「中央区を、子育て日本一の区へ」こども元気クリニック・病児保育室  小児科医 小坂和輝のblog

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菅生(すごう)事件の真相  昭和27年(1952年) 大分県の小さな村にて

2010-05-23 23:00:00 | 国政レベルでなすべきこと
 昭和27年(1952年)6月2日未明、久住(くじゅう)高原の一角、標高530mにある大分県直入(なおいり)郡菅生村(現在、町村合併で、竹田市菅生)、当時、村の戸数320余り、1600人余りが暮らし、八軒に一軒は電気が通っていない、その小さな村の駐在所が何者かにより、爆破された。(爆破によって、事務室右側の紙襖2枚と木製椅子の座板部分が傷ついた。)

 張り込んでいた警察官に、現行犯逮捕されたのは、共産党の「山村工作隊」の活動を行っていた後藤秀生(25歳)と坂本久夫(23歳)らであった。しかし、彼らと同時刻に行動をともにしていた「市木春秋」は、突然、姿を消してしまった。不自然だが、この事件は、毎日新聞(大分支局)のみが詳細にスクープを行うこととなった。スクープの中で、駐在所大戸巡査の妻の証言は、「私は爆弾を投げ込まれるのを知っていた」と述べていた。

 時代背景として、昭和25年(1950年)6月25日朝鮮戦争が勃発するとともに、GHQの政策も、敗戦直後の日本の民主化から一転して、反共の防波堤とすることに移り、GHQ最高司令官マッカーサーによって、「レッドパージ」の名のもとで、共産党員とそのシンパが、公職から追放され、その総数は、1万人を超えた。1951年10月共産党第五回全国協議会(五全協)で「山村工作隊」「中核自衛隊」による抵抗の方針が取り入れられ、各地の交番や警察署の襲撃、警察官へのテロなどが全国的に行われるようになっていった。(昭和30年(1955年)六全協では、武装闘争路線を放棄。)テロ・襲撃を口実に、当時の吉田内閣は、破壊活動防止法(破防法)を昭和27年(1952年)7月成立させた。(ちなみに、治安維持法は、昭和20年(1945年)10月廃止。)社会で起きていた同時代の事件としては、昭和24年(1949年)、国鉄をめぐる謎の三大事件といわれた下山、三鷹、松川事件、昭和27年(1952年)、血のメーデーなどがある。

 昭和30年(1955年)7月2日、一審の大分地方裁判所で24回の公判が行われた末、後藤には懲役10年、坂本には懲役8年が言い渡された。後藤は叫んだ。「俺たちはやっていない。犯人は、市木春秋だ。だれか市木を探してくれ」いわれのない罪を国家権力の陰謀により着せられたものの悲痛な叫びであった。

 昭和31年(1956年)始まった控訴審では、市木の存在が焦点化され、新聞記者の努力で、「市木春秋」は、実は、警察官・「戸高公徳」(事件当時、国警大分県本部警備課巡査部長。事件後、警視長までなる。)であることが突き止められる。戸高は、法廷で証言することになるが、のらりくらりと証言をかわしていった。窓から投げ込まれたとされていた爆発物は、いすの上に置かれていたのではないかと現場の検証から弁護士は思い至る。それを確証付けたのは科学的鑑定であった。戸高のアリバイも、いくつかの証言で崩され、科学的な鑑定で内部仕掛け説が立証された末に、果たして昭和33年(1958年)6月9日福岡高等裁判所では、原判決を破棄し、逮捕されてから6年の歳月がながれた被告人に無罪判決を言い渡したのであった。(昭和35年(1960年)、検察側の上告が、最高裁判決で棄却され、無罪が確定。)

 菅生事件は、警察側が、特定組織を陥れるために、囮の捜査員を潜入させたばかりか、駐在所爆破を警察の手でやってのけ、無実の人に、罪を着せた事件であった。

 権力により仕掛けられたわなに真実の光をあてることを可能にしたのは、①情報集めに奔走したジャーナリストの存在(1958年に日本ジャーナリスト会議の第一回「日本ジャーナリスト会議賞」を菅生事件を取材し続けた11名が受賞)、②弁護料の支払いもままならない依頼者からの依頼にも関わらず、国家権力を相手に現行犯逮捕を覆すという難題に取り組む清源(きよもと)弁護士、正木弁護士、諫山弁護士ら権力に立ち向かう不屈の弁護士の存在、③九州大学、九州工業大学、東京工業大学と断られつづけた鑑定実験を引き受け見事に証明しきった東京大学工学部の科学者たちの存在、そして、④彼らを支援し続けた支援者の力によるものであった。ついに、警察―検察―裁判所という司法権力が圧倒的に強い中で、警察の自作自演の事件に、完全勝利の結果を得たのである。

 築地市場の移転問題でも、ジャーナリストと弁護士と科学者の手助け及び、築地の食の安心・安全とブランドを守らねばならないという市場関係者と消費者の存在で、9分9厘豊洲移転といわれてきたものを、東京都という巨大権力に対峙して、ここまで、持ち直すことができたのであり、様々な社会問題にも共通にあてはまるものと実感する。

 さて、菅生事件は、国警大分県本部警備部長の小林末喜がシナリオを書き、警部桑原唯七がメガホンを握り、囮操作官戸高公徳が主役を演じた“陰謀ドラマ”であったのである。ただ、では、誰が実行犯であったのか、と謎は残る。

 国家権力は、怖い。国家権力の一員の匙加減ひとつで無辜(むこ)の青年を罪に陥れることができるのである。菅生事件を私たちは、時代背景は考慮しつつも、胸にとどめておかねばならない。

 このようなことは、今は、おこらないといえるのであろうか。今でも、松本サリン事件や足利事件のように冤罪事件は起き、あの9.11でさえ、米国の権力側が起こしたという悪い噂さえ存在しているのである。小泉内閣でいわゆる「組織犯罪処罰法」=「共謀罪」の新設が取りざたされたことがかつてあった。現在、中井国務大臣・国家公安委員長のもと、「取調べ全面可視化」の条件に、「囮捜査」「司法取引」の導入を図ろうという主張があるという。

 日本の裁判は、裁判員制度を取り入れた。ただ、裁判員が冤罪事件で、罪のなかったものに裁きを与えてしまうケースもでてくるかもしれないことの一方で、この国に、人を守るべきものとしての司法が、真実を見出し、国民により開かれたものになることを期待する。

 新しい時代は来ている。日本弁護士連合会の会長に、多重債務問題、悪徳商法被害対策・救済問題、貧困問題等等に取り組まれてきた人権派の宇都宮健児氏が就任された。政権交代のこの時期に、「取調べの全面可視化」の実現など司法改革に大いに期待したい。司法改革に向けて、私たちは、声を上げていかねばならない。
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1 コメント

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Unknown (斎藤毅)
2023-12-07 13:11:36
戸高公徳は最後は警視長になった事が、書かれていました。犯行時に巡査部長という事はノンキャリと言う事でしょうが、ノンキャリ警察官の最高階級は警視正であったと思います。最近TVにお出になられていらっしゃる元警視庁捜査一課長(警視庁は捜査一課長だけは課長でも代々ノンキャリ)の田宮さんは、最後は多分警視庁のどこかの部の部長で退職されたと思いますので、そうしますと警視長だったのだと思いますが、戸高公徳の場合はどうだったのでしょうか?よく警察官を退職する時に一階級上げてくれる場合がありその階級が最終階級になる事がありますが、それに該当するのでしょうか?
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