宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

カラーパの発見

2013年03月13日 | ヴィパッサナー瞑想
 
ヴィパッサナー瞑想によって、集中力と注意力を徹底的に強化する(・・・厳密に言えば、集中力を強化するのはヴィパッサナー瞑想というより、サマタ瞑想なのだが)。

「それによって、何が得られるの?」という疑問を持たれる向きもあるだろう。

ここで言えるのは、少なくとも、「注意欠陥・多動性障害」(ADHD)には確実に効果があるということだ。特に「ラベリング」などは、「ADHDの治療をするための訓練法なんじゃないか?」と思えるほど。

逆に言えば、根気がなく、常に思考が四方八方に飛びまくる注意欠陥が、いかに意識覚醒のさまたげになるかということだろう。覚醒するためにも、まずは注意力強化の訓練が必要だ・・・。

でも、もちろん、この瞑想にはそれ以上の意味がある。

「真理」とは、本来、他人から教えられるものではない。観察力を研ぎ澄ますことによって、自分で見抜くものなのである。

とは言っても、最初から最後まで自力で行こうとするのは、あまりに極端な飛躍というもの。まずは、お釈迦さまの教えをせっせと学んで記憶するという、学習のプロセスが不可欠だ。瞑想と学習は車の両輪で、どちらが欠けても良くない。

それはともかく、極限まで研ぎ澄まされた観察力によって、人間(・・・特に自分自身)を観察する。そこに、真理がおのずから姿を現してくる。その先には、いわゆる「観自在力」が待っている・・・。

そうは言っても、もちろん、観察力にはレベルの違いがある。究極の真理を見抜くためには、究極の観察力が必要になるけど、そこまで行かなくても、中くらいの観察力をもってすれば、中くらいの真理なら見抜くことができる(笑)。

ウィリアム・ハート著「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門」から、この辺りのことを引用してみる。


>物質は一瞬一瞬、たえず変化しています。このことをブッダは自分のからだを観察して悟りました。するどく精神を集中させて自分の本質を見すえ、すべての物質が極小の微粒子からできていて、その微粒子がたえまなく生まれては消える、という事実を発見したのです。指をパチンと鳴らした瞬間、目をまばたいた瞬間、一個の微粒子が何兆回も生まれては消えている、とブッダは言います。

>感覚は四六時中からだに生じている。心であれ、からだであれ、なにかが接触すれば感覚が生まれる。からだのなかで起こる生化学反応はすべて感覚を引き起こす。日常生活では意識の焦点がぼんやりしていて、全部の感覚を気づくことはできない。強い感覚しか気づかない。しかし、アーナーパーナ・サティ(註・・・呼吸に意識を集中すること)の修行をして心をとぎすまし、気づきの力を鋭敏にすれば、自分の内なるすべての感覚をあざやかに意識できるようになるだろう。

>根気よく瞑想を続けていると、やがてある基本的な事実に気づく。感覚がたえず変化する、ということである。一瞬一瞬、からだじゅうになんらかの感覚が生じ、変化する。すべての感覚が変化のあかしなのである。電磁気的、生化学的な反応など、からだのあらゆる部分で、一瞬一瞬、変化が起こっている。さらに、それ以上のスピードで心のプロセスが変化し、それがからだの変化となってあらわれる。

>これが心と物の究極の現実である。精神と物質はたえず変化している。無常、アニッチャである。一瞬一瞬、からだを構成している微粒子が生まれては消える。


長~い文章を、飛び飛びに抜粋して引用したけど、要するに、お釈迦さまの悟りの内容として有名な「諸行無常」・「諸法無我」・「苦集滅道」・・・その他は、誰か高次元の存在が現れて、啓示してくれたというわけではない。ヴィパッサナー瞑想により、釈迦自身の観察力を強化した結果、おのずから見えてきたのである。

上記のような、からだを構成している微粒子のことを、「カラーパ」と呼ぶ。

・・・というと、「釈迦はギリシャのデモクリトスみたいな原子論者だったのか」と思えるけど、カラーパは、原子よりもっと小さい。

カラーパは、一瞬一瞬、とてつもないスピードで生まれては消える。それがこの世界のすべてを形成しているのだから、世界全体が明滅しており、不連続だということになる。当然、人間も連続しておらず、コマ送りのような存在。

仏教思想やインド哲学に慣れ親しんできた人にとって、これらはオナジミの考え方ばかりだ。

でも、ここで言われているのは、釈迦がそれを発見したプロセス。それが、ヴィパッサナー瞑想。

それを追体験しましょうよ・・・というわけなんだけど、瞑想にすべての時間とエネルギーを集中するというのは、現代人にはまず無理なこと。ここは、できる範囲で取り組むしかないだろう・・・。