最近のマイブームは、なんといっても「ヴィパッサナー瞑想」だ。まあ、読者のコメントに影響されやすいのが、本ブログの特徴と言ってしまえばそれまでだが・・・(笑)。
そんなことより、ヴィパッサナー瞑想こそ、古代インドで釈迦と仏弟子たちが実践していた瞑想だ。これで、意識を覚醒できる。覚醒への鍵を握っているのは、昔も今もこれだ。地球のアセンションとは、この地球上で、大勢の人間が意識を覚醒することだ。意識の覚醒さえできれば、他のことなど、なんとかなると言ってよい。瞑想が、その鍵を握っている。
ヴィパッサナー瞑想は、主にスリランカやビルマなどの南方系の仏教で伝えられてきた、初期仏教に最も近い瞑想法。いい悪いは別にして、文化が異なる中国や日本では、インド伝来の仏教もちょっと違うものに変質してしまっていた。それは仕方がない。でも、仏典の研究が進み、情報革命が進行した今は、むしろ日本でこそ、釈迦の時代の仏教の内容が知れ渡りつつある。
人生は、苦に満ちている。誰が見てもそうなのだが、仏教的な観点に立てば、特にそうだ。ヴィパッサナー瞑想は、苦を消滅させるための方法として、古来から重視されてきた。
確かに、「人生は苦だ」と言うだけでは、単に事実を指摘しているだけであって、苦を消滅させるまでには至らない(笑)。やっぱり、苦を消滅させる方法を学ばなくては、この学びが完結することはないだろう。
いきなり瞑想に取り組むのも、もちろん有効だろう。でも、釈迦の教えをジックリと学んだ後で取り組めば、味わいがまったく違ってくるように思う。精神世界には、「知識は要らない」といって知的な理解を軽視する人も少なくないのだが、それは正しい姿勢と言えない。少なくとも釈迦は、教えの内容を知的に理解して記憶することを、非常に重視していた。あくまでも、その上での瞑想の実践だと言える。この2つは車の両輪であり、どちらが欠けても良くない。
知識や理解は、精神世界を探求する上でジャマになるものではない。むしろ、それを大いに助けるものだ。探求者にとってジャマなのは、「知識」ではなく、「思考」なのだ・・・。
もっとも、「教えの内容」については、すでに本ブログでもさんざん書いてきた。これからは瞑想の実践が重要だ。
まずは、カルチャーセンターで瞑想指導をしているという地橋秀雄氏の「実践 ブッダの瞑想法」のテキストを読み、DVDを見た。瞑想は、実践する行だ。できれば、実地で指導を受けるのが良いのは分かっているのだが、昔と違って今は、このようなDVDで間接指導を受けられるので便利。前書きによると、「DVDのほうが学びやすい」という、受講者の声もあるらしい(笑)。
釈迦の瞑想には、「サマタ瞑想」と「ヴィパッサナー瞑想」がある。サマタ瞑想というのは、思考を止めて、徹底的に精神を集中する瞑想だ。地橋氏は、「サマタ瞑想は難しく、多忙な現代人にはそぐわない」として、ヴィパッサナー瞑想に特化することを勧めている。予備知識ゼロで最初に読んだときは、「そういうものなのか」と思ったのだが、他にもいくつか異なる著者による解説に接した今となっては、この点に関して、いろいろと思うところがある。まあ、それはさておき・・・。
ヴィパッサナー瞑想においても、もちろん、精神集中することは重要だ。でも、そこに主眼があるわけではない。「集中」を主目的としているのは、サマタ瞑想なのだ。これに対して、ヴィパッサナー瞑想の主眼は、「観察」にある。もっとも、どちらにしても、「思考を止める」ということには変わりない。
早い話が、「思考」を止めて、「観察」を徹底的に強化するのが、ヴィパッサナー瞑想だと言える。
ヴィパッサナー瞑想は、大きく分けて「歩く瞑想」、「立つ瞑想」、「座る瞑想」から成り立っている。
(続く)
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