仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

ウィンター・カウントから

2017-05-29 01:32:13 | 議論の豹韜
この土日は学会などもろもろあったが、仕事が終わらず自宅を出られなかった。月曜の概説「歴史学の歴史」の準備と、概要提出の〆切が迫った古代文学会シンポジウム報告の準備、および学会や校務の細々した作業だが、それらを通じて、それなりに思考も深められてよかった。
シンポのテーマは、ヴァリアントを並存させる古代的エピステーメーを問うという大変なもので、一応セミナー委員の意向を考慮し、ぼくは「宇宙を渡る作法―パースペクティヴィズム・真偽判断・歴史実践―」というタイトルを出した。まだ、海のものとも山のものともつかない状態だが、まずは、パースペクティヴィズムを通したシャーマニズム論の再検討を進めなければならない。神話の語り、文字の出現による変質、文字表記・書承に対する忌避伝承、論理学の成立などが主要な内容になってくるので、なんとなく概説「歴史学の歴史」とも重なる。
この概説、明日は、古代オリエントにおける文字記録の開始からアウグスティヌス『神の国』、オットー・フォン・フライジング『年代記』までを一気に語り倒すが、準備段階でいちばん気を惹かれていたのは、参考資料として掲出する北米ラコタ族の年代記「ウィンター・カウント」だったりする。ラコタ語では「ワニエトゥ・ウォワピ(waniyetu wowapi)」というが、「ワニエトゥ」は「最初の雪から最初の雪まで(すなわち冬)」、「ウォワピ」は「平らなものに書かれたり描かれたりしたもの」を意味するらしい。すなわち、毎冬、1年に起きた部族にとって忘れがたいイベントをひとつ、絵文字1文字にして描き連ねてゆくものである。その年は同事件で呼称されるというから、古代世界に普遍的にみられる以事紀年、大事紀年の一種といえるだろう。
この写真は、1860年代、モンタナ領ヤンクトナイ・バンドのローン・ドッグ(Lone Dog)という人物が所持していたもので、バッファローのなめし革に、1800〜1871年までの71年間に及ぶ出来事が記録されている。中心から渦巻状に連ねられた「歴史」は、まさに円環的時間認識を図示するかのようだが、始点は終点と一致はしない。その意味でウィンター・カウントは、ラコタ族が歴史記述を通じて直線的・不可逆的時間認識に至る、過渡期の産物なのかもしれない。
東アジアの歴史叙述は、獣の肩胛骨や亀甲に刻まれた甲骨卜辞に由来するが、そこには動物霊への信仰が潜在していた。文字は、動物霊の示す卜兆を介して出来するもので、すべて人間の恣意のみによって生じるわけではない。ウィンター・カウントの絵文字の持つ意味は口頭によって伝承されたはずだが、それは必ずや何らかの神霊によって支持されていたに違いない。しかし果たしてその神霊は、口頭の言葉に宿るものだったか、それとも文字に宿ると考えられたものだったか。中島敦「文字禍」が思い出されるが、あれも文字表記忌避伝承の一種といえるものの、口承への注意に欠ける点が不満だ。
パースペクティヴィズムのもとでは生じえない神話の真偽判断は、恐らくは文字の導く論理的思考によって実現される。文字の持つ呪術性に幻惑され、口承から抜け落ちてしまうものがあるのだ。理論的枠組みとしては予見しうるのだが、果たしてどの程度実証できるか、そのあたりが鍵になりそうだ。
ちなみにウィンター・カウントについては、スミソニアン博物館が、西暦のもとに複数のそれを対照して確認できるデータベースを公開している。ちょっと設計が古いようだが、観ていると時間を忘れる。
ほんと、いいな(http://wintercounts.si.edu/flashindex.html)。
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平塚らいてうの「太陽」

2016-11-29 11:52:28 | 議論の豹韜
ちょっと気になることがあって、不勉強をさらしながらも書いておく。平塚らいてうの有名すぎる『青鞜』創刊の辞、「元始、女性は実に太陽であった」なのだが、この「女性」は誰を念頭に置いているのかということだ。あまりものごとを深く考えていなかった頃は、単に古代の女性全般を曖昧に指しているのかな、という程度に解釈していた。しかし、自分なりに日本近現代史を整理してゆくようになって、これはやっぱりアマテラスだよなあ、しかも時代情況を明確に反映して…と考えるようになったのだ。
上記の有名な冒頭の一文のあとには、「私どもは日出ずる国の東の水晶の山の上に目映ゆる黄金の大円宮殿を営もうとするものだ。女性よ、汝の肖像を描くに常に金色の円天井を撰ぶことを忘れてはならぬ」といった記述もある(何となく『霊異記』みたいだけど)。これが何を指すかも議論があり、近年は仏教、禅の思想などの影響も指摘されているが、太陽をめぐる観念複合もアマテラスの平塚的表現かもしれない。
近現代史研究者には自明のことだが、1882年、明治天皇を担ぎ出した伊勢派の前に出雲派が敗退し、明治初年まで神道・国学の支配的学説であった平田国学はもちろん、顕幽論さえもが公式に否定された。神道の最高権威は平田国学の奉じるオホクニヌシではなく、皇祖神アマテラスへと確定されてゆくことになったのだ。我々などは、これを境に忘却の彼方へ消え去ってゆく近世的神話世界に宗教的な豊かさ、多様性をみるのだが、1911年に『青鞜』を起ち上げた平塚らには、かかる江戸時代的国学こそ自分たちを縛る旧弊の象徴であり、新たに近代国家大日本帝国の価値の源泉となった女神アマテラスこそ、女性を解放する光そのものにみえたのかもしれない。このあたりのことは、牟田和恵さんの指摘しているような、平塚が最終的に国権へ吸収されていってしまうことと、何らかの繋がりがあるのではなかろうか。
まだ本当に不勉強でこれから調べねばならないと思っているのだが、初期社会主義者たちのパブリック・ヒストリー的位置づけとも関わってきそうだ。
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『キタキツネ物語』をめぐる民族学的想像力

2016-10-30 11:57:12 | 議論の豹韜
以前に「四谷会談」で加藤幸子さんの新作小説を扱った際、かつては動物文学がもっと盛んで、書店にも「動物文学」の棚があった、という話をした。戸川幸夫や椋鳩十は当たり前で、海外文学はもちろん、幾つかの書名をいまも覚えている。そのときふと気になったのが、高橋健による児童文学『キタキツネのチロン』と、蔵原惟繕監督のサンリオ映画『キタキツネ物語』の関係だった。後者については今さらいうまでもないが、日本文化において培われてきた「ずる賢い」「陰惨な」キツネのイメージを、「健気な」「凜とした」印象へ塗り替えてしまった画期的な作品である。オホーツク海を埋め尽くした流氷の彼方から、北海道は釧路の雪原に降り立ったキタキツネのフレップ。彼は、その地の厳しい自然や人間との格闘のなかで、恋人と出会い、家族を作り、そして大切なものを失い/残し、再び流氷の彼方へ去ってゆく。筋立てとしては、蔵原が日活時代に撮っていた無国籍映画そのものなのだが、随処に使用されたドキュメンタリー・フィルムが、単なるフィクションに終わらない説得力を持っていた。映画が公開された1978年夏(なんと『スター・ウォーズ』とぶつかっていたのだ)、ぼくはまだ小学生だったが、サンリオ出版から出ていたフィルム・ブックと上記『チロン』を購入し、むさぼり読んだ覚えがある。『チロン』は、登場するキツネたちの名前こそ違うが、ストーリーはほぼ共通している。そこで気になったのが、同書は映画のノベライズなのか、それとも原案なのか、あるいはまったく関係なく作られたものなのか、ということである。これは、映画『キタキツネ物語』製作の経緯にも関わる。
そこで、幾つか資料を集めてみた。まず『チロン』のあとがきを確認してみると、同書は単なるノベライズではなく、映画の原案を話し合うなかでまとめたものを、あらためて児童文学にリライトしたものだと分かった。しかし、あくまで児童文学なので、詳しい経緯は書かれていない。そこで、公開当時の『キネマ旬報』1978年7月下旬号をみると、当時のスタッフによる座談会とシナリオが採録されており、概ね製作の経緯と過程が明らかになった。まず、ドキュメンタリー部分の核になったのは、キタキツネの研究者として知られる竹田津実の記録で、これを自身が編集する動物雑誌『アニマ』に紹介した高橋健が、動物映画を撮ろうと動き始めていたサンリオへ話を持ち込んだらしい。サンリオ映画としての製作が決まってからは、高橋がキタキツネの1年を軸に原案を書き、4年かけて素材の撮影を行った。そうして蓄積された45万フィートに及ぶフィルムを、最終的に1本の劇場映画としてまとめてゆく際、蔵原が参加して脚本を書き、キツネの心情をヴォーカルとして表現すること、説明的な台詞を排し物語り的に構築することも決められていったという。恐らくこの段階で、脚本の流れから足りない素材を、飼育されたキタキツネを利用して撮影していったのだろう。なお、キツネの夫婦に目のみえない子供が誕生したことや、素材撮影の途中で多くのキツネが死んでいったことは、生態的な意味での事実であったようだ。ただし、追加撮影のいわゆる「作り」の段階で、飼育キツネにどのような演出が施されたのかは分からない。
座談会を読んでいて興味深かったのは、製作陣が一致して、キタキツネの「子別れの儀式」を映画の最大の魅力としていることだった。蔵原は以下のように述べている。「生物学的には、あの儀式は本能の行為です。大昔とは型式は違ってきていますが、人間にも本能としての親と子の別れは、あるわけです。今は甘えの構造とか、断絶があるので、もっとプリミティブに見直してみようじゃないかと思ったし、ある種、信仰に近い形で、プリミティブなものは美しくて根源的だ、という思いが演出していく上での私のベースになっていた。そういった点で、"子別れの儀式"は僕自身、観て驚き、感動したし、この映画の現実といいましょうか、ドキュメンタリーの白眉ではないかという気がします」。土居健郎の『甘えの構造』。「過保護」という言葉が一般化したのも、この頃であったかもしれない。そして、「プリミティブ」という言葉。「何回も繰り返しますが、もっとプリミティブなものを見つめていくことが必要な時代でもあるんですね。そういうことを、われわれは日常の生活の中で、一切ぬぐいさっている。僕はドキュメンタリー撮影のため、ピグミー族とジャングルで二ヵ月程生活した時、そのことを痛感しましたね。ちょっとキザな話ですが、ホイットマンが死期が近付いた時、"単純なものはすごいんだぞ"ということをつぶやいたと、若い頃何かで読みましたが、ピグミーやインディアンと一緒に生活してみて、ああ、そうかなと、だんだん思うような年齢になってきた。そんな時に、この映画に出会えたのは、すごく幸せだった」(ともに64頁)。1978年といえば、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』が川田順造によって翻訳された、その翌年に当たる。国立民族学博物館が開館したのも、1977年11月だった。近現代の芸術は、常に「プリミティヴ」なものに触発されていたが、この時代にもそうした思潮があり、『キタキツネ物語』成立の原動力になったと思うと、面白い。
それにしてもこの映画、『スター・ウォーズ』の向こうを張って興行収入59億円をあげ、『もののけ姫』に抜かれるまで20年日本映画のトップに輝いていた割に、公刊されている資料が少ない。日本動物映画史、あるいは動物文学史を考えるうえでも、またエコクリティシズムや環境人文学の対象としても、もっと言及されていい気がする。素材部分の撮影の苦労、演出部分の実態と困難、物語の確立までの具体的な議論など、現在も活躍されている関係者への聞き取りや諸資料の発掘を通じ、もっと公けに共有されるべきではなかろうか。
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原尻英樹さん、という文化人類学者

2016-09-19 06:05:28 | 議論の豹韜
幸いなことに、未だ授業は始まらないが、先週から今週にかけては、卒論合宿、カトリックAO入試、海外就学者入試などのイベントがあり、秋学期から来年度へのこまごました事務作業が目白押し。ジャパノロジー・コースの統括や学科カリキュラム再編を担っていると、会議や関係各所への連絡、書類作成だけでどんどん時間が取られる。『上智史学』の編集、文学部初年次研修のコース選定なども同時進行のため、睡眠時間を削って原稿に向かわざるをえないが、情けないことに、若いときのように捗らない、がんばれない。体力と集中力の衰えを感じる…。卒論や修論の追い込みにかかる学生、院生を叱咤激励しつつ、自身のこの為体はいかんともしたがい。

ところで昨日は、京都から畏怖すべき文化人類学者=武道家、原尻英樹さんが調査のために来京されていて、四ッ谷にて2年半ぶりに再会することができた。原尻さんはたいそうタフでパワフルな人で、とにかく語る言葉に途切れがない。会議が遅くまでかかったので20:00からの会食となったのだが、お目にかかって開口一番、「北條さん、昨日も徹夜しただろう。何度いっても無駄だと思うけど、もうだめだよ、それじゃ。早晩死んじゃうよ!」とお叱りを受けた。facebook上でもいつもご叱正をいただくのだが、今回は「このあいだも、あー北條さん京都でゼミ旅行か、学生引率して大変だな、と思っていたんだ。もう学生なんてほっときゃいいんだよ!いい顔ばっかりするからいけないんだ。死んだら残るのは業績だけだ、とにかく早く本書きなよ」ともっともなご意見。しかし、誰かがどこかで自分のことを心配してくれているというのは、本当にありがたいことだ。こんなに不義理な人間なのに。
原尻さんとは、やはりfbが繋ぐご縁というやつで、どこかのポストを通じて知遇を得て、メッセージ・スレッドで何度も何度も理論や方法論をめぐる議論をし、たくさんのことを教えていただいた。年齢は一回りも違うけれど、なぜか可愛がっていただき、実は直接には2回しかお会いしたことがないのに、忌憚なくお話をしてくださる。昨日は、コリアンとは異なるエトランゼとしての朝鮮族の、ナショナル・アイデンティティ、エスニック・アイデンティティとは無縁の自由さ、柔軟さ。移動した先の人々と生産的な贈与交換を行う、強靱な共生の技法。個別の顔と顔を接し、歌や踊り、山登りなどの身体技法を通じて構築されるネットワーク。ぼくが中国西南民族に見出している移動のセンス、メンタリティの豊かな展開について伺って、たいへん満腹になったのだった。途中からは工藤健一さんも加わって、武道の話、環境史の話、江戸の習俗の話なども。たった2時間だったが、非常に豊潤なときを過ごすことができた。今後とも、ご教導をお願いする次第である。

写真は、まず原尻さんの新刊。環東シナ海の交渉・交流を考えるうえで重要。あとの3つは、今回の初年次研修フィールドワークで訪れる場所のひとつ、四ッ谷大木戸跡に置かれた由来不明の八面石塔、太宗寺の塩掛け地蔵、正受院の奪衣婆。咳止めなどの効能があるが、京都のお地蔵さんが願の成就によって五色の真綿を重ねられてゆくのに対し、こちらは白い真綿を被せてゆく(表象はずいぶん違うが、地獄信仰としての構造は同じか)。塩掛け地蔵など、清めのごとく塩を掛けられてしまうわけだが、川越広済寺のしゃぶき婆を思い出す。あちらも咳止め、願成就には紐を結んでゆく形式だった。まさに江戸の境界:内藤新宿を象徴する道具立てだが、柳田国男「石神問答」に描かれた姥神伝承との関連でも面白い事例。1年生にどう説明するか、〈物語り〉を練っておかねば。
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パブリック・ヒストリー研究会公開シンポジウム、終了

2016-09-12 22:10:18 | 議論の豹韜
昨日の「パブリック・ヒストリー」公開研究会、無事終了。思ったより多くの方々にお越しいただき、懇親会も含めていろいろな話が聴け、得がたい経験をした。菅豊さんの力こもりすぎのイントロダクション、岡本充弘さんの現状を浩瀚に俯瞰する周到な講演があり、自分はあまりコメントすることがないなあと思っていたが、岡本さんのお話の多少分かりにくい部分を明確にするよう、ディフォルメを心がけて質問し、また今後のパブリック・ヒストリー研究の論点になりそうなことも、2〜3指摘したつもり。 ちなみに、ホワイトのいうヒストリカル・パスト(historical past、「歴史的な過去」と訳されている)をプラクティカル・パスト(practical past、「実用的な過去」と訳されている。ぼくは「実践的過去」という訳語を使用)に対置されるものではなく、近代科学主義民族(modern scientism tribe)の歴史実践に過ぎないと規定した議論、特権的なものでもなんでもないのだと主張した点は、それなりに玄人ウケした。
しかし、このところの言語論的転回をめぐる動向で、極めて気になっている点については、あまりこの会の趣旨にそぐわないだろうとは思いつつ、質問せざるをえなかった。すなわち、00年代後期に停滞を迎えた言語論的転回をめぐる議論が昨今また復活してきたこと、それはそれで歓迎すべきなのだが、その方向性やインパクトが、90年代当初と比較して希釈されてしまっている点である。具体的には、「言語の世界構成機能」に関する論点の捨象。ぼくからすれば、バルトの「作者の死」も、デリダの「テクスト外というものはない」というテーゼも、この論点をもとにしてこそ理解できるものだ。歴史学がこれを踏まえてテクストを論じようとすると、さまざまな仮定や想定を幾重にも積み重ねねばならないことになり、極めて面倒くさい。方法論懇話会で議論していた折、これらの難問に立ち向かうために、クリサート・ユクスキュルの議論から始めて、認知物語論に至るまで勉強し、人間が自らの環境を構成するその方法について、自分なりに理論構築していった。いまのぼくの環境文化史は、そのあたりのことが基底になっている。環境史に大きく踏み出せたのも、言語論的転回の「質問状」に、具体的に応えようとしたからだ(このとき書いた論文は、『史学雑誌』回顧と展望で、「北條は言語論的転回を思想史の範疇に押し込めようとしている」と、まったく逆ベクトルの読み方をされて〈というか読んでいなかったのだろう〉一蹴されたけれども)。しかし一般的には、これは「歴史学の議論ではない」。それゆえに歴史学では、言語論的転回を自学の俎上に載せるために、希釈に希釈を重ねてほとんど別の問題に作り変えてしまった。そこでの中心的論点である「言語が対象を正確に把握できるか」なんて、アリストテレス的言語観で、ソシュール以降の考え方にはそぐわないだろう。ヒストリカル・パストの特権性を剥奪し、下位の歴史構成や歴史の担い手をとりあげるなどといった傾向も、むしろ社会史の議論であって(すでに、セニョボス/シミアン論争にみられる)、言語論的転回とは本質的な関係がない。7月の長谷川さんの書評会の際にも、その違和感は拭えなかった。
これについて、岡本さんからは納得のゆく答えを引き出すことはできなかった。会場には鹿島徹さんもいらっしゃっていたので、コメントをいただきたかったが、「疲れたから今日は帰るね」と懇親会にはおみえにならず。懇親会の場でいちばん詳しそうな内田力さんとは、概ね理解が一致したと思うが、「希釈したから扱えるようになったので、そこはポジティヴに評価してもいいのでは」と。まあ、それもそうかもしれないが…結局、言語論的転回は歴史学を開こうとした、ある意味ではその可能性を拡大しようとしたのだが、大部分の歴史学者はその実践の困難に耐えきれず、逆に閉塞し、「強烈な毒ゆえに薬にもなりえた液体を、甘い水になるくらいまで懸命に薄めてきただけではないのか」。まあ、ぼくの議論も到底完成されているとはいえず、水を注いでいるばかりかもしれないのだが。そんなことも考えた1日だった。
なお懇親会では、民俗学その他の関係の方々から、理論や方法論に関するさまざまな著作を頂戴し、新たな課題をみつけだすことができた。感謝、感謝である。また思いもかけず、尊敬する川本喜八郎氏と一緒にスタジオで作品を作っていたという!方にお会いし、かなり長い時間お話を伺うことができた。あの優しげな川本さんが、全身に刺青をされていたとか…! ほとんど聞き取り調査だが、またあらためてきちんとお話を伺いたい。歴史学と映像との関係を考えるうえでも、貴重な体験となりそうだ。

※ 質疑応答での発言のうち、斎藤英喜さんの「保苅実はカスタネダになったのか否か」という議論、上智の学生Y君の「歴史戦における公正さをめぐる議論は、結局事実性を基準とせざるをえないのか」という質問、武井基晃さんの「自分とインフォーマントを同レベルの歴史実践主体と把握した場合、相手の〈誤り〉を指摘し、こちらの〈答え〉を示すのは、保苅的には適切なのか否か?」という議論は、歴史学者としてはかなり本質的な問いと感じられた。cross-culturalizing historyが、実際はどれだけ困難かも指し示しており、その問題意識の幾らかは、ぼくも共有している。今後も、できれば一緒に考えてゆきたい。また、保苅実が本当に目指したこの理想が、日本の関連分野でほとんど言及されないのは、やはりポストモダン民族誌の議論が充分咀嚼されず、定着しなかったからなのかもしれない。すなわち未だ日本では文化相対主義が主流で、それは客観主義的対象把握の裏返しなのだという議論が、歴史や文化を考える際の前提とはなっていないのだろう。
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富士見丘学園とのコラボ:環境史フィールドワーク2

2015-09-26 04:45:28 | 議論の豹韜
昨日の四谷会談終了後、ある程度の予習をして仮眠をとり、そのまま京王線の代田橋駅へ。8:30頃から、暗渠化した神田川笹塚支流の踏査を行った。まずは、もはや住宅地化してまったく往時を想像できない(確かに周辺よりかなり低い地形ではある。現在の地名「和泉」も、水が出るからなんだな、とあらためて認識)鶴が久保から始めて、暗渠に沿って笹塚まで。家々の間を細い道が抜けてゆく。途中環状七号線を渉るのだが、この道路の地下には巨大な調整池があり、その建設によって、80年代に頻発した周辺の浸水被害が劇的に減少した。環七を乗り越えると、周囲より一際高く盛り土した道路が甲州街道に沿って北東へ伸びてゆくが、これがいわゆる水道道路で、現在富士見丘学園のあるあたりを最高点に、再び牛窪の低地へと下ってゆく。ふんふんと、そのありようを地図をみながら確認した。女子校の付近をうろついていると不審者扱いされるので、今度は甲州街道を越えて南へ降り、幡ヶ谷取水口跡や(明治時代には、周辺農民が旧上水より水を盗むために偽装した弁天池が掘られたという。京王線の線路との間に、やはり抉られたように低い場所があった)、玉川上水の開渠・暗渠、橋跡などを確認した。写真の「南どんどん橋」は、上水が南へ大きく迂回する地点で、豊かな水量がどんどんと音を立てたという由来がある。水路の流れ、周辺の土地利用のあり方など、往時の景観に思いを馳せた。実はこの周辺、かつてモモが学生時代に暮らしていたところで、よく通ったものだが、そのときはこうした歴史性について考えもしなかった。面白い。
10:30からは、ゼミ生と待ち合わせ、もう一度富士見丘高校へ伺って、高大連携の授業。高校生から、笹塚の地名由来、笹塚支流の歴史、暗渠化の諸問題などレクチャーを受け、やはり高校生の案内で、学校周辺のフィールドワークも行った。暗渠はみるからに水はけが悪く、富士見丘の校地も含めて、やはり未だに浸水があるという。橋の欄干その他が道路に埋め込まれる形で残されているなど、かつての川の姿を彷彿とさせる景観もあり、非常に勉強になった。富士見丘の生徒さんが、緊張しながらもみごとな説明でリードをしてくれ、うちのゼミ生たちもずいぶん勉強になったのではないかと思う。いまちょっといっぱいいっぱいなのだが、近いうちに、報告それぞれに講評を付けて、御礼とともにご返事しておきたい。
なお、なかば妄想であるもののあらためて思ったのが、笹塚という地名の持つ物語。笹の生えた塚があったとする地名起源は江戸期からあるのだが、弁天池といい、竹生島との関わりが気になる。不忍池も井の頭池も竹生島をモデルに弁財天が置かれるのだが、付近に天台宗の寺院が影響力を持っていたりしたのだろうか。「笹」と「竹」の繋がりは気になるところだし、池に勧請された弁財天は神仏分離時に「市寸島姫社」と名称変更している。市来嶋姫といえば宗像、そして厳島、松尾で、とくに松尾は月読と結びつき、桂地名、竹林、月見との観念複合をなしている。もちろん、どこにでも適用できるわけではないが、いろいろ想像をかきたてられた。
さて、帰宅すると、某雑誌の特集「記録の戦略」について原稿依頼あり。
「〈記録する〉ことにまつわる〈意識的な欲望/無意識の欲望〉、あるいは〈記録を文学として読む/文学を記録として読む〉といった問題を掘り下げ、〈記録の戦略〉を炙り出してみたい。……伝えたい〈記憶〉と〈記録〉の葛藤を見出すことができそうだ」云々、とのこと。面白そう。先日のケガレに関するシンポの依頼は、「いまなぜ」とモチベーションが高まらなかったが、今回は集合的アムネジアとの関係で考えられそうだ。安倍政権下の学校教育に対する圧力のもと、企業やメディアからもステレオタイプの日本像が生成されて、まさに石見銀山世界遺産化を典型とするような、負の歴史的記憶の封じ込め、クリアランスとでもいうべき集合的アムネジアが作動している。「崔杼弑其君」のエピソードとも関連するな。全力を傾けて、撃たねばならない
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富士見丘高校とのコラボ:環境史フィールドワーク1

2015-09-06 04:49:42 | 議論の豹韜
今週1週間は、8月末日〆切の原稿を進める一方(まだ終わっていないよ、情けない)、富士見丘高校との高大連携企画「環境史フィールドワーク」の準備を進めていた。昨年から始めたこのプロジェクトだが、前にも書いたとおり、富士見丘が文科省よりSGH(スーパー・グローバル・ハイスクール)に採用されたため、今年度からはきちんと予算がつく。昨年はぼくが授業を行い、フィールドワーク(というかエクスカーション)も企画して高校生たちを案内したが、今年はこちらの学生と先方の生徒が主体となって、双方向的に学習を進めながら企画、実践を行ってゆく形にした。先方が女子校なので、コミュニケーションのとりやすさ、目標へのしやすさを考慮して、こちらも女子学生・院生を担い手に選び計画を練った。
初回となった昨日土曜日には、環境史とはいかなる学問か、その観点を利用したフィールドワークでどんなことが分かるのかを、まず学生側からプレゼン、紹介する。高校生はこれを参考に自分たちの計画を立てるので、彼女たちの指針となるしっかりした内容でなければならない。しかし、あまりに調べすぎて余白を埋めてしまっても、かえって彼女たちの興味を失わせるかもしれない。適切な刺激を与えてモチベーションを向上させるため、微妙な配慮が必要となる。先方の先生とも相談の結果、災害/開発をテーマに、具体的なフィールドとして上智にも近い神田を選び、学生たちに3つの報告を考えてもらった。8月を通じてアイディアを練ってもらい、月末に一度経過報告をしてもらって、こちらからも幾つかのアドバイスと、全体に一貫性を持たせるための指示を出した。今週初めには、実際にパワーポイントを用いた予行演習をしてもらい、そこでも種々意見交換をして、解散後もメールでやりとりを続け、完成型ができあがったのがなんと当日早朝。それから急いで登校し、プリントを印刷して会場を設営したので、準備の完了が10:00開始の本当にギリギリとなってしまった(ぼくの段取りが悪いからだな!)。
しかし結果としては、学生・院生諸君のがんばりによって、上々のスタートを切ることができた。
トップバッターは、3年生の是澤櫻子さん。環境史のものの見方から始めて、具体的題材としては、神田橋本町のスラム・クリアランス問題を扱った。江戸という近世都市から近代都市東京が起ち上がる際、喪失したものとは何だったのか。整備された景観と衛生性の向上とを引き替えに、我々が失ったものとは何だったのか。専門のマイノリティー史にも絡めながら、高校生の「当たり前」へ丁寧に問いかけた。環境史の概念や視角は本当に複雑で難解なのだが、オリジナルの図表を積極的に用いながら、本当に分かりやすく解説してくれた。説明の的確さ、聞きやすさ、視角・内容の確かさ、そして思わず引き込まれるパフォーマンスには、舌を巻くばかりだ。本当は「環境史の概説」はぼくが担うべきなのだが、全幅の信頼を置いているので、安心して任せることができた。任せて正解、ぼくより確実に巧いのだから。
休憩を挟んで、二番手は院生の西山裕加里さん。最悪の体調のなか、さすが大学院生と思わせるプレゼンをみせてくれた。題材は、神田川の水系の改変について。現在の東京の景観からは想像もつかないが、かつて江戸は縦横に水路の走る水郷都市だった。お濠や河川、水路は、人々の生活用水、そして流通の手段として重要な意味を持っていた。水の排除を通じ、東京は水害の抑止と衛生性を手に入れたが、水辺と密接した豊かな生活文化を手放すことになった。細かな説明が必要なために「だれやすい」内容を、地図や絵画資料などをまじえて分かりやすくまとめてくれた。学部時代からずっと彼女をみてきたが、精神的な弱さを抱えつつも常にものごとに誠実に向き合う美点があり、やはり格段に成長してきている。春学期の最初と比較しても、別人のように違う。感慨深い。
最後は、2年生の松本満里奈さん。未だ下級生だが、志願して服藤早苗さんのゼミにも参加させていただき、めきめきと力を付けている。題材は、神田お玉ヶ池の伝承。伝承に隠された自然環境との関わり、土地の来歴を読み解くことで、それが隠蔽され、忘却されてしまった現代都市の危険性を警告する内容だった。前日まで、服藤さんのゼミ旅行に参加させていただいていたにもかかわらず(実は、ちゃんと修正の時間をとれるか心配していた)、きっちりと報告をまとめてきて感心した。パワーポイントも美しい(いまの学生は、2年生でもこれだけのことができるんだなーと感動)。話し方はまだ舌足らずのところもあるが、かえって生徒たちは身近に感じたかもしれない。論旨も明確でメリハリが利いており、話の内容がしっかり生徒たちに届いているのが分かった。頼もしい。
プレゼン終了後は、学生と高校生とのミーティング。何も会話のない情況が続いたらどうしようかと心配したが、瞬く間に打ち解け、学問的な話から女子校あるある(!)まで、ずいぶん会話がはずんだようだった(教員が主体になっていたら、とてもこううまくはいかなかっただろう)。ここには去年から引き続き、上級生の中村航太郎君にも参加してもらったが、やはり「女子力」に圧倒されていた?
先方の先生にも大変に喜んでいただき、「やはり上智の学生は優秀ですね、こちらも興奮して大いに知的刺激を受けました」と絶賛のお言葉を頂戴した。ぼくは自分に甘く、他人に厳しい人間なので、学生をみていても粗ばかりが目に付き、大して誉めたりはしない。決して叱ったりはしないが、「こうしたらいいね」と不備の指摘を重ねてゆくばかりで、あまりいい指導者ではない(ゆえによく、「笑顔が怖い」「目が笑っていない」といわれる)。しかし、今回は手放しで誉めておくことにしたい。今後は、高校生と相談しながら計画を練り、富士見丘高校の方へも伺って種々アドバイスを行うことになる。こちらも、一歩も二歩も引いておいて、ここ!という点のみしっかりと支える技術、心構えを作っておかねば。
関係の皆さん、お疲れさまでした!
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7月、上半期/下半期、折り返し

2014-07-05 09:22:00 | 議論の豹韜
もはや今年も半分を過ぎた。春学期も終わりに近付いているので、4月以降のもろもろを振り返っておきたい。

まず研究面。さすがに授業が始まると、もはやまったく進まない。春学期の授業は6コマ+α(幾つかの輪講、毎月1回の生涯学習の授業)で、うち講義が恒常的にあるのは「日本史概説」「日本史特講」だけだが、それでも準備にはかなりの時間がかかった。例年のとおりのプリント配付・ブログでの質疑応答に加え、今期からは毎回パワーポイントも用意したので、それぞれ平均1~1日半を要する。プレゼミ・ゼミ・院ゼミの予習に、校務・研究会などで土曜出勤も多い。そこへ各種委員会の校務を加えれば、もう1週間経ってしまうのだ。したがって、かなり強引にねじ込まないと研究の時間は確保できない。それでも徹夜を重ねて、5月には上智史学会の例会で、昨年のサバティカル中に行ったシンポジウムその他の報告、雲南調査から得た知見などについて概略をレポートした。とくに後者については、東巴から提供された卜書『以烏鴉叫声占卜』の読解を中心に行い、その形式・内容が、敦煌文書や古チベット語文献に残る鴉鳴占卜書に共通することを突き止めるところまでは到達した。今後は東巴経典自体のさらなる読み込みと、環境文化的に烏表象の問題を追跡すること、また鴉鳴占卜のアジアにおける展開を跡づけることが必要である。『看聞御記』などをみると、時折烏鳴きの占文に関する記事がみえるし、現在列島各地に広がる烏鳴きの習俗には、前近代の禁忌・卜占世界と繋がるものも多い。ずっと続けている卜占研究の一環として、しっかり取り組んでゆくべきだという展望、決心を得たところだ。そのためにも、東アジアにおける亀卜の展開を扱った単行本は早くにまとめたいのだが、実質的に時間を捻出することができない。大学に勤めている限り自分は本を書けないのではないか、と焦燥に駆られることもしばしばである(まったく、単行本を連発している人たちは、どのように時間を確保しているのか…)。環境や秦氏の単行本も、そろそろリミットが近付いている。8月にはすでに大きな原稿の〆切が2本入っており、身動きが取れないので、何とか9月に賭けたいが…月末のシンポジウムの仕切りもあるし、やっぱりけっこう大変だな。
研究と密接に関わる教育の面では、やはりポッドキャスト「四谷会談」を始めたことが大きい。たくさんの人に聴いてもらう、という意味では未だ軌道に乗っているとはいえないのだが、少々スケジュールはずれるものの、ここまで2週間おきに打ち合わせ・収録を重ね、第4回までを公開に漕ぎ着けることができている。ご一緒している盟友の工藤健一さん、山本洋平さん、岩崎千夏さん、院生の新飼早樹子さん、そして主題歌を提供してくださった佐藤壮広さんの貢献が、当然のことながら甚大である。方法論懇話会が休会になって以来、思想や理論の方面の勉強を続ける余裕がなく、一方で非常な飢餓感を覚えていたのだが、現在は「緩く」ではあるもののある程度目配りができるようになってきている。メンバーに感謝したい。番組の技術、議論の質という点ではまだまだだが、今後も、かつての方法論懇話会、四谷会談のメンバーにも声をかけ、賑やかにやってゆきたい。
院ゼミを母胎とした『法苑珠林』の注釈についても、恒常的に話し合う場を設け、半ば強引にではあるがweb更新の作業態勢を整えようとしているところである。こちらも、近日中には結果が出せるだろう。

授業以外の校務の関係では、サバティカル中から担当してきた文学部横断プログラム、とくにジャパノロジー・コースの開発に関する業務が煩瑣になってきた。現在は来年度にスタートする共通基礎科目の事務作業と、9月末に開催するスタートアップ・シンポジウムの準備にかかりきりである。とくに後者については責任者を務めているので、多くの先生方に助けていただきながら、企画書の作成、打ち合わせ、書き直しを繰り返している情況である。某放送局との連携である点等々、いろいろ難しいのだが、なんとかよい形で実現させたい。また、その共催も得るかっこうで、12月にはアジア民族文化学会の大会シンポジウムも上智で開催することになっている。雲南省モソ人の呪師ジパを招き、病祓の実演をしていただくことが目玉だが、高知県のいざなぎ流神道とアジアの呪術の比較など、こちらも濃厚な内容を企画中である(いま、企画書の作成中)。昨年は講演・シンポジウムの報告行脚に明け暮れたが、今年は逆に主催者側に徹している。最近自分の処理能力の低下に愕然としているのだが、何とか頑張りたい。

それにしても、特定秘密保護法から集団的自衛権閣議決定に至るこの情況、なんとも心をざわつかせる。小泉政権の頃からとくに感じるようになった「意味の不在」が、言論の世界でより顕著に進行している。政権、メディア、有識者、一般社会がそれぞれ幾つかの小集団、そして個人に分断され、コミュニケーション不全を起こしてしまっている。他者との会話を必死に図ろうとする者もいれば、他者との対話のの価値自体を認めず、自己への盲信・正当化の言説のみで凝り固まっている者もいる。最悪の事態が訪れる前に、言葉は力を取り戻せるのか。取り戻すにはどうするか。今後の研究・教育は、このあたりを第一の課題として一層強く認識せざるをえなくなったようだ。
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適材適所

2014-07-02 21:33:31 | 議論の豹韜
しばらく更新を怠ってしまっていた…と始まるのがもはや定式と化しているのは、非常に申し訳ない気持ちである。これまで何度か宣言をしつつも守れないまま現在に至っているわけだが、今後はできるだけ、1週間に1回は更新する形へ戻してゆきたいと考えている。というのは、ブログを書かない理由のひとつをなしてきたfacebookが、やはり刹那的なメディアにすぎず、ある程度の内容を持った長目の記事はブログへ載せる方が向いている、と思い至ったからである。

facebookは、SNSの代名詞になっているだけはあり、コミュニケーション・ツールとしてはブログより優れている。何か記事を書けば多くの人の目に触れるし、常に繋がっている「友達」にはコメントを付けてくれる人も多い。そこで意見交換ができたり、新しい「友達」ができることも少なくない。メッセージやグループの機能はチャット的に利用でき、離れた「友達」と簡単に会議することも可能だ。ぼく自身、さまざまな研究会を催し、またシンポジウムなどを企画・運営するなかで、非常にfacebookのお世話になってきた。facebookがなければ絶対に知り合えなかった異分野の人たちと、意見を交わせるようになったのも確かだ。しかし「友達」が多くなるに連れて、その「いま繋がっていること、繋がること」を重視するがゆえの刹那性がみえてきたことも、また確かなのである。例えば冒頭に書いたように、長目の文章。何人もの「友達」の記事が次々にアップされてゆくなか、長目の記事が現れたらどうだろうか。自分に時間的余裕があればゆっくり読んでもいいわけだが、何かの目的で閲覧をしている場合は、「とりあえず後回しに」と、「いいね」のみを押して放置しておくことが多いのではないだろうか。するとその記事は、次々にアップされるポストの奔流のなかで、どんどん過去のものになっていってしまう。facebookには、ブログのように記事の検索機能がないため、一度消えてしまった記事を見つけ出すのは、時が経てば立つほど非常に面倒になる。つまり、多くの人に「書いたこと」は周知されるものの、内容まで読んでくれているかどうかは極めて不透明なのだ。「ノート」の機能を使って提示しておくとという手もあるが、それではブログよりも機動性がない。また、長目のポストをし続けることは、かえって(本当は読んでいない)「いいね」のみを増やす結果となり、刹那的・表面的なコミュニケーションを助長するということになりかねない。それならば、ブログとfacebook、それぞれのツールの適性に応じた使い分けをしなければなるまい。

というわけで、これからは、ある程度まとまった内容はブログに書いてゆくことにしたい。facebookには、twitterに毛の生えたサイズくらいのものを。
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場所の喪失/書物の起源

2014-04-29 19:13:29 | 議論の豹韜
相変わらずだが、またしばらく投稿できていなかった。やはり、年度始めはいろいろ慌ただしい(とくに今クールは、ドラマやアニメが豊作で…なんつって)。

このところ、幾つか考えていることがある。まず、次回ポッドキャストのテーマである場所論。トゥアンやレルフは『環境と心性の文化史』でも扱ったが、その頃は、空間認識の方法論として考えることしかしていなかった。しかし、2011年における東北学院での講演以降、定住社会論の相対化、遊動性の再評価を考え始めてから、自分のなかで少し方向性が変わってきたようだ。青原さとしさんによる『土徳流離』のラッシュフィルムや、山里勝己さんのゲーリー・スナイダー論を拝見・拝聴するうち、自らが生存してゆくための環境認識・生成=居場所作りと、その居場所へのアイデンティファイ=〈故郷〉化は分けて考えなければならない、と思うようになってきたのだ。故郷を持つことが、果たして人間にとって本当に幸福なのかどうか。災害史的パースペクティヴにおいては、災害の始まりは定住によって画期付けられる。宮城県松島周辺の縄文遺跡が東日本大震災の津波被害をほとんど受けなかったように、遊動生活や半定住生活は災害の直接的影響にさらされにくい。里山を共生的な美観とする感性が稲作中心史観によって構築されてきたように、故郷のあることを重視する(「根無し草」を否定的に捉える)心性も、農耕定住民によって(または個別人身支配のため定住を強制した権力によって)恣意的に構築されたものに過ぎないのではないか。ドゥルーズ/ガタリによるノマド論の再評価ではないが、場所論における場所のアプリオリ性には検討の余地があろう。ポッドキャストで意見交換し、より内容を深めてゆきたい。
もうひとつは、文字の起源の問題、書物の起源の問題である。ちょっと前から調査している、中国の南北朝時代に死霊の言葉を「胡語」と表現し、それを写し取った文章を「胡書」と記す感覚にも関わるのだが、中国には文字や書物を他界の側、自然の側に位置づけようとするベクトルがある。そもそも文字を発明した蒼頡の伝承自体、鳥や獣の足跡から文字を発明するというもので、文字は自然の表象である、自然から贈与されたものであるとの認識となっている。道教経典のなかには、天地の気が凝集して書物として出現したと伝えられるものもあり、洞天にはそれらが隠蔵されているともいう。日本も古くは中国に倣い、神意を記した文字が祥瑞に現れるなどといった発想があったが(空海『篆隷万象名義』なども同様の発想か)、やはり中国からもたらされたものとの認識が強かったためか、やがては自然と対置される文化の象徴になってゆく。「本当のこと」は文字によっては表せない、到達できないとの観念が生じる。日本には、書物が自然から涌出するなどといった発想はなかったのではなかろうか。『淮南子』本教訓にある「蒼頡書を作りて天粟を雨らし、鬼夜に哭く」との一文は、日本人には理解できなかったかも知れない。このあたり、今週・来週行う輪講「書物文化論」で話したいと思っているのだが、やはりもう少し詰めておこう。

さて、27日(日)は立教の野田研一さんのお宅に伺い、野田ゼミの恒例行事「飯能ハイク」に参加してきた(写真はそのときの入間川)。ふだん真っ平らな三鷹に住んでいるので、起伏のある飯能はなかなか素敵であった。異文化コミュニケーション研究科ゆえの、本当に多方面の研究テーマを持つ院生たちの話(留学生も多かった)、それを支える野田さんの度量の広さには、やはり感心をせざるをえなかった。まあ、自分の分際はわきまえてはいるけれど。ゆるゆるとかんばるかなあ。
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第4回 環境思想シンポジウムへの参加

2014-04-05 10:07:16 | 議論の豹韜
これも遡り報告になるが、先月17~18日、小諸の安藤百福記念センターにて行われた「第4回環境思想シンポジウム」へ、講演者として参加してきた。かなり厳しいスケジュールのなか、開催1ヶ月前に無理矢理ねじ込んだ報告だったので、いつも苦労する準備もさらに難航、しかしなんとか本番前日の午前中には配布資料のpdfを事務局へ送信、パワーポイントの作成もギリギリ間に合った。とうぜん一睡もしないまま、まずは勤務校で会議を2時間、それから新幹線に飛び乗って小諸へ駆けつけた。シンポ自体は翌日だが、中心メンバーは前日夕方にセンターへ入り(自然体験教室なども開催しているので、きれいな宿泊施設も完備)、打ち合わせや意見交換を行う予定になっていたのだ。心身ともにクタクタであったが、野田研一さんや結城正美さん、山本洋平さん、堀郁夫さんら敬愛する知人・友人のほか、主催者側の岡島成行さん、加藤尚武さん、鬼頭秀一さん、ほかに福永真弓さんなど、かねてから学恩を蒙っている方々と実際に知り合うことができ、夜を徹してさまざまに議論することができた。しかし、そんなこんなで、この日もベッドに入ったのが朝4時頃。5時半には起き出して入浴、報告の準備も再開したので、まあよくテンションを保つことができたと思う。
朝食のあと、早速9時からシンポジウム開始。センター自体は駅からずいぶん離れたところにあるのだが、平日の早朝にもかかわらず、会場一杯の参加者が詰めかけてくださっていた。そのなかには、以前エコクリティシズムのシンポジウムでご一緒した中村優子さん、雲南の調査でご一緒した岩崎千夏さん、そして古くからの友人であり、4月から同僚にもなる中澤克昭さんの姿もあった。
まずは、沖縄からはるばるいらっしゃった環境文学研究の碩学のひとり、山里勝己さんによるゲーリー・スナイダーの文学、思想に関するご講演。恥ずかしながらほとんど関連の知識がなく、今回の依頼をいただいて急いで山里さんのご著作『場所を生きる』、『対訳亀の島』などを読んだ程度だったのだが、精神・身体と深く連結した場所の感覚・概念、アメリカの文化にみる移動性と場所の喪失/獲得の問題、そこから照射される沖縄や福島のディアスポラへの視線が、深く心に響いた。山里さんとは、その後もメールでやり取りをさせていただいたのだが、近年柄谷行人らによって柳田の遊動論が再評価されているように、定住による不幸、場所に束縛されるがゆえに発生する惨禍の問題もある。人間にとって場所とは何なのか、郷土とは、故郷とは何なのかを、ステレオタイプの日本=定住制社会論を相対化したところで捉えてゆかねばならない、との思いを強くした。
続いてぼくの講演は、「〈串刺し〉考」。動物の身体を串刺しにする行為が、本来は精霊を魂の原郷へ送り返す儀礼であったことを明らかにし、併せて我々のなかにある〈残酷さ〉の尺度が、仏教の殺生罪業思想の喧伝や狩猟漁労文化の抑圧=単一的価値付与などにより、歴史的に構築されてきたものであることを述べた。議論の発端は、カナダの人類学者ポール・ナダスディが、北方狩猟民の動物の主神話を文化的構築物ではなく存在論的現実とみるべきとした議論を、環境倫理においてどう扱うべきなのか問題提起することにあった。しかしこのあたり、理論的に急拵えのまま報告してしまったので、訳語や本論との連結などでさまざまな齟齬を生じており、ご参加の方々から多くのご指摘、アドバイスをいただいた。また、実際に農業における〈害獣〉駆除や実験動物殺害の問題に関わっている研究者の方にもご意見をいただき、大きく知見を広げることができた。けれども、徹夜続きの頭はうまい具合に働かず、しっかりした回答がお返しできたかどうかはかなり怪しい。今後の研究によって、何とかご恩返しできるようにしたい。
昼食を挟んで午後は、結城正美さん、福永真弓さんの近況報告を伺った。結城さんのご報告は、加藤幸子さん・石牟礼道子さん・田口ランディさんの文学に共通してみられる、「汚染されていると知っていながら、それを食べること」の意味について。個人的には、これまで批判的にしか扱ってこなかった諏訪神文その他の殺生功徳論、すなわち「賤しい畜生を成仏させてやるには、人間が食べて身体の一部とするのが最良」とする考えが、実は内的に理解することによって別の読み方を可能にするかもしれない、(ポアのようなきわどい領域ではあるが)という閃きを得たことがありがたかった。福永さんのご報告は、環境正義などをめぐる理論的整理に関するもの。最近環境思想に関する情報収集を怠っていたので、自分の議論、考え方をまとめなおすうえで大いに役立った。お2人に感謝申し上げる。
終了後は、山本さんの車に乗せていただき、堀さんや岩崎さんもご一緒して一路東京へ。途中渋滞に遭って2時間以上、山本さんにご迷惑をおかけしたが、プライベートなことを含めて全員でいろいろな話をすることができた。友情を深めてゆくためには、やはりこういう時間は大切。山本さんとは今後協働の仕事が多くなると思うので、非常にありがたかった。最初から最後まで疲労困憊のシンポジウムだったが、かけた労力以上のお土産をさまざまにいただくことができた。関係の皆さんに御礼申し上げる次第である。
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3月上旬 鳥取~大分横断調査:(4) 大分別府

2014-04-01 20:22:25 | 議論の豹韜
8日(土)は、朝から大分湾周辺を散策。現在校正中の、環東シナ海地域における都邑水没譚の言説史に関し、最後に触れた列島の事例のなかでも著名なもののひとつ、瓜生島の痕跡を踏査するためだ。これは、豊府の外港として国際交易の拠点であった「沖の浜」が、慶長元年(1596)閏7月の文禄(慶長)大地震と、それに伴い発生した津波により実際に水没した(液状化により水底へ滑落した?)史実をもとに、架空の島の物語へと造り替えられていった伝説らしい。今回は、実際に沖の浜にあったという縁起を持つ瓜生山威徳寺(どうもこの寺院が伝承の発生源と思われる。寺院や僧侶が物語りの担い手であることは、日本近世に限らない普遍性を持つ)、恵比須神社などを回り、現在の別府湾の景観を写真に収めていった。しかし実は、今回の主目的は「踏査」ではない。この瓜生島関連の最古の記事は、元禄2年(1689)の『豊府聞書』という書物にあるのだが、同書は原本はもちろん写本も一切なく、後にその内容を引き継いで再構成した『豊府紀聞』によるしかない、というのが学界の常識だった。だが、すでに1955年に久多羅木儀一郎氏が写本の存在を報告しており、以降の研究は完全にこれを見落としたまま、某代表的研究者の見解を無批判に踏襲してきてしまったのである。それが最近、郷土史家のH氏が写本の存在を突き止めて翻刻、私家版文献として大分県立図書館に寄贈したとの情報を得たので、とにかくそれを確認しに行ったわけだ。そして、なんとまあ今回の出張は神仏の加護を受けているのか、思いもかけない僥倖を得ることになったのである。
図書館で地域資料室の担当者とやりとりをし、必要な文献を得て複写や借り出しの申請書類を書いていると、誰か話しかけてくる方がいる。先ほどの担当者との会話を聞いていたとのことだったが、何とそれが、『豊府聞書』の写本をみつけだしたH氏だったのである。狂喜して種々ご教示を仰いだところ、氏が確認されている写本は現在2種、1つは大分藩家老増澤家蔵(先の久多羅木論文にも言及)でマイクロフィルムが大分市歴史資料館に存在、もう1つはもともと由学館所蔵であったが、いまはなんと灯台もと暗しで東京にあるという。また同図書館で調査するうち、H氏も知らなかった『豊府聞書』の写本情報も発見できた。H氏と今後の情報交換を約束して、即座に大分市歴史資料館へ移動。学芸員のN氏にご協力いただき、増澤近統家文書に含まれる『聞書』の紙焼きを閲覧でき、瓜生島関連の記事や、『紀聞』にない跋文などの複写データを、メールで送っていただけることになった。この間、移動も含めてわずか3時間ほど。最小限の努力で最大限の成果を得ることがかない、狂喜乱舞である。H氏には心より御礼申し上げる。それにしても、よりによってぼくが図書館を訪れたその時間に、H氏も同じ地域資料室に詰めているとは…氏が同室の〈主〉のようになっているのかも分からないが、とにかくありがたいことである。いずれ、写本をすべて比較し、H氏の翻刻を校訂しなければならないが、とりあえずはこのことをしっかり学界へ喧伝する必要がある(H氏と約束もしたことだし)。今回の論文では日本の事例を中心に扱ってはおらず、いつものように字数削減に苦しむありさまだったが、一応脚注で補足しておいた。
この日はその後、16:00頃の新幹線で京都へ移動。20:00過ぎから、斎藤英喜さんはじめ仏教大学斎藤ゼミの皆さん、盟友のひとり師茂樹さん、fbで知り合った人類学者の原尻英樹さん、若い友人のMY君らが忙しいなか集まってくださり、うちのゼミ生やOBも数人駆け付けて、2:30頃までの大宴会となった。ずいぶん久しぶりに会ったMR君ら(すげえ論客になっていた!)、若手研究者の話もいろいろ聞き、大いに刺激を受けたのだった。

翌9日(日)は、4時間かけて、じっくり民博の展示を鑑賞。さすがにクタクタになり、予定を切り上げて早めに帰途についた。多くの方に支えられたサバティカル最後の出張も、どうやらこれにて終了。この日は11回目の結婚記念日だったこともあり、武蔵境駅で妻と落ち合って外食、日曜のため家族連れが多く目的の店に行けなかったので、また後日あらためてということにして簡単に済ませた。しかし、旅の間ほとんど固形物を口にしていなかったので、久しぶりの普通の食事に胃と腸はフル回転したものの、すぐに満腹となってしまった。次の日、体重を測ってみると、この5日間で4キロ近くの減量に成功?、体脂肪率は1桁に突入。まあしばらく、これを維持してゆこうか。

※ 写真は、別府湾周辺で撮影した六地蔵塔婆。列島のなかでもほぼ九州に集中しており、半島から伝わったものかもしれない。
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3月上旬 鳥取~大分横断調査:(3) 岡山和気

2014-04-01 05:17:08 | 議論の豹韜
前回からの続き。7日(金)、米子のホテルで目を覚ますと、外は大雪。山奥にある金屋子神社をみたいという希望を抱いていたのだが、これはとても無理だと断念(そもそも、併設する資料館は冬期は休業中)。悪天候で山越えの特急が遅れ、夕方から大分へ行く新幹線などとの接続がうまくゆかないと困るので、予定を変更し午前中に岡山へ出てしまうことにした。ネットを検索して急遽代替地に選んだのは、(突然皇国主義者になったわけではないが)あの和気清麻呂の拠点であった和気郡和気町藤野周辺である。2012年度まで院生だったI君が清麻呂の治水事業で卒論を書いたので、何となく気になっていたのだ。
本当は岡山駅で荷物を預けたかったのだが、向かいのホームに和気行きの電車が来ていたのですぐさま乗車。30分ほどの乗車時間、和気が近づくに連れて、周囲に流紋岩の岩山が多くなってゆく。侵蝕に強いこの岩質の特徴とかで、こんもりした小峰が幾つも連なる特徴的な景観をなしている。木もまばらだが、鞍馬山のように山肌を根が這うような状態になっているのだろうか。和気の一駅岡山側にある熊山では、大規模な採石場があるという(そういえば、大阪の土塔・奈良の頭塔と並ぶ熊山遺跡って、ここだったよな。いま書いていて気づいた!みておくべきだった!)。こりゃ正解だな、と何となくうきうきしてきた。しかし、和気駅に到着、まずは荷物を預けようとコインロッカーを探したところ、利用率が悪いため近年取り外してしまった!とかで、観光協会を含め、駅周辺に一時預かり所はないという。和気神社までは4~5キロほど、歩いて行ってしまおうかと思っていたが、重い荷物を引きずっていてはとさすがに諦め、タクシーを利用することにした。
車窓から眺める、吉井川・日笠川の豊かな流れ。もともとは藤野も「藤原郡」だったわけだが、こりゃフヂ=フチ(淵)とする折口説は正しいかと妄想しつつ、まずは神社前の和気町歴史民俗資料館へ。小さな資料館だったが、収穫だったのは、江戸前期に岡山池田家に仕えた津田永忠のこと。多くの善政を担い、なかでも著名なのは、吉井川上流に設けた巨大な田原井堰の築造。周囲の岩山の流紋岩を用いて中之島=離碓を作り、水の流れを分けて治水・灌漑の双方を実現したものという。まさに四川省の都江堰、松尾の葛野大堰などと同じ構造である。亡くなった森浩一さんが「秦氏が中国から将来した技術」と推定したものだが、そういえば、岡山も秦氏の集住地だった。もちろん、これらを直結させてしまう妄想は持っていないけれども、永忠がかかる技術をどのように習得したのか。そのあたりは史料もなく、あまりよく分かっていないらしい。彼が清麻呂の治水などを想起・顕彰したなどの痕跡があれば、面白いのだが。日本中で禹王が顕彰され禹王廟などが建設される時期よりちょっと早いが、熊沢蕃山が関わっているというから、荻生徂徠らの先駆に位置づけられるかもしれない。なお口頭伝承としては、捲石を用いた離碓建設の担い手として、石工頭金光甚兵衛(異伝に市兵衛)なる人物の活躍が伝わっている。『ふるさと和気』民話編を繙くと、井堰建設が「大木の秘密型」の形式に沿って語られる伝承もあり、非常に食欲をそそる。石材産出が生業となっている風土なればこそで、「伐採抵抗伝承」の言説形式を、樹木から切断して考察する必要もあらためて感じた。資料館の担当の方にいろいろ伺い、保存用でしか残っていないという同井堰の解体工事に伴う調査報告書も、複写して送っていただけることになった(後日、さらにご高配を賜りました)。ありがたいことである。
さて、資料館に一時荷物を預かっていただき、ついでに和気神社を散策。朝倉文夫の精悍な清麻呂像に迎えられて鳥居までゆくと、狛犬の代わりにイノシシが左右を守っている。清麻呂を守護した伝承があるためで、ごたいそうに剥製まで飾ってある。なんとなく、狩猟神事の匂いがしたりするのだが、どうなのだろうか。重要文化財の本殿もなかなかに立派であった。駅までの道沿いに「伝和気氏政庁跡」、『源平盛衰記』に描かれる倉光三郎の墓などもあるというので、まあ途中でタクシーを拾ってもいいかと、重い荷物を抱えて歩き出したが、周囲の景観、史跡に目を奪われて歩いているうち、けっきょく駅まで辿り着いてしまった。いやいや、腕の運動にもなったことよ。
このあとは、岡山を経て、小倉、大分と順調に接続。車内では、学生の予備卒論を添削したり、本のノートをとったり。実は、初めて!九州に足を踏み入れたのだが、もうすでに周囲は真っ暗であり、気づくともう関門海峡を渡ってしまっていて、感慨も何もあったものではなかった。しかし確かに、電車の車内装飾の文化は、明らかに関東と違うかなあ。
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3月上旬 鳥取~大分横断調査:(2) 安来姫崎

2014-03-30 09:40:56 | 議論の豹韜
前回からの続き。6日は青谷で大きく時間を使ってしまったが、翌日があまりスケジュールに余裕がなかったこともあり、「暗いなかでも写真は撮れるだろう」と、電車を乗り継いでそのまま島根県安来の姫崎へ向かった。ここはいわずと知れた『出雲国風土記』意宇郡安来郷毘売崎条の、語臣猪麻呂の伝承に記された場所である。この地域の海浜部で、猪麻呂の娘がワニに食われてしまい、彼はワニ=神々に祈願して報復を達成する。浜辺の猪麻呂のもとへワニの群れが押し寄せ、娘を喰った一匹のみを残して去って行くのだが、彼はこのワニを屠って「串刺し」に立てるのである。この話、以前から「異類互酬譚」の関係で注目しており、何度かその意味するところを書いたことがある。18日に開催された小諸の環境思想シンポジウムでもさらに踏み込んで読解し、そもそもこの「串刺し」とは何なのかを列島の狩猟漁撈文化の文脈から問い、我々のなかにある「残酷さの尺度」が歴史的に構築されたものであることを明らかにした(シンポジウムの詳細については、また後日アップすることにしたい)。ぼくにとってはそれなりに大事な物語りなのだが、今まで現地を実際には訪れたことがなかったので、(それほど時間は取れなくとも)どんな場所なのか体感してみたかったのだ。
さて、安来駅に到着したのはもう夕方の18:00近く、周囲は闇に閉ざされようとしていたが、何とか現状の概観は確認できた。現在の「姫崎」にはとうぜん古代の面影はなく、漁港というより、工業的な港湾のにおいがする。地形的にも、種々の面で歴史的変容を遂げているだろう。駅のすぐ南側にはこんもりした毘売塚古墳がそびえ、入江全体を見渡せるようになっているが、これが古代を想像する唯一のよすがといえようか。同古墳には、いつの頃からかは不明だが、その名前から想像されるように、猪麻呂の娘を葬ったとの伝承が存在する。海辺には猪麻呂や娘の像まで立ち、郷土のアイデンティティーを涵養するために一役買っているようだ。しかし、あんな「血みどろな話」を郷土の集団的記憶の中心に据えようとは、なかなか奇特というか何というか…『風土記』の伝承が時代を超越して語り伝えられていたのなら、その変容過程にも注目したいところだ。狩猟漁撈文化のなかにある「殺生」への価値付けが、動物/人間の対称性を含む多様なものから残酷なだけのものへ単純化されてゆくプロセスと、相関関係にあることが確認できるかもしれない。個人的には、それに抗う要素がみつかってほしいと思うのだが…今度、時間のあるときに考えてみるかな。
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3月上旬 鳥取~大分横断調査:(1) 青谷上寺地遺跡

2014-03-28 15:30:16 | 議論の豹韜
ちょっと遡ることになるが、3月5~9日の5日間(厳密には4日間)、急遽共同研究の予算を使って鳥取・島根・大分・近畿へと調査に回ることになった。遅ればせながら、ここでも報告しておきたい。まずは5日、昼間は勤務校で幾つか会議を消化し、夜にサンライズ出雲を使用して一路米子へ。朝5時頃に目を覚ますと、列車は蒲郡での強風の影響を受け、予定より2時間弱遅れているとのこと。6時に岡山で新幹線へ連絡するとのアナウンスもあったが、それほど急ぐスケジュールでもなし、個室で仕事もできるのでそのまま乗車していることにした。山陽から山陰へ山越えでは途中で雪が降り出し、中国地方南北の気候の違いも目の当たりにして、11:00頃には何とか米子駅に到着。間髪入れずに山陰本線に乗り換えて、ゴトゴト揺られることさらに2時間弱、まずは念願の青谷上寺地遺跡を訪れた。
厖大な量の木製品・骨角器を極めて良好な状態で出土し、脳の遺存例を含む100体超の人骨が発掘された、知る人ぞ知る「弥生の博物館」である。しかしぼくの目的は、何といっても200を超える国内最大数の卜骨。もちろん、すでに報告書等のデータは確認していたが、ぜひこの遺跡の置かれた環境を肉眼で確認したかったのだ。型どおり遺跡展示館を見学した後は、「鳥取県埋蔵文化財センター青谷調査室」にて、収蔵庫を拝見させていただいた。ここは主に木製品を収めたものだが、説明を受けないと、もうとても弥生前期からの遺物とは思えないほど「新しい」。どこかの民俗資料館か何かを訪れている感覚…そうそう、ちょうど東北学院大学の、レスキューされた文化財の保管庫がこんな印象だった。お忙しい時間を割いて質問に回答してくださった森本倫弘文化財主事によると、第1回の発掘調査の際にこれらが出土した折には、木々などまるで現在のもののようにもっともっと生々しかったという。葉が緑色のまま出土したり、昆虫の羽がそのまま朽ちずに発掘されたりしたそうだ。恐るべきことである。以下、質疑のあらまし(誤りのあった場合は、今後訂正してゆきます)。

Q. 災害の痕跡はあったか?
A. 高潮や津波の痕跡はみられないが、飛砂はあり、防砂に努めたらしい様子はみられる。また、勝部川の河道変遷は頻繁で、それに従って適宜護岸工事を行っている。杉の大板を杭で止める形式と、矢板を打ち込んで並べる形式の2種類があり、かつては時代的先後関係が想定されたが、最近の発掘によって、場所や情況に応じて方法を変更していることが分かってきた。矢板の方は、すべて建築材の再利用である。
Q. 大板を取れるような大径の杉が無くなって、廃材から作れる矢板を利用したのでは?
A. 可能性はあるが、周辺は樹木資源が極めて豊富であり、木製品や花粉、植物遺体その他は継続的に確認できるので、使える木が無くなるまで伐採され尽くすことはなかったと思う。
Q. 景観復原CGは、本当に緑豊かな情況に作られているが、周辺には他の集落、水田など広がっていなかったのか。
A. 最近、水田西側の葦原まで試掘を広げているが、幾つか水路が確認できている。景観復原CGにはもちろん根拠があるが、時間的な推移も含めて、今後全貌が変わってくることはありうる。なおこの遺跡では、中心地域に竪穴住居が出ていない。地下水位が高いためかと思われるが、周辺に墳墓もない。それらしい高台はあるの踏査を行っているが、未だ確認はできていない。
Q. 交易港湾拠点などといった位置づけがあるが、これまで確認できていないような性格の施設ということもありうるか。
A. ありうる。内湾が作られた環境が種々適切だったのだろう。しかし、こういった類の施設は、今後発見されてゆく可能性もある。北陸との交易拠点が点在しているのではないか。
Q. 保存状態が極めてよいために、腐り朽ちてしまうような微細な木製品、網籠、織物なども出土している。そのために「技術力の高さ」がいわれるが、それは文字どおりこの遺跡が突出しているのか、それとも一般性・普遍性を想定できるのか。
A. もちろん、朝鮮半島や大陸との交易関係があるので技術・文化は高いはずだが、ある程度の一般性は背景として想定せざるを得ない。
Q. 魚型木製品は珍しいのではないか。サメの線刻は、安来のワニの伝承などを想定されるが。やはり祭祀関連?
A. 祭祀、ということになっている。そもそも魚型なのかどうか分からないわけだが、サメがあるので。中国地方日本海側独特の文化だと思う。
Q. 左右の肩甲骨のセットが3組まとまって出土していることから、韓国南岸の勒島遺跡との関係が想定されているが、卜占関係でその他交流を窺わせる痕跡はあるか。
A. 卜占関係ではあれひとつしかない。木製品や骨角器では、同じ形式のものが出ているので、関係があったことは間違いない。
Q. 中国の遺物も出ているようだが、江南地方との関係はどうか。
A. 残念ながら、中国のものは、地域的に特定できるようなものを見出せていない。

森本主事にお礼を申し上げ、高台から、遺跡と海辺までの風景を俯瞰。粉雪の舞い散るなか、しばし弥生時代に思いを馳せた。
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