数千年の歴史を持つマヤ文明は、多くの素晴らしい都市を建設した。しかし、熱帯の地であるだけに、都市民が移住して衰退するたびに、都市遺跡が密林に埋没して消えていった。そんな都市遺跡の中で有名なのは、コパン、パレンケ、チチェン・イツアーなど。
気になるのは、「数千年前に、中米の地で最初に文明を築いたのは誰だったか?」ということ。これについては、「オルメカ人」と呼ばれる、古代の先住民族だったと考えられている。
オルメカ人は、今から3千年以上もの昔に、どこからかやってきてメキシコ湾岸に住み着いた、海の民だ。何もなかった中米に、突如として文化の花を咲かせた。ユカタン半島を中心とするマヤ地方とはエリアが微妙に異なるので、「マヤ文明」とは言われないのだが、その先駆者なのは確か。
↑ オルメカ文明の地域 (隣に突き出ているのがユカタン半島)
熱帯の海岸の低湿地だけに、ゾッとするほど高温多湿な「緑の地獄」と呼ばれるジャングルの中。ウカツに入ろうものなら、無数の蚊やヒルに喰いつかれて、あっという間に血まみれだ。こんなところに、よく、人が住めたものだ・・・。
面白いことに、ゼカリア・シッチンは、この古代民族オルメカ人を、「アフリカ大陸から大西洋を渡って来た、西アフリカの黒人だった」と断言している。アフリカ大陸の黒人たちは、地続きのエジプトやメソポタミアから、シュメール文明に始まる高度な文化を受け継ぎ、大西洋を越えてメキシコ湾岸に渡来したというのだ。著書の中で、これは一度や二度ではなく、何度も強調されている。
面白い説なのは確かだが、そこまで自信たっぷりに断言する根拠が、「オルメカ人が残した古代の石像の顔は、どう見ても黒人にしか見えない」というのだから、まさしくシッチン節が全開だ(笑)。ご丁寧にも、オルメカ人の石像の顔の横に、「ナイジェリアのリーダー、バナキダ将軍の顔」の写真を添え、「このように、オルメカ人の顔は、現代の西アフリカ人の顔とあまりにも似ている」という注釈が付いていた。「ナイジェリアのバナキダ将軍」も、思わぬところで「証拠写真」に使われ、さぞ度肝を抜かれたことだろう・・・。(もっとも、オルメカ人の石像がアフリカの黒人に似ているということ自体は、シッチンひとりの思い付きではなく、昔からそう言われている)。
↑オルメカ文明の巨大人頭像 (高さ3m!!)
不思議なのは、それだけではない。というのも、オルメカ時代に描かれた絵には、長いアゴひげを伸ばした偉そうな人物もよく登場する。そして、この長いアゴひげの人物に、「黒人」がかしずいているような絵柄も、数多く残されているのだ。この、長いアゴひげの人物の顔は、「黒人」とは明らかに異なる。中南米の先住民・インディオにも似ていない。そもそも、中南米のインディオは、遺伝的にはわれわれ東アジア人と近縁の人種であり、こんなに見事な長いアゴひげが生える人など、滅多にいない。どちらかと言えば、それこそシュメールの粘土板や、ペルシア帝国の石碑にでも出てきそうな、あちらの人の風貌なのだ。不思議といえば、確かに不思議なのである。
↑こちらは、「白人に見える」という評判の「アンクル・サム」
シッチンは、オルメカ人が残した記念石柱にも注目する。なんと、そこにはシュメール文明の粘土板でおなじみの、「翼のある神様」が描かれていたのだ。さらに、マヤの神話と、シュメール神話やエジプト神話との「共通点」を、これでもかとばかりに列挙しては力説する。これは偶然なのか。それとも、シュメール人とオルメカ人は、同じ神々を崇拝していたのか。その答は、神様とゼカリア・シッチンだけが知っている・・・(笑)。
それはともかく、中米の地に最初の文明を築いたオルメカ人の時代は、やがて終焉した。彼らが放棄した都市は、徐々に熱帯の木々に覆われ、緑深い密林の枝葉の茂みに埋もれていった。
その後、「マヤ文明」が全盛期を迎える。マヤの文化が頂点に達したのは、紀元8世紀から9世紀頃とされる。日本で言えば奈良時代あたりの前後に、地球の裏側ではマヤ文明が空前の繁栄を遂げていた。しかし、その後、マヤ文明はなぜか衰退してしまう。最後に滅んだアステカ人たちの時代は、本来のマヤ文明が衰退してから、すでにだいぶ経っていたのである。
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