宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

サティ

2013年03月10日 | ヴィパッサナー瞑想
  
日本では、座禅の伝統が長い。かくいう筆者も、小学生の頃から禅寺で座禅を組み、お経を暗誦していた。このため、日本人にとって「瞑想」と言えば、「座ってジッとしていること」というイメージを持っている人が多い。
  
でも、インド式の瞑想では、立ったり、歩いたりする瞑想も重要だ。
 
筆者がDVD教材で集中学習した「グリーンヒル瞑想研究所」のサイトによると、
 
>ヴィパッサナー瞑想は、まず体の動きに気づくことから始めます。心の現象よりも体の動きの方が簡単に気づけるからです。

>目的は、妄想を離れることです。妄想は止めようと思っても止められません。何を見ても聞いても必ず連想や妄想が浮かんでしまうので、一瞬々々の体の動作に注意を釘づけにしてしまうのです。

>体が動く。センセーション(身体的実感)が生じる。それを感じる。気づきを入れる。この「気づき」を修行用語として「サティ:Sati」と言います。現在の瞬間を捉える心です。ヴィパッサナー瞑想のキーワードなので、覚えましょう。

>このSati(気づき)を徹底的に連続させていくのが、妄想に巻き込まれない技術なのです。体が動いている実感は過去や未来のことではなく、今のことです。一瞬々々感じた体感に気づいていけば、妄想しないですむのです。体の動作を中心に随観していくので『身随観』とも言います。
 

連続してサティを入れること。ヴィパッサナー瞑想には、やり方がいろいろあるけど、これについては共通している。

サティは、日本語で言えば、「気づき」ということになる。もっとも、昔は、漢字で「念」と訳されていた。八正道の七番目・「正念」(しょうねん)というのが、それに当たる。

サティの訳語として「念」があまり使われなくなったのは、この漢字が、しばしば誤解を招くからだろう。たとえば、前にも書いたけど、ある教祖は「正念」を、「念とは、思いのパワーです。正念とは、正しい思いのパワーを集中することなのです」という風に説明していた。要するに、「正しく念力をかけること」というワケだ。でも、残念ながら、そういう意味ではない。

カン違いや忘れ物をしても気づかないことを、サラリーマン用語で「うっかり、失念しておりました」と言うけど、ここでの「念」は、どちらかと言えばそういう意味に近い。「念力」の念ではありませんので、念のため。
 
またまた脱線したけど、早い話が、「サティ」というのは、「気づき」ということ。それでは、「サティを入れる」とは、どういうことなのか。


>まず普通に道を歩く速度で脚全体の動きを感じながら、「右」「左」「右」「左」と言葉を付けて確認しましょう。今経験している出来事を一瞬々々気づいて確認するのがヴィパッサナー瞑想です。

>気づきがあればSatiがあるのですが、気づきを内語で言語化して認識確定をする仕事を≪ラベリング≫と言います。ラベルをペタペタ貼っていく要領で、現在の瞬間の出来事を≪言葉確認≫していくのです。

>右足の動きを感じたならば「右」とラベリングします。今この瞬間に自分に起きた出来事は、歩行していること、右足が動いたこと、その感覚を感じたこと、でした。それが現在の瞬間に知覚し、経験した事柄だったのです。
 
>これは妄想ではなく、現実の出来事でした。だから「右」、とラベルを貼るように、言葉を貼って確認するのです。もちろん黙って心のなかの内語でやります。…「左」「右」「左」「右」…と、足の動きを感じるたびごとにラベルを貼っていけば、これでヴィパッサナー瞑想が始まっています。
 
 
この「ラベリング」は、流派によっては、やらないところもある。でも、少なくとも初心者にとっては、ありがたい手法だろう。慣れないうちは、意識がどこかに飛んでいきやすく、なかなか続けられるものではない。筆者の場合は、動物が好きなので、すぐに、道端を歩いている猫とか、電線にとまった小鳥とかが気になりだして、歩行瞑想どころではなくなってしまう。

この瞑想の良いところは、なんといっても、「現在」に意識を集中し続けられることだろう。サティを入れるのに忙しくて、過去や未来のことなど考えているヒマがない。

「いま、ここ」に生きる(ビー・ヒア・ナウ)というのが、単なるスローガンではなく、現実の行動となるのは、このためだ。

これによって、一切の「苦」が滅尽される。話が急に飛躍するようだけど、お釈迦さまによれば、そういうことになる。ありがたや。合掌・・・・・。