い式に利用し、九州王朝の優位を説く強引な解釈をやるのが特徴です。

 つまり、自分たちは皇国史観の図式に引きずられている従来の研究を正してやっている正義の味方なのだと思い込み、大幅に進んだ考古学の成果を無視して厩戸皇子の事績を自信満々で否定する点は、虚構説論者も九州王朝信者も同様なのです。そういえば、法隆寺は焼失しておらず聖徳太子がお建てになったままだと主張する国粋主義的な太子礼賛者も、考古学の成果を無視しますね。この人たちは、立場は異なるものの、自説先行であって、自分に都合の悪い材料は認めようとしない点が良く似ています。

 実際には、若草伽藍跡からは焼けた瓦や壁画の破片が出ていますし、九州では都市開発が猛烈に進んだものの、6世紀後半から7世紀前半頃の本格的な寺院の遺跡は報告されておらず、ましてその瓦を焼いた瓦窯の跡などまったく発見されていません。それに対し、飛鳥・斑鳩のこれらの寺については、豊浦寺にしても若草伽藍にしても再建法隆寺にしても、瓦を焼いた瓦窯の跡が大和や山背などあちこちの地で発掘されており、出土する瓦の破片の研究も大幅に進んでいます。

 そうした瓦の様式と瓦窯に注意を払い、飛鳥・白鳳時代の古寺について検討したのが、

小笠原好彦『検証 奈良の古代仏教遺跡-飛鳥・白鳳寺院の造営と氏族』
(吉川弘文館、2020年)

です。

 多くの発掘調査に関わってきた小笠原氏の『日本古代寺院造営氏族の研究』(東京堂出版、2005年)は、考古学的な研究であるばかりでなく、その成果を文献とつきあわせて造営した氏族を明らかにするよう努めており、考古学と歴史学をつなぐ興味深い試みでした。

 昨年出たばかりの『検証 奈良の古代仏教遺跡-飛鳥・白鳳寺院の造営と氏族』は、学界と自身の最近の研究成果に基づき、主要な諸寺院について概説したものです。

 小笠原氏は、最初期の寺は「草堂」と呼ばれる簡単な仏堂であって、瓦葺きではなかったとし、瓦を用いた本格的な寺院は、物部守屋との合戦において蘇我馬子・上宮王側に加担した諸氏族と大和・畿内を本拠とする渡来系氏族によって建立が進められたとします。瓦の様式の変化によって諸寺院の系統とその成立順序を推定し、あちこちで発見されている瓦窯跡の調査によってその地で活動していた氏族と関係づけていくのです。

 最初はもちろん蘇我馬子が建立した飛鳥寺です。百済から技術者たちを派遣してもらって造営が始められたものの、3つの金堂が塔を囲む形は高句麗に見られる形であることはよく知られています。その飛鳥寺の瓦は飛鳥寺東南の瓦窯で作られており、創建時の軒丸瓦には文様から見て星組・花組という2種類があることから、百済から派遣された4人の「瓦博士」たちには二つの系統があったことが知られています。

 その瓦の一部には須恵器の作成法が見られるため、百済の工人たちの指導のもとで作業を担当したのは、それまで須恵器の生産に当たっていた倭国の工人たちだったと氏は説きます。本格寺院の造立のためには大量の瓦が必要なため、須恵器を造っていた工人たちを動員したとするのです。

 飛鳥寺の軒丸瓦には、百済寺院の主流であった作成が容易な八弁の蓮華文ではなく、十弁・十一弁のものが見られます。これは、百済が手本とした中国の様式であるため、そうした知識を持っていた百済の工人が中国南朝と百済の両方の形式を提示した結果、馬子が命じて百済のものよりやや大型のそうした中国式の瓦を作らせたためと小笠原氏は推定します。南朝仏教を手本としていた百済は、梁に依頼して造瓦その他の工人を派遣してもらっていますからね。

 次に推古天皇の旧宮を改めた豊浦寺については、最初に建てられた金堂の跡からは飛鳥寺創建期の軒丸瓦が出ており、金堂より少し遅れる塔の造営にあたっては高句麗の様式で作られた瓦が用いられています。

 その高句麗式の瓦は、1982年の京都府宇治市の隼上り瓦窯の発掘によって、飛鳥から45キロも離れたこの瓦窯、つまり、前から須恵器を作成していた隼上り瓦窯で大量に作成されていたことが明らかになりました。この瓦が水路を利用して豊浦寺に運ばれたと推測する小笠原氏は、隼上り瓦窯が位置する山背南部の地には、秦氏および秦氏と擬制的な同族関係にあった氏族が分布していたことに注意します。

 言うまでもなく、秦氏は厩戸皇子に仕えた渡来系の豪族ですので、秦河勝は豊浦寺を造営した馬子とも深いつながりを持っていたことになります。その隼上り瓦窯から出土している高句麗様式の瓦は、豊浦寺式のものと隼上り瓦窯特有のものがあります。

 隼上り瓦窯の瓦は、飛鳥では豊浦寺、その近辺の奥山久米寺跡・和田廃寺、斑鳩・平群の地では中宮寺跡、上宮王家に仕えた平群氏の氏寺である平隆寺跡、そして隼上り瓦窯のある山背では秦氏の氏寺である蜂岡寺(北野廃寺)とそれが移転した広隆寺の瓦などに見いだされ、大量に供給していたことがわかります。

 これについて、小笠原氏は、厩戸皇子から仏像を与えられた秦河勝が蜂岡寺を建立した際、馬子が飛鳥寺の造瓦工人のうちの花組の一部を山背に派遣し、京都市岩倉の元稻荷瓦窯で蜂岡寺の瓦を焼いたと推測します。

 そして、元稻荷瓦窯の工人の一部が宇治の隼上り瓦窯に移り、その後、馬子が豊浦寺で金堂に続いて塔を建立した際、今後は逆に、隼上り瓦窯で焼かれた高句麗様式の瓦が豊浦寺に運ばれて塔に用いられたとするのです。

 説明はないですが、上記の寺々のうち、和田廃寺は『法王帝説』によれば太子が葛木(葛城)臣に賜ったとされる葛木寺とする推測が有力です。葛城臣は、守屋合戦の際、馬子側で参戦した豪族であり、「湯岡碑文」によれば太子の湯岡訪問に同道した一人ですね。

 四天王寺式伽藍配置であったと推測されている奥山久米寺跡については、厩戸皇子の弟である久米王の寺であったとする説もありますが、小笠原氏は力を入れて反論します。飛鳥寺の北東800メートルにあって蘇我氏本拠地の中枢に位置し、7世紀第1四半世紀に工事が始まっておりながら中断し、7世紀後半に完成するところから見て、馬子の弟であって勢力があったものの、山背大兄を支持して蝦夷と対立し、殺された蘇我同族の境部摩理勢の寺であったと推測するのです。

 その奥山久米寺跡では、創建時に葺かれた5種の軒丸瓦が出ていますが、そのうち4種は、飛鳥の西南に位置して吉野へ続く五條市にある今井の天神山窯で焼成されており、1種は四天王寺の軒丸瓦を焼成した京都市と大阪府の境にある楠葉・平野山瓦窯で焼成されたことが知られています。蘇我氏の寺と上宮王家の寺とに関係が深いことが着目されますね。

 斑鳩寺、すなわち若草伽藍については良く知られているためか、簡単な記述にとどまっていますが、その斑鳩寺からほど近い場所(現在の中宮寺から500メートルほど東)に建立された中宮寺は、遺跡から見て若草伽藍と同様に四天王寺式伽藍であったと推測されています。

 その中宮寺跡の軒丸瓦は、創建期のものは奥山久米寺式のものであり、七世紀半ばの瓦は、斑鳩の西に位置する平隆寺(平群寺)の瓦を焼いた平隆寺北方の今池瓦窯で用いられた瓦当笵と同じ笵型で造られ、平群氏から供給されたものです。斑鳩近くを本拠とする平群氏は、守屋合戦に参戦した氏族でもあって、再建時の法隆寺も支えたと推測されており、上宮王家と関係深い氏族です。

 ほんの一部の紹介しかできませんが、このように瓦の様式と瓦窯から寺と氏族のつながりを見ていくと、『日本書紀』の初期の仏教関連の記述は、伝説化されている部分はあるものの、史実をかなり反映していることが理解できます。

 むろん、『日本書紀』の記述を前提にして氏族や瓦について考えているため、ニワトリと卵の関係になっている部分はありますが、地域の面、また須恵器の編年の面から見ても、そう外れないという点が重要でしょう。
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