聖徳太子墓とされてきた磯長の叡福寺北古墳については、諸説があります。文献研究者の多くは、『日本書紀』が「上宮太子を磯長に葬る」と記しているのはこの墓だと考えていますが、考古学の側でこれに異説を出しているのが、少し前に論文を紹介した白石太一郎氏です(こちら)。
白石氏は、最初は叡福寺北古墳を聖徳太子墓と認めていたのですが、後に意見を変えたのです。ただ、話は複雑であって、この古墳を聖徳太子の墓と認めるものの、その横穴式石室の構造が岩屋山式であるため、現在の形はやや後のものと見るのです。この点は論争となっているため、白石氏がその論争をふりかえったうえで、改めて自説を主張したのが、
白石太一郎「岩屋山石室の暦年代をめぐって」
(『大阪府近つ飛鳥博物館 館報』21、2017年12月)
です。
その岩屋山式について着目し、命名したのは白石氏の1967年の論文です。白石氏は、その前後の古墳の石室の構造の変化を、天王山式→石舞台式→岩屋山式→二子塚式(後には、岩屋山亜式)と順序づけました。天王山式までは、自然石を積み上げていたのに対し、石舞台式では石室の壁面や天井に用いられる石材は平らに加工されるようになり、岩屋山式になると見事な切石加工が施されるようになるのです。
そして、当初は622年に没した太子の墓とされる叡福寺北古墳が岩屋山式であるため、岩屋山式は7世紀前半、おそらくはその第2四半世紀を中心とする様式と白石氏は考えたのです。
ところが、その後、石室の構造や出土する土器の年代などに関する検討を進めた結果、聖徳太子より4年遅れて626年に亡くなった蘇我馬子の墓である可能性が高い石舞台式の年代、またそれに先行する天王山式の年代を見直すようになり、岩屋山式は7世紀半ば過ぎと考えざるをえない、と意見を変えたのです。
一方、2000年代になって考古学の調査が進み、平田梅山古墳(現欽明陵)の陪塚的な位置にあるカナヅカ古墳が、岩屋山古墳の形にきわめて近い石室を持っていること、また、聖徳太子の弟であって603年に亡くなった来目皇子の埴生岡上墓とみなされる羽曳野市の塚穴古墳も岩屋山式石室であることが明らかになりました。
このため、岩屋山式は7世紀前半で良いのではないかとする研究者が何人も出てきました。しかも、白石氏が指導した若手の中からも出てきたのです。そこで、白石氏は、かなり感情的な反発を示しました。
しかし、石舞台式が岩屋山式より先行する型式であることは疑いないため、岸本直文氏は、これは大臣馬子が生前から建設を始めていたためであり、当時の有力者は原則として活躍していた時期から墓を準備したと論じたのです。実際、蘇我蝦夷と入鹿の親子は、生前から二つ並ぶ大きな墳墓を造営しており、乙巳の変で滅ぼされた後、その二つの墳墓は破壊されました。
考古学は文献を考慮せず、ただ型式だけで年代判定をすべきだと主張する学者もいる一方、白石氏はそこまで極端ではないのですが、あくまでも石室の様式や出土する土器の年代判定を優先し、そのうえで文献資料も考慮すべきであって、文献の被葬記事によりかかった主張をすべきでなないとし、岸本氏の説や『日本書紀』の磯長埋葬説をそのまま信じる考古学研究者を批判します。
ただ、白石氏は石室側面の加工の精粗がそのまま時代差を示すとは限らず、古墳造営者の経済力や意図によって違っている場合もあることに注意します。
そして、いろいろな形をすべて岩屋山式として7世紀前半と見る説を批判し、玄室の奧壁の石の組み方を再検討します。岩屋山以前の古墳の多くは羨道前半部を二段構成としていますが、岩屋山古墳、ムネサカ1号墳などは、羨道奧半部が1段、前半部ないし先端部が2段となっており、以後の岩屋山亜式の例である橿原市小谷古墳などはすべて1段組となっているとします。
叡福寺北古墳は、現在は宮内庁管理で詳細な調査はできないのですが、古い調査記録によると岩屋山と同じタイプらしいことは、年代を考えるうえで重要です。
次に、出土する土器については、造営当時のものか、後の祭祀などに用いられたものかといった問題があるのですが、天王山式から出る土器は6世紀後半から7世紀初頭、石舞台式の土器の場合は7世紀前半から中葉以前、岩屋山式は土器の出土が少ないものの、甘樫丘や山田寺下層の土器から見て7世紀前半から中葉以前とします。
これらの結果から、白石氏は、岩屋山式を7世紀前半とするなら、石舞台式は6世紀末葉以前に繰り上げなければならないと説きます。そして、石舞台式より様式が進んでいる塚穴古墳が馬子より前に亡くなった来目皇子の墓であるなら、問題が生ずると述べます。
以上の結果から、白石氏は、叡福寺北古墳が厩戸皇子の墓であることは否定しがたいものの、当時は改葬がしばしばおこなわれていたため、現在の石室については、その造営時期、埋葬時期は不明であり、またそこから夾紵棺の破片が出土したとされるものの、夾紵棺については7世紀後半のものが多く、7世紀前半とは考えにくいとします。
この他、いろいろと検討したうえで、白石氏は、岩屋山式はやはり7世紀中葉から第3四半世紀頃と考えられると結論づけます。むろん、馬子墓である石舞台などが生前の早い時期から造営が始まっていたら、また別の順序を考えざるをえないことになります。
白石氏は、以上のことから、叡福寺北古墳を含む岩屋山式を7世紀前半とする諸氏の説には多くの課題が残されていると論じたうえで、「拙論にも多くの不備があることはよく承知している。忌憚なご批判を頂ければ幸いである」と結んでいます。
以前の論文では、岩屋山式を7世紀前半説に対して、「またぞろ」そうした説が出てきたとなどと述べており、感情的な反発を示していましたが、この論文ではきわめて客観的に検討しようとしており、好感が持てますね。
ただ、岩屋山式に関する白石氏の研究を基礎的な貢献として評価しつつ、切石を用いた岩屋山式については、6世紀末から切石が使われるようになり、来目皇子の墓で岩屋山式の前段階と呼べる程度まで進展し、叡福寺北古墳で完成したと見て良いとする研究者が最近は増えています。
この5~6年で岩屋山式やその亜式の古墳に対する調査は大幅に進んでおり、3月にはその成果が刊行されますので、楽しみなところです。関連する論文は近いうちに紹介します。