仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

『キタキツネ物語』と日活アクション

2012-12-24 09:38:08 | ディスクの武韜
蔵原惟繕監督『キタキツネ物語』(サンリオ、1978年)。「全学共通日本史」という講義で動物の歴史を講じているのだが、1月の締めにはキツネを扱う予定で(しかし、前のセクションが延び延びになっているのでどうも無理そう)、ふと思い出してDVDを購入、30数年ぶりに観てみた。
4年間かけて撮影した膨大なフィルムを選りすぐり、ひとつの物語を紡ぎ出したのだろうが、いま観ると、やはりその「ストーリー」性が鼻につく。どのように撮影したのか、未だにきちんと明らかにされていないことも気にかかる。畑正憲監督『子猫物語』のときには、虐待云々の話も出たものだが、このときはどうだったのだろうか。…とはいえ、流氷の向こうから朝日とともにやって来るフレップの姿は、今でも本当にロマンに満ちている。事象としては稀にあるそうだが、日活アクションを撮ってきた蔵原監督らしい着想だ。どこからともなくやってきた風来坊が、街のもめ事を解決、人々の心に強い印象を残して去ってゆく。『キタキツネ』は家族の物語だが、ほぼこの「日活構造」を踏襲して作られている。今まであまり知られていなかったキタキツネの生態を広く紹介し、「狡猾」というおとぎ話のイメージが強かったキツネ像を一新した点も評価できる(「流氷」という現象や「子別れ」の習性など、そういえば、この映画で初めて知ったのだった)。
産業界への影響力も凄まじく、多くのグッズが作られたが、確かマルちゃん「赤いきつね」もこのときの発売だろう。主題歌「赤い狩人」をはじめ、映画はキツネと赤を密接に結びつけていたので、その流行に便乗した商品だったのではないか。それが現在まで生き残っているというのも、なかなかに凄い。主題歌の話が出たが、タケカワ・ユキヒデの音楽もよかった。公開当時は映画館に観にゆけずに、日本コロムビアのサウンドトラックを聴きながら、サンリオ刊のフィルムブックを何度も読み、映画のシーンを想像していたものだ(なお「赤い狩人」は、ぼくが提案し、中学2年のときの合唱コンクールでクラスの自由曲として歌った。指揮者(私です)が悪く、結果はさんざんだったけれども)。
なお、これもシンクロニシティかもしれないが、先日、カットされたフィルムも含め再構成した新作『キタキツネ物語~明日へ~』が、来秋に公開されるとの報道があった。監督は、当時の助監督で、「赤い狩人」の原歌詞を書いたことでも知られる三村順一。併せて、メイキングの方も公開してほしいところだ。
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やっぱりいちばんの曲

2011-07-02 20:27:24 | ディスクの武韜
YouTubeを検索していたら、鈴木祥子の「どこにもかえらない」が引っかかった。以前何度が探したが、ずっとupはされていなかった曲である。ま、ちゃんとアルバムを持っているからなくてもいいのだが(『Long Long Way Home』! ネオアコ・シーンに燦然と輝く、名盤中の名盤である)、ぼくにとっては「いちばんの曲」なのでちょっと気になってしまうのだ。このblogを開設したときも、もしテーマ曲を付けるならこれだな、と思っていた(どうか持っている人は、バックにかけながら読んでください)。

いつかウクレレでも弾けるようになって、薄暮の町を散歩しながら、口ずさみたい。
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「閃光少女」がモチベーションを上げる理由

2011-06-19 08:59:47 | ディスクの武韜
ぼくのなかでは、5月以来「椎名林檎ルネッサンス」が続いているが、数多ある楽曲のなかでも、やはり「閃光少女」が自分のモチベーションを引き上げてくれることを再確認した。「閃光少女」は、もちろん楽曲自体のスピード感、躍動感がすばらしいわけだが、かつて映像作家を目指した人間としては、まずそのPVの出来のよさにやられてしまったのだ。UNIQLOCKでもお馴染み、石津悠と松永かなみの出演で繰り広げられるストーリーは胸を打つ。ストーリーといっても、映像はそれなりに抽象度のある断片でしかなく、物語の構成はむしろ視聴者に委ねられている。つまり解釈の自由度は大きいのだけれども、ぼくにはなぜか、2人の少女が疾走する姿は次の詩を通してしか捉えられないのである。
もしも、おまえが 枯れ葉って何の役に立つのってきいたなら
わたしは答えるだろう 病んだ土を肥やすんだと
おまえは聞く 冬はなぜ必要なの?
するとわたしは答えるだろう 新しい葉を生み出すためさ
おまえは聞く 葉っぱはなんであんなに緑なの?
そこでわたしは答える なぜって、やつらはいのちの力に溢れているからだ
おまえはまた聞く 夏が終わらなきゃいけないわけは?
わたしは答える 葉っぱどもがみんな死んで行けるようにさ
おまえは最後に聞く 隣のあの子はどこに行ったの?
するとわたしは答えるだろう もう見えないよ
なぜなら、おまえの中にいるからさ
おまえの脚は、あの子の脚だ
以前にも引用したことのある、『今日は死ぬのにもってこいの日』掲載のインディアンの言葉である。憧れだった友人の死を受け入れて、少女は顔を上げて歩き出す。その一歩一歩は、友人の一歩一歩に重なっている…。ここにも、ジョバンニとカムパネルラがいる。41歳にもなってどうしたんだと思われるかも知れないが、そう感じることが、きっとぼくのなかで「やるべきこと」に取り組む動機付けを強くしているのだろう。ぼくの学問が、ぼく独りの手で築きあげられたものではない、幾つもの手が背中を押してくれていると実感するからだ。都合のよい自己正当化であることは否定しないが、いいかえれば、これもひとつの「負債」なのである。ぼくの学問は、負債を返すことによって成り立っている(…という「物語」を作っておこう。実際、住宅ローンに追われているわけだし)。
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春の宵に浸る:『かもめ食堂』『めがね』『太王四神記』

2008-04-07 19:49:37 | ディスクの武韜
毎月積み上がってゆくばかりで一向に減らないDVDのなかから、荻上直子作品を一気に鑑賞した。『かもめ食堂』と『めがね』である。ともに、ものすごくゆるゆるしたテンション(そして枠組み)の映画だが、そのだらけ具合が大変に心地よい。「忙しい現代社会」云々、といった対立項は、絶対に設けたくない類のゆるさである。二作品を通して小林聡美ともたいまさこが好演、「このひとでなければありえない」というツボにはまった演技(なのか?)をみせてくれる。鑑賞後の爽やかさ、清々しさは、三谷幸喜『やっぱり猫が好き』や木皿泉『すいか』に類似のものがあるが、画面の片隅にのぞく〈不思議さ〉は、荻上直子独特の世界なのだろう(〈神話性〉といってもいいかも知れない。『めがね』のもたいまさこなど、まさに春に来る来訪神である。名前も「さくら」だし)。
さて、二作品に共通して気になったことがひとつ。すでにどこかで誰かが書いていることだろうが、贈与・交換のカタチへの監督のこだわりである。前者のかもめ食堂は、小林聡美がヘルシンキに開店した下町食堂風の和風レストラン。いわゆる寿司や天ぷらといったステレオタイプの和風料理ではなく、おむすびをメインメニューに、焼き魚やトンカツ、野菜炒めなどの定食を出している。当初は誰ひとり客が入らないが、片桐はいりやもたいまさこが様々な縁で関わることにより、次第にひとを誘う"風"が生まれてくる。金銭で成り立っている商売のはずなのに、客が代金を支払うシーンはほとんどない(お金を置いてゆくのが強調されるのはもたいまさこのみ。彼女が支払っているのは、本当に"お金"なのか?)。かわりに挿入されるのは、料理を口に入れたときのささやかなうなずき(決して大げさではない)、安心、そしてもうひと口ほおばろうという自然な動作である。そうした客の姿をみていて、小林らはニコッとする。彼女たちの感じる小さな幸福感は、お金からではなく、こころの交換によって育まれているのである(そして交換のきっかけが、誰しもが抱える様々の〈生きる悲しみ〉である点も重要だろう)。
後者にも印象的なシーンがある。もたいまさこが春だけ営む浜辺の小屋では、子供も大人も「たそがれさせる」不思議なかき氷が配られている。島の誰もがその氷を食べに来るが、対価として支払うのはお金ではなく、氷屋は原材料の氷を、子供は折り紙を、友人の光石研と市川実日子はマンドリンの演奏を贈る。自分が受けたものが自分にとってどれだけ大事なものか、それを贈ってくれたひとにいまの自分は何ができるか。それを考えることこそ、現代の貨幣経済においては麻痺してしまっている、贈与・交換の倫理において最も大切な行為なのだろう。
キッチンや台所用品、そしてファッションのセンスのよさも必見。ひととひととのコミュニケーション、受けること、伝えることの意味を深く考えさせる、感じさせる映画だった(妻は『アメリ』以来という惚れっぷりでした)。

もうひとつ、NHKで地上波放送の始まった『太王四神記』について書いておこう。日本古代史においても重要な好太王の生涯を描いた伝奇ファンタジーだが、第1話は檀君神話がモチーフ。火を自在に操る虎族の巫女が支配する地上に、戦争を抑止すべく天神の子ファヌンが降り立ち、熊族を核とする平和な都邑を築く。火の巫女カジンはファヌンに惹かれるが、ファヌンは熊族の英雄セオと結ばれ、三者の間に愛憎の炎が巻き起こる。ファヌンの使う白虎(風伯)・青龍(雲師)・玄武(雨師)と朱雀との戦いなど、VFXをふんだんに使ったスペクタクル映像が展開する。ハリウッド的な豪華さは演出の未熟さを助長するものだが、なかなかピーター・ジャクソンよろしく手堅い話運びをみせていた。かつて、類似のテーマを扱った『燃ゆる月』(カン・ジェギュプロデュース、2000年)という映画があったが、それより壮大で洗練された印象がある。天神が、結局は地上に混乱を呼ぶだけというのもそれらしい。テレビ東京で始まった『コーヒープリンス1号店』(『宮』の主演女優ユン・ウネの最新作)、NHK-BS2の『ファン・ジニ』(実在した妓生の生涯。今年の卒論にもあった女楽に関連)とともに、楽しみにしておきたい作品である。
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PS3解禁:異世界に遊ぶ

2007-11-02 17:49:23 | ディスクの武韜
10/31(水)~11/3(土)は、上智大学でソフィア祭が開催される。とうぜん授業は休講なわけで、10月の8コマ講義で疲弊した精神を和らげ、かつ溜まった原稿(いつも溜まっているのだが)を処理する絶好の機会なのである。しかし、今年は出足から躓き気味。10/31は大妻の講義へ出講しなけらばならず、11/1も『上智史学』の校了作業のために出勤しなくてはならない。大学と自宅が近ければまったく苦にならないが、バス・電車を乗り継ぎ2時間弱かけて来る人間にとって、これは大きな時間のロスである。そこで、どうせ東京に出るのならと、ずっと期待していた映画『パンズ・ラビリンス』を観るべく、有楽町駅前の再開発でオープンしたシネカノン有楽町二丁目へ足を運んだ。ところが、上映開始4週目ながらやはり評判が良いせいか、入れ替え制のチケットが早々に売り切れてしまっておりやむなく断念。翌日も同じようなことが続いたので、もう今週は縁がなかったとさすがに諦め、何か自宅で気晴らしでもしようと帰途に就いた。

さて、家に着くとamazonからDD60CSSが届いていた。わずか1万円だが、しっかりした5.1chのスピーカーシステムである。8月に購入したままずっと封印していた、PlayStation3に繋ぐべく注文しておいたのだ。ここ数日の鬱憤を晴らすべく、さっそく箱を空けてセッティング。机の周辺に即席ホームシアターを構築した。さて何を動かしてみようかな、とは一切考えず、コーエーの『ブレイド・ストーム』をセット。イギリスとフランスの百年戦争を描いたタクティカル・アクションで、実はこれと『真・三国無双5』が出ると聞きPS3の購入を決心したのである。ぼくはゲーマーではないので、いわゆるゲームのゲームらしいところに惹かれるわけではない。PS2以降のゲーム機がみせてくれるような異世界、その空間のなかで自由に遊ぶことのできる感覚を楽しみたいのである。また、歴史学者の端くれではあるので、洋の東西を問わず、歴史を題材にした作品にはついつい食指が動いてしまう。もう10年ほど前になるが、初めて『真・三国無双』を観たときには驚愕したものだ。『三国志』の英雄になりきって兵士のひしめく戦場を駆けめぐる臨場感に、ゲームというものの新たな可能性を垣間見た。その数年前に、小松和彦監修の『コスモロジー・オブ・京都』というPCソフトがあった。平安京を逍遥して数々の歴史的事件(というより物語的事件)を経験できる優れモノだったのだが、今こそあれを3Dで作ってほしい!と真剣に考えた。その後、王朝的空気にホラー性を加味した『九怨』というソフトが発売されたが、教育的観点からするといまひとつだった。PS3が商業的に苦戦を強いられ、DSやGAMEBOY、携帯電話の提供する単純なゲーム(DSの場合は教育ソフト等の力が大きいが)に再び人気が集まっているのは、上記のような世界観のゲーム的需要、ヴァーチャル・リアリティ的なゲームの進化に限界がみえてきたということかも知れない。しかしぼくとしては、PS3の性能をフルに使って、もっとリアルな異世界や過去の歴史的世界を再現し、仮想体験できるようなソフトを作っていってほしいと思う。

ちなみに、『ブレイド・ストーム』や『無双』シリーズは、戦争を扱っている関係上、極めてジェノサイドな作品である。僧侶としてこんなものやってていいのかな、とふと考えることもある(かつて仏教は、夢のなかの殺人は業としては微弱で、悪報を生じるのは足らないと考えた。ならばゲームのなかでの殺人はどうなのか。現代仏教が真剣に考えなくてはいけない問題かも知れない)。『ICO』や『ワンダと巨像』、『大神』のような、戦争をモチーフとしないゲームも考案してほしい。
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元ちとせ『ハナダイロ』

2006-07-25 04:27:46 | ディスクの武韜
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元ちとせ、2年半ぶりのニュー・アルバムです。

テレビや映画の主題歌となっているシングル曲ですが、やはり、「語り継ぐこと」と「青のレクイエム」がまず耳に残ります。
前者は、私たちみんなが語り継ぐべき物語のなかにいるという、リクールの歴史観を思い起こさせます。歴史の倫理とは、失われた過去の可能性を救済し、生き直すことにある。〈生き直す〉対象は、自らの理想と仰ぐ人の場合もあれば、身近な、かけがえのない人の場合もある。
「もしも 時の流れを /さかのぼれたら その人に出逢える」
……涙が出ますね。最近、死者=歴史的他者へ思いを向ける曲、多いような気がします。
後者は、なんといっても冒頭のフレーズ。冷たく、静謐な言葉が紡がれます。
「それは夢のように まるで嘘のように /残酷な朝は すべてを奪い去った /やがて空の底に つめたく沈むように /息絶えた月は 静かに消えていった」
これは恋愛の終わりなのか、世界の終末なのか。空爆があって、目が覚めたら焼け野原。愛する人はみな消えてしまった……最近のきな臭い世界情勢をみていると、そんな情景も浮かんできます。瞼を閉じて聞いていると、無力感の向こう側に、なにかふつふつと使命感のようなものが湧きあがってくるのが不思議です。

あとは冒頭の「羊のドリー」、ラストの「死んだ女の子」でしょうか。前者はクローン問題、後者は核兵器問題について問いかける、いずれもメッセージ性の強い曲です。あまりあからさまなものは個人的に苦手なのですが、元ちとせ「らしい」ところといえば、ドリーの存在を疑問視するだけでなく、その心性にポジショニングしてゆくところでしょう。
「羊のドリー レプリカント /頭の先からつま先まで /すべてみんなと同じ /だけどドリーは作り物 /メーメー鳴いて尋ねる /私は誰って言ってる /鳴いた声まで誰かに… /鳴いた声までそっくり」
「柵を超えて /陽のあたる どこにでもある世界に /いつか たどり着く事が出来ますように /ドリー でもあと何度生まれ変わったなら /Dolly the sheep そこに行ける?」
自己の〈存在〉を問うドリー。歌い出しの「レプリカント」は複製品という意味だけでなく、どうやら『ブレードランナー』に登場する人造人間に繋がるようです。そういえばあの映画の原作は、『アンドロイドは電気の夢を見るか』でしたね。
私たちは、ドリーのいる「陽のあたらない場所」に、いつか、自分自身が立っていることに気づくのでしょうか。
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