宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

観察の瞑想

2013年03月06日 | ヴィパッサナー瞑想

お釈迦さまが言ってた「八正道」の最後の2つ、「正念・正定」(しょうねん・しょうじょう)とは、要するに、「ヴィパッサナー瞑想すること」を意味する。

もっとも、「ヴィパッサナー」というのは、「あるがままに見る」というのが元の意味で、すでに観察の瞑想を極めた人の境地を指している。現代において「ヴィパッサナー瞑想」と呼ばれているものは、本当は、「ヴィパッサナーに到達することを目指すための瞑想」とでも呼んだ方が当たってるかもしれない。

日本ヴィパッサナー協会のサイトに出ている、ゴエンカ氏の講演(・・・一部を抜粋して引用します)を見ると、よく分かる。
 

>苦しみから脱するためには、 それを生み出している原因を知らねばなりません。苦悩の原因は何なのでしょうか。問題の答えを探るにつれ、やがてはっきりとしてきます-心に否定的な感情、反意を生むとき、苦しみが生まれるのです。反意、つまり心の汚れは、安らぎや調和と共存することはできません。

>他の国々と同様にインドでも、賢者や聖人たちがこの問題に取り組んできました。人間の苦悩ということにです。そして、ひとつ答えを見つけました。何かいやなことが起こり、怒りや恐れや反発が生れると、すみやかに何か他のことに心をそらすのです。例えば、立ち上がってコップに水を入れて飲みます。気が紛れて、怒りはそれ以上大きくならないでしょう。あるいは、 一、二、三、四・・・と 数を数えます。 何かの言葉や呪文、信仰する神や聖者の名を唱えます。注意がそらされて、反発や怒りからある程度離れることができるでしょう。

>こうした方法は、なかなか役に立ちます。心がイライラしなくなるような気がしてきます。けれども、実は、それは心のほんのうわべでのことに過ぎません。本当は、注意をそらすことによって、反発心を潜在意識の底へと押しやったにすぎないのです。表面的には調和のとれた安らかさを保ちつづけるでしょう。しかし、心の奥底では押し込められた反発心が休火山のごとく、くすぶり続けます。それはやがていつかは大爆発を起こすでしょう。


「苦しみには原因がある」、「原因を滅することによって、苦しみを滅することができる」・・・これまた、仏教の代表的な教理として有名な、「四諦」(したい)の中の2つだ。

ここで言う「苦しみの原因」というのは、「無明」(むみょう)。無明とは、何も分からない、知らない、一寸先は闇の真っ暗な状態。どうして、そういうことになるのか。それは、お釈迦さまの教えを学ばないから。

ヴィパッサナー瞑想することは、確かに大事なんだけど、それだけでは片手落ちになる。やっぱり、仏教の教理を学んで理解し、しっかりと記憶にとどめるという、勉強のプロセスが欠かせない。

ちなみに、八正道の最後の2つ「正念・正定」の前には、「正精進」(しょうしょうじん)というのがある。これは、「正しく、一心不乱に修行に打ち込むこと」というような意味に取るのが自然だけど、専門家の解説によると、もともと、「お釈迦さまの教えを学んで、記憶する。忘れても、忘れても、何度でも学び直す」ということに主眼があったのだという。

瞑想と教義理解は、車の両輪みたいなもの。両方とも欠かせない。どちらか一方だけでは、お釈迦さまの教えを体得するのはムリ。
 
それはともかく、苦しみを滅するために、世間の一般人がやっていることといったら、いろんな娯楽とか、仕事とか、日常生活に埋没するとか・・・によって、気を紛らわすことだ。

彼らは、しばしば、「精神世界マニアは、ファンタジーの世界に遊ぶことによって現実逃避している」と言って笑うけど、彼らだって、テレビを見たり、酒を飲んで談笑したり、モーレツに仕事に打ち込んだりすることによって、現実逃避していることに変わりはない。
 
日ごろのストレスから気分転換するのは結構なのだが、問題は、「生老病死」(しょうろうびょうし)に代表される、人生の暗い現実から目を背けていることだろう。こうしている間にも、死は、刻一刻と近づいている。まるで、砂時計をサラサラと落ちてゆく砂粒みたいな、われわれの生命。とりあえず、それを忘れたい。「20世紀最大の哲学者」こと、ハイデッガーの言葉を借りれば、「人はいつか死ぬ。だが、当分の間、自分の番ではない」と思っているだけ。
 
それに比べれば、精神世界マニアは、少なくとも「生老病死」という現実から目を背けていない分だけ、大幅にマシだと言える。というより、世間の一般人と違って、現実が見えすぎるおかげで、普通の娯楽なんかじゃ気を紛らわそうにも限界があるから、精神世界を探求せざるを得ないのである(笑)。

精神世界の探求。それは、苦しみを根元から断ち切る道なのだ・・・。
 
苦しみを根元から断ち切るために必要なもの。それは、ヴィパッサナー瞑想。ゴエンカ氏いわく、

 
>より深く内面を探求した人々は、自分自身の心と体の真実を体験することによって、気をそらすことは問題から逃げることにすぎないと悟りました。逃避は解決にはならない、 問題と向き合わなければなければならない、と悟ったのです。心に否定的な感情が起こる時、それをじっと見つめ、向き合ってみるのです。観察を始めるやいなや、心の濁りは力を失い、消えていきます。

>これは良い解決法に聞こえますが、実践できるでしょうか。自分自身の心の汚濁と向き合うことは、簡単なことではありません。怒りが生まれたとき、その感情は一瞬のうちに私たちを圧倒します。そして感情に押し流されるままに行動し、あるいは言葉にして、他の人や自分を傷つけてしまいます。そうしておいて、怒りが過ぎ去ってから嘆き後悔し、神や仏に許しを乞うのです。「ああ、私の過ちをお許しください。」 ところが、次にまた同じような状況になると、また同じことの繰り返しです。後悔を何度繰り返しても、何も良くはなりません。


もはや、現実から逃避することによって、気を紛らわすのはムリ。古代インドで王子様として、なに不自由ない暮らしをしていたお釈迦さまでさえ、人々が死んだり、病気や貧困で苦しんでいる姿を見て、人生のあまりの暗さに、ウツウツとふさぎこんでしまった。仕方がないので、ゼイタクな暮らしを捨てて、インドの山奥でヴィパッサナー瞑想することにした・・・。

でも、「自分自身の心の汚濁と向き合う」と言ったって、怒りや恐怖といったネガティブな感情が生まれたとき、それを冷静かつ客観的に観察するのは至難のワザだろう。そもそも、感情というのは、冷静かつ客観的になれないから感情なのである。「私が悪うございました~!」とかなんとか、反省してみたところで仕方がない。

そこで開発されたのが、ヴィパッサナー瞑想だ。


>けれども、完全なる悟りに至った人が、素晴らしい方法を見つけました。心に汚濁が生じると、体に二つの変化が同時に現れることを発見したのです。そのひとつは、呼吸が乱れることです。心に否定的な感情が生じると、呼吸は強くなります。これはわかりやすい真実です。より微妙なレベルでは、体で生化学的反応が起こり、何らかの感覚が生まれます。心の汚濁は、体のどこかに何らかの感覚を生み出すのです。

>これは、実践的な解決法です。普通の人間には、抽象的な恐怖や怒り、情欲といった心の汚れを観察することはできません。しかし、訓練を重ねれば、心の汚れと直接結びついている呼吸や感覚を観察することは難しいことではありません。

>呼吸と感覚は、次のふたつの方法で私たちを助けてくれます。ひとつ目は、私たちの専属秘書になってくれることです。心に否定的な感情がわきあがるやいなや、呼吸は正常さを失います。そして、こう叫び始めるのです。「気をつけてください!問題が起こっていますよ。」私たちは呼吸を責めるわけにはいかないため、忠告を受け入れるしかありません。同じように、体の感覚も問題が起こっていることを教えてくれます。こうした忠告を受けることで、私たちは呼吸と感覚を観察し始めます。観察をはじめると、 心の汚濁が消えていくのにそれほど時間はかかりません。


これは、まさしく、「コロンブスの卵」。

心の中で「怒り」や「恐怖」が起きたとき、人体にはアドレナリンが分泌され、呼吸が乱れたり、心臓の動悸や血流が乱れたりする。体温が上がったり、胃酸過多になって胃袋が締め付けられるような感じになったりする。そこを観察するというところに、この瞑想の意義がある。

これなら、自分という人間を、解剖学者が人体の標本を見るような調子で観察できる。自分自身の感情や反応を、冷静かつ客観的に観察できるのは、そのためだ。
 
(つづく)