仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

古代史ゼミ・フィールドワーク:玉川上水跡を遡る

2012-04-08 16:23:25 | 生きる犬韜
さて、順番に「予告」を遂行してゆくことにしよう。まずは下の記事から。

2月17日(金)は、古代史ゼミ恒例のフィールドワークを敢行した。参加者は、2年生1名、3年生7名、4年生1名、大学院生3名。今年のテーマは、玉川上水跡の遡上。全行程を走破するのはさすがに厳しいので、上水の終着点である四ッ谷大木戸跡(現新宿三丁目交差点付近)を確認してから電車で明大前へ移動、あとは井の頭公園までひたすら歩き倒そうという計画を立てた。詳細は3年生が協力して準備してくれたが、ゼミ長のN君は、前日に同じ行程を予行演習して歩いたという。まったく、責任感の強いにもほどがある。

集合・出発は上智大学に10:00。ぼくは、9:00過ぎに出勤して学生センターで回覧の書類を処理し、それから学生たちの輪に加わった。まずは、大学から新宿三丁目まで新宿通りを西上。空はきれいに晴れ上がっていたが、風が強く冷たい。夜には雪や雨の可能性ありとの予報が出ていたものの、まあ歩いているうちに降られる心配はなさそうだった。学生たちも身体を丸めつつ、しかし元気よく歩を進めてゆく。新宿三丁目にはかつて水番所が置かれ、上水の水質保持を担い、木樋や石樋を使って江戸城下へ通水していた。現在でも都の水道局新宿営業所が存在し、その一角に上水事業に関する顕彰碑「水道碑記」が建てられている。高さ4.6メートルにも及ぶ立派なものだが、「建碑発起人の遺業を亡妻が受け継いだ」との記述が少し鼻につく。銘文の年紀は明治18年、実際の建碑は同28年。その間の10年間に、いったい何があったのか。
周辺の地形を確かめ、N君の玉川上水全般に関する報告を聞いて、今度は新宿御苑沿いを移動。四ッ谷駅から数100メートルの御苑沿い(すなわち内藤家の屋敷跡)には、玉川上水がせせらぎのような形で復原されている。むろん、かつては舟運があったという滔々とした流れではないが、しばし往事の水の流れを想像した。交換留学生のクレアさんに、「新宿は現在は都心だし、流行の発信地としての面も持っているけど、江戸の感覚でいうと悪所なんだよ」などとよからぬことを吹き込みつつ、京王線によるショートカットを挟んで明大前へ。駅前で昼食を摂り、しばしの休憩。

昼食後は、ただひたすらに上水跡を遡上した。杉並・世田谷区内は、同跡が公園化されており、痕跡を辿りやすくなっている。途中、学生たちの休暇中の出来事に耳を傾けたり、卒論に関する相談などを受けながら、思索を巡らせてゆくのはなかなかに楽しかった。また、上水沿いには、明暦の大火などで紀尾井付近から移転してきた寺社も散見され、紀尾井から出発したのに未だ紀尾井の文化圏、という不思議な情況を呈した。写真の獅子も、そんな神社のひとつ第六天神社にあったもの。名称からすれば恐らく神仏習合の神社で、第六天の魔王を祀っていたものだろうが、神仏分離政策によって、祭神を神代六代にすげ替えたようだ。大正天皇即位の大典記念に造られたという獅子は、まず台座のレリーフに惹きつけられる。向かって左の方は、鞍馬の天狗(鬼一法眼?)が義経に『六韜』を授ける場面、右の方は、熊と山姥と金太郎である。どういうチョイスなのかは分からないが、きな臭くなってゆく列島周辺の情勢を受けて、「健全な小国民」が求められた結果かも知れない。熊の造型など、それなりに味わい深い。子供の獅子がじゃれつく形態も珍しい気がするが、やはり「子宝」に絡んでくる表象だろうか。
さて、杉並も久我山辺りからは公園が途絶え、上水を復活させた流れをみることができる。もちろん、水量は往時の水底くらいしかないが、それなりに雰囲気は味わえるものだ。連続して現れる趣深い橋には独自の構造や名称がみられ、橋詰には橋供養碑、庚申塔なども散見される。かつての屋敷墓の名残か、あるいは惣墓の痕跡か、寛政頃の墓がひっそり佇む光景もみられた。本当に、歴史を学ぶ材料には事欠かない。一方で、都が上水跡を放射5号道路の建設に利用しようとし、それに対する反対運動が展開している現実もみることができた。川を道路に変えるのは都の得意技だが、未だに高度経済成長期と同じものの見方しかできないらしい。

日が暮れかけ、学生たちにも疲れがみえてきた頃、ようやく井の頭公園に到着した。弁財天や稲荷神社を回って、最終的には吉祥寺駅前のルノアールで勉強会。あまりに冷え込んできたので暖かいところへ避難した形だが、下調べをしてきた学生たちの報告を聞き、船が行き来していた江戸期の姿、「人喰い川」と呼ばれ多くの水死者を出したダークサイドなど、おかげで上水の多様な性格をたくさん知ることができた。学生たちに感謝である。とくに、井の頭池の宗教的環境が、不忍池をモデルに構築されたらしいことが分かったのは収穫だった。四ツ谷から武蔵野を遡ってきたのに、辿り着いたところは上野だったのか、と不思議な感覚を覚えた。また、不忍池が琵琶湖をモデルに造られたことを考えると、井の頭池は琵琶湖のミニチュアでもあることになる。池の底が、不忍池や琵琶湖に通じている、といった伝承もあるかも知れない。いや、周辺から縄文期の遺跡が発掘されていることからすると、井の頭池自体の歴史も案外に深い。その深淵へ潜ってみるのも悪くない…池や川、すなわち水は、人を惹きつけてやまないものだが、イマジネーションを刺激する力も強いようだ。この体験を、少しは学生たちも共有してもらえただろうか。

勉強会を終えたあとは、居酒屋へ押し寄せて慰労会。みんななぜか異常にテンションが高く、23:00過ぎまで飲み続けたのであった。お疲れさまでした。
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1 Comments

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素敵なフィールドワークでしたね (nagaosa)
2012-04-08 17:15:55
江戸時代の水の流れ、給水については非常に興味深いテーマですよね。100万都市の水源、飛鳥・奈良・平安の時代についても興味があります。
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