波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

個室   第6回

2016-05-05 09:40:53 | Weblog
所長に木村は内田が帰った後、しばらく考え込んでいた。人は必要であることは事実だった。それは突然自分のやり方で仕事をすると言い出して、お客さんとのお付き合いも出来ないと宣言した営業マンのことがあったからだった。このままでも何とかやれないことはないが、三人では今の仕事が増えつつあるときであり、また親会社のつなぎの仕事もある。このままでは自分が全部責任を持つことになり、身体もきつくなるだろうし、家庭も今以上に犠牲にしなければならなくなる。木村は妻の幸子のことがチラッと頭に浮かんだ。どんなに遅く帰っても休みに何処にも連れて行かなくても不平一つ言うでもなく黙って子供たちの世話をし、食事の支度をして私を送り出してくれる。これ以上に生活を犠牲にしても良いか、少しは家のことをする時間をもてるようにしなければと思いつつも何も出来ない自分を見ていた。
本社は相変わらず、「君に任せるよ。必要なら採用しなさい」と言うだけだった。同業者の現役の営業マンだけに知っている人間も多く、多少の障害が予測されないこともなかったが、木村は内田に「採用」を告げた。一夫は予想していたとおり、静かな男だった。
余計なことはしゃべらず、几帳面に仕事を片付ける。二時間もかかる通勤にもかかわらず、そんな顔は一つも見せず、時間通りに出社してくる。
木村は恵まれていた。そして何年かが過ぎていた。
一夫が誰も知らない顔を見せたのは、ある年の正月だった。仕事始めと会って全員が客先のあいさつ回りをすることになっていた。木村も本社への挨拶を済ませると一夫と一緒に都内の客先を回ることにしていた。其の中に華僑の会社があり、そこへ立ち寄ったときのことである。
型どおりの挨拶が終わって帰ろうとすると「お祝いの酒が用意してあるので、飲んでいってくれ」と言われた。木村は丁重に断ったが、、先方は一夫に「あなたが代わりに飲め」と強要している。日本人にはない強引さがあり、「俺の酒が飲めないのか」と言わんばかりの言いがかりである。嫌いではない一夫は「それでは」と静かに其の紙コップを取り上げて飲んだ。
それは40度を越す強いものであることが、後で分かった。

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