仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

週末もフル回転:が、寝不足で舌は回らない

2007-01-30 23:42:33 | 生きる犬韜
27日(金)は、毎年恒例、中野区沼袋のあけぼの会で講演。今年のタイトルは、上にも掲げてあるように「夢解きの古代史―東アジアから日本へ―」。夢見と夢解きに関する日本文化の成り立ちを、中国古代からの水脈のなかに捉えてゆく内容。とても1時間や2時間で終わるようなものじゃないんですが、10年以上前からお世話になっている方々なので、ついつい張り切って準備をしてしまい、結果、いつも中途半端で難解な話になってしまう。おまけに完徹でうまく舌が回らない。それでもあたたかく許容してくださるお姉様方!に感謝。終了後は駅前の喫茶店で、古代の祭祀や宗教の話をひとしきり。皆さん、たいへんお詳しい方々ばかりなので、こちらがいろいろ教えていただいているようなものです。主催者のWさんは、折口の話もぜひ聞きたいと仰ってくださったのですが、あいにく栄区でも話さないことになっちゃったんですよね。可能性があるとすれば、6月京都の仏教史学会講演会でしょうか。

28日(日)は環境/文化研究会(仮)1月例会。開始前に中国から帰国中の水口幹記君とランチ。杭州へ渡ってからも、彼の旺盛な活動は相変わらず(貴族社会における中国的知の認識論を専攻にしているはずが、どんどんとコアで怪しい世界に入り込んでいるような気がしますが…)。でもちょっとやつれたかなあ。いつも楽しげな筆致のブログを書いているけれども、本当はナイーヴな男なので(なぜか、そういう人間が友人に多い。たぶん悩める人間が大好きで、覚りきった人間が鼻持ちならないからでしょう)、人にいえない苦労もあるのでしょう。できることは協力するからね。
ところで、今回の報告は、東城義則君と山口えりさん。内容はまた詳しく書きますが、お2人とも、こちらの想像力を刺激する力のこもった発表でした。東城君のは、まさに〈浮遊するシニフィアン〉に関する研究というべきか。しかしシニフィアンは、我々の前には必ずシーニュとしてしか現れえない。研究者にとっても、そこがいちばんに難しいところでしょう。山口さんのは、彼女がずっと取り組んでいる請雨儀礼の研究。なぜ神泉苑に龍が現れるという認識が成立したのか、平城京/長岡京/平安京の左京三条三~四坊の空間は、道教的にも仏教的にも、時空を超えて龍蛇に貫かれているようですね。
飲み会の終わりに土居さんの語ったひとことはなかなかに秀逸。なるほど、未来への投資か…。しかし、ぼくの場合は志が低いので、もう少し利己的かも。早く偉くなって、物知りになって、ぼくに知らない世界をた~んとみせてくださいという。よろしく頼みますね。

29日(月)は、某大学で修論の口頭試問。副査を引き受けていたので、いろいろ準備をして臨みました。院生のA君とは、数年前に東京で開催された〈宗教史懇話会サマーセミナー〉を手伝ってもらって以来。そこで企画された陰陽道の部会をみて、最終的に修論のテーマに選んだとか。全体的に時間不足の感は否めませんでしたが、安倍氏・賀茂氏の家説が正統的言説として起ち上がり、他氏の解釈を排除してゆくさまはよく描けていました。ドクターには進まないとのことでしたが、ぜひこれからも研究を続け、投稿論文として完成させてほしいものです。「北條さんとお会いしたサマーセミナーでこのテーマと出会い、修論の副査も北條さんだったのでよかったです」とコメントをくれたのですが、少しは責任を果たせたでしょうか…。もやもやしたのか、本務校へ帰る途中に現代思想関係の本を幾つか買い込みました。

30日(火)は、午前中に兄と親戚のご葬儀を勤めてから出勤。研究室で、2日後に迫った卒論口頭試問のチェックをしつつ、部屋を訪ねてくる2年生、3年生、4年生と来年度の相談をしました。相変わらず部屋のなかは本もまばら、殺風景な状態が続いているので、これからめくるめく怪しい空間にプロデュースにしようと思案中。

さて、左は森見登美彦の快作、『夜は短し歩けよ乙女』。映画へゆく時間がまったくとれないので、電車内でのストレス発散にと購入したのですが、いやあ、こんな楽しいハナシは久しぶりに読みました。破天荒にばらまかれた物語のピースが、終局へ向けて猛スピードで繋がってゆく離れ技。神の視点に立つ読者は、パズルがどのように組み上がってゆくのか、ハラハラしながら見守るばかり。〈運命じゃない人〉効果とでもいいますか、〈シムラシムラ!〉効果とでもいいますか(『8時だヨ!全員集合』の冒頭コントで、背後から忍び寄る忍者やお化けに襲われる志村けんを、観客の子供たちが「シムラ!シムラ!」と教えて助ける仕組みから、物語の内的世界では認知されていない事象を読者が俯瞰して察知、いても立ってもいられなくなる情況を生み出す作法を呼ぶ。…って、ぼくが勝手に命名しているだけだけれども)。京都と古本屋と大学という奇妙な空間、そしてちょっぴりの怪異を愛する人間にとっては、きっと宝もののような一冊になることでしょう。ぼくもこんな青春を送りたかった(知り合いからは、似たようなもんだったといわれるかも知れないが…)。
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多忙:大学教員の1月を甘くみていた

2007-01-23 03:15:42 | 生きる犬韜
今年度の授業はすべて終了したのですが、まったく余暇が得られません。この時期やらなきゃいけないことって、けっこうたくさんあるんですよね。そこへ不用意に予定を詰め込んでしまっていたので、すぐ弱音を吐くぼくはひぃひぃいっています。映画にもゆけない。

まずは卒論、そして修論。本務校の卒論試問が2/1、修論試問が2/16。副査をやっている某大の修論試問が1/29。それまでに卒論7本と修論2本を読み、問題点を指摘し、質問内容を吟味しなければなりません。現在、まさに明けても暮れても論文添削です。2/2には全学共通日本史と日本史特講のレポート〆切。/9には成績表を出さなければいけないので、1週間で200通近くのレポートを採点する必要があります。
それから、大学の授業は終了したといっても、1/24と/27には豊田地区センターでの講義、中野区あけぼの会での講演があります。準備をせずに喋れるような達人ではないので、とうぜん時間を割かなくてはならない。
原稿執筆に関しては、1/25までに『古代文学』シンポ原稿の初校、1月中に『日本歴史』掲載の書評1本(これは確実に遅れそう)、2月上旬に歴博共同研究の古代神社通史・研究文献目録提出、2月中に昨年の仏教史学会聖徳太子シンポの討論記録校正。
その他にも、とうぜん会議が入ったり、研究会が入ったりはするわけです。3月には古代文学会叢書の論文〆切、栄区古代史研究会での講演、朝日カルチャーの講座が控えています。4月になれば大学の行事がわさわさと動きだし、GW明け、7月末、8月上旬、9月末と原稿の〆切があり、大学の通常の講義と併行して上智のコミュニティ・カレッジに首都大のオープン・ユニバーシティ、6月には仏教史学会の京都での講演会などなど…。ぼくはキャパシティが狭いので、今の時点で気が遠くなりそうですね。どうするオレ!といったところで、「探さないでください」と書き置きして失踪するわけにはゆかず、こつこつ確実に片付けてゆくしかないのですが。

左は最近仕入れた、読みたいけれども読む時間のない本。ロベール・ドロール+フランソワ・ワルテール『環境の歴史―ヨーロッパ、原初から現代まで―』(みすず書房, 2007-01)深沢徹『『愚管抄』の“ウソ”と“マコト”―歴史語りの自己言及性を超え出て―』(森話社, 2006-11)。後者には、中世においてクローズアップされてくる中臣鎌足の〈鎌〉に、「中臣祓」の「利鎌」の影響を見出す指摘あり。上の『古代文学』の原稿でもちょっと触れているんですが、これ、樹木伐採の呪文としても使われてゆくんですよね。鎌倉の地名起源にもなり、藤原将軍の武力をも正当化してゆく〈鎌〉を媒介して、『六韜』の兵法と伐木とが結びついたりすると面白いのですが…(黒田さんの論文、ちゃんと読み込まねば)。
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思う:阪神淡路大震災から自然もろもろ

2007-01-18 05:46:39 | 生きる犬韜
ここ数日、最後の講義の準備をしながら、卒論をチェックする日々が続いています(歴博の仕事はちょっと中断)。メモを書き入れるためにコピーした紙面が、みるみるうちに赤字だらけ。この作業をしていると、自分には加虐趣味があるんじゃないかと悩んでしまいます(いや、ないですよ、実際は)。

15日(月)で2年間お世話になった早稲田の非常勤も終了、今年度はあまり自分の思うように授業が進められませんでしたね。演習の場合、昼間仕事をしている学生の割合が多いと、どこまで彼らに準備を要求できるか、判断が難しい。いうべきことはいいますが、どうしても舌鋒が鈍ってしまう。他の参加者の質問に答えられない報告が多かったため、こちら側が補足修正に時間を費やし、半ば講義のような状態に陥ることもままありました。それでも、何人かとは打ち解けて意見交換する機会を持てたので、多少は責任を果たせたかと考えています(どうかな?)。

17日(水)は、全学共通日本史の最後の講義。120人の学生が(まあだんだんと減ってはゆきましたが…)、不思議なことと驚くべきか感謝すべきか、ヒソヒソ話もせずに聞いてくれ、毎回の感想・質問も活発で好評でした。レポートの方も楽しみです(1週間でチェックし、採点しなければいけないのはキツイですが…)。今回は木鎮めと大木の秘密を対比的に論じていったため、どうしても「樹木に対する想像力が衰退する」という方向へ落とさざるをえなかったのですが、来年度は木霊婚姻の問題を中心に扱い、人間と樹木の心の交流をもう少し丹念に追ってゆきたいと考えています。木霊婚姻の形成過程については、自分のなかでもいまひとつ確証が掴めていません。やはり『三宝絵』周辺が最初の画期でしょうが、その後はどう展開してゆくのか。遅ればせながら「三十三間堂棟由来」関係の資料を収集し(なんか芸能史の方向へ進んでゆきそうですよ)、近世からの遡及的ベクトルでも追究を始めているところです。山形の阿古屋の松へ、中将姫的な木霊婚姻譚がいつ頃付与されるのかも注意したい。木遣り歌の展開にも関心が出て来ました。もう古代史じゃありませんね。
ところで講義の最後は、阪神淡路大震災13回忌の話題でしめくくりました。12年前の3月、極めて短い期間だったものの、ぼくもボランティア活動に参加、郊外に作られた仮設住宅へ救援物資を運搬する作業に従事しました。自分自身の〈物語り〉を整然と編集しようとは思いませんし、うまく論理づけることもできないのですが、自然環境と人間の心性との関係を強烈に意識し、研究がそちらの方向へ傾いていったのは明らかにこの時期以降です。自然に傷つけられた人の心、自然を傷つけてゆく人の心…。問題提起を終えて研究室に帰り、その日のリアクションに目を通すと、北海道出身の学生から「奥尻島も忘れないでください」とのコメントが。〈物語り〉の排除の機能に、今さらながらハッとした一日でした。

左は、以前紹介した中村生雄さんの文章にも引かれていた、小林照幸『ドリームボックス―殺されてゆくペットたち―』(毎日新聞社、2006-06)と、谷口ジロー『犬を飼う』(小学館、1992-10)。ともに、これからペットを飼おうと思っている人には、ぜひ読んでもらいたい好著です。後者の、「かれらは私たち人間に身をゆだねなければ生きていけない。だから私たちの身勝手さを許してくれる」という一文には、はからずも一方的な生殺与奪の関係を築いてしまっていたことに気づく、飼い主の戸惑いと驚愕が表れています(岡部さんと飼い犬チビとの関係も参照。例えばこちら)。例の坂東真砂子に感じる違和感は、そのジレンマを「大切なこと」と受けとめて生きているかどうか、でしょうね。
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死角:穴にいる巨人

2007-01-12 11:46:57 | 書物の文韜
10日(水)は、1限「樹木をめぐる心性史」にて〈講義始め〉。大木の秘密型伝承の成立から神殺しに話が及びましたが、残るはこの回を入れて2コマのみ。スケジュールが消化できないのは毎度のことですが、木霊婚姻にまでたどり着くことも叶いませんでした。来年度は「II」と題して、婚姻の問題を集中的に扱いましょうかね。

研究室へ戻ってメールを確認すると、歴博の作業をもう少し余裕を持ってできるらしい、いい知らせあり。学科会議と1年生へのプレゼミ説明会をこなした後、上記の書物、日野巌『植物怪異伝説新考』上・下(中公文庫、2006年11月)を買いに書店へ。なかなか見つからず、結局翌日にジュンク堂の新宿店で購入しました。恥ずかしいことに、この本、今まで存在を知らなかったんですよね。著者の日野巌は明治生まれの植物学者で、その後民俗学にも進出した人のようです。平野仁啓といい斎藤正二といい、やはり〈隠れた巨人〉は存在するもので、この人の著作も凄い。古代から近世に至る500以上の文献から植物の怪異に関する記事を抽出、類別して解説を加えた〈植物怪異類書〉とでもいうべき書物。1978年の初刊で、昨年の夏に文庫化されたんですね。最近、同文庫から、姉妹編にあたる『動物妖怪譚』上も出版されました。いずれも読み応えあり、私の研究に資すところも大です。先ほど〈隠れた〉と書きましたが、隠していたのは私の不明であり、やはり研究史には注意して取り組まねばなりません。どこぞの本のように、学界のイニシアティヴを握ろうと学び捨ててちゃいけません。そういう理論、方法論更新の繰り返しはパラダイム・シフトでもなんでもない。もう止めた方がいいと思いますね。

気をよくしたついでに、『幽』最新号と、ちょっと気になっていた入江亜季『群青学舎』松本大洋『竹光侍』を購入。『幽』は毎号必ず手に入れている怪談専門誌で、怪異と真剣に取り組んでいる点が魅力。民俗研究・文学研究としても、読み物としても質が高い雑誌です。趣味と実益を兼ねた実録怪談を読みつつ家に帰ると、某大学から宅急便が…! なんと、副査を引き受けていた修士論文ではありませんか。今年は提出できないかも知れないという情報を得ていたので、安心していたのですが…。がんばったんですね。試問はいつなんでしょう。
しかし、これで少し出来た余裕も消滅、また分刻みの仕事三昧に逆戻りです。ある意味、怪談よりも怖ろしい話。

ちなみにプレゼミ説明会終了後、早くも女子3名が登録をしに来ました。ミイラが好きとのこと…今の2年生にも即身仏を研究したいといっている学生がいるのですが、なんでそういう人たちが集まるのだろう(と疑問に思っているのはぼくだけ?)。
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コアなマンガ作家たち:しかし絵へのこだわりは…

2007-01-08 11:08:51 | 書物の文韜
歴博共同研究のノルマとなっている、神社関係の文献目録を作る作業をしています。ひたすらの打ち込み。学部時代からの手慣れた作業であり、また学界に少なからず寄与することになる仕事とはいえ、やはり考察を伴うものの方が生産的な気がしますね。たまに自分自身が見落としていた、重要な論文を発見できることもあるのですが、しかし手を止めて読んでいる余裕はない。へこみます。

さて、上に挙げたのは年末年始に読んだマンガ群。左から、谷口ジロー『シートン動物記(1) オオカミ王ロボ』(双葉社)諸星大二郎『スノウホワイト―グリムのような物語―』(東京創元社)『トゥルーデおばさん』(朝日ソノラマ)。谷口ジローは以前から好きな作家のひとりで、彼オリジナルの一連のハードボイルドものもいいのですが、やはり関川夏央と組んで明治の文豪たちを描いた〈坊ちゃんの時代〉シリーズが気に入っています(学生時代、本当に次巻が出るのが待ち遠しかった。マンガが研究書と同次元で読みうること〈それがマンガにとって幸せであるかどうかは別として〉を初めて教えてくれた作品でもありました)。シートンのシリーズももっと早くに読みたかったのですが、なぜか買いそびれて今に至ってしまったのでした。「ロボ」自体は小学生のときに読んだ記憶がありますが、非常に難しく感情移入できなかった印象が残っています。子ども時代のぼくのメンタリティーは、スターリング・ノース『遙かなるわがラスカル』、ジャック・ロンドン『白い牙』、戸川幸夫『牙王』によって形成されていましたが、これら自然主義文学の傑作たちをアニメーションというメディアを通じて摂取したために、自然/人間の埋めようもない溝を刻んだ深淵の部分に目が届かず、理想主義的な心の交流ばかりに耽溺してしまっていたのです(もちろん、それらのアニメ作品自体は、原作にひけをとらない素晴らしいものでした。あくまで、幼いぼくの目がその全体像を捉えきれなかった、ということです)。そういう視野からすれば、ナチュラリストでありながらロボに闘志を燃やしてゆくシートンの内面的葛藤、畏怖と敬意、そして敵意の入り交じった複雑な心情は理解できなかったのでしょう。いま読んでみると、そこには自然/人間の二項対立的には把握できない関係性、狩猟者の自然観、西欧キリスト教的自然観の問題など、ぼくらが現在突き当たっているアポリアが深くえぐり出されていることに気づきます。先に挙げた『ラスカル』や『白い牙』も含めて、熊谷達也の一連の小説にも繋がってきますね。谷口ジロー自身、犬と登山に深い愛情を注ぐナチュラリストですから、シートンの心の動きを自らのものとして掘り下げているのがよく分かります。シートン自身の文章にも触れてみたい、そう思わせる佳品でした。
次の諸星版グリム童話は、単なるコミック化というより、諸星大二郎がグリム蒐集の民話にインスパイアされて紡ぎ出した、SF・ホラー・不条理の短編集というべきもの。彼一流の〈柳田的〉民俗世界に通じるものがあり、フォークロアの普遍性/多様性が浮かび上がる構造になっているのは面白いですね。とくに、2書に共通してとりあげられている「ラプンツェル」は、髪を伝って外の世界からやってくるモノは何なのかという、共同体の抱えるマレビトへの根源的恐怖を凝縮した物語。日本古代の蘇民将来伝承や、現代都市伝説の〈接近型怪談(1日1日と恐怖が近づいてくるもの。電話をかけてくるリカちゃんがいつの間にか背後に迫っている、毎晩何者かがアパートの階段を少しずつ上ってくる、といった形式が典型)〉の内容にも繋がっています。しかし諸星は、マレビトの持つ〈安定した世界を崩壊させる危険性〉を〈閉鎖的な世界を解放する可能性〉へ読み替え、両義性の正/負の要素を相即で結んで止揚してゆく。2人のラプンツェルがそれぞれどのような運命を辿ることになるか、皆さんもご自身の目でお確かめください。

しかしこのベテラン2人、描画に対するこだわりは段々と希薄になっているように思われます。そこが大友克洋や福山庸治とは違うところかなあ。単純化された絵もいいですが、ぼくはマンガにしかできない強烈な描き込みに魅力を感じます。最近(でもないか)では寺田克也や衣谷遊、鶴田謙二、沙村広明、そしてもちろん井上雄彦がお気に入りなわけですが、彼らの偏執狂的画面作りはいつまで続くのでしょうか…?
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高校同窓会:とその後

2007-01-05 01:58:18 | 生きる犬韜
年が明けて、早くも4日が経ってしまいました。
1日は四ッ谷の親戚の家に出かけて暮れ、2日はMacにテレビチューナーを接続、その他ソフトをヴァージョン・アップしただけで終わってしまい、3日は高校の同窓会に出席するため横浜に出かけました。会場は、横浜そごう隣のスカイビル27階、クルーズクルーズ。そごうの大時計の下で10年ぶりに会う友人、H君(高校1年のとき同じクラスで、出席番号が連続しており、趣味もよく合ったので最初に友達になった。現在は東証勤務、鎌倉在住)と待ち合わせ、一緒に会場へ。まったく変わっていない人、変わり果てた人、失礼なことにまったく思い出せない人…参加者は様々でしたが、それなりに楽しい一時を過ごすことができました。実は、ぼくの通った高校は、2010年に廃校になってしまうんですよね。横浜といえど少子化の波は免れず、過疎化が進む一方なわけです。これから、各年代の同窓会活動が活発化することになりそうですね。

同窓会終了後は、昔の映画仲間、葉山(旧姓佐々木)洋介と待ち合わせて「クリエイティヴなことを語り合う会」?へ。実はH君も同じ仲間(彼は洋介と中学の同級生。高校時代にH君を通じ、洋介やいまやCGクリエイターとなった依田真一郎君と知り合った)、3人で場所を移し近くのasian kitchenへ。洋介のhpでダイジェスト版をダウンロードできますが、このメンバーで15年ほど前に長編のビデオを製作していて、かなりの年月と金銭を費やしたにもかかわらず、未だに仕上がっていないのです。脚本・撮影・絵コンテ・演出はぼく。洋介が主役、H君は準主役。ぼくが大学院に入って忙しくなってしまったせいで、結局撮れなくなっちゃったんですね(責任は重い)。そこで話題は必然的に、「で、あれはどうすんだ?」ということと、「何か新しいの創らない?」ということへ。冷静に考えればそんな余裕はないんですけど、しかしどこかで情熱がくすぶっていて、昔の仲間と会うと否応なく刺激されてしまう。
そういうわけで、なぜか、1~2月に1度は会合を持って、新作を作成しようという流れに。さて、どういうことになりますか。

このところの脂っこい食事で胃腸がやられたせいか、仕事を始めようと思っていた4日はダウン。深夜になって、ようやく歴博の作業を開始しました。
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謹賀新年:しかし年末の動き

2007-01-01 09:30:48 | 生きる犬韜
皆さん、明けましておめでとうございます。大晦日は恒例の除夜会、朝から準備して午前2時頃には終了(今年はちょっと早めでしたね)、年越したそばを食べてから倒れて、先ほど起床したところです。懸案の年賀状も、大晦日の夕方までかかってようやく出し終えました(到着遅れます)。これから母の実家、四谷の林光寺さんへ行くことになりますが、その前に年末の動きを記しておきます。

29日(金)、年賀状を書く前に、方法論懇話会年報『GYRATIVA』4号の再校版下を作成。『古代文学』の原稿が長引いたため先延ばしになっていたのですが、NEWマシンiMacのおかげでInDesignもサクサク動き、短時間で編集終了。配送も終わって、今度はようやく年賀状。以前はPainterとタブレットを使って凝ったものを描いていたのですが、最近は本当に押し詰まってから作業にとりかかるので、写真やIllustratorに逃げています。今年は後者で簡単な図案をデザイン、やはりやっつけ仕事には違いありませんが、300通すべてを肉筆で宛名書きし、コメントも書いていますのでご容赦を。宛名書きについては一昨年にいい筆ペンを発見(Kuretakeの「筆ごこち」にZEBRAの「筆サイン」)、まさにペン感覚でいい字体が書けるので、ストレスなく(むしろ発散できます)進められます。しかし300通は多い…来年から一部メールにしようかな。

30日(土)、宛名書きもほどほどに、夕方から新宿へ。淳久堂で少々買い物したあと、「鼎」で大学の同期の仲間たちと飲み会。彼らは毎年この時期に集まってお酒を酌み交わし、「今年を漢字1文字で表すと何になる?」「来年を漢字1文字で表すと?」「今年観た映画のベスト1は?」といったお題を語り合っているそうで、今年からぼくも加えてもらったわけです。みんなそれぞれ含蓄のあることを言っていましたが、ぼくはというと、2006年は「衰」、2007年は「諦」。意味は皆さんで想像してください。観た映画のベスト1は…といってもあまり観られなかったので、やはり『死者の書』ですかね。そうそう、実相寺昭雄監督が亡くなったのは残念でした。映画業界にいる友人からの情報によると、『魍魎の匣』は原田真人が引き継いで撮っているとのこと。永瀬正敏は降板、関口役は誰がやっているのかな?(ま、確かに永瀬では恰好よすぎるんだけど)。18時から始め、23時過ぎまで飲んで解散。人生の岐路に立っているひと、新しい希望がみえてきたひと、そして父親になるひと…各々異なる道を歩んでいますが、それをときおり交差させてみるのも一興ですね(ところで、鼎に入ったときに驚いたのは、なんとぼくらの席の隣で歴研古代史部会の重鎮の皆さんが飲んでいらっしゃるではありませんか。以前宮瀧さんから伺った、同期の研究会ってやつでしょうね。怖ろしかったなあ)。
友人というと、忘れてはいけない話題がもうひとつ。高校時代からの映画仲間で未だに自主製作を続けている男が、「10年前の作品を編集し直してPFFに送った」とDVDを届けてくれました。早速拝見、ノンリニア編集の素晴らしい精度に(もちろん友人のセンスと技術にも)感心するとともに、芝居の遊びの部分を面白がっている自分を発見。現役の頃は、自分の設計どおりに画面を構築することに腐心し、この〈遊び〉が許せなかったんですけどね。編集精度が上がって普通に演技を楽しめるようになったうえに、ぼく自身が少し精神的に成長したのかも知れません。

さて、左は、年末立て続けに頂戴した先学のご高著。斎藤英喜さんの『読み替えられた日本神話』(講談社現代新書、2006-12)、井上寛司さんの『日本の神社と「神道」』(校倉書房、2006-12)、服藤早苗さん編の『文化としての暴力』(森話社、2006-12)。みな魅力的な本で、勉強意欲をかきたてられます。ほかに(まだAmazonに情報がない)小林茂文さんからも、『天皇制創出期のイデオロギー』(岩田書院、2006-12)をいただきました。他者表象、構築主義、物語り論を見据えた序論は刺激的です。方法論懇話会の仲間である松木俊曉さんの『言説空間としての大和政権―日本古代の伝承と権力―』(山川出版社、2006-11)もそうですが、最近、日本古代史の新たな胎動が始まったように思います。ぼくもその一端を担いたいものですね。
ということで、本年もよろしくご教導ください。
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