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仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

ギャレス・エドワーズ版『GODZILLA』を観る

2014-08-18 17:15:28 | 劇場の虎韜
8月も半ばを過ぎたところで、ようやく春学期の採点・集計作業が終了。レポートの採点は、毎年のことながら常に地獄で、学生の力量を見極めることの難しさ、種々の同情との戦い、そして自分の教授力の未熟さ、無力感にうちひしがれる日々であった。今年も「残念ながら」、何の工夫もない丸ごとコピペのレポート、巧妙に偽装したコピペのレポートを発見、作業中に左目を負傷したりヘルパンギーナを患ったりしたのだが、これは確実に採点のダメージで免疫力が低下していたせいだろう。しかし、それでも気分転換に、四谷会談の合宿で箱根の温泉に浸かったり、幾つか映画を観にゆくこともできた。まずは、1日のオープン・キャンパス模擬授業終了後に鑑賞した、ギャレス・エドワーズの『GODZILLA』について書いておこう。

ギャレス・エドワーズといえば、不思議な魅力の漂うロード・ムービー風怪獣映画『MONSTERS』で一躍名を馳せた新進気鋭の映画監督である。平成ガメラ・シリーズの提起した「怪獣災害」的な視点から、地球外生命体の南米における繁殖・拡大をリアリスティックに捉え、客観的なエイリアンの描写から生命の不可思議さと崇高さ、そして人間の怪物性を逆説的に浮きだたせてみせた。そんな監督の作品ゆえに否が応にも期待は高まるわけだが、まず観終わっての第一印象は、「こういう映画で新鮮味のある、あるいはオリジナリティ溢れる物語を作るのは難しいな」ということだった。突き詰めれば、「ゴジラ映画って何なの、何をもってゴジラとするの」という議論になってしまうのだが、今回の作品は「ゴジラ」ではなく「ガメラ」だったのである。より具体的にいうと、平成ガメラ・シリーズで伊藤和典・金子修介の提示したガメラvsギャオスの構図が、そのままゴジラvsムートーに援用されているのだ。同シリーズでは、ギャオスは、超古代文明が増えすぎた人口を調整するため、遺伝子操作によって生み出した怪物とされた。それに対してガメラは、ギャオスの暴走を抑えるため、亀の甲羅のような器に地球のマナを集めた生態系の守護者="Guardian of the universe"と位置づけられている。今回の『GODZILLA』では、ムートー・ゴジラとも、もともと放射性物質をエネルギー源とするペルム紀の生物と設定されているが、渡辺謙演じる芹沢博士が、ゴジラに自然=地球生態系の調整力を象徴させて語るシーンがある。すなわち、ゴジラが生態系の攪乱者としてのムートーを「調整」するために狩るとの見方で、そのままガメラ="Guardian of the universe"論と重なってくる。ガメラの場合、「人間がギャオスに替わり生態系の破壊者と認定されれば、ガメラは容赦なく人間の敵に回る」ことが危惧され、人類文明への警鐘となっているのだが、ゴジラの場合、放射能を纏ったその存在自体が、そもそも人類文明への強烈なアンチテーゼであった。ガメラのように静謐な神の視点からではなく、放たれた野獣としての荒ぶる神、人類とは根本的に相容れない存在こそがゴジラなのである。しかし残念ながら、今回のゴジラにはそうした凶暴性がほとんど見受けられない。ローランド・エメリッヒ版『ゴジラ』の巨大トカゲから脱して、神としての表象を再獲得したのはよいが、それはやはり、人間にとって都合のよい神でしかないような気がした。
また、すでにいろいろなところで指摘されているが、今回の設定で「後退」と思われるのは、過去の原水爆実験に対する歴史修正ともいえる正当化がなされていること、核の恐怖や惨禍がほとんど現実味をもって描かれていないことである(『ダークナイト・ライジング』でも感じたことだが、これはレジェンダリー・ピクチャーズのお家芸なのか?)。繰り返しになるが、1954年のオリジナル『ゴジラ』では、眠りを覚まされて日本へ上陸し、オキシジェン・デストロイヤーで滅ぼされる彼自身が、原水爆実験の被害者だった。いわば、ゴジラを通して、人間という生き物の業の深さ、罪深さが追及されていたのである。今回は、ゴジラが完全無欠の神として描かれている分、核がいったいこの生き物に何をもたらしたのかは語られない。むしろ、核なんて、放射線なんて大したことない、という印象が起ち上がってきてしまい、その方が怪獣より怖ろしい気がした。それから、これは1984年『ゴジラ』以降全般的にいえることなのだが、かつての東宝映画が持っていた「民俗伝承との関わり」が、まったく窺えなくなってしまったのも寂しい。ゴジラがなぜ南方からやって来るのかという問題については、金子修介版ゴジラ(『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』)がひとつの答えを出していたが、これは現代社会における民俗学の「地位」とも関係のある事象かもしれない。オープニングで伝説の怪物たちが映し出されてゆき、ゴジラとの繋がりが示唆されるのだが、本編ではそうした言及は一切なく、地質学や古生物学的に関わる「科学的説明」に終始していた。素人の科学的説明が神話を痩せ細らせる、NHK『幻解!超常ファイル ダークサイド・ミステリー』的な幻滅感を味わった。

まあそれでも、エメリッヒ版より相当出来がよかったのは確かだろう。伝家の宝刀白熱光(放射能火焰)がゆらめき(最後にメスのムートーへお見舞いしたときは、ちょっと嘔吐っぽくて気持ち悪かった)、CGゆえにディフォルメされた動きなど(アベンジャーズか!)、いろいろ気になった点はあったけれども、もっと工夫のしどころはあったと思うが、駄作というほど酷い作品ではなかった。
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「エンサイクロペディア・シネマトグラフィカを見る(6)」への参加

2014-04-06 19:57:19 | 劇場の虎韜
また遡り記事になるが、3月25日(火)は、左のイベント「エンサイクロペディア・シネマトグラフィカを見る(6):ECフィルムからのパフォーマンス創造 vol.1」に参加してきた。今回は、6度に及ぶ上映会のなかでも初めて「生物学」ジャンルの映像を使用し、また単にそれらを観るだけではなく、現代のダンス・パフォーマンスと組み合わせ新たな創造的可能性を探求しようという試み。解説者は民博の川瀬慈さんで、まずはECフィルムの概要から説明をいただいた。ECフィルム作成の経緯についてはすでに1回目の上映会で伺っていたし、その後目録も購入したのである程度の知識はあったが、今回、民族学のモダン/ポストモダン的潮流とどのように関わるのかが分かってよかった。ECフィルムが生まれた1950年代の民族学では、すでに客観主義的・科学主義的態度の批判が始まっており、記録映像自体にも、記録者と対象との双方向性や、主観性・芸術性を重視した試みもなされるようになっていた。そのようななかでECフィルムは、主体をとことん消し去ろうとするストイックな科学主義を維持し、記録した映像は定期的に開かれる編集委員会で審査され、その水準が保たれたという。確立された技法は世界中の人類学者へ伝授されたらしいが、個人的に興味を惹かれたのは、1998~2003年にかけての雲南省東アジア映像人類学研究所への指導。1992年に北京映像人類学会が設立されたことを契機としたようだが、ここから現在のドキュメンタリー映画を担う多くの人材が輩出されたという。確かに、雲南を舞台にしたドキュメンタリーには秀作が多い。昨年公開されて話題になった『三姉妹~雲南の子』のワン・ビンも、ひょっとするとECフィルムの影響を受けているのだろうか。
さて、この日に上映された映像は、1)ジャーマン・シェパードの走行、2)ヒグマの走行、3)キンカジュウの登攀、4)スローロリスの登攀、5)マリミズムシの分泌物による身繕い、6)オランウータンの走行、7)モモイロペリカンの協働漁撈、8)サケを捕るオオカミ、9)サケを捕るヒグマ、いずれも3~4分程度の作品。このうち4)~8)は、京都で活躍する前衛的ダンス・ユニット「双子の未亡人」のパフォーマンスと併せて「上演」された。「未亡人」2人の恐るべき身体能力と、画面のなかの動物たちの動きが、特定の律動を通じてシンクロしてゆく。先日の環境思想シンポの懇親会でも、野田研一さんと身体/リズムの関係の話になったのだが、個々の生命に固有のリズム、そして自然界を貫くリズムの存在は間違いなくあろう。それゆえに、人間の舞踏は動物を真似することから始まり、言語を超えてあらゆる観衆を巻き込む熱狂を生む。そんなことを考えながらみていると、最前列に座っていたからだろうか、とつぜん「未亡人」の2人に舞台へと引き出された。2人のパフォーマンスに一部参加させていただき、一緒に立位体前屈。若い頃と比べるとかなり硬くなったが、それでも掌くらいは床に着けられる。おかげで、ずいぶんと体を伸ばすことができた。この日は何人かが「生け贄」になっていたが、ぼくがその最初。学生の頃から、「指名されたくないときに指名される」情況は変わっていない…。
ECフィルムを創造的に活かそうとするこの試み、果たして成功していたのかどうかは分からないが、観る者の想像力をさまざまに刺激したことは確かなようだ。
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『ある精肉店のはなし』を観る

2014-01-10 07:43:04 | 劇場の虎韜
9日(木)は、午前中から夕方まで、昼食も摂らず会議・学生面談の連続。帰宅途中に、一昨年から待望の『ある精肉店のはなし』を観てきた。
いわゆる屠畜のシーンについては、すでに一昨年、北出新司さんの解説とともにラッシュを観、感想も述べたので、あらためて詳細は書かないことにする(しかし記録としては貴重な気がするので、前記事へのリンクを付けておこう)。今回、完成した作品を観て、あらためて感銘を受けた点はとりあえず2つ。

まず1つは、この映画が単なる屠畜の記録映画ではなく、近代から現代に至るひとつの家族=精肉店の物語として成立していること。まさに映画のタイトルどおりであり、もちろん屠畜の問題とは切り離せないながら、纐纈監督の目論見が「家族を撮る」ことにあったのが明確に伝わってきた。被差別の系譜を引くまちのなかで、子供たちが多感な時期をいかに過ごし、社会に憤り、親に反抗し、それでも親の背中をみつめて家業を継いでゆく、伴侶を得て家族をなしてゆく、その生き方がいかなるものであったのか。一方の親たちは、そんな子供たちをどのような思いでみつめてきたのか。澄子さん、新司さん、昭さんたちの、父親に対する思いが、さまざまに語られてゆく。ラストで象徴的に映される、居間の隅の、子供たちの背丈を記した柱。それはまさに、そのときどきの家族の思いがにじみ出る、家族の歴史書である。少し前の場面で、取り壊される牛舎から父親の名のある上棟札が取り出されていたが、この二つの「木材」が、ぼくのなかでは二重写しになった(個人的にいちばん好きなのは、東の仮装盆踊りのシークエンス。赤毛のアンに扮した静子さん、可愛かったです。うちの母親もそうだけれど、現在70前後の女性の憧れは、やはりアンなのだな。獣魂碑、鎮魂祭がみられたのもよかった。読誦されていたのは『阿弥陀経』だったか、癖が強くてよく聞き取れなかったが…しかし真宗は、教理的に動物や植物の生命をどう考えるかという点が弱い。宗派において、もっと積極的に議論してほしいところ)。

次は、少し学問?めいたことを。太鼓の張り替え。皮なめしから張り替えに至る一連の作業を、今回初めて映像で観た。動物の皮は、例えば狩猟採集社会の動物の主神話(及びその系統の伝承群)においては、獣を人間にし、人間を獣にする転換の装置、獣であることの象徴として重要な位置を占める。しかし、家畜の皮の問題となると、伝承はふいに口を閉ざす。せいぜい、オシラサマへ繋がる馬娘婚姻譚(天斑駒含む)で、馬の皮剥が強調される程度である。牛については、負債を返さずに死んだ人間が転生し駆使されて償うという堕畜生譚が圧倒的で、皮に関する変身譚、祟りの話などは寡聞にして知らない。太鼓についても、軸となる木の祟り話は伐採抵抗伝承の一種として残っているが、皮については聞いたことがない(ぼくが知らないだけかもしれない。どなたかご教示を)。しかしこの、張り替えの際の牛皮の存在感、生々しさは何だろう。伝承が沈黙しているのは、やはり列島における家畜の問題と関わりがあるのだろうか。太鼓には牛皮のほか、馬や鹿の皮が使われる場合もあるが、狩猟で得た獣の場合には何か言い伝えが残っているのだろうか。ん、待てよ、御柱祭シンポでご一緒した張正軍さんが、イ族か何かの太鼓と人身供犠の関わりを報告していたような…。ま、今後はもう少し意識的に集めてみることにしよう。

今年は正月から、いろいろ印象に残り、かつ考えさせられる、良い映画を観られている。感謝。
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『かぐや姫の物語』と所有

2014-01-08 20:28:53 | 劇場の虎韜
『かぐや姫の物語』について、続き。書き忘れたのだけれども、高畑勲のなかでかなり意識されていると思われたのは、「所有」の問題である。
いちばん露骨に出てくるのは翁で、姫を竹藪で手に入れた日から「わしが授かったんだ!」と始まり、その欲は最終的に、官位と引き替えに姫を天皇へ差し出すまでに膨張、結果として彼女を月へ帰してしまうことになる。姫に求婚する貴族たち、そして天皇も、彼女を「所有」しようとする。姫の気持ちに寄り添う媼でさえ、それらの「所有」に対しては「所有」で対抗せざるをえず、寝殿の隅に使用人小屋という自分の居場所を確保する(この時点で、所有の生み出す階層秩序のなかへ取り込まれてしまうのだ)。姫もそれに倣い、奪われた「誰のものでもない故郷」のニセモノを所有し、自分を慰めようとするが、都に連れてこられて美しい着物、壮大な屋敷に喜び、それらを「所有」してしまったときから、哀しい結末は決まっていた。「所有」は「所有」を呼び、次々と「所有したい願望」を引き込んでゆく。ここに、現世における姫の罪と罰がある。
これらに対立する軸として登場するのが、捨丸に象徴される移動民の木地師集団である。彼らの所有は生存に関わる最小限のもので、「所有しない」ことは「故郷を持たない」ことによって象徴的に示される。姫はそのなかへ回帰することで救済を求めようとするが、捨丸とお互いを「所有」する約束を結ぼうとしたとき、彼がすでに妻も子供も「所有」していることによって軋轢が生じ、望みはかなえられずに終わってしまう。姫が救済されるためには、やはり「非所有」の神仙世界へ戻るしかなかったのかもしれない。
所有への欲求が苦を生むということは、仏教の根幹にある思想であり、対称性原理が抑制しようとしてきた滅びへの道である。現代における資本主義の暴走はその予言するとおりの惨状を呈しているが、高畑勲がそれに抗おうとしていることは確かだろう。
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『かぐや姫の物語』を観て

2014-01-07 11:45:38 | 劇場の虎韜
6日(月)は、会議と学生との面談のため出勤。帰りに立川まで足を伸ばして、『かぐや姫の物語』を観てきた。比べても仕方ないが、『風立ちぬ』より数段よい(しかし、『風立ちぬ』より売れないだろうな)。

アニメーションとしては、高畑勲の敬愛するフレデリック・バックの作風を、日本のデジタルアニメの製作工程でどう再現するか、というのが大変だったのだろう。実験アニメを見慣れている眼には新鮮さはないけれども、アニメートは近年まれにみる出来で非常にしっかりしていた。姫の赤ん坊時代の描写など、画の動きだけで心を動かされたのは久しぶりである。アニメーションとアニミズムの関係性については以前に論じたことがあり、ジブリアニメでは『崖の上のポニョ』の表現に顕著に表れていたが、アニメートする主体とアニマを与えられた画との関係性を考えると、手描きの工程が直接的であればあるほどシャーマニックな営みとなる。それは自分の身体を自覚する作業でもあり、身体のコントロールにも繋がってくる(マンガ家がキャラクターの表情を描くとき、鏡をみるわけでもないのに画と同じ顔を作っていることは、実体験としてよく分かる)。『白蛇伝』『安寿と厨子王』時代の東映動画の風格もあった。絵巻からの引用も随所にみられ、日本史研究者としての楽しみもあったな。
物語の内容としては、まず、時代を超えて受け継がれてゆく古典の力を感じた。原作の『竹取物語』は、もちろん生のさまざまな営みに視線を向けながらも、やはり現実世界の無常と神仏・神仙の世界の永遠性を対比的にみつめ、後者の価値観を中心に持つものだった。しかしこの映画は、環境世代の目線に立って、現実世界のなかに自然/文化の対立軸を組み込み、草木魚虫と人間との営みをより具体的に描き出したうえで、原作の価値観を転倒させる。地上世界に生きるいのちははかなく、互いに殺し合い傷つけ合い、苦しみと悲しみ、虚仮と無常に満ちている。しかしそれゆえに愛おしい。波立つ苦悩はなく平穏で、けれどもそれゆえにほとばしる激情も、沸き立つ喜びもない天上世界を拒否する主人公は、ナウシカに代表されるジブリ・ヒロインの正統な系譜に位置している(でも、星野鉄郎みたいなところもあるか)。『死者の書』の南家郎女とは対照的…と書くと、語弊があるだろうか。まあ、姫の造型を地上化しすぎて、単純化してしまった面は否めない。神仙=他者としての隔絶性、豊かさの方は薄れてしまった。
もっとも価値観の転倒の問題は、思想史的にみれば「本覚思想化」なのだということもできる。映画のラスト、月世界からの聖衆来迎(これは、平安~中世の隠された心性を捉えていて見事)に象徴される神仙・神仏世界の「平和」は、愛憎を超越したその静謐さゆえに否定的に位置づけられるが、そもそもなぜ仏教が現実を苦と捉えそれからの解脱を唱えたのかを考えると、日本列島の環境文化のなかだからこそ可能な「転倒」だといわざるをえない。劇中、姫が再会した木地師の青年に対し、あなたと一緒なら「生きていける!」と繰り返し語る場面があるが、そのとおり、日本の環境でなら生きてゆけてしまうのである。数多繰り返された激甚災害の犠牲となったいのちのことを思うと、簡単には断言できないのだが、それでも日本の環境は生命の生育において極めて恵み豊かなのだ(もちろん、そこに政治的・社会的要素が加わると、とたんに〈生存〉を危ぶまれる情況になってしまうのだが)。現実世界のいのちの営み、その豊かさを具体的に描き出すことに力点を置いたこの映画は、その本当の対立軸である神仙世界・神仏世界の価値観については充分に表現できておらず、それを憧憬せざるをえない人々の心のあり方には目を向けていない(倶会一処を描いた二階堂和美の主題歌「いのちの記憶」が、それを補っているということだろうか)。その意味で『かぐや姫の物語』は、列島の環境文化、列島的価値観に絡め取られた物語なのだといえるだろう。

暮れに深夜のテレビで『パンズ・ラビリンス』を放映していたのだが、DVDを持っているにもかかわらずじっくり観てしまった。そういえばあの映画も『かぐや姫の物語』と同じ構造を持っているが、スペイン内戦の悲惨な現実のなかで、『かぐや姫』とは逆に楽園を希求する物語になっていた。楽園/現実の間で揺れ動く人間の姿は、シャーマニズム研究の主題のひとつでもある。とにかく、『ハンナ・アーレント』に続いていい映画を観た(しかしまあ、自然と共生しすぎの平安時代であったことよ。もっと開発してるよなー、実際)。

※ 追加。音楽もよかったので、サウンド・トラックほしいな。二階堂和美はもちろんいいのだけど、いちばん印象に残ったのは「天人の音楽」。ゴンチチか!と突っ込んだ。
Comments (2)
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映画『ハンナ・アーレント』を観る

2013-11-19 12:05:47 | 劇場の虎韜
今日は、共立大の遠藤耕太郎さんのところへ、お預けしておいた中国の文献を取りにゆきがてら、岩波ホールで『ハンナ・アーレント』を観た。同ホールの座席は今や少々狭く、スクリーンにも何か違和感があって没頭できなかったが、次第に物語にのめり込んだ。
映画は、『イェルサレムのアイヒマン』をめぐる一連の騒動を中心に、アーレントの思考過程全般(すなわち、過去から紡がれてきた人間関係のなかでの、感情・感性の連なりも含めて)を描き出している。この問題は、昨年度の講義「歴史学のアクチュアリティ」で、歴史学の倫理と関連づけて取り扱った。「悪の凡庸さ」は、ぼくのように仏教的雰囲気のなかで育った人間には受け容れやすい概念だが(もちろん、〈根源的悪〉との対比のなかでは考えないけれども)、日本のように〈個〉が埋没しやすい社会(しかし誰かを生贄にしたがる社会)には常にはびこっている事象で、また自覚もしにくいかもしれない。アーレントのレポートは、日本の戦時体制やそれを容認・支援した社会のあり方、そして現在の情勢を分析する際にも有効と思える。1995年、上智で開かれたオウム真理教事件のシンポジウムで、当時の心理学科の有名教授F氏が、「今回の事件は、麻原彰晃=松本智津夫という特殊パーソナリティによって引き起こされたというに尽きる」と結論づけたことに、「こいつはアーレントを読んだことがあるのか」と激怒したことを想い出す。
また、今回は旧友クルト・ブルーメンフェルトとの会話のなかで使われていたが、有名なゲルショム・ショーレムへの書簡に表れる次の言葉は、やはり印象深い。
私は今までの人生において、ただの一度も、何らかの民族あるいは集団を愛したことはありません。…私はただ自分の友人〈だけ〉を愛するのであり、私が知っており、信じてもいる唯一の愛は個人への愛です。
上野千鶴子ではないが、やはり無自覚なアイデンティティ、自分を集団の〈正義〉と一体化させる心理武装、「何かを背負うこと」は危険である。しかし、帰属を拒否してひとりの足で立つことは、不安だし苦しい。とくにそれらの「集団」が提示する真実とは、異なる真実に向き合っている場合には…。先日、研究室に学問のあり方について相談に来た学生から、「先生は、自分の学問がパンドラの箱を開けてしまうような真実を見出した場合にも、臆せずに公表しますか」と質問を受けた。そのときは「するよ」と答えたが、やはりアーレントのような度胸はない。アーレントは「事実」に支えられていたと思えるが、言語論的転回を受容したぼくには、(映画でもちょっと描かれていたが)「事実」と「解釈」を峻別することができないためでもある。昨年度学生たちに語りかけたときにも感じたが、このあたり、非常に難しい問題になってきている。しかしやはりアーレント的にいうなら、思考することを放棄してはならないのである。
ドラマトゥルギーとして唸らされたのは、ラストへ向けてアーレントに感情移入し、彼女の反対演説に拍手喝采を送ったであろう観客を突き放す、親友ハンス・ヨナスとの対話・絶交。「ヨナスの分からず屋!」と思った人も多いだろうが、彼が悪いわけでも、アーレントを理解していないわけでもない。アーレントが正しいのと同じように、ヨナスもまた正しいのだ。世界はハリウッド映画のように単純ではない。
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走れ、ブルブル

2013-10-16 21:44:19 | 劇場の虎韜
やなせたかしが亡くなった。『アンパンマン』の自己犠牲称揚に背筋が寒くなっているぼくとしては、やはり『やさしいライオン』を挙げておきたい。しかし、実は原作の絵本は読んだことがなく、覚えているのはもっぱら手塚プロダクション製作のアニメーションの方だ。自治体が主催した野外映画会(いまはもうないよね、なかなか)で観たのだが、公開はぼくの生年と同じ1970年なので、恐らく映画鑑賞の記憶としてはもっとも古いものだろう(1972~73年頃か?)。母親のムクムクを助けに動物園から抜け出すブルブル、彼が走るバックに流れた、「走れブルブル 金色の風のように 走れブルブル 光る矢のように」という歌は、いまでもふと想い出すことがある。不死身のアンパンマンより、孤独に震えているブルブルのほうが好きだ。合掌。
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迷いのない技:「エンサイクロペディア・シネマトグラフィカを見る」

2012-12-13 19:49:14 | 劇場の虎韜
10日(月)、新進気鋭の民俗学者M君が、大学院の授業「特殊研究」の時間に遊びに来てくれて、左の上映会の情報を教えてくれた。「エンサイクロペディア・シネマトグラフィカを見る」。「エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ」略してECとは、1951年、西ドイツ ゲッチンゲンの国立科学映画研究所で開始された、国際的な学術研究および大学教育用の科学映像資料収集運動らしい。読んで字のごとく、映像からなる百科事典を作ろうとした、と理解すればいいだろう。それから30年近くの歳月を費やし、多くの研究者やカメラマンが世界各地を巡って、生物学や人類学に関する2000タイトル超の映像アーカイブが構築された。ECフィルムはその後各国機関に渡り、日本でも、平凡社創立者の流れを汲む下中記念財団が、1970年にEC日本ア-カイブズ(ECJA)を開設、1972年より、アジアで唯一のフルセットの管理・運用を開始した。しかし、現在に至って本国ドイツのECプロジェクトは解散し、日本でも16mmフィルムという媒体形式が障壁となって、上映の機会はほぼなくなってしまったという。ポレポレ坐で開催された今回の企画は、このフィルムをテーマごとに定期的に上映してゆこうというもので、ゲストを迎え、最新の研究成果を併せて伝えるというプラスαもある。第1回のテーマは「屠畜」で、民博の関野吉晴さん、場の写真で知られる映画監督・写真家の本橋成一さん、纐纈あやさんの映画『ある精肉店のはなし』のモデルとなった大阪北出精肉店店主の北出新司さんが壇上に並んだ。上映プログラムは以下のとおり。
1)中央ヨーロッパ・チロル、ヴィルアンダースの家庭の :ベーコンとソーセージづくり
2)北ヨーロッパ・ノルウェー、サミ人 :初秋のトナカイの狩集め、耳への刻印、去勢、と解体
3)北ヨーロッパ・ノルウェー、サミ人 :トナカイ肉の解体
4)西ニューギニア・中央高地、ファ族 :豚のと料理
5)特別上映 :纐纈あや監督『ある精肉店のはなし』ラッシュフィルム、北出さんによる最後の

当日は6限まで授業が入っていたため、前日に予約をして、授業の終了後 急いで会場へ駆けつけた。会場はほぼ満員だったが、何とか開演には間に合い、幸運なことに座席も確保することができた。まずは3人のゲストが登壇され自己紹介、彼らのコメント付きで映像を観てゆくことになった。なんという贅沢。

1)チロルの一般家庭における、クリスマス準備と冬支度のための豚の。庭先に引き出されてきた豚は、発火形式のニードルのようなものを頭部に打ち込まれて昏倒、早速解体作業が進められる。まずはのど笛を切り裂き、血をすべて体外に出す血抜き(飛び散らせず、容器に集める)。その後、豚をまるごと棺桶のような大きな木箱に入れ、樹脂の粉と熱湯を注いで全身をこすってゆく。すると、次第に毛の部分がとれてくるので、丸裸の状態で室内(納屋?)のに運ぶ。豚は大ヨークシャー種で、1頭の重さは120キロ程度。かなり重いが、両足先(くるぶしあたり?)に杭を貫通させ、ウィンチで逆さ吊りにする。北出さんの解説によると、これは「極めて合理的」とのこと。北出さんは、我々には分からない解体の専門知識をさまざま補足してくださり、非常にありがたかった。続いて、吊り下げられた豚の腹を顎から股間まで切り裂き、内臓をすべてかき出してしまう。血抜きをした後なので、臓腑は白くて非常に美しい。これをさらに各部に分け、粘膜や内容物などをすべて出して洗浄し、腸詰めの作業に備える(大量にある雪も使用し、踏みつけるようにして洗浄していた)。この作業は大腸を除き、ほぼ女性が担うという。北出さんによると、大阪でも同じだとのことだが、その理由は何なのだろう。腸は裏返して洗浄し、風船のように膨らませて穴がないか確かめたうえ、ミンチ状にした肉を専用の器具で詰め込んでゆく。クリスマスの特別な料理である、血のソーセージも作る。その他の肉については、最初、豚をそのまま入れたのと同じサイズの木箱のなかに、肉を丁寧に並べてゆき、塩をすり込み、寝かせる作業を繰り返す。一部は薫製にし、ベーコンを作ってゆくらしい。
・解体の作業は、本当に家庭的な、あたたかい雰囲気のなかで進められてゆく。女性たちは、カメラが入っているからなのか、いくぶん照れたように、楽しそうに作業しているようにみえる。子供たちは遠巻きに眺めているが、クリスマスのご馳走に期待を膨らませているようだ。ここではは、(少々「特別さ」を帯びているとはいえ)日常の一齣にすぎない。

2・3)スカンジナビア半島のサミ人による、トナカイの。まずは初秋の狩集めの風景。牧畜といっても、かなり広大な地域に放牧されているのだろう。関野さんによると、シベリアでは他の家畜を昼間に放つのに対し、トナカイは逆に夜に放つのだという。人間が餌場に誘導する必要はなく、群れで自由に餌(主に苔類)を食べにゆく。彼らはエネルギー消費が激しいために脂肪分が非常に少なく、肉も引き締まっているが、そのため、人間が食べる場合には「旨味」に欠け、シベリアでは安価な肉として扱われるらしい。狼の群れに襲われることも多く、ソヴィエト時代はヘリコプターで保護をしていたらしいが、ソヴィエト崩壊後はそれも行われず、狼との競合に敗れた牧畜民の離散が相次いでいるという(上記、高倉先輩の本で勉強しておこう)。
サミ人のフィルムには、トナカイ管理の方法として、耳に様々な文様の切り口を入れる作業が記録されていた。ものすごいスピードで移動する群れに輪のロープを投げ、任意のトナカイの角に引っ掛けて連れ出し、焼きごてのほかに耳の加工を行って、持ち主の印を刻む(かなり複雑に切られてしまう場合もあって、ちょっと可哀想ではある)。ところで、牧畜トナカイの群れのオス・メスの割合はだいたい半々程度らしいが、優秀なオスの子孫を残すため、繁殖期の前に一定量の去勢が行われるという。驚いたのはその方法だ。最初は何が行われているのか分からなかったが、押さえつけられたトナカイの股間に、サミ人が顔を埋めている場面が映し出された。なんと、トナカイの睾丸を口で噛み潰しているのだという。何ともいえない気持ちになった。関野さんいわく、シベリアにも去勢の方法があって、東西で潰す/抜き出すという相違があるらしい。スカンジナビアではどうなのだろうか。いずれにしろ、狩猟や牧畜には、対象となる動物と人間との身体的接触が多い。異類婚姻譚が生じるのもむべなるかな、と考えられる。
さて、解体のシーンである。押さえつけたトナカイの胸に、杭のようなものを打ち込む。シベリアでは心臓を一突きにするらしいが、いずれにしろ、体内で血液をすべて出すようにしてしまい、一ヶ所に集めて排出する。それから野外で解体が始まるが、サミ人の男性は、幾つかの刃物を器用に使いこなし、手際よく作業を進めてゆく。トナカイの内臓構成はおおむね牛と同じらしい。反芻用の巨大な第1胃から始まり、第2胃、第3胃まである。第1胃には、未消化の苔がたくさん詰まっていた。皮のなめし方については、糞尿を用いる方法が広く知られ、日本でも行われていたが、サミ人がどのような方法を採用しているのか、フィルムからは確認できなかった。解体された各部は、再び皮に包まれてサミ人に背負われ、自宅まで運ばれていった。なおされる動物は、解体の過程でどんどん体温が上がり続け、40℃くらいには達するという。厳寒のなかでは湯気が立ち上るとのことである。寒いなか、内臓に手を入れていると温かい、とは関野さんの談。

4)ニューギニア、ファ族における豚のと料理。の対象となったのは、1)の大ヨークシャー種とは比べものにならないくらい小さなもの。綱で繋がれたものを、かなりの至近距離から矢で射殺していた。合理的な意味はなく、かつての狩猟の記憶を伝えているものなのかもしれない。このフィルムは1975年の撮影らしいが、ニューギニアの人々は鉄製の刃物を使用せず、鋭利な竹の刀を削りながら使用していた。そのため作業は迅速ではなく、かなり手間がかかっていて、チロルの家庭やサミ人の手際にみる「職人性」を感じなかったが、かえってあたたかみを覚えたのは不思議だ。肉はある程度の固まりに切り分けられ、毛皮は剥がずに、そのままたき火で熱した石の上に並べられ、焼かれる。ある程度焼いた時点で、木の枝などを用いて毛を削ぎ落とし、食べてゆくようである。

5)『ある精肉店のはなし』ラッシュフィルム。現在の大規模屠場は、多く機械によるオートメーション化が進んでいるが、北出さんは、100年続く古い公営の屠場で、牛と人間とが正対する形にこだわり作業を行ってきた。しかしその屠場も今や閉鎖されてしまい、このフィルムの映し出す光景が最後の屠畜になるという。纐纈監督は、その緊張感に満ちた現場を、抑制の利いた色彩の「美しい」映像で捉えた。冒頭、屠場に連れられてきた牛は、人間たちのいつもと違う雰囲気に多少の緊張を抱いていたとしても、とくだん警戒心を強くしているようにはみえなかった。その額へ向って、北出さんが、ふいに巨大なハンマーを打ち込む。重い、大きな音がした。ハンマーの先端は細い杭のようになっており、それが頭蓋を貫通して脳を壊すのだ。しかし北出さんも、最後の作業で緊張していたのか、1回目は微妙に急所を外してしまったようだ。牛はよろけるが倒れない。そこへ2発目。ついに牛は昏倒した。「ほんとは1発で倒してあげたかったんだけど…、2発目は当たりましたが、これで外してしまうと、今度は牛がぼくらに向ってきますね」。生命と生命が、生きることを賭けて向き合っている。人間が圧倒的に力を持つ空間ではあるが、そこには、生命に対する敬意が満ちている気がした。その後、牛は血抜きをされ、皮を剥がれて解体されてゆく。床の溝に集められた血は、かつては、他の肉片や骨片とともに煮沸・圧搾・乾燥を繰り返し、肥料として使用されたという。内臓は、大きなプールで丁寧に洗浄される。裸になった肉塊は、冷凍車で北出精肉店の倉庫へ運ばれてゆく。荷下ろしの作業の際、近くの小学校に通う子供たちが、その様子を嬉々としてみつめ、「さよならお肉屋さ~ん」と口々に叫んで帰っていったのが印象的だった。うん、この映画やはり、完成したら観にゆかねばなるまい。

さて、このイベント自体は、けっきょく3時間余りに及んだだろうか。とにかく力が入って肩は凝ったが、思ったより普通の感覚で観ることができた。しかしそれは、まずECフィルムが映像のみで、肉を切る音、骨を断つ音などが一切記録されていなかったからでもあろう。その分、『精肉店のはなし』の方は鮮烈だった。また、これは当たり前だが、臭いがなかったのも耐えられた理由のひとつかもしれない。大量の血・脂の臭い、内臓の内容物の臭い、糞尿の臭い。慣れなければ、これらは我慢できまい。いうなればぼくらは、「無痛文明」に保護されたシェルターのなかから、動物の解体ショーを観ていたにすぎない。いくら生命の重み、食べることの重みを痛感しても、迷いのない技に美しさを感じ敬意をはらっても、それは動物たちにも、そして屠畜に携わる人たちにも、根本的に礼を欠いた行為であったような気がする。しかし、きっと観ないでいるよりは、感じないでいるよりは、考えないでいるよりはましなのだろう。もちろん、その意味で極めてよいイベントであったと思うのだが、しかしECフィルムの上映会という性格上、上映プログラムのすべてが同じ「技術」のレベルでしか論じられなかったのは残念だ。例えば、流通経済の関与がまったくないニューギニアの事例と、北出精肉店の事例とでは、屠畜の意味がまるで異なる。また、ゲストのトークが、「誰だって肉を食べるんだ」「肉を食べるのは当たり前なんだ」という文脈で展開されたのもどうかと思った。屠畜関係者に対する卑劣な差別を撤廃してゆくためには、もちろんそうした姿勢も必要だろう。しかしそれでは、前近代社会や民族社会の人々が持ち続けてきた、「殺される動物の側の視点」が抜け落ちてしまう。せっかくこの問題に関する叡智が集っていたのだから、さらにその先について考えてもよかったのではないかと思う(まあ確かに、雑食性の動物としての人間の「自然」を考えれば、肉を食べないぼくなど不自然極まりないのだが…)。殺して食べる側の視点と、殺されて食べられる側の視点、そのどちらも大切にしつつ、「腑に落ちる」共生のあり方を模索してゆきたいものだ。
なお、上のフィルムの描写は当日暗いなかでとったメモに基づいているので、いくぶん誤謬があるかもしれない。予めご容赦をいただきたい。
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久しぶりに映画を観た夏

2012-09-13 03:43:20 | 劇場の虎韜
さて、ブログを更新しないでいるうちに、いつの間にか季節が変わってしまいそうである。いい加減、何かを書かなくてはなるまい。ここまで、別に書くことがなかったわけではない。facebookの方には、それなりにいろいろ投稿している(とくに意味のないことばかりだが)。やはり、まとまったことを考える精神的余裕がなかったというべきだろう。春学期の授業が終わってからこっち、8月下旬までは校務が山積しており(大学の一斉休暇期間も、自宅に持ち帰って仕事をしていた)、下旬はゼミ旅行と研究会・学会などで暮れ、9月になるともう校務再開。つい昨日まで、昨年の秋からかかりきりだった、「7号館文学部フロア災害危険度調査」の報告書を作成していた。それらが終了してようやく一段落、こちらも山積している依頼原稿を書ける時間が持てるようになったわけだ。上の各種イベントについては、また追々記事にしてゆくとして、まずは久しぶりにサブカルネタを繰り出すことにする。

かつては映画好きを自称し、自主映画も撮っていたぼくだが、このところは校務が繁忙化したため、劇場からまったく足が遠退いてしまっていた。三鷹に引っ越したことで、映画館は以前より近所になったはずなのだが、なんと2011年度は1度も映画を観にゆかなかった。〆切の遅れた原稿を複数持っているのに、映画なんぞ観ているわけにはいかない、という罪悪感があったためだろう。しかし、今や仕事帰りにちょっと寄り道し、テレビドラマを観るように気楽に映画鑑賞のできる時代。それはそれでちょっと淋しいわけだが、「若い感受性」を維持するためにも必要と無理矢理理屈を付けて、今夏は久々によく映画を観た。愛用したのは、新宿ピカデリーと立川シネマ・シティ。ともにシネコン形式で、近くに巨大書店があり、大学からの帰りに立ち寄るのにちょうどよい立地なのだ。問題は何を観たかだが、7月末から、『ダークナイト・ライジング』『グスコーブドリの伝記』『プロメテウス』『桐島、部活やめるってよ』『るろうに剣心』の5作品。マニアックなチョイスではまったくないのだが、それなりに楽しめた。以下、雑駁な感想を記しておこう。

最初に足を運んだのは、クリストファー・ノーランの『ダークナイト・ライジング』。正直、いまひとつだった。『ビギンズ』から観ていないと分からない展開もあり、往年のバットマンファンを喜ばせるシーンもあるので、その意味では集大成といえるかもしれないが、うまく整理できていない印象だ。フェイクとはいえ、ベインの志向する革命のあり方や、市民と警官隊との関係など、書き込み方が曖昧で、何に重点を置いているのかよく分からない。核の扱い方もステレオタイプ。オキュパイ運動の世界的展開や、福島原発事故以降の原発再検討の風潮のなかでは、「現実に追い抜かされてしまった映画」といえるかもしれない。押井守『パトレイバー2』のパロディではないかと思われるシーンも散見、オマージュといえないでもないが、オリジナルの緊張感には遠く及ばない。ノーランは評価の高い監督だが、もともと、正攻法過ぎて面白くないのだ。遊びもないし、オリジナリティも希薄な気がする。やはり、ティム・バートンのような「変態」でないと、バットマンの棲む暗闇は表現できないのかもしれない。ただひとつ、アン・ハサウェイのキャット・ウーマンはよかったかな。

次は、杉井ギサブロー『グスコーブドリの伝記』。評判の悪さは伝わってきていたので、あまり期待はしていなかったが…うーん、あのラストはどういう決断だったのだろうか。
宮澤賢治による同名の原作は、科学と自己犠牲により自然環境を改変することにテーマが置かれている。貧しい木樵の家で育ったブドリは、父や母、妹を奪ったイーハトーヴの寒冷な気候に、火山の炭酸ガスを利用した大気温暖化計画をもって立ち向かう。賢治は盛岡高等農林の出身だが、彼が在学した当時の同校は、初代校長の玉利喜造、賢治の恩師関豊太郎教授を中心に、冷害気象の予知と克服を主な課題に掲げ情報を発信していた。肥料設計をはじめとする後の賢治の農業支援実践は、このなかで培われたものといえるだろう。双子的関係にある傑作『銀河鉄道の夜』が、賢治の経験や思想を幻想性に昇華しているのに対し、『ブドリ』は現実との葛藤や懊悩を生々しく抱えた、ある意味では「未消化」(成立途上)の物語といえるかもしれない。
このアニメ化自体はずいぶん以前から進められていたようだが、内容からして、『不都合な真実』全盛期には実現が困難だっただろう。かといって震災以降も、自己犠牲や自然の描き方がストレートな分だけ、どう映像化すべきか慎重な判断が必要であったと推測される。そこで製作陣が選んだのは、『銀河鉄道』と同じような幻想性を導入すること。物語のなかに、現実と拮抗する他界を設定し、その超自然の力を介在させることで、災害のなかで発生する人間社会の醜さや、ラストの自己犠牲、自然の改変の問題を曖昧化したのである。以前、『銀河鉄道』の映像化にみごと成功した杉井ギサブローには、自然な選択だったのかも分からない。しかしその結果、主人公ブドリの主体性はどこかへ消し飛んでしまった。彼のラストカットが、他界の力に呑み込まれて叫び声をあげる場面というのは、どうも唐突で残酷すぎる。「自己犠牲」以上に何かの「供犠」のようであり、人々を呑み込む津波さえ連想させた。
前作『銀河鉄道』の成功には、脚本に参加した別役実の功績も大きかったのだろう。製作陣が原作の解釈にまで立ち入ることは、「いかに映像化するか」という一点を除き、極力避けられていた。しかし今回の『ブドリ』では、作品の根幹そのものが、現在の価値観に照らして変質させられてしまっている。もちろん、原作/映画の関係においてそれが奏功する場合もあると思うが、この作品ではうまくゆかなかったようだ。アニメーション自体にも、技術の未熟さが目立っていたし、動き・構図・カット割とも意欲的なカットはなかった(ジブリへの迎合かと疑われるシーンもあった。とくに『千と千尋』色強し)。ただし、これもどうしても前作の細野晴臣と比べてしまう小松亮太のBGMは、もの悲しくて意外によかった。

続いて、リドリー・スコット『プロメテウス』。9歳(10歳だったかも)のときに『エイリアン』を劇場で観て以来監督のファンなので、「人類はどこから来たのか」というコピーに踊らされて観にいった(初日に)。しかし、内容的には『エイリアン・エピソードゼロ』、それ以上でもそれ以下でもない。開始直後の映像には世界の広がりを感じてワクワクしたが、あとは物語もヴィジュアルも常套的なものに終始した。宇宙と人類との繋がりを描こうとする物語には、『2001年宇宙の旅』や『コクーン』のようにその神秘性を保持するものと、『スターウォーズ』や『スタートレック』に代表されるようにこの世界を宇宙全体へ投影したものとがある。前者を神話、後者を歴史といいえかることもできるだろう。『プロメテウス』は、人類の起源を他の生命体の歴史に接続した点で、両者の中間に位置する。日本列島一国史観が、アジアやヨーロッパとの結節点を得て、「世界史化」したようなものである。そう考えると、『エイリアン』が「探検もの」である点は興味深い。かつて評価されたような、フェミニズム映画としての位置づけとは別の見方ができるかも知れない。

それから、吉田大八『桐島、部活やめるってよ』。小品だが、極めて完成度の高い映画だった。とくに、昔自主映画を撮っていた人間からすると、万感胸に迫るものがある。しかしこれは、神木隆之介主役じゃないよな。

最後に大友啓史『るろうに剣心』。もういろいろなところでいわれているが、アクションがその登場人物の性格、人生をきちんと物語っている日本映画は、初めて観たかもしれない。大河ドラマに、しっかりしたキャラクターデザインを採り入れた、大友監督らしい演出である。アクション自体もなかなかによかった。武侠映画の観すぎで、かつて『グリーン・ディスティニー』に出会ったときのような感動は得られなくなっていたが、アクション・シーンに高揚感やカタルシスを覚えたのは久しぶりである。そこまで持ってゆく、必然性のある演出が巧みなのだろう。ちょっとわざとらしいシーンもあるにはあったが(「あ、猫ちゃんだ!」)、概ね、今夏観た映画のなかではもっともエンターテイメントとして成立していたように思う。続篇にも期待。しかし、エンドロールの直前、やはり『そばかす』か『1/2』の流れてくることを期待してしまうな。
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パンドラとIKEAに行きました

2010-02-21 10:58:51 | 劇場の虎韜
遅ればせながら、ジェームズ・キャメロン監督の『アバター』を観てきた。『ターミネーター』以来、キャメロンの映画をいいと思ったことは一度もないが、『エイリアン2』で海兵隊を絶賛した男が180度の転向をみせた点は面白かった。いうまでもなくこれは『駅馬車』の陰画であり、『ダンス・ウィズ・ウルヴズ』の系譜に属する作品だが、物語のうえでのオリジナリティには乏しい。最終的には自然環境を巻き込んでの殺し合いにしか決着を見出しえないところが、良くも悪しくもハリウッド的であり、キャメロン映画の思想(そもそも、思想を云々してはいけないのだな)的限界なのだろう。主人公の決断は、やがて地球とパンドラとの全面戦争を招来するはずだが、それについての展望や解決策は一切示されない。『ナウシカ』や『もののけ姫』の製作において宮崎駿がぶつかった問いは、キャメロンの前には立ち上がらなかったということだろうか。一部では、アメリカの大国的正義を批判する作品とみられているようだが、どうも9.11以降の二項対立的情況を促進する面があるような気がしてならない(決起を叫ぶ主人公の演説は、『インデペンデンス・デイ』で、「独立の日」の名の下に異星人との徹底抗戦を宣言する大統領と結局は同じだろう)。『エイリアン2』をエイリアンの側からみた物語だ、ということもできるかな。隣の席に座っていた60~70代のご婦人が3Dに驚き、ラスト近くでは涙を拭っていたように、映画としてのカタルシスはあるのだが…(個人的には、ナヴィの行う送り儀礼がよかった)。
ところで技術的には、実写とCGの違和感ない融合の世界に目を見張る。その分、映像としては絵画的印象が強く、運慶的というより快慶的なスタイルになっている(この比喩、分かってもらえるだろうか?)。これは意図的にだろうが、パンドラのジャングルは多くの生命が息づく猥雑さ、危険さより、ユートピア的な美しさが先に立っている。あたかもゴーギャンの絵画をみるようで、共感の存在自体は否定しないが、オリエンタリズムの変奏である点もまた確かだろう。細かく作り込まれてはいるものの、やはりどこかでリアルさが希薄な点が、全体を通して観て「ファイナル・ファンタジーっぽいな」という感想を抱いてしまう原因かも知れない。

さて、映画のあとはモモと合流してIKEA港北店へ。新居に必要な本棚、机などを購入するためだ。新横浜駅前から出る直通シャトルバスに乗り込み、あとは広大な店内を散策してセルフ・サービスの買い物。この「セルフ・サービス」であることによって、通常の家具店よりかなり安い値段で品物を入手することができるのだが、大量の買い物をすると、そのことがかえって仇になるようだ。ネックになったのは185×185cmの本棚8棹で、これをレジに運んでゆくこと自体が重労働だった。仕方なく近くの店員さんに助けを求めたが、「セルフ・サービスにご協力下さい」ととりつく島もない。しかし、なかには親切な店員さんもいて、その協力のもとなんとか台車6台分800kg以上の運び出しに成功したのであった。それにしても、いくら「セルフ・サービス」が売りだからといって、購入量からすればこちらはかなりの顧客のはず。それが店員の方に気を遣わなくてはいけないというのは、何か間違っている気がしてならない。おかげで大いにカロリーを消費した一日であった。

※ 写真は、IKEA内のレストランにて。学食のようだった。
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いいわけ?

2010-01-28 23:11:50 | 劇場の虎韜
秋学期の講義も月曜で終了。学生たちはテストを終えれば長期休暇だが、我々は1年で最も神経をすり減らす日々が始まる。そのストレスからか、授業を終えた安心からか、昨日からどうも体調がすぐれない。今日、豊田地区センターでの生涯学習の講義を終えたあたりから、さらに風邪の諸症状が悪化している。熱は微熱程度なのだが、頭痛や倦怠感が酷く、溜まっている仕事を片付けようという気力が起きない(ブログなんて書いている場合ではない)。卒論の最終チェック、1月末〆切の論文執筆と校正2編、雑誌の特集の企画書作成など、やることはたくさんあるのだが…うーむ。こうしている間にも頭痛が酷くなってきた(ところでこれは、仕事が遅れている言い訳ではありません。あくまで現状報告です)。

仕事に集中できないからというわけではないが、この数週間で、深夜に放送していた左の2つの映画を観た。『落語娘』は、いわゆる落語ブームの中核を担った、『ファイヤー&ドラゴン』や『ちりとてちん』、そして『しゃべれどもしゃべれども』とはちょっと毛色の違う作品。『ちりとて』と同じく女流落語家が主人公だが、内容はその修業と成長の日々というより、半ば怪談話に近い。話せばとり殺されるという禁断の噺の因縁と、それに挑戦する無頼の落語家の機転、反発しつつも師匠を心配する女の弟子。『シュトヘル』に関するもろさんのコメントで想い出させていただいたが、「誰かに語らせることで噺が自己の存在を主張する」という問題は、言霊論、ひいては歴史叙述の本質に迫る内容を持っている。その噺を語ると語り手は死んでしまうというのも、乗り移った怨霊が、失われてしまった自分の死の衝撃を現在に再現しようとしているのかも知れない。結局、かかる歴史叙述への欲望は噺家の機転により阻まれてしまうわけだが…。ぼくは落語好きでもあるので、その意味でも普通に面白く観た。監督は『桜の園』の中原俊。手堅い。
『デトロイト・メタルシティ』は、映画化されたときにモモがはまって、漫画もざっとは読んだ。「この漫画が好きだ!」という女性はそれなりにいるらしいが、「何で?」と訊いてみたい。渋谷系おしゃれポップスを目指しながらデスメタルのカリスマになってしまう主人公根岸=クラウザー。彼の歌う歌の歌詞は、とても宗教者+教育者が好きだといってはいけない内容である。正直、品のいいぼくは漫画にはついていけなかったが、映画はやや薄味になっており、松山ケンイチの熱演とも相俟って面白い出来に仕上がっていた。もちろん深みや考えさせられる部分は何もないが、観終わった後、気がつくと根岸の持ち歌ポップス「甘い恋人」(カジヒデキ提供)を口ずさんでいる自分がいる。独特の魅力のある作品だった。漫画のファンも、違和感なく観られる映画だったのではないだろうか。

それはそうと、先ほどネットで、シネカノンが民事再生法適用を申請したとの記事をみつけた。残念なことこのうえない。いい日本映画を作り、いい外国映画を配給してきたのに…。こういう会社を支えられないのは、映画ファンの問題でもあるような。そういう自分も、『ハルフウェイ』以来、足を運んでいなかったしなあ。ちなみに上の写真は、シネカノン有楽町でみた映画たち。みんな素晴らしかった。
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久しぶりの映画:お正月から他界

2009-01-10 10:11:48 | 劇場の虎韜
未明に初雪のちらついた9日(金)、研究室で事務仕事を片付けての帰り道、楽しみにしていた映画を観てきた。『パンズ・ラビリンス』で一躍名を挙げたギレルモ・デル・トロプロデュースのスペイン映画、『永遠のこどもたち』である。簡単にいってしまえば、邦画なら『スウィート・ホーム』(ある意味では『リング』にも近い)、洋画なら『アザーズ』の系譜に属する親子幽霊屋敷もの。まだ観にゆく人もいると思うのでストーリーはばらさないが、上の二者がそれぞれ此岸/彼岸のどちらかを主要な舞台に、境界の動揺によって生じる混乱を終息させようとする話だったのに対し、今回の作品は「愛する者を追ってどこまでゆけるか、彼岸まで到達できるか」をテーマにしている。その点、一昨年のテレビアニメ『電脳コイル』(教育テレビ)に近い部分もあるし、宗教学的にはカスタネダなどの「向こう側に行ってしまう話」に絡めて理解することもできる。途中、ジェラルディン・チャプリン演じる霊媒が登場し、屋敷のなかを捜索して回るシーンがあるのだが、近代オカルティズムに関心がある向きには面白く観られるだろう。『エミリー・ローズ』の裁判シーンを思い出す学的議論は、映画の完成度を損ねないよう極力抑えてあるが(逆に昨今では、少しでもこういう場面を入れないとリアリティが出ないのかも知れない)、心霊現象に対する考え方など、ぼくが漠然と抱いているイメージに近かった。彼岸/此岸の関係と位置づけ、作品の構造とラストシーンのありようは、やはり『パンズ・ラビリンス』を踏襲している。もう少し新鮮さがほしかったが、それなりに満足した。

本編上映前の予告編で、幾つか期待すべき作品に遭遇。中村貫太郎主演の『禅』は、年末からテレビCMも流れていたが、やはり観にゆかねばならないだろう。藤原竜也が演じているのは北條時頼だそうだ。アンディ・ラウ主演で趙雲を主人公に据えた『三国志』も、もしかすると『レッドクリフ』より面白いかも知れない。しかし何といっても期待の大きいのは、北川悦吏子初監督作の『ハルフウェイ』だろう。北川悦吏子にはとくに関心がないのだが、映像をみてピンときたのでクレジットを追ったらやはり、「岩井俊二×小林武史プロデュース」とある。岩井映画独特のドキュメンタリーなタッチは健在で、本当にキラキラした青春映画に仕上がっている印象だ。ぼく自身は10代に戻りたいとは思わないが、その時代をを描いた映画には非常に惹かれる(やはり、どこかに憧れている部分、やり直したいと思うところがあるのだろうか)。とくに、岩井俊二の撮った東京少年のPVや、初の劇場用映画『ラブレター』は、未だに個人的ベスト作品の上位を占めている。最近は、ショッキングなシーンや病死ばかりをモチーフとしたケータイ小説あがりが多かったので、久々に居心地のよい時間が得られそうな予感がする。北乃きいと岡田将生の主演。
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『レッドクリフ』:壮大だが薄味、そして長い

2008-11-05 14:13:58 | 劇場の虎韜
先日、大学からの帰りに楽しみにしていた映画『レッドクリフ』を観た(しかし、なんで英語なんだ? 意図は分からないでもないが、「ハリウッドを超えるアジア発」を強調したいのであれば、「赤壁」でいいだろうに)。ぼくはいわゆる三国志フリークではないが、正史『三国志』からサブカルチャーの世界まで、これまで大いに親しんできた題材である。この映画も、曹操=渡辺謙、周瑜=チョウ・ユンファ(劉備役にラインナップされた時期もあった)というキャスト情報が流れたときから注目していた。まだ公開間もないが、12月が近くなると身動きが取れなくなりそうだったので、無理をしてでもと観にいったわけである。さてその感想だが…

まず最初に感じたのは、とにかく2時間半という上映時間が長いこと。「尺の長さも感じさせない」という誉め言葉はよく聞くが、この作品のストーリー展開はややもたつき気味で、それがある種の重厚さに繋がっているところもないではないのだが、もっとスマートに作れただろうという気がどうしてもしてしまう。自主制作ではよくあることだが、監督自らが出資して作られた映画の場合、上映時間は概ね長くなりがちである。興業面のみ重視すれば、映画は短い方が一日の上映回数も増え、その分収入も多くなる。よって、制作会社・配給会社としては断然短尺の方がいいわけだが、監督が出資すると興業サイドからの口出しがしにくくなり、また監督も愛着あるフィルムを切りたくないので、あれもこれも必要とだらだらした映画が出来てしまうわけだ。作品の質はともかく、ケヴィン・コスナーの『ダンス・ウィズ・ウルヴズ』がいい例である。『レッドクリフ』にもその気があるが、実は、丹念に贅肉を削ぎ落としていった方が、映画は面白く深みのある作品に仕上がるものなのだ(長い論文を書く人間のいうことじゃないか。ま、自戒ということで)。

見せ場である合戦シーンのアクションは、スタイリッシュで美しい張芸謀のものと比べるとかなり泥臭い。リアルさを狙ってあえてそうしたのだろうが、重みを生み出すための"間"はややもすればたるみとなり、数万の人間が入り乱れる戦場のなかでは不自然さが際立つ。サム・ペキンパーなスローモーションも、かえって動きのまずさを暴露してしまっているようだ。大立ち回りを繰り広げる主要キャスト以外の兵士たちも、何となく動きが緊張感に欠けていたが、ジョン・ウーって集団アクションは苦手なのかも分からない。呼びものの八卦の陣はなかなかだったが、騎馬の命であるスピードを封じた後の展開は、数万の敵に対するものとしては現実味に乏しい。あれは城中か山中に埋伏したときの戦法だろう。期待が高かっただけに、もっとうまく演出できたはずとの印象がどうしても強くなってしまう。
『三国志演義』を下敷きにしているので仕方ないのだが、曹操を悪役、諸葛亮・周瑜を正義の味方に据えるという勧善懲悪的な構図もいただけない。そのせいで、登場人物は類型的で深みがなくなってしまっており、とくに魏の名将たちなど個性も有能さも剥奪されていて憐れでさえある。主人公であるにもかかわらず、『演義』でさえ内面性の複雑さを醸し出していた、諸葛亮・周瑜の葛藤もほとんど描かれていない(「信じる心」が大切だから)。

全体としては壮大なエンターテイメントに仕上がってはいるのだが、やはり遊園地的な印象は否めない。物語の進め方や音楽の使い方などに、何度も『スターウォーズ』を思い出した(日本版のゲーム画面的オープニング、三角スクロールでやってもよかったんじゃ?)。監督のジョン・ウー自身は「黒澤時代劇へのオマージュだ」と語っているようなので、オリジンを同じくする作品が相似形になったということか。八卦陣での戦闘は、確かに『七人の侍』っぽかったな。諸葛亮が呉に説得工作に来る件も、凶賊から村を守る仲間を集めるノリだったのかも知れない。
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感覚だけで映像の波に乗る:宮崎駿『ポニョ』をみて

2008-09-14 05:26:28 | 劇場の虎韜
ちょっとバタバタして、更新が滞ってしまった。大学の諸事務が始まったと思ったら、自坊での義母の一周忌のために義父が泊まりがけでやってくることになり、義妹の力を借りて、散乱するだけしまくっていた部屋を大掃除することになったり(5日間かかった)、上智古代史ゼミの第1回OB・OG会が開かれたり、環境/文化研究会の久しぶりの例会があり、急ごしらえで報告をすることになったり(...ラジバンダリ)。いずれもだんだんと書いてゆくつもりだが(ゼミ旅行の話も中国調査の話も滞っているな)、今日は標記の話題。すでにいろいろなところで議論爆発の、『崖の上のポニョ』を観てきた。

みてきたという人に感想を訊くと、ほとんどが否定的な発言をするのだが、概ね、それは『ナウシカ』以降の宮崎作品に馴らされた世代のようだ。宮崎駿は本質的に「まんが映画」を標榜するアニメーターであり、物語作家ではないような気がする(25年くらい前、『カリオストロの城』のフィルムブックの解説で、押井守が似たようなことを書いていた)。『ナウシカ』の連載が始まった頃、「へえ、宮崎駿って、オリジナルでこういうものも書けるんだ」と驚いた記憶がある。『ナウシカ』や『もののけ姫』で誤解を招いてしまったけれど、彼の作品には物語的破綻が意外に多く、「びっくりするような、わくわくするような楽しい動き」を創り出すところにこそ真骨頂があるといっていい。そういう点からすると、『ポニョ』はハッとするような繊細な動き(宗介がバケツを持って、老人ホームと幼稚園の間を行き来するときの描写など)、こちらの身体まで踊り出しそうな躍動感に溢れていて、まさに正統な宮崎作品だった(『コナン』や『カリ城』を連想させるような動きが随所にあり、集大成的な印象もあった。ハリーハウゼンの晩年のアニメートに、往年のファンが浴びせた批判は該当するかも知れないが)。難しいことは考えず、感覚だけで波に乗る。じっくり考えてしまうと、「う~ん、異類婚姻譚としては、最後の試練は軽すぎる。『魚の、半魚人のポニョを愛せますか』と問われても、宗介には何も失うものがないんだからウンというに決まっている。問うならば、『人間を捨てて半魚人になれますか』とすべきでしょ」などなど、ムクムクと疑問が湧き上がってくる。人間中心主義と野暮なことをいう気はないけれど(ファーストフード文化が肯定的に描かれている点からしても、浅薄なエコ・ブームにあえて文句をつけようという気概がみえる)、漁業のさかんなはずの町を舞台にしていながら、魚を食べるシーンが周到に排除されているのもいやらしい。しかしそのあたりの、宮崎駿が自分自身に対して課したであろう抑圧は、非常にグロテスクな表現となって随所に溢れ出しているので面白い(あらゆるものに精霊が宿っているアニミズム的世界は、やはり現代人にとっては恐ろしくみえてしまうものだ。それをそのまま描いてしまうと、絶対に子供向けにはならない。ポニョも実写では「可愛く」感じられなかっただろう)。

それにしても、話の枠組み自体はまるっきり『青の6号』だった。ゾーンダイクも出てくるし。あのラストはどうだったっけ。

追記。そういえば、中国への往き帰りの飛行機のなかで、『僕の彼女はサイボーグ』『アフタースクール』を観た。ともに監督の前作を気に入っていたので期待していたが、前者にはあまり魅力を感じず(サイボーグではない主人公の青年の名が「ジロー」であることは、石森作品で育った世代にはニヤリとさせられるが)。後者は、仕掛けに頼りすぎた感はあるものの、やはりすべての伏線を上手に使って観客をだまくらかし、しかもそれがあざとくなく、わざとらしくも感じさせず、爽やかな後味へ持ってゆく力量はさすがだった。
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最近の映画から:『闇の子供たち』を観る

2008-09-03 12:23:11 | 劇場の虎韜
1日(月)は、『上智史学』の編集作業のため出勤。今年は、去年に比べて原稿の集まり具合が悪い。印刷所に連絡し、入稿期日を日延べして貰う。予定量的には充分すぎるくらいなのだが、果たしてちゃんと確保できるかどうか...。そのほか、委員会関係の事務仕事を片付ける。組合の代議員は、別の教員へバトンタッチ(候補者はぼくが探さねばならないのだが)。ひとつ仕事が減った。

帰宅途中、阪本順治監督『闇の子供たち』の最後の回を観た(公開後1ヶ月経つというのにチケット窓口には長い列ができていたが、表示をみて映画の日だということに気がついた)。タイにおける幼児売春、臓器密売の闇を追うジャーナリストと、NGOの女性の物語。タイの子供たちが置かれた目を覆うような現状、それに加担する日本を含めた〈先進国〉の植民地的暴力、ジャーナリストの正義とNGOの正義の葛藤(現実といかに関わるべきか?)など、極めて難しいテーマを扱った骨太な作品である。2時間半を一気にみせた。しかし、本当にラストはあれで良かったのか。タイを覆う闇を個々の人間のそれに普遍化することには成功したのかも知れないが、極めて社会的な問題が心理的なそれに矮小化されてしまったことも否めない。賛否両論あるだろうが、日本でなかなか社会派映画が生まれない、〈伝統的原因〉の一端をみるような気がした。記者とNGOの2人の主人公が、けっきょくお互いを理解しようとせず別々の生を歩んでゆくのも、ちょっと消化不良の感があった。

この夏は、観ようと思っていた作品の多くを見逃した。中国映画『1978年、冬』も韓国映画『光州5・18』も、8月末まで上映していたのに観にゆけなかった。『ポニョ』も『スカイクロラ』も、『20世紀少年』もまだ観ていない。『パコと魔法の絵本』『落下の王国』は、見比べると面白そうだが...(しかし、『ローズ・イン・タイドランド』『パンズ・ラビリンス』以来、ちょっとダーク、もしくは不条理な少女ファンタジーが大流行だね)。
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