波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

     思いつくままに  「能舞台」

2013-04-09 09:20:05 | Weblog
亡くなった母は元気で若かった時は人一倍多趣味なところがあった。茶道、いけばな
お琴。川柳と年齢と共にその幅は広がり、釣堀の釣り、パチンコと果てしない。その中に高齢になって習い始めた謡曲があった。父の取引先の知人が師匠で父はしなかったが、母はすぐ夢中になった。母が一人で習っている分には別に影響がないのだが、困ったことにその都度アシストのように私がその孫弟子のように習わされることであった。
好むと好まぬをよそに強制的に行動させられるのであった。
お陰で裏千家のお茶の作法や謡曲の何曲かを今でもうろ覚えに記憶が残っている。
謡曲を習っている時に能楽を知り、自分も仕舞いを舞ってみたいと思って師匠に聞いたことがあるのだが、残念ながら師匠は仕舞いは出来ないとあって断念した。
今になってこれらのことを思い起こすと日本の「古典芸能」と言われるものは「形」から入ると言うことが分かる。従って修行の基本はひたすら師の動きを真似て動くことだった。謡曲の場合も当然ながら師匠の謡いかたを真似ることである。つまり「口伝」である。意味などわからなくてもよいと言うか、教えることはない。ひたすら謡い、それを真似るだけである。理屈ではなく身体に徹底的に覚えこませることが伝統芸能の修行だと言える。その時思ったことは「形よりも心の持ち方」のほうが大切ではないかという疑問がわいた。つまり心が決まれば形も整ってくると考えるほうが正しいのではと言うことだったが、しかし、ある本に「形を整えれば自然に心も整う。所作を美しくすれば心も美しくなる」所作を疎かにしたのでは人の修行などできる筈はないというのが
禅の考え方だとあり、納得するところとなった。
肉体は嘘をつかないが、心はしばしば揺れるものであり、自己欲に負けることがある。
しかし、修練された肉体による習慣が出来ていれば基盤となって、そこに心が入ってくれば強固になると言うことらしい。
毎日の平凡な生活も手を抜かず、掃除、整理整頓を始め、自立した規律をしっかり守って過ごすことが健全な心が生まれ養われていくのかなと改めて自分の生活を見直して
見た次第である。
暖かくなって庭を見ると、いつの間にかチューリップ、モクレン、ムスカリ、ナデシコ
等がにぎやかに咲きそろっている。こうして冬を耐えた後の喜びを受けられることを
とてもうれしく思う。