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仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

シンクロニシティ

2017-05-23 01:28:52 | 書物の文韜
写真は、昨日の講義終了後、上智の購買で手に入れた本たち。シンクロニシティについては、まあ科学的に考えるよりも妄想したほうが面白いので、「ほんとにあるんだな!」と思っておくことにする。というのは、昨日の講義「歴史学の歴史:メタヒストリーによる俯瞰と展望」で年代記の発生過程を論じる際、起居注の起源ともいうべき甲骨卜辞を久しぶりに扱ったのだが(まあ史料はこれまでの自分の研究から抽出してきたもので、自分自身の勉強にはなっていないのだけれど)、その数十分後に購買で椿実の新刊を見つけることになったのだ。椿実は、中井英夫や吉行淳之介の盟友たる幻想文学の書き手であり、日本神話の研究者でもある。とくに、東大の修士論文が東大本『新撰亀相記』の研究であることからも分かるように、卜占に対して造詣が深く、氏文の現場から原古事記の存在を追求したひとでもある。2002年に心筋梗塞で亡くなったが、この本は1982年に刊行された『椿実全作品』の「拾遺」という位置づけで、今年の2月に限定1000部で出版されていたようだ(すべてナンバー入りで、手に入れた本は603番)。2月に出ていたのならもう少し早く目に触れてもよさそうなものだが、卜占の講義をしたあとに出逢うというのは、やはり何かの縁か。
椿については、世紀が変わる前後、卜占の研究を集中的にやっていたときに、故増尾伸一郎さんから教えてもらった。増尾さんはほんとに文学青年で、研究に関することはもちろんだけれど、それ以外の文学全般、思想、マンガなどに関する知識が並外れていた。確か、エリアーデの『ホーニヒベルガー博士の秘密』の話をしていたときだったか、「折口もそうだけどさ、日本にもね、神話研究しながら、その関係の小説書いていた人がいるんだよ」と教えてくれたのだ。いま考えると、ちょうど椿実が亡くなった頃だったのかもしれない。ぼくの卜占研究は、殷代以前から少数民族、日本のそれにまで及ぶ通史的なもので、その実践を通じて生まれる歴史叙述に注目した厖大な内容だったが、寄稿予定だった論集が出なくなってしまい、宙に浮いた形となった。その後、老舗の出版社が選書として引き受けてくれたのだが、ぼくの怠惰、渡り鳥的性格(研究対象を変えて回る)が災いして未だに脱稿できていない。「ちゃんと書け!」といわれているのだろうか。先週も小峯さんと増尾さんの話をしたばかりだったので、ちょっと背筋が伸びた。

川田順造の『レヴィ=ストロース論集成』も、そうした意味では感慨深い書物。なんと、ぼくの肉食忌避慣行を決定づけた論考、「狂牛病の教訓:人類が抱える肉食という病理」が採録されている。いままで『中央公論』のコピーを大事に持っていたが、これで、書物の形でいつでも読み返せる。ほかにも、「論」というより、実際に彼に師事した川田さんの、愛しさと尊敬に溢れた「想い出」が詰まっていて涼やかだ。月曜は、自分の来し方を振り返る巡り合わせになっているのだろうか? 死亡フラグでないといいけれど。
「キーワードで読む中国古典」の最新刊は、『治乱のヒストリア:華夷・正統・勢』。渡邉義浩「華夷について」、林文孝「正統について」、伊東貴之「勢について」という3つの主要論考は、それぞれ50ページ余りに及ぶ決定版。ワクワクする。

いい買い物をしたので、自分の研究もがんばらないとな。
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『ふしぎの国のバード』を読む

2015-06-03 19:58:30 | 書物の文韜
連載開始時に西村慎太郎さんのポストで知った、佐々大河『ふしぎの国のバード』。イザベラ・バードの『日本奥地紀行』をコミカライズした作品である。単行本の刊行を待ち受け、すぐに購入して読んだ。絵はうまいとはいえないし、整理もされていないのだが(逆に志村貴子『淡島百景』くらいになると整理されすぎ)、新人の漫画家らしいエネルギッシュな筆致で引き込まれた。バードは感受性豊かな優しい女性として描かれるが、すでにアメリカ・カナダ・ハワイ・オーストラリア・ロッキーを旅していた、「探検」経験者としてはちょっと頼りない(もちろん、だからこそ読者が感情移入できるのだと思うが)。通訳・ガイドの伊藤鶴吉は、予想どおり、ツンデレSな最近流行の執事系キャラとなっている。
まず読んでみたいと思ったのは、バードと伊藤の出会いのシーンだ。マンガでは、バードは伊藤の英語力に感心し、紹介状を持っていないことを不安に感じつつ、実際に横浜を案内させてみて彼の実力を確かめ、お互いにその人間性に触れるという展開になっている。昨年亡くなった増尾伸一郎さんに薦められて読んだ中島京子『イトウの恋』では、伊藤はバードに好印象を持ちながらも、これまでの経験のなかで出来上がった西洋人=征服者の認識から、相手の人となりを注意深く窺っていて、当然ながら未だ決定的信頼を抱くに至らない。それはバードも同じで、例えば通訳として雇用するかどうかを決める面接の場面に、次のような描写がみえる。
…きっちりと結い上げた黄金色の髪には光があたり、彫りの深い西洋調の面貌の中に、私が質問に答えるたびに見せる感情の動きが見て取れた。感心、猜疑、諦観、好奇、軽蔑、といった感情がめまぐるしく婦人の顔面に浮かんでは消えるのを、私自身、好奇と感心の念を持って見入った。西洋の女にも人らしい感情があるのだと、そのとき私は初めて気づいた。…(67頁)
…この国では女の一人旅は無謀なことか、と婦人は私の目を見て訊いた。「無謀」という単語がわからなかったので聞き直すと、この国では女が一人で旅をすることは多いのか、と婦人が聞きなおした。女が一人で旅をすることは多い、と私は答えた。女の一人旅は危険か、と婦人が問うので、女による、と答えると、ではどんな女の一人旅が危険なのか、とまた婦人は質問をした。馬鹿な女。そう答えると婦人は、初めて可笑しそうに顔を歪めて、「それでは私は馬鹿に見えぬように気をつけねばなりませんね」と言った。私はここで大声で笑い出して不作法だと思われないように、下を向き、頬の肉を内側から噛んで声を立てないようにした。…(67~68頁)
以降、旅の前半に訪れる印象的な「鶏肉」の場面へ向けて、伊藤は次第にバードに好意を抱いてゆくことになる。しかし、現実のバード自身はもう少し冷静であった。金坂清則訳注『完訳 日本奥地紀行』では、バードは伊藤との出会いを次のように記している。
…しかしながら、この人物に決めかけていたまさにその時、ヘボン医師の使用人の一人と知り合いだというだけで、いかなる推薦状も持たない男が現れた。年齢はほんの18だが、この年齢は英国人の場合の23、4歳にあたる。背はわずか4フィート10インチ(147.3センチ)で、蟹股でもあったが均整はよくとれているし、丈夫そうだった。顔は丸顔で非常にのっぺりとしており、歯は健康そうで目はとても細長かった。そして重そうにたれた目蓋は日本人の一般的な特徴をこっけいに誇張したようだった。こんなにぼうっとした表情の日本人には会ったことがなかったものの、時折すばやく盗み見るような目つきをすることからすると、ぼんやりしているように装っているようにも思われた。…(83~84頁)
日光のあたりでは、こんな揶揄もみられる。
…私は伊藤を説得して私が嫌いな広縁の黒いフェルトの中折帽をやめさせ私と同じ菅笠をかぶらせた。というのも、伊藤は私から見れば醜男なのにたいへん見栄っぱりで、歯を白くしたり、鏡の前で念入りに白粉を塗ったり、陽焼けを心底から恐れて手にも白粉を塗る。爪も磨くし、外では必ず手袋をはめるのである。…(188頁)
伊藤が少し可哀想だが、しかしバードもすぐに彼の有能さに気づき、強い信頼を寄せるようになってゆく。アイヌの調査を終え伊藤と別れたバードは、彼に「驚くほど才気にあふれていた」と最大の賛辞を送っている。『イトウの恋』や『奥地紀行』を未読のひと、『ふしぎの国』の続きを楽しみにしているひともいるかもしれないのでこれから先は書かないが、うーん、「室蘭の少女」の件はどうなのかな。ちなみに伊藤鶴吉は、かつては「歴史に埋もれた才人」とされてきたが、実は通訳としてその後大いに活躍した超有名人であったことが、金坂氏らの研究によって分かっている。
いずれにしろ、上智で始まるジャパノロジーコースを深めるうえでも、バードの著作は重要な意味を持っている。佐々大河さんのマンガも、学生たちが、「すぐ隣にあったにもかかわらず忘却された列島文化」に気づき、ステレオタイプの日本イメージを相対化する手助けになるに違いない。ぼく自身の研究においては、その後の朝鮮踏査、江南・四川踏査も大切だ。もちろん当時の同地の習俗を知る意味もあるが、彼女自身がいったいアジアをどう捉えていたのか、アジアの人々とどのような交流を持ったのか、その視線の交錯が何より興味深い(客観主義的研究書ではない「紀行文」の体裁は、ポストモダン民族誌のあり方を考えるうえでも大いに参考になる)。彼女の旅が当時の一流の政治家、科学者たちによって支えられていた点も目を見開かせる。当時、アンデス山脈、日本列島と調査の計画を立てていたバードにアンデス行きを断念させ、結果的に蝦夷地踏査を成功させた人物は、なんとチャールズ・ダーウィンそのひとだったそうである。
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さよならアメリカ、さよならニッポン

2015-05-13 04:13:16 | 書物の文韜
今日は、ゼミの新歓コンパの予定だったのが、台風でお流れ。昼休みから共生学研究会の編集会議、プレゼミ、ゼミとこなし、17:30には大学をあとにした(濡れるの嫌なので)。
電車のおともは、下記。野田研一さんの、「はっぴいえんどの日本幻想、もしくは『渚感覚』」を読み終えた。野田さんは、ぼくにとって〈大人〉の理想像である。尊敬というとちょっと距離がありすぎる、敬愛といってよい感情を抱いている(こんなこと書くと、お弟子の誰かさんが嫉妬するかもしれない)。せいぜいまだ5年程度のおつきあいなのだが、そう考えられる人にお会いできるのは幸せなことだ。院生になって間もなくお会いした増尾伸一郎さん、そして中村生雄さん。人生の局面局面に大事な方が現れて、ぼくを未知なる世界へ導いてくださる。野田さんはそのなかでも、アメリカ文学というまったく違うハタケの方(環境文学、という点ではもちろん共通項があるのだけれども)なのだが、どうも不思議な縁である。最近は図々しくも、ご自宅の催しにまでお邪魔するようになってしまった。今年は野田さんの大学生活最後の年、お祝いする論集2冊にもお招きいただいたので、気力を振り絞って書かねばならない。そうそう、それで思い出したのだが、野田さんはぼくにとって、面白いものを書いて喜んでいただきたいと思う人なのだ。家族以外の研究世界で、しかもまったく異なる研究分野でそういう人にお会いできるのは、なかなかに希有だ。

さて、「はっぴいえんど論」。ついにお書きになったのだな!とニヤニヤしながら拝読する。ご自身も、「最後だと思って、書いちゃいました」とはにかみながら仰っていた。いつもお書きになるご論文以上に、その言葉が直接的に響いてくる文章。これは、下手なまとめを拒絶する。

……60年代後半のロック・ミュージックはかたやビートルズ、かたやボブ・ディランを筆頭に、ポップス革命とでもいうべき様相を呈していた。それは音楽的な高度化のみならず、歌詞の高度化を特徴とした。端的に言えば、ポップ・ミュージックが文学やアートに限りなく接近した時代であった。さらにいえば、もはやポップスはたんなる流行歌であることをみずから否定し、音楽性とポエジーをぎりぎりまで追求するある種の文化革命をめざしていた。……そのような「洋楽」を輸入し、享受しながら、日本の模倣者たちは、ただの模倣者に過ぎなかった。……しかし、《はっぴいえんど》は違っていた。かれらは、もし自分たちが本物のロックを演っていると自負しうるとするならば、それは「洋楽」ロックに比肩しうる音楽性とテクニックのみならず、言葉の革新、さらには日本の音楽の革新でなければならないと考えていた。とりわけ、ロックとは本質的に言葉の革新以外の何ものでもないという透徹した認識を具えていた。そうでなければ、欧米のロックに本質的に肩を並べることはできないとかれらは考えたのである。《はっぴいえんど》の本領というべき、かれらの「日本語」ロック創出のドラマは、こうして洋楽=ロックと日本語の接合という問題に設定された。」(p.336~337、「…」は省略)

アメリカ/ニッポンの境界に誕生したはっぴいえんどの革命は、その解散=頂点において、「さよならアメリカ、さよならニッポン」(よん・とらっく!よん・とらっく!)と繰り返し歌い上げ、アメリカもニッポンももはや虚構に過ぎない、幻想に過ぎないと捉え返し、アメリカの模倣者ともニッポンへの回帰者(フォーク!)とも袂を分かって、野に放たれる。野田さんが彼らに見出す「冷徹な自己認識と自己批評」は、恐らく野田さん自身の矜持である。はっぴいえんどの位置した境界性は、後にメンバーだった細野晴臣が、「下半身は海の方に、上半身は砂浜に寝転がって」いる「渚感覚」と表現している。それは彼にとって、彼の憧憬してやまないニューオリンズの、シルクロードからヨーロッパ、パリやスペイン、アフリカ、そしてアメリカに至る音楽の旋風の快感と、同時に一種の薄気味の悪さをも意味しているようだ。野田さんは「(生態学的)境界の感覚であり、絶えず揺動する場所に身を置くことを意味する言葉」と評するが、そこには移動や放浪の心地よさと、根無し草の孤独と、ビートと侵蝕が同居する。気持ちいいけど気持ち悪い。かつて柳田国男は、「伝説はあたかも北海の霧が、寒暖二種の潮流の遭遇から生ずるやうに、文化の水準を異にした二つの部曲の、新なる接触面に沿うて現れやすい」(「史料としての伝説」、『定本柳田国男集』4、p.192)と述べたが、「渚」とはそういう場所なのだ(『遠野物語』99話、そしてネビル・シュート『渚にて』。クトゥルー神話も入れたい)。

さて、ちょっと妄想が過ぎて脱線してしまったが、野田さんははっぴいえんどの試みの先に、とうぜんのごとく、イエロー・マジック・オーケストラの〈反表象〉を展望してゆく。オリエンタリズム的表象を二項対立的に否定するのではなく、そのまま受けとめて投げ返してしまう強靱で、そしてやわらかい遊び。その「もっとも純化された現在形」としてPerfume、中田ヤスタカが位置づけられるのは、本当に野田さんらしくてニヤリとする(河野哲也さんといい、なぜ環境論者はPerfumeが好きなのか?)。
さて、ではぼくは野田さんをニヤリとさせるために何をするか? 来年3月までのお楽しみ。
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東琢磨『ヒロシマ・ノワール』を読む

2014-07-03 11:47:10 | 書物の文韜
東琢磨さんの新著『ヒロシマ・ノワール』。前回の「四谷会談」でも駆け込みで紹介したのだが、ちょっとだけ感想を書いておきたい。「ちょっとだけ」というのは、いろいろ内的・外的な事情があって、まだ全部を読み終えることができていないためだ。しかしそれは、難しいとか読みづらいとかそういう意味ではなく、読み終えるのがもったいないような、とっておきたいような感覚とどこか似ている気がする。言葉の使い方や内容自体ももちろん刺激的なのだが、その文章の端々に表れてくる東さんの感情、感性の方向性が、きわめて心地よいのである。とにかく、帯に書かれた「なぜ広島には幽霊が現れないのか」という魅力的な問いに対応する、第2部に当たる部分のみを読んでみた。

まずこの問いについては、以前、形だけは同じような問題意識を抱いたことがある。ぼくが怪談、怪異譚に関心を持つのは、もちろん単に好事家的な性分もあるわけだが、時おり、個々の主体に還元できない、「生者を打つ過去からの声」に遭遇することがあるからなのである。2008年、デリダの亡霊論に触発されながら「死の美学化に抗し」て『平家物語』を読む高木信さんに誘われ、「亡霊とエクリチュール」なるシンポジウムに参加したとき、フロイト『トーテムとタブー』と古代中国の鬼祓除書を架橋しつつ、死者の主体を語ることの政治性について注意喚起する〈サバルタンとしての死者論〉を披瀝した。死者を自己正当化のツールとして消費しないことは、生者が持つべき最低限のマナーだが、個人から国家に至る種々のレベルにおいて、それは多く遵守されることがない。過去について語る歴史学者であり、死者について語らざるをえない僧侶であるぼくの周りには、意のままに死者を操ろうとしながらそのことに無自覚な、ネクロマンサーのような人々が蠢いている。高木さんは、アンチであるがゆえに中央集権を強化してしまう「怨霊」ではなく、主体の目の端に消えつ現れつしながらその根本の枠組みを動揺させる、「亡霊」の存在に着目していた。高木さんの指摘をまつまでもなく、生きている人間と同じように、幽霊も政治の力学に影響を受ける。地下鉄サリン事件で多くの犠牲者を出した築地周辺では、サリン事件に関する怪談はほとんど語られないし、東日本大震災においても、幽霊譚が「遺族の日常への復帰に重要」として採り上げられるようになったのは、ここ2年ほどのことであろう。逆説的なようだが、マイナスの磁場を表現するもののように扱われる怪談は、歪な力動の支配する現場には生まれえないのではないか(もちろん、「政府広報」的な幽霊は例外である)。幽霊が現れない場所には、何かが抑圧されているのではないか。
東さんの言及する「幽霊」は、上に述べたぼくのアプローチより、よほど複雑で多層的な内容を持っている。そこにはデリダの亡霊論も含まれることが「付記」で示されるが、冒頭では、石原吉郎がシベリア抑留経験を共有した友人から聞かされた最期の言葉、「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」が置かれる。個々に分断された人間が最後にすがりつくような同種間アイデンティティさえ本当はまやかしに過ぎない、それこそが我々の生きる日常の本当の姿なのである。対話不可能な〈他者〉とは隔絶した世界にあるのではない、あなたの隣人が、家族が、そしてあなた自身が〈他者〉なのである。「幽霊」という概念は、そうした我々の「人間」としての前提が破壊されたグラウンド・ゼロの地平に、ゆらりと起ち上がる。その「幽霊」に憑依されたかのように、東さんの筆は、さらに「人間」を丸裸にしてゆく。いや、我々自身が、人間を間にしてゆく情況があぶり出されてゆくといった方がいいかもしれない。権利/義務の二項対立のなかでしか把握されない、生得的な尊厳を剥奪された「人間」のありよう。リオタールの「非人間的なもの」。そして、よってたかって過去の記憶を奪われようとしている、広島という〈場所〉(この灯籠流しの問題は、前回「四谷怪談」で扱った、レルフの〈没場所〉という概念を介した方が分かりやすいかもしれない)……。しかし絶望と怒りから生み出されたかのような「幽霊」、あるいは「人間でないもの」には、かすかな希望も託されている。柳田国男や折口信夫が神霊や芸能に認めたもの、トーベ・ヤンソンがムーミンに仮託したもの。ムーミンにカタストロフィの影を読み取る東さんの分析からは、帰還した兵士たちの心身症を治療するなかで、第一次世界大戦の厖大な死者に向き合うため、フロイトが死の欲動論を紡ぎ出したことを想起させた。そして東さんの筆致は、次第に、メルロ=ポンティ的な〈みえるもの/みえないもの〉、あるいはブルデュー的な〈考えられるもの/考えられないもの〉の問題、その彼方へと収斂されてゆく。人間の認識なるものは極めて限定的であり、それを成り立たせている要件さえ自覚できないにもかかわらず、いまみえている世界、考えている世界が〈すべて〉だ、〈真実〉だと思い込もうとする。しかしそのようにして作られる安心立命こそ、〈世界〉から捨象されてしまうもの、こぼれ落ちてしまうものへの感受性を鈍らせ、劣化させる元凶なのである。認識の外に積み重なったものは、やがて〈世界〉に牙をむき、〈世界〉を崩壊させてゆく。「なぜ幽霊が出ないのか、なぜ我々はもう幽霊を見られなくなってしまっているのか」という東さんの問いのなかで、みられないもの、考えられないもののメタファーとしての「幽霊」は、(「未来の犯罪」としての)放射能とも重ね合わされる。「もう一度私たちの精神的な構えとして、見えないものとどのように向き合っていくのかということが、これからのひとつの重要なものになっているし、その重要度は増していくのではないかと思います」。
東日本大震災の直後、我々の世界はこれまで死者を蔑ろにしすぎてきた、これからは生者の世界を動揺させるベクトルとして、死者の視点をどう盛り込んでゆくかが必要だ、という議論が起こった。ぼくも幾つかの拙文で述べたことがあるが、いつの間にかその方向性は消え去り、浅薄な、そして自己正当化の情愛に酔うような、癒しの死者論ばかりがはびこる情況になってしまった。震災に突き動かされてようやく「みえかけて」いたもの、いま、それをみようとする行為自体が放棄されようとしているのである。東さんの新著は、もう一度、自分と世界をみつめなおすきっかけを与えてくれる。多くの人に読まれ、論じられることを期待するばかりである。

何だか、東さんの意図を強引にねじまげながら、自分の話ばかりしてしまった気がする。ご容赦を願いたい。また、第2部で得た興奮の余勢を駆って第3部の頁も開いてみたのだが、なぜか心のなかがザワつき、まだきちんと読めていないことも、あわせてお詫びしておきたい。東日本大震災に直接関わる内容については、その核心に感性をもって触れる文章であればあるほど、ぼくにとっては未だ生々しいのかもしれない。
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蠢く言葉

2014-01-05 11:17:59 | 書物の文韜
『蟲師 特別篇―日蝕む翳―』を観終わった。新鮮なところはなかったけれど、久しぶりに、自然/身体/心/言葉/文字の相関する作品世界を堪能した。日蝕が出現する場面では、これまで物語のなかに語られてきた人々が、しっかりと地に足を付けて生きている様子が確認でき、作り手が作品への愛情もうかがえてよかった。狩房探幽の姿を観られたことも「よかった」点のひとつだが、この作品における文字・書記と生命との関係性は、文字とアニミズムを考えるうえでも重要なヒントになる。テレビ画面を眺めていて、何となく、探幽の姿と『出三蔵記』に書かれる経典誦出の少女「僧法尼」の姿が重なった。なお、『蟲師』は4月から「続章」も始まるとのこと、また楽しみがひとつ増えた。
併せて、年末から持ち越しの仕事であった、事典項目の執筆もほぼ終了。あとは、表記と文字数を調整して送信するのみ。本年の読書初めは、その参考文献である行基の関連資料だったけれど(第一論文の研究対象に、20年を経てこうした形で関われるのは幸せだな)、文学作品としてのそれは日和聡子かな。今年度は、多和田葉子→残雪→日和聡子と、言語主義の文学に傾倒して読んできた気がする(多和田葉子は、幸いにも上智のイベントで、その衝撃的な声・朗読を生で聞くこともできたし)。とくに日和作品は、言葉のアニミズムとでも形容しうる実験性があり、多和田・残雪とはまた違った意味で惹き付けられる(多和田は声・語り、残雪は文章、日和は言葉か)。読み始めて最初に連想したのが、昨年金沢21世紀美術館の特別展「内臓感覚」で観た、ナタリー・ユールベリ&ハンス・ベリの映像作品「私になる」だった(こちらを参照)。上の『瓦経』は、開いて最初に出てきた話が、偶然にも馬の話。しかも、こちらも(前回の中山人形と同じ)女性象徴。馬は、東北で馬娘婚姻譚の追究を誓ったままほったらかしにしているけれど、あらためて女性の観点から、裏返して突き詰めるべきかもしれない(ちなみに、有名な『遠野物語』のオシラサマの話は、六朝志怪小説の『捜神記』に原型がある。両者を比較すると、前者は馬と娘が互いに好き合って結ばれるのに対し、後者は人間/動物の断絶が激しい。しかし、これを中国的心性/列島的心性の相違と想像してしまうのは短絡的で、後に中国にも、馬と娘の異類恋愛に親和的な類話が生じてくるのである)。
なお、『瓦経』のあとは、『螺法四千年記』『おのごろじま』へと進む予定だが、これも年末に読んだ梨木香歩『蟹塚縁起』『冬虫夏草』などと、類似の世界観である。萩原朔太郎の詩を物語にしたような、あらゆる生命が、それぞれに関わりあいながら、びくびくと蠢く世界。近代主義的な自然/文化の二元論では、言葉はそのなかからはじきだされるか、あるいはその混沌を分節して異なるものへ変容させてしまうが、上記の物語のなかでは、言葉も生態系のなかに組み込まれている。ぼくの言語観はソシュール、丸山圭三郎に多くを拠っているので、言葉が世界を創出するとの観点に立っているのだけれど、もう一度、言葉自体を混沌のなかに投げ込んでみる必要性があるのかもしれない。
先日のポストには書き忘れたが、野田研一さんからは、「交感論」に関する宿題をいただいている。『知の生態学的転回』全3巻も出揃ったことだし、『環境と心性の文化史』から『環境という視座』に至るなかで構築してきた方法論をじっくり再考することも、今年の課題としておこう。
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『現代思想』臨時増刊/総特集「出雲」刊行(拙稿訂正表付)

2013-11-12 18:08:36 | 書物の文韜
拙稿掲載の、『現代思想』12月臨時増刊/総特集「出雲」が刊行されました。三浦佑之さん責任編集のもと多彩な執筆者が集っており、充実の内容です。どうぞお手にとってご覧ください。
私は鰐淵寺について書けとの依頼を受け、「浮動する山/〈孔〉をめぐる想像力―鰐淵寺浮浪山説話の形成にみる東アジア的交流―」と題した文章を書きました。国引き神話が中世化した鰐淵寺の浮浪山説話(インドの霊鷲山から漂い出た島嶼を、スサノヲが杵で島根半島へ繋ぎ固めたとするもの)の起源、将来・変容の経緯を探ったものです。しかし、月刊誌ゆえの厳しいスケジュールであったにもかかわらず、1度しかない校正で大量の赤を入れてしまったため、こちらの指示が充分に反映されず下記のような誤りが残ってしまいました。ここに、あらためて訂正させていただきます。
編集の方々ではなく、私の責任です。関係各方面の皆さま、どうぞご容赦下さい。

【訂正表】
242頁下段13行目 (誤)『咸淳臨安志』
           (正)『臨安志』
244頁上段14行目 (誤)…の起源は、杭州霊隠寺の…
           (正)…の起源は杭州霊隠寺の…
244頁上段19行目 (誤)二 入宋覚阿の宗教活動と…
           (正)二 入宋僧覚阿の宗教活動と…
244頁下段23行目 (誤)…『普燈録』には覚阿が…
           (正)…『普燈録』には、覚阿が…
246頁下段18行目 (誤)覚阿とが忠通の…
           (正)覚阿と忠通の…
247頁上段16行目 (誤)…リマリティ…
           (正)…リアリティ…
247頁下段5行目  (誤)…錫丈…
           (正)…錫杖…
248頁下段25行目 (誤)…東アジア環境史…
           (正)…東アジア環境文化史…
※ ご覧のとおり表現に関する細かいところが多く、現行のままでも大勢に影響はありません。赤は本当に厖大な量だったので、むしろこれだけ直していただいてありがたい限りです。
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〈集合的記憶喪失〉と転換論との関係

2013-06-09 11:10:46 | 書物の文韜
5日(水)、春から準備をしていた〈龍谷教学会議〉の大会シンポジウム、「宗教者の役割:災害の苦悩と宗教」が終了した。一緒に登壇した稲場圭信さん、金沢豊さん、司会を担当してくださった深川宣暢先生、西義人さんをはじめとする事務局の方々には、本当にお世話になった。ぼくは「語ることと当事者性」と題し、被災地域内外における物語りの機能と困難さ、暴力的言説を解体するために人文的知が持ちうる意味、今後における死・死者の受け止め方などについて報告した。しっかり前準備をしていなかったためにMacがうまくプロジェクターとリンクせず、相変わらず発表時間をオーバーするなどバタバタしたが、まあ何とか提起できることはしたつもりである。詳しくはまた機会をみつけて書くつもりだが、今回、報告の準備をしていてさまざまな発見があったので、ここではそれについてまとめておくことにしたい。

龍谷シンポでは、外部の暴力的言説に対する人文知の関わり方の一例として、以前の日文協シンポでも触れた転換論批判を再掲した。震災直後から、社会のさまざまなレベルで「これが日本の転換点になる」「これまでの日本のあり方を反省し、新たな出発をせねばならない」との声が聞かれ、果ては「そうすることが失われた生命に対する償いになる」との〈背負い言説〉まで現れた。ぼくの立場は、それら転換論は〈祟り〉の言説に異ならない、ということである。すなわちそれは、災害という非日常の事態に遭遇し、「なぜそれが起きたか分からない不気味さ」を払拭するために、何らかの理由を与えて形あるものにし(宗教的レベルでいうと、「人間の傲慢さを怒った神罰」「祭られないことを怒った神の祟り」など。世俗的レベルでいうと、「社会の頽廃や風紀の乱れ」「間違った方向への文明の展開」など)、解決可能な方策を示し(神への謝罪・祭祀、より現実的な価値観転換の提案など)、安心立命を得ようとする心理作用(半無意識的物語り構築)に過ぎない。混乱状態を日常化するための社会心理的防衛規制なので、日常が戻ると一気に熱が冷めてしまう。例えば、個人的には大変残念なことなのだが、最もビッグ・マウスな転換論者であった中沢新一氏など、政党的組織まで起ち上げたにもかかわらずその活動は沈静化しつつあるようだ(メディアに唆されてか自分で売り込んでかしらないが、富士山に飛びついている場合なのか?)。もちろん、極めて真摯で継続的・建設的な転換論があることも確かなので、今後はラベルの貼り方に注意しなければならないが、転換論者の大部分は「本気で転換など考えていない」人々だろう。前置きが長くなったが、こうした考え方を報告に備えて再検討すべく、メディア関係の資料・文献を総覧していたとき、そこでこれまで見落としていた補完材料を見出すことができたのである。
ビヴァリー・ラファエル『災害の襲うとき:カタストロフィの精神医学』(みすず書房、邦訳は絶版)は、その道においてはもはや古典的名著というべき書物だが、そのなかに、「大災害を経験した人間は、そのことによる特殊心理状態として、時間を災害前/災害後に分けようとする」旨の指摘があった。日文協での報告時には、転換論を防衛機制として社会心理学的に考えながら、不勉強のため充分な理論的裏付けを持たないまま報告に至ってしまった。しかしやはり当然のことながら、精神医学の立場からの先駆者がいたわけである。先日刊行された『天変地異と源氏物語』所収の拙論「〈荒ましき〉川音」にも少し触れたが、台風や洪水を経験した平安貴族も、何かと「未曾有」「古今無双」を口にする。自らの体験を絶対化・卓越化する言説だが、そうした欲求の背景にも、ラファエルの指摘する心理状態がうかがえよう(それとともに、「災害の威力は身を以て経験してみないと分からない」ことが表れている点も注視したい。「未曾有」「古今無双」といった言葉は、過去の災害による被害の実態を綿密に比較・検証し、発せられた言葉ではない。毎年のように洪水の頻発する平安京のこと、彼らも前の世代から口承で種々の災害情報を得ていただろうし、書物を通じて知識としては身に付けていただろう。しかしやはり、生の体験は「未曾有」であり「古今無双」なのである。このことは、世代を超えた災害情報伝承の困難さを表しているし、言葉と実態、言葉と過去との関係を考えるうえでも重要な問題を孕んでいる)。そしてここへきて、転換論と〈集合的記憶喪失〉の問題とが頭のなかで繋がってきた。一時期、歴史の物語り論や記憶論、言語論的転回の際に話題となった〈集合的忘却〉について、最近は、(主に里山観の塗り替えとの関係から)〈創られた伝統〉の横行する前提として、しっかり考えなければならないという気持ちになっている。しかし単に「忘却」というだけでは訴える力が弱く、またなぜ忘却するのかよく分からないので、ここ数ヶ月の間に書いた文章では、研究史的裏付けや定義云々のことをきちんと検証せず、「集合的記憶喪失」「集団的記憶喪失」という言葉を安易に使ってしまっていた。けれども、社会的病理としての転換論などとあわせて考えられれば、これは転換論が横行し過去がリセットされたあとに訪れる心理状態なのだ、いわば転換論の後遺症なのだという議論が可能になってくるのではないだろうか。そうすれば、災害史研究が常に流行としてしか存在しえない理由も提示できるだろうし、この災害史フィーバーの後に訪れるであろう事態(防衛機制としての転換論は、その主張するところとは反対に、将来にわたって同じ過ちを繰り返す恐れがある)に、クリティカルな警告を発しておくこともできるだろう。試みにネット上で検索をかけてみると、"collective forgetfulness"、"collective oblivion"といったタームのほかに、ベトナム戦争などとの関連で"collective amnesia"といった術語も使われているようだ。日本以外ではどのように議論が進み、体系化されているのか。日本の文脈とどうリンクさせてゆけるのか。このあたり、今後資料を集めて勉強してゆきたい。

うかうかしているうちに、サバティカルも2ヶ月を経過してしまった。予定していた研究計画がまったく進展しないうちに、シンポジウム等の報告ラッシュに突入してしまっている。何とか、所期の目的を果たすべく努力したい。
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買った本、いただいた本、読んだ本

2011-10-22 12:42:11 | 書物の文韜
秋学期が始まって3週間。最初のうちは演習科目でも講義をしなければならず、輪講も入っていたために、週8コマのうち7コマ講義という恐ろしい情況が続いていたが、だんだんと改善されて通常の状態(週7コマうち1コマ講義)に落ち着いた。これでようやくシンポの準備、原稿執筆に時間が割けるが、果たしてそううまく事が運ぶかどうかはまだ分からない。文化財レスキューへの協力は一区切りついたような形だが、並行して7号館文学部フロアの危険度調査が始まる。オフィシャルに実施しようとしていたのがなかなか実行に移せないので、個人的にチームを起ち上げ、文学部学科長会議・教授会の承認を得て動き出したものだ。災害発生時や大人数避難時を想定して各フロアの危険性をチェックし、また3.11における固有の情況を聞き取り調査して有用情報を集積してゆく。最終的には年度末に研修会、あるいは報告書の形で公にし、文学部の危機管理のために役立ててもらう予定である。11月第1週目はソフィア祭だが、例年嬉しい秋休みになっているものの、今年は学生センター関係者なので仕事があるような気配だ。少なくとも、今日から気の抜けない日が始まることは間違いない(何せ、土日が連続して休日になることは、もう12月中旬までないんだもんなー)。

さて、ずいぶん更新に時間が空いてしまったので(どうもfacebookをやっているとこちらに手が回らない)、ここで標題どおりの整理をしておきたい。
まずは左の2冊。『震災以後を生きるための50冊』は、田中純氏の「歴史の不気味さ:堀田善衛『方丈記私記』」を、歴史学入門ゼミ(基礎ゼミ)の課題に使った。抽象的思考に慣れていない1年生には難解な文章だが、それゆえにこそ、まさに彼らが「震災以後を生きる」ために必要な内容といえるだろう。過去と現在を貫く視座をいかに確保してゆくか、なぜ「歴史」が不気味なものと感じるのか。この世の不条理を受けとめ、見極めた先に現れてくるものは何か。歴史学の方法論を模索してゆくうえでも、本当に重要なアイディアが詰まっていて読み応えがある。しかし、今回1年生に読ませて気になったのは、彼らは抽象的ゆえに理解できないと、「何でこんな難しい書き方をするのか」「もっと分かりやすい書き方をすべきではないか」と突き放してしまうこと。やはり「分かりやすさ至上主義」の影響かもしれない。
『思想地図β』2号は、震災以後の特集。震災と言葉との関係を問う論考、シンポジウムのまとめが多数収録されており、日文協シンポへ向けていろいろ考えさせられることが多い。しかし編集責任者でもある東浩紀氏の言動には、どうも違和感を拭えない。4月9日に大阪にて開催されたシンポ「災害の時代と思想の言葉」において、東氏は、今後の日本社会は「死者からみられているという他者性のモメントを持ってこないとだめだ」といいつつ、戦後日本が「戦没者を国家としてきちんと弔う、その必要性から目を逸らせて経済成長に向かって驀進してきた」「その限界がいま問われている」などと臆面もなく語る。彼のいう他者=死者は、国家によって葬送されたいらしい。共約不可能性とは、そんな簡単な、浅薄なものだったろうか。なお、5月22日に仙台で開催された「震災で言葉になにができたか」で社会学者の鈴木謙介氏が、震災で被害を受けた第一次産業は厖大な時間と手間をかけて成長してきたものであり、その喪失は単なる被害額・補償額に還元しえない重みを持つ、「そこで失われたものは、積み重ねられた時間です」とした発言には、歴史学者として大いに共感した。

左の3冊はいただきもの。『史料としての「日本書紀」』は、瀬間正之さんと水口幹記君より。最近、聖徳太子論争ばかりが中心になりがちな『日本書紀』研究だが、厳密な史料批判はより広がりをみせている。本書は、津田左右吉の思想・方法を継承・克服しようとするもので、今後の指針となる重要な論考が詰まっている。盟友の水口君のものは、春学期に儀礼研究会で報告を聞いたが、嵯峨朝日本紀講書の独自性・固有性を問うもの。嵯峨朝が文章経国思想のもとで新たな歴史叙述を生み出そうとしているとの視点は、『古語拾遺』や『霊異記』の位置の再検討にも繋がる。心して精読したい。
『天皇と宗教』は小倉慈司さんから。講談社で刊行している「天皇の歴史」の1冊である。書陵部で研鑽を積んだ小倉さんの独壇場ともいえる分野だろう。ぼくは天皇制を中心としたものの見方をずらそう、ずらそうと研究してきた人間なので、シリーズの編纂方針自体にケチをつけたいのだが、もちろん中心の研究がしっかりしていないと軸をずらすこともできない。さらに勉強させていただきたい。
『平家物語の読み方』は兵藤裕己さんから。ぼくも歴史叙述、歴史語りを研究の焦点のひとつに据えているので、最終的には『平家物語』や『太平記』に辿り着きたいと考えている。そのとき、多くを学んできた兵藤さんのお仕事と本格的に格闘しなければならないだろう。言語論的転回を実感させてくれる研究が、日本でも文学を中心に起こってきたことがあらためて思い起こされる。歴史学者が放棄してしまった物語りとの戦いは、現在もまだ継続されているのだ。

こちらは、給料日であった昨日に大学の購買で手に入れたもの。『現代思想』11月臨時増刊の宮本常一特集は、3.11.以降を考えるうえで重要な論考も多く収められているが、いちばん気になったのは岩田重則氏の「宮本常一とクロポトキン」。クロポトキンは19世紀後半~20世紀前半に活躍したロシアのアナーキストで、『相互扶助論』などの著作が有名である。階級闘争を歴史展開の主軸に置くマルクス=レーニン主義とは違って、共同性こそ動物・人間の進歩において中心的な役割を果たしたと考えた。宮本は、青年時代に大杉栄訳でこの本を読み、大いに感銘を受けたらしい(思想形成の原点ともいいうるとのこと)。岩田氏は触れていないが、ほぼ同じ頃、中国では毛沢東がその思想に感銘を受けて五四運動に加わり、後の共産党独裁とは異なる横の連帯に変革の希望を見出していた。宮本民俗学の思想史的位置づけ、学問と思想の関係を考えるうえでも、精読しておきたい文章である。
上でも他者=死者の問題を出したが、数年前に物語研究会のシンポで「死者をめぐる想像力の臨界」について発表して以降、若いときには敬遠していたフロイトが気になっている。日文協のシンポでも、「快感原則の彼岸」が重要な意味を持ちそうで、周辺の論考を集め検証しているところである。上の『〈死の欲動〉と現代思想』もそのひとつで、テーマ的にはそのものズバリの内容(シンクロニシティな訳出に感謝!)。歴史学と精神分析との関係については、日本の歴史学者はまったくといっていいほど手を出していないし(フロイトを読んでいるという歴史学者に会ったことがないし、みたこともない)、かつてはセルトーが挑み、ピーター・ゲイが積極的に研究を展開していたが、00年前後からほとんど情報が入ってこなくなってしまった。デュルケームが批判したごとく、個人/社会という対象・方法論の質的差異は大きいが、後期フロイトの宗教論・文化論などは(その方法的批判はともかく)内容的に再評価したいところである。ぼくのなかでは、なんとなく柳田とデュルケームが、折口とフロイトが重なっている。2人はほぼ同年齢だが(デュルケームが2歳年長)、フロイトの方がずいぶん長生きしている。トーテム論の比較研究もしてみたいが、ドイツ語もフランス語も手に余るなあ。
ところで、アジア民族文化学会の大会シンポジウムでは、災害と神の関係、洪水神話の起源を探りながら、アニミズム論も再考したいと考えている。キーになるのは、「主託神」という概念。拙稿「草木成仏論と他者表象の力」で扱ったが、平安時代の天台僧安然が、著書『斟定草木成仏私記』のなかで触れ、「草木に樹木神=主託神の存在を認めることは、草木自体の生命を否定することになる」との論を展開している。これぞ、アニミズムをエコロジー思想として宣揚している人たちの盲点であり、草木成仏論に安易に接続できない重要な問題なのだ。しかし、INBUDSをみてもCiNiiをみても、「主託神」に関する専論が引っかからない。どうも、一から自分でやらないとだめらしい。

最後は、このところブログでは触れていなかった、マンガネタで締めくくっておこう。『無限の住人』はいよいよ佳境、『ベルセルク』はまだまだ続く気配。ともに圧倒的な画力を誇るが、アクションについていうと、前者はアクロバティックで後者は正統派。しかし、どちらも文脈がちゃんと終えるのは、やはり技巧の高さゆえ。『トライガン』や『シドニア』とは違う。『アサギロ』は最近その存在に気付いてまとめ買いしたのだが、新撰組モノとしてはいちばん好きな作品かも知れない。今のところ剣の道を突き詰めてゆく群像劇となっているが、血みどろな描写にもかかわらずシャープな絵柄で爽やかに読める。内容的には、「これが少年サンデーコミックス?」と、『デスノート』がジャンプコミックス所収だったのと同じくらいの衝撃があった。歴史もの好きにはおすすめ。
SF好きには溜まらないのが、この2冊。双方とも流行にながされず、独自の路線を走る。『第七女子会彷徨』はセンス・オブ・ワンダー。ぼくらの世代でいうと、吾妻ひでおの『ななこSOS』などを想い出す。最近では『電脳コイル』かな、と思うがそれほどシリアスな内容ではない。『SFマガジン』なんかに連載したらいいのではと思う短編で、まだこういう文化が残っていたんだなと嬉しくなる。『外天楼』はよくねられたシナリオで、やはり短編好きの心を奪う。石黒作品としては、『それでも町は廻っている』よりこっちの方が好みかな。同じようなネタでは沙村広明の『ハルシオンランチ』があるけど、『無限の住人』の絵で『うる星やつら』を描いているようなもので、ミスマッチは面白いがやはり殺伐とする。
『BEAST OF EAST』は何年ぶりかの完結。山田章博のマンガはうまいとはいえないが、皇なつきと並び、やはり美麗な絵には惹かれるものがある。今回の衣紋の線やコマ割りの仕方などには安彦良和が入っている気がするが、筋肉の描き方はやはりフランク・フラゼッタだろうか。藤原カムイや大友克洋がクローズアップされるまんが史の語り方で、どうもメビウスの影響ばかりが注目される感があるが、アメリカのファンタジー・アートや『ヴァンピレラ』などアダルトなアメコミの影響は、未だ充分論じられていないように思う。そのあたり、誰かちゃんとやってくれないかな…と『STARLOG』世代のぼくなんかは切望したりする。
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再評価?

2011-06-08 19:05:14 | 書物の文韜
このところ、なぜかブログをむやみに更新し続けているが、今日ももうひとネタ書いておこう。
哲学・環境思想史の浜野喬士さんが、twitterで『環境と心性の文化史』について触れてくださっている。「知られざる名著」とのご評価をいただいた。「知られざる」という形容が悲しいところだが、当時、企画・編集・執筆に全精力をつぎ込んだ本なので、やはり嬉しい。文学方面からはさまざまにお誉めの言葉をいただいたのだが、歴史学関係者からは大いに無視された。最近になって、なぜか想い出したようにこの本の書名を聞くことが多くなったので、何か、ずっと背負い続けていた荷物がやや軽くなった気がする(だって、微々たる原稿料〈勉誠さん、ごめんなさい!〉で協力してくださった皆さんに、本当に申し訳ないと思っていたのだ。ちなみに、一般にあまり読まれなかったのは、ぼくの「理解されることを拒否している」〈飯泉健司氏談〉総論のせいだといわれている…)。
浜野さんとはお会いしたことがないが、中村生雄さんのお仕事にも関心をお持ちのようだ。いずれ機会をみつけて、ぜひお話をしてみたい(つぶやいてくださったのが、なんと偶然にもぼくの誕生日。人間というのは、こうした符合に特別な意味を付したがるものなのだ)。
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ループからぬけでるために

2011-05-28 14:44:51 | 書物の文韜
3月の福島原発事故直後、「終わりなき日常は終わった」といった言説をよく目にしたが、「ぼくはそもそも、終わりなき日常など生きてはいなかった」と大いに反発を覚えたものだ。しかし気がつくと、目の前にある問題を何とか片付けているうちに1週間が終わってしまうという、「ループ」にはまりこんでいる。相変わらず、1つの問題についてじっくり考えたり、1本の論文、1冊の本について、充分吟味しながら読み進めるという時間が確保できない。いや、もしかしたら時間はあるのかも知れないが、それを作る精神的余裕がないのだ。そういうときに原稿依頼やシンポジウムの依頼を受けたりすると、自分をループの外に連れ出してくれるような気がして飛びつくわけだが、一方では意識や関心が活性化して新しい情況への手かがりを掴めるものの、一方では精神的にも身体的にも自分を追い込んでゆくことになってしまう。5月になって、新しい依頼を3つ頂戴し、1つは辞退して2つはお引き受けした(辞退したのは、単純にスケジュールが調整できなかったからである)。これで今年度の予定は、上半期に書き下ろし単行本1冊、7月末に環境史の論文と東北での講演、9月末に禁忌に関する論文、11月にシンポジウム2本、3月に歴史学理論についての論文1本、空いているところで他の書き下ろし2本を進める、といったスケジュールになる。現在の校務の情況からすると、これくらいが限界だろう。年末年始にはシンポジウム報告の論文化作業が入ってくるはずなので、恐らく他の2冊の単行本は延び延びになるに違いない。次から次へと本を出してゆく人たちは、いったいどのような時間配分で書いているのか。やや不思議である。とにかく、これ以上は何も増やさぬようにして、着実に仕事をこなしてゆかねば。
ところで、27日(金)にはおかげさまで41歳となりました。ちょうど院ゼミの日だったので、院生が散財してケーキや音楽CD(上の「e.s.t」。北欧のグループだそうだが、ぼくの描く北欧の印象とはかなり違う楽曲。どちらかというとニュー・オリンズである)などをプレゼントしてくれた。ありがたいことであるが、学生に気を遣わせてしまうというのは、やっぱり悪しき風習だな。皆さん、今後はどうぞお気遣いなく。そういえば、3月からこっちずっとperfumeを聞いていたのだが、4~5月は椎名林檎ルネッサンスだった。やはり、「丸の内サディスティック」はすげえ。

『東アジアの記憶の場』は、ノラの『記憶の場』の枠組みを東アジアで考えようとしたもので、序文を開くとまず「記憶論的転回」の言葉が目に飛び込んでくる。先週の土日は歴研の大会で、書籍コーナーをつらつら眺めて回っていたのだが、その日最も食指が動いたのは、帰りに寄った一般書店でみつけたこの本だった(「なんとかターン」という類似名称の大量生産はやめてほしいが…)。3月までに、久しぶりに歴史学理論の論文を書くことになったのだが、「言語論的転回」にしても、ここ数年はぼくのなかで深まりをみせていない。ちゃんと勉強しなおしたいところである。
『蛇と月と蛙』は、田口ランディさんの最新刊。小説のほかにエッセイも収録されているが、「4ヶ月、3週と2日」がすばらしかった。女性が自らの性を引き受けるということは、否応なくその時代、社会そのものを引き受けることになってしまうのかも知れない。だからこそ、シャーマンは女性が多いのだろう。語り手がルーマニア人の女性編集者と意気投合する場面では、なぜか中沢新一の『僕の叔父さん 網野善彦』を想い出した。しばらく記憶の海に沈んでいた想い出がふとしたきっかけで蘇り、書き留めてゆくたびに次から次へと繋がってゆくということは、ときおりある。「想起とは創造である」という留保は付けねばならないにしても、自動筆記とはそれと似たような経験なのではないか…などと想像を働かせてみたりした。
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「存在の贈与」と「原罪性」

2011-02-07 14:33:15 | 書物の文韜
2月に入り、期末テストやレポートを終えた学生たちは春休みに突入、まさに青春を謳歌していることだろう。こちらは心身ともに酷使する最繁忙期を迎え、帰宅しても執筆に身が入らない。しかし何とか、懸案の2本の論文は脱稿の方向へ向かってきた。

自然環境と人間との間に横たわる〈負債〉の意識については、やはり「存在の贈与」と「原罪性」がキーワードとなる。前者は自らの生命が自然、もしくはその表象である神霊(造物主)から贈与されたものだとする考え方で、後者はそうした自己が自然や神霊に決定的なダメージを与え、それゆえに苦悩を背負うことになったとする考え方である。どちらが欠けても、恐らく〈負債〉の意識は生じないか、もしくは根無し草的で浅薄なものとなる。この問題をもう少しきちんと掘り下げてゆけば、川田順造氏などが繰り返すステレオ・タイプのキリスト教批判論(「創世記パラダイム」)や、エコ・ナショナリズムに繋がるアニミズム礼賛論への有効なアンチ・テーゼとなるだろう(…たぶん)。
以上のようなことをつらつら考え、文章を綴っていたら、それにシンクロするかのごとく、上記の3冊が岩波書店から立て続けに刊行された。秋道智彌さんの『コモンズの地球史』は、シリーズ『資源人類学』前後の論文をまとめたもの。資源・所有の問題系は、〈負債〉を論じる際には極めて重要と思うが、あまり贈与論や交換論と結びつけて語られてはいないようだ。注意したい。
谷泰さんの『牧夫の誕生』は、ドメスティケーション起源論の集大成ともいえる内容。昨年の河野哲也さん、三浦佑之さんとの意見交換のなかで、「家畜化は人間の野生を鈍化させる」というテーゼが浮かび上がってきたので、あらためて勉強しなおさねばという気になっていた。王権や国家の起源にも結びつく問題であり、牧畜の発展しなかった列島文化との比較においても重要だろう。
野本寛一さんの『地霊の復権』は、石神を扱っている点で、例のしゃぶき婆の来歴を考える手助けとなりそうだ。諏訪御柱祭のシンポジウムでは、ミシャグチのブームを巻き起こしたともいえるヴィジュアル・フォークロアの北村皆雄さんの知遇を得たが、今度お話を伺う必要があるかも知れない。…しかし、こう「地霊」の存在を前提に論じられると、少し違和感がある。すべてを「地霊」に収斂してしまうことで、逆に列島の豊かなアニミズム世界とはかけ離れていってしまうような気がしてならない。

よくよく考えてみると、今年度考えてきたことは、仲立ちしてくださった方々も含めみんなどこかで繋がっている。不思議なことである(しかし上の本、みんな同じ感じのタイトルだなあ。岩波編集者のサジェスチョンなんだろうけど、もうちょっと特徴を持たせようよ)。
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最近のマンガ単行本

2010-12-25 11:39:25 | 書物の文韜
世の中はクリスマスである。ぼくには信仰上は関わりはないが、心情的には敬意を表しておきたい。

ところで、今年ももうすぐ終わりなので、このところ言及していなかったサブカルネタをまとめておこう。上に並べたのは最近買ったマンガ、雑誌の類である。マンガといえば某賞?に選ばれ、売り切れ続出の『進撃の巨人』が巷を騒がせているが、ぼくは何となく気に入らない。確かに1巻が出たときには、同人誌レベルの画力・構成力にもかかわらずなぜか読ませる不可思議な力量、いろいろな妄想を抱かせる展開に魅力を感じたのだが、最新の3巻では早くもその輝きが失せてきた。きっと、読む側の「妄想の幅」が狭められて、作者・編集者の想像力の限界がみえてきてしまったからだろう。実際にそうであるかどうかはともかく、そう思わせる流れになってしまってきたことが問題なのである。また、これだけ騒がれてみんなが読んでいると、へそ曲がりのぼくは、「そんなにいいマンガなのか?」と疑問を持ってしまう。その意味では不当な評価かも知れないが、1巻発売の頃から、何となく「過剰宣伝」の雰囲気はあった。それが年末の受賞に繋がっているので、どこかに『KAGEROU』的な胡散臭さを感じてしまうのだ。デザインや設定はすべて見覚えのあるものだし、画力的にも何ら魅力を覚えないので、新たに驚愕させるような展開が起きない限り、もはや購入はしないだろう。
その点、福島聡の新作『星屑ニーナ』は凄まじい。ネタバレになるのでストーリーについては書かないが、1巻でここまで濃密な物語を作ってしまって、この先どう展開させてゆくのだろう。「人間は死ぬがロボットは死なない」という時間的感覚の食い違いは、これまでにも何度か描かれてきたが、それを生命の問題、記憶の問題として、何十年、何百年にもわたって描ききろうというのだろうか。切ない。色の薄いインクでの印刷も、福島聡の画に合っていてよい。
山川直人の『澄江堂主人』も、いわゆる流行とは真逆の絵柄だが、1ページ1ページがイラストとしても成立しており、所有欲を大いにくすぐる出来となっている。物語は、芥川龍之介の晩年を、彼を漫画家に置き換えて描いたもの(前編はほとんど「歯車」のマンガ化といってよい)。その「置換」自体にいかなる意味があるのかは不明だし、好き嫌いも分かれるだろうが、読者の想像力をかきたてる力を持った記憶に残る作品である。
『京大M1物語』は、今まで手にしたことがなかったのだが、最近何となく買って読んでみた。物語と構成の緻密さは及ばないが、男性視点版『動物のお医者さん』といったところだろうか。京大が舞台なので、やや森見登美彦も入っている気がする。「動物民俗学」研究室の設定には疑問を感じなくはないが、大学院の雰囲気はよく出ているかも知れない。それにしても、この1巻は2007年に出ているのだが、その後3年の間続刊がなされていない。『四畳半神話大系』人気に便乗できそうなものだが、『もやしもん』なんかとバッティングして敗北したのだろうか。ちなみに、大学サークルものでは『げんしけん』などが人気だが、ぼくの学生時代は細野不二彦『あどりぶシネ倶楽部』がバイブルだった(文庫化されているようなので、映画好きの人はぜひ)。
最後の『幽』は、毎季楽しみにしている怪談専門誌。今回は「みちのく怪談」が特集で、赤坂憲雄さんも出ており興味深く読んだ。しかし最近、「怪異」を商品化している印象があまりに強くなってきて鼻につくのも確かだ。主力連載である「実話怪談」類も、加門七海や立原透耶のものには、時折気分が悪くなる表現がある。平山夢明も同じだが、彼は当初から「実話怪談はフィクションである」ことを標榜しているので、別に怒りは覚えない(作風が好きになれない、というだけである)。その点、小池壮彦、安曇潤平の書くものには、「分からないもの」への敬意が感じられ、落ち着いて読むことができる。どうか、安易なスピリチュアル・ブームに流されないようにしてほしい。
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久しぶりの連休

2010-11-03 12:49:27 | 書物の文韜
勤務校が学園祭なので、祝日も併せて久しぶりに連休となった。合間に学科長会議・教授会の議事録作成、『上智史学』の念校作業、来年度宗教史懇話会サマーセミナーの事務作業などもこなしつつ、前半は専ら書庫=書斎の整理に費やし、後半は原稿執筆と11月の講演・報告の準備を続行。11日に明治大学情報コミュニケーション研究科主催特別連続講義「情報社会の諸相―性・聖・生―」(「場所の記憶と怪異の想起―喰違見附を中心に考える―」)、13日には上智大学史学会大会(「『毛皮』からみる種間倫理―東アジアにおける神話の一祖型―」)、18日に発足したばかりの儀礼研究会例会(「霊を送る祭儀の形式と具体相―比較の有効性と問題点―」)と、10月のシンポ・ラッシュに引き続き講演・発表が控えている。全学共通科目の輪講「環境と人間」でも、仏教における自然・人間・生命の捉え方について話をしなければならない。さらに論文や書評の依頼も来ているが、ありがたいとは思いつつ、返事を出す気も起こらない日々である。喘息の発作はようやく治まってきたので、この休みの間に元気を取り戻そう。

さて、過日次兄よりとても高価な『社会学事典』(丸善)をいただいた。弘文堂や有斐閣のものに比べて、概念や方法を解説した「読む事典」のニュアンスが濃い。社会学を専門にする研究者だけでなく、ウェーバー、デュルケーム、ジンメル、パーソンズ、ギデンズ、ブルデューなど、その思想自体を対象とする哲学者・歴史学者、彼らの提示した概念を援用している隣接諸科学の研究者にも、利するところが大きいだろう。ちなみに、兄はブルデュー関連の項目で「再生産」などを執筆している。参照されたい。
その右は、つい最近勤務校の購買で仕入れたもの。恐らくナイトメア叢書と同じデザイナーの装幀だろう、それらしい雰囲気になってしまっているが、本草学を核に据えて説話や民間伝承、そして民俗学の枠組みを照射しようとする優れた書物である。環境文化論としても重要だろう。手に取ったのは、第1章「『山人の国』の柳田国男」が最近の関心と直結するからだが、他の収録論文も面白そうだ。ぼくにとって未だに見通しの利かない江戸期の言説世界を照らす、灯台のひとつになってくれそうである。しかしこの人、南台科技大学の教員で本草学に詳しいのに、論のうえで漢籍との繋がりがほとんど示されない。あえてそちらの方には意識を向けていない、ということだろうか。

その他、ローレンツの名作『人イヌにあう』を新版で読み直し、東方書店で楊宝玉『敦煌本仏教霊験記校注並研究』も購入。トマス・ピンチョンの完訳シリーズにも手を出したいのだが、小説なのにあまりに高いので二の足を踏んでいる。古本屋で安く仕入れるか。
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最近の読みものから

2010-07-14 00:16:10 | 書物の文韜
以下は、もともと先月アップしようとして、草稿のまま残しておいたものです。

森見登美彦の『ペンギン・ハイウェイ』をどうやら読了。爽やかな夏の風が吹き込むファンタジーだが、これはやはり、かつて少年だった大人の読むジュブナイルだろう。ここにも、異類婚姻を基本にした、死者との関わりを語る物語があった。ネタばれになるのでできないが、最後の数行は、ありきたりではあるが、引用したいほどに切ない。かわりに、ナンシー・ウッド『今日は死ぬのにもってこいの日』から、次のインディアンの言葉を掲げておくことにしよう。
もしも、おまえが 枯れ葉って何の役に立つのってきいたなら
わたしは答えるだろう 病んだ土を肥やすんだと
おまえは聞く 冬はなぜ必要なの?
するとわたしは答えるだろう 新しい葉を生み出すためさ
おまえは聞く 葉っぱはなんであんなに緑なの?
そこでわたしは答える なぜって、やつらはいのちの力に溢れているからだ
おまえはまた聞く 夏が終わらなきゃいけないわけは?
わたしは答える 葉っぱどもがみんな死んで行けるようにさ
おまえは最後に聞く 隣のあの子はどこに行ったの?
するとわたしは答えるだろう もう見えないよ
なぜなら、おまえの中にいるからさ
おまえの脚は、あの子の脚だ

『中世幻妖』は田中貴子さんから、『漢字文化圏への広がり』は石井公成さんから、『水の音の記憶』は結城正美さんからご恵送いただいた。
田中さんのご著書は、歴史学の欲望の表象たる「時代区分」批判を(ぼくのように)単なる理論的解体に終わらせず、血の通った近現代人論、近現代文化論としてまとめたもの。「本当の中世」など存在しないとすれば、重要なのはその「語り方」である。自分は「歴史」をどのように語っているか、「日本」をどのように語っているか。再帰的な問いを発したくなる1冊である。
石井さんのご著書は、朝鮮・ベトナム仏教の研究水準を示した概説で、石井さんの学識の広さには驚かされるばかりだ。最近は、韓国の出土文字史料に重要な発見が相次いでいるし、ぼくはベトナムばかりか朝鮮にも不案内なので(それではいけないのだが)、全体の見通しを得るためには格好の書物である。なお、石井さんからは 「聖徳太子伝承中のいわゆる『道教的』要素」(『東方宗教』115号、1~23頁)もご恵賜いただいた。早速講義等々でも紹介したのだが、納得できる議論が展開されている。ただし、厳しい批判の対象となっているのが知人ばかりなので、心情的にはかなり複雑である。いずれにしろ、今後の聖徳太子をめぐる議論において、石井さんや(以前からも書評等に書いているとおり)森博達氏への学問的応答は必要不可欠になってくるだろう。
結城さんのご著書は、エコクリティシズムの観点から幾つかの日本文学を批評したもの。母親が子供を食べるということはどういうことなのか、石牟礼道子の『苦海浄土』をモチーフに発する結城さんの問いかけに序盤から共振する。食べること、そして食べられることには快楽がつきまとう。一方は性的なものを帯び、もう一方は母胎回帰と再生を表象する。野生の思考を飼い慣らそうとした制度との緊張関係も、「食べる」という行為をとおして最も顕著にみえてくるように思う。
田中さん、石井さん、結城さん、どうもありがとうございました。
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薙鎌とリドサウルス

2010-04-20 19:46:51 | 書物の文韜
一向に進まない御柱祭シンポの準備をしながら、1月の国際シンポ「日本文学研究とエコクリティシズム」のテープ起こし原稿の校正、森話社の『王朝人の婚姻と信仰』寄稿論文の校正を終えた。月刊状態でシンポジウムの報告や論文執筆を引き受けたりすると、必ず校正段階で幾つかかち合うものが出てくる。当初は、「この報告の準備をこの月、この論文の執筆をこの月…で何とかなるか」としか考えていないので、校正の段階で「しまった!」と思うわけだ。この点をまったく学習せずに繰り返しているから、結果、1年中常にヒーヒー喘ぎ続けることになる。今日も「9月末」という原稿を引き受けてしまった。まあ、学内共同研究の成果が上智大学出版会より刊行されるという話だから、断れないのだけれども。月刊状態がまた1ヶ月延びました…と、10月にもすでに立教大学での講演を引き受けているから、今年1年はほぼ月刊か。2冊の書き下ろしの本のことを考えると、まったく休刊月はないわけだ。ふー。

御柱祭シンポの方は、動物の送り儀礼との比較がメインになりつつあるが、やはり薙鎌の存在が気にかかる。御柱の候補として見立てられた巨木に打ち込む、タツノオトシゴのような形状をした鎌なのだが、本来は辟邪、それが転じて風害除けや祈願成就の習俗へ転じていったものだと考えられている。そこには、樹木伐採に中臣祭文を用いるようになった文化的背景が隠されているはずだ(以前に論文で書いたが、大祓祝詞に基づく中臣祭文には、罪や穢れを根こそぎ切り払うという詞章があり、そのために中世には霊木伐採の呪文としても用いられた。伊勢神宮の山口神祭でも、近世には中臣祭文を使っていたことが分かっている)。鎌は、中臣鎌足が蘇我入鹿を倒した王佐の武器の象徴として、中世以降様々に伝説化されてゆく(幸若舞や浄瑠璃などでは、入鹿の首をはねるのは鎌足の「鎌」なのだ)。薙鎌が御柱祭に使われることは、こうした歴史的文脈と必ずどこかで繋がっているはずである。また、狩猟文化である動物の送り儀礼との関係でみてゆくと、見立ての木に打ち込まれる薙鎌の役割は、イヨマンテの子熊に射込まれる花矢に酷似している。いわゆる「白羽の矢を立てる」こととも関係があるだろう。御柱祭と動物の送り儀礼とに共通性を認めてよいとすれば、諏訪の古代的世界には、動物/植物の区別を設けないアニミズム的信仰が存在したこともみえてくる。あと数日、きっちり論を仕上げてゆこう。

研究に煮詰まってくると本屋で衝動買いするのがぼくのストレス解消法だが、先日も吉祥寺のブックファーストで左の小説を購入した。SF界の大御所レイ・ブラッドベリの幻想小説で、3部作の中巻に当たる『黄泉からの旅人』。解説を読むと、このシリーズはブラッドベリ自身の青春時代がモチーフになっており、彼が映画と深く関わった1950年代が舞台になっているという。そこで想い出すのは、ブラッドベリの短編小説『霧笛』を原作にした怪獣映画『原始怪獣現わる(THE BEAST FROM 20,000 FATHOMS)』(1953年)。レイ・ハリーハウゼンの現出させたモンスターが海底から現れて都市を襲撃する、『ゴジラ』(1954年)の元ネタ的映画である。ハリーハウゼンは、この後ギリシャ神話シリーズやシンドバッドシリーズなどを数多く手がけ、多くの伝説上の怪人、怪物をスクリーンに蘇らせて、特撮の神様と崇められるようになる。つい最近、森話社の『躍動する日本神話』(5月刊行)に「CGと神話」というコラムを寄稿し、子供の頃から大好きだったハリーハウゼンにも触れたので、すぐに思い浮かんだのだろう。しかし、そのハリーハウゼンとブラッドベリが幼なじみであったという事実は、この小説の解説で初めて知った。人にはいろいろな繋がりがあるものだ。昔、一緒に映画を作っていた仲間のことを想い出した。
そういえば、ハリーハウゼン晩年の作品『タイタンの戦い』がリメイクされ、もうすぐ公開されるという。前作は小学校6年のとき、友人のS君と横浜関内の映画館(横浜ピカデリー)でみた。ペルセウスににじり寄るメドゥーサのシーンに異様な緊迫感があり、顔を覆った指の隙間から画面をみつめたことを覚えている(でも、下半身が蛇体というメドゥーサのデザインは大好きだった。あれは署神だねえ)。往年のハリーハウゼン・ファンからは「腕が落ちた」と不評の作品だったが、ぼくはお気に入りで、サウンドトラックも買い、今でもちゃんと持っている。公式サイトで新作の予告編をみてみると、最近流行のアニメーション的カット割でそれなりに大迫力だが、前作のような緊迫感や恐怖感は感じられなかった。しかし、いま現在も神話を語っているぼく自身の原点に近い映画でもあるので(当時のサブカル界はギリシャ神話が受けており、安彦良和の『アリオン』もこの時期だった。ぼくも、分厚い文庫の『ギリシア・ローマ神話』を買ってきて、創作のネタを探して読みふけったものだ)、新作の方もみにいってみようか。

そうそう、このエントリーのタイトルの意味だが、ハリーハウゼンが描いたリドサウルスのシルエットと、御柱祭の薙鎌のそれとがよく似ているのだ(膝を打った人はコアな人です)。いろいろハリーハウゼンに縁のある4月である。
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