波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思いつくままに   「見たいものは見える」

2013-04-16 09:03:03 | Weblog
男と女は身体の構造から思考力に差があると思う。男は総じて想像力がたくましく、それにつれて考え方に幅が出来る気がするが、女性はあくまでも基本的には現実に即した考え方に立っている気がする。(女性でなければ分からないところもあるが、)
例えていえば男は「武士は食わねど高楊枝」の世界があるが、女の世界では「食わねば
高楊枝は使わない」ということであろうか。
しかし、人間として考える場合、その思いは別である。先日長く続いていた地元の老人会が解散となり、お別れ会があった。メンバーが80歳を超えて何時お迎えが来るかわからないままでは、継続に責任を負える人がいなくなったわけで、区切りをつけて終わったのだ。ある老婦人に一人息子がいたが、家庭を持って家を出てからは一度も母を訪ねて、家に帰ることがなかった。娘がその母を介護をかねて診ていたが、その母がある時、(それは死の間際であったが)娘に「息子が見舞いに来てくれたよ」と嬉しそうに語ったのである。来るはずのない事を娘は分かっていながら「そう、良かったわね」と
母に優しく答えたそうである。
ここで人は「見たいと強く思い、願っていることは見える」と言うことが分かる。
母は息子がどう思っていたかは関係なく、ずっと息子が会いに来てくれることを願っていた。
頭がやや、錯乱状態になっていたとはいえ、息子に会えたことは良かったと思わざるを得ない。
先日の新聞には地震学者の発表で断層の事実誤認があったという記事が出ていたが、これも思い込みによる錯覚の一つかもしれない。
この世の生活は全く思うように理想的に運ぶものではない。むしろ逆に考えて思っているようにならないもの、願っているようにはならないのが世の中だと考えていることが大切だと言う人もいる。
だからこそ、それを願うことが強くなることもあることは仕方のないことだと思う。
「見たいものが見える」「願っていることが叶う。」と思うようなことが、その結果として起きたとしても良いではないかと思う。
それは私たちには分からないとしても、その錯覚の現実は「神からの贈り物」として
素直に受け取れば良いのだから。