聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

聖徳太子墓の年代判定基準となる岩屋山式石室は7世紀半ばかそれ以降:白石太一郎「岩屋山石室の暦年代をめぐって」

2024年02月27日 | 論文・研究書紹介

 聖徳太子墓とされてきた磯長の叡福寺北古墳については、諸説があります。文献研究者の多くは、『日本書紀』が「上宮太子を磯長に葬る」と記しているのはこの墓だと考えていますが、考古学の側でこれに異説を出しているのが、少し前に論文を紹介した白石太一郎氏です(こちら)。

 白石氏は、最初は叡福寺北古墳を聖徳太子墓と認めていたのですが、後に意見を変えたのです。ただ、話は複雑であって、この古墳を聖徳太子の墓と認めるものの、その横穴式石室の構造が岩屋山式であるため、現在の形はやや後のものと見るのです。この点は論争となっているため、白石氏がその論争をふりかえったうえで、改めて自説を主張したのが、

白石太一郎「岩屋山石室の暦年代をめぐって」
(『大阪府近つ飛鳥博物館 館報』21、2017年12月)

です。

 その岩屋山式について着目し、命名したのは白石氏の1967年の論文です。白石氏は、その前後の古墳の石室の構造の変化を、天王山式→石舞台式→岩屋山式→二子塚式(後には、岩屋山亜式)と順序づけました。天王山式までは、自然石を積み上げていたのに対し、石舞台式では石室の壁面や天井に用いられる石材は平らに加工されるようになり、岩屋山式になると見事な切石加工が施されるようになるのです。

 そして、当初は622年に没した太子の墓とされる叡福寺北古墳が岩屋山式であるため、岩屋山式は7世紀前半、おそらくはその第2四半世紀を中心とする様式と白石氏は考えたのです。

 ところが、その後、石室の構造や出土する土器の年代などに関する検討を進めた結果、聖徳太子より4年遅れて626年に亡くなった蘇我馬子の墓である可能性が高い石舞台式の年代、またそれに先行する天王山式の年代を見直すようになり、岩屋山式は7世紀半ば過ぎと考えざるをえない、と意見を変えたのです。

 一方、2000年代になって考古学の調査が進み、平田梅山古墳(現欽明陵)の陪塚的な位置にあるカナヅカ古墳が、岩屋山古墳の形にきわめて近い石室を持っていること、また、聖徳太子の弟であって603年に亡くなった来目皇子の埴生岡上墓とみなされる羽曳野市の塚穴古墳も岩屋山式石室であることが明らかになりました。

 このため、岩屋山式は7世紀前半で良いのではないかとする研究者が何人も出てきました。しかも、白石氏が指導した若手の中からも出てきたのです。そこで、白石氏は、かなり感情的な反発を示しました。

 しかし、石舞台式が岩屋山式より先行する型式であることは疑いないため、岸本直文氏は、これは大臣馬子が生前から建設を始めていたためであり、当時の有力者は原則として活躍していた時期から墓を準備したと論じたのです。実際、蘇我蝦夷と入鹿の親子は、生前から二つ並ぶ大きな墳墓を造営しており、乙巳の変で滅ぼされた後、その二つの墳墓は破壊されました。

 考古学は文献を考慮せず、ただ型式だけで年代判定をすべきだと主張する学者もいる一方、白石氏はそこまで極端ではないのですが、あくまでも石室の様式や出土する土器の年代判定を優先し、そのうえで文献資料も考慮すべきであって、文献の被葬記事によりかかった主張をすべきでなないとし、岸本氏の説や『日本書紀』の磯長埋葬説をそのまま信じる考古学研究者を批判します。

 ただ、白石氏は石室側面の加工の精粗がそのまま時代差を示すとは限らず、古墳造営者の経済力や意図によって違っている場合もあることに注意します。

 そして、いろいろな形をすべて岩屋山式として7世紀前半と見る説を批判し、玄室の奧壁の石の組み方を再検討します。岩屋山以前の古墳の多くは羨道前半部を二段構成としていますが、岩屋山古墳、ムネサカ1号墳などは、羨道奧半部が1段、前半部ないし先端部が2段となっており、以後の岩屋山亜式の例である橿原市小谷古墳などはすべて1段組となっているとします。

 叡福寺北古墳は、現在は宮内庁管理で詳細な調査はできないのですが、古い調査記録によると岩屋山と同じタイプらしいことは、年代を考えるうえで重要です。

 次に、出土する土器については、造営当時のものか、後の祭祀などに用いられたものかといった問題があるのですが、天王山式から出る土器は6世紀後半から7世紀初頭、石舞台式の土器の場合は7世紀前半から中葉以前、岩屋山式は土器の出土が少ないものの、甘樫丘や山田寺下層の土器から見て7世紀前半から中葉以前とします。

 これらの結果から、白石氏は、岩屋山式を7世紀前半とするなら、石舞台式は6世紀末葉以前に繰り上げなければならないと説きます。そして、石舞台式より様式が進んでいる塚穴古墳が馬子より前に亡くなった来目皇子の墓であるなら、問題が生ずると述べます。

 以上の結果から、白石氏は、叡福寺北古墳が厩戸皇子の墓であることは否定しがたいものの、当時は改葬がしばしばおこなわれていたため、現在の石室については、その造営時期、埋葬時期は不明であり、またそこから夾紵棺の破片が出土したとされるものの、夾紵棺については7世紀後半のものが多く、7世紀前半とは考えにくいとします。

 この他、いろいろと検討したうえで、白石氏は、岩屋山式はやはり7世紀中葉から第3四半世紀頃と考えられると結論づけます。むろん、馬子墓である石舞台などが生前の早い時期から造営が始まっていたら、また別の順序を考えざるをえないことになります。

 白石氏は、以上のことから、叡福寺北古墳を含む岩屋山式を7世紀前半とする諸氏の説には多くの課題が残されていると論じたうえで、「拙論にも多くの不備があることはよく承知している。忌憚なご批判を頂ければ幸いである」と結んでいます。

 以前の論文では、岩屋山式を7世紀前半説に対して、「またぞろ」そうした説が出てきたとなどと述べており、感情的な反発を示していましたが、この論文ではきわめて客観的に検討しようとしており、好感が持てますね。

 ただ、岩屋山式に関する白石氏の研究を基礎的な貢献として評価しつつ、切石を用いた岩屋山式については、6世紀末から切石が使われるようになり、来目皇子の墓で岩屋山式の前段階と呼べる程度まで進展し、叡福寺北古墳で完成したと見て良いとする研究者が最近は増えています。

 この5~6年で岩屋山式やその亜式の古墳に対する調査は大幅に進んでおり、3月にはその成果が刊行されますので、楽しみなところです。関連する論文は近いうちに紹介します。


王宮と寺を柱とした飛鳥や難波などの仏都の形成:網伸也「古代日本の王宮空間と仏教受容」

2024年02月22日 | 論文・研究書紹介

 最近目立つのは考古学の成果です。歴史学の方では、以前は政治や経済面重視で、権力闘争とか外交とか法令とか莊園経営などが中心でしたが、最近は考古学と手を組んで発展してきている分野が増えており、その一つが都城の研究です。

 しかも、アジア諸国の都城と比較検討するのが常識となってきており、日本のことだけ調べて考える時代は終わっています。その最新の成果が、1月に刊行されたこの論文集です。その冒頭に置かれ、全体の序論となっているのが、編者による次の論文です。

網伸也「古代日本の王宮空間と仏教受容-「仏都」形成の前提をさぐる-」
(網伸也編『東アジア都城と宗教空間』第一章、京都大学学術出版会、2024年)

 大判で450ページもあり、手にとるとずしっと重いです。網伸也氏については、このブログでも四天王寺関係その他で何度か取り上げてます。

 網氏は、推古朝の仏教興隆については蘇我氏の役割が強調されがちだが、飛鳥寺建立を含め、推古天皇の意志が反映されているはずであり、すべて蘇我氏主導と見ることはできないと説いて論を始めます。妥当な見解ですね。

 網氏はまず、欽明天皇に仏教受容を認められた蘇我稻目が仏像を安置する寺を設けたのは、自らの拠点であった飛鳥周辺であり、王宮とは隔離された地であったことに注意します。ここは、それまでの王権が三輪山を神聖視してそのふもとのに宮を設置した磯城や磐余などから離れているものの、阿倍山田道でつながっている土地です。

 そのような地に位置していた稻目の家を壊して建てられた捨宅寺院である向原の寺は、疫病の原因とされて焼かれますが、網氏は、敏達6年に百済から大別王が帰朝する際、百済王が経論若干巻とともに律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工の6人を添えさせたため、大別王は難波の寺に安置したとされていることに注意し、この時期には、僧たちは磐余などの王宮空間どころか、蘇我氏の拠点にも入れなかったのかもしれないと述べます。

 そして、守屋が滅ぼされた後、王宮が初めて三輪山近辺から離れ、蘇我氏の本拠地であった飛鳥に移ったことに注目します。蘇我系である炊屋姫は、即位する前の炊屋姫の宮があった飛鳥の豊浦宮で即位して推古天皇となるのであって、その近くに日本初の本格寺院である飛鳥寺が蘇我氏によって造営されたのです。

 高句麗にしても百済にしても、仏教を受容した際は王宮の近くに寺院を構えています。しかし、倭国では推古以前はそうではなかったのです。

 網氏は、飛鳥寺は蘇我氏が造営を担当したとはいえ、仏教は百済王から倭国に送られたものであり、飛鳥寺は蘇我氏の氏寺というより国家的寺院の性格が強かったと述べます。これも妥当ですね。

 ただ、後に豊浦寺に改められる豊浦宮は、ほぼ正方位で造営された飛鳥寺と違い、西に30度ほど振っており、王宮と寺が一体のものとして平行して建てられていないため、王宮と中心寺院の関係性はまだ強くないとします。

 また、飛鳥寺は百済の工人たちによって造営されますが、その一塔三金堂の配置は百済直系とは言えず、また当時は高句麗も僧侶を送り込んできているうえ、飛鳥寺の仏像建建立に際しては、高句麗王が黄金300両を送ってきているため、百済の技術に基づいて造られたものの、まったく百済そのままの受容にはしなかった可能性があると見ます。

 推古朝を大きく変えるのは、開皇20年(600)の遣隋使ですが、網氏は、飛鳥寺の伽藍造営がほぼ一段落したことを踏まえて対外交渉に乗り出したものと見ます。その遣隋使が隋の文帝に野蛮さを叱られるという事件を受け、すぐ新たな宮都計画が立てられ、小墾田宮が造られ、豊浦宮については馬子が豊浦寺に改変しますが、網氏はここでも寺である飛鳥寺に対応する尼寺であって国家的性格が強かったことを推定します。

 しかも、外交の場となった小墾田宮は、飛鳥寺と同方位で建てられていて宮と寺の関係が深まっているのです。なお、宮のすぐ側に小墾田寺が造営されたことについては、推古天皇の死が契機となり、小墾田宮付属寺院として建立された大后寺だと見る吉川真司氏の説を評価します。

 小墾田寺がどの遺跡なのかについては諸説がありますが、この付近で出土した瓦について、網氏は奥山廃寺に先行する宮付属の仏教施設の可能性もあり、推古朝末には宮内に仏堂のような建物が建てられたのであれば、孝徳朝に先だって王宮内で仏教儀礼が行われていた可能性があると見ます。

 ただ、国家の寺の性格を持っていたとはいえ、飛鳥寺はあくまでも天皇家の外戚として力を持っていた蘇我氏が造営した寺であり、この矛盾を解消しようとしたのが、舒明天皇による百済大宮に並ぶ百済大寺の造営であったとします。

 その百済大寺の瓦には、斑鳩宮横の斑鳩寺で用いられた唐草文の瓦笵がそのまま用いられており、宮と寺が平行して建てられた斑鳩のあり方を継承した形跡が見られる、と網氏は説きます。これを見ても、斑鳩は、王宮と壮大な寺が近くに営まれた飛鳥をより整った形にしようとたことが分かりますね。

 厩戸王は都から遠く離れた地に宮を設け、また推古朝の末には49もあった寺のうちの一つを建てた有力皇族にすぎないと主張した「いなかった」説は、斑鳩の意義を小さく見ようとした史実無視の矮小化キャンペーンにすぎません。

 さて、孝徳天皇が難波に遷都すると、大王家の勅願寺ではないものの、聖徳太子によって造営された四天王寺が官寺として整備されます。網氏は、百済大寺の創建瓦が、2種ともこの時期の四天王寺の伽藍整備に用いられたことに注意します。

 創建時の四天王寺の瓦は、斑鳩寺の瓦を造った瓦当笵が痛んだもので作成されましたし、難波遷都後の四天王寺整備にあたっては、初の王室寺院である百済大寺の創建瓦が用いられたのですから、飛鳥の王権が外交の拠点、内陸の水運の要であった難波をいかに重視していたかが分かりますね。

 また網氏は、難波の長柄豊崎宮において、初めて内裏で仏教儀礼が行われたことに注意し、王権と仏教の関係がより深まったことを指摘します。

 ただ、小墾田宮は、難波遷都後も大王系の重要な宮として維持されており、斉明天皇が難波から飛鳥に戻って飛鳥板葺宮で重祚したにもかかわらず、小墾田宮を瓦葺きに改装しようとしたのは、王宮と官寺を柱とする宮都をより見栄えの良いものに変えたかったためと推測します。つまり、推古朝の宮は本格寺院と連動していたのです。

 網氏は最後に、朝鮮諸国では、仏教を受容した際は王都に寺院を造営している一方、倭国では本格寺院の場所に都が移るという特異な経緯をたどったことに注意し、いずれにしても、この時期の国家の改革は王宮と寺院の密接な結びつきを柱としていたことを強調しています。そして、小墾田宮が以後も8世紀半ばに至るまで維持され、諸天皇が行幸しているのは、日本の都城の基盤となった「仏都」の記憶が残っていたためではないか、と説いてしめくくっています。

 なお、網氏は触れていませんが、平城京に遷都する際は、藤原氏は氏寺である厩坂寺を平城京の極めて良い場所に移転して興福寺とすることとし、平城京の造営と興福寺の造営を平行して進めていったことが想起されますね。


過去の共生思想運動において国家主義に利用された「憲法十七条」

2024年02月18日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 アメリカの大富豪であるニコラス・バーグルエンの財団は、美術コレクションや文化財保護その他の多彩な活動をしていますが、そのうちのバーグルエン研究所は、政治・社会面の対立が続く21世紀の状況の改善に役立つような新たな哲学を摸索しており、哲学におけるノーベル賞となるべくバーグルエン哲学・文化賞を創設し、毎年、「人間の自己理解の形成と進歩」に貢献した思想家に授賞しています。

 評論家の柄谷行人がアジア人初の受賞者に選ばれ、2023年4月に表彰されて賞金100万ドルを得たことで話題になりましたね。

 このバーグルエン研究所は、東西交流による思想の発展をめざしているため、中国の大学などに拠点を置いて大がかりなシンポジウムを開催し、論文集を刊行しています。このところ力を入れているテーマが「共生」の問題です。

 その研究活動の一環として、昨年12月に中国の北京大学で「共生」シンポジウムを開催する予定でしたが、いろいろな事情があって延期になり、この3月に日本の東京大学で開催されることになりました。

 中国では北京大学・清華大学・中山大学、韓国では延世大学、日本では東大、ドイツではハンブルグ大学、フランスはパリ大学などが拠点となっているようです。

 今回は私も発表することになったのですが、不思議なことに、私は日本側からの推薦でなく、中国の中山大学の推薦である由。中山大学は講演に行く予定であったものの、コロナ禍で延期になったままですので、妙な形になりました。

 それはともかく、「共生」をテーマとして東西諸国の研究者が発表するわけですが、暫定プログラムを見ると、儒教や道教では「共生」をどのように説いてきたかとか、西洋の自然主義をのりこえる「共生」の思想、といった内容が多いようです。

 私は「仏教における共生」とか「仏教から見た共生」について語ることを期待されているのかもしれませんが、これは一種のブームであり、それを仏教の立場で理論づけて持ち上げるというのは時代のお先棒担ぎとなる恐れがあります。

 そこで、「Understanding the Limits of the Symbiosis(共生の限界をわきまえる)」という題を提出してあり、敢えて「共生」の問題点を指摘する予定です。それなのに初日の第一セッションで最初に語ることになっており、やりにくいところです。

 「共生」は日本では浄土宗の椎尾弁匡(1876-1971)が、労使の対立、大都市と貧しい農村の格差、女権拡張などの問題が目立つようになった1920年代ころ提唱したもので、死後に浄土に共に往生する「共生(ぐうしょう)」ではなく、この世での様々な立場の人や自然との「ともいき」をめざすべきだと説いていました。

 社会対立が激しかった時代に時代に、融和と共存を説いた点は意義があります。ただ、椎尾は真面目で善意に満ちた人物であったものの、その「ともいき」は日本の素晴らしい国体に支えられて可能となると考えていたため、日本のナショナリズムが強まるにつれて、完全な国体讃美の国家主義となっていきました。

 当然ながら、「和」を説く「憲法十七条」が重視されます。ただ、第二条の「篤敬三宝」の「三宝」は、仏宝・法宝・僧宝であって、仏宝は仏、法宝は仏の教え、つまり経典、僧宝は僧伽(サンガ=僧団)ですが、椎尾は、「憲法十七条」が篤く敬えととしている「三宝」とは、具体的な仏像や経典や僧団などではなく、真の「三宝」、根源的な真理としての一体三宝だと主張します。

 そのうえ、椎尾は法然が打ち立てた浄土宗の僧侶としては、西方浄土におられる報身としての阿弥陀如来に帰依すべきところでありながら、仏とは宇宙に遍満して働きかける真理、生命としての如来だとし(大乗仏教の法身の思想と生命主義を合わせた感じですね)、和合した修行者の団体である僧宝とは共存する国民にほかならない、としてこれらの一体、実現を説くのです。

 日本では、どの時代にあっても聖徳太子の「憲法十七条」が利用されるのですが、椎尾の共生運動においても、このことは同様でした。椎尾は、「憲法十七条」がそうした一体三宝を説いていると主張したのです。

 聖徳太子の『勝鬘経義疏』(こちら)は確かに一体三宝を説いていますが、「憲法十七条」は合議で重要な政策を決定する群臣たちやその下の役職担当者クラス、しかも仏教を良く知らない者たちに対する現実的な訓戒であるため、大乗仏教の難解な教理である一体三宝など説くはずはありません。

 共生はむろん重要なことですが、現実には難しい問題です。大事なことは、まず史実と現実をはっきり認識することでしょう。仏教が既に「共生」を説いていたと主張する人は、異なる宗教の共存を含めた「共生」をめざしておりながら、実際には、仏教は「共生」を説かない他の宗教よりすぐれている(=他の宗教は劣った存在だ)」と主張していることになりかねません。

 セイロン(スリランカ)で仏教を復興してイギリス統治から独立しようとして運動したアナガーリカ・ダルマパーラ(1864-1933)は、カースト制を基本とするヒンドゥー教を批判し、仏教はカースト制を認めない平等な宗教であり、セイロンの本来の民族である我々シンハラ族は、その平等な仏教を説いた釈尊と同じ高貴な一族なのだと主張しました。

 根本的には、多数派であった仏教徒主体のシンハラ族と南インドから移住してきたヒンドゥー教徒主体のタミル族を対立させ、分割統治しようとしたイギリスが悪いのですが、ダルマパーラの運動は、シンハラ族とタミル族の対立を激化させ、激烈な武力衝突をまきおこす一因となってしまいました。

 カースト制による身分差別をしない平等な仏教を奉じる「高貴な一族」という主張は、相手を「卑しい民族」とみなすことであり、自己矛盾です。出家して僧団に入れば、カースト、身分の高下、年齢などはいっさい無視され、僧団に入った順序にもとづいて席次順が決まるインド仏教が、現代の「共生」の思想と一部共通する性格を持っていることは事実ですが、それはあくまでも僧団内部でのことです。

 仏教に基づき、「和」を重視する「憲法十七条」は既に「共生」を説いていた、などと理屈づけて共生を持ち上げる人は、時代が変わって別なものが流行すると、簡単にそちらを礼賛して仏教や「共生」を理屈づけることでしょう。「憲法十七条」の「和」は、争いがちであった有力な氏族やその下で働く役職担当者に対して命じられたものであり、国民全体の目標とせよと説いたわけではありませんし。

 「憲法十七条」から現代に生かせる教訓を引き出すのは良いですが、それぞれの時代に必要とされることが「憲法十七条」に既に書かれているとするのは、強引な読み込みです。

 昭和12年(1937)に椎尾が名古屋でおこなった講演「鑚仰聖徳太子」(名古屋仏教青年連盟出版部)は「序説」に続くのが「国体について」と題する章になっており、「国体の尊厳と宗教」「国体明徴の意味」「承詔必謹」「太子精神の再認識」などの節が並んでおり、「太子精神」とは「国体明徴」だと断言されていました。

 これは当時の政府のプロバガンダそのままですし、そうした戦前のあり方を良しとする現代の国体論者が説いている「憲法十七条」論と同じ発想ですね(こちら)。天の神の詔勅を受けた天孫によって肇国され、万世一系であって世界に誇るべき「国体」という概念が固まったのは、近世末期から明治時代にかけてのことです。

 「憲法十七条」は「天皇」という言葉を用いておらず、「神」には一度も触れません。太子の時代は有力氏族が合議で次の天皇を決めていた時代、それも直系相続がまだ確立されていなかった時代であって、仏教によって国造りをしていこうとしていた時代です。

 国民のことを思う善意によるとはいえ、椎尾は近世・近代のナショナリズムが生んだ国体論を古代の「憲法十七条」中に読み込んだのです。となれば、こうした人は戦後になって時代思潮が変われば、民主主義こそが「共生」だと説くようになることは推測がつくでしょう。まさにこれは、聖徳太子観の変遷過程そのものです。

 現在、総務省は「多文化共生プラン」を推進しています。これはこれで重要な試みですが、「憲法十七条」がその運動の中で利用されるとしたら、我々は警戒した方が良いでしょう。

【追記:2024年3月3日】
プログラムが公開されましたが(こちら)、東大の学内者限定で事前申し込みが必要である由。なお、バーグルエン氏も登場して冒頭で短いスピーチをされるとか。


蘇我氏が飛鳥や難波で用いていた飾りの石が語る状況:長谷川恵理子「飛鳥時代の大型方墳」

2024年02月14日 | 論文・研究書紹介

 このブログでは、寺院の瓦に関する論文の紹介が多いのですが、寺院で用いられるものであって、歴史的変遷が分かるものの一つは石です。飛鳥では、飛鳥寺や山田寺で化粧石として用いられている榛原(はいばら)石が、7世紀前半から有力者の古墳で急激に化粧石として使われだし、寺院でも用いられたにもかかわらず、7世紀後半になると急に使われなくなっています。

 この点を検討したのが、

長谷川恵理子「飛鳥時代の大型方墳-蘇我本宗家と原石-」
(『日本書紀研究』第32冊、2017年)

です。この論文は、奈良大学文学部文化財歴史学科の卒論の一部を加筆修正したものである由。立派ですね。

 榛原石は、衝撃を加えると板状または柱状に割き取りやすく、節理に沿って5~10センチ厚の板が簡単に得られる由。そのうえ比較的柔らかくて加工しやすいため、近年まで、縁石や門柱の化粧石として利用されてきたそうです。

 崇峻元年(588)に造営が始まった飛鳥寺では、東金堂と西金堂の基壇の縁石や回廊縁石に榛原石を用いています。皇極2年(643)に蘇我倉山田石川麻呂によって建立された山田寺では、寸法が揃っていてかなり規格化された形で基壇の犬走りに用いられており、総数は712枚ほどと推定されています。

 そのほか、蘇我氏系といわれる田中廃寺、和田廃寺などでも出土していますが、使用状況は不明です。蘇我蝦夷・入鹿の邸宅と言われる甘樫丘東麓遺跡からも榛原石が出ています。

 さらに興味深いのは、上町台地の難波宮下層遺跡から、仏教用語である「宿世」と書かれた木簡や素弁蓮華文瓦に加え、榛原石の板石が出土していることです。

 これは、難波宮下層や四天王寺から出る瓦が、飛鳥寺や斑鳩寺の瓦を作る際に用いた瓦当笵がかなり痛んだものによって作成されていたこと(こちら)と同じ状況ですね。これによって、蘇我氏や蘇我氏に支援されていた蘇我氏系の上宮王家が、難波をいかに重視していたかが分かります。

 ただ、これは例外であり、榛原石が大量に使われているのはむろん飛鳥であって、古墳を飾るためです。舒明天皇陵とされる段ノ塚古墳の墳丘は、榛原石を階段状に積み重ねており、確認されたものだけで50段近いため、上円部をすべて板石で化粧した場合、17000枚もの榛原石が必要となるそうです。

 舒明天皇が忍坂に改葬された理由の一つは、榛原石の産地に近かったためだろうと長谷川氏は推測しています。

 長谷川氏は、舒明天皇の没後に即位したばかりの女帝の皇極天皇には、そうした壮大な天皇陵を造営する力はなかったろうから、蘇我本宗家の意向が強く働いたものと見ます。舒明天皇は、馬子の娘を妃の一人としていましたしね(こちら)。

 近年は古墳の調査が従来以上に進んでいますが、その一つである奈良市帯解小金塚古墳は、東西約120メートル、南北最大約65メートルの巨大な方墳で、玄室も大型であって榛原石を全面に積んでありました。

 物部氏の石上神宮に近いため、物部大臣と呼ばれて威勢を振るった人物の可能性があり、平林章仁氏は、物部氏が滅ぼされた後は、蘇我馬子の妻となった物部守屋の妹が祭祀を担ったものの、以後は入鹿の弟が「物部大臣」と称されて祭祀を担当したと推定しています。

 次に、推古・用明・聖徳太子などの陵墓が造営された磯長谷の南に位置する平石谷には、シシヨツカ古墳、アカハゲ古墳、ツカマリ古墳などが並んでいて平石古墳群と称されていますが、近年になって、これらは大型方墳であって榛原石を用いていることが発見されました。

 この古墳群での石槨底面の榛原石の利用の仕方について、長谷川氏は「寺院の敷石に似て」いることに注意し、墳丘が版築で築かれていることも、寺院の工法と一致するとします。

 しかも、上の三古墳は、葛城山の石英閃緑岩も用いており、この石材も馬子が造営した飛鳥寺の礎石での使用が最初である由。時代としては7世紀初頭と推定されていますので、まさに蘇我氏本宗家が強大であった時期ですね。

 被葬者について諸説がある小山田古墳については、長谷川氏は、榛原石の板石積みが段ノ塚古墳と似ているため、舒明天皇の初葬の地と推定します。場所も蘇我本宗家の本拠地ですので、当然、蘇我本宗家が関わっていたことになります。

 このように盛んに使われていた榛原石は、7世紀後半になると急に使われなくなります。一方、二上山の凝灰岩は石室の素材として一貫して使われ続けており、また7世紀後半の斉明天皇の時代だけ、榛原石と入れ替わるように天理砂岩が使われます。酒船石遺跡で用いられていた石ですね。

 榛原石は、切り出し、運搬、加工が容易であったのに、なぜ使われなくなるのか。長谷川氏は、蘇我本宗家が盛んに用い、関係深い人物の古墳の表面に貼りめぐらすなどしており、そのイメージが強すぎたことが一因と見ます。いや、面白いですね。こうした考古学の成果と文献をつきあわせていくことが大事でしょう。


推古朝の道路整備は難波などの外港と連結、斑鳩の厩戸王が外交面で中心:中村太一「倭王権の道路整備」

2024年02月10日 | 論文・研究書紹介

 前回の記事では、飛鳥の都に向かって正方位で南北に走る三本の道、つまり、下ツ道、中ツ道、上ツ道のうち、最も重要な下ツ道の起点となる五条野丸山古墳に関する考古学の論文を紹介しました。ここで問題となるのは、その下ツ道の工事年代です。

 道路整備は、いつの時代においても政権の重要な政策の一つでした。その道路の建設時期やコースについては、文献を主とする歴史地理学と、発掘調査に基づく考古学では意見が分かれることがあります。また、発掘結果の解釈をめぐっても意見は分かれます。

 このブログでは、以前、外国使節がどの道を使うかという問題に聖徳太子と蘇我馬子の対立を見る近江俊秀氏の論文(こちら)や、積山洋氏の論文(こちら)を紹介しました。 

 その近江氏と下ツ道の建設時期をめぐって意見が異なっている最近の論文が、

中村太一『日本仮題の都城と交通』「第九章 倭王権の道路整備-初期計画道路形成史の再検討-」
(八木書店、2020年)

です。

 近江氏は、大阪平野と奈良盆地に作られた正方位の計画道路の建設時期を6世紀末から7世紀初めに求め、その建設は宮都周辺の大規模土地開発と一体であったとします。これに対して中村氏は、正方位の道路建設が土地開発の一環だったことは同意するものの、道路網の建設時期とその建設理由については意見を異にしています。

 中村氏はまず、奈良市御所市の鳴神遺跡に着目します。この遺跡では、3メートル前後の幅であって堅牢に作られたバラス敷きの道路が130メートルほども検出されました。この道路は、倭王権が本拠を置いた奈良盆地東南部から、阿部山田道・厩坂道・葛下斜向道路を経て紀伊に向かうルート上にあたっています。

 中村氏は、この遺跡の道路跡も含めた6世紀ないしその前の記事から、次のように整理します。

 (1)道路網の中心は、5~6世紀に倭王宮が置かれた磯城・泊瀬・我に囲まれた地にあり、その中心に海石榴市衢が位置する。
 (2)その中心から四方に向かう道路の終点は、泉津・難波津・住吉津・紀水門など、倭王権の外港と見られる地が多い。

 倭王権の道路整備はこの時期に進んだと思われますが、次の段階は飛鳥を中心として放射状に延びる直線道路の建設であって、6世紀末から7世紀初頭にかけて開始されたものです。その代表は飛鳥と斑鳩を斜め一直線に結ぶ太子道です。

 この時期の奈良盆地の斜向方位直線道路は、ほとんど飛鳥を起点としているため、飛鳥に都が置かれた時期、つまり推古朝に建設されたことが分かります。特に太子道については、太子の斑鳩宮がターミナルなので、推古9年(601)に始まり、推古13年(605)に太子が移った斑鳩宮の建設と一体になっていたことが知られるとします。

 しかも、この時期は外交上重要な画期です。『日本書紀』には見えなくても、開皇20年(推古8年、600)に使いが隋に派遣されており、この使いは隋で計画的な道路や都城の街路を見ているはずと中村氏は説きます。

 だからこそ、推古16年(608)に裴世清がやって来た際、倭王は「道を清め館を飾り、以て大使を待つ」と述べたように、外国使節を迎えるために道路を建設したのであって、太子道の建設はそのためであり、「厩戸王が外交面で中心的な役割を果たしたゆえと考えられる」と述べます。

 「厩戸王」という呼び方は気にいりませんが、中村氏がこれに続けて指摘している点は興味深いところです。それは、推古朝には飛鳥を起点とした斜方向道路網が整備されたものの、実態としては相変わらず海石榴市が中心だった、という点です。

 さて、斜方向直線道路の後は、大阪平野にも残っています。その代表は、飛鳥から西に向かう大坂道から分岐し、斜めに難波津・住吉津・(和泉)大津へと向かっている道です。

 推古20年に難波から都まで「大道を置く」と記されているのは、それまで斑鳩宮の側を経過する龍田道ルートから、新たに整備された大坂道に比重が移ったものと中村氏は見ます。これは、中村氏は書いていませんが、斑鳩に宮を構えた聖徳太子が外交面で主導的でなくなったということでしょうか。

 上の「大道」の記事は、横大路の建設だと解釈されてきましたが、中村氏は、横大路は飛鳥の北方を横切る道であるため、横大路およびそれと直交する下ツ道、中ツ道、上ツ道の建設、つまり、正方位の道路計画はより後代のものと見ます。この時期の認定が、近江氏との違いです。

 以下、中村氏は推古朝以後の道路計画について検討していきますが、ここまでにしておきます。


下ツ道の起点となる巨大古墳は欽明天皇陵か蘇我稻目墓か:白石太一郎「五条野丸山古墳の被葬者をめぐって」

2024年02月05日 | 論文・研究書紹介

 前にとりあげた大山講演では、下ツ道の起点となる巨大古墳は蘇我稻目の墓だとして、飛鳥の主人公は蘇我氏だとする論調でした。当時は見瀬丸山古墳と呼ばれ、最近では五条野丸山古墳と呼ばれるこの巨大古墳は、かつては欽明天皇陵だとされていましたが、蘇我稻目の墓説が有力となり、現在ではまた欽明陵だとする説が主流となってきています。

 そうした状況を良く示すのが、

白石太一郎『古墳の被葬者をめぐって』「第四章 五条野丸山古墳の被葬者をめぐって」
(中央公論新社、2018年)

です。白石太一郎氏は、影響力が大きい考古学者です。

 その五条野丸山古墳は、墳丘の長さが318メートルであって、景行天皇陵とされる天理市渋谷向山古墳の310メートルを少し上回っており、奈良県最大の前方後円墳です。近世の記録などから、全長28メートルの日本列島最大の横穴式石窟内に2基の石棺があるため、明治初期期には天武・持統を合葬した檜隈大内陵とされていました。

 ところが、鎌倉時代の文書が発見され、明日香村野口の野口王墓古墳が天武・持統陵であることが確定したため、宮内庁は五条野丸山古墳を「畝傍山陵墓参考地」として管理するようになりました。

 これについて、森浩一氏が1965年に欽明天皇陵だと主張して定説になったものの、1973年に和田萃氏が、欽明陵は石で覆ってあるどの『日本書紀』の記述から見て、その条件に合うのは明日香村の平田梅山古墳であり、五条野丸山古墳は宣化天皇陵だろうとする説を出しました。

 この説もかなり広まったのですが、1990年代になって宮内庁の調査が行われ、その成果が発表されると、ここが推古20年に蘇我氏の堅塩媛を合葬した神明陵だとする説が再び盛んになりました。

 ところが、このブログでも紹介した小澤毅氏が、2002年の論文で、和田氏の最初の指摘のように欽明陵は平田梅山古墳がふさわしく、五条野丸山はやはり稻目の墓と論じたため、これが有力となり、和田氏も賛成した由。

 ここでさらに逆転が起きたのは、2004年・2005年に高橋照彦氏が文献に見える陵名について詳細に検討し、地名から見て欽明天皇陵は五条丸山古墳しかありえないと論じたためです。この考察は評価されたものの、高橋氏は平多梅山古墳は敏達天皇の陵、ないしその未完成の陵だと説いたため、問題が複雑となって紛糾が続いています。

 白石氏は、五条野丸山古墳は、葺き石の石材がまったく発見されておらず、石室の大きさが日本最大であって、巨大な石材を用いていることに注意します。そして、考古学の成果と文献を付き合わせ、高橋氏の欽明陵説を評価したうえで、敏達陵は『日本書紀』『古事記』などが磯長にあるしていることを無視できないとして、その部分は否定します。

 そして、いろいろ問題点をあげ、五条野丸山古墳が欽明陵であることは疑いないが、砂礫が見当たらないことは決定的とし、「現在伝えられている欽明陵に関する伝承に何かの混乱があり」誤って伝わっているとしか考えられないとし、それ以上の判断を断念します。

 そして、いずれにしても、重要なのは、仁徳陵とされてきた大仙陵古墳に次ぐ巨大な墓域を持つ古墳が、蘇我本宗家の本拠地に営まれていることだとします。ただ、この時期の蘇我氏は、「あくまでも大王の外戚として、大王の権威を高め、その権威を利用することによって、その政治的地位を高めようとしていたことが明確にうかがえるのではなかろうか」と述べます。

 蘇我氏に対するこの位置づけは、私がかなり前から論じてきたのと同じ方向ですね。白石氏は、平田梅山古墳を蘇我稻目の墓と考えるべきだとし、葺石というより貼石という呼ぶ方が適切な装飾がなされていのは、馬子の墓と推定される石舞台の貼石とつながる可能性があるとします。

 そして、資料に混乱があるとするのは中途半端な説であることを認めたうえで、だからといって追求を諦めるのではなく、さらに検討してゆきたいと述べて論文をしめくくっています。

 白石氏の説でこのブログと最も関係深いのは、磯長の聖徳太子墓は岩屋山式の構造であり、このタイプは7世紀半ばすぎだとする説です。これによれば、磯長の墓は太子の墓だとしても現在のものは後の修造ということになりますが、これについては反論も出ており、また白石氏の再反論も出ていますので、そのうち紹介します。


「皇室 vs. 横暴な蘇我氏」という近代成立の図式を覆す蘇我氏系皇子論:荒木敏夫「古人大兄皇子論」

2024年02月01日 | 論文・研究書紹介

 聖徳太子は蘇我氏を代表とする有力氏族の横暴を押さえるために「憲法十七条」を制定した、といった説明が現在でも良く見られますが、こうした図式は近代になって生まれたものです。

 つまり、江戸時代の儒者や国学者たちが、聖徳太子は崇峻天皇を暗殺した逆臣である蘇我馬子をとがめず、ともに政治をおこなった、いや太子こそが元凶だ、などと非難したため、天皇の権威を強調するようになった明治以後、太子を弁護しようとする者たちは、「いや、太子は馬子などの横暴を押さえ、皇室の権威を確立しようとしたのだ」と主張したのです。

 実際は、太子は父方・母方ともに蘇我氏の血を引く最初の天皇候補者であったうえ、馬子の娘を妃とし、その間に生まれた山背大兄を後継ぎにしていたのであって、大叔父かつ義父である馬子によって太子道の建設や斑鳩寺の建立などの支援がなされていました。

 太子擁護派は、皇室をないがしろにする氏族の横暴を押さえようとした太子の意図を継いだのが、蘇我氏を滅亡させ、天皇中心の大化改新を推し進めた中大兄(天智天皇)と中臣(藤原)鎌足だ、と論じたのですが、実状はそうではなかったことを示したのが、

荒木敏夫「古人大兄皇子論」
(『国立民俗歴史博物館研究報告』第179集、2013年11月)

です。

 古代の皇太子の研究で知られる荒木氏は、早くから上述のような図式に疑いを持っており(このことは、別記事で紹介します)、この「古人大兄皇子論」では、蘇我氏は乙巳の変で亡びたわけではなく、本宗家も蝦夷・入鹿以外は大化の改新以後も重要な位置にいたことを示し、『日本書紀』における中大兄の意義づけを疑います。

 『日本書紀』では、舒明天皇と宝皇女(皇極天皇)の間に葛城皇子(中大兄)、間人皇后、大海[人]皇子(天武天皇)が生まれているため、こちらが主流のように見えますが、当初は舒明天皇と馬子の娘である法堤郎女の間に生まれた第一皇子である古人皇子の方が有力な天皇候補であったと、荒木氏は説きます。

 実際、『日本書紀』では、蘇我入鹿は舒明天皇の後には古人大兄を即位させようとして山背大兄を殺害したとされており、舒明の皇后であった宝皇女が即位して皇極天皇となったものの、乙巳の変の後で、クーデターの立役者である中大兄に譲位の意図を語ったところ、中大兄からその話を聞いた鎌足が「古人大兄は殿下の兄であり、軽皇子は殿下の舅です」と進言し、即位すべきでないと説いたとされます。

 それを知った皇極天皇が弟の軽皇子に譲位しようとすると、軽皇子は「古人大兄は前の天皇の子であって、私より年長なので、古人大兄が即位すべきだ」と断ったものの、古人大兄は即位を断わり、急いで出家して吉野に入ります。しかし、結局は謀反を疑われて殺された結果、軽皇子が即位したとなっています。

 このように、第一候補であった古人大兄が即位を断ったのは、生母の一族である蘇我本宗家が亡んでしまったためでしょうが、蘇我氏全体が滅亡したわけではありません。

 荒木氏は、古人が「大兄」と呼ばれており、蘇我頬手郎女が生んだ子たちの最上位にあったこと、また、入鹿が暗殺された際、古人皇子が「私宮」に閉じこもったことから見て、皇子宮を有する有力皇子であったことに注意します。この点は、大兄と呼ばれ、斑鳩宮を継承していた山背大兄と同じですね。

 皇子宮にはお仕えする舎人がおり、皇子とのつながりが強く、古人大兄の場合は、蘇我田口臣川堀が、古人大兄が謀反を試みたとされた際、その共謀者の筆頭とされており、倭漢文直麻呂もその一味とされているのがそのためのようです。

 古人大兄は謀反を起こしたとして斬られ、その「妃妾」は自死したとされます。ここで補足しておくと、こうした場合の自死とは自殺を強いるのであって、実際は殺すのと同じですし、殺しておきながら史書では「自ら首をくくって死んだ」などと記することも多いですね。

 ただ、荒木氏は、古人大兄の娘である倭姫王は葛城皇子の妃となっており、葛城皇子が天智天皇となった以後も健在であるばかりか、天智紀10年(671)10月庚申条によれば、大海人皇子が、病床に臥せる天智天皇に代わって大后の倭姫王大友王による執政を要請していることに注目します。

 つまり、この時点ですら、天智天皇の妃とはいえ、馬子の娘の孫娘が天皇として即位する可能性があったのです。また、荒木氏は書いていませんが、大化改新後も本宗家ではない蘇我氏の者たちが大臣となって活動しています。

 当時は、大王家内部の対立と強大な蘇我氏内部の対立が複雑にからんで様々な事件がおきたのであって、「皇室 vs. 横暴で邪悪な蘇我氏」などという状況ではなかった証拠ですね。