聖徳太子は、父方・母方とも蘇我氏の血を引く最初の天皇候補者であって、蘇我氏の血を引く叔母かつ義母である推古天皇のもとで、伯叔父(おおおじ)かつ義父である蘇我馬子とともに政治・外交にあたったのですから、太子研究に当たって最重要なのは、蘇我氏の状況を研究することですね。
蘇我氏がどれほどの力を持っていたかは、墓を見れば分かるはずです。蝦夷と入鹿の墓を中心とした蘇我氏の墓に関する最近のすぐれた研究が、
小澤毅「小山田古墳の被葬者をめぐって」
(『三重大史学』第17号、2017年3月)
です。
2015年に公表されて新聞で話題になったのは、奈良県明日香村川原で貼石・敷石と板積石を含む大規模な掘り割り遺構が発見されたことでした。調査した橿原考古学研究所では、一辺50m以上の方墳を想定しましたが、周辺の地形からは70m以上であって、80m近かった可能性もあるとされている巨大な方墳ですね。
7世紀になると、前方後円墳に代わって寺院を建設するようになり、天皇の墓も方墳になって古墳時代より小型になっていく中で、この大きさは異様です。また、上に積まれていた榛原石は、7世紀中頃の寺院で多用されていますが、古墳で上に積まれているのは、舒明天皇(在位629-641)が改葬された押坂陵と推定されている段ノ塚古墳だけであるため、その時期に造成された重要人物の墓であったことが推定されます。
このため、この小山田古墳については、欽明天皇の初葬陵である滑谷岡の陵と見る説も出されています。しかし、小澤氏は、小山田古墳の掘り割りが造成されてからほどない時期に埋められ、墳丘が削られているのは不審とします。推古天皇の初葬陵は、改葬後も丁重に管理されている以上、多大な労力を費やして造成した巨大な天皇陵を、改葬して棺を運び出したからといってすぐ破壊するはずがないと説くのです。しかも、氏が6頁に示しているように、この地域は蘇我氏の勢力圏でした。
巨大な古墳と言えば、全長318mもあって奈良県最大の前方後円墳である五条野丸山古墳は、蘇我稲目の墓と推定されています。
一方、欽明天皇が改葬された陵については文献資料が多く残っており、梅山古墳であることが確実と小澤氏は説きます。その梅山古墳は稲目の墓より0.7kmほど南方にあり、舒明天皇の皇子である天武天皇・持統天皇を合葬した大内陵と推定される古墳もその東にあるほか、他にも非蘇我系の皇族の墓が、小山田古墳のすぐ南を東西に走る道より南側に点在していることに注意します。
つまり、その幹線道路の北側が蘇我氏の勢力圏、南側が非蘇我氏系天皇の墓が造営された地域です。この指摘によると、この道を西から来て都に入ろうとする人は、欽明天皇陵に似た巨大な小山田古墳をすぐ左に見上げながら、蘇我氏が権勢を振るっていた飛鳥の地に入っていったことになりますね。蘇我氏系の人なら誇らしいでしょうが、そうでない人たちには反感を買いそうです。
その巨大な小山田古墳を、小澤氏は蘇我蝦夷の墓と推定します。蝦夷は、皇極天皇元年(642)に、厩戸皇子の子が受け継いだ壬生部の民を含め、国中の民を徴発して「双墓」と称された生前の寿陵を二つ造り、一つを「大陵」と称して稲目大臣の墓とし、一は「小陵」と称して入鹿臣の墓とするといった横暴な行いをした、と『日本書紀』は記しています。
そこで、小澤氏は、小山田古墳が蝦夷の墓だと推定するのですが、そうなると、「双墓」なのですから、似たような形のやや小ぶりな入鹿の墓も側に並んでいなければならないということになります。すると、小山田古墳の西北100mほどの地に、二つの石棺を縦に置くことができる玄室がある菖蒲池古墳がありますので、これが「小陵」であって、ここに蝦夷と入鹿を埋葬したと見る研究者もいます(近いうちに紹介します)。
しかし、小澤氏は、「双墓」というからには似た形で並んでいるはずであるのに、小山田古墳と菖蒲池古墳では墳丘の構造が違いすぎるとします。そこで、菖蒲池古墳のすぐ南西に、小山田古墳が築かれた東側の尾根と対応する形で低い尾根があるため、ここに「小陵」があったと推定し、乙巳の変によって入鹿と蝦夷が殺された後、「大陵」と「小陵」は破壊されたと推測するのです。
ところが、「小陵」があったと推定される地は、1963年頃には削平工事が始まっており、現在は尾根全体が削られて姿を消してしまっていました。しかし、工事の際、何も発見されなかったのでしょうか。
2015年に遺構が発見された「大陵」と違い、入鹿の「小陵」の方は、工事が始まった際に遺構が出土しなかったのは、蝦夷以上に憎悪され、完璧に破壊されたからということになるかもしれませんが、少しは痕跡が残りそうなものです。あるいは、1960年代は発掘調査がきちんとなされず、開発工事が急がれたのか。この近辺の調査を望みたいですね。
ともかく、『日本書紀』では、乙巳の変の後で、蝦夷と入鹿を埋葬することを許したとあるため、小澤氏は、「大陵」のような巨大なものは許さず、小さめを墓を作らせたと考えます。そして、それが以下の図(18頁)が示すように、宮ヶ原1・2号古墳だと推定するのです。
つまり、大幅に小さくした「双墓」を造らせたと見るのですね。そして、二人の棺を納めるよう作られた菖蒲池古墳は、年代から見て、自殺させられた蘇我倉山田石川麻呂とその長男の墓と見るのです。
小澤氏は、この他にも、この地域の古墳を蘇我氏の有力者の墓と見て、被葬者を推定しています。
こうした飛鳥に関する考古学の諸発見が示すのは、『日本書紀』は編集時の権力者や有力氏族にとって都合良く書かれている部分が目立つものの、記されている事件そのものは、史実を反映していることが意外に多い、ということですね。
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